邂逅
其の一



 月が雲の間から姿を現し、銀色の光が降り注ぐ。
 夜が怯えたようにざわめいた。
 黒髪の女が翔ける。
 抜刀。
 閃光が走る。
 一瞬で、そこに死が生まれた。
 初めに刎ね飛ばされた妖魔の首が地に落ちる頃には、その場に築かれた屍は山のようになっていた。
「……」
 女は無言で刀を振り続け、一匹の例外もなく、すべての妖魔を一撃で仕留めた。
 その手に握られた日本刀は、妖魔の血を浴びながらも青白い輝きを失っていない。
 月の光に照らされた刀身に、女の顔が映り込む。
 肩の辺りで無雑作に切られた黒い髪。
 炎のような鋭い眼差し。
 凍てついた美貌。
 美しい。
 だが、その美しさは凄絶だった。
 病的な程に白い肌は、まるで幽鬼のようだ。
 だが、女の全身から感じられるのは印象は、闇。
 そして、陰だ。
 月が雲に隠れ、刀身に映し出された女の顔も暗闇へと消えた。
 女は腰の鞘に刀を納める。
 納刀の鍔鳴りが響く夜風に、微かに乱れた女の呼吸音が混じった。

 女の視界の端で影が動いた。
 男だ。
 その傍らに大きな魔獣が控えている。
 男は被っている帽子のつばを指先で押し上げて、女の顔を見やった。
「よっ、ご苦労さん。オレの出番はなかったな」
 女は一瞬だけ男に視線を向けたが、まるで興味もなさそうにすぐに視線を外した。
 そして、無言のまま、男と魔獣の脇を通り抜ける。
「無愛想な女だぜ。まあ、死体の山を築いた後で、へらへらされても不気味だがよ」
 男は女の態度を気にした様子もない。
「なぁ、ケルベロス?」
 男は傍らの魔獣──ケルベロスに同意を求める。
 が、ケルベロスからの返答はない。
 見れば、ケルベロスは、去り行く女の背中を凝視していた。
「ん、どうした?」
 男が不審に思って魔獣に尋ねる。
 この地獄の番犬が、自分以外の人間に興味を持つのは珍しいことだった。
 今まで男が関わっている人間にろくな人間がいなかっただけかもしれないが。
「(あの女は我を恐れておらぬ)」
 ケルベロスがくぐもった声で答える。
「ははっ、オレも恐れてはいないぜ? おまえはオレの頼もしい相棒さ」
 からからと笑う男。
「(汝は我が主。我が認めし存在)」
「なら、あの女はどうだ? おまえが認める価値はあるか?」
「(わからぬ)」
 ケルベロスの答えに男は笑いを収めた。
「ほぅ、こいつは微妙な」
「(万年生きてもわからぬことはある)」
 男は懐から煙草を取り出し、ライターで火を点けた。
「どこら辺が理解できない?」
「(『力』だ)」
「『力』?」
「(あの者の『力』は不明瞭だ。鬼神のようでもあり……)」
「小鳥のようでもあるってか」
 ケルベロスの言葉を継いで、男がにやりと煙草を咥えたまま唇だけを歪めた。
 魔獣は感嘆したように唸った。
 男が紫煙を吐いた。
「節穴じゃないぜ」
「(それは我が誰よりも知っている)」
「光栄だ」
「(だが、あの女はわからぬ)」
「あの女は、人間だよ。オレのようなくだらない男より、ましな人間さ。……さてと、オレも帰るかねぇ」
 男は懐から携帯灰皿を取り出すと、煙草の吸い殻を仕舞った。

「発生した妖魔どもの排除は完了したぜ、ラッツェル所長」
 男は帽子も取らずに、目の前に立つ白衣の男に仕事の報告を終えた。
 この研究施設の周りに発生した妖魔の殲滅。
 それが、男と先程の女の仕事であった。
 そして、目の前にいる男が男と女の雇い主であり、この研究施設の統括者だった。
 名をラッツェルと言い、骸骨のような顔をして、研究者らしく、銀縁の眼鏡をかけて白衣を着ていた。
「ご苦労。ところで、あの女はどうでしたか?」
 眼鏡の縁を押し上げながら、ラッツェルが男に尋ねる。
 男は以前からの雇われの身であったが、女は数日前にラッツェルと契約を結んだばかりで今回が初仕事だった。
 雇い主としては、腕前が気になるところだろう。
「強いぜ。しゃれにならんね」
 身体は鍛えていないようだが。
 と、男は口には出さずに付け加えた。
 あの細身の身体つきは、肉体を鍛えているようには見えなかった。
 それに時たま、体捌きや足運びといった基本的な動きが付け焼刃のように荒くなることもある。
 戦いが終わった後の息遣いも荒く乱れている。
 だが、そんなものは、恐ろしいほどの速さと、攻撃力の前では気になるほどのことではなかった。
 どうやってあれほどの『力』を手に入れたのか、見当もつかない。
 確実に強い。
「そうですか。それほどですか」
 ラッツェルが男の答えに満足そうに頷く。
「報告は以上だ。んじゃ、もう好きにさせてもらうぜ」
 男は帽子を深く被り直し、ラッツェルに背を向けた。
「どうぞ、ゆっくり休んでください。次の仕事までね」
「ああ、もちろんさ」
 男は片手を振っただけで、振り返らずに部屋を出た。
 ラッツェルは男が部屋から出て行くと、眼鏡を銀色に光らせながら喉の奥で笑った。
 そして、窓から外へと目を向ける。
「保険があるうちに素材が見つかって良かった」
 邪悪な笑みを浮かべたラッツェルの視線は、自らの箱庭であるこの研究施設内に聳え立つ機械仕掛けの塔を捉えていた。

 近づいてくる気配に気づき、ケルベロスは目を開けた。
 あの女だ。
 ゆっくりと近づいてくる。
 無表情で、その瞳は死を司る魔獣を以ってしても背筋に悪寒が走るほどに冷たい。
 女はケルベロスの前で歩を止めた。
 うずくまっていたケルベロスが首をもたげる。
「あの男は?」
 女はケルベロスを見下すように視線を向けてきた。
「(……我が主に用か?)」
「……」
 ケルベロスの問い返しに、女は沈黙で答えた。
 魔獣が不審そうに女の顔を覗き込むが、意に介した様子はない。
 まるで変わらない無表情。
「魔獣よ」
 女が口を開いた。
 だが、それはケルベロスへの返答ではない。
 ケルベロスに呼びかけているが、視線は魔獣を見ていない。
 遠くに見える巨大な機械の塊へと女の視線は注がれていた。
「あの機械は何だ?」
 その機械の塊は、異質な建造物だった。
 厳重に囲いがされ、その全体から何本もの配線が地面に伸びているのが遠目でもわかる。
「(気になるのか?)」
 女はケルベロスに首だけ振り向き、冷たい炎の宿る視線を浴びせた。
 先程の完全な沈黙とは違う反応をケルベロスは肯定と取った。
 他にも機械は数多にあったが、その中でもあの建造物は異彩を放っている。
 女の目に止まり、疑問に思うのも当然だった。
「(あれは哀しき願望の塔。呪縛と呪縛の絡み合うモノ)」
「呪縛……」
「アレはオレのすべてだよ」
 女の呟きに答えるように、後ろから声が飛んできた。
 無表情のまま、女は視線を声のした方へと向ける。
 黒い帽子を被り、くたびれたスーツを着て、煙草を咥えている男が立っていた。
 ケルベロスの主である男だ。
「アレについて知りたいのかい?」
 男は煙草を咥えたまま、器用にしゃべった。
 男を見ている女の瞳が微かに収縮したが、返事はなかった。
 男は構わずに言葉を続けた。
「まあ、アレは目立つからな。だが、近づくのは止すんだな。……アレには人間の欲望が詰まってるからよ」
「良く回る舌だ」
 女は一言だけ男に返した。
 笑みの形に男の唇が歪む。
「悪いな、生まれつき軽薄なもんでね。そうだな、施設内を案内してやろうか、次の仕事まではあんたも暇だろ?」
「必要ない」
 即答。
 そして、女は、もはや眼中にないと言わんばかりに男とケルベロスに背を向け、歩き始めた。
「残念だねェ。デートをしたかったんだが」
 男は目を隠すように帽子を手で目深に押さえ、紫煙を大きく吐いた。
 そして、女の姿が視界から消えると、魔獣を振り返った。
「ケルベロス」
「(何だ?)」
「『アリス』のところへ行ってくる」
「(……わかった)」
 ケルベロスが頷き、うずくまるのを確認して、男はゆっくりと歩き出した。
 指先で吸い殻になりかけている煙草を弾き、粉々に砕く。
 その破片を見つめる男の表情はどことなく陰を帯びていた。

 ラッツェルは一通り資料に目を通して満足そうに頷いた。
「素晴らしい数値ですね。さすがは『織田家』の生き残りです」
 トントンと几帳面に机の上で資料の並びを揃えた。
「これほどの『力』……、金で飼うだけでは惜しい。ぜひとも我が研究の糧にしたいものです」
 ラッツェルが眼鏡の縁を持ち上げて、目の前に立つ男に向かって問いかける。
「あの男はどう反応すると思いますか、セファー」
「彼には従うしか選択肢はないでしょう。そのための保険です」
 セファーと呼ばれた男は、酷薄な笑みを浮かべて答えた。
 ラッツェルと比べると長身で体格も良いが、同じような白衣を身にまとい、同じような眼鏡をかけている。
「仕事自体は気に入るはずもないとは思いますがね」
「くくくっ、『ヒト』とは不自由なものですねェ」
 ラッツェルの瞳が眼鏡の奥で不気味な光を帯びる。
 それに呼応するようにセファーの瞳も鈍い輝きを放つ。
「ゆえに我々の研究には価値があるのでしょう、所長」
「その通りです。研究が完成すれば、我らは『ヒト』を捨てることができる」
「あの男にすぐに命令を伝えますか?」
「いいえ、もう少しの間は妖魔退治をして頂きましょう。データの蓄積は大切ですからね」

 そこには寒々とした空気が張り詰めていた。
 まるで一昔前の映像のような、白と黒の二色で覆われた空間だった。
 そこに色を持つ存在が足を踏み入れる。
「『アリス』……」
 男は酷く悲しそうな瞳で、白黒の世界の奥にある、やはり、白と黒の二色で構成された機械装置を見つめる。
 その装置の内部には、男と同じように、色を持った存在がいた。
 男よりも少し年下の少女だった。
 その目は固く閉じられ、身体中にはチューブを付けられていた。
 そして、口元はマスクで覆われている。
 それらのすべてが、少女の命を繋ぐ大切な器具であった。
「『アリス』……」
 男はもう一度少女の名を呼んだ。
 だが、少女に反応はない。
 男は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
 そして、再び目を開いて、少女の顔を見つめる。
 少女は変わらず目を閉じたままだ。
 微かに動く喉と胸が、少女は死んでいないと主張しているだけだった。

 女はベンチに腰掛け、黒金の鞘を抱えたまま、浅い眠りについていた。
 美しい寝顔であったが、その全身から醸し出される殺気は衰えることなく、周囲の空気を蝕んでいる。

 瞼の裏では、一人の男が刀を振るっている姿が映し出されていた。
 雄大な雰囲気を持った背の高い男。
 天を突くことができるような剛腕、地を砕いてしまいそうな剛脚。
 しかし、その鬼のような風貌とは裏腹に、知的で穏やかな双眸。
 男は、女の父親だった。
 父親が無心に木刀で素振りを続けているのを、娘は切り株に腰掛けて眺めていた。
 病弱で身体の弱い彼女は、いつも父親と彼女の妹の稽古を眺めているだけだった。
 その妹は今は友人と遠出をしていて家にはいない。
 ふと、娘が口を開いた。
「お父さまはなぜ剣を振るうのです?」
「どうした、急に?」
 素振りを止めて、父親が娘を振り向く。
 娘が修練の最中に声をかけてくるのは珍しかった。
 だから、父親の顔には不審というよりも、娘の問い掛けに興味を引かれたというような表情が浮かんでいた。
「戦うことは不幸です。人を傷つけ、自分も傷つきます」
 か細い声で娘が父親に言う。
 男は娘の意見を肯定するように力強く頷いた。
「おまえは本当に優しい娘だ」
 父親は我が娘を愛おしそうに見つめる。
「剣を振るわずに済むならそれが一番だろう。だが、罪無き人が傷つこうとしていて、剣を振るうことによって、その者が傷つくことを防げるとしたら?」
 その時は躊躇なく持てる力のすべてを振るうだろう。
 父は目でそう語った。
 娘は父の言いたいことを理解し、哀しげに頷いた。
「どうしても剣を振るわねばならない時があるのですね」
「ああ。だが、おまえはその優しい心を大切にしなさい。その想いがなければ、いくら強くなっても何も救えない」
「私は強くなんてなれません。剣術も武術も怖くて」
 首を横に振る娘の肩に、父親はその大きな手を置いた。
 力強く暖かい感触。
「……そろそろ中に入ろう。病み上がりに夜風は良くないだろう」
 父親は娘の手を取り立ち上がらせると、その細い身体を抱きしめながら家路に着いた。
 突然、目の前が暗くなる。
 父親の姿が遠くなる。
 身を包む冷たい空気が暖かかった感触を消し去る。
 淀んだ空気が意識の周囲に戻ってくる。

 女は双眸をゆっくりと開いた。
「優しさだけでは何も守れはしない」
 掠れた声で女は小さく呟いた。
 そして、暗い眼差しで鞘を握り直して、それを睨みつける。
「『力』だ……、『力』こそが……」
 と、女の表情が変わった。
「うくっ……」
 左胸を押さえ、苦悶に顔を歪める。
 心臓に錐を突き立てられたように、ただの呼吸でさえも激痛が伴う。
 喉を突いて出た咳には、微かな量の真紅が混じっていた。
「くっ……」
 女は手のひらを濡らした吐血を睨みつける。
 気がつけば、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
「よぅ」
「――!?」
 背後から声をかけられて、女の瞳孔が収縮した。
 不覚にも発作のせいでまったく気配を感じることができなかった。
 声の主から隠すように自らの血に濡れた手のひらを握り締める。
 息を無理矢理に整え、平静を装う。
 そして、鋭い眼差しで声の主へと首を廻らせる。
「……貴様か」
「つれないねェ」
 ケルベロスの主の男だ。
 だが、傍に魔獣の姿はない。
 男の変わらぬ気安い口調から察するに、どうやら女の発作は見られていなかったようだ。
 だが、さすがに男も然るもの。
 すぐに女の異様な雰囲気を察した。
「ん、どうした?」
「……」
「顔が真っ青じゃねェか」
「……」
 女は何も答えない。
「汗も酷いな。息も荒いようだが?」
「……」
「そういえば、さっきの咳はあまり良い感じがしな……」
「相変わらず、よく喋る」
 男の言葉を遮った女の声はどこまでも冷たかった。
「生まれつきだって言ったろ」
「耳障りだ。消えろ」
「手厳しいヤツだな。悪かったよ、すぐ消えるよ。っと、その前に……」
 男は肩をすくめると、懐から巾着袋を取り出し、それを女に放り投げた。
「こいつを使いな。少しは楽になるぜ」
「何だ、これは?」
 渡された巾着袋を見て、女の顔に怪訝な表情が浮かぶ。
「薬だよ」
「……」
「やばいクスリじゃねェって。ちゃんとした薬さ。特に胸の傷病には良く効くぜ」
 男が自分の心臓の辺りを指で叩く。
 それを見て、女の視線が一層厳しくなった。
「おっと、そう怖い顔で睨むなって。ほら、おしゃべり男は退散するぜ。じゃあな」
 男は苦笑を浮かべ、ひらひらと手を振りながら、その場を去った。
「……」
 女は男の姿が消えた後、渡された巾着袋を睨みつけていたが、しばらくして、その巾着を開いた。
 ニ十粒近い丸薬が入っているようだ。
 そのうちの一粒を手のひらに取る。
 そして、また、しばらくの間、その丸薬を見つめる。
 やがて、大きく息を吐き、女はゆっくりとそれを口に運んだ。
 まだ残っていた胸の痛みが薄れていくように感じた。
 完全に痛みが消えたわけではないが、呼吸をするのに差し支えないくらいには楽になった。
「……」
 女はギュッと巾着袋を握り締めた。
 巾着袋には『Alice』という名が刺繍されていた。


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