R & B
其の十二 死闘


 ラーン・エギルセルは、自分を吹き飛ばした者が、『ヴィーグリーズ』が誇る歴戦の勇者たるジークだと知って、頼もしさを感じずにはいられなかった。
 しかし、同時に、彼の存在が、この戦いの優劣に変化を生じさせるとは思わなかった。
 なぜならば、敵対するバルドルは――"神"である。
 そして、"この世界の破壊者"でもあり、"次の世界の創造主"でもある。
 想像を絶する強さを持つ――陳腐過ぎるその表現すら陳腐に思えぬほどの存在なのだ。
 自分と、お嬢(シルビア)お嬢が生命を懸けた一撃は、確かに光の神(バルドル)の心臓を貫いた。
 にもかかわらず、バルドルは死なない。
 重大なダメージさえ受けた形跡も感じられない。
 それどころか、恐るべき再生力を発揮して、ほぼ無傷の状態を保っている。
 強大。
 不可侵。
 まさに、その存在は……。
 ――神。

 しかし、と、ラーンは荒い息のまま、立ち上がる。
 そして、思考を続ける。

 眩過ぎる光は、直視できない。
 昏過ぎる闇は、何も見えない。
 強過ぎる正義は邪悪と変わりなく、深すぎる愛は憎しみと大差ない。
 ゆえに、すべてを備えた『完全なる神』の後など、誰も追おうとは思わない。
 その証拠に、バルドルの信仰は廃れた。
 神話の主神オーディンの長子という存在でありながら、謎のままの神格となってしまったのだ。

 廃れるには廃れるだけの理由がすべからず存在する。
 バルドルは神話の主神格であっても、"望まれぬ神"なのだ。
 神は信仰を集めてこそ、神。
 人々の心の安寧に寄与してこその、存在価値。
 バルドルには、それが、ない。
 如何にバルドルが君臨する『次の世界』が素晴らしいものであったとしても、『現世』に生きるものには『現世』をより良くするために足掻き、生きていくことこそ、重要なのだ。
 バルドルという神は、過激な表現を持ちうるなら、"必要のない神"なのだ。

「あれが大敵か」
 確認するように問うたジークに、ラーンが神から奪った『漆黒の魔剣(ミスティルテイン)』を杖代わりにして、体力の激しい消耗のせいでよろめく身体を支え、立ち上がる。
 そして、吐血に噎せ返りながらも頷く。
「え、ええ、……北欧神話の光の神バルドルよ。それにしても、手荒いわね」
「咄嗟に思いついたのが、今の手しか思いつかなくてな」
「フン、脳筋に手加減を求める方が無理なのはわかってるがな。ラーンを救ってくれたことには感謝するぜ」
 ラーンと同じように血の混じった咳をしながらも、シルビア・スカジィルは跳び退ってバルドルから間合いを取る。
 彼女も、魔剣で貫かれた胸から鮮血が流れ落ち続けており、瀕死にも等しい状態だ。
 ジークは光の神の動きに注意を払いながら、二人を庇うように彼女たちの前に立った。
「ナンナ・フォン・ブレイザブリクはどうした?」
 ――この騒乱の首魁はどこにいるのか。
 それは当然の疑問だ。
 急進派の領袖ナンナ・フォン・ブレイザブリクこそ、自分たちの倒すべき敵であるはずだった。
 さまざまな想いはあったにせよ、ハーゲンはナンナへの義理に散り、ベオはナンナへの義務に殉じた。
 ナンナのもとで栄達しようとしていたグレンデルは、利用されて死に、屍さえも酷使された。
 ブレイザブリク派の兵士たちも、多くが傷つき、命を落とした。
 味方もまた、ディードリッヒの部下たちをはじめとしていく人もの犠牲者を出し、今もなお生命の危機に陥っている者もいるのだ。
「ナンナ・フォン・ブレイザブリクは、亡くなったわ」
 ラーンは深いため息を吐いた。
 ナンナは、死んだ。
 ラーンとシルビアの目の前で。
 ただただ、偏愛のために。
 ただただ、利己的に。
 争乱の責任など、どうでも良いというように。 
 ナンナの身勝手さを再確認し、バルドルとの戦いで熱していた精神が急激に冷やされていく。
「その身を生贄として、バルドルを復活させたわ。もうこの世には……」
 そこまで口にして、ラーンは表情を変えた。
「……ッ!」
 ――冷やされた精神が気づかせたものか。
 ナンナはこの世にはいない。
 亡くなった。
 確かに。
 自らの胸を漆黒の魔剣『ミスティルテイン』で切り裂き、生命の源たる心臓を抉り出して。
 だが。
 では。
 『アレ』は、何だ?
 バルドルの左手の上で、未だに鼓動を続けている『アレ』は。

「――どうした?」
 ラーンの様子を訝しんでジークが声をかける。
 彼は生来、単純だった。
 それに先の日本での戦いまで、彼は『戦うこと』と自身の鍛錬だけを目的に生きてきたこともあって、過酷な戦場も何度も経験し、理不尽な戦いに自ら首を突っ込むこともしている。
 ナンナは死んだ。
 そして、倒すべき首魁がバルドルという目の前の優男の姿をした神に変わった。
 それをラーンの答えから彼は理解し、納得もしている。
 ラーンも今まで辛酸を舐めたことなどいくらでもあるだろう。
 以前、ファーブニル老人に聞いた話では、欧州の闇の最深部を支配していた大勢力『グラム家』にさえ匹敵するといわれた『エギルセル家』の本家筋の出身で、ドス黒い社会の中で生きてきたという。
 『ヴィーグリーズ』で戦闘幹部という地位を得てからも幾度も政変や暗殺にも関わってきたこともあり、それほど甘い性格ではないはずだ。
 人によっては革命家と称えられ、他方の味方をする者からはテロリストと蔑まれるような生き方をしてきた。
 必要とあれば、躊躇わずに人を殺せるだろう。
 だが、と、思う。
 それは、必要とあれば、という前提があってこそだ。
 そういう意味では、ミリア・レインバックに、ロマンチストと揶揄されたシンマラという彼女の師の影響は根深く、ラーンに息づいている。
 達観していても、戦争の、しかも、戦争を始めた張本人は責任も取らずに死んだという事実に、嫌悪感を(いだ)くのも無理からぬことだろう。
 もちろん、ジークも、そういうドロドロとした世界観は嫌いだ。
 だが、ジークの場合のそれは、ラーンの(いだ)くそれよりも浅く、性格的な好悪に属するだけのものだった。
 もっとも、だからといって、他者のために拳を振るうと誓った今は、ラーンの微妙な変化に不審を抱くのは当然の役目でもある。
「ラーンよ、気になることでもあるのか」
「ジーク。バルドルは、とてつもなく強大なチカラを持っています」
 ラーンが、これまでのことを淡々と、そして、要点だけを掻い摘んで語り出す。
 ベオとの戦いと、彼の死に様。
 急進派の領袖たるナンナ・フォン・ブレイザブリクの最期。
 光の神の復活。
 ディードリッヒと彼の部下たちの援軍。
 バルドルの――光と闇を併せ持ち、攻撃を吸収し跳ね返すチカラ。
 そして、神を害する方法を見つけ、『漆黒の魔剣』を奪いはしたが、致命傷を与えるには至らなかったことを。
「到底敵わぬ相手と思っているのか」
 ジークが確認するように問うと、ラーンは静かに首を横に振った。
「長年、……長年研鑽してきました。そして、幾度も命を懸けた戦いを潜り抜けてきました。強大とはいえ、顕現しただけの"信仰の廃れた神"などには負けるつもりはありません」
 バルドルは一時は隆盛を誇っても、今では受け入れられていない神。
 未来の存在でありながら、過去に生き続けている神。
 如何に強大とはいえ、過去を清算できぬモノに負ける気はない。
「そうか。ならば、良い」
「だが」
 シルビアが唇から滴る血を拭いながら、悪態を吐くように言う。
「バルドルは死なねェ。心臓を貫いたはずなのに、死なねェ」
「確か、バルドルは一度死んで生き返る神だろう。不死者の王(ノーライフキング)のような高等な不死者(アンデッド)と同じような性質を持っているのではないか?」
 不死者の王――ノーライフキング。
 闇の貴族たる吸血鬼(ヴァンパイア)さえも束ねる不死者(アンデッド)たちの王であり、強大な魔力と膨大な知識で自ら不死者に転生した黒衣の屍王(リッチ)とも同一される、究極の不死者だ。
 バルドルが不死者の王ならば、強大なチカラを持ち、心臓を串刺しにしても死なないことにも説明がつく。
「そうかもしれねェが、そうだとして、どうするってンだよ。不死者どもを倒すには、動けなくなるほどにバラバラにするか、『神の奇跡』かってのが、お約束だろ。あの攻撃を吸収反射するクソ神をバラバラにするってのは無理だし、神に向かって『神の奇跡』ってのは笑い話にも……ごほっ……!」
 魔剣に貫かれた右肺の損傷が酷いのに長くしゃべったせいか、シルビアは再び血を吐いた。
 シルビアの問いは単純だが、無視できるものではない。
 相手が『不死者の王』だろうと、本物の『神』だろうと、重要なのは勝てるか勝てないかということだけなのだ。
「お嬢!」
 ラーンがシルビアを支えるが、彼女とて顔色は蒼白だ。
 先にバルドルの放った拳を腹部に受け、内臓を酷く損傷している。
「……くっ、はっ、……ダ、ダイジョウブだ。でも、マジでどうする? 時間もナイぜ?」
「うん、私たちには体力も霊力も残されていないものね」
 ラーンも自身の力も、これ以上、バルドルを相手に戦うことのできる時間が長くはないことを認識していた。
 時間とはすなわち、生命の力を発揮できる――生きて動くことのできる――時間。
 それが、彼女たちには幾許(いくばく)かも残されていない。
 しかし、彼女には、ラーン・エギルセルには、最後の光明がある。
「心臓を貫くのよ――」
「……ラーン」
 ジークが不審そうに、ラーンを見た。
「それは、通用しなかったと、シルビアが今しがた言ったではないか」
 先程からのやり取りには、正気を失っているような気配はなかったが、彼女が極度に疲弊しているのは確かで、多少おかしなことをことを口走っても、不思議な状況ではない。
 だが、ラーンの両目は正常の輝きと、強い意志の力を失ってはいなかった。
「心臓といっても、バルドルの手の上で鼓動している『心臓』よ」
 ラーンの示す、――『心臓(ソレ)』。
 その『心臓』は、バルドルの『心臓』ではない。
 ()の神を愛し、多くの生命(いのち)と、その身を生贄に捧げた女性の『心臓(ソレ)』。
 ナンナ・フォン・ブレイザブリクの――『心臓』。
 それは確かに、鼓動を続けている。
 亡くなったはずの、ナンナの心臓が、未だに鼓動を続けている。
「でも、アレは、ナンナの心臓じゃないか?」
「もちろん、全然的外れかもしれない」
 "神"たるバルドルは、真に不死なのかもしれない。
 不死でなかったとしても、悪魔――堕天使とも呼ばれる彼ら――がそうであるように、神の(コア)は心臓とは別にあるのかもしれない。
 しかし。
 それでも。
「……亡くなったはずのナンナの心臓が鼓動していることには何か意味がある。バルドルの力の一端を担っているだけかもしれないけれど」
「……だが、一端は担ってるかもしれねェワケだ」
 ラーンの言葉に、シルビアは力強く頷いた。
 弱点ではないとしても、死んだはずの存在の心臓が鼓動していることには何らかの意味があるはず。
 シルビアにはそれでも十分だった。
 ただでさえ、今、自分たちは、神に手も足も出ない逼塞した状態なのだから。
 相棒の推察には、少なくとも現状を打破するための価値を見出すことができる。
「バルドルは光の神。そして、あの心臓からは闇が溢れ出してる。ヤってみる価値はありだな」
「でも、無駄に終わるかもしれない」
「さっきだってイケると思って、無駄に終わった。無駄な結果が増えても、死なない限り、戦える」
「でも、今度も命懸けになるわ」
「をいをい、アタシは今でも死にそうだってンだよ」
「それも、そうね。私もそうだわ」
「ラーン」
「何?」
「アタシは命を賭した戦いで負けたことはない。当然だけどね」
「私も、よ。……やるのね、お嬢?」
「あったりまえだっての!」
「ジーク。あなたは降りても良いわよ」
「今さら、オレに降りるか問うとは。その程度の覚悟で命懸けというつもりなのか?」
 雄大な肉体をした精悍な若者が、二人に言う。
 戦に生き、戦に死ぬ、それは戦士としての本懐。
 ジークはそう思って生きてきたのだ。
 分が良いか、悪いか、それは、彼にとって問題ではない。
 挑戦することをやめることだけを避けられれば良いのだ。
 そして、彼には自分自身に課した制約もある。
 それは、『他者を守る』という誓いだ。
「盾は、このオレに任せろ。おまえらは、思う存分、そのチカラを叩き込んでやれ」
「攻撃を反射されるってコトを理解してンのか、脳筋野郎?」
「おまえたちよりは頑丈さには自信がある。もっとも、オレも心臓を貫かれれば、さすがに死ぬだろうがな。だが、おまえたちに期待してやろうというんだ」
「最後の一撃を間髪いれずに、か」
「幸い、まだこっちに『ミスティルテイン』はあるわ」
「だが、アッチもソレはわかってる」
「撹乱は?」
「さあネ」
「無策?」
「無謀だヨ」
「笑えないわね」
「ああ、笑えねーな」
「オレが一番笑えないぞ」
「悪いわね、ジーク」
「まあ、女に頼られて悪い気はしねーだろ」
「妙齢の美女ならば良かったのだが、な。それに、おまえらでは性格にも問題がある」
「言っちゃってくれるじゃねェーか。こんなに性格のイイ女二人を前にして」
「本当にね」
「今生最後となる戦いかもしれぬのだ。それくらいは言わせてもらうさ。さあ、おしゃべりはそろそろ良いだろう。重傷の身では話すだけでも体力を無駄に消耗する」
 ジークは彫りの深い顔に、不敵な笑みを浮かべ、腰を落とした。
 好漢の闘気が充実していくのが、シルビアとラーンにもわかった。
「お嬢」
「おう、よ」
 シルアビとラーンも戦闘態勢を立て直す。
 すでに気力も体力も限界を超えている。
 身体中に深い傷を負い、霊気の底も見えかけているのだ。
 次の戦闘が最後になるだろう。
 それだけに、これまで以上に集中力を高め、バルドルを倒すことにだけ意識を向ける。
 眩い光と暗い闇を纏った(バルドル)は、虹色に一筋の闇を加えた鮮やかな髪を、ジークから放たれる闘気の風に揺らし、静かに佇んでいる。
「『ミスティルテイン』を奪い、我を串刺しとし、勝利を掴んだと夢想したか。その漆黒の刃とて、我が肉体は傷つけられても、魂魄には害を及ぼせぬ」
 すべての色を湛えた双眸で、無感情に、こちらを見つめながら、形の良い唇が美しくも高圧的な音律を紡ぐ。
「そして、砕けぬ魂魄は、砕けぬ肉体を呼び戻す。故に、我は不死身なり」
 シルビアと、ラーン、そして、ジークさえも、背中に冷たい汗が流れるのを今さらに感じた。
 光と闇。
 創造と破壊。
 生と死。
 そして、正気と、狂気。
 すべてを内包し、すべてを解き放つ存在力が、三人に重圧を課してくる。
 何もかもを手にしている神が、無感情に右手を振り上げた。
 その手に握られてた『ミスティルテイン』は、今はラーンが奪い取り、武器としている。
 だが、無手だからといって脅威でなくなるわけではない。
 バルドルの手は、すなわち――『神の手』なのだ。
 神威に鳴動し、大気が震える。
 埒外の神気が迸り、超巨大航空母艦『ガルム』の内部だけではなく、甲板(デッキ)の大半をも破壊していく。
 船が沈まないことこそが、奇跡とも思える恐るべき威力。
 油脂焼夷(ナパーム)弾もかくやという威力の光が、後方で援護に徹しているディードリッヒを含むこちらの味方を襲うだけでなく、敵の光と闇の軍勢にさえも幾つもの死を与えていく。
「ぬぅうぅぅ!」
 ジークは両腕を十字に防御態勢を取ったが、莫大な破壊圧によって床を引き摺られる。
 どうにか耐えたが、さすがに神の一撃。
 全身が痺れている。
 あの二人はどうしたか。
 気配は彼の傍にはなかった。
 吹き飛ばされている。
 いや、ただ吹き飛ばされているだけではない。
 神気の衝撃波を喰らいながらも、それを踏み台にして舞い上がっている。
 直撃のダメージはしっかりと受けているようではあったが。
「護るにも、骨を折るい奴らだ。やはり、性格に問題があるな」
 そこがあいつらの良いところなのだが――。
 ジークが独語し、突進する。
 中空にいる彼女たちは今狙い撃ちにされてもおかしくない。
 神の二撃目が来る前に、注意を自分に引きつけなければならない。
 バルドルから激烈の念が飛ばされてくる。
 今の一撃を耐えられたことが、彼の神には許しがたいことなのだろう。
 左手の心臓が鼓動を繰り返し、脈動する闇が溢れ出す。
 光の攻撃の次は、闇か。
 闇の触手が突進するジークに絡みつき、動きを封じようとしてくる。
 だが、ジークは止まらない。
 闘気を帯びた鋼鉄の筋肉が、闇の触手をものともしない。
 邪魔な闇を引き千切りながら、力強い突進を続け、神の目前まで迫った。
 剛腕を振りかぶる。
 バルドルはただ静かに佇み、避けようともしない。
 その胸に巨大な拳が打ち込まれる。
 神は平然としていた。
 次の瞬間、ジークの厚い胸板に衝撃が撃ちこまれていた。
 己の拳の威力が、己へと還ってきたのだ。
 大胸筋がひしゃげ、胸骨が軋む。
 治癒術の施された包帯から血が吹き出す。
 自分自身の鍛えた拳が、自分自身が練磨した肉体を打ち抜く。
 ジークは怯まない。
 さすが、――我が拳だ。
 そう、己の拳の威力に満足を持つ。
 一方で、肉体は鍛え直さなければ、とも感じる。
 馬鹿馬鹿しいほどの戦士の思考。
 その誇りの間隙を縫って、今度は蹴りを放つ。
 丸太のような脚から繰り出される破壊の力。
 鈍い音がして、バルドルの首に叩き込まれる。
 神はこ揺るぎもしない。
 表情さえ変えない。
 衝撃がジークへと戻ってくる。
 バルドルに打ち込んだ蹴りと同等の威力が、首へと跳ね返ってくる。
 ミシリッと首の骨が軋みを上げる。
 自分の打撃の威力で、自身が血を吐き出させられる。
 それでも、ジークは引かない。
 その間に先の神気の衝撃波で宙に舞っていたシルビアとラーンが体勢を立て直し、間合いを詰める。
 バルドルの左手の心臓が一際大きく脈動した。
 溢れ出す闇が、バルドルの影へと溶け込み、膨れ上がっていく。
 巨大な――。
 巨大な、闇が、――神々しく小柄な光の神と対を成す、禍々しくも巨大な闇の巨人の上半身が影から這い出していた。
 ジークは二メートルを超す巨漢だが、闇の巨人は上半身だけで、その倍以上の巨大さを誇った。
 闇色の存在の中にあって、鮮やかな光を放つ一対の目だけが、神に劣るとも勝らない黄金色に輝いており、闇が光と同一の存在であることを暗に示しているようだった。
 闇が万雷のように吼え、巨大な拳を振り下ろしてくる。
 狙いは、『ミスティルテイン』を持つラーン・エギルセル。
 ラーンは横に跳ぶ。
 援護に入ったシルビアが愛剣フランベルジュに霊気の稲妻を迸らせて闇を斬りつける。
 反射を覚悟していたが、闇は吸収した斬撃と電撃をシルビアへは返してこなかった。
 刹那の間もなく、バルドルの右手に雷光と刃が宿り、ジークに向かって放たれる。
 雄大な肉体に裂傷が幾筋も刻まれ、電撃に分厚い皮膚を焼かれる。
 しかし、ジークは苦痛の声すら上げずに、バルドル本体へと拳を叩き込む。
 やはり、それもまた、反射され、彼の肉体を破壊していく。
 闇の巨人が再び拳を振るう。
 今度の打撃は目の前のジークを狙っていた。
 ジークは闇の拳を受け止め、筋肉をフル稼働させて弾いた。
 鋼の肉体を持つ青年の怪力により、巨体を反り返されながらも、巨人は黄金の双眸から、光を放った。
 視界を焼く猛烈な光が辺りを一面を包み込む。
 この光もまた、周囲の敵味方を区別することなく焼き払っていく。
 ジークも、これを受け止める気にはなれず、どうにかして避けることに成功したが、それでも衝撃と電熱の余波によってもたらされた痛みは尋常ではなかった。
 ディードリッヒの部隊も先の神気による攻撃の衝撃波と合わせて半数が壊滅し、光と闇の怪物の軍勢もまた大いに数を減少させた。
 もっとも、気になる残りの二人の無事を、ジークは確かめざるを得ない。
 ここで二人が倒れてしまえば、神への勝機は皆無となる。
 ラーンは水による防御結界を張っており、今の一撃を耐えることができたようでダメージを受けた様子はない。
 シルビアは神の雷撃を雷撃で相殺するというもっと攻撃的な防御を行なっていた。
 さすがに、ジークもシビアの猪突猛進の性格は知っていたが、回避や防御に回った自分やラーンに比べれば、彼女の採った行動の危険(リスク)の高さは比ではなく、下手をすれば消し炭にされているところだ。
 無論、赤毛の少女には、今までのバルドルの攻撃の威力から判断して彼女なりに耐えられると考えてのことだろうが、そこに蛮勇が含まれていないとは言い切れるものではない。
 ――盾はオレが引き受けるといったのだが、な。
 この期に及んでの、シルビアの無謀さには苦笑を禁じ得ない。
 そのような感情とは別に、自らに課した『護る戦い』という制約を遵守すべく、ジークは前に進んだ。
 すでに、拳と蹴りの二種の打撃を神へと見舞い、その双方共を自分自身へ返された。
 ラーンとシルビアが如何に苦戦していたか、自分の攻撃をそのまま返されるという理不尽、屈辱、絶望、それを味わわされる。
 しかし、屈しようとは思わない。
 逆に、強敵と対峙する戦士としてどうしようもない高揚感が溢れ出てくる。
 ジークの鋼の筋肉に一層に強烈な闘気が迸る。
 それを一気に、両腕に集約し、開放する。
 両拳による無数の連打。
 刹那の、爆発。
 光の神は、それを無表情を変えることなく平然と受け続ける。
 一方、神の背後にいる闇の巨人は、全身に打撃による陥没痕が穿たれていく。
 効いているのか、効いていないのか、それはわからなかったが、闇の巨人の動きを止めることには成功している。
 だが、すぐに、その無数の打撃が、乱打を放ち続けているジークへと返されてきた。
 光の神と闇の巨人に打ち込んだ数だけの拳が、城塞を思わせる強靭な肉体に破壊をもたらしてくる。
 それは現在進行形で続いている。
 ジークが怯まずに拳を放ち続けているからだ。
 骨が砕け、血を吐き、鋼鉄の肉体から打撃の摩擦による煙が上がり始める。
 それでも、拳を撃つことを止めない。
 無感情に打撃を受け続けていた光の神の両目が、微かに揺れた。
 ジークの拳が効いたわけではない。
 無造作に右の手が振り上げられる。
 その先には、『ミスティルテイン』を振りかざしたラーン・エギルセル。
 神気の凝縮したバルドルの右手から光の槍が放たれ、鈍い音ともにラーンの脇腹の光の槍が突き刺さった。
「ぐううっ!?」
 苦悶の表情を浮かべたラーンの口から緋色の混じった唾液が吐き出される。
 脇腹には焦げ痕と痛々しい貫通傷が刻まれている。
 それでも、勢いを止めずに、『ミスティルテイン』を振り下ろすラーン。
 バルドルはジークの乱打に晒されながらも、意に介さず、再び神気の満ちた右手だけでラーンを迎え撃った。
 『ミスティルテイン』の動きが止まる。
 ラーンの脇腹に穿たれた貫通傷に、神の白く美しい指が突き入れられていた。
「うああああっ!」
 肉体を内部から蹂躙されるような激痛に、絶叫を上げるラーン。
 全身を痙攣させ、血を吐き出す。
 それでも、精神力だけで『ミスティルテイン』を手放さない。
「ラーン!」
 ジークが神への攻撃を手を休めずに、『漆黒の魔剣』という切り札を持っている青い髪の女性の名を呼ぶ。
 それは彼女を失神させないための呼びかけだった。
 激痛の中に意識を留め置かせるという酷な行為だが、彼女には、バルドルの『心臓』を破壊してもらわねばならないのだ。
「だ、大丈夫よ」
 そう言ったものの、ラーンの目には力がなかった。
 辛うじて意識を保っているに過ぎず、辛うじて『ミスティルテイン』を握っているに過ぎない。
 バルドルが指を突き入れた傷口から、ラーンの身体へ神気を流し込む。
「ああああああっ!?」
 高圧電流を浴びせられるが如き、激痛にラーンが絶叫を上げる。
 それでも、『ミスティルテイン』を手放さないのは、もはや、無意識の義務感でしかなかった。
 神の万色の瞳が、再び微かに揺れた。
 その反応は、目の前の巨漢の怯まぬ様子に対するものではなく、右手の先で瀕死の状態にある青い髪の女性に向けられたものでもなく、最後の一人――赤毛の少女――に向けられたものだった。
 シルビア・スカジイルは高く跳んでいた。
 彼女の狙いは、ただ一点。
 ジークが神を足止めし、ラーンが神の右手を封じている今、直情的な、猪突猛進の、彼女の向かうのは最初から、そこだけ。
 バルドルの左手の上で闇の鼓動を続ける『心臓』。
 だが、愛剣フランベルジュが『心臓』に到達するよりも早く、闇の巨人の拳がシルビアの肉体を打ち上げていた。
「ごふっ……!」
 血を吐き、胸の貫通傷からも血を溢れさせたシルビアの小柄な身体を巨人の手が鷲掴みにする。
 巨体に見合った強烈な握力で締め付けられ、シルビアは自分自身の肉体が軋む不快な音を耳にしながら再び血を吐いた。
 闇の巨人は床へとシルビアを叩きつけた。
 受け身も取れず、シルビアが背中から落下した周囲が叩きつけられた威力を反映して陥没する。
「がっ……はっ……」
 さらに闇の巨人は倒れているシルビアに拳を振り下ろした。
 床が抉れ、ボロ雑巾のようになったシルビアが拳圧と衝撃波で床を転がり、バルドルの足下で白目を剥いた無惨な姿を晒す。
 彼女の手には愛剣フランベルジュが握られ続けていたが、こちらはラーンとは違い、義務感ではなく戦意ゆえだろう。
 バルドルはシルビアを見下ろし、口を開いた。
「汝、我が妻を傷つけようとしたな。汝の鉄の刃で損なえるものではないが、その罪、看過はできぬ」
 無感情でありながら、憤怒を感じさせる声だった。
 バルドルが左足でシルビアの淡く膨らむ胸を踏み潰した。
 シルビアの甲高い絶叫が、抉られた脇腹から神気を流し込まれる激痛に晒され続けているラーンのそれに重なる。
 耳を塞ぎたくなるような絶叫の二重奏の中で、ジークはただひたすらに、打撃――己に返ってくる打撃―を連打していた。
 彼は彼女たちを『護る』と決めている。
 だが、今の彼にできるのは、彼女たちを救いに向かうことではなく、拳を撃ち続けることだけだった。
 バルドルの注意を引くことすらできないが、彼が手を引いた瞬間に神はもっと強大なチカラを振るうかもしれない。
 それに彼女たちが窮地を脱し、光の神に刃を向けた時、間断ない攻撃が無ければ、彼女たちの攻撃は彼女たちに返ってしまう。
 ジークは攻撃を続け、己の攻撃に耐え、そして、彼女たちが反撃することを信じる戦いを続けなければならないのだ。
 それが、今の彼に出来得る彼女たちを『護る戦い』だった。

 赤毛の少女が吐血し、咳き込みながらも、バルドルの足を退けようと、手を伸ばす。
 死刑囚の抵抗を不快に思ったのか、七色に一筋の黒を加えた髪が、ゆらりと揺れた。
 赤毛の少女の左胸を踏み潰す足に力が込められる。
 豊かとはいえない乳房がひしゃげ、胸骨が軋んだ悲鳴を上げる。
 シルビアは再び血を吐き、すでに開いた傷口からの血で真っ赤に染まっている胸もとに朱を重ねた。
「ラーン……」
 相棒の名を弱弱しく呼ぶ。
 今、バルドルの注意は自分に向いている。
「ラーン……」
 もう一度、愛する者の名を呼び、シルビアが再びバルドルの足へと手を伸ばす。
 バルドルは足を上げた。
 解放したのではない。
 勢いを付けて、もう一度シルビアの仄かなふくらみを踏み潰した。
「はっ、うぐわああ……がはぁっ!」
 苦悶の叫びと吐血が、シルビアの唇を割って出た。

 ラーン・エギルセルは自分の名を呼ぶ声に双眸に光を戻した。
 お嬢が呼んでいる。
 そうだ。
 お嬢。
 私が、やらなくては。
 苦痛は止まない。
 脇腹を抉られ、体内から痛めつけられる激痛は、まるで止まない。
 でも、ぎりぎりで維持している集中力をまだ解くわけにはいかない。
 すべてが終わってしまう。
 ディードリッヒたちの援護も、ジークの努力も、お嬢の振舞いも、水泡に帰してしまう。
 私が、やらなくては。
 脇腹を抉られ、体内を嬲られる苦痛が邪魔をするが、わずかに残った体力を振り絞り、『漆黒の魔剣』を振りかぶった。
 だが、彼女はバルドルの右手を脇腹に突き立てられており、『心臓』は光の神の左手の上にある。
 遠い。
 届かない。
 ……それでは、ダメだ。
 届かせる。
 近寄って、一気に、決める。
 神に気づかれる前に。
 悟られる前に。
 赤毛の相棒の絶叫を聞きながら、ラーンは歯を食いしばり、『ミスティルテイン』を『心臓』に届かせるように肉体に命令を下す。
 ――お嬢、頼むわよ。

 シルビアは、青い髪の相棒の雰囲気が変わったことを逸早く察知し、自分を踏み殺そうとするバルドルへの抵抗を強めていた。
 光の神も、ジークでさえも、気づいていないだろう。
 二人の間だけで通じる、絆だ。
 だから、シルビアは抵抗を続けた。
 神の足が、何度も何度も振り下ろされる。
 薄い乳房を潰され、胸骨と肋骨が砕かれる。
 肺や胃にも甚大な負傷を負い、心臓にも深刻なダメージが蓄積されていた。
 死が近づいてくる。
 だが、まだ、だ。
 ラーンが必ず、やる。
 だから、自分もやる。
 それ、だけだ。
 愛剣フランベルジュを握った手に最後の体力と霊力を込め、肉体を破壊される激痛に苛まれながらも集中力を研ぎ澄ます。
 ――ラーン、頼むぜ。

 先に動いたのは、ラーン・エギルセルだった。
 強靭な意志力で一歩前に出た。
 それは、脇腹に突き刺さっている神の右手が腹部をより深く抉るということに直結する。
 実際、突き刺さっているバルドルの手が、傷口を広げた。
 内臓が幾つか破壊されるのを感じたが、激痛がラーンの動きを阻むことはなかった。
 バルドルがすべての色を持った双眸を赤毛の少女から、ラーンへと向ける。
 しかし、それは遅い。
 もう一歩、ラーンは進んでいた。
 そして、すでに、『ミスティルテイン』を、ナンナの『心臓』へ向かって振り下ろしていた。
 闇の吸収力と光の反射力をジークが引き受けている間に放った、一撃。
 注意がシルビアに向いている間に放った、一撃。
 渾身の、一撃。
 だが。
「汝が、ヤドリギを持っているのに我が気を逸らすとでも思っていたか」
 光の神が静かに言葉を紡ぐと同時に、ラーンの口から血が吐き出された。
「ごっ、ふっ、あぁ……ッ!」
 脇腹に突き刺さった神の右手から、光の刃が伸び、ラーンの肉体の反対側まで突き抜けていた。
 ラーンの手から、『漆黒の魔剣』が零れ落ちる。
 金属音が鳴り響き、床に転がった。
 次いで、ラーンの両膝が地面に落ちた。
 左右の脇腹に空いた傷口から、大量の血が溢れ出し、床を濡らしていく。
「?」
 血の海に倒れたラーンはまだかすかに生きているようだったが、すでに立ち上がる力は残っていない。
 その彼女を見下ろしていたバルドルの七色に黒色の一筋を加えた髪が揺れた。
 すべての色を備えた瞳も、微かに震えた。
 彼の神の視線は、ラーンの手の中にある『漆黒の魔剣』に向けられている。
 その魔剣の形が崩れていく。
 ラーンの手の周辺の血の汚泥の色が薄められる。
 水だ。
 そして、血を薄めた水は、魔剣の形をしていたものから流れだしたものだった。
 ラーンが手にしていたのは、水で『ミスティルテイン』に偽装したシルビアの愛剣フランベルジュだった。
 
 光の神の両目が一瞬真円を描いた。
 すぐに足もとの赤毛へ、意識を向ける。
 遅い。
 先程シルビアからラーンへ意識を移した時に、すでにシルビアは手にした愛剣フランベルジュを――否、ラーンの水のチカラでフランベルジュに偽装した『ミスティルテイン』を突き上げていた。
 囮はシルビア・スカジィルではなく、ラーン・エギルセルだったのだ。

 シルビアの手にした神殺しの魔剣『ミスティルテイン』が光の神(バルドル)の左手を下から貫き、その手のひらに乗って鼓動を続けているナンナ・フォン・ブレイザブリクの『心臓』を――串刺しにした。
 


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