魂を貪るもの
其の三 闇の咆哮
2.死の抱擁
雲に隠れていた月が姿を見せた。
冷ややかな月光が黒基調の千早のような羽織を纏った黒袴の女性の顔を鮮明に照らし出す。
眉目秀麗な顔立ちをしているが、艶やかな黒髪はばっさりと肩の辺りで無造作に切られ、冷たい光を帯びた瞳は昏く、肌は肺病を患っている遊女のように不健康に白い。
常世の住人ではないかと錯覚するような容姿だが、その全身から威圧的な雰囲気を発しており、存在感は有無を言わせぬものがあった。
その腰には、日本刀を納めた黒鉄の鞘を帯びていた。
黒袴の女性は無言のまま、例の奇妙な装置に目を向ける。
眼差しは鋭く、秘められた光は冷酷な憎悪に濁っている。
女性は無表情に、ちとせたちへと視線を移した。
瞬間、鈴音が肩を震わせて叫んだ。
「き、霧刃ッ!」
「……鈴音か」
対照的に、霧刃と呼ばれた女性は興味のないような素振りで、鈴音を一瞥する。
霧刃。
――織田霧刃。
「あの人が、鈴音さんのお姉さん……?」
霧刃の顔を見たちとせは、確かにその顔立ちが鈴音に似ていると思った。
もっともそれは顔立ちに限ってのことで、纏っている雰囲気はまるで正反対だ。
鈴音は健康的な色気と力強さを持っていたが、霧刃は病的な表情の暗さと冷たさを全身から放っていた。
鈴音の雰囲気を陽とするなら、霧刃は陰と言ってもよい。
「霧刃、今度こそ逃がさねぇ!」
拳を握り締めて、鈴音が霧刃を睨みつける。
一方の霧刃は鈴音を無視するように周囲を見回し、ちとせの足元辺りに視線を落とした。
そして、パチンッと指を鳴らす。
すると、ちとせたちの目の前の地面が輝き出した。
強大な力を伴った『何か』が、地の底からゆっくりと浮上してくる。
「召喚術……?」
ちとせたちは、慌てて光り輝く地面を避けるように、後ろへと下がった。
その間に霧刃は、後方の闇に姿を消した。
「待ちやがれ!」
鈴音は眼前の輝きを一気に走り抜け、霧刃を追う。
「鈴音さん、一人じゃ危ないわ!」
ちとせの制止の叫び声も、鈴音の耳には届いていないようだった。
後を追おうとした二人の前で召喚が完成し、一匹の獣が実体化した。
「あれは……」
大型犬のように見えた。
だが、その魔獣は重低音で一声咆えると三倍ほどに巨大化し、尾が鱗に包まれた爬虫類のものへと変じた。
深い知性を湛えた両目が業火を点したように紅蓮へと染まり、がっしりとした体躯に炎を迸らす姿へと変貌した。
「(我は、ケルベロス)」
犬の姿をした魔獣がくぐもった声で名乗り、ちとせと悠樹を威嚇するように真紅の双眸で射抜く。
「ケルベロス!?」
魔獣の名乗りを聞いて、ちとせが驚愕の声で叫んだ。
ケルベロス。
ギリシア神話における数多の怪物を生み出した魔女エキドナの子にして、冥界の番犬。
強大な神話背景を持った魔獣の出現に、ちとせと悠樹は肌が粟立つのを抑えることができなかった。
「地獄の番犬、業火の魔獣、獰猛なる灼熱!」
「(我が主の命だ。この先には行かせられぬ)」
ケルベロスが大気を震わせる咆哮を上げ、ちとせたちに向かってゆっくりと歩き出した。
「逃がさねぇ!」
鈴音は霧刃に追いつくと右手に光り輝く霊気の剣を形成し、握り締めた。
妹の叫びを背に受けた霧刃が歩を止め、ゆっくりと振り返る。
彼女は腰に黒金の鞘を帯びていたが、その刀を抜く気配はない。
いや、構えさえもしない。
霧刃の目の前で風が吹いた。
鈴音が一跳びで間合いを詰めたのだ。
手にした霊気の剣が青白い光を放ちながら、華麗に舞う。
突き、袈裟切り、逆袈裟、目にも止まらぬ速さでの連続攻撃。
だが、霧刃に、その攻撃はまるで当たらない。
手は出さずに見下したような視線を向けたまま、鈴音のすべての攻撃を見切り、大きく体勢を変えることなく最小限の動きで避けながら、後へ下がる。
「このっ!」
斬撃をあまりにも容易に避けられ続け、焦燥に駆られたのだろう。
鈴音が大振りな動作で、渾身の突きを繰り出す。
しかし、霧刃は半歩横に移動しただけで、霊気の剣を避けた。
「がら空きよ」
同時に、黒金の鞘の柄が、鈴音の脇腹に突き込まれていた。
「かはっ!」
脇腹に鋼の塊がめり込む激痛に大きく目を見開き、肺の中の空気を吐き出す鈴音。
霧刃は腹を抑えて苦しむ鈴音の腕を取り、後ろに回り込むようにして捻上げる。
同時に蹴足を繰り出し、鈴音の足を払った。
ふわっと、鈴音の身体が浮き、捻られた腕が戻る反動で回転しながら地面に叩きつけられる。
「がはっ!」
受身を取れずに、背中を強かに打ちつけた鈴音が悶える。
無様だった。
歴戦の退魔師であるはずの鈴音が、まるで子ども扱いだった。
「これ以上続けるなら、容赦はしない」
地面で呻いている鈴音を刺すように、禍々しい真紅に濁った霧刃の瞳が向けられる。
鈴音は脇腹を抑えたまま、自分を見下す霧刃を睨みながら立ち上がる。
追撃を避けるために間合いを取り直し、荒い息を整えつつ、霧刃に問うた。
「霧刃。この街で何をする気だ」
「おまえに呼び捨てにされる覚えはない」
「悪魔に魂を売りやがって!」
「……以前、私には関わるなと忠告したはず」
「親父も母さんも、そして、あの人もおまえのこんな姿を望んじゃいないぜ」
微かに震えた声で鈴音が言う。
織田姉妹の両親は、五年前に霧刃の目の前で殺された。
そして、鈴音が『あの人』と呼ぶ、霧刃がすべての愛を捧げることを誓っていた青年もまた、惨殺された。
両親は妹の鈴音が嫉妬するほどに霧刃を愛でていたし、恋人だった『あの人』もまた霧刃に惜しまぬ愛を捧げていた。
その人たちが、闇の世界の者たちですら恐れる"凍てつく炎"と呼ばれる死神に堕ちた霧刃の姿など望むはずもない。
「死者の望みなど無用なもの」
鈴音の言葉に応える霧刃の声は重かった。
「今の私が、私の望みだ」
「止めるぜ」
「無駄よ」
霧刃の禍々しい真紅の瞳を染める憎悪は変わらない。
鈴音は左手から霊気を球状に収束した塊を放ったが、霧刃は上半身を反らせただけで難なく身を躱した。
その後方で巨大な岩が、霊気球の直撃を受けて崩れ去った。
間を置かずに鈴音が再び、霊気を球形に収束し、放つ。
霧刃には当たらないが、爆風で舞い上がった砂や塵で辺りが覆われる。
砂煙が晴れ、霧刃の姿を視界で捉えた瞬間、鈴音は全身のバネを使って突っ込んだ。
そして、先程にも増して鋭い斬撃を放った。
交差する銀光。
激しく鳴り響く金属音。
飛び散る霊気の粒子。
霧刃はようやく腰の刀を抜き、鈴音の霊気の剣を受け止めていた。
霧刃の持つ日本刀は、青白い輝きを放っていた。
刀そのものが強力な霊気を帯びているのだ。
「抜いたな、
「これは、それ程たいそうなものではない。ただの血濡れの刀よ」
「違う。細雪は、人々を守るために、織田家の始祖が刀剣の神・
日本神話の『神産み』の段において、
細雪は、織田家の始祖が、その刀剣の神とともに、生命を賭して鍛えたとされる織田家の家宝にして当主の証だった。
そして、天武夢幻流の継承者たちが生命と魂魄を賭して、闇の脅威から人間を守ってきた刀なのだ。
弱きものを助け、戦えぬものたちの代わりに戦うためのチカラなのだ。
それを霧刃は血濡れの刀と呼び、退魔師として魔を退けるためだけでなく、退魔師狩りとして人の命を奪うことにさえ使っている。
織田家の後継者として育てられてきた鈴音には、その暴挙を許すことができなかった。
「今の私にはどうでも良いことだ」
疎ましそうに霧刃が、細雪の切っ先を鈴音に向ける。
その刀身から、紅の雫が滴り落ちる。
「それに、今の一撃で実力の差を理解したはずだ。退け」
「くっ……」
鈴音の額から汗が流れ落ちる。
チャイナドレスの右脇腹から左胸へ斜めに赤い染みが広がっていく。
霧刃が抜刀した瞬間に、一太刀浴びせられていたのだ。
骨は断たれておらず、傷は内臓にも届いていないが、意識外で浴びせられた一撃は、鈴音と霧刃の実力の差を物語っていた。
細雪を抜く前の霧刃に対しても、鈴音の攻撃のほとんどは通じていなかった。
強大な力を宿す神刀を抜いた霧刃には、もはや小技はまるで意味を為さないだろう。
全身全霊の一撃で倒すしかない。
瞬時にそう判断して、一足飛びに霧刃との間合いを空けた。
「霧刃!」
そして、腰を落とし、突きの体勢に構えた。
「……退かぬか」
それを見た霧刃が細雪を握る手に力を込める。
細雪の纏っている青白い輝きがより一層強くなった。
「その構えは、奥義・
霧刃は鈴音の構えを見て、繰り出す技が解かった。
天武夢幻流の刀剣が奥義・虚空裂刺閃。
「虚空を切り裂き、刺し貫く閃光がごとき突進突きを放つ奥義」
まるで教本を暗誦するかのように呟きながら、霧刃も鈴音を迎え撃つように鏡で合わせたような突きの体勢で構えた。
霧刃の全身から大気を震わせるほどの殺気が物理的な風を伴って吹き出される。
すべてを焼き尽くす灼熱。
すべてを凍らせる絶対零度。
相反する二つを同時に感じさせる殺気だった。
「……"凍てつく炎"か」
鈴音の首筋を冷たい汗が伝う。
常人ならば、今の霧刃の前に立つだけで死んでしまうのではないか。
それほどに恐るべき殺気だった。
天武夢幻流の後継者として魔物や悪魔に魂を売った者たちとの戦いに身を投じ、数多の闇を砕いてきた鈴音でさえも、霧刃の殺気に晒されるだけで精神も体力も削り取られていく。
だが、鈴音は退くわけにはいかないのだ。
なぜなら、彼女は、死神に変貌してしまった姉を止めにきたのだから。
「そうだ。あたしは霧刃を止める。止めてみせる」
霧刃から放たれる"死"に、呑み込まれかける自分を叱咤する。
そして、自分に浴びせられている"死"の激流に対抗するように、霊気を高める。
鈴音の刃のような霊気もまた、大気を震わせるには十分だった。
「……いくぜ!」
「来なさい」
二人は同時にバネを開放し、突きを繰り出した。
「天武」
「夢幻流」
「虚空裂刺閃!」
力強い青き閃光と禍々しい赤い刃。
人々を守るために鍛え上げられた霊気と生命を削って作り出された鈴音の霊剣の刃と、人々を守り続けた刃を持ち手たる霧刃の禍々しい紅に染めた細雪の刃。
陰陽のごとく正反対の力を乗せた姉妹の刀と剣気を激突させるのは、二人の中に流れる織田家の退魔の必殺の奥義。
競り負けた方が勝機を失う。
「くっ!?」
鈴音は押されていた。
霧刃の殺気も霊気も圧倒的だった。
それに細雪の霊力が加わり、鈴音を追い詰めていた。
霊気の強大さにおいても、得物の強力さにおいても、鈴音の不利は明確だった。
しかし、負けるわけにはいかない。
「はああああああああああっ!」
鈴音は気合いの声を張り上げ、必至に全霊気を解放した。
「はああああああああああっ!」
霧刃もそれに対抗する。
二人の気合いが頂点に達し、霊気の圧力で周辺の地面が陥没する。
そして、二人の突きが交錯する。
互いの背後に着地した。
どしゅっ!
血飛沫が上がる。
二人とも右肩を斬り裂かれた。
だが。
剣圧がまるで違った。
鈴音の右肩には肉を抉る深い裂傷が走り、鮮血が吹き上がったが、霧刃の右肩には浅い傷が刻まれただけだった。
傷は鈴音の方が圧倒的に深い。
「うぐっ」
少ないとはいえない量の血溜まりが鈴音の足元にできる。
戦いを続行するには支障ができるほどに深い傷だ。
鈴音は出血した肩を抑えて動くことができない。
一方、霧刃は傷には目もやらず、素早く刀を納めて身を翻していた。
鈴音が迫る灼熱の殺気に向い身構えようとする。
しかし、ふっと霧刃の殺気が消失した。
「くっ!?」
圧力の落差に鈴音の精神は眩暈を起こしたような感覚に支配される。
そして、気づいた時には、霧刃は鈴音の懐に入り込んでいた。
「……人を救い、守るか。たいしたもの言いだな」
霧刃は鈴音に囁くように言って腕を掴み、引き寄せる。
「天武夢幻流・組討が奥義」
霧刃の右腕に、禍々しい真紅の霊気が凝縮される。
そして、地面が砕けるほどの重い踏み込み。
「
落雷のような轟音が響き、鈴音の鳩尾に霧刃の拳が深々と埋まる。
「がっ!?」
内臓が破裂しそうなほどの衝撃に鈴音の鳩尾は粉砕され、そのあまりに強烈な威力に両脚が地面から浮いた。
「がはぁっ!」
真っ赤な鮮血が口を割って出る。
砲弾の重さを持った一撃。
そして、それは渾身の一撃にして壊滅の千撃でもあった。
鳩尾に埋まった霧刃の拳から、鈴音の身体に波紋のように禍々しく光る真紅の網目が走る。
右腕に収束されていた霧刃の霊気が、鈴音の肉体へと開放されたのだ。
霧刃の霊気は、瞬きの間に鈴音の肉体の隅々まで赤い蜘蛛の巣を張り巡らし、破壊の衝撃を伝えていく。
筋肉を破壊し、骨を破壊し、身体の中を流れる血液すら粉砕する霊気の超震動。
霧刃の拳が鳩尾から引き抜かれると同時に、鈴音の口から再び鮮血が溢れ出る。
「……あッ……あ……かぁッ……」
鳩尾を粉砕され、破壊の衝撃に全身を貫かれた鈴音の両目は虚ろになり、すでに霧刃の姿を見てはいない。
意識の混濁した鈴音の身体がぐらりと揺れ、前のめりに倒れかかる。
だが、次の瞬間。
掴んでいる鈴音の右腕を軸にして後ろに回り込んだ霧刃の右肘が、背中から脊髄に突き刺された。
背骨を襲った衝撃が鳩尾への打撃と同じように全身へ真紅色の衝撃の波を広める。
「っ! ……ごほっ!」
再び襲った肉体を内部から磨り潰されるような激痛によって、鈴音の意識は暗闇から無理矢理に引き戻された。
口から三度目の吐血が溢れ出る。
鳩尾と脊髄への強烈な打撃に加え、衝撃を全身に行き渡らせる霊気による細胞レベルからの破壊。
手足の指の先まで高圧電流で焼き尽くされるような地獄の苦しみに、鈴音の膝が再び折れかける。
その首に、霧刃の手がかかり、そのまま地面に叩きつけられた。
「かはぁっ!」
爆弾が爆発したかのような衝撃波が放射状に広がり、鈴音の身体を中心にして地面が円形に抉られる。
すでに内部を破壊されている全身を、首を抑えられて受身も取れない状態で地面に叩きつけられたのだ。
「がっ、あっ……」
仰向けに倒れた鈴音は、意識が再び揺らぐのを抑えることはできなかった。
霧刃が足元に転がる鈴音に、冷たい視線を落とした。
「その程度の、その程度の力で、何かを守れるものか」
そして、呟くように言う。
霧刃の顔色は先ほどに比べ、格段に悪くなっていた。
血液が失せてしまったかのように頬は青白く、息遣いも荒い。
だが、霧刃は息を整えようともせず、悶絶しかけている鈴音の首を掴み、無理矢理立ち上がらせた。
そして、両腕を上げる力も残っていない鈴音の腹に拳を叩き込んだ。
「がはっ……、けほっ……!」
深々と突き刺さった霧刃の拳に肺の中の空気を押し出され、鈴音は顔を苦痛に歪めながら激しく咳き込む。
元々強制的に立ち上がらされてふらついていた両脚から力が抜ける。
だが、首を掴まれているため、倒れることも許されない。
「あう……ぁ……」
「無力無力無力」
霧刃が呟きを繰り返し、再び、鈴音の腹を殴りつけた。
「あぐぅっ!」
腹を突き上げられるように殴られ、苦悶する鈴音。
だが、苦痛は、それで終わりではなかった。
「無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力……」
霧刃はさらに何度も何度も、鈴音の腹に拳をめり込ませる。
濁った瞳から憎悪と殺気を放ちながら、ひたすら鈴音の腹に拳を叩き込む。
「がっ、はぐっ、あうっ、がはっ!」
打ち込まれる砲弾のような衝撃に臓器が悲鳴を上げ、鈴音の喉から血が混じった咳が溢れ出る。
それでも、霧刃は拳を止めない。
延々と鈴音の腹を殴り続ける。
「あっ、ぐっ、ごほっ、ごぼぉっ!」
「無力! 無力! 無力! 無力! 無力!」
霧刃の声は興奮を帯び、次第に大きくなっていく。
それにつれて、何度も何度も狂ったように鈴音の腹へと叩きつけられる拳の威力も上がっていく。
「うあっ、げほっ……! うぅっ……!」
腹を殴られる度に苦悶し、咳込む鈴音。
どすっ、どすっ、と、鈴音の腹に霧刃の拳がめり込む重い音と、口から血と空気を吐き出す鈴音の荒い呼吸音だけが闇に響く。
鈴音は何度か意識を失いそうになったが、その度に新たに放たれる霧刃の凶拳が腹に突き刺さり、鈍い痛みと衝撃によって覚醒を強いられた。
「あぐっ……」
すでに何十発の拳が、鈴音の腹に叩き込まれただろうか。
嵐のようなボディブロウの連打を受け続けたため、鈴音の意識は明滅し、瞳は虚ろな光を湛え、半開きの唇を伝って血の混じった涎が止め処なく零れ落ちている。
身体にはすでに力が入っておらず、霧刃の拳が腹に食い込む衝撃で揺れ踊らされていた。
「その程度の腕で……」
鈴音の反応が鈍くなってきたことに気づいた霧刃の赤い瞳が禍々しく光る。
そして、握り拳を大きく引き絞った。
「私を倒せると思ったかッ!!」
怒号とともに放たれた渾身の一撃が、すでに無数の拳を受け続け、徹底的に破壊されている鈴音の腹に炸裂した。
霧刃の手首より先がすべて腹に埋まるほどの強力な一撃だった。
「がっ……!」
身体を突き破ろうかとも思える破壊の衝撃を受け、鈴音の瞳孔が針の先のように収縮する。
「……ごぼぉっ!」
霧刃の拳が引き抜かれると同時に、鈴音は今まで吐いた以上の大量の血を吐き出し、とうとう意識を手放した。
がくりと項垂れた鈴音の肢体は、無造作に地面へと投げ捨てられた。
慣性のままに地面に倒れた鈴音の側へと、ズカズカと霧刃が歩み寄る。
「容赦はせぬと言っただろう?」
霧刃は冷徹な眼差しを向けて、鈴音の出血の激しい右肩の裂傷を踏みつけた。
ゴキッと骨が砕ける不快な音が響き渡る。
「ぐっ……、うああああああああああああ!」
右肩を襲った激痛に、鈴音は絶叫を上げて零れ落ちんばかりに両目を見開き、息を吹き返した。
ぴちゃっ。
高く跳ねた返り血が、霧刃の頬にかかる。
そのようなことにはかまわず、霧刃は鈴音の右肩をぐりぐりと踏み躙った。
「うあっ! がぁっ……、ぐああああああああああぁぁっ!」
鈴音の絶叫とともに、傷口からおびただしい量の血が溢れ出す。
「力なきものが小賢しい! 身のほどを知れっ!」
霧刃の足裏が鈴音の右肩を蹂躙し、骨が砕け、肉が潰される不気味な音が鳴り響く。
さらに、霧刃は地面に転がった鈴音を蹴り踏んだ。
顔を蹴る。
胸を蹴る。
腹を蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
そして、何度も何度も、出血している右肩を踏み躙った。
「無力! 無力! 無力! 無力! 無力!」
容赦などという言葉は存在しない、暴。
すべてを破壊し尽くすような、虐。
あえて例えるならば、血の匂いで狂乱状態になったサメの如き、無秩序の暴虐。
鈴音の返り血と、自身の肩からの出血で霧刃の袴は真紅に染まっていた。
「ゼーッ、ゼーッ、ゼェーッ!」
興奮が頂点に達したのか、霧刃の呼吸はさらに荒くなっていた。
顔色も信じられないくらい蒼白になっている。
霧刃は尚も憤激に身を任せて蹴りを放ち続けていたが、鈴音の呻き声がいつの間にか消えたのに気づき、ようやく蹴足を止めた。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
荒い息を整えながら、地面に転がっている鈴音に目をやる。
鈴音は拷問と言えるほどの一方的な暴行を受け、血と痣だらけの無残な肢体を晒していた。
だが、まだ、微かに息をしている。
「……」
霧刃は、地面に横臥する鈴音を無言で凝視していた。
その視線は、実の妹を見るにはあまりにも冷たい。
まるで、道端の石ころを見るような目だった。
落ち着きを取り戻した霧刃は、自らの肩の傷の具合を確かめる。
激しく動いたせいで出血が酷くなったが、傷自体は深くはない。
「この程度のものか……」
霧刃は己と鈴音の血で染まった手のひらを握り締めた。
一呼吸置き、姉からの凄惨な責めを受け、血に染まった大地に倒れている実の妹にもう一度目をやる。
鈴音の利き腕である右肩が粉砕骨折しているのを確認して、力のないものに用はないとでもいうかのように大地に転がる妹へ背を向けた。
「これで戦えない」
細雪がカタカタと揺れる。
霧刃は両眼を閉じ、その柄を抑えつけた。
細雪が死んだように静かになると、目を開き、歩き始める。
「……ま、待てよ」
朦朧とした意識の中、鈴音は気力だけで声を出した。
――霧刃、なぜ、あたしに止めを刺さない? 放っておけば、このまま自然にくたばると思っているのか。
燃え盛る真紅の瞳で霧刃を睨みつける。
不屈。
圧倒的な力の差を見せつけられても、鈴音の心は砕けてはいない。
「霧刃……ま、待ちやがれ。……あたし……は……まだ……やれる!」
鈴音は気力を振り絞って、立ち上がった。
右肩の骨は完全に砕けており、重力に従って力なく垂れているだけで使いものにはならない。
動く左腕だけで唇から滴る血を拭った。
背中から聞こえる鈴音の声に霧刃は足を止める。
無造作に切られた後ろ髪が殺気の風に揺れる。
ゆっくりと振り返る。
「そのざまで何を言うかと思えば、『まだ、やれる』だとッ!?」
霧刃の両眼に再び激情の濁りが宿り、真紅の瞳が禍々しく輝く。
そのこめかみにビキビキと青筋が浮かぶ。
「利き腕を砕かれ、文字通り手も足も出ない。それで……」
霧刃は荒々しい動作で激しく音を立てながら、立つだけで精一杯の鈴音のもとまで引き返した。
鈴音は何とか動く左腕だけで構えたが、すでに戦える体力は残っていない。
霊気の剣すら作れぬほどに、力も消耗していた。
まさに棒立ち。
霧刃を止めるのは自分しかいない。
その強い意志だけが、今にも倒れそうな身体を支えていた。
動くことのできない鈴音に、霧刃は容易に近づいた。
そして無造作に手を伸ばし、鈴音の折れた右腕を掴み引き寄せた。
「あぐっ!」
砕かれた腕を強引に掴まれる激痛に襲われたとはいえ、鈴音は簡単に体勢を崩されていた。
抵抗しようとした瞬間、霧刃の殺気が消失して、また、動きを惑わされたのだ。
霧刃はすかさず鈴音の右腕を捻り上げ、遠心力を使って地面に叩きつけた。
「がっ、はっ……!」
「何が『まだ、やれる』のだッ!?」
骨折した腕を極めたまま、霧刃は倒れた鈴音をうつ伏せにすると、その右肩に全体重をかけた膝を落とした。
砕けた肩を徹底的に痛めつけられ、気が狂いそうなほどの激痛が鈴音を襲う。
「ぐあああああああああああああああああっ!?」
バキバキという骨が裂ける音と、鈴音の魂切る絶叫が重なる。
「できるのは、悲鳴を上げることだけではないか」
霧刃は怒りの形相のまま、鈴音の右腕をさらに捻り上げた。
骨が粉々に砕け、筋肉がひしゃげ、神経が捻じ切られ、靭帯や腱が裂ける。
「あ、あ……あぅ……」
すでに鈴音の意識は消えかかっていた。
とどめとばかりに、霧刃が高々と振り上げた踵を、鈴音の右肩へと落とす。
すでに砕ける骨も残っていないのか、ぐしゃりという肉を打つ鈍い音だけ響いた。
「がっ……!」
悲鳴すら上げられずに苦しみのあまり、地面に転がった鈴音が身体を捩じらせる。
「あっ……うぅ……」
そして、鈴音の身体が仰向けになった瞬間、天武夢幻流の奥義で粉砕された上に痛めつけられ続けた腹を重い衝撃が貫いた。
霧刃が思いきり、踏み潰したのだ。
メリメリと嫌な音を立てて、霧刃の足が鈴音の腹に埋まっていく。
足首までが完全に鈴音の腹に埋まり、突き抜けた衝撃によって同心円状に地面へと亀裂が走った。
「ごふっ!?」
反動で鈴音の上半身が浮き上がり、その唇から真っ赤な血が吐き出される。
さらに霧刃は鈴音の腹に埋めた足を捻り、腹筋と内臓をめちゃくちゃに磨り潰した。
「うっ、がぼぉっ!」
霧刃が腹に埋めていた足を抜くと、鈴音は糸の切れた操り人形のようにぱたりと倒れた。
「うぅ……」
体内を破壊し尽くされた鈴音にはもう、力のない呻き声を上げることしかできない。
だが、霧刃の制裁は終わらなかった。
霧刃が右腕を伸ばし、倒れている鈴音の左胸を鷲掴みにする。
「ぐっ!?」
手に余る豊かで形の良い鈴音の胸が、強烈な圧迫に歪められる。
乳房を握り潰されるという新たな苦痛に鈴音の顔が歪んだ。
そして、霧刃は鈴音の胸を鷲掴みにしたまま腕を上げ、凄惨なまでに痛めつけられた妹の身体を無理矢理起こした。
「うっ……ぐっ……」
締め上げられている左胸を中心にして鈴音の全身に激痛が走る。
身体中の骨が折れているのか、力が全く入らない。
特に徹底的に痛めつけられた右肩は、痛みを感じる感覚さえ麻痺しているようだった。
骨も肉も破壊された青黒く変色した右腕は、もげていないことさえ奇跡に近い。
「ああっ、うああああああああっ!」
絶叫を上げる鈴音の背後に回った霧刃が、愛しいものを扱うように妹を後ろから抱き締めた。
だが、鈴音の胸を握り潰す握力は決して緩めない。
姉の手のひらの中で、妹の豊かな左胸が無惨に潰され続ける。
霧刃の表情には愛情も鈴音を弄ぶ気配も含んでおらず、瞳は禍々しい真紅の邪気で濁っていた。
――何年かぶりの姉妹の抱擁は、死の香りがした。
霧刃の吐息が、鈴音の首筋にかかる。
鈴音が逃げられないように、霧刃が空いていた左腕で妹の身体をしっかりと抑え込む。
もちろん、鈴音には霧刃の戒めを逃れる力など残ってなどいなかったが。
そして、霧刃の右手は容赦なく鈴音の左胸をがっしりと鷲掴みにしている。
「己の力のなさを思い知れ」
霧刃の指にさらに力が入り、鈴音の左胸に食い込む。
「あぐうああああっ!」
凄まじい圧迫により、豊かな乳房がひしゃげる。
鈴音は絶叫を上げて首を激しく横に振る。
だが、万力のように力の込められた霧刃の五本の指が、鈴音の女性の象徴である胸のふくらみを容赦なく破壊していく。
屈辱を与えることが目的でもなく、嬲ることが目的でもない。
それはまさしく、破壊を目的とした圧搾。
もぎ取るように、搾り上げるように、鈴音の左乳房を握り潰していく。
「くあああああああああああっ!」
霧刃の指は、鈴音の心臓をも左胸の上から圧迫していた。
食い込んだ霧刃の指先から禍々しい赤い霊気が、鈴音の左胸へと流し込まれる。
「かっ、はぁッ……!」
破壊の波動が隈なく体内を駆け巡り、内部から切り裂かれる苦痛に鈴音の肢体が、びくんっと大きく痙攣する。
霧刃の邪悪な霊気が、鈴音の筋肉を、内臓を、そして、生命そのものを蝕む。
悲鳴とともに鈴音の口から、体内に残されたわずかな血が吐き出された。
息ができない。
目の前が暗くなってくる。
自分の心臓の鼓動が消えかかっていることを鈴音は感じていた。
「あ……、あっ、うぅ……」
鈴音の苦痛の悲鳴が徐々に弱々しくなり、そして途切れた。
――限界だった。
鈴音の身体から力が抜け、光が失われた瞳に霞がかかる。
そして、糸の切れた人形のように、がくりと項垂れた。
苦痛に歪んでいた唇の端から、血の混じった涎がこぽこぽと流れ落ちる。
鈴音の意識は完全に失われていた。
霧刃の肩が微かに震える。
そして、鈴音を抱いたまま後ろを振り返った。
男が立っていた。
全身黒ずくめの男だった。
ダークスーツに身を包み、黒いソフト帽を被っている。
この深夜の暗闇でサングラスをしている。
「鈴音サンを放せ」
男は銃を霧刃に向けながら、サングラスの縁を指で押し上げた。