R & B
其の四 渾身


「"凍てつく炎"の戦う姿を見たことがあるか?」
 油断なく構えながら、ジークがハーゲンへと問いかけた。
 ハーゲンもジークの動きから片時も視線を外すことなく答える。
「残念ながらない、な」
 "凍てつく炎"織田(おだ) 霧刃(きりは)
 霊的な能力所有者たちの、特に闇の世界に属するものたちの間で、その名を知らぬものはいない。
 もっとも有名な"凍てつく炎"の他にも、"死神"、"闘神"と、数々の異名を持つ"世界最高の退魔師にして退魔師狩り"。
 当然、ハーゲンもその存在は知っている。
 総帥ランディ・ウェルザーズが雇い入れたという話も聞いてはいたが、その姿を見たことはなかった。 
 『ヴィーグリーズ』が『ユグドラシル・プロジェクト』を推し進めるために日本の拠点としていた超高層ビル『ヴァルハラ』が崩壊した際に、行方不明となったとも聞いている。
 ジークが一歩、足を進めた。
「実を言えば、オレもない。一度戦ってみたかったのだがな。"世界最強の退魔師にして退魔師狩り"とまで呼ばれた使い手と」
「……」
「だが、その妹とは拳を交えることができた」
 日本での『プロジェクト・ムスペルヘイム』の遂行において、ジークは、"凍てつく炎"の妹である鈴音(すずね)と二度戦った。
 一度目は霊樹の生い茂る樹海の中で、二度目は『ヴィーグリーズ』の拠点の一つ『ナグルファル』の中で。
「オレが今まで対峙してきたものはすべて、パワーだけで叩き潰せる者たちだった。だが、あの女は違った」
 ――あの女は美しかった。
 そう、ジークは鈴音と戦い、彼女を美しいと思った。
 色恋の想いではない。
 彼女の信念にも戦い方にも、切れ味の鋭い刀――日本刀のような美しさを感じていた。
「『柔よく剛を制す』とは、ああいう戦い方をいうのだろうな」
「古代中国の兵法の書『三略』の一節だな。『しなやかなものは、かえって剛強なものを押さえつけることができる』という意味だったか」
 ハーゲンの知識を聞き、「日本のことわざだと思っていたが違うのか」と、ジークが苦笑する。
 もっとも、出典などどうでもよいのだ。
 重要なのは、その中身でしかない。
「オレには無縁の言葉だと思っていたが……」
「まさか、ジークよ。おまえもそういう戦い方をしようというのではあるまいな」
「無理だ」
「そうだろう。おまえの戦い方は破壊力はあっても大振り過ぎる」
 ハーゲンが決めつけるように言う。
 確かに、ジークの戦い方は、繊細とは言い難い。
 技巧がないわけではないが、洗練はされていても、それはパワーファイターのそれでしかない。
 城塞のような鋼鉄の肉体こそが、至高の武器であり、もっとも信頼できる防具なのだ。
 だが、しかし。
「だからこそ、私に肉体を削られる」
 ハーゲンが拳を固め直す。
 ギリッギリッと筋肉が鳴いた。
 一瞬にして間合いが消える。
 重い衝突音とともに、床が陥没した。
 ハーゲンの右拳を太い腕で受け止めたジークの踏ん張った両脚が床に沈む。
 震動と衝撃が物理的な風を起こす威力。
 打撃をガードした腕からミシリという鈍い音が響き、ジークの顔が歪んだ。
「ぬう……!」
 ハーゲンの左脚が風を切る。
 轟音とともに着弾。
 加重された一撃が、鍛え上げられた腹筋を突き抜け、内臓へダメージが刻みつけられる。
 前屈みになったジークの顎に飛来した新たなる砲弾は、ハーゲンの左拳だった。 
 意識はある。
 視界にも映っている。
 だが、避けることは不可能だった。
 顎を砕かれ、脳が揺れる。
 そこへ、さらに顔面へと加重された一撃が打ち込まれた。
 衝撃に飛ばされ、床を転がったジークは、ハーゲンの数歩先で体勢を立て直そうと立ち上がる。

「もっと来い。オレの肉体を削り切るか、それとも、おまえの霊気が先に尽きるか、試してみろ」
「確かに、私もおまえを打つ度に消耗するが、それでも、おまえの命が先に尽きるだろう」
「どうかな」
「……ジーク。おまえの頭の中は、戦闘のことばかりだな」
「オレは戦士だ。『ヴィーグリーズ』に入ったのも、腕を磨くにはうってつけの場所だと思ったからだ。おまえやファーブニル老人のように、『革命』を求めていたわけじゃない」
 ジークは言う。
「オレはオレのために拳を振るってきた。自身の極限というものを見てみたかったのだ」
 自分は一介の戦士に過ぎない。
 その戦いへの想いは外の世界ではなく、内の世界へと向けられていた。
 ただひたすら、自分を高めるための、昇華するためだけの拳だった。
 孤高の拳だった。
「それは見えたか?」
「ああ、見えた」
 ジークはあっさりと言った。
「先の戦いで、二度も同じ相手に敗北してしまったからな」
「その相手が、"凍てつく炎"の妹というわけか」
「そうだ。イイ女だった」
「ジーク。自分のために拳を振い続けたおまえが、どうして、自分の極限を知った後も拳を振い続けるのだ?」
「うむ、それだ。日本で、敗北というものを二度も味わってからも、オレの拳は戦いを求めていた。それで、その理由というものを初めて考えてみたのだが……、オレは、どうやら、ラーンや赤毛の小娘(ガキ)のためなら拳を振るってやっても良いと思ったようなのだ」
「自分自身のことなのに、ずいぶんと曖昧な物言いではないか」
「何しろ、他人のために拳を振るうというのは、慣れていないのでな。ファーブニルとシンマラたちの『決闘』に助力したことはあったが、それとも少し勝手が違う」
「なるほど、……そうか」
 噛みしめるようにゆっくりと、ハーゲンが頷く。
 そして、不意に笑い出した。
「……ふっ、……はっはっはっ!」
 ジークは不審を抱いたが、ハーゲンは笑い続けた。
 野太く、なぜか心に響く、不思議な笑いだった。
 ひとしきり笑った後、表情を引き締めると、言った。
「ジーク、そろそろ決着をつけようではないか」
 鋭い眼光だった。
 力強く、奇妙に澄んだ眼をしている。
「ハーゲン?」
「おまえのように生きられれば、と、思ったのだ。シンマラの弟子たちは嫌いではないからな。もし、そうできれば、この場にはいなかっただろう」
 ハーゲンはジークの顔を真っ直ぐに見つめながら、淡々と続けた。
「しかし、義に生きるのも、我が人生。もはや、ブレイザブリクに捧げた身だ」
 ――ナンナ・ブレイザブリクには、かつて命を救われた恩がある。
 ハーゲンがそう言っていたのをジークは思い出した。
 その恩に報いるために、ハーゲンは拳を振っているのだろうか。
 だが、目の前の巨漢は、物語をしようとはしなかった。
 ただ、その姿には今まで以上の威と迫力がある。
「私は、おまえを倒すために、この場にいるのだ」
 ハーゲンは静かに、しかし、強い語調で言った。
「オレも、おまえを倒すために、ここにいる」
 ジークもまた堂々と応じた。

 二人の距離が縮まっていく。
 両者の闘気がぶつかり合い、お互いの肌を打つ。
 気迫と気迫。
 熱と熱。
 艦内を焦がすような気焔が、周りを囲むように渦巻く。
 ピタリ、と巨漢二人の動きが止まった。
 まるで、威嚇し合うように聳え立った塑像の如く、不動の構えのまま睨み合う。
 恫喝されたように大気が一瞬大きく震え、そして、訪れたのは、静寂。
 呼吸さえも、心音さえも消えてしまったかのような、静けさ。
 時折、航空母艦が大きく揺れるが、それさえも二人には無用の外世界の出来事だった。
 ただ、静かに、二人は向き合っていた。
 静かに刻まれていた時が動き出したのは、唐突だった。
 風が鳴いた。
 空気が慄く。
 仕掛けたのは、ジーク。
 床を砕く踏み込みが、間合いを一瞬にして消し去る。
 筋肉の塊と評される巨漢が、その全身の筋肉を全力稼働させた全速。
 肉眼で捉えることさえ困難な速度の中で、密度の高い筋肉が音を立てながら熱を放射し、拳が大きく振りかぶられる。
「うおおおおぉぉ!」
 野太い雄叫びとともに繰り出される一撃。
 轟と風を切る音が、その威力を十分に予想させる。
 拳の軌道の先にあるのは、拳によって粉砕されるべきものは、ハーゲンの異相。
 しかし。
 着弾のその、寸前。
 ジークの胸部で爆発が起こった。
「がっ……!」
 衝撃と激痛と熱さに襲われ、ジークの目が大きく見開かれる。
 それは、正確には、爆発ではなかった。
 拳。
 ハーゲンの拳。
 迎撃として放たれた拳。
 質量の増した拳が、ジークの分厚い胸板に突き刺さったのだ。
 大気が揺れるほどの衝撃が、背中まで突き抜ける。
 渾身の一撃へのカウンターは、やはり渾身の一撃だった。
 埋まった拳によって、ジークの大胸筋が陥没していた。
「ぐううっ……」
 低い呻きと真っ赤な血が、口を割って出た。
 メキメキッと奇妙な音が鳴った。
 ジークの逞しい背中から、その音は聞こえてきた。
 筋肉が盛り上がり、亀裂が入っていく。
 そして、爆ぜた。
 肉片が飛び散り、血が吹き出した。
「ぬぐおおおおッ」
 ジークは倒れなかった。
 がっしりとハーゲンの腕を掴む。
「!」
 ――終わらぬ、か。
 ハーゲンは悟った。
 ジークはまだ終わらない。
 渾身の一撃に反撃を受け、胸部を打ち抜かれ、それでも、終わらない。
 受けた一撃さえ、次へと繋ぐ。
 ――私を捕えたつもりか。
 しかし。
「ぬううん!」
 力み、押し込む。
 拳を。
 軋んだ音を立て、ジークの胸板へ拳を沈めていく。
 胸骨が砕ける感触。
 それでも、腕を止めるつもりはない。
 ジークと同じ名の北欧の英雄が死んだ時のように、鋼鉄の肉体を拳で背を貫く。
 そうしなければ。
 そうしなければ、この目の前の戦士は倒れない。
 ハーゲンは確信していた。
 それゆえに、拳を引かない。
 掴まれたまま、腕を押し込む。
 分厚い筋肉を引き裂く。
 ごぼりっ。
 ジークが血塊を吐き出す。
 だが、ジークはハーゲンの腕を掴むを緩めない。
 それどころか、さらに力強く万力のように締め上げる。
 ハーゲンの腕が軋んだ音を立てる。
 しかし、ハーゲンは退かない。
 拳への重量を増し、押し込む。
 そして、ついに。
 ハーゲンの拳が、ジークの肉体を突き破った。
 広大な背の中心を突き抜けた。
 そして。
 ジークの鋼鉄の肉体が弛緩した。

「……」
 そこで初めて、ハーゲンは拳を引こうとした。
 瞬間、悪寒が走った。
 終わって、いない。
 まだ終わっていない。
 そう気づいた時には、すでにジークの肉体に力みが戻っていた。
「!」
 ジークの胴の筋肉が、その肉体を背まで貫いたハーゲンの腕を締め上げ始める。
 ――抜けぬ。
 ハーゲンの顔に動揺が走る。
 鋼の筋肉が、腕を引き抜かせない。
 しかも、全身から力が抜けていく。
 ジークの肉体が、霊気を吸い取っているのだ。
 鋼鉄の城塞は陥落しておらず、敵のチカラを奪いながら活動を続けている。
 ジークが再び血を吐き、だが、獰猛に笑った。
「オレを殺すなら、心臓を握り潰すべきだったな」
「お、おおおおお、おおお!?」
 ハーゲンの叫びと鈍い音が重なった。
 右腕の皮膚が裂け、筋肉がひしゃげ、骨が砕ける。
 もはや使い物になるまい。
 鮮血に塗れたジークの肉体が、膨張した。
 瀕死のはずの肉体に、存在しているのは、死を待つばかりの脱力ではなく、この上ない力み。
「全身全霊の一撃の次。かつてのオレには不要のものだったが……今のオレはそう簡単に負けるわけにはいかぬようになったらしいのだ」
 らしいのだ。
 先程の会話と同じように、奇妙な物言いをしながら、ジークは力みを強めた。
 その瞬間、ハーゲンは決断を終えていた。
 第二射が来る。
 すでに、城塞の主砲の準備が整っている。
 ――対抗せねば!
 自らの左手に質量を付与し、死んでいる右腕を握り潰し、引き千切った。
 ――抜けぬなら、切ればいい。
 歴戦の漢に、迷いはまったくなかった。
 それでも、遅い。
 遅い。
 遅いが、それでも、ハーゲンもまた残った砲門を開く。
 質量を充填する。
 しかし。
 足りない。
 絶対的に足りない。
 充填が、力みが、何よりも、最大の武器である重さが、足りない。
 霊気を吸い取られ過ぎた。
 相手は瀕死。
 胸に大穴が空いているのだ。
 こちら以上の重傷。
 それでも、この次の一撃は。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 城塞が、鋼鉄が、ジークが吼えた。
 全身から血が吹き出しながら、右拳を突き出す。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 ハーゲンも吼えた。
 引きちぎれた右腕から血を大量に流しながら、左拳を突き出す。
 拳と拳が激突チカラの奔流がお互いを貪り喰う。
 その影響で周囲に新たなチカラの奔流が生まれ、空気が爆ぜる。
 爆ぜる。
 爆ぜる。
 爆ぜる。
 そして。
 爆ぜた。
 ハーゲンの拳が。
 甲の骨が折れ、指が千切れ、手首が裂ける。
 そして、ジークの拳は勢いを衰えさせることなく、ハーゲンの左胸に突き刺さる。
 皮膚を破り、筋肉を破壊し、……脈打つ『それ』へと到達する。
 ――心臓。
「ジークよ。行くが良い。おまえが『守りたいらしい』と思い始めた者たちのところへ」
 ハーゲンは自らの心臓を打ち抜かれながら、言った。
「私は義に尽くし、義を誤ったようだ。ブレイザブリクは以前の彼女ではない。光を待ち侘び、光りに焦がれ、狂……」
 ハーゲンのその言葉は最後まで紡がれることはなかった。
 その前に、ジークの剛拳によって、爆ぜたからだ。
 爆ぜてしまったからだ。
 ハーゲンの心臓が。
「……さらばだ。ハーゲン」
 動かなくなった巨漢の左胸から、ジークが拳を引き抜く。
 だが、ハーゲンは倒れなかった。
 両腕を失い、心臓を潰されても、倒れなかった。
 それが、ハーゲンという(おとこ)の最期だった。

「オレは、行くとしよう。おまえの言うように」
 拳を交わした強敵の死を看取ったジークはゆっくりと拳を開き、分厚い胸板に開いた大穴に手を当てた。
 討った強敵のためにも、死ぬわけにはいかぬ。
 いつ気を失ってもおかしくない苦痛に耐え、瀕死の肉体を少しでも治癒すべく全身に霊気を巡らせ始めた。
 


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