邂逅
其の三



 女は、ラッツェルの部屋がある研究棟に真正面から足を踏み入れた。
 赤い警告灯が点滅し、警報が鳴っているが、まったく気にしている様子もない。
 廊下を抜け、階段を上りながら、次々と警備兵を薙ぎ倒し、妨害者たちに死を運ぶ。
 銃器も火器も彼女の足を止まらせることはできない。
 一歩一歩進むごとに、 新たな死が降り注ぐ。
 立ち向かう者にも、逃げ惑うに者も、命乞いをする者にも、等しく死を与えていく。
 その中には何も知らずに働いているだけの研究者や、被験者も含まれていたが、女はすべてに死を与えた。
 死、死、死……。
 どこまで行っても、死。
 女の周囲には死が充満していく。

 そして、女は辿り着いた。
 研究棟の十階。
 研究施設の中枢部である、ラッツェルの研究室の前に。
 重厚な両開きの扉は、まるで冥界の門のように瘴気に彩られている。
 女が手を伸ばすと、触れもしないうちに扉はゆっくりと開いた。
 まるで女を迎え入れるように。
 ラッツェルの研究室は、広々とした造りだった。
 天井は高かったが、そこには窓が一つもない。
 薄暗い光灯が部屋の中を照らしているだけだ。
 空気が重い。
 女の予想に反して、研究室の中にラッツェルの姿はなかった。
「おやおや、あの男は失敗したようですね」
 代わりに研究室の中央に立っていたのは、長身の男だった。
 ラッツェルの片腕、セファーだ。
「それなりの働きは期待していたのですがね。傷すら負わせられないとは」
 女の衣服が破けてはいるものの、その肢体には傷一つないことを確かめて、セファーは肩をすくめた。
 その顔には陰気な薄ら笑いが浮かんでいる。
 女の眉が微かに跳ね上がった。
「……ラッツェルはどこだ?」
「所長は忙しいのですよ」
「……どこだと聞いている」
 セファーを睨みつける女の瞳は冷たい刃のようであり、燃え盛る業火のようでもあった。
 普通の人間ならば、その目を見ただけで、背筋が凍っただろう。
 だが、セファーは陰気に笑い続けていた。
「報告の通り見かけによらず気が短いですね。まあ、良いでしょう、教えてあげますよ。所長は『Alice』の所に行っています。あの男を倒したあなたならご存知でしょう」
「あの機械塔か」
 女は研究施設に聳え立つ機械塔を思い出した。
 男をこの施設に"呪縛"している物。
 それが『Alice』だと聞いている。
「『Alice』には我々の研究データが蓄積されているのです。このデータを元にあなたの力も取り込み、我々は神となるのですよ」
「『Alice』……、あの男の『命』……」
 神になるためのデータがあの男の『命』だとでも言うのか。
「……違うな」
 女が小さく呟く。
 他の理由があるはずだ。
「おや、あの男から何も聞いていませんか?」
 セファーの口元が、惨忍に歪む。
「『Alice』は、あの男の妹ですよ」
 瘴気で淀んだ研究室の中に冷たい空気が流れ込んできたような気がした。
「妹、だと……」
 女の表情が微かに変化した。
 気づかぬうちに自然と刀を握った手に力がこもる。
 カタカタと刀が鳴いた。
「死にかけていたところを、我々の技術であの機械塔と同化させて、微かに生きながらえさせてきたのです。とても優秀な素体だったのでね」
「それで、呪縛か……」
 妹を生きながらえさせるための措置。
 願ったのは、妹ではなく、きっと男自身。
 だからこそ、呪縛なのだろう。
 だが、それを誰が笑えよう。
 愛した妹を失いたくはない。
 藁にも縋るその想いを誰が笑えよう。
 眼鏡の縁を押し上げながら、セファーはゆっくりと後ろへ下がった。
 そして、懐から注射器を取り出す。
「あなたの力も、とても素晴らしい。だが、素体に殺気は不要だ。消し去るとしよう」
「私に勝てるつもりか?」
 セファーは笑いながら、注射器の針を腕に刺した。
「フ、フ、フ、フフフ……」
 セファーの体格が変化していく。
 しなやかで逞しい筋肉が、白衣を破り飛ばし、純白の翼が背中から姿を見せる。
 まるでギリシア彫刻のように美しく、神々しい。
「これが我々の研究の成果なのですよ」
 天使のような姿を誇示し、セファーは両腕を天に捧げた。
 光が集まり、純白の巨大な槍を形成する。
 セファーはそれを握り、切っ先を女に向けた。
「さあ、あなたも我らが、神となるための礎としてあげましょう」
「……雑魚に用はない」
「フフフッ、いつまでその威勢が持ちますかね」
 セファーが槍を持っていない方の手の指を鳴らすと、研究室内に黒い霧が満ちた。
「結界か」
 女は気にした様子もない。
 だが、セファーは自信に満ちた表情で笑った。
「力を封じる結界ですよ。……この研究室の中では、あなたの力は十分の一以下になる」
「それがどうした?」
 女は無表情にセファーを見下し、青白く輝く刀を握り直した。



 いつも通っているはずの道がやけに遠く感じられた。
 多量の出血のためか、目が霞む。
 白と黒の機械塔。
 彼の『妹』の亡骸はこの中で眠っているはずだ。
 妹が倒れたのはもう一年も前のことだ。
 治療の術はなかった。
 だが、生きながらえさせる方法はあった。
 悪魔の科学力に身をゆだねること。
「その結果が、これか……」
 妹は生き延びることなど望んでいなかった。
 兄の身勝手で命を縛り続けてきたが、妹はついに逝ってしまった。
「オレにあの女と戦って欲しくなかったのかも知れんな」
 目の前の重厚な扉を手で押し開ける。
 中から吹き出した吐き気のする大量の瘴気が男を襲う。
 傷口が侵食されるが、男は構わずに歩を進めた。
「『アリス』……」
 奥には、哀れな彼の妹の姿。
 鉄塔を形成する巨大な装置に身体の半分を埋め込まれた少女。
 固く閉じられた双眸はいつもと変わりなかったが、その顔に微かにあった生気の色はない。
 既に魂が旅立ってしまっていることが遠目にもわかった。
 妹の死の実感が、男の心身に染み込んで行く。
 だが、涙は出なかった。
 無力感だけが男を包む。

「妹さんは残念でしたね」
 男を嘲笑うかのように、この色のない空間に不快な色を帯びた声が響き渡った。
 機械装置の陰から姿を現したのは、この欲望に塗れた研究所の権化。
「ラッツェル!」
 ラッツェルはゆっくりとした動作で、機械に埋まった少女の骸の横に並ぶ。
 そして、少女の長い髪を手で掬い上げた。
 欲望に塗れた手が妹に触れるのを見て、男の目に怒りの色が浮かぶ。
「妹に触れるんじゃねェ」
「そうはいきません。『Alice』は私のものなのですから。死んでしまったものなどあなたには不要のものでしょう」
 ラッツェルは陰気に喉で笑いながら、『Alice』の頭を撫でる。
 男は力を込めて拳を握り、唇を噛み締めた。
「妹の弔いだ。ラッツェル、おまえにはここで死んでもらう」
「まあ、あなたが裏切るのは時間の問題だとは思っていましたがね」
「オレは初めから裏切り者だ。今まで、妹のためと思いながら、妹を裏切って生きてきた。だがな、それも終わったのさ」
「終わりですか、それはご苦労様ですね」
 ラッツェルはそう言うと、両腕を真横に広げた。
「では、これまでの仕事のねぎらいに私の研究成果をお見せしましょう」
「研究成果だと?」
 男の目の前で、ラッツェルの身体に霊気が集中していく。
 不健康な色をしていた肌が、美しい白に染まり、見る見る発達して、逞しい身体へと変貌していった。
 黒かった髪も眩い黄金色へと変化しながら背中の後ろへと伸び、その間を掻き分けて、大きな翼が迫り出してきた。
 異形の魔人。
 禍々しくも神々しい。
 美しく輝くその姿は天使にも似ていた。
 だが、その顔は邪悪に歪んでいる。
「悪魔め」
 人外へ変貌したラッツェルを男が睨みつける。
「悪魔ではありません。『神』ですよ」
 邪悪に笑うラッツェルの両腕が不気味な輝きを帯びる。
「さて、試させてもらいましょうね、私の力を!」
 両腕を振り払うと同時に、閃光が大気を切り裂いた。
 咄嗟に、痛む身体を横に倒した男の頭を光の矢が掠めていた。
「ぐっ、ああ!?」
 光の矢が微かに掠っただけで全身に電流が流れ、男の全身を激痛が襲う。
 苦しむ男へとラッツェルが笑いながら光の矢の第二射を放つ。
 男は床を転がって避けた。
 しかし、すぐにラッツェルは立ち上がろうとしている男へと狙いを定めた。
「がああああああぁ!」
 直撃。
 高圧電流を直接流されたような凄まじい電撃が、既に死に態の男の身体を焼く。
 しかも、全身が痺れる。
 動けぬ男に次々と電撃の矢が突き刺さり、命を削っていく。
「どうやら反撃する力も残っていないようですね。これでは実験の成果を試すこともできませんよ」
 ラッツェルは陰惨に笑い続け、そして、男へ矢を打ち続ける。
「ぐあああああ!?」
 無数の電撃の矢に肉体を焼かれ、男は血を吐き、跪くように崩れ落ちた。
 オレは何もできないまま終わるのか。
 妹を解放することすらできずに……。
 息が苦しい。
 身体中が熱い。
 意識が遠くなる。
「ふむ、プラナリア並みの生命力ですね。賞賛に値しますよ」
 呆れと苛立ちを含んだラッツェルの言葉の通り、瀕死の男は死にそうで死なない。
「しかし、幾分、しつこ過ぎます。早く死になさい!」
 ラッツェルの周りに十本近い電撃の矢が形成される。
 そこで異変が起こった。

「こ、これは!?」
 有利に戦局を進めていたラッツェルが驚愕の声を上げる。
 彼を驚かせているのは目の前に突如として現れた一人の少女の姿。
「『アリス』!?」
 瀕死の重傷を負っている男もまた、その両目を驚きに見開く。
 目の前に死んだはずの少女が立っている。
 だが、屍もちゃんと目の前にあった。
 良く見れば、立っている少女の身体は半分透けている。
 一瞬、死を直前にした精神が生んだ幻覚かと思えたが、ラッツェルにも見えているということは、幻ではないようだ。
「『アリス』なのか……」
 少女は兄に優しく微笑んだ。
 呪縛の機械塔が揺れた。
 塔のそこかしこから、無数の鋼のコードがのうねりながら姿を現す。
「馬鹿な。この塔の装置は切れているはず。それに、娘の魂は完全に消えているはずだ。それとも、データが自ら人の姿を……!?」
 焦った声で叫ぶラッツェルへと機械塔から伸びた鉄の触手が突き刺さる。
「グアアアアアアアァァ!!」
 ラッツェルは全身をコードに貫かれながらも、次々に伸びてくる新たな触手を振り払う。
「こ、この程度で私を倒すことはできませんよ!」
 その鋼鉄の触手はラッツェルの動きを止めているだけで、倒す力はないようだった。
 それでも、しばしの時間稼ぎにはなる。
 いや、初めから時間稼ぎが目的か。
「『アリス』……」
 男の呼びかけに、少女は無言で頷いた。
 男は少女と向き合う。
 何年ぶりだろうか。
 純真無垢なこの瞳と向き合うのは。
 少女が男の周りを視線で示す。
 気がつけば、妹から伸びた鋼鉄の触手は男の周りにも散らばっている。
 だが、ラッツェルに向けられたそれとは違って、それに殺意はない。
 むしろ、無機質な材質でできているはずのコードに温かみを感じた。
 そのコードの束を握り締め、男はもう一度妹の名を呼んだ。
「『アリス』……」
 ――お兄ちゃん。
 男の頭の中に懐かしい声が響き渡る。
 ――今のうちに早く、この塔を……、私を……、解放して……、お願い……。
 ――私の最期の意識がなくならないうちに。
「すまない、『アリス』!」
 コードを両腕にしっかりと巻きつけ、男は魂の雄叫びを上げる。
「オレの中に残っているのすべての命よ! オレの力よ! 最期の力よ!」
 男を中心に熱気が渦巻き、空間が大きな揺れを起こし始めた。
 全身を鋼鉄の触手に貫かれたラッツェルが男を憎しみの顔で睨みつける。
「オノレェェ! 私の力を甘く見るなよ!」
「……いや、もう、終わりだぜ、ラッツェル……!」
 男は穏やかに笑っていた。
 胸元で球体をした命の炎が煌煌と輝いている。
 その炎は男の両腕から鋼鉄の触手を伝い、機械塔全体へ、光の管のようになって広がっている。
「まさか『Alice』ごと自爆する気ですか!?」
「ケルベロスはもういねェが、ちょっくらアイツが門番をしてたところまで付き合ってもらうぜ」
 男の言葉に呼応するように、機械塔の隅々まで広がった命の血管が点滅する。
「や、やめろぉぉぉぉ!?」
 ラッツェルが絶叫すると同時に、眩い閃光が縦横無尽に走った。
 光はラッツェルの姿を飲み込み、さらに膨張を続け、完全に機械塔を包み込むまで膨れ上がる。

「わりぃな、『アリス』。最後まで迷惑かけちまって」
 ──良いのよ、お兄ちゃん。

 爆発は欲望に塗れた機械塔を木っ端微塵に吹き飛ばした。


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