魂を貪るもの
其の三 闇の咆哮
1.侵入
ちとせたちは一度神社に帰り、葵に事の成り行きを説明した。
そして、葵には引き続き資料集めを頼んで、ちとせたちは爪研川に向かった。
シャロル・シャラレイの言ったように、川沿いの道から見える星空が美しい。
淡く輝く月が冷たく笑っている。
もう、深夜に近い時刻だ。
すれ違う人影もない。
『ヴィーグリーズ』の施設の前まで来ると、ちとせたちは改めて周りの様子を伺ったが、やはり人の姿はなかった。
ちとせたちは無言で頷き合い、塀を乗り越えて中に入った。
さすがに正面からの侵入を避け、裏口の方に周り込む。
幸いにもというべきか、セキュリティシステムは取り付けられていないようだった。
もちろん、出入口は堅く閉じられ施錠されていたが、鈴音は鍵を簡単に空けてしまった。
「この程度の解錠なら慣れたもんさ。まっ、あまり自慢にはならないが」
鈴音は前髪をかきあげると、先頭を切って中に侵入した。
ロビーらしき場所に出る。
監視カメラ等の警備システムは作動しているようだが、鈴音はうまく死角を利用して進んでいく。
ちとせたちも鈴音の迅速さには及ばないものの、最大限に気を這って監視カメラを避ける。
しかし、警備は機械による自動のそれだけではなかった。
闇の中を走っていた一行を、眩い光が唐突に照らす。
「何だね、キミたちは?」
鋭い声がかけられ、ちとせたちが振り返る。
四十代半ばくらいの警備員らしき男が、手に懐中電灯を持って立っていた。
「あやしいものじゃないよ☆」
ちとせは動揺を見せずに、警備員にひらひらと手を振った。
もちろん、お互いの緊張がそれで解けるわけもない。
警備員が懐からトランシーバーを取り出すのが見えた。
「そんな言葉を信じ……」
トンッ!
警備員がちとせに気を取られている間に、後ろにまわり込んだ悠樹が警備員の首筋に手刀を見舞って眠らせた。
「普通の人間だ」
崩れ落ちた警備員を見ながら、悠樹が言った。
「まだ、悪魔とかと関わりがあるって決まったわけじゃないもの」
ちとせたちは意識を失っている警備員を物影に隠すと先に進んだ。
建物の中は通常の会社と変わったところはない。
裏口のセキュリティが施錠だけだったこともあり、この建物内に重要な秘密があるとはとても思えなかった。
シャロル・シャラレイの占いの力を疑うわけではないが、このままでは何の手掛かりも掴めそうにない。
「……」
周りを観察していた鈴音が、視線を落として無言でため息を吐く。
――はずれなのか?
と、その時。
――どくんっ!
血が逆流するような感覚が身体を駆けた。
猫ヶ崎病院で感じたあの違和感。
結界だ。
「鈴音さん!」
目を見張っているちとせに、鈴音は顔を上げて力強く頷いた。
奥の扉だ。
ちとせたちは足早に奥に進み、扉の左右に分かれて陣取る。
扉の向こうに、気配はない。
待ち伏せはなさそうだ。
鈴音が罠の仕掛けられていないことを確認して、扉を開け放った。
――そこには別世界が広がっていた。
「なっ?」
思わず三人とも驚愕の声を漏らす。
森だった。
奇妙なことに森がそこにあった。
建物内に作られた人工の森というわけでもなさそうだ。
天井もなく、夜空に星が浮かんでいる。
「どこでも行けちゃうドア?」
「……これは驚いたね」
「青いネコ型ロボットの仕業じゃなさそうだね?」
ちとせが毎週民放で放映している国民的テレビアニメを思い出しながら呟いた。
勉強もスポーツもダメな小学生の男の子と、彼のもとに未来からやってきたネコ型ロボットの日常生活を描いた作品で、ちとせも悠樹も小学生の頃は毎週欠かさず見ていたものだ。
そのアニメの中で未来から来たネコ型ロボットが、未来の技術で造られた『未来道具』を披露するのだが、そのひとつに扉の向こうが目的地になる『どこでも行けちゃうドア』なるものがあったのだ。
ちとせも悠樹も部活動に熱心になるとともに見る回数は減っていき、今では、チャンネルを回していてたまたま映った時に、思い出したように見る程度になっていたが、その『未来道具』のことは覚えていた。
「どうやら時空が捻れているらしいな。猫ヶ崎病院で体験した異空間化とはまた違うようだが」
鈴音は動揺した素振りも見せず、落ち着いた様子で推測を述べる。
「先に進みますか?」
悠樹が鈴音に確認する。
先に進むも後ろに戻るも、鈴音の心次第なのだ。
「ああ。だが、気をつけろよ。森全体に瘴気が渦巻いてやがる」
森の中から邪悪な気配がいくつも感じられる。
猫ヶ崎病院のように、魔物たちが放たれているのかもしれない。
「確かに普通の森とは違う状況になっているようですね」
悠樹も夜風が運んでくる瘴気に眉をひそめる。
ふと、足元に目をやると、地面が踏み固められているのがわかった。
「道」
「えっ?」
「道ができてる。人が手を入れてるよ」
「なるほどな。どうやら偶然に結界でここと繋がったわけじゃなさそうだ」
「何度か繋がったことがあると見るべきだね。結界は何かを行なうために今発動したってわけね」
「この道を辿っていくしかないかな」
悠樹の言葉に全員が頷き、道に沿っていくことに決めた。
暗闇の中、何かが羽ばたいた。
鳥だった。
ただし、巨大で、嘴から煙を出している。
その目は怪しく赤く輝いていた。
「さっそく、でやがったな!」
鈴音が叫びながら、右手のひらに青白く輝く剣の形に霊気を収束させる。
ちとせと悠樹も、全身から霊気を開放していつでも動けるように構える。
鳥が嘴を大きく開き、鈴音目掛けて炎を吐く。
鈴音は避けようともしない。
迫りくる灼熱の灼熱へ向かって、霊気の剣を縦一文字に振り下ろす。
――斬。
鈴音の斬撃は、衝撃の刃となって、炎を蹴散らし、尚且つ遠方の巨鳥本体をも真っ二つにした。
中央から泣き別れた鳥の巨体が、ドサリと音を立てて地面に落ちる。
巨鳥は痙攣して、その赤い瞳から光を消した。
「すごっ……」
ちとせが思わず呟く。
病院の時より、さらに鈴音の動きには切れがあった。
「これが、本調子の鈴音さんなのね」
「さて、行くぜ」
鈴音は、ちとせたちを促して歩を進めた。
それから十数分近く、森の中を歩いただろうか。
徒歩による軽い疲労を覚え始めた時、ちとせの表情が変わった。
「そろそろ、かな」
目の前の茂みから気配を感じ、小さく呟く。
話し声が聞こえてくる。
「獣じゃないね」
人間の声だ。
もっとも、人間ではなくて悪魔かもしれないが、とりあえず聞こえてくるのは人間の言葉だった。
一行は頷き合うと、気配を殺して茂みの向こうに注意を向ける。
声の数は二つ。
声音はともに低く、二人の男が話をしているようだった。
「成功か?」
「はい。『
「ふん、あの女は好かんな。幹部でもないのにのさばりおって」
「しかし、任務には忠実との話ですが……」
「私にはそうとも思えぬ。結界の試験を任されていた我が同胞たる堕天使ユフィールが何者かに消された時も、
「ですが、"凍てつく炎"は、総帥直々の……」
――"凍てつく炎"!
男の声が終わらないうちに、鈴音は茂みから飛び出した。
「ちょっ、鈴音さん!」
ちとせが止める間もなかった。
「何だ、貴様らは?」
男の片方――初老の男が鈴音を誰何した。
もう片方――若い小太りの男も突然の闖入者に表情を硬くして身構える。
彼らの背後に何かの装置が設置されているのが見える。
中央部に青い宝玉のようなものが嵌め込まれ、下の部分から水が流れ出している。
「今の話、詳しく続きが聞きたいんだが?」
形成した霊剣の切っ先を男たちへ突き出して、鈴音が言った。
表情は厳しく、視線は鋭く、声音は冷たい。
殺気立ったその姿は、まるで鈴音自身が抜き身の日本刀のようだ。
「ふむ、霊気を自在に扱えるか。道理で結界の中に……」
初老の男の眉が上がった。
「しかし、我らの話を聞いていたか。何者か知らんが、死んでもらうしかないな」
初老の男が両手を地面に翳す。
地面が発光し、ちとせたちの視界を一瞬遮った。
その光が消えた時、ちとせたちの前に三体の巨人が姿を現わしていた。
いずれも身長が三メートル以上はあるだろうか。
肩幅が異様に広く、胸板も厚く、岩のような肌をした筋骨隆々の肉体は逞し過ぎるほどに逞しい。
日本の伝承に出てくる『鬼』にも近い体格をしているが、頭に角も頭髪もなく、凶悪だが人間とはかけ離れた顔の造形をしている。
「オーガーどもを貸してやる。城波、処理しておけ」
初老の男は小太りの男に向かってそう言うと、後ろの装置から青い宝玉を取り出した。
「私はこれを届けねばならん」
「了解致しました」
城波と呼ばれた小太りの男は、初老の男に頷き、その全身から邪気を開放した。
「待てっ!」
ちとせが初老の男を追いかけようとするが、目の前にオーガーが一体立ち塞がる。
「邪魔よ!」
ちとせの両手に霊気が宿る。
「オーガーは欧州で食人鬼として恐れられる巨人だ。お嬢さんたちの細腕でこの人肉喰らいの怪物たちに勝てるかな?」
城波がちとせたちを見ながら、挑発めいた笑いを浮かべる。
「オーガーどもよ、女三人とも上物だぞ。その柔肉、喰らい尽くしてかまわんぞ」
「女三人?」
ちとせが小首を傾げ、悠樹に悪戯っぽい笑みを向ける。
「上物らしいわよ。良かったね、悠樹お嬢さま」
「はいはい、どうせ、ぼくは女顔ですよ」
悠樹が肩をすくめながらも、その全身を風で包み込む。
自ら巻き起こした烈風の中で髪を揺らせるその姿は、それこそ少女と見間違える幻想的な美しさに染まっている。
「行け、オーガーども!」
城波の命令にオーガーたちが吠えた。
ちとせの前に立ち塞がったオーガーの丸太のように太い腕が、目の前で構える少女へ目掛けて振り下ろされる。
巨腕から放たれたその一撃は当たれば、ちとせの身体など木っ端微塵に吹き飛んでしまう威力があるだろう。
だが、ちとせはすばやく身を躱し、大振りの攻撃で体勢を崩している巨人のがら空きの胴に霊気の宿った拳を叩き込んだ。
インパクトの瞬間に、怪物の肉体で霊気の爆発が起こる。
口から血の泡を出しながらも、オーガーはちとせを捕まえようと両腕を振るってきた。
恐るべきタフネス。
しかし、ちとせは焦らない。
食人鬼の頑丈さは、その体格からも十分に予想の範疇だった。
オーガーの逞しい両腕が、大胸筋の前でがっしりと合わさる。
その中に、ちとせはいない。
後方宙返りで、距離を取っていた。
すでに両手が、オーガーの顔面に向けられている。
轟ッ!
両手から放たれた霊気が螺旋の矛を描き、オーガーの頭を吹き飛ばした。
タフネスを誇るオーガーもさすがに頭部を失っては絶命するより他はなく、巨体は地面へとゆっくりと倒れた。
それを見た悠樹の前の一体が怒りに我を忘れたかのような咆哮を上げる。
だが、その隙を悠樹が見逃すはずもない。
「稲妻の風よ!」
閃光。
「グオウゥッ!」
悠樹が手のひらを突き出すと雷撃を纏った突風がオーガーを撃った。
烈風で全身を切り裂かれながら、電撃で全身を焼かれ、オーガーの巨体は自由を奪われる。
それで勝負は決した。
悠樹が感電しているオーガーの胸板を突風で射抜く。
心臓を貫かれても尚、オーガーは感電による拘束を受けたまま、怒りと苦痛の咆哮を上げていたが、やがて生命力が尽きたのか、真っ赤な口腔を大きく開いたまま、完全に動かなくなった。
鈴音へ襲いかかろうとしていた一体は、ちとせと悠樹の前に立ち塞がったオーガーたちと違い、すぐには動かずにいた。
否、動かずにいたのではない。
動くことができないでいた。
織田鈴音の殺気の迸った視線。
それを受けただけで、食人鬼と恐れられる巨人は本能的な恐怖から動きを止めてしまっていた。
退魔師を本業とし、過酷な世界を生き抜いてきた鈴音の迫力は、ちとせや悠樹とは比べ物にならないのだろう。
「何をしている!」
城波の
そして、鈴音へと襲いかかる。
だが、すでに遅い。
オーガーが動き出した瞬間、夜空に血飛沫が上がった。
鈴音は飛び上がると同時に、霊剣でオーガーの首を刎ねていた。
オーガーの頭部が地面に落ちるのと、首から上を失って噴水のように血を噴き出す巨人の後方へ鈴音が軽やかに着地したのは、ほぼ同時だった。
そして、鈴音はそのまま、一瞬にしてオーガーたちを葬り去られて呆然としている城波に向かって疾走した。
夜風に長い髪が靡き、チャイナドレスの裾が翻る。
腰まで入った深いスリットから挑発的に覗く美しい曲線が弧を描く。
突進の勢いを乗せた飛び廻し蹴り。
城波は霊気を廻らせていた両腕で防御したが、鈴音の力量とは差が在り過ぎた。
「ぐあっ!」
鋭い蹴りに耐えることができずに無様に弾き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。
一方の鈴音は息一つ乱していない。
ゆっくりと、倒れた城波へと近づいていく。
「バ、バカな。こんなにあっさり……!?」
城波は、相手の実力をあまりにも甘く見ていたことを悟った。
どうにかして立ち上がるが、足元はおぼつかない。
「あの男は逃げちまったからな。あんたにしゃべってもらうしかないな」
城波の喉元に爛々と輝く霊剣の切っ先を突きつけながら、鈴音が前髪をかきあげた。
「くそっ……」
城波が呻く。
「おまえたちのことを、いや、"凍てつく炎"織田霧刃について知っていることを言え!」
「"凍てつく炎"……?」
鈴音の鋭すぎる声に震えながらも、城波は首を横に振った。
「……バカな。言えるわけない。言えば殺されてしまう」
「言わなくても、あたしが殺す」
鈴音の目に宿っている鋭い光は、本気の殺意だった。
その声も、ちとせや悠樹でさえ背筋が凍りそうになるほどに冷たい。
「ま、待ってくれ!」
鈴音の殺気を真正面から直接浴びせられている城波は、表情を強張らせ、態度を一変させた。
「答える。だから、殺さないでくれ。"凍てつく炎"は私たちの……!」
哀れなほどに取り乱した城波の口から、"凍てつく炎"の名が漏れる。
唐突に、城波に剣を突きつけていた鈴音が、後方へと飛び退いた。
同時に何かが弾けるような音がした。
城波の身体が一瞬、びくんと揺れる。
「がはっ!」
城波の口から真っ赤な鮮血が溢れ出る。
その腹に穴が開いていた。
やったのは、鈴音ではない。
その大きな穴の向こうに人影が見えた。
城波は驚愕の表情のまま地面に両膝をつき、前のめりに倒れた。
その身体が地に倒れ伏した時には、彼はすでに息をしていなかった。
城波の命を奪った人影が顕わになる。
白い衣の上に黒を基調とした千早に似た羽織を纏い、黒い袴を穿いた女だった。
年の頃は二十歳代前半だろうか。
――鈴音の表情が変わった。