R & B
其の六 戦狼


 変身。
 そういう現象は、何度も見たことがある。
 シルビア・スカジィルも。
 ラーン・エギルセルも。
 時には奇と対峙し、時には魔とともにある、そういう戦いの人生を歩んできたのだ。
 その経験の中で、変身という概念は、そう珍しいことではなかった。
 人間が魔と化す。
 人間になりすましていた魔が正体を現す。
 そして、狼人に代表される獣人種(ライカンスロープ)
 人間形態が基本(ベース)なのか、それとも獣人形態が基本なのか、それはわからない。
 だが、彼らはどちらにも変身する。
 もっとも近い事例は、一時期彼女たちの保護者でもあったファーブニルだ。
 彼の老人は、『決闘』の時に、竜人へと変貌を遂げた。
 枯れ木のような肉体は、持った鋼よりも固い鱗を持ったものへと変わり、翼で宙を舞い、口からは漆黒の炎を吐き、尾で攻撃を繰り出してきた。
 魔獣や悪魔を相手にしたこともあるシルビアたちにとって、それらの攻撃は慣れぬものではなかった。
 ただ老人の状態でも強大なチカラの所有者だったファーブニルが、竜の肉体を得て、恐るべき身体能力を発揮するという事実は、脅威だった。
 その脅威が、今目の前に再び、訪れていた。
 しかも、目の前の獣人は人間態ですら、二人の実力を大きく上回っている男だ。
 そう、ベオは、変身していた。
 黄金の体毛を持った狼の獣人に。

「まさか、ホントに"戦狼(ヴェアヴォルフ)"だっとはね」
 シルビア・スカジィルは乾いた笑いを浮かべた。
 黄金の体毛。
 強靭な体躯。
 尖った耳、鋭利な牙の並ぶ裂けた口。
 そこにいるのは、二本足で立っている大きな狼だった。
 漆黒のロングコートの裾が、獰猛な殺気を孕んだ霊気の上昇に呼応して逆巻いている。
「この姿になったのは、シギュン・グラムと戦った時以来だ」
 鋭くなった瞳孔で二人を凝視しながら、ベオが言葉を紡ぐ。
「オレに高揚感をもたらしたおまえたちを喰らわしてもらう」
 その場で鉤爪を振るう。
 ひゅん。
 風が鳴き、直線上にいたシルビアの胸に裂傷が走った。
「がっ、はっ……!?」
 血飛沫を上げて、シルビアが膝を折る。
 浅手だが、衝撃だけで傷を受けた事実に、裂傷を負ったシルビアにも、それを見ていたラーンの額にも粘度の高い汗が伝った。
 やはり、身体能力が格段に上がっている。
 シルビアの超電導化で詰めた距離でさえ、また遠くなった。
 ベオが再び腕を振り上げるのを見て、ラーンが馬上槍を床に突き刺した。
 呼応するように出現した水の刃が、航空母艦の床を高速回転しながら疾走する。
 ベオが振り上げていた腕を止め、手のひらに闘気を込め始めた。
 水の刃を相殺するつもりだった。
 回転する刃は鋭そうだが、止められぬほどの威力はないはず。
 そういう判断を下したのだ。
 だが、目前まで水の刃が到達した瞬間。
 横合いから別の気配が飛び込んできた。
 シルビア・スカジィル。
 胸に受けた爪撃による出血もそのままに、全身に紫電を迸らせた赤毛の少女は、再び神の領域の速度を引き出していた。
 ラーンの水の刃と、シルビアの電の刃が交差する。
 二種の属性と倍加された斬撃。
 それでさえも。
「息の合った攻撃だが」
 獣の強靭さに加え、密度の高い闘気に守られた肉体には、多少傷が付いただけだった。
 ベオは倒れない。
 容赦のないカウンターが、シルビアの顔面に叩き込まれる。
 自ら後ろに飛んで衝撃を逃がしたが、それでも、シルビアの額が割れ、血が噴水のように噴き出した。
「掠ってコレかよ!」
 額の血を拭い、シルビアが悪態を吐く。
 それでも、脳が揺れていないだけマシか。
 一瞬、そう考える。
 その間に、すでにベオが目の前に迫っていた。
 シルビアは指をベオに向かって突き出した。
 拭った血が飛ぶ。
 目潰し。
「苦し紛れの小細工を弄するには、まだ早いぞ」
 姿勢を低くして血を避けたベオが、そのまま、床を滑るような蹴りでシルビアの脚を刈る。
 シルビアは跳躍して足払いを躱す。
 しかし、その脇腹に、床に手をつき、もう一方の脚で繰り出したベオの踵が抉り込む。
「ぐっ……!」
 さらにベオが起き上がりながらの、蹴りを仕掛けてくる。
 それは今までよりもさらに勢いがある。
「マズい」
 狙いがフランベルジュを握る右腕だと、気づいたシルビアが咄嗟に身を捻る。
 空中での無理な体勢。
 左腕に峻烈な蹴足が突き刺さる。
 シルビアの左腕は簡単に、ひしゃげた。
「……ッ!」
 骨が折れる。
 悲鳴を噛み殺したシルビアだったが、それで衝撃まで消せるわけもなく、そのまま、蹴り飛ばされる。
 代わって、ラーンが立ちはだかる。
 馬上槍(ランス)を横薙ぎ。
 鋼鉄と鋼鉄がぶつかり合う音が響く。
 ベオは強靭な腕で受け止め、押し返す。
 よろめいたラーンだったが、すぐさま水の壁を作り、ベオの攻撃を防いだ。
 だが、ベオの打撃は予想以上の威力を持っていた。
「えっ……?」
 ラーンの目の前で、水の壁が拳圧で突き破られる。
 破壊された衝撃で拳の形に変形した水が、ラーン自身の胸を強く打った。
 そのまま両脚を床へ引き摺るように押し込まれ、胸骨と肋骨が悲鳴を上げる。
「かふっ……!」
 堪らずに片膝を付いてしまう。
 視界で黄金が躍る。
 殺気が、合間を置かずに来た。
 右肩が裂ける。
 すぐに 左肩にも裂傷が走り、右脇腹を抉られ、左胸を斬られる。
 遠方からシルビアの胸を切り裂いた爪による斬撃だ。
 ――いけない。
 そう思ったが、遅い。
 斬撃による裂傷が身体中に刻まれていき、鮮血の霧が周囲へと広がっていく。
 ――このままでは鱠切りにされる。
 ラーンは精神力を振り絞って馬上槍を勢いよく振り下ろした。
 床が砕けるが、ベオに当たってはいない。
 攻撃のために繰り出した一撃ではなかった。
 防御のためだ。
 砕けた床の破片が、不可視の斬撃を止め、ベオの視界を塞ぎ、ラーンの姿を隠した。
「二人揃って目潰し系とは、な」
「悪いな、戦い方が汚くて!」
 飛び散る破片を突き抜けてきたのは、赤毛の少女。
 左腕を折られても、その闘志は衰えていない。
 その右手に握られているフランベルジュには、雷光が纏わりついている。
 ベオの肩を抉り、電熱が肉を焼く。
 もう一撃と剣を引いた瞬間、闘気の込められた爪が、シルビアの肩口から胸を深く裂いた。
 さらに蹴りが、赤毛の少女の喉に突き刺さった。
「がっ!?」
 頸椎が砕けるのではないかとさえ思える衝撃に、シルビアの意識が飛ぶ。
 しかし、彼女は倒れることを許されなかった。
 無数の打撃が、彼女を襲ったからだ。
 瞬きの間に、ベオの繰り出す殴打が、シルビアの全身を打つ。
 ジャブ、ストレート、アッパー。
 右、左、上、下、斜。
「ぐっ、ふっ、がっ、うっ……!」
 ありとあらゆる打撃が、ありとあらゆる方向から、シルビアの身体のありとあらゆる場所に打ち込まれる。
「お嬢!」
 相棒の惨状に、ラーンが走る。
 その声で、ベオが拳撃の嵐を止め、振り返った。
 ようやく激しい乱打から解放されたシルビアだったが、それでも彼女は倒れることができないでいた。
 全身に打ち込まれた無数の闘気と衝撃が、彼女の未だに無理矢理に立たせ続けているのだ。
 それは、シルビアの肉体の内部に打撃が留まり、破壊を続けているということだった。
 打撃痕が浮かんでは、皮膚が裂け、筋肉が歪み、骨が軋んだ音を立てる。
 地獄の続いているシルビアを背にし、ベオはラーンを迎え撃った。
 ラーンが渾身の力を込めて、馬上槍を突き出す。
 だが、その動きは簡単に止められた。
 馬上槍の先端を、ベオが握り締めていた。
 バキンッ。
 金属の割れる音が響いた。
 ベオの鉤爪が馬上槍に食い込み、円錐状の超重量武器の全身に亀裂が入っていく。
 そして、砕けた。
「なっ!」
 武器を破壊され、たたらを踏むラーンを迎えたのは、ベオの鋭い牙。
 牙の並んだ狼の口が、ラーンの右肩に喰いついた。
「うああああ!?」
 爪で全身を鱠切りにされた時の上を行く激痛に、身を反らせて絶叫を上げるラーン。
 鋭利な刃物のような牙が、肩の筋肉を切り裂いていく。
 激痛に痙攣するラーンの白い顔に、自らの鮮血が飛び散る。
「ぎっ、がああぁぁっ!」
 衣服もろとも右肩の肉を、噛み千切られた。
「悪いな、戦い方が凄惨で」
 ベオが布の残骸と肉片を床へ吐き捨てる。
 灼熱の激痛と酷烈な仕打ちに、ラーンの身体から力が抜ける。
「……あ……う……あ……ぁ……」
 その隙だらけになった鳩尾に、ベオの拳が深々と突き刺さった。
 今度は、水の分身体ではない本物のラーン・エギルセルの、鉄棍に散々痛めつけられた腹部へ、超重量を誇る馬上槍を容易く砕く握力で固められた獣の拳が、手首が埋没するまで突き入れられた。
 ラーンは、あまりの衝撃と痛みに、一瞬硬直せざるを得なかった。
 内臓が破裂するのを感じると同時に、込み上げてきた熱い液体を口から吐き出す。
 その血潮は、ラーンの胸元を服のもとの色がわからぬほど赤く染め上げた。
 そして、意識が飛ぶ。
 だが、ベオの攻撃は、まだ続いていた。
 拳をラーンの腹に埋めたまま、彼女を持ち上げ、疾走する。
 その先は壁。
 艦内を揺らすような衝撃と激しく重い激突音が、恐るべき悲劇を報せた。
 ラーンは鳩尾に拳を埋められたまま、壁に磔にされていた。
 打ち込まれた拳と壁に激突した衝撃で、挟まれたラーンの体内は粉砕された。
「うぁっ……あ……」
 衝撃と激痛で意識を取り戻したが、それは苦痛を味わうための覚醒でしかない。
 "戦狼"の背後で、ようやく肉体に残った打撃による破壊が終わり、無理矢理に立たせていた衝撃が消えたのか、シルビアが床に崩れ落ちた。
「うっ……あっ……お……お嬢……がはぁっ……!」
 もう一度、ごふりっと血を吐き、ラーンが項垂れる。
「どうした。もう終わりか?」
 ベオが、ラーンの腹に押し込む拳に力を加えながら、問いかける。
「終わりというなら、このまま貫いて即死させてやろう」
「かっ、はっ、……ぐぁっ……、お、……終わりでは……ない、わ……!」
 殺気。
 背後に現れる気配。
 大気を焼く電熱が、それが誰かを告げている。
 シルビア・スカジィル。
 左腕を折られ、全身を外と中から痛めつけられて尚、その相貌に宿る雷光は衰えていない。
 すでにボロボロの肉体に紫電を纏い直し、あきらめるということを知らぬとばかりに立ち上がっている。
「そうだ。終わるワケがない!」
「そうこなくては、この姿になった意味がない!」
 ベオはラーンの腹から埋めていた拳を引き抜き、シルビアの愛剣を迎え撃った。
 フランベルジュと獣拳が激突する。
 刃から電撃が、拳から闘気の奔流が迸る。
 赤毛の少女の唇の端から、血が一筋流れ落ちる。
 それでも、退かない。
 ベオの背後で、もう一人の戦士が立ち上がる。
 ラーン・エギルセル。
 全身を鱠切りにされ、右肩を噛み千切られ、腹部を徹底的に痛めつけられながらも、相棒を助けるために、そして、強敵を打ち破るために、立ち上がる。
「立ったか。ならば、来い。ならば、受けて立とう!」
 "戦狼"の声には狼狽はなく、歓喜がある。
 片腕でシルビアの剣を受け止めたまま、もう片方の腕をラーンへと向ける。
 その白く細い首をいとも容易く掴んだ。
 ベオの握力は鋼の馬上槍を容易く破壊する。
 だが、ラーンは恐れない。
 呼吸を殺される。
 それでも、怯まない。
 この距離、そして、シルビアが片腕を封じ、ラーンの首を締め上げるためにベオ自身がもう一方の腕の自由を抑制したこの状況。
 あきらめぬ心と、闘志が生んだ、必然。
 血流を圧迫され、首の骨が軋み始める中で、ラーンは両腕を伸ばそうともがいた。
 肩口の筋肉を噛み千切られた右腕は痺れたように動かない。
 精神力を振り絞って、動く左腕だけを伸ばす。
 自分の首を締め潰しているベオの腕にではない。
 無事な腕を、防御にも脱出にも使わない。
 向ける先は、ベオの胸部。
 そこにある、傷。
 シギュン・グラムに裂かれた古傷ではなく、馬上槍でラーン自身が抉った裂傷。
 鮮血の滲む、その傷口。
 獣の強靭な肉体の中で、もっとも防御力の弱まっている場所。
 そこに手が届く。
 そして、手のひらから激流が放たれた。
 傷口に、水の槍が突き刺さり、抉る。
 ベオの肉体に深々と突き刺さる。 
「ぐおっ……!」
 ベオが唸り、反動で仰け反る。
 だが、ベオは、ラーンの傍から離れることができなかった。
 彼を包むように周囲に水の柱が何本も立ち昇り、閉じ込めたからだ。
 水の牢獄。
「お、お嬢……私ごと……狩って!」
「死ぬなよ、ラーン!」
 それを合図にしたように、シルビア・スカジィルの全身が光り輝いた。
 その電光が、指向性を持った。
 水の牢獄を伝い、水の槍を伝い、ベオの傷口を伝い、その肉体の内部へ。
「喰らえぇぇ!」
 シルビアが叫んだ。
 雷光のすべてを、ラーンの造り出した水通じてベオの肉体に叩き込む。
 眩いばかりの閃光。
 大量に流し込まれた電熱が、ベオの全身を駆け巡る。
 シルビアの身体もまた無事では済まない。
 電撃使いであるはずの彼女の肉体の許容量さえオーバーするほどの、全力全霊の電撃だった。
 負荷に耐えきれなくなったシルビアの胸部の傷から鮮血が吹き出す。
「うおおおおおおおおおおっ!」
 怒号で激痛を掻き消す。
 ベオに首の骨を折られる寸前の上、彼を閉じ込める水の牢獄と彼に突き刺さっている水の槍を形成しているラーンもシルビアの電撃の余波を受けて、身体が破壊されていく。
 彼女はシルビアとは対照的に声を発せずに歯を食いしばり、無理矢理に戦意を保つ。
 ベオもまた退かない。
 右手でフランベルジュを押し返し、彼女自身の愛剣の刃と己の鉤爪を彼女の肩へと抉り込ませる。
 左手でラーンの首の骨を折らんばかりに、締め上げる力を込め直す。
 二人が一瞬でも気を抜けば、シルビアは切り裂かれ、ラーンは首を引き千切られるだろう。
 二人は耐えるように"戦狼"を睥睨(へいげい)し、焼き切れそうになる精神を奮い起して攻撃を続けた。
 そして、ついに、体内に直接電撃を叩き込まれ続けた黄金の狼の口から、血と絶叫が吐き出される。
「ぐおおおあああああああっ!」
 あまりにも強烈な電撃を直接流し込まれ、肉体が内部から爆ぜ始めた。
 身体中から血が噴き出し、黄金の体毛と漆黒のロングコートが赤く染まる。
 そして、戦いが決したことを報せるように、"戦狼"の胸の古傷から、鮮血がまるで噴水のように噴き出した。
「ぐっ……おお……」
 ぐらりと、ベオの身体が揺れる。
 全身から煙を上げ、床へと前のめりに倒れる。
 ベオの肉体は、人間のものに戻っていた。

 美しい唇が、荒い呼吸を続けている。
 だが、それだけだ。
 腕も、脚も、動かない。
 電撃で痺れているせいではない。
 死だ。
 死が間近まで来ているのだ。
 そのことを実感するベオに、上から声が降ってくる。
「アタシたちはブレイザブリクのアホを止めに行く。だが、その前に、手向けだ。約束もしてたから、な」
 シルビア・スカジィル。
 折れている左腕を庇うようにしながら、傍に立っていた。
 その傍らには付き添うように静かに佇むラーンの姿がある。
 ――まるで、一枚絵だな。
 奇妙に落ち着いた気分で場違いな感想を浮かべるベオに、シルビアが言う。
「"氷の魔狼"を倒したヤツのコトを聞かせてヤるよ」
「いや」
 ベオは首を横に振った。
「聞く必要はない。オレには理解できた。おまえたちと戦えて、な。"氷の魔狼"がなぜ勝てなかったのか」
 高揚感だ。
 久しく『相手』のいなかった自分の前に現れた極上の『獲物』。
 それに歓喜し、それに固執した。
 そして、それは、狼の本能がもたらしたものではなく、人間の理性が抱くものだった。
「交わす拳の熱さが、シギュン・グラムの氷を溶かしてしまったのだろう」
「ソレもある。だけど、ソレは決定的なモノじゃない」
 シルビアの答えは完全な肯定ではなかった。
 ベオの黄金の双眸に浮かんだ疑問の色に促されたように、シルビアは続けた。
「"氷の魔狼"の氷が溶けちまった本当の理由は……、シギュン・グラムが喰おうとしていた神代ちとせって女が甘ちゃんだったってことさ」
「これは聞いた話ですが……、シギュンさまは自ら命を断ったそうです。戦いで重傷を負っていた神代ちとせが命懸けで差し伸べた手を拒否して」
 付け加えるように、ラーンが言う。
「あのシギュンさまに手を差し伸べたのですよ」
「とんだ甘ちゃんだよ」
 シルビアが、ははっと気の抜けたような奇妙な笑い声をあげた。
「なるほど、な」
 驚き、そして、納得。
 一瞬で二つの表情を見せ、ベオが頷く。
「シギュン・グラムも、そして、おまえたちも、その少女に……」
「ほだされたってワケ」
 シルビアが器用に折れていない右肩だけをすくめ、大きく息を吐いた。
 ラーンも同じように、潰れかけている喉から長い息を吐く。
 二人を見上げながら、ベオが言った。
「……傑作だな」
「傑作だろ」
「傑作よね」
 シルビアとラーンがバツの悪そうに頷いた。

 ――その時だった。
 超大型航空母艦『ガルム』に激震が走ったのは。
 シルビアもラーンもバランスを崩して倒れそうに、いや、飛ばされそうになるのを必死でこらえた。
「爆発か……?」
「違うな」
 シルビアの脳裏に浮かんだ疑問を否定したのは、低い男の声だった。
 その声の主は、血塗れで壁に寄り掛かっていた。
「グレンデル!」
 シルビアが嫌悪に満ちた響きを隠そうともせず、ベオと戦う前に殺したはずの男の名を叫んだ。
 確かに急所を。
 心臓を。
 愛剣で貫いたはず。
 それなのに、グレンデルは活動を止めていない。
「なぜ、生きている?」
「おまえの剣は確かにオレの心臓を抉った」
 どす黒い血の塊を吐きながらも、グレンデルはニィッと唇の端を吊り上げた。
「だが、オレは死ななかった。なぜだかはわからん。だが、死ななかった」
 死ななかった。
 そう繰り返す。
「執念がわずかに命を繋ぎ止めたでもいうのかしら。それとも、復讐心が性急な死を拒んだ?」
 ラーンが憐みの視線を向けながら言う。
 シルビアは首を横に振った。
「執念や復讐心で延命できるほど、このゲスの根性は据わっちゃいないさ」
「でも、お嬢。それではなぜ……」
「よく見ろ、ラーン。ゲス野郎は屍人(グール)になってヤがるぜ」
 シルビアが決めつけたように言う。
 グレンデルの瞳孔は開き切っており、肌は土気色に変っている。
 口から吐いた血も、新鮮さがなく、固まりかけたものだった。
 確かに、瀕死の男というよりも、死人が動いているという表現の方がしっくりくる。
「コイツは死んでるのに、死んでいないと言い張っているだけのバカだ。大方、ブレイザブリクに呪法でもかけられていたんだろうぜ」
「オレは死ななかった。死ぬはずがない。オレは死なない。死ぬはずがない」
 グレンデルが不気味な声を上げながら、ゆっくりと腕を上げる。
 シルビアのフランベルジュで抉られた穴が、胸に開いているのが見えた。
 やはり心臓は止まったままなのだろう。
 もう血は流れ出していなかった。
「死ぬはずがない。死ぬわけがない。死ぬのはおまえたちだ」
 グレンデルが、壁に己の血で濡れた手を当てた。
 そこには、スイッチがあった。
 そして。
 先にも勝る轟音と震動が響き渡った。

 罠だ。
 その場の全員が、咄嗟に理解したが、動くことはできなかった。
 震動が凄まじかったこともあり、激闘によって肉体が傷つき過ぎていたこともある。
 壁に亀裂が入り、次々と崩れた鋼が落下してくる。
 そして。
 ついに。
 部屋の天井そのものに大きな亀裂が入り、崩れ始めた。
 それは、もはや、部屋のすべてを圧殺破壊する鋼鉄の塊だ。
 それは、シルビアもラーンも、ベオも、そして、グレンデルさえも、グシャグシャに圧し潰すだろう。
 それは、シルビアとラーンに絶望の表情をもたらすには十分なものだった。
 自分の心臓を抉った少女とその相棒を道連れにできることを確信したグレンデルが死相のまま満足そうに嗤う。
「ハハハッ、死ね。死ね。死ね死ね死ね……」
 その顔へと崩れた壁の一部が落下し、固まりかけの血液と脳漿が飛び散った。
 残った身体は四肢が大きく一度痙攣した後、動きを止めた。
 次の瞬間。
 爆音とともに天井が一気に崩れた。
 シルビアもラーンもどうすることもできない。
 重傷を負った身では逃げることさえ、できない。
 視界が落下する天井の影で暗くなる。
 押し潰してくるだろう衝撃と圧力を覚悟しする。
 死ぬわけにはいかない。
 死ぬわけにはいかないのだ。
 だが、鋼鉄の巨塊は途中で止まった。
「ベオ!」
 シルビアとラーンが驚愕の声を上げる。
 圧殺兵器を止めたのは、床に倒れていたはずの黄金の髪を持つ男だった。
 自らの数十倍もある巨大な鋼鉄の塊を、ベオはその肉体で受け止めていた。
 鍛え上げているとはいえ、ベオのどちらかといえば細身の、しかも、瀕死の重傷を負った身体では支えきれるはずがない。
 巨大な鋼鉄の塊を支えているのは、純粋な筋力ではない。
 その全身が、黄金に淡く光り輝いている。
 神々しいものではなく、暖かい光だった。
「行け」
 必死の形相だが、崩れゆく艦内に通る落ち着いた声で、ベオがシルビアとラーンに言った。
 双眸には穏やかな光が宿っている。
 黄金の光から感じるチカラに、シルビアが息を呑んだ。
「ベオ。オマエ、生命(いのち)を燃やして……」
「その通りだ」
 ベオは頷きたかったようだが、両肩で担ぐようにして落下する天井を支えているため、首を動かすこともできないようだった。
「もう霊気は残っていないからな。だから、長くは持たん」
「ベオ」
 ラーンが瀕死の身体に鞭を打って、首から下げている勾玉に手を掛ける。
 その勾玉には、危機に陥った時のための霊術が、かつての恩人の一人の手によって込められている。
「治癒の勾玉!」
 シルビアも、自分の下げているネックレスの勾玉を握った。
「コレを発動すれば、傷を癒せる!」
「ベオ、一緒に行きましょう。今すぐに傷を治します。そうすれば……」
 二人は瀕死の重傷だ。
 シルビアは左腕を粉砕骨折し、胸部には深い裂傷、そして、身体中に打ち込まれた打撃と自ら行なった超電導化の反動によって、肉体の外側も内側もボロボロになっている。
 ラーンも首の骨にひびが入り、全身に裂傷を受け、右肩を噛み千切られ、集中的に破壊を受けた腹部の奥ではいくつもの内臓を激しく損傷している。
 それにも関わらず、自分自身の傷を省みずに、ベオの身を気づかっている。
 的確な判断、とは言い難い。
 ――これでは、この二人も、命懸けで"氷の魔狼"に手を差し伸べたという少女を笑えないではないか。
 ベオは、フッと口元を一瞬だけ緩めたが、すぐに両眼から穏やかな光を消し、シルビアとラーンを睨みつけた。
 瀕死の身でありながら、その眼力は二人の動きを止めるのには十分な迫力を持っていた。
「それは、きっと、治癒の術の込められたマジックアイテムだろう」
「そうです。あなたほどの(おとこ)なら、傷さえ癒えれば脱出を……」
「不要だ。それをオレに使ってしまったら、おまえたちはこれからどうやってブレイザブリクと対峙するつもりだ」
「それは……」
「おまえたちが使うべきものだ」
「ベオ……!」
「イイ女たちと話をするのは嫌いじゃないが、もうオレの生命も持たん。悪いが、多少手荒くいくぞ」
 そう言ったベオの両眼でチカラが爆発した。
 黄金の気が激しく放出される。
 燃焼する生命力の成せる(わざ)か。
 落下する天井を支えながらも、それだけで、不可視の波動が、シルビアとラーンを吹き飛ばした。
「……ッ!」
「おまえらなら、今のでダメージを受けるほど柔じゃあるまい」
 奥の通路まで二人の身体が床を転がったのを見て、ベオが呟くように言う。
「ベオ……!」
「ベオ!」
 よろめきながらも、二人は立ち上がった。
 その顔は、どちらも曇っている。
 ベオは、しかし、笑みを二人へ向けた。
 美しい顔を彩るに相応しい透き通った美しい笑みだった。
 燃焼できる魂が甦り、その魂を甦らした者たちを送り出せるのだ。
 この場で朽ちることに、何の問題もなかった。
 そして、唐突に思う。
 "氷の魔狼"は、神代ちとせという甘ちゃんを道連れにしないために、自決したのだろう、と。
 ――ほだされた、か。
 ベオは長く息を吐いた。
「オレはおまえたちに、ほだされたよ。おまえたちも十分に甘ちゃんだ。だが、そのおかげで満足して逝ける」
 それが、"戦狼"の遺言となった。
 二人の目の前から、ベオの姿が消えたのは、すぐだった。
 轟音とともに鋼鉄の塊が、死闘の繰り広げられた場所を崩壊へと導いたからだ。
 


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