R & B
其の三 価値


 闇があり、光がある。
 光があり、闇がある。

 まったき闇色をした瞳を上へと向ける。
 そこに天空は広がっていない。
 巨大航空母艦を形成する資材でできた天井があるだけだ。
 だが、まったき闇色をした長い髪に包まれた頭の中では知っている。
 天井の上には、天空があり、天空には光が満ちていることを。
 万色にして、無限の輝きがあることを。
 すべてを照らす煌きがあることを。
 まったき光があることを。

 まったき闇色をした長い髪。
 まったき闇色をした両の瞳。
 それらと対照的な、血さえ通っていないのではないかと疑うほどの白い肌。
 そして、その身には喪服の如き暗黒色のドレスを纏っている。
 ――ナンナ・ブレイザブリク。
 かつては、『ヴィーグリーズ』の総帥第三秘書の地位にあったうら若き美女。
 今は、急進(ブレイザブリク)派の領袖。
 彼女は、超巨大航空母艦『ガルム』の最深部にいた。
 闇色の瞳を閉じ、闇色の髪を流し、闇色のドレスを揺らす。
 右手に携えた長剣を掲げる。
 その剣には名があった。
 魔剣『ミスティルテイン』――ヤドリギ――闇が光を殺した『死の(つるぎ)』。
 世界を破滅させる『神々の黄昏(ラグナロク)』の予兆をもたらした『黒の(つるぎ)』。
 盲目ながら戦を司る神の『戦の(つるぎ)』。

 ナンナ・ブレイザブリクは、黒く長い睫毛に縁取られた両目を開いた。
 そして、言った。

 初めに創造されたのは、天と地だった。
 地は混沌であり、闇が深淵の面にあった。
 光あれ――、と。

 しかし、言葉とは裏腹に、彼女の発する闇色の妖気が、臨界点へ向かって増大し続けていた。

 ――ラーン・エギルセルは、ほとんど芸術的な動きで、本来、馬上で扱う馬上槍(ランス)を振り回し、向かってきた男の胸板を貫いた。
 男は低く呻き、続いて、口からどす黒い血を吐いて、仰向けに倒れた。
 噴き出す血。
 視界を染める紅を割って飛び出す別の男。
 味方の犠牲を無駄にしない攻勢は、強い意志がなければ実行できない。
 それは、兵士たちの勇猛さと優秀さを示すものでもあった。
 だが、ラーンは静かな湖面のように表情を変えない。
 左の手のひらを突き出し、水流を放つ。
 男は吹き飛ばされて壁に背を打ちつけ、床に崩れると動かなくなった。
 一息を入れる間もなく、突撃銃(アサルトライフル)の射撃音が鳴り響く。
 しかし、無数の弾丸はラーンに到達することはできなかった。
 周囲に盾のように張り巡らされた分厚い水の膜が、ことごとくを飲み込み、受け止めていた。
 ラーンが両目に気合いを込める。
 弾丸が撃ち返され、突撃銃を携えた男たちは肉体を撃ち貫かれ、崩れ落ち、床を死の赤に染め上げた。
 すでに二十人以上の敵兵が道に立ち塞がっているが、ラーンはそのことごとくを蹴散らして突き進んでいる。
 ひとりたりとも逃げずに向かってくる。
 哀しいことだが、しかし、勇敢さを称えるべきことでもあった。
 やがて、ラーンの耳に激しい音が聞こえてきた。
 金属音。
 打撃音。
 爆裂音。
 この先で激しい戦いが繰り広げられているようだ。
 感じられるのは、二つの巨大な霊気。
 片方は虚ろで、掴みどころがない。
 殺気も淀んでいたが、どこか底知れぬものを感じさせた。
 もう一つの霊気は、よく知っている。
 ラーンが間違うはずもない、愛しい存在のものだ。
「お嬢が戦っている」
 ならば、底知れぬ霊気の持ち主は、ナンナか、ベオか、それとも、それ以外のブレイザブリク派幹部か。
 確かなのは、今、ジークと戦っているだろうハーゲンではないということだけだ。
 とにもかくにも、お嬢のチカラを以ってしても簡単には討てぬ相手だと直感が告げている。 
 ラーンは霊気を練り直して、加速した。
 艦内に響く戦いの音に、軍靴が床を打つ音が混じり、響き渡る。
 この先にいるものたちには、容易に霊気も気配も悟られてしまうだろう。
 奇襲にはならない。
 だが、それで良い。
 お嬢にも、敵にも、自分という援軍が向かっていることを知らせることができる。
 それは、お嬢の士気を上げることが、そして、敵の意識をお嬢だけに集中させないことができるはずだ。

 その場に到着したラーン・エギルセルが見た光景は、彼女の予想を裏切っていた。
 戦いは決しているように見えた。
 お嬢は、――シルビア・スカジィルは、立っていた。
 毒々しい雰囲気の漆黒のゴシックロリータのドレスのところどころは破れ、その全身からは黒煙が上がっている。
 火傷の痕はなく、炎による攻撃を受けたわけではなさそうだ。
 もちろん、自分自身の放つ電撃に感電したわけでもないだろう。
 全身に刻まれた打撃痕と痣。
 それが、ラーンにシルビアから上がる黒煙の原因を見極めさせた。
 無数の高速打撃。
 恐るべき連続の破壊打がシルビアの肉体を打ち、摩擦が煙を生んだのだろう。
 それだけに、お嬢の肉体に刻まれたダメージは計り知れない。
 筋肉も、骨も、内臓も、倒壊しかけているに違いない。
 それでも、お嬢は、――シルビア・スカジィルは立っている。
 肩を大きく揺らして荒い息を吐きながら、床へ大の字に倒れている男を見下ろしながら。
 男の傍らには、黒い鉄棍が転がっている。
 シルビアを痛めつけていたのは、この鉄棍だろう。
 そして、その武器の使い手は、ラーン・エギルセルも良く知っている男。
 黄金の髪とスマートな長身を持ち、"戦狼(ヴェアヴォルフ)"と呼ばれる男。
 ブレイザブリク派の武における双璧の片割れの男。
 そして、今、床に倒れている男。
「ベオ」
 ラーンが男の名を口ずさむと、そこでようやくシルビアがラーンの方へと顔を向けた。
 どうやら、ラーンの到着に気づいていなかったようだ。
 戦機に敏なシルビアとしては珍しい。
 それだけ、ベオとの戦いに集中していたということなのだろう。
 援軍の存在を匂わせてシルビアの戦いを有利にしようとしたラーンの気づかいは無駄になったようだが、今の『お嬢が勝っている』状況を見る限り、ラーンの取った行動には何の問題もない。
 ラーンが、ほっと息を吐いた。
 安堵感が自然と微笑みを浮かべさせる。
「ラーン!」
 シルビアの鋭い声が飛んだのは、その時だった。
 介抱しようと近づきかけたラーンの足が止まる。
「お嬢?」
「まだ終わってない」
 シルビアの顔は緊張に支配されていた。
 その視線は再び、倒れたベオへと落とされている。
 眼輪筋がひくつき、頬を冷や汗が伝っている。
 尋常でないシルビアの様子を見て精神を引き締め、ラーンもベオへと視線を向けた。
 ベオは仰向けに倒れていた。
 しかも、大の字だ。
 黄金の髪が乱れて顔に掛っていることと、目を隠すサングラスのため、その表情は窺えない。
 ベオの端整な形をした唇が、ふぅっと息を吐き出した。
「ラーン、来たか」
 気力の感じられない張りのない声が、発せられる。
 だが、しかし、その声には疲労も苦痛も蓄積していない。
「相変わらず、雰囲気のあるイイ女だな。可愛げのない赤毛のガキとは大違いだ」
 軽薄な物言いをしながら、ベオは傍らに転がっている鉄棍を手に取り、ゆっくりと起き上がった。
 美しい黄金色の髪と漆黒のロングコートの裾がゆらりと揺れた。
「ベオ」
 ラーンは険しい視線でベオを睨みつけた。
「お嬢の悪口は許さないわ」
「……事実を述べただけで、悪口を言った覚えはないぜ。なぁ、シルビア・スカジィル」
「可愛げなんてモノは、当の昔に捨てちまった。もっと別に欲しいモノがあったからな」
 ベオの呼びかけに、シルビアは両目を半眼にして唇の端を吊り上げ、肩をすくめて応えた。
「まあ、ソレも、手に入れたら手に入れたで維持するのがタイヘンだってのが、よぅやっとわかってきたトコさ。そうだろ、ラーン?」
「そうね。でも、手放す気もしないわ」
 ラーンが首肯し、シルビアも頷き返す。
「……それが、おまえらが、ここに来た真の理由か」
 ベオはサングラスのブリッジを右手の中指で押し上げた。
 大きく息を吐く。
 シルビアが、ラーンが手に入れたもの。
 それは察しがつく。
 きっと、それは一定の年齢を超えた者たちであれば、そして、一定の権力を持った者たちであれば、『黄色い嘴』にでも例えてしまうようなものだろう。
 だが、それには価値がある。
 闇の中で生きてきたからこそ、彼女たちには価値がある。
 自分にはない。
 "氷の魔狼"シギュン・グラムに求めたものこそ、それに近いものだったのだろう。
 シギュン・グラムはもっと違うものを見ていた。
 否、何も見ていなかった。
 だが、それでも良かったのだ。
 一方的な情熱でも良かったのだ。
 暗い情熱で良かったのだ。
 焼き焦がし、煮え滾らせ、命を賭した激情を向ける対象でさえあれば良かったのだ。
 しかし。
 もはや、"氷の魔狼"は、いない。
 シギュン・グラムは、いなくなった。
 いなくなったのだ。
 永遠に乗り越えることはできない。
 もう、この手で殺すことはできない。
 殺されることすらできない。
 目的がないということはこれほどの虚脱感を伴うことだったとは知らなかった。

「おまえは先程言ったな」
 ベオはサングラスの奥から視線をシルビアへ向けた。
「『"氷の魔狼"を倒したヤツ』のことを教えると」
「ハンッ、まだダメだね。オマエ、手抜いてンだろ」
 意地の悪い表情で応えるシルビアに、ラーンが呆れたようにため息を吐いた。
「お嬢、そんな約束をしてしまったの?」
「勢い」
「お嬢……」
「あの"馬の尻尾"も許してくれンだろ」
「たぶんね」
 仕方がないというように、ラーンは頷いた。
 そのやり取りを凝視したまま、ベオは虚無を内包した声で言った。
「……手を抜いている、か」
 ゆらりと、漆黒のコートの裾が揺れた。
 周囲の温度が低下したかのような悪寒がシルビアとラーンの背を駆け抜ける。
 二人の表情が緊張に強張る。
 シルビアがフランベルジュを、ラーンがランスを構え直す。
 その視線の先で、ベオの姿が消失した。
 二人が目を見張る。
 次の瞬間。
 何かが破裂したかのような音が響いた。
 二人の身体が硬直する。
「……ぐっ……ッ!」
「……っは……ッ!」
 シルビアの腹には鉄棍の先端が深々と埋まり、ラーンの鳩尾にはベオの左拳が抉り込んでいた。
 鉄棍と左拳が同時に腹から引き抜かれると、二人は痛苦の唾液を口から吐きながら、よろめいた。
 反撃を試みようとしたシルビアの足がベオの鉄棍に払われ、転倒する。
 ラーンもまた行動に出ようとしたが、ベオの鉄棍が翻り、顎を打ち上げられる。
 鉄棍はそのままベオの見事な捌きで大きく回転し、床に倒れているシルビアの腹に打ち下ろされた。
「がっ……!?」
 シルビアの瞳孔が針の先のように収縮し、唇を吐血が割って出る。
 赤い髪の頭が、ぐったりと横を向く。
 しかし、意識を闇に落としたシルビアは一瞬後にはすぐに覚醒させられた。
 金属塊に腹を抉られる激痛によって。
 ベオがシルビアの腹に埋めた鉄棍を握ったまま跳び、鉄棍を軸棒のようにして独楽のように回転したのだ。
「がはぁぁ……!」
 痛打を受けている腹へさらに追い討ちを受け、シルビアが内臓を破壊される苦痛に悶え、呻く。
 その間にも、宙に浮き上がったベオによって、ラーンは追撃を食らっていた。
 ラーンは顎に受けた棍打のために仰け反り、意識が朦朧としていた。
 その側頭部に遠心力の加わった強烈な蹴りが打ちつけられ、勢い良く回転して床に背中から打ちつけられた。
 それでも立ち上がろうと上半身を起こしたラーンの目に、ベオが鉄棍を振り上げているのが見えた。
 次いで腹部が信じられないほど重い打撃によって粉砕される。
「ふぐぅ……あぁっ……!」
 シルビアと同じように腹に鉄棍を突き下ろされたのだ。
 体内を破壊される激痛にラーンの両目が真円に見開かれ、口からは血が吐き出された。
 ベオは獲物の身体から鉄棍を引き抜き、手慣れた動作で、くるりと回した。
 そして、血を吐きながら苦悶に身を震わせている赤い髪と青い髪の二人の『ヴィーグリーズ』の戦闘幹部を見下ろす。
 無論、その両目はサングラスに隠れて見えず、どのような光を湛えているか、わからない。
「オレを本気にさせることができる者は、もはやこの世にいない」
 相変わらず声に張りはなく、ベオの中にある虚無は巨大なままのようだった。
 しかし、だからこそ、完璧なまでに美しくさえあるその姿は、彼の追っていた"氷の魔狼"に似ていた。


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