R & B
其の二 相対


 シルビア・スカジィルは、"氷の魔狼"シギュン・グラムが嫌いだった。
 単純に、根本的に、生理的に、合わなかった。
 自分とは違う生き方をする生物だと思っていて、心底許せなかった。
 決定的に"氷の魔狼"を受け付けなくなったのは、彼女に関する一つの逸話を耳にしてからだ。
 ――父親殺し。
 闇に生きるものたちの中でも、奈落の深淵に位置するような大罪。
 シギュン・グラムは自らの父親を自らの手で殺し、その心臓を生贄にして、『フェンリル』のチカラを手に入れた。
 その噂、否、真実が、シルビア・スカジィルに、シギュン・グラムという存在を否定させたのだ。

 シルビアの父、シアチ・スカジィルは、世界最高峰の腕を持った暗殺者だった。
 父が人を殺して金を稼いでいると知っても、シルビアは怯まなかった。
 世間の基準ではどうだか知らないが、自分と母を養うための金を手に入れることに命を掛けて仕事をする父が誇らしかった。
 暗殺者を雇うような輩よりも、暗殺者である父が誇らしかった。
 尊敬し、その剣を学んだ。
 暗殺者の子が暗殺者になる道理はなかったし、父親は子を暗殺者にしようとは思っていなかっただろうが、娘に請われた父親は剣を教えた。
 それは、人を殺すことを職としている男の唯一の愛情表現だったのかもしれない。
 しかし、シアチ・スカジィルは、国家権力に逮捕され、処刑されてしまった。
 そして、シアチが処刑された後、彼への依頼人が逮捕されたことにより、彼は国家権力に屈した暗殺者として汚名を被ることとなった。
 シルビアと母親は暗殺者の血縁として表社会から追放され、闇社会からも依頼人を売った暗殺者の血縁として迫害されて生きていくこととなった。
 やがて母親は貧困のうちに死んだが、シルビアは父親から譲り受けた身体能力と剣の技で闇社会の最下層の弱者を狩ることで生き延びることだけはできた。
 シルビアの剣技は素晴らしいもので、依頼された暗殺の仕事も一度の失敗もなくこなしたが、『スカジィル』の娘だと名乗った途端、疑惑と嘲笑を浴びることもしばしばだった。
 それでも、シルビアは、『スカジィル』と名乗るのをやめなかった。
 どうしても、父の汚名を晴らしたかったのだ。
 師と出会い、世界を与えられ、愛を与えられ、チカラを与えられても、それだけは変わらなかった。
 地位を手に入れ、権力を手に入れ、『スカジィル』の名が再び畏怖を帯びた時、シルビアは少しだけ自分で自分を褒めることができた。
 それゆえに、シルビアは、シギュン・グラムの強大さは認めても、父親殺しの人格は生理的に受け付けなかった。
 父親を自らの手で殺すなど、想像すらできない。
 実父の心臓を生贄に捧げ、チカラを得るなどという行為には、自分も多くの人間を狩ってきたにもかかわらず、虫酸が走るのを抑えることができなかった。
 それでも、"氷の魔狼"が気高く、美しく、恐ろしい存在だということは、わかっていた。
 だからこそ、そのシギュン・グラムが敗北したと知った時は、心底驚いた。
 自分とそう年齢の変わらぬ少女が、自分よりも戦闘力では劣るだろう少女が、"氷の魔狼"シギュン・グラムを倒したと知った時、信じられなかった。
 だが、今なら理解できる。
 太陽のように熱い魂を持った少女と触れ合ったせいで、奈落の深淵のように魂のないシギュン・グラムの心が照らされ、"氷の魔狼"の氷は、わずかながらでも溶けてしまったのだろうということを。
 
 黒い鉄棍の鋭い一撃が風を引き裂きながら、目の前を通り過ぎる。
 紙一重。
 ただでさえ、背の低いシルビアと長身のベオのリーチの差は大きい。
 それに加えて、剣と棍の得物の長さの差も二倍以上はあるだろう。
 シルビアには電撃がある。
 しかし、ベオも霊撃を撃つことはできるだろう。
 実質的にリーチで不利なのはシルビアだったが、速度で分があるのはシルビアだった。
 喉を狙って突き出される棍。
 それが伸びきらないうちに、フランベルジュで軌道を逸らす。
 瞬間に、間合いを消失させる。
 先程、グレンデルの胸を貫き通したように、愛剣を突き入れる。
 だが、ベオはグレンデルほど甘い相手ではない。
 身を捻って躱され、棍ではなく手刀が後頭部を狙って振り下ろされる。
 シルビアは身を屈めてその一撃を避け、低い体勢のまま蹴りを突き上げた。
 ブーツが顎に突き刺さり、ベオが後ろへとたたらを踏む。
 だが、追撃をしようとした途端、シルビアの腹部にズキリと痛みが走った。
 見れば、漆黒のドレスが裂け、薄い腹部に赤い痣が刻まれていた。
「腑抜けヤローのくせに、ヤるじゃんか」
 痣を撫でながら、シルビアが悪態を吐く。
 ベオは鉄棍の先端を地面に付けるようにしながら、丸眼鏡の奥から力強さのない視線をシルビアへ向けた。
「速いな。"赤き雷光"と呼ばれるだけのことはある」
「バーカ。まだ、序の口だぜ」
「……そうか」
 ベオの興味の薄い反応を気にすることもなく、シルビアは全身に電撃を荒れ狂わせる。
 ――ベオ(こいつ)も魂は喪失し、強大なチカラだけがある。
 力と技だけは、逸品モノだ。
 それなら。
 それなら、だ。
 ――アタシにできるか?
 できるか?
 できるのか?
 あの『馬の尻尾』と同じように、コイツの氷を溶かすことができるのか?
 自分は太陽には、なれない。
 太陽になれるようなあたたかな心は持っていないし、おおらかな器でもない。
 雷光だ。
 アタシは雷光でしかない。
 照らし続けることはできない。
 それでも、闇の中を疾駆し、閃光の刃で暗黒を切り裂くことはできる。

 肉と肉がぶつかり合う鈍い音と重い衝撃音が響き渡る。
 熱気で大気が歪んでいる。
「ヌオオオオオオオオッッ!」
 猛った雄牛のような獰猛な雄叫びとともに、ハーゲンの丸太のような腕の先に生えた剛拳が、ジークの左頬に突き刺さる。
 絶対防御を持つ巨大な鋼鉄の肉体が、ぐらりと揺れる。
 だが、倒れない。
 脚を踏ん張り、留まる。
 ブゥン!
 大気を裂く音を残しながら、今度はジークの鍛え抜かれた拳が、ハーゲンの腹筋に着弾する。
 鉄壁の腹筋を粉砕する。
 そう思われた轟打は、しかし、皮膚の表面に少し沈んだだけだった。
 ハーゲンの逆襲の廻し蹴りが、不審顔のジークの厚い胸板を打ち、若き戦士は後方へと吹き飛ばされ壁に背中から叩きつけられた。
 ミシリッという音ともに、超巨大空母の頑丈な壁へと亀裂が入る。
 ジークは片膝をつき、床へと血の混じった唾を吐き捨てた。
 聳え立った塔のような長身の男を睨みつける。
 ハーゲンは笑いもせずに立っていた。
 先程までお互いに同じ数だけ、拳撃や蹴りを打ち合ってきた。
 しかし、ハーゲンからは疲労している様子は感じ取れるものの、純粋な肉体的ダメージという点ではジークよりもはるかに軽いように見受けられた。
「己の拳が通じぬ。初めての経験だろう」
「……これほどの破壊力の拳脚を浴びたのも初めてだ。だが……」
「違和感があるというのだな。単純な答えだ。おまえに……」
 ハーゲンがジークを殴りつけた右拳を開き、握り締める。
「拳が疲労感で微かに震えておるわ。そう、おまえに、この『霊気を吸収する』という特異な能力があるように。私にも特異な能力がある。それだけのことだ」
 その言葉が終るか終らぬかのうちに、ジークは全身が鉛のように重くなっていることに気づいた。
 片膝を吐いた状態から立ち上がろうとするが、四肢が思い通りに動いてくれない。
 打撃を受けたためではない。
 疲労のせいでもない。
 しかし、重い。
 肉体そのものが、重い。
「『重力』……か?」
「それほど大層なものではない。もっと抽象的なものだ。上手い言葉は見つからぬが、あえて言うなら『質量操作』とでも言うべきか」
 ハーゲンがゆっくりとジークへと近づいていく。
 ジークは全身を襲う重圧感に耐えながら立ち上がった。
「オレの打撃からは重さを奪い、おまえの打撃には重さを増す。そういうことか」
「そうだ。私の拳は、おまえの鉄壁の肉体を貫く威力となり、おまえの拳は、私にダメージを刻むことにさえ苦労することとなる。そして、おまえの肉体へ加重することによって、自壊を促すこともできる。このようにな」
 ハーゲンの鋭い眼がカッと見開かれると同時に、ジークの肉体はさらなる重さが加えられたのを感じた。
 周囲の床が陥没する。
 圧倒的な重さ。
 さすがの鋼の要塞に例えられるジークの鋼の肉体から軋んだ音が響き始める。
 肉も骨も重圧で押し潰されていく。
 逞しい骨格へかかる破壊の重圧。
 だが、ジークは耐えた。
 食いしばった歯の隙場から、血が流れ落ちる。
 それでも、鋼鉄の意志を以って、己の最大の武器であり最大の防具である肉体を無理矢理に動かす。
 迫るハーゲンへと踏み出す。
 床が砕ける。
 構わず右腕に渾身の力を込めて殴りかかるが、ジークの剛拳は簡単にハーゲンの手のひらに受け止められていた。
 肉体への加重によって、速度もない一撃。
 そして、拳からは重さの奪われた一撃。
 しかし。
「ぬぅっ……」
 ハーゲンが、眉を跳ね上げた。
 破砕音が鳴り響き、ハーゲンの後方の壁が砕け散った。
 壁を砕いたのは、速度も重さも奪ったはずのジークの拳。
 ハーゲンの手を突き抜けた拳の威力が、衝撃波となって後方の壁を砕いたのだ。
 さらに、ジークは掴まれた右拳をそのままに、左拳で打撃を放った。
 打撃音が連続して響き渡る。
 その巨体に似合わぬ、腕が何本にも見えるような高速連打。
 ジークの拳が無数にハーゲンの胸板に突き刺さり、打ち込まれた闘気が煙のように立ち昇る。
 常人ならば一撃で破壊されてしまうだろう拳撃を連続で喰らうと同時に、ジークの能力によって霊気を吸い取られ、ハーゲンを耐えがたい脱力感が襲う。
「重さを殺して尚、この威力か!」
 だが、ハーゲンは倒れない。
 逆に口元に野獣の笑みを浮かべ、拳をギチリと固めていた。
 放たれる反撃の、剛腕。
 右拳を未だに握られていたジークに避ける術はなかった。
 強烈なアッパーカットに、顎を粉砕される。
 顔の下半分を口から溢れ出た血で真っ赤に染めながら、再び吹き飛ばされた。
 しかし、すぐに立ち上がる。
 口の中の血を吐き捨て、手の甲で唇を拭う。
 ハーゲンは強い。
 しかも、その強さに邪気もない。
 武人の拳だ。
 魂が、高揚感に震える。
「……戦いとはこれでなくては、な」
 ジークの顔にもまた力感と戦意に溢れる野獣の笑みが浮かんでいた。

 ――ナンナ・ブレイザブリク。
 それが、この超巨大空母『ガルム』を本拠とするブレイザブリク派の領袖の名だ。
 『ヴィーグリーズ』の総帥第三秘書の地位にあり、第一秘書ミリア・レインバック、第二秘書ヒルダ・エッシェンバッハに並ぶ才気と美貌の持ち主だ。
 ミリアの生前には目立った活躍は見られなかったが、それはヒルダにもいえることだろう。
 しかし。
 しかし、と、ラーン・エギルセルは、艦内を疾走しながら、違和感を覚えていた。
 過去に見たナンナの姿を思い出し、権力闘争に乗った彼女に対して。
 ナンナ・ブレイザブリクは、艶の一つもない烏色の髪と真っ黒な瞳をしており、対照的な白い肌を包む漆黒のドレスを常に纏っていた。
 物腰の柔らかな温和な性格で、ヒステリックなところのあるミリア・レインバックに比べれば、若年の自分としては親しみの持てる存在だった。
 師が『ヴィーグリーズ』を裏切った時も、ファーブニル老を通して、自分やお嬢に、決して憐みではない、気づかいの言葉を手向けてくれた。
 あの好悪の激しい性格のお嬢でさえ、ナンナの態度には、ある程度の好感を持っていた。
 失敗を犯した者にも寛容で、部下からも慕われていた。
 ――そうだ。
 ラーンは思い出した。
 ハーゲンが先程言っていたナンナに命を救われたという話を。
 作戦の遂行中に多くの部下を失った責任の償いに自害しようとしたのを止めたのが、ナンナだったと聞いたことがある。
 その恩義から、ハーゲンはナンナの側近に志願したのだ。
 ハーゲンは武人の鑑のように実直で信頼のおける(おとこ)だ。
 それほどの漢が忠誠を誓って、この死地にあっても命を掛けて守ろうとしているのが、ナンナ・ブレイザブリクだ。
 その彼女が、世界闘争の継続を強弁に主張する急進派となり、穏健派と和解しようともしない。
 ヒルダ・エッシェンバッハと個人的な確執があったという話も耳にしたことはない。
 なぜ、もはや必要ないと思われる急進的な世界闘争を主張するのか。
 そこに、違和感を覚えずにはいられない。
 何が彼女を豹変させたのか。
 誰かが彼女を唆しているのではないか。
 そういう疑念が自然と浮かぶが、肯定するまでには至らない。
 現在、ナンナの側近は、ハーゲンとベオという武人二人が務めている。
 二人ともナンナの思想に容喙(ようかい)するような漢ではない。
 もちろん、下級幹部には、権力を手にするためだけに付き従っている者もいるが、小者の言うことを真に受けるナンナではないし、ハーゲンとベオが周りを固めているのだから、そういう輩が彼女に近づけるはずもない。
 とすると、やはり、ブレイザブリク派の主張は、ナンナ自身から出たものなのだろう。
 ラーンは、ふと、以前に、ただ一点だけ、ナンナに、おかしな点があったことを思い出した。
「シンマラ師に、……いや、『レーヴァテイン』に拘っていた」
 『魔界(ムスペルヘイム)』浮上の鍵となる魔剣『レーヴァテイン』。
 シンマラ師が創造し、持ち去った魔剣へ、ナンナは執着していた。
 温和なはずの彼女が、『レーヴァテイン』の行方を捜すためならば、手段を選ばないという態度だった。
 そして、もし、シンマラ師を捕えることができたとしたら、拷問さえ辞さぬという様子さえ窺えた。
 ――師に裏切られたと思い、精神の均衡を失いかけていた私もお嬢も、その時は当然だと思っていたけれど、今思えば、明らかに、ナンナの態度はおかしかった。
 ナンナが日本支部に派遣されてくるよりも先に、『レーヴァテイン』は、魔王スルトの化身だったランディ・ウェルザーズ総帥の死とともに永遠に失われた。
「そして、ブレイザブリク派は決起した」
 もしかしたら、ナンナ・ブレイザブリクの仕掛けてきた闘争と、『レーヴァテイン』に何かしらの関係があるのかもしれない。
 そこまで思い至ったが、ラーンは思考を中断せざるを得なくなった。
 十人近い男が前方の通路を塞いでいるのが、目に入ったからだ。

「退きなさい」
 ラーンが波一つ立っていない水面のような静かな表情で男たちを見据え、良く通る透き通った声で言う。
 そして、手にしている馬上槍を威嚇するように軽く振り回す。
 男たちは臆することなく、思い思いの武器を手にラーンを取り囲んだ。
「退きなさい。私は、ラーン・エギルセルです。ケガをしたくはないでしょう?」
 もう一度、いくらか威を強めて言った。
 清濁併せ呑む大海を思わせる深さを持った声音が、通路に木霊する。
 好みのやり方ではないが、わざと名を出しもした。
 ラーンの戦闘幹部としての威名は組織内では派閥を超えて知れ渡っている。
 名と威と度量を以って、降伏を促した。
 屍山血河(しざんけつが)を築く趣味はない。
 抵抗をしないものは見逃してもかまわない。
 ラーンはそう思っている。
 しかし、ラーンの名を聞いても、幹部としての威ある態度を受けても、立ち塞がる男たちに動揺の走る様子さえない。
 彼らは名のある者たちではない。
 組織の末端を形成する一介の兵士たちだ。
 それでも、覚悟はできている。
 そいうことだろう。
 勇将の下に弱卒なしという。
 さすがは、ハーゲンやベオの部下には気骨のあるものたちが揃っている。
 ならば。
 手加減、無用。
「"赤き雷光"シルビア・スカジィルと対を成す、"青き清流"ラーン・エギルセルのチカラ、その身で味わいなさい」
 言葉とともに『水』が、ラーンの周りに発生したのと、無数の銃声が鳴り響いたのは同時だった。
 弾丸はすべて水流に遮られていた。
 そして、水流は、水柱となって男たちを吹き飛ばし、打ち据え、薙ぎ倒した。


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