R & B
其の十 救出


 部下に光の神への突撃命令を下したディードリッヒは平然とはいえないまでも、冷静の範囲で救出すべき目標を両目に映す。
 闇の鎖で手足を拘束され、全身に突き刺さった雷光の矢から流し込まれる電撃に蝕まれながら空中に吊りあげられているシルビア・スカジィル。
 右腕を切断されている上に、漆黒の魔剣で背から胸を串刺しにされているラーン・エギルセル。
 どちらも瀕死だが、距離が近いのは、シルビアの方だった。
 神からも遠い間合いにおり、直接バルドルに捕らわれているラーンよりは、救出が容易に見える。
 無論、油断はできない。
 部下たちも心得てはいるだろうが、苛烈で凄惨な拷問を受けているかのような姿は、歴戦を誇る者たちの心にも怒りと焦りを生じさせているのは間違いない。
 事実、ディードリッヒ自身も、理性が炎上するのを、戦場で怒りに我を忘れる愚を知っている年季によって辛うじて抑えている状態だった。
 ディードリッヒは智謀にはそれほど優れてはいないが、ジークやハーゲンのような雄大な肉体や、"戦狼"ベオのような華麗さはないものの、頭髪に白髪が混じるまで年輪を重ねただけの経験に基づいた決断力と実行力には定評がある。
 一対一、もしくは一体多数を得意とするシルビアやラーンとは異なり、多数対多数の戦いの指揮にも堅実さを示す実績があり、また、部下たちと苦楽をともにできる男で、実戦部隊の隊長としては申分のない人間だ。

「邪魔をするな!」
 怒号が響き渡った。
 それはディードリッヒの部下たちが、シルビアの周囲に駆けつけた瞬間だった。
 シルビアを拘束していた闇色の鎖と彼女の肉体を蝕んでいた雷光が混ざり合い、一つの形を取っていた。
 この超巨大空母の上層部が大破していなければ、収まりようのない小山のような巨体。
 それは、神々しいまでの光と熱を放つ恒星のようでありながら、闇を凝り固めたような暗黒の竜だった。
 長い首と尻尾、そして、蝙蝠の被膜を想起させる翼を持っている。
 禍々しい筋骨は死を暗示するような黒と紅で彩られている一方で、神々しくすべてを照らすような煌めく妖気と鳴き声を持っている。
「其は太陽にして、三日月。鉄器の民が邪眼持ちし魔王(バロール)が呼び寄せし、血塗れの暗黒竜(クロウ・クルワッハ)なり。我が妻ナンナを苦しめし咎人を求むる人間どもよ、我が生贄、命の塚となれ」
 透き通る美しい声で、光の神が謳うように告げる。
 その合間には、シルビアとラーンの苦痛に耐える呻きが入り、ディードリッヒを不快にさせた。
 しかし、怒りと憎悪を吹き上がらせながらも、状況整理のために目まぐるしく脳を回転させる。
 神の言葉には、いくつかの重要なものがあった。
 ――『我が妻ナンナ』。
 ナンナとは、ナンナ・フォン・ブレイザブリクのことだろう。
 つまり、ナンナは彼の妻。
 彼の乏しい神話の記憶に引っかかる知識は一つだけ。
 光の神バルドルの妻の名が、ナンナだったはずだ。
 ならば、ナンナの目的は、バルドルの復活にあったか。
 彼女の目的はすでに成就されてしまっているということか。
 ナンナの姿はこの場にはない。
 ――『妻を苦しめし咎人』。
 ナンナは重傷を負って撤退したか。
 いや、亡くなったのではないか。
 光の神の左手の上に乗っている心臓。
 あれこそが、ナンナの心臓なのではないか。
 そして、ナンナの命を断ったか、または死の直前に彼女を苦しめたのが、シルビアとラーンであり、それゆえに二人を咎人と呼ぶのだろう。
 では、バルドルの目的は何か。
 妻の復讐だろうか?
 否、そうではない。
 それはならば、異形の大軍勢など必要ない。
 あまり詳しくはない北欧神話の内容を脳をフル稼働させて思い出す。
 バルドルは、"神々の黄昏(ラグナロク)"で滅亡した世界の後に、新生する世界に復活して玉座に就く神のはずだ。
 つまりは、光の神は現世の神ではないのだ。
 それを理解すると同時に、ディードリッヒは神の目的にも想像を及ぼすことができた。
「破壊と創造か」
 恐るべき結論に達した彼の呟きは、部下の喧騒に呑み込まれた。
 部下たちは猛っている。
 目の前の神に激しい怒りを向け、死にかけている勇者たちを救おうと奮い立っている。
 部下のひとりが大きく振り上げた腕を振り下ろす"太陽と三日月の魔竜"クロウ・クルワッハの一撃をかわし、霊力の付与されている突撃銃(アサルトライフル)の弾丸を胸部に叩き込む。
 "太陽と三日月の魔竜"は両目に怒りを満たし、禍々しい牙の並んだ口を大きく開けた。
 大滝の落ちるかの如き轟音とともに、圧倒的な灼熱の波動が、太陽の神性を持つ暗黒竜の周囲に撒き散らされる。
 魔竜の焔を避けそこなった三人の部下が炎に焼かれ、焦げた床を苦痛にのた打ち回る。
「うおおおおおおっ!」
 ディードリッヒは怒声を上げながらも、冷静かつ正確な動きで、魔竜の喉に突撃銃を撃ち込む。
 漆黒の鱗が飛び散り、どす黒い血が飛び散るが、致命傷には程遠い。
 暗黒竜は腕を振り回し、ディードリッヒを肉塊に変えようとした。
 しかし、ディードリッヒは素早く身を退き、事なきを得る。
 怒りに燃える魔竜が尻尾を振るう。
 その尾が三人の部下を捕え、弾き飛ばした。
 それでも、ディードリッヒも部下たちも怯むことなく魔竜を取り囲み、次々と銃撃や打撃や斬撃を加えていくが、魔竜は無限の生命力を持つかの如く動きを緩めることなく反撃を繰り出し、決死の男たちを傷つけていく。
 一面の床にナンナ・フォン・ブレイザブリクの血液で描いていた魔法陣は、見る見るうちに異形と人間の多量の血によって彩られた。

「隊長!」
 部下のひとりが、ディードリッヒの盾となり、魔竜の爪撃に胸を切り裂かれる。
 しかし、彼は倒れることなく、魔竜へと突撃を敢行した。
 魔竜の巨体の懐に入り込み、退魔の霊力を帯びた槍を魔竜の巨体に突き刺した。
 それに合わせたように、他の部下たちも魔竜に各々の武器で攻撃を加える。
 強烈な一斉攻撃に魔竜が咆哮を上げながら、仰け反る。
 ディードリッヒは、その間隙を逃さなかった。
 部下たちが生命を賭して切り開いた血路を駆ける。
 "太陽と三日月の魔竜"を倒すためではない。
 闇の鎖に四肢を呪縛されたシルビアは、救い出すために。
「ぬうん!」
 対霊の特製サバイバルナイフで、闇の鎖を切り千切る。
 すでに脱力していた赤毛の少女の身体は、拘束を失うと、すぐに引力に従って床へと落ち始めた。
 幾多の戦いによって搾られた肉体で、ディードリッヒは少女を受け止める。
 小柄な少女の身体は、軽いとは考えてはいたが、彼の想定よりも、さらに軽かった。
 できるかぎりゆっくりと、できるかぎりやさしく、シルビアを床に降ろし、傷の具合を確かめる。
 血塗れのゴシックドレスの破れ目からは、皮膚が裂け、筋肉もひしゃげ、骨も無事とは思えない箇所が十以上も見え隠れしている。
 まさに、満身創痍。
 重傷というレベルでは収まらない。
「治癒術の術式が編み込まれた包帯だ。劇的な治癒は望めぬが、少しは楽になるだろう」
 赤毛の少女の肢体に包帯を手早く巻いていく。
「悪いが、服を裂かせてもらうぞ」
 漆黒のゴシックドレスの胸もとを大きく裂く、傷と痣に彩られた細身の肢体と、紫色の下着に守られた淡く膨らんだ胸が露わになる。
 酷いことにブラジャーにも雷光の矢が突き刺さった穴と、電撃を流し込まれた焦げ跡がある。
 戦いに身を投じるものとはいえ、闇の勢力に所属するものとはいえ、十代半ばの少女が受けるには酷過ぎる仕打ち。
 だが。
 だが、満身創痍のシルビアの瞳の奥には生気が満ちていた。
 その強烈な圧力に、歴戦のディードリッヒも一瞬、圧倒される。
 彼の脳に生じた空白に滲んだのは、全身全霊を込めてようやく吐き出したかのような苦しげな少女の声だった。
「ラーンを……」
 そう言って、シルビアは必死に身体を捻じった。
 うつ伏せになった彼女は、傷の癒えぬ身で這いずろうともがき始めた。
「おい、その身体で……!」
 ディードリッヒは当然に赤毛の少女を止めようとし、彼女の視線の先にあるものに気づいた。
 それが何であるかを認識した時、豪胆なディードリッヒも、絶句せざるを得なかった。
 シルビアが向かおうとしている先に落ちているのは、人間の腕だった。
 ラーン・エギルセルの切断された右腕だ。
 ディードリッヒは嘆息した。
 シルビアは相棒の切断された腕を拾いに行こうとしている。
 何のために?
 無論、神に串刺しにされている相棒を救い、その腕を結合するためだ。
 そのために瀕死の身体に鞭打って這いつくばってでも、戦おうと、まずは、相棒の切断された腕の安全を確保しようとしている。
 数多の激戦を潜り抜けてきた戦闘幹部だということは十分に知っていたが、間近に見るシルビアはディードリッヒの知る戦士たちの中でも頭一つ抜けている精神力と生命力、そして、霊力を持っているようだ。
「『戦場の女神(ヴァルキリー)』よ。少し、休んでいろ」
 シルビアにそう言い、彼女の代わりに彼女の相棒の右腕を拾い上げる。
 断面は生々しいが、それだけに、まだ結合できる可能性が高い。
 無論、時間が経てば経つほど可能性は低くなる。
 それに、ラーン本人の断面が焼かれでもすれば、二度と結合することはできなくなる。
 しかし、戦士とはいえ、できれば、うら若い女性に片腕を喪失させたくはない。
「おまえの相棒も必ず救出してやる」
 ディードリッヒが力強く言った。
 シルビアは、声の主を睨みつけるように見上げた。
 雷光のような視線と重厚な視線がぶつかり合う。
 そして、ディードリッヒが深く頷くのを見届けると、張りつめた糸が音を立てて切れたようにシルビアはすぐに気を失い、床の上に倒れ込んだ。
 その時だった。
 轟音が耳を打ち、超巨大空母が大きく震動した。
 ついにディードリッヒの部下のひとり――胸を切り裂かれながらも突撃を敢行した男――の槍が、"太陽と三日月の魔竜"クロウ・クルワッハの心臓を捉えたのだ。
 断末魔を上げた魔竜は、塑像が風化するように徐々に崩れ去り、その屍は跡形もなく大気の中へと消えていった。
 ディードリッヒの部隊は、魔竜に打ち勝ったのだ。
 その代償は大きい。
 部下のうち、半数以上の生命が失われ、生き残った者たちもほとんどが重傷を負っている。
 だが、シルビア・スカジィルは救出した。
 あとは、ラーン・エギルセルだ。
 しかし、ここからが難題だった。
 ラーンは肉体を神の手にする漆黒の魔剣によって貫かれ、捕えられている。
 下手に銃撃などで攻撃をすれば、神が彼女を盾にしないとも限らない。
 いわば、人質のようなものだ。
 しかし、ぐずぐずはしていられない。
 ラーンは右腕を切断され、背から胸を魔剣で貫かれたままだ。
 腕の切断面からも、魔剣が貫通している肉体の穴からも、出血は止まってはいないようだ。
 シルビアと同等の彼女の強靭な精神力と生命力と霊力が、かろうじて彼女を生かし続けているにすぎない。
 それに、相手は、血と戦に彩られた神話の魔術と戦を司る主神の息子たる神格を持つ光の神。
 その強大さは、先程朽ちた暗黒竜以上だろう。
 時間に追い詰められるように、性急な戦いを挑めば、また多くの犠牲が出るに違いない。
 だが、――瀕死になるまで戦い続けた勇者を救う。
 それこそが散った部下に対する鎮魂にもなる。
 ディードリッヒが、決意の一歩を踏み出そうとした時だった。

 光の神が動いた。
 ズルリ……。
 闇色の魔剣が、生々しい肉と液体を引く音とともに、闇色の魔剣が、ラーンの肉体から抜かれる。
「……あ……あ……う……?」
 生命を蝕むと同時に肉体を支えていた魔剣がなくなり、すでに力の入っていない肢体がぐらりと揺れる。
 光の神の美しい唇が、歌曲(リート)の一説のように言葉を紡いだ。
「神に必要なのは(にえ)であり、盾ではない。鉄器の民が暗黒竜(クロウ・クルワッハ)を退けた褒美に、我が愛妻ナンナを苦しめし咎人は返してやろう」
 七色に一筋の漆黒を加えられたバルドルの頭が舞い上がり、万色の双眸が一層の強烈な輝きを放った。
 光は衝撃の波動となって、崩れ落ちそうになるラーンの背を打つ。
 弾き飛ばされたラーンが、床に赤い血の絨毯を描きながら転がってくる。
 さすがのディードリッヒも、顔色を変えて駆け寄った。
 ラーンは虫の息だったが、辛うじて中央を抉られた胸が上下している。
 ――酷いことを。
 そう思いながらも、ラーンの側へと急いで膝をついた。
「うっ……くっ……ごほっ……!」
 青い髪を激しく揺らし、苦しげにラーンが血を吐き出す。
「耐えろ。今、治癒術の術式が縫い込まれた包帯を巻いてやる。死ぬなよ。おまえの相棒は生きているんだからな」
 ディードリッヒが治癒術の込められた包帯でまず、ラーンの胸から背までを貫通している穴を塞ぐ。
 次いで、切断された右腕の断面と肉体の断面を合わせ、そこへも特別製の包帯を縛るように巻いていく。
 淡く暖かな光が包帯を通して、ラーンの身体へと流れ込んでいく。
 一瞬にして完治できるほどの効果はないが、少しずつではあっても、確実に肉体の破損を治癒へと向かわせてくれるはずだ。
 ディードリッヒは、バルドルへと視線を向けた。
 真紅の血を滴らせる漆黒の魔剣を右手に握り、未だに鼓動を続ける妻の心臓を左手に乗せ、光の神は静かに佇んでいる。
 その美しい顔には、いかなる表情も浮かんでいない。
 怒りも微笑みも浮かぶことのない、神ゆえの完璧なる顔。
 完璧に美しく、人間離れした、生命の息吹のない顔。
 しかし、その存在感は、圧倒的なものがある。
 生命の躍動の代わりに、純粋な光と闇が、純粋な『チカラ』が、そこにある。
 ――神々しいとは、まさに、このことか。
 光の神がラーンを手放したのは、命の盾など必要ないという神としての絶対の自信からだろう。
 それに、()の神から見れば、人間など塵芥(ちりあくた)に過ぎないのだろう。
 そして、バルドルは人間を塵芥として見れるほどのチカラを持っているんだろう。
 これから自分たちに訪れるのは、絶望なのかもしれない。
 それでも、自分も、部下たちも、そして、瀕死の『戦場の女神』二人も、光の神に立ち向かわないわけにはいかない。
 バルドルの目的は、現世を灰塵(かいじん)に帰せしめることと新世界の創造なのだから、今の世に生きる存在として刃を向けぬわけにはいかないのだ。
 


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