R & B
其の九 光明
鋼材の欠片が床に落ちる音が、響き渡った。
右手に、神話の時代に己の命を奪った漆黒の魔剣『ミスティルテイン』を、そして、左手に、愛する存在の心臓を乗せたまま、光明神バルドルが静かに振り返る。
壁に磔にされていたシルビアがようやく身体を引き剥がし、愛剣を杖代わりにして立ち上がっていた。
ナンナ・フォン・ブレイザブリクと対峙直前に、切り札の『治癒の勾玉』を使用してまで回復させたはずの肉体は、すでに最初の一撃によって、深いダメージを負ってしまっている。
「ラーン」
「大丈夫」
ラーンも同じように磔状態からは脱出したものの、内臓を酷くやられたのか、咳き込みながら吐血を繰り返していた。
『治癒の勾玉』による回復が無意味だったわけではない。
あの治癒がなければ、光の神の初撃だけで、殺されていただろう。
「クソッ、バケモノめ」
「格上が相手なのは、いつものことでしょう。ファーブニルとかベオとか」
「その二人はまだマシだな。あとは、
「そして、今度は、そこへ光の神までが加わるわけね」
「これっぽっちも、うれしくナイな」
「それでも退かないんでしょ」
「モチのロン」
「あっ」
「ナンダ?」
「今の言い方、神代ちとせに似てたわ」
「……これっぽっちも、うれしくナイな」
複雑に唇の端を上げ、シルビアが全身に雷光を纏わせる。
「さあ、おしゃべりはオシマイにして、行くとしようか」
神経の超電導化。
リターンは大きいが、リスクも高い切り札だが、強大な相手を前にしてチカラを出し惜しみしている余裕はない。
熱気を伴って、赤毛をなびかせ、悠然と佇む神へと向かって走る。
彼女の愛剣フランベルジュが鋭い閃光を発するが、その一撃はバルドルの纏う闇に阻まれた。
動きの止まったシルビアへ、バルドルの『ミスティルテイン』が振り下ろされる。
いとも容易くゴシックロリータのドレスの胸もとが切り裂かれ、鮮血が吹き出す。
そして、間をおかずに、バルドルの左手に乗っているナンナの心臓から闇の波動が放たれる。
闇はまるで津波のようにシルビアに強烈な打撃を与えると同時に、漆黒の業火となって肉体を蝕んでいく。
さらに、バルドルの蹴りが、全身を闇に包まれて苦悶しているシルビアのは鳩尾に突き刺さった。
「ごっ……ふっ……!」
血の塊を吐きながら、盛大に吹き飛ばされるシルビア。
さらにバルドルの攻撃は容赦なく続けられた。
その無限の色を持つ両眼から、美しい閃光が放たれ、シルビアを滅多打ちにした。
苦痛の絶叫とともに爆炎の中にシルビアの姿が沈む。
バルドルは表情一つ変えず、爆炎を凝視している。
その視線が疾走する影を捉えた。
ラーン・エギルセル。
バルドル目掛けて一直線に突撃してくる。
光の神は美しい表情を微かにも動かさず、眼光を強めた。
ラーンが苦悶し、胸を抑えて悲鳴を上げる。
神の眼力。
直接心臓を締め上げられるような圧迫。
跪きそうにになるラーンの目の前で、バルドルの七色の髪が揺れた。
予備動作もなく神衣が舞い、距離が消え去る。
魔剣『ミスティルテイン』が、ラーンの左胸を貫く。
しかし、ラーンの姿は胸を貫かれると同時に崩れ去った。
水で作り上げた
ラーンは神の眼力の呪縛を抜け、バルドルの背後に回っていた。
そして、その両手にはすでに渾身の霊気で作り上げた大量の水が激流となって渦巻いている。
その莫大な量の水がバルドルを撃つ。
血飛沫が舞う。
「が……?」
その鮮血の出所は、バルドルではなかった。
水の刃が、紅の糸を引きながら、斬り裂いたのは、人間の、腕。
切断されたは、腕。
ラーンの右腕が半ばから切断され、中空を舞っていた。
「あああああああああああああああっ!?」
魂切る絶叫が周囲へと響き渡る。
ラーンの放った水の刃は、確かにバルドルを直撃したはずだった。
しかし、水の刃は、バルドルの身体に吸い込まれ、反射されたようにラーンへと還ってきたのだ。
そして、彼女の右腕を、あっさりと斬り飛ばしたのだ。
出血の溢れる肘から先の無くなった右腕の切断面を抑え、膝を折るラーン。
歯を食いしばる。
生まれ落ちた時から血塗られた闇の勢力の中で育ち、『ヴィーグリーズ』でも戦闘幹部として戦歴を重ねてきたのだ。
瀕死の重傷を負ったことだって一度や二度ではない。
腕の一本くらい失う覚悟は、すでにできていた。
できていた、はずだった。
それでも、実際に右腕を失ったことで喪失感と絶望感が押し寄せてくる。
それを無理矢理に打ち消すように念を集中し、もっとも慣れ親しみ、もっとも得意な武器――『
こちらを無感動に凝視している光の神の胸の中央目掛けて、水の馬上槍を打ち出した。
馬上槍が確かに神の胸を貫いた。
だが、違和感。
槍先がどこかに吸い込まれるような、闇へと吸引されるような、感覚。
さながらブラックホールへと落ち込んでいくような不気味な虚無感が、馬上槍を握る腕に生まれる。
ラーンの顔に戸惑いが走る。
その一瞬の後だった。
「がっ、ふっ、あ……?」
ラーンは大量の血を吐いた。
己の胸を、自身が打ち出したはずの水の馬上槍が貫いている。
「闇は、すべてを吸い込むもの。光は、すべてを反射するもの」
バルドルの美しくも生命を感じさせぬ冷たい声が、ラーンの耳元で聞こえた。
「そして、我は光と闇を支配する存在である」
光の神はいつの間にか、ラーンの後ろに回り込んでいた。
ズブリ。
肉を割く音が響き、血飛沫が舞う。
漆黒の魔剣が、ラーンを背から貫き、彼女の胸に馬上槍によって穿たれた穴から血に染まった刀身を覗かせる。
「ぐッ、あ……がはっ……!」
串刺しにされたラーンが、体内に残り少なくなった真紅の液体を吐き出す。
生きているのが、奇跡に近い。
『治癒の勾玉』によって癒され、与えられた霊力と生命力のおかげとも思われた。
と、波動が、神の一筋の黒の入った虹色の髪を舞わせる。
怒りの波動だった。
ラーンではない。
彼女の意識はすでに、落ちかけている。
バルドルでもない。
神は表情を変えていない。
激昂の波動の主は、シルビア・スカジィルだった。
「ラーンッ!」
青筋を立て、真っ赤な髪を逆立てて、疾走する。
相棒の無残な姿を目にし、一気に頭に血が上っていた。
ラーンを助ける。
そして、神を殺す。
ラーンを絶対に助ける。
そして、神をぶっ殺す。
痛めつけられた身体に鞭打って、走る。
だが。
血走った両目が限界まで見開かれる。
衝撃が、前へ進もうとする肉体を押し戻した。
腹に『拳』が、深々と埋まっていた。
斬り飛ばされたラーンの右腕の『拳』が。
「がふっ……?」
理解できないという表情のまま、シルビアは血を吐いた。
その顔が、ラーンの右腕に横殴りされた。
さらに、吹き飛びそうになるシルビアの鳩尾を突き上げる衝撃。
「お……嬢……」
魔剣に串刺しにされたままのラーンの霞む視界で、シルビアが切断されたラーンの右腕によって殴打されている。
ラーンの目の前で、ラーンの腕が、シルビアを打ちのめす。
串刺しにされたラーンを救おうとするシルビアを阻むもの、それがラーン自身の右腕なのだ。
ラーンはそれを見せつけられた。
そして、シルビアもまた殴打されながら、自分自身の腕が愛する者を打ち据えるという悲劇に苦しむ相棒の姿を見せつけられる。
それは、二人の絆を嘲笑するかのような残酷な仕打ちだった。
苦痛と無力感が二人を追い詰めていく。
だが、朦朧とする意識の中、ラーンは気づいた。
自分を貫いている魔剣を持つ神の手と反対の、左手。
そこに乗っているナンナの心臓が鼓動するたびに、切断された自分の右腕がシルビアへ襲いかかっていることに。
ラーンが無意識に、残っている左腕を、ナンナの心臓へと伸ばそうとする。
しかし、その五本の指が大きく開かれ、反り上がる。
「うぐぁあああッ……!」
血の塊とともに、ラーンの唇を割って出る絶叫。
バルドルが、魔剣を捻り、串刺しにしている肉を抉ったのだ。
それはとどめを刺すというよりも、ラーンを苛んでいる苦痛を拡大することだけを目的とした行為だった。
「我が最愛のナンナに触れようとするな」
ラーンが細く長い四肢を痙攣させ、ガクリと項垂れる。
「ラーン!」
シルビアが両眼を血走らせる。
滅多打ちにされた肉体の軋みを無視し、怒りの大きさを表すような無数の雷光の矢を生み出して、光の神へ放った。
それが微動だにしないバルドルに直撃すると同時に、光の神を取り巻く闇がすべてを飲み込んだ。
そして、次の瞬間、シルビアへと幾条もの光の矢が天から降り注いだ。
「うああああああああ!?」
雷光の矢が、右腕に、左肘に、右太腿に、左脛に、両肩に、右胸に、左乳房に、腹に、背に、深々と突き刺さり、肉体を内外から電撃で焼く。
シルビアは全身から黒煙を上げながら、自分の流した真っ赤な血の広がる床へと膝から崩れ落ちた。
右腕を切断され、漆黒の魔剣に串刺しにされているラーン。
滅多打ちにされ、雷光の矢が全身に突き刺さったシルビア。
だが、二人とも、肉体は死にかけてはいても、目は死んではいなかった。
眼を開き、もがく。
指を開き、もがく。
口を開き、もがく。
だが、神は無慈悲だった。
漆黒の魔剣を再び、捻じる。
傷口を抉られたラーンがおとがいを反らし、呻く。
さらに魔剣から闇の瘴気が流し込まれ、体内から破壊の苦痛を味わわされる。
「……ッ!」
すでに叫ぶ力も残っていない。
バルドルはラーンからシルビアへと視線を移した。
呼応するように、シルビアの身体が闇の鎖で空中に吊り上げられ、十字架に磔にされたかのように両腕を水平に引き伸ばされる。
そして、拘束され、防御もできない無防備な身体に再び、切断されたラーンの右腕が飛来し、顔や胸や腹を殴り潰される。
「うっ……あっ……!」
シルビアもまた、叫ぶ力も残っておらず、唇から漏れ出たのは呻き声と血の欠片だけだった。
瀕死の二人へ、透明で美しくも、無慈悲な声で、バルドルが告げる。
「汝らは、我が妻を苦しめた咎人として、苦痛と絶望の中で見届けよ」
運命神に叛逆した愚かなる
――見届けよ。
――創造のための破壊を。
――破壊から創造が為されるさまを。
「世界の破壊と創造を」
光の神の言葉が紡がれるとともに、異変が起こった。
不吉な予兆を感じさせる黒い雲に覆われる空。
荒れ狂い始め、波の高くなる海。
黒い空と黒い海。
そして、幾条もの光が雲から海へと降り注ぐ。
その光の中から、ひとつ、ふたつと、異形が、上層部を破壊された『ガルム』の周囲に出現し始める。
神々しく輝く巨大なハヤブサのようなもの。
闇と砂漠の風に包まれた複数の動物の頭を持つもの。
戦装束に身を固めた眩い光の戦士。
無数の蟲を従える三本の首を持つ暗黒竜。
荒々しい雷帝。
猛々しい巨龍。
光る鏡の欠片を纏った雄々しい獅子。
あばら骨の浮き出た身体の長い舌を持つ老婆。
その他諸々のの異形、魔物、怪物。
それは
その数は一万以上。
――絶望。
まさに、絶望。
対峙している光の神だけを相手にしてさえ、手も足も出ないというのに、大軍勢の出現だ。
あまりにも圧倒的な、戦力の差。
シルビアもラーンも、運命神や"獄炎の魔王"と戦った経験がある。
倒しはしたものの、苦戦に苦戦を重ねての勝利だった。
実力の差も感じてきた。
だが、あの時は――師がいた。
そして、仲間がいた。
今はしかし、魔王たちと並ぶ神格と対峙しているというのに、二人だけの上、いつ死んでもおかしくない重傷を負った身。
しかも、敵はあの時のように一柱の神格だけを相手すれば良いというわけではなくなった。
一柱にさえ敵わぬというのに、多勢に無勢。
さすがのシルビアも悔しさに唇を噛み、ラーンも朦朧とした意識の中で呪詛を唱えずにはいられない。
一斉に、神の大軍勢が動き出した。
その瞬間、空を舞っていた数十体が跡形もなく、吹き飛んだ。
さらに数体が、この『ガルム』へと落ちてきて、床に肉体を打ちつけ、砕け散った。
光の神は七色に一筋の黒色の加わった髪を微かに揺らしたが、万色の瞳に感情を浮かべることはなかった。
シルビアと、ラーンが呻く。
「何、が……?」
「どう、して……?」
ダメージが蓄積していることもあって、脳が働かず、理解が及ばない。
続いて、海に展開している軍勢の一部が次々と身体中に大穴を開けられ、沈んでいく。
そこで、気づいた。
機銃の炸裂音、ミサイルの爆発音、その他さまざまな機械音が聞こえてきていることに。
そして、大空と大海へ、神の大軍勢とは別の影が無数に現れる。
空の怪物たちの間を駆けるは、ステルス戦闘機。
海の魔物たちを掃討するのは、武装ヘリコプター。
超巨大空母『ガルム』を囲うように布陣する駆逐艦隊。
だが、通常の軍隊ではありえない。
近代兵器に太古から伝わる退魔のチカラを施され、人ならざる存在を討ち、霊力持つ存在たちに対抗できる軍隊。
「あ……れは……」
「エッシェンバッハの増援……か……?」
ヒルダ・エッシェンバッハ。
穏健派の領袖にして、シルビアたちを過酷な最前線に投入した張本人。
その彼女が、『ガルム』の異変に危機を感じ、動いたのだろうか。
明滅するシルビアとラーンの視界へ、数多の人影が、雪崩れ込んでくる。
先頭は、ダンディな口髭を蓄えた眼光鋭い男だった。
「シルビア・スカジィルとラーン・エギルセルを死なせるな。二人を生贄にして生き残ったなどと云われては恥の極みだぞ」
その男の太く響く声に、他のものたちが雄叫びで応じる。
「言われるまでもありませんぜ」
「ジーク殿も、もうすぐ追いつくが、その前にオレたちの手で、我らの"勇者"を取り戻してみせるのだ」
「おうよ、イイ格好させてもらおうじゃないか」
「行くぞ、野郎ども!」
そして、彼らは、シルビアとラーンを救うべく、光の神へと突撃を開始した。
「ディートリッヒ部隊、『ガルム』最深部の広間に突入。ヴェルンド航空部隊は『ガルム』の周囲に出現した異形の大軍勢と交戦開始しました」
エッシェンバッハ軍旗艦『クラーケン』の
声の主は、赤いフレームの眼鏡を掛け、レディスーツに身を包んだ、サラサラとした栗色の髪の持ち主だった。
インゲル・メクレンブルク。
かつては、『ヴィーグリーズ』の日本拠点のひとつ『ヴァルハラ』の管制室の主任を務め、総帥第一秘書ミリア・レインバックに直属のように扱き使われていた女性だ。
ミリア・レインバックの政敵ともいえたヒルダ・エッシェンバッハのもとでも、その才覚と温厚な性格を受け入れられ、今ではヒルダの筆頭秘書を任せられるまでになっている。
インゲルの明朗な声に、彼女の属する派閥の領袖――ヒルダ・エッシェンバッハ本人が頷く。
ヒルダは、すらりとした長身に青いワイシャツを着て、その上からダークスーツを身に纏っていた。
黒服に映えるワンレングスカットに切り揃えられた
少し垂れがちだが、それが逆に色気を醸し出している目、柔らかそうな唇。
彼女はインゲルと比べて、成熟した大人の女性の魅力に富んだ容姿をしている。
知的で眉目秀麗な顔を微かに傾げ、筆頭秘書へと尋ねる。
「ブレイザブリクは?」
「存在を確認できません。代わりに、神話の主神級の神格……どうやら、北欧神話の光明神バルドルらしき存在が降臨しているようです。異形の軍勢は、この存在によって召喚されたものと考えられます」
「……バルドルか」
ヒルダは細い指を美しい顎に当てた。
「なるほど、バルドルの妻の名は『ナンナ』だったな。……とすると、ナンナ・ブレイザブリクの目的は
「世界を、ですか?」
「バルドルは、この世界にではなく、新たな世界に君臨する神だ。だから、この世界を破壊し、新たな世界を創造し、君臨するつもりなのだろう」
実感が沸かないというように鈍く応じるインゲルに、ヒルダが説明する。
そして、ふと、思い出したように尋ねた。
「シルビア・スカジィルとラーン・エギルセルは?」
「生きてはいるようですが……危険な状態との報告です。ディードリッヒ殿は、救うつもりのようですが。ジーク殿も助けに向かっていますし、他の者たちも多くが同調しているようです」
今度の質問には、インゲルも明敏に答えた。
さらに、インゲル自身も二人には助かって欲しいと述べる。
ヒルダは目を細めて、インゲルを見やった。
「でも、あの二人は、あなたにとってはレインバックの仇でもあるのではないか?」
「それはそうなのですが、憎悪は感じていません。それに、仇討ちなどしたら、逆にレインバックさまに嘲笑されてしまいそうです」
「確かに、な」
「エッシェンバッハさまは、あの二人をどう思っていらっしゃるので?」
「私個人としては、イイ娘たちだとは思う。だけど、見せしめの必要はあった。裏切り者には制裁を与えなければ、『ヴィーグリーズ』のような組織は成り立たない」
ヒルダの声は怜悧だった。
「それでも、あの二人も生命の危機に陥るほどの働きを示したことで、実戦部隊の者たちには『
「いつだったか、レインバックさまがシンマラ殿を『冷静沈着に見えるが、本質はロマンチスト』だと評していらっしゃいました。きっとシンマラ殿は、愛弟子たちに、生きる術として能力を与え、戦いを教えはしたけれど、彼女たちを政治的野心とは無縁にしたかったのでしょう」
事実、彼女たちに政治力や権力を志向する態度は微塵も感じられない。
そして、裏切りに対する言い訳さえしない。
ただひたすらに、剣を振い続けている。
「不器用な師弟だ。だが、インゲル」
「はい」
「彼女たちが『戦場の女神』であるのなら、私は心底喜ばしいよ」
ヒルダの「喜ばしい」という言葉の意味をインゲルは正確に理解していた。
それは、強力な戦力を手中にしているというだけでなく、その戦力が政敵にはなりえないということを、表現しているのだ。
それは、この戦いでいくら人望を得ても、シルビアとラーンが粛清の対象にはならないということでもある。
そして、素直に若い二人を謀殺するような事態にならないで済みそうだという喜びももちろんあるだろう。
インゲルも、喜ばしく思う。
自身の所属する組織の長に度量と寛容さと柔軟さがあることを確認できたことと、この戦いに生き残りさえすれば、二人の未来に光明があるということを。
だから、インゲルは願った。
たとえ今瀕死の重傷を負っているとしても、シルビアとラーンがどうにかして生命を保って帰還してくれることを。
「インゲル、すべてのものに伝達せよ」
ヒルダはあらためて、艦橋のメインスクリーンを見やった。
上層部の大破した敵旗艦『ガルム』の周囲で、味方の戦闘機や駆逐艦が異形たちと交戦を続けている。
「我々は『ヴィーグリーズ』である。神々と巨人族との最終決戦地の名を冠した組織である。その名に恥じぬ働きを示せ。異形の軍勢を駆逐せよ。光を滅せ、闇を砕け。そして、二人の若き功労者を助け、元凶たる神格を討ち取れ、と」