R & B
其の五 風穴


 ――シルビア・スカジィルは、その建物の玄関の上に掲げられた看板を見て、片眉を跳ね上げた。
 その館の主は、シャロル・シャラレイ。
 直接にあったことはないが、『ヴィーグリーズ』の進めていた『プロジェクト・ユグドラシル』の最重要人物だったはずだ。
「変わった占い師のようね」
 隣で、相棒のラーン・エギルセルが嘆息しながら、蒼い髪を揺らした。
 看板には大きく、日本語で、こう書かれていた。

 ――『運命に風穴を』

 ――熟したマスカットのような豊潤な芳香が部屋の中に漂っている。
 香りのもとは、最高級と思われるダージリン・ティー。
 三つのティーカップが置かれたテーブルを挟んで、ソファに座ったシルビアとラーンと向かい合うように、シャロル・シャラレイが腰かけていた。
「ようこそ、占いの館へ。あなたがたに、より良き未来を」
 シャロル・シャラレイはそう言って人好きのする微笑みを浮かべた。
「アンタがシャロル・シャラレイか」
 頷くシャロルをシルビアが、ねめつけるような視線で無遠慮に見回す。
 年齢は二十歳代半ばから後半のように見えるが、長い髪は卵の薄皮のような白い。
 肌もまた、最高級の白磁のように白い。
 そして、身に纏うのは雪のような純白の法衣(ローブ)
 全身が、白い。
 存在そのものが、白い。
 唯一の、白ではない色を帯びているものは、蒼玉(サファイア)のように輝く蒼い両眼。
 真っ赤なツインテールに、漆黒のゴシックロリータのドレスに身を固めたシルビアと、蒼い髪に、軍服のような衣装を纏ったラーンも、この日本では奇特といえる格好だったが、シャロル・シャラレイの姿は二人以上に別世界の住人のように見える。
 シルビアはテーブルの上に置かれたティーカップに手を伸ばそうもせず、シャロルへ尋ねた。
「看板のアレはなんだい?」
「はい?」
 シャロルが小首を傾げ、真っ白い髪が、さらさらと流れる。
 その若さに似合わない白髪は、彼女の神秘性を助長しているように感じられ、占い師という職業には、ぴったりと言えなくもない。
「『運命に風穴を』だよ」
「私の信条です」
「占い師が?」
「はい」
 シャロルが再び、にこりと微笑んだ。
 よく笑う。
 そこに照れや、誤魔化しや、嫌味はない。
 シルビアもラーンも、自分が、自然と微笑み返しそうになっていることを意識した。
「私には、すべてが視えるのです。未来視能力(プレコグニション)、そして、透視能力(クレヤボンス)のチカラによって、私はすべてを視ることが、すべてを知ることができます。かつて、私は、それに耐えられなくなり、占い師としての道を、いいえ、人としての道を踏み外してしまいました。しかし、あなたたちもよく知っている方々に救われました。未来は不確定のもの。未来は決まっていません。運命という巨大な潮流は存在しますが、それは万能でもなければ、絶対でもありません」
 静かに淡々と、だが、熱のある言葉を紡ぐ。
 蒼玉は、どこまでも美しく澄んでいる。
 小さく一息吐いてから、シャロルは言った。
「失礼ですが、右を向いていただけますか?」
 不審に想いながらも、シルビアは白髪の占い師の言葉通りに右を向いた。
「今度は、左を向いていただけますか?」
 言われるがままに左を向き、そして、理解しかねぬという表情で、正面に顔を戻す。
「……新手の占いか?」
「いいえ、私の運命の対し方を知っていただこうと」
 シャロルはまた笑い、そして、話し始めた。
「『右を向いたあなた』と『左を向いたあなた』、どちらもあなたです。『右を向かぬあなた』も『左を向かぬあなた』も、あなたです。そして、正面と右と左と後ろ、どこを向いたとしても、どこを向かなかったとしても、あなたの目に映る風景は違います。天を仰ぐことも、地を見下ろすこともできます。目を閉ざし世界を閉ざすこともできます。運命が我々を流すのではなく、我々が運命の流れを作るのです」
 どこまでも蒼い両目で、シルビアとラーンの顔を正面から見つめながら、シャロルは言葉を続けた。
「喜の未来、怒の未来、哀の未来、楽の未来、その他無数にある可能性。『こんにちは』、『ありがとう』、『どういたしまして』、『好き』、『嫌い』、言葉の一つでさえ、それらは変わる。望む未来の創造は、すべては心の持ちようでしょう」
「ソレで、『運命に風穴を』か」
「ええ」
「占い師よりも、宗教の教祖か、カウンセラーにでもなった方がイインじゃないか」
 そう言いながらも、シルビア・スカジィルは、シャロル・シャラレイの運命への対し方に好感を持った。
 闇の中で暗殺者として生き、光の当たる場所に辿りついてからも戦いの中に生きてきた。
 世界を壊したくて、生きてきた。
 父を、母を、自分を苦しめてきた世界を滅茶苦茶にしてやりたいと思ってきた。
 その自分が今は、世界を守りたいと思っている。
 師を、相棒を、そして、気恥ずかしいが、仲間というもののために、世界を守りたいと思っている。
 だから、占い師の言葉は、啓発的に過ぎていて、あるいは、青くさいもので、くだらないと笑う人間がいるかもしれないが、斜めにしか世界を見て来れなかったシルビアにとっては悪いものではなかった。
 そして、シャロル・シャラレイの笑い方が、心地好いものに感じられる理由を、なんとはなしに理解できた気がした。
 ふと、ラーンと目が合う。
 彼女もまた闇社会で同じような境遇に育ち、『ヴィーグリーズ』に所属した経緯がある。
 以心伝心の間柄だ。
 同じような想いを秘めていることが、すぐにわかった。
「あなた方のために、一つの未来の形をお教えしましょう」
 シャロル・シャラレイが、姿勢を正して、神秘的な白い髪を揺らした。
「 闇が、巨大で、深い、闇が、蠢き始めています。それは、獄炎の魔王の残り火、運命神の遊戯の副産物。闇は光を求め、光は闇へ降臨する」
 こちらを見つめてくる二つの蒼玉は、やはり澄んだままで、美しかった。
 しかし、宝石の冷たく輝く美しさではなく、人間の情味のある柔らかな美しさを持っている。
「光と闇が交われば、神々の黄昏(ラグナロク)の後に訪れるはずだった『新世界(ユミル)』へと昇華し、すべては混迷へと向かいましょう。今後、あなた方が進もうとしている道は困難を極めます。しかし……」
「『望む未来の創造は』」
「『すべては心の持ちようでしょう』」
 シルビアとラーンが、シャロルの言葉を引き取るように遮った。
 心底うれしそうに、シャロル・シャラレイが微笑んだ。
「運命に風穴を」――。

 ……。
 …………。
 ………………。
 ………………熱い。
 …………痛い。
 ……苦しい。
 呼吸が、できない。
「ゴホッ!」
 血が口から吐き出される。
 呼吸ができるようになったが、焼けつくような激痛が絶え間なく襲ってくる。
 それで目が覚めた。
 シルビア・スカジィルは朦朧とする意識を、苦痛と意志で無理矢理に呼び戻した。
 手の甲で、吐血の痕を拭う。
 はっきりとし出した視界で、冷ややかな金髪が揺れる。
 見下ろしているのは、漆黒のロングコートに身を包んだ月色の髪の男――"戦狼"ベオ。
 彼の手に握られた服と同じ色の鉄棍は、こちらには向けられていない。
「目が覚めたか。抵抗もできない者にトドメを刺すというのは趣味ではないのでな」
 相も変わらず、神経を波立たせる虚無の響きを持った声が降ってくる。
 鉄棍の先端とは違い、サングラスはこちらを向いていたが、その奥の双眸が、こちらを見ているかはわからない。
 "氷の魔狼"と同じように、何も映していないのではないだろうか。
 少なくとも自分の戦いが、まだ、彼の興味を引くにさえ値しないことをシルビアは理解していた。
 黄金の髪をかきあげ、ベオが静かに言う。
「さあ、立て。どうせ、降伏はしないのだろう?」
「後悔するぜ」
 強気を崩さずに、全身のバネを稼働させて跳び起き、距離を取る。
 膝に力が入らない。
 自身で認識しているよりも遥かにダメージが蓄積してしまっているようだ。
 崩れ落ちそうになる身体を、力強い腕が抱き支えた。
「お嬢、しっかりして」
 淀みのない声。
 いつも傍らにあり、いつも支えてくれる頼もしい蒼い髪の相棒。
 ラーン・エギルセル。
「ラーン。大丈夫か」
「今の今まで失神していたわ。お嬢と同じようにね」
 ラーンの口元も吐血の名残で濡れている。
 腹部にも鉄棍の打撃による痕跡が見て取れた。
 内臓に相当のダメージを刻まれているはずだ。
「お嬢」
「ん?」
「気を失っている間に夢を見たわ」
「……へえ、奇遇だな」
「奇遇?」
「アタシも見たよ。ニッポンでの夢さ。といっても、シンマラ師の夢じゃない」
「『運命に風穴を』という夢?」
「ああ、シャロル・シャラレイさ」
 二人は顔を合わせて笑った。
「アタシも甘くてバカな理想を抱くようになったモンだぜ」
「いいえ、お嬢は昔から情熱的だったわ。私に生きる目的をくれたのはシンマラ師だけれど、私に生きる情熱をくれたのはお嬢だもの」
「ラーン、ソレは褒めてくれているのか?」
「もちろんよ。理想がなければ、生きられない。魂がなければ、死んでいるも同然。だから、運命に風穴を開けて……」
「アタシたちの手で、ベオを(くだ)す」
 シルビアの全身を紫電光が駆ける抜ける。
 肉体的なダメージは大きいが、精神はまるで衰えていない。
 闘志も、霊気も、まだまだ十分にある。
 そして、電撃のチカラは、肉体の無理を引き出すことができる。
「お嬢、神経の超電導化を?」
「それだけの、敵さ。ベオは」
 神経の超電導化。
 人間に備わった神経と肉体の限界を超えるための絶技。
 神経に伝わる電気信号の抵抗を排除し、筋肉に架せられているリミッターを解除する荒技。
 かつて、降運命神(ノルン)魔王(スルト)との戦いに使用した、神の領域に踏み込む最後の切り札。
「それでも、勝つのは、アタシたちだ」
 雷光で闇を切り裂く。
 先程、そう決めたのだ。
 その決意を翻す気などさらさらない。
「大したものだ。致命傷とは言えないが、おまえたちの身体には相当の激痛が走っているはずだというのに」
 ベオの平板な声が飛んでくる。
 冷やかな金髪の男は、鉄棍を一振りした。
 極寒の風が、シルビアとラーンの肌を打つ。
 ベオの構えには隙はなく、厳冬のような威圧感だけがあった。
 しかし、二人は凍りつくことはなく、怯むこともない。
 彼女たちには、師であるシンマラやファーブニル老人より受け継いだ『炎』があるからだ。
 彼女たちには、友とともに戦いを潜り抜け、鍛え上げた『魂』があるからだ。
 "氷の魔狼"の亡霊が起こす北風には炎で勝ち、目の前の男の虚無から来る威圧には魂で抗える。
「良いだろう。全力で来い」
 ベオが鉄棍を打ち出す。
 だが、標的であるシルビアが消えた。
「!」
 否、一瞬にして距離を縮め、伸びきる前の鉄棍を弾いていた。
 目を見張ったベオの身体が衝撃に仰け反る。
 その隙の生じた喉元へ、一切の躊躇なく、シルビアのフランベルジュが振るわれる。
 黄金の髪が数本、空中を舞う。
 紙一重で凶刃を躱したベオが反撃に出ようとするが、それよりも速く、シルビアのゴシックドレスの裾が翻る。
 刈るように放たれたブーツの踵が、棍の動きを止める。
 さらに。
 そして、すでに。
 もう片方の脚が弧を描いている。
 狙いは、ベオの頭部。
 ゴッという固い音ともにブーツのつま先が、こめかみを抉る。
 サングラスのフレームにも、ひびが入る。
「ぐっ、おっ……」
 急所を抉られ、さすがのベオも苦痛の声を上げた。
 その目の前に、飛び上がっていたシルビアが着地する。
 だが、その動きは止まらない。
 よろめいているベオに愛剣フランベルジュを振り下ろす。
 ベオは鉄棍で辛うじて受け止めてきたが、そのまま押し込む。
 超電導化した神経と電撃による筋力操作が生み出す、小柄な体躯から想像を絶する重みで、吹き飛ばす。
 しかし、ベオも()る者。
 まるで猫のような身のこなしで体勢を立て直し、後方へとふわりと着地した。
「"赤き雷光"とは、よく言ったものだ」
「相棒の"青き清流"も、忘れちゃ困るぜ」
 肩を大きく揺らし、荒い息を吐きながらも、シルビアがニヤリと笑った。
「!」
 ベオの視界が揺れる。
 空間が割れた。
 否。
「水!」
 空中から水が流れ落ちる。
 その先に、蒼い髪が躍る。
 ラーン・エギルセル。
 水のヴェールと光の屈折を利用した光学迷彩。
 ベオが構えを取った時には、ラーンの馬上槍(ランス)が彼の胸元にまで伸びていた。
 血飛沫が上がる。
 漆黒のロングコートの切れ端が千切れ飛ぶ。
 胸部に裂傷が走っている。
 しかし、浅い。
 致命傷には、遠く。
 動けなくなるには、さらに遠い。
 ベオの判断は速い。
 胸に刻まれた傷を庇うような素振りも見せず、馬上槍の脇から鉄棍を突き入れる。
 馬上槍を突き出し、伸びきったラーンの肢体に避ける術はない。
 鳩尾に鉄棍が深々と突き刺さる。
 深いダメージの残る腹部への一撃。
 壊れかけの内臓を完全に粉砕する衝撃を受け、ラーンの身体が大きく揺れる。
 両目が大きく見開かれ、口から液体が吐き出される。
 そして、崩れ落ちる。
 ベオは違和感を感じた。
 ――手応えがおかしい。
 口から吐き出された液体も、血のようにも、胃液のようにも見えなかった。
 透明な、水だったようにも思える。
 それに気がついた時には、崩れ落ちたラーンの姿そのものが崩れた。
 ラーンのように見えていたそれもまた、水。
 水で造り出した分身。
 その分身もまた光の屈折を利用して、本物のように見せていたに過ぎない。
 光学迷彩による『姿隠し』と『分身』。
 二段構えの罠。
 それは、ベオをして隙を生じさせるのに十分なものだった。
 馬上槍の突き上げるような一撃が下方から伸びてくる。
 風を切り裂く音が、ベオの耳朶を打つ。
 身を守るために構えられた漆黒の鉄棍が、弾かれ、その両手を離れた。
 それでも、ラーンの渾身の一撃は勢いを止めることはない。
 サングラスが飛ぶ。
 しかし。
 それでも。
 それでさえも。
 馬上槍の一撃は、額を掠めただけだった。
 まだ、届かない。
 致命傷に、届かない。
 ベオの生命には届いていない。
 彼の武器である鉄棍をその手から弾き飛ばし、彼の表情を隠していたサングラスを吹き飛ばし、彼の両眼を露わにしただけ。
 だが。
 それまで虚無に彩られていたベオの顔が、初めて熱を帯びた。
 その両眼は、黄金。
 その両眼には、しかし、光がない。
 否、なかった。
 その瞳孔が縦に裂け、獣性が宿った。
 獰猛な、光が。
「これ、か」
 ベオが呟くように言った。
 その手を血の流れ出る胸に当てる。
 ラーンとシルビアが息を呑んだ。
 ベオの胸部に、ラーンの馬上槍で抉られた裂傷とは別に、交差するように古い数本の裂傷が走っているのが見えたからだ。
 新しく刻まれた傷とは比べものにならないほど深く、心臓にまで達しているのではないかとさえ錯覚してしまうような、古傷。
 二人が息を呑んだのは、古傷の凄惨さを目の当たりにしたからではない。
 ベオの胸の古傷が"氷の魔狼"によって抉られたものだと、気づいたからだ。
「ベオ、その胸の傷は……」
 ラーンの発した声は掠れていた。
 シルビアは険しい表情で沈黙していた。
「シギュン・グラムの氷爪で抉られたものだよ。この古傷こそ、敗北の証だが……」
 ベオの獣性を露わにした狂眼が二人へと向けられる。
 古傷に、新たな傷から流れ出た真っ赤な血が染み込んでいく。
 胸に当てた手のひらも、血が濡らしていく。
 その手を、シルビアのトゥーキックを喰らったこめかみに当てる。
 やはり、痛みが脈打っている。
 血は生暖かい。
 そして、痛みは、疼いている。
「この感覚だ。おまえたちの刻んできた傷にもある。この、感覚だ」
 胸に刻まれている古傷が、疼いた。
 "氷の魔狼"との戦い以来久しく忘れていた、この感覚。
「これ、だ。この高揚感、だ」
 血が流れ出す代わりに、異なるものが流れ込んでくる。
 痛みが滲み出ると同時に、異なるものが染み込んでくる。
 底なしの深淵に、満たされるはずのない虚無に、流れ込み、染み込んでくる。
 戦いとは、自分自身の肉体を、精神を、生命を削るもの。
 その信じられぬほどに大きな代償と引き換えに得られるのは、ただ一瞬の生の実感だけだ。
「二人がかり。"氷の魔狼"シギュン・グラムの完璧さには、程遠い」
 だが。
「悪くはない」
 ベオが美しい唇の端を吊り上げた。
 それは、笑み。
 獰猛な獣が、獲物を狩る時に浮かべる笑み。
 見つけた。
 代替を。
 目的を。
 生、を。

 ――ベオのスマートな姿からは想像もできぬ、獣そのものの殺気が溢れ出した。
 


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