R & B
其の十一 連携


 ディードリッヒの部下に標的を過小評価するほど、経験の少ない者、軽々しい者、或いは慢心している者などいなかった。
 にもかかわらず、結果は散々たるものになった。
 理由は単純にして明快。
 神のチカラは、強大である。
 ただ、それだけだ。

 "闇を纏いし光の神"バルドルは、結果として、その場を一歩も動かなかった。
 移動すらせずに、ディードリッヒの部隊を壊滅させたのだ。
 最初に光の神に攻撃を行なったのは、"太陽と三日月の暗黒竜"クロウ・クルワッハの心臓を槍で貫いてとどめを刺した勇敢な若者だった。
 微動だにしない神に対して、雄叫びを上げながら若者が槍を突き出す。
 鋭利な槍先が神の胸に到達し、肉を突き破った。
 そう見えた。
 だが、結果は若者の予想ではなかった。
 闇が、虚無感が、若者の脳裏をかすめる。
 時空が捻じ曲がったかのような静謐の後、若者の背から、槍先が飛び出していた。
 正確には、槍先の形をしたエネルギーが、若者の胸板から背まで貫いていた。
 本物の槍は、確かに神の胸に突き刺さった。
 はずだった。
 しかし、槍の一撃が実際に貫いたのたのは、若者の肉体だった。
 ラーン・エギルセルがバルドルの腕を水流の刃で切り落とそうとして己の腕を切り飛ばされ、光の神の胸を馬上槍で貫こうとして己の胸を貫かれたのと同じ結果であり、雷光の矢を無数に放ったシルビアが、その矢によって自身の身体を刺され、焼かれたのと同じ結果だったが、彼女たちが瀕死になってから到着した彼には知る由もないことだった。
 血を噴き出す胸の穴を信じられないというような目で見つめながら、若者は衝撃で後方に吹き飛ばされ、床に倒れると動かなくなった。
 部隊の仲間が、ひとりが倒れた。
 それで怯むような者は、ディードリッヒの部隊にはいない。
 ひとりが倒れれば、そのものを囮に、別の者が致命傷を受ければ、そのものを盾にしてでも、標的へと突き進む。
 彼らは、それだけの精神力と意志力を持ち合わせている。
 見捨てるのではない。
 意志を継ぎ、任務を遂行するのだ。
 それが弔いなのだ。
 現に、若者が自身の流した血の海に沈む間に、別の二名がバルドルへと挑んでいた。
 一人は銀色の髪を短く刈り込んだ浅黒い肌の男、もう一人は黒髪を逆立てた長身の男だった。
 彼らの武器は、若者の『槍』よりも、現代的な『突撃銃(アサルトライフル)』だった。
 もちろん、退魔の術の込められた特別製のものだ。
 二人の突撃銃が弾丸を吐き出す唸りを上げる。
 パパパパパパッ!
 光り輝く神を取り巻く闇へ、無数の銃弾が突き刺さっていく。
 そう見えた。
 だが、倒れたのは、突撃銃で銃撃した二人の方だった。
 身体中に弾丸がめり込み、血飛沫を上げて倒れていく。
 自分たちの身に何が起こったのかも理解できないという表情で。
「神か」
 そう呟いたのは、ディードリッヒの部隊でも古参の男だった。
 アメリカ合衆国のハワイ州の出身の男で、恵まれた体格を活かして日本の角界で活躍した時期もあったが、思うところあって、『ヴィーグリーズ』に身を投じた。
 彼の武器は『槍』でもなく『銃器』でもなかった。
 生れ持った己の腕力と、絶え間なき訓練によって磨き上げられた無手の暗殺術。
「攻撃を跳ね返すようだが、オレの腕力はそうはいくまい」
 犠牲になった三人の同僚のおかげで、目の前に佇む神が攻撃をことごとく返してくることを、古参の男は理解していた。
 槍で貫こうとした若者は槍に胸を貫かれ、突撃銃で応戦した二人は己が放った無数の銃弾に倒れた。
 だが、腕力ならば、返すことなどできまい。
 殴れば衝撃が返ってくるかもしれない。
 しかし、直接触れる締め技ならば――。
 バルドルは右手に漆黒の剣を持っているし、神話の主神級の存在だけに他の特殊な能力も持っているだろう。
 特に飛び道具に注意しながら、古参の男が油断なくバルドルとの間合いを狭める。
 その時だった。
 古参の男よりも若い男が二人、バルドルへ左右から躍りかかった。
 一人はサバイバルナイフ、もう一人はショットガンを手にしていた。
 年若の二人も神が攻撃を跳ね返すのは見ていたし、理解していた。
 サバイバルナイフで神の首を切り裂こうとした男は頸動脈を切り裂かれ、ショットガンを撃った男は腹に大穴をあけて絶命した。
 それは二人が古参の男を、光の神へ近づけるための援護だった。
 古参の男はバルドルの後ろに回り込んでいた。
 その丸太よりも太い腕が、光の神の細い首に絡みつく。
 七色に一筋の漆黒を銜えた髪が揺れるが、バルドルは完璧なる像のように微動だにせず、佇み続けた。
 古参の男の腕が光明神の首をへし折る。
 へし折れたのは、しかし、古参の男の首の骨だった。
 男の腕は確かに神の首に絡みつきはしたが込めた腕力は闇に吸い込まれ、いつの間にか、男のものにそっくりな眩い光でできた腕が彼の首を締め上げるように出現していた。
 そして、それを伝わってきた自分の腕力で自分の首の骨が砕かれたのだ。
「バカな」
 驚愕に満ちた最期の言葉を血の泡とともに吐き出し、古参の男は生涯に幕を閉じた。
 暗黒竜(クロウ・クルワッハ)すら倒した部隊の歴戦の強者たちが次々と命を散らせていく。
 その現実に、ディードリッヒも顔を蒼ざめさせざるを得ない。
 ――これが、主神級の神格か。
 飲み込む唾は血の味がした。
 部下たちの死に強く噛んだ唇が出血しているらしい。
 無念だが、一度、攻撃を中止させるしかない。
 そうしなければ、犠牲が増えるだけだ。
 ディードリッヒが腕を振り上げる。
 生き残った部下たちが、バルドルへの攻撃を中止する。
 だが、戦乱が中止になるわけではない。
 この超巨大航空母艦『ガルム』の周囲では、ディードリッヒの同僚であるヴェルンドが率いる航空部隊が光と闇の軍勢を相手に激戦を繰り広げている。
 その健闘にも、そして、死んでいった部下たちの遺志にも応えねばならない。
 どうすれば、良い。
 どうすれば、神の領域を打ち破れる。
「……少しだけ休めた」
 一陣の風が舞った。
 霊気の放出。
 ディードリッヒのすぐ近くに巨大な霊気の渦が巻き起こる。
 逆立つ赤毛のツインテール。
 焼け焦げ、ところどころが裂けたボロボロのゴシック・ロリータのスカートの裾が激しく揺れている。
「シルビア・スカジィル!」
 驚きの声を上げるディードリッヒへ、シルビアは睨みつけるような視線だけを向けた。
「ラーンを助けてくれたこと、礼を言うよ。それに、おまえの部下たちの生命で、アタシたちの生命が繋げたことにも」
「まだ動いてはならない。おまえの身体は……」
 シルビアの肉体は拷問を受けていたに等しい状態にある。
 バルドルに跳ね返された無数の雷光の矢を浴び、電流で焼かれ、切断されていたラーンの腕によって全身を殴打されていたのだ。
 現にまだ身体の数か所から黒煙が上がり、裂けた服の合間から見える肌は痣に彩られている。
 それでも愛剣フランベルジュを杖代わりにしつつも、シルビアは揺るぐことなく立っていた。
「自分の身体のことは自分が一番よくワカっている。だけど……」
「主神級を相手にする時は、瀕死の状態になるのは当たり前と考えねばなりません」
 シルビアの言葉を継いだのは、ラーンだった。
 彼女の肉体はシルビア以上に死に瀕している。
 貫かれた胸部の傷から滲み出している血で巻かれた包帯は赤く染まり、結合されたばかりの左腕は使い物にならないことを証明するかのように重力に従って力なく垂れている。
 二人とも立ち上がるだけで精一杯なのは、それぞれの額に浮かぶ苦痛に絞り出されているだろう大量の汗が、如実に語っている。
「しかし、その身体で戦えば、死ぬぞ。傷口も開いているではないか」
「死なないさ。死んでたまるか、じゃなくて、な」
「ええ。死ねないじゃなくて、私たちは死なない」
 死んでたまるか、でも、死ねない、でもなく、死なない。
「まだやりたいことがあるから、死なない」
「まだ会いたい人たちがいるから、死なない」
 事故、病気、その他の原因。
 今の激戦は別としても、突然の死因はある。
 それでも、死なない。
 死んでたまるか、でも、死ねない、でもなく、――死なない。
 口にしたそれは、女神を信奉する巫女の血筋でありながら、「生きる楽しみを、生の謳歌を、神にも、運命にも、踏み躙らせない」と気楽に言ってのける、彼女たちの『友だち』の言い回しだ。
「ラーン」
「お嬢」
 動かぬラーンの右手とシルビアの左手が重なる。
 そして、二人は頷き合うと、一気に駆け出した。
 満身創痍の全身が悲鳴を上げる。
 それでも、生を掴み取るために駆ける。
 ディードリッヒが厳しい表情で二人を追う。
 部下たちにも援護を指示する。
 二人を救うと決めて、彼の部隊はこの場に来たのだ。
 万が一の時は、自分を含めた部隊全員の命に代えてでも二人を逃がす。
 それが、ディードリッヒの決意だった。

 バルドルは相も変わらず無表情のまま、完璧な美しさを少しも崩さず、右手に漆黒の魔剣を、左手に漆黒の愛妻(ナンナ)の心臓を持ち続けた姿勢で、彫像のように立っている。
 光を統べ、闇を統べ、すべてを統べる。
 闇はすべてを飲み込み、光はすべてに放出する。
 人間たちの攻撃など取るに足らない。
 妻たる女神を苦しめた死にぞこないが、また立ち向かってくる。
 己が攻撃で己が身を串刺しにされたのを忘れたのか。
 己が攻撃で己が身を焼かれたのを忘れたのか。
 立ちはだかったニンゲンたちのことごとくが死を迎えたのを見ていなかったのか。
 同じことの繰り返しだ。
 だが、もう次はない。
 創世は始まっているのだ。
 終末は始まっているのだ。
 この世を破壊し、次の世を創造し、導き、そして次の世の原初で妻と再会し、神話をなぞって死なねばならない。
 そしてまた、次の世の終末にて再会を果たすのだ。
 短きゆえに永遠に続く愛のために。
「我は、……光の体現者(バルドル)。戦と魔術を司る至高神(オーディン)より生れ、(ヘズ)を弟とし、(ナンナ)を妻に娶りし、正義(フォルセティ)の親たる存在である。ニンゲンよ、おまえたちが求めてやまぬものすべてを兼ね備える神ぞ。勝てると思うてか?」
 光。
 闇。
 そして、勇と愛と正義。
 すべてを持つ万能なる、――(バルドル)
 盾突くなど不可能。
 だが――。
「ごちゃごちゃ、うっせぇぜ!」
 バルドルの視界で赤いツインテールが旋風を巻き起こした。
 瀕死の肉体を再び超電導化し、華麗な軌道で剣を突き出してくる。
 同時に、青い髪が舞い上がる。
 こちらは大量の水を塊として振り下ろしてくる。
 満身創痍のラーンとシルビアの渾身。
 バルドルは動かない。
 動く必要がない。
 闇が二人の攻撃を包み込み、攻撃エネルギーを吸収する。
 その力を光として放出する。
 それだけだ。
 それだけで、シルビアは己を愛剣と同様のエネルギーで貫かれ、ラーンは水塊に圧殺される。
 バルドルの万色の瞳が無感情に二人を見つめる。
 反撃たる光を解き放つ。
 これで、二人は死ぬ。
 死ななかった。
 闇が光に代わった刹那。
 反射するまでのほんの一瞬の間に、二人の攻撃エネルギーを受け止めた男がいた。
 ディードリッヒ。
 男の胸にフランベルジュの形をした光が突き刺さり、その左肩を光り輝く水塊が圧し潰した。
「ぐうっ……」
 ディードリッヒの呻きと重なった音律があった。
 シュパッという風を切る音。
 超電導化した肉体で限界速度で振われたシルビア・スカジィルの剣の刃が流れる音だった。
 さらにラーンの水流が押し寄せる。
 水流は闇に飲み込まれ、光の激流となって返され、シルビアとラーンとディードリッヒを押し流した。
 だが――。
「……!」
 バルドルの完璧なる美しさが崩れた。
 光の神の白磁の頬に、朱色の線が引かれる。
 シルビア・スカジィルの愛剣が、神の左頬を切り裂いていた。
 バルドルの万色の双眸が、すぅっと細まる。
 光の激流によって壁に叩きつけられたシルビアとラーンは、血を吐きながらも立ち上がった。
 すでに肉体は瀕死、外側も内側も酷くやられている。
 それでも、精気のすべてが結集したかのような両目は輝きを失っていない。
「血が出るのなら」
「殺れる」
「ディードリッヒ」
「サンキュ」
 二人は神に反射された攻撃の盾となった勇敢な男に、感謝の言葉を述べる。
 彼のおかげで、この闇を纏った光の神を傷つける方法を知った。
 最初のシルビアとラーンの攻撃は闇に吸収され、光の解放とともに返ってきた。
 だが、その攻撃が跳ね返されている最中――神が反撃に転じている刹那に放ったシルビアの斬撃はバルドルの肉体をほんのわずかとはいえ切り裂いた。
 その後のラーンの攻撃は闇に吸い込まれ光の奔流としてシルビアたちを押し流した。
 一瞬。
 まさに、刹那。
 バルドルが攻撃を繰り出す時。
 すべてを吸い込んでしまう闇の鎧を脱ぎ、神は捉えることのできる光となる。
 それが見出した甚だ心もとない勝機。
「闇はすべてを吸い込むけれど」
「光として放出する刹那には攻撃が通じる」
 得たものは大きい。
 何しろ今までまったくこちらの攻撃は通じていなかったのだ。
 たかだか薄皮一枚とはいえ、強大な敵を害した。
 それは大きな収穫といえる。
 もちろん、問題もある。
 こちらの攻撃を有効打とするためには、相手の攻撃を誘わねばならない。
 バルドルが闇雲に攻撃を放ってくれれば最高だが、そうはいくまい。
 反撃を引き出すには、こちらも攻撃をしなければならない。
 そして、攻撃すれば、確実に跳ね返ってくる。
 それは受けることはできても、避けることはできないほどの刹那。
 満身創痍の肉体で、耐えられるのか。
「お嬢」
「ラーン、オマエ……」
「お嬢には超電導化がある」
「……」
「バルドルに勝つには、私が盾になるしかないわ」
「……ラーン」
「いや、オレがやろう」
「ディードリッヒ」
「いいえ、あなたでも、お嬢でも、盾役は無理よ。私がやるしかないのよ」
 もっとも重傷を負っているだろうラーンが、しかし、盾役を買って出る。
「お嬢には速さはあっても耐久力がない。ディードリッヒ、あなたにはそもそも私たち以上の戦闘力が無いわ」
「だが、ラーン、おまえの身体は傷つき過ぎている」
「気を遣ってくれるのはありがたいけどね。あなたには違う役割を負ってもらわなくてはならないわ」
「違う役割だと?」
「戦闘能力ではあなたより私たちに分があっても、指揮官としての能力では、私たちはあなたの足下にも及ばない」
 そう言ってラーンは視線を周囲に転じた。
 その先にあるものを見て、ディードリッヒが呻く。
 光と闇の大軍勢。
 その包囲網が狭まってきている。
 散発的に襲撃してくるものは、ディードリッヒの部下が自分の判断で仕留めているものの、徐々に劣勢にありつつある。
「……了解した」
 ディードリッヒが重々しく頷いた。
 自身でもわかっているのだ。
 戦闘力という点では、彼女たちに及ばないことを。
 自分には自分のできる限りの支援を考えなくてはならない。
 それは、生命を顧みずバルドルの攻撃反射からの盾になることではなく、彼女たちが不自由なく戦える環境を維持することだ。
 彼女たちの生還の支援であり、同時に指揮官として部下たちの生還への責任も果たすことでもある。
 ディードリッヒは彼女たちから離れ、己の部下たちへ力強い声を向けた。
「テメーら、雑魚どもを近づけさせるな。負傷者は下がって治癒術の包帯を巻いて来い。ここが正念場だ!」
「ディードリッヒ隊長。指揮官が前線を離れてりゃこうもなりますぜ。まあ、そこが良いトコだがよう。なあ、みんな!」
「まったくだぜ。隊長の指揮がなけりゃ俺らはただの荒くれ者だってんだよ」
「しかし、仲間の仇は『戦女神(ヴァルキリー)』の二人の任せるしかねぇようだ。俺たちの仕事は、踏ん張って、彼女たちが戦いやすくするってことか」
「そうだ。敵に穴を穿たせるんじゃねぇぞ。撃破を優先するな。生命を無駄に捨てるな。壁の展開に、生命を使え」
「おう、死んじまった奴らの分も暴れてやろうぜ」
 苦戦していたディードリッヒの部下たちが生気を取り戻したように雄叫びを上げる。
 超巨大空母の外側から、煌々と光輝くハヤブサが襲いかかってくる。
 ディードリッヒの部下が三人がかりの対空砲火で、光速の飛翔を止める。
 そこへ別の一人が高く跳びあがり、ハヤブサの嘴を蹴り砕いた。
 別の場所では三つ首の竜が口から大量の蟲を吐き出してきた。
 だが、一匹残らず火炎の術式で燃やし尽くされ、三つ首竜の本体にも部下たちの斬撃や銃撃が加えられていく。
 その傷からも瘴気と蟲が溢れ出してくるが、部下たちは身体を張ってそれを内側へは通さない。
 光と闇を司る神々の大軍勢が、矮小な人間たちを相手に苦戦を強いられ、押されていた戦線がまたたく間に五分に引き戻される。
 それは、もちろん、窮鼠(きゅうそ)が猫を噛む程度の抵抗。
 長くは続かない。
 しかし、その健闘を見て、シルビアが血の混じった唾を吐き捨て、眼に雷光を宿す。
「ラーン。アイツらは無数の敵を相手に持ちこたえてくれる。それに比べりゃ、アタシたちの相手は一柱だ」
「しかも、私たちは二人ですものね。二対一、どう考えても、勝てるわね」
 軽口で自分たちを奮い立たせる。
 そして、その軽口を信じる。
 信じきる。
 ラーンが空中に水流を発生させ、全身に侍らせる。
 シルビアを援護するために、少しでも防御力を上げる措置だ。
 そして、苦痛のせいで溢れ出る額の汗を拭い、無理矢理に笑う。
「だけど、私が倒れる前に、バルドルを倒してね」
「あったりまえだ」
 シルビアが愛剣(フランベルジュ)を一振りすると、風が巻き起こった。
 すでに彼女の肉体も神経も超電導化によって強化されている。
 旋風の中を赤髪と青髪が疾走する。
 虹色に黒の一筋を加えた頭髪を持つ神は動じず、今までと同じように、静かに彼女たちを迎え撃った。
 そのバルドルに一閃を放ったのは、シルビア・スカジィルを追うように後を走っていたラーン・エギルセル。
 刃状に発生させた水を、バルドルへと飛ばす。
 彼女が攻撃し、その攻撃の反射を受けている間に、シルビアが攻撃して、バルドルにダメージを与える。
 それが、この戦いの基本なのだ。
 攻撃を跳ね返されるのは、わかっている。
 すぐさまに防御の体勢を取れば、ダメージを軽微にできる。
 だが、ラーンは見極めなければならない。
 バルドルが万が一、反射ではない違う攻撃で、シルビアを狙ってきたら、それもまた身体を張って防がねばならない。
 シルビアを護り、シルビアの攻撃を成功させる。
 それこそが、『盾』の役割。
 バルドルは、ラーンの水の一閃を跳ね返してきた。
 ラーンの攻撃が、そのままラーンへと跳ね返される。
 血飛沫が上がる。
 ラーンの胸が、水の刃に切り裂かれていた。
 しかし、それは予想の範囲内。
 その眼光は衰えない。
 苦痛に汗を滲ませながらも、強く、固く、そして、確信の色が浮かぶ。
 バルドルの右肩。
 そこに傷口が走り、血が吹き出していた。
 傷をつけたのは、もちろん――。
 レロリ。
 返り血を舐める赤い舌。
 愛剣を振り、血の雫を飛ばす。
 その血に劣らない真っ赤なツインテールが、躍る。
 シルビア・スカジィル。
 雷光のような眼差しで、光の神を見据える。
「……」
 バルドルは右肩の傷口を見やり、ついで左頬から流れる血を漆黒の魔剣を握ったままの手の甲で拭った。
「偶然にて、闇が光へ転換する狭間を知り、其を必然とするか」
 その万色の瞳はしかし、揺るがない。
 彫像のように完璧な美しさを持った唇が、無感情で透明な、美しい声音を続ける。
「運命神に抗えるだけのことはある」
 闇に包まれた光の衣を翻し、赤毛の少女へと魔剣を振り下ろす。
 シルビアが受けるよりも前に、ラーンが水の盾を展開して一撃を遮った。
 そして、魔剣『ミスティルテイン』を渾身の力で押し返す。
 息吐く暇もなく、ラーンは水の盾を馬上槍(ランス)へと変形させ、突きを繰り出す。
 バルドルは無論、避けようともしない。
 光の神の胸板を貫くはずの一撃が、そのまま、ラーンへと還ってくる。
 胸に突き刺さる衝撃によろめきながらも、ラーンはシルビアが愛剣でバルドルの脇腹を切り裂いたのを視界で捉え、飛びそうになる意識を引き戻し、気力を奮い立たせる。
 シルビアもまた、ラーンの援護によって、バルドルを害する攻撃を放ったことに自信を深め、己を鼓舞する。
 ラーンが自身が傷つくのを(いと)わずに盾となり、シルビアが刃となる。
 二人はまさに一心同体と称するに値するような連携で、バルドルへ攻撃を続けていった。
 ラーンの肉体に無数の傷が刻まれ、それよりも深い無数の攻撃がバルドルの肉体を破壊していく。
 しかし、バルドルは全身から血を流しながらも、神像の表情のまま、虫けらを見るような目を二人に向ける。
「我を傷つけたことは褒めてやろう。だが、無駄なことだ」
 バルドルが紡いだ言葉とともに起こった現象は、二人に衝撃を与えるに十分だった。
 光の神の全身の傷が一瞬で塞がったのだ。
 驚くべき再生力だった。
 闇に包まれた光の衣にも避け目一つなくなり、バルドルは完璧な美しさを取り戻していた。
 それに対して、ラーンの傷つき過ぎた身体と、シルビアの超電導化した肉体の限界は近い。
「再生……」
「バケモノめ」
 しかし、二人は打ちひしがれているままでは、いられない。
 否、そのままでは、――いない。
 再生するなら。
 再生力を上回る攻撃をすれば良い。
 その単純だが、困難な答えを二人はあっさりと受け入れていた。
 ラーンが、シルビアに声をかける。
「お嬢」
「どうした、ラーン。そろそろくたばりそうか? それなら、攻守変わるか?」
「実際、死にそうだけどね。お嬢に任せるしかないのよ」
「……任せられるのも、キツいんだぜ」
「知ってるわ」
「ソレで?」
「お嬢、北欧神話でも、バルドルは誰にも傷つけられないという契約を結ぼうとしていたことを知ってる?」
「アタシはソレほど詳しくない。でも、その神話背景で、攻撃反射と再生力なら、頷けつるってモンだ。ムカツクけどよ」
「でも、バルドルは殺された。弟神ヘズの投げた『ヤドリギ(ミスティルテイン)』によってね」
 北欧神話において、バルドルは神々の中でもっとも美しく万人に愛されだという。
 そして、父神オーディンの妻たる母フリッグは、万物に彼を傷つけないよう契約させた。
 そのため、どのような存在でもバルドルを傷つけることはできなくなったが、実際は、『ヤドリギ』だけは若すぎて契約ができていなかった。
 傷つくことのなくなったバルドルを祝って、神々はバルドルに様々なものを投げつけるという遊びを行なった、
 だが、邪神を抱いた神ロキは、盲目のために楽に参加できないでいたバルドルの弟ヘズをたぶらかし、『ヤドリギ(ミスティルテイン)』をバルドルへ投げさせた。
 ミスティルテインに身体を貫かれたバルドルは死んでしまった。
 そして、これがきっかけで大いなる冬(フィンブルヴェト)が訪れ、神々の黄昏(ラグナロク)が始まったという。
「……なるほどナ」
 シルビアは血を滴らせている唇の端を吊り上げた。
「ラーン」
「お嬢?」
「アタシたちの師匠が、……シンマラが、日本で名乗っていた名前を覚えてるか?」
「豊玉 真冬」
「そう、真冬さ。真冬(フィンブルヴェト)
「……大いなる冬(フィンブルヴェト)
「ハハッ、イケるだろ。アリガタい師を持ったことだゼ」
 シルビアがラーンへと囁く。
「次で決める。アイツの『ミスティルテイン』を奪って心臓に突き立ててヤる」
「……わかったわ」
 ラーンが深く頷く。
 バルドルの再生力を鑑みれば、致命の一撃を叩き込むことでしか、倒すことはできないだろう。
 すでに、ラーンの肉体へのダメージの蓄積は重く、意識は気力と意志力で保っているようなものだ。
 バルドルの死角に回り込むために休むことなく動き続けているシルビアの呼吸も荒い。
 だが、勝機といえるかどうかわからないが、つけいる隙のようなものはある。
 絶対的な防御を誇るがゆえに、バルドルは、ほとんど動かない。
 攻撃を避けることをせず、守りの姿勢も見せず、その肉体で受ける。
 このバルドルに対して、単純に腕を狙ったとしても、魔剣を奪うことは困難の極みだ。
 しかし、容易ではないが、一縷の希望が無いわけではない。
 絶対的な防御。
 それこそが、バルドルの隙。
 光の神は人間を虫けら程度にしか認識していない。
 端から敗北などという単語は、彼の心にはない。
 もともと至高の座に昇ろうという存在なのだ。
 傲岸でないはずがない。
 不遜でないはずがない。
 ゆえに、慢心がある。
 絶対の防御への慢心は、闇と光の狭間を突く程度では揺るがない。
 今、垣間見せた驚異的な再生力で塞がらぬほどの傷など受けようはずもないからだ。
 そこを押し切る。
 捨て身の行動となるだろう。
 だが、シルビアにもラーンにもためらいは微塵もない。
 動いたのは、盾役のラーン・エギルセル。
 フェイクのない、ダイレクトアタック。
 水の刃で、バルドルの右腕を斬り落とそうとする。
 反射を受ければ、自分自身の腕が斬り飛ばされる。
 一度体験した激痛と喪失をもう一度味わうことになる。
 しかし、恐れはない。
 斬撃が闇に吸い込まれ、光の放射へ変換される刹那。
 シルビアの愛剣が舞う。
 電光石火の一撃が、ラーンの狙った箇所と寸分違わぬ位置へ振り下ろされる。
 今までバルドルの死角を突いてきたシルビアの、あえての真正面からの斬撃。
 ラーンの腕に赤い筋が入り始める。
 同時に、鮮血が泉のように湧き出した。
 魔剣の突き刺さったシルビアの右胸から。
 バルドルは読んでいた。
 魔剣を、赤毛の少女の右肺へと貫き通す。
 ごふりっ。
 吐血をしながらも、シルビアは引かなかった。
 より深く魔剣を胸に抉り込ませるように、前に出る。
 臓腑を抉られるが、退く気などない。
 そして、電撃。
 バルドルには通じない。
 闇に吸い取られ、眩い光を帯びた電熱が、魔剣を通してシルビアの体内へと跳ね返される。
 だが。
 だが、しかし。
 シルビアの電撃が、体内を焼く光へと変換される間に、さらなる一撃。
 ラーン・エギルセル。
 先程反射された斬撃で千切れかけている右腕に大量の水を収束し、大槌をバルドルの右腕へと振り下ろした。
 シルビアの胸に突き刺さったまま、魔剣はバルドルの手を離れた。
 完全なる神が、怒涛の攻撃によろめく。
「今だ」
 薄れる意識の中で、シルビアは懸命に血の滴り続ける唇を動かした。
「引き抜いて、突き通せ」
「お嬢!」
 ラーンが、その間に、魔剣の柄に手をかける。
 そして、引き抜く。
 最愛の相棒の胸から吹き出す鮮血が、ラーンの身体を濡らす。
 それはしかし、二人にとって連携だった。
 シルビアは己の胸に魔剣が突き刺さった時、激痛の中で、盾となることに決めた。
 寸刻のずれもなく、ラーンは自分が剣の役割を託されたことを理解した。
 以心伝心。
 闇が情報を集積も速く、光が情報を伝えるよりも速い、心と心の伝達。
 それが、魔剣をラーンの手にもたらしていた。
 仕上げがある。
 このまま魔剣で攻撃しても、反射されるだけだ。
 右肺を貫かれ、体内を電熱で嬲られた赤毛の相棒に、もう一働(ひとはたら)きしてもらわねば、ラーンは魔剣でバルドルの心臓を貫くことができない。
 だが、シルビアはもうボロボロだった。
 右肺損傷が切っ掛けになってしまったのか、超電導化が切れてしまっている。
 それでも、バルドルが体勢を立て直しつつあるのを見て、歯を食いしばった。
 神は千年の愛を続けることはできても、一日の生のために歯を食いしばったことなどないだろう。
 唇を噛み切るほどに、生きたいという想いを味わったことなどないだろう。
 この世界に執着がないから、簡単に壊すだの、創造だのというのだろう。
 それだけでも、神をぶっ殺す理由になる。
 シルビアの唇の端が邪悪に歪み、最大級の電撃がバルドルへ叩きつけられる。
 もちろん、それは、闇に吸い込まれ、――跳ね返り、――シルビアを電熱による激痛地獄へと落とした。
 だが。
 魔剣がまっすぐに突き出される。
 ――ずぶり。
 ラーンの握った『漆黒の魔剣(ミスティルテイン)』の刃が、バルドルの胸を深々と抉り込んでいく。
 闇を纏った光の衣に包まれた白磁の肉体。
 その胸を貫き、背から魔剣の切っ先が顔を見せる。
 感触が伝えていた。
 魔剣の通った途中に、確かに存ったことを。
 神の心臓が。
 
 奪われた魔剣で心臓を貫かれたはずのバルドルはしかし、平然としていた。
「がっ……はっ……ァァ……ごふッ!」
 血を吐いたのは、ラーン・エギルセルの方だった。
 彼女のほっそりとした腹部に、魔剣を失ったバルドルの拳がカウンターの勢いを得て深々とめり込んでいた。
 神の拳の破壊力を物語るように、身体を突き抜けた衝撃によって衣服の背中の生地が破れ飛ぶ。
 同時に真っ赤な血が、背と胸から吹き出す。
 先刻、胸に開けられた穴が開いたのだろう。
 ラーンの意識が飛びかかっているのは、遠目にもわかった。
 それでも、尚、その手で握った『漆黒の魔剣』を手放さないラーンの執念は、長年相棒をしているシルビアでも驚かされた。
 だが、それも、長くは保てないだろう。
 すぐに助けに行かねば。
 即断したシルビアだったが、喉の奥からせり上がってきた吐血が彼女の迅速な行動を阻害する。
 貫通傷を負った右肺の機能が著しく低下している。
 呼吸を塞がれ、咽込んで、床に膝をついた。
 そのシルビアの目に、バルドルが魔剣を失った右手をラーンへ向けているのが映った。
 バルドルの右手には光と闇のチカラが等分に渦巻いている。
 瀕死のラーンへ叩き込むつもりなのだろう。
 もちろん、直撃すれば死を免れることはできない。
 ――その時だった。
 どこからか飛来した衝撃波が、ラーンを彼女が握り締め続けている『ミスティルテイン』ごと、弾き飛ばした。
「ラーン!」
 シルビアが悲痛な叫びを上げるが、脳裏に理解と疑問が()ぎる。
 今の衝撃波でラーンは弾き飛ばされたが、次に来ただろうバルドルによる致命の一撃からは救われた。
 バルドルからの攻撃ではない。
「遅くなってすまんな。ひどく苦戦しているようだが、しかし、それも、当然か。どうやら、主神級がお出ましというところか」
 力強い声は、後ろから聞こえてきた。
「ジーク!」
 膨大な熱量を放つ筋肉を持つ巨漢の戦士の姿があった。
 その肉体には、シルビアやラーンと同じく治癒の霊力が込められた包帯が巻かれてはいたが、"鋼鉄"の二つ名の印象は(いささ)かも色褪せてはいない。
 


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