邂逅
其の二



 それから数日、男と女はラッツェルの依頼で研究所の周りに出現する妖魔退治を続けていた。
 二人の実力は圧倒的で、発生した妖魔どもは、まるで歯が立たずに駆逐されていった。
 その間、男は相変わらずの調子で女に話かけ、女は無表情にそれを受け流している。
 だが、徐々に女の口数が増えているように、男に仕える魔獣ケルベロスは感じていた。
「あの男はどこだ?」
 この数日の間に何度か聞いた問い掛けが、ケルベロスの耳に聞こえて来た。
 その質問を発するのは、昏い瞳をしたあの女。
「(……主はあの塔にいる。我が主に何か用か?)」
 ケルベロスもまた同じ答えと問い掛けを繰り返す。
 女はいつも通り何も答えず、聳え立つ機械塔に視線を移した。
「……」
「……」
 舞い降りる沈黙。
 それはしかし、初めの頃ほど緊張を孕らんではいない。
 女がケルベロスを振り返る。
「あの塔にある呪縛とは何だ?」
「(それは言えぬ)」
「あの男の何が在るのだ?」
「(掛け替え無き存在。故に呪縛)」
「呪縛とは『Alice』か?」
 女が口にした名に、ケルベロスが微かに震えた。
 恐れではない。
 それは、哀しみ。
 女はそれ以上は追及せずに押し黙った。
「鋭い女だねェ」
 再びの沈黙を打ち破ったのは苦笑まじりの声だった。
 あの男だ。
 女はじろりと男をねめつける。
「どうしてもって言うんなら、教えてやっても良いぜ?」
「(主……)
 ケルベロスが男の言葉に目を見開く。
 表情の読みにくい獣の顔でありながら、十分に驚愕しているのがわかった。
 それほど男の言葉は意外であったのだろう。
 そして、同時に『Alice』が如何に男にとって重要なものかを物語っていた。
 しかし、女は、無言だった。
「まあ、良いさ。オレも積極的に話したい事柄ではないしねェ」
 相変わらずの女の反応の仕方に、被っている帽子を取って、苦笑しながら指の先でくるくると回した。
「さてと、残念だが、今日のおしゃべりはここまでだ」
 男の目に真剣な光が灯る。
「ケルベロス、行くぜ。所長様がお呼びなんでな」
 男が歩き出すと、女もまた歩を進めようとする。
 ここの責任者、ラッツェルは女の雇い主でもある。
 ラッツェルが招集をかけているのならば、新たな仕事の話に他ならず、女がここに雇われてから今までの仕事すべては、男との共同作業だった。
 だが、男は歩き出そうとする女を制する。
「おっと、今回は、あんたは呼ばれてない。オレだけだ。ゆっくりくつろいでいなよ」
 男はそう言って、いつものように手をひらひらと振りながら女の視界から消えた。
「……」
 取り残された女は、行き場を失い、近くのベンチに腰を下ろした。
 男から譲り受けた巾着袋を取り出し、軽く握り締める。
 そして、静かに息を吐いた。

 男はその部屋に漂う陰気な雰囲気が好きではなかった。
 いや、その陰気は部屋だけではなく、研究施設すべてを覆い尽くしている。
 この研究施設の周辺に下級妖魔どもが出現するのも、この陰気に触発されているからだ。
 言わば、妖魔どもは研究施設の落とし子であり、切り離すことのできない研究施設の一部なのだ。
 男もまた、もう一年も前から、この施設の一部になってしまっている。
 陰気に呪縛され、いけ好かない研究施設に居続けている。
 断ち切ることのできない願望が男の足を、時間を止め続けていた。
 願望は欲望とも言い換えることができる。
 陰気に覆われたこの研究所では、欲望という言葉の方がお似合いだろう。
 人間の欲望を凝縮した城塞。
 それが、この施設の全容だった。
 そして、研究所を覆う欲望の陰気の大元は、今、男の目の前に立っている。
 ラッツェル。
 この研究所の所長。
「新しい仕事だよ」
 ラッツェルは男に向かって口から陰気を発した。
「今回は中々難しいが、キミになら可能だろう」
 唇が邪悪に歪み、黒い色をした依頼がそこから零れ落ちる。
「あの女を捕らえて来てくれ」
「──!」
 ラッツェルを見る男の視線が不快の色から、怒りのそれへと変わる。
「お目当てはあの女か。そのためにオレをあの女に近づけたのか」
 口調が激しくなるのを男は抑え切れなかった。
 ラッツェルはまったく気にした様子もなく淡々と話を続けた。
「キミのためでもある。彼女を使えば、研究は大幅に飛躍する」
「……気に、入らんな」
「キミが気に入る仕事などないだろう。それでも我々は協力していくべきだと思うがね」
 ラッツェルは確信している。
 男は自分の言葉に逆らえない。
 呪縛から逃れるすべはないのだ。
 長い沈黙のあと、男は重く口を開いた。
「確かにな。オレの『命』はおまえたちに預けている」
 男は拳を握り締めた。
 男の命ともいえる男のもっとも大事な物は、ラッツェルの手の内に在る。
 それがある限り男は死ねないし、それがある限り男はラッツェルに従うしかない。
 我ながら哀れだと男はいつも思う。
 だが、それを手放すことなどできはしない。
 それが男を研究施設に縛り続ける呪縛。
「では、頼むよ」
「ああ……」
 拳を震わせながらも自分の意志を承諾した男を見て、ラッツェルは満足そうに頷く。
 男は踵を返した。
 そして、乱暴に扉を開け、どす黒い陰気を発する部屋を後にした。

 部屋の外では忠実なる魔獣が彼を待っていた。
 男が歩きながら魔獣に新たな仕事の内容を話すと、ケルベロスは不愉快そうに唸った。
「(主よ、本当に構わないのか?)」
「……」
「(望んではいないはずだ)」
「……ああ。望んではいない。だが、オレは……」
「(許せ。余計なことを言った)」
 ケルベロスは不用意な前言を悔いた。
 彼の主は、あの女を気に入っていた。
 ラッツェルの要請を快く思っているわけがないのだ。
 そして、そうでありながら、主は呪縛に従わねばならないのだ。
 ラッツェルも憎いだろうが、それ以上に自分自身の不甲斐なさにはらわたが煮えくり返っているに違いない。
「すまない。正しいのはおまえだ。おまえの声はオレの心の問い掛けさ」
「(主……)」
「『アリス』、馬鹿な兄さんを許してくれよ」
 男は血が滲むほどに拳を握り締めていた。

 女は先程と同じ場所にいた。
「話は済んだのか?」
 相変わらず鈍い殺気を宿らせている病んだ双眸を男に向けてくる。
 男は返事をせず、ゆっくりと短刀を取り出した。
 闘気が男の背中から立ち昇る。
 女の瞳孔が収縮し、険しい物に変わった。
「何のつもりだ?」
 男は女の問い掛けには答えなかった。
 胸の前に短刀を握った拳を突き出して、腰を落とした構えを取る。
 その目には、陰気が宿っていた。
 そして、その陰気に自嘲と苦悶の色が混じっていることに、この男の目を毎日見続けていた女は気づく。
「呪縛か」
 女の洞察に、男の陰気が揺れた。
「そうだ。オレはこの研究所に呪縛されているのさ」
「私に近づいたのも……」
「それは違う」
「……」
「ラッツェルの要請は今さっき初めて知った。だが、オレの『命』はラッツェルに預けてある。……言い訳にしかならんな」
 男の言葉には、はっきりとした自嘲の響きがあった。
「……茶番だな。だが、付き合ってやろう」
 女の目に光が灯り、渦巻く気に微かに大地が揺れる。
「悪いな。先に礼を言っておこう」
 男は大きく息を吐いた。
 だが、心が落ち着くことはない。
「ケルベロス、手は出すなよ。一対一でやる」
 いつになく真剣な眼差しの男に、ケルベロスは無言で頷いた。
「行くぜ」
 男が疾走し、短刀を突き出す。
 女は簡単にそれを躱し、男の胸元を掴み、投げ捨てた。
 男は空中で身を捻り、体勢を立て直して着地する。
 間髪入れずに男が短刀を振るう。
 刀身から波状の闘気を放たれ、女へと奔る。
 女は一歩も動かずに、全身から発する気だけでそれを打ち消した。
 男は舌打ちし、再び女に向かって疾駆した。
 短刀で切り込むが、逆に顎に衝撃。
 女の掌底が、短刀を振るった腕の間を縫うようにして、男の顎を打ち上げていた。
 男はバランスを崩しながらも、廻し蹴りを繰り出す。
 しかし、放った蹴足へ、女は的確に肘を落としてきた。
 ミシッと男の足が悲鳴を上げる。
 さらに腹に衝撃。
 女の手が腹部に当てられ、発徑(はっけい)が打ち込まれていた。
「ぐはああっ!」
 男の身体が叩き込まれた気の圧力に後退させられた。
 口から迸った血を拭い、乱れた息を整える。
 女は追撃をしてこなかったが、その双眸は瞬きもせずに殺気を湛えていた。
 わかっていたつもりだが、この女は恐ろしく強い。
 実際に戦ってみて、ほとんど勝機がないことが実感できる。
 だが、男は退かない。
「抜けよ」
 男は女が腰に帯びている刀を示した。
「それともオレは得物を抜く価値もないか?」
「……良いだろう」
 女は刀を抜いた。
 刀身が放つ青白い光が眩い。
 女がゆっくりと刀を揺らす。
 そして。
 消えた。
「──!」
 悪寒を感じ、男は咄嗟に横に飛んだ。
 男の右肩に熱いものが走る。
 斬られたと理解できたのは血が派手に飛び散ってからだ。
「ぐくっ!?」
 呻き声を上げて、今まで自分がいた場所を振り返る。
 女が刀から血を滴らせて立っていた。
 今までとは段違いのスピード。
 あまりにも速い動き。
 男の動体視力では捉えきれなかった。
 だが、女がこれでも本当の本気ではないことに男は気づいていた。
 女がその気になれば、男は一瞬で真っ二つになっていたはずだ。
 女は「茶番に付き合う」と言った。
 それはつまり、この闘いの終わりの決定権は男にあるということだった。
「ラッツェルはなぜ私を狙う?」
 女が男に問う。
「あんたのその力だよ、その力が欲しいとあいつは言っていた」
「やはり、口の軽い男だな」
「生憎、ラッツェルのことは好きじゃないんでね」
「ならば、なぜ従う?」
「言っただろう、『命』を預けていると!」
 男は、そう言い放ち、凄まじい速さで女に向かって駆けた。
 だが、女はそれ以上の速度で刀を振るってきた。
 男は攻撃をあきらめ、体勢を崩しながらも、両腕に闘気を凝縮させ防御を固める。
 その防御の上から女の振るう刀が縦横無尽に身体を切り裂く。
 女の剣筋は鋭く、ガードの上から、男の身体の肉を抉っていく。
 一方的な展開に見えた。
 だが、男は倒れない。
 紙一重の動きと鉄壁の守りで致命傷を何とか避け続ける。
「固い守りだな」
 感心したかのような女の声。
 だが、女の攻撃は止まらない。
 斬撃の度に鮮血が舞う。
「だが、貴様には」
 女は瞳に冷酷な光を湛えたまま、獲物を刻み、死へと導いていく。
「勝機はない!」
 下からの一撃が深く男の片腕を抉り、防御を崩す。
「ぐぅっ……!」
 ついに男の身体が揺らめいた。
 開いた鉄の門を突破すべく、女はさらに加速した。
 そして、全体重をかけた渾身の突きを繰り出す。
 今までで最速の一撃。
 それが、男の胸へと伸びる。
 だが、しかし。
 剣先が男の胸板に抉り込む寸前に、女は咄嗟に後ろに飛び退いていた。
 そして。
 腹部に視線を落す。
 衣服の腹の部分が破れ、頼りない細いウェストが裂け目から顔を覗かせている。
 女が無造作に服の裂けた部分を破り捨てる。
「くそっ」
 一方の男は、呻き声を上げて膝をついた。
 出血が激しく、立っていられない。
「あのタイミングで避けられるとは思わなかったぜ。オレの渾身のカウンターだったのに、よ」
「渾身?」
 露出した腹部を擦りながら、女は眉を跳ね上げた。
「殺気のない拳が、か? やはり茶番だな」
 女は男に真の殺気がないことがわかっていた。
 今の一撃、本当に勝つ気があれば、女に重傷を負わせることも可能だったはずだ。
 それほど完璧なカウンターのタイミングだったのに、男は外したのだ。
「死にたかったのか?」
「ああ……。だが、未練があって死ねねぇのさ」
 女の問いに、男は力なく答えた。
 そして、死を受け入れるように両腕を広げる。
 ぽたり、ぽたりと、女の握った刀の切っ先から赤い雫が滴り落ちる。
 女が男に向かって一歩踏み出す。
 その瞬間。
 ケルベロスがと主と女の間に立ちはだかった。
 女の足が止まる。
 男の顔色が不機嫌な物に変わった。
「ケルベロス、手を出すなと言ったぞ?」
 だが、ケルベロスは主には返事をせず、女と向かい合った。
「(勝敗は決した。主はもう戦えぬ。そして、おまえにも手を出さぬ)」
 女は、しばらく、ケルベロスとその主を凝視続けていたが、不意に双眸を反らすと刀を鞘に納めた。
 そして、男たちに背を向け、無言のまま歩き出した。
 男は傷の痛みに耐えながら、女の背に向かって叫んだ。
「どこへ行く気だ?」
「……狩りだ」
 女は振り返らずにそう言い残し、やがて男の視界から姿を消した。

 男は力なく、立ち上がった。
 足元には小さくない血溜り。
 今はまだ意識があるが、止血をせねば命に関わるのは明白だ。
 だが、男は流れる血もそのままに、懐から煙草を取り出した。
「ケルベロス。なぜ、邪魔をした?」
「(……主よ)」
 ケルベロスの目は哀しみに染まっていた。
「(『アリス』が亡くなったのだ)」
「!」
 男は目を見開いた。
 酷い衝撃を受けているようだ。
 煙草の灰が地面に落ちる。
「本当、か……?」
 掠れた声で、ケルベロスに聞き返す。
 男の声は微かに震えていた。
「(我は死を見る魔獣。先程、『アリス』の波動が消えるのが解かった)」
「そうか。とうとう逝っちまったか。もう、やめて欲しかったのかもな。それなのに、オレは、あの女に、……オレはどこまでも馬鹿な男だよ」
 何歳も年を取ってしまったかのように、男の声には張りがなかった。
「なぁ、ケルベロス」
「(何だ?)」
「あの世ってのは、楽しい処かい?」
「(……それは、我も知らぬ)」
「冥界の番犬なのに、か?」
「(最終的な魂の行方は誰にもわからぬ。死は終焉にして始まり。生は始まりにして終焉)」
「そうか。……安らかであってくれればなぁ」
 ぽつりと呟く男に、ケルベロスは何も答えなかった。
 男は煙草の先端を携帯灰皿に押し付け、火を捻り消した。
 男の目に鋭い炎が宿る。
「よく、オレみたいな人間に長く仕えてくれたな」
「(主……?)」
「悪いが、おまえは、あのお嬢さんの手助けに行ってくれ。あの女が負けるってことはないだろうが、あいつの身体は自分の力に耐えられちゃいない」
「(力が強大すぎるということか)」
「ひた隠しにしているようだが、発作もあるはずだ。大分つき合わせてもらったからな、予想はつく。あの丸薬はそこまで考えたわけじゃねェがよ」
「(発作を突かれたら、あの女とて苦戦は免れない)」
「そういうことだ。頼むぜ、相棒」
 ケルベロスは頷くしかなかった。
 主を止めることはできない。
 もう呪縛は消えてしまったのだ。
 男の、先へ進む道が開けた。
 その先に何が待っていようと、もう止まることは許されない。
 いつまでも同じ場所にいたことが不自然なのだ。
 流れるのは時ではなく、人なのだ。
 だから、ケルベロスは男を止められなかった。
「じゃあな!」
 男はケルベロスを置いて、身体を引きずって目指した。
 愛する『アリス』の眠る機械塔を。


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