R & B
其の一 亡霊


 爆音。
 震動で、青く長い髪が揺れる。
 ラーン・エギルセルは口の中の血の残滓を吐き捨て、唇の端を伝う紅の筋を手の甲で拭った。
「お嬢、派手にやっているようね」
 抉られた左肩に走る激痛と腹部から断続的に送られてくる鈍痛によってもたらされた汗と全身から流れ出た血によって、軍礼服に似た衣服は肌にへばりついている。
 痛みと不快感に耐えながら、意識的に唇の端を吊り上げ、目の前の初老の男を睨みつけた。
 高級さを感じさせるスーツに包まれた肉体は、肉付きは薄いが、威を感じさせるには十分な長身だ。
 額の張り出た頭には髪の一本も存在しないが、立派な口髭と顎髭を蓄えている。
 男が呟くように言う。
「……赤毛の小娘(ガキ)か」
「ハーゲン。私とお嬢は一心同体。知らないわけではないでしょう?」
 初老の男――ハーゲンを挑発するように応じ、ラーンは得物である馬上槍(ランス)の切っ先を向けた。
 ハーゲンというこの男は、世界へ秘密裏に干渉する組織『ヴィーグリーズ』の幹部を長い間務めながら、些細なミスも一度も起こしたことのない男だ。
 この程度の挑発に乗る男ではない。
 それでも、万に一つの可能性に掛けて、ラーン・エギルセルはあらゆる手を尽くす。
 そうでもしなければ、このハーゲンという男に勝つことができないからだ。
 実際、戦い始めてから、ラーンは一度も優勢に立っていない。
 得物である超重量武器の馬上槍による攻撃はことごとく避けられ、逆にハーゲンの反撃によって左肩を抉られた。
 勢いの止まったラーンは、ハーゲンに全身を滅多打ちにされ、鳩尾への強烈な一撃を受けて吐血し、先程まで床に倒れていたのだ。
 だが、いつまでも倒れているわけにはいかなかった。
 ラーンに課せられた役割は、相棒であるシルビア・スカジィルが先導する強襲部隊が、この超大型航空母艦『ガルム』に侵入するまで、ハーゲンを食い止めておくことだからだ。
 遠くから聞こえてきた爆音と喧騒、そして、空母を揺らす震動から、ようやくラーンの意図を察して、ハーゲンは苦虫を噛み潰したような顔になった。
 ハーゲンとラーンの周囲には黒服を着た人間が十数人も倒れている。
 すべて、ラーンのチカラによって倒されたハーゲンの部下たちだった。
「甘く見たか。まさか、おまえほどの使い手が単身で乗り込んでくるとは、な」
「防衛システムを無力化することが第一の目的でしたから」
「水のヴェールによる『隠形』を使えるおまえが単身、中枢まで乗り込んできたというわけか」
 ラーン・エギルセルは『水』を自在に操ることができる霊的能力を持つ。
 かつて、ラーンの師『シンマラ』は、『超人兵士(ウールブヘジン)』の研究に取り組んでいた。
 そして、自分自身の肉体をベースにした実験によって、特殊な霊力(ちから)を発現させることに成功した。
 愛弟子であるラーン・エギルセルとシルビア・スカジィルもまた、その実験によって異能のチカラを手に入れたのだ。
 ラーンは己の意志によって、水流を噴き出して敵を攻撃することもできるし、多量の水を盾のように展開して身を守ることもできる。
 水のヴェールを身に纏って、光学迷彩のように姿を消すことさえもできるのだ。
「水の能力によって広範囲を攻撃の標的にもできるという理由もあります。そして、理由はもう一つ」
「陽動か」
「あなたとベオはブレイザブリク派の幹部の中でも別格の存在です。あなた方二人、もしくは片方だけでも、私に引きつけられれば、と」
「それで、わざと盛大に防衛システムを破壊したのか」
「あなたほどの男を引きつけるために、それ相応の代償も覚悟はしていました」
「しかし、ラーン・エギルセル。裏切り者であるおまえの命、見逃すことはできん」
「ハーゲン。確かに私とお嬢は『ヴィーグリーズ』を一度は裏切りました」
 北欧神話における、神々と巨人たちの最終決戦の地――『ヴィーグリーズ』。
 その名を冠する北欧系大企業こそが、この世界を巨大な遊戯盤に見立てて運命を操る運命神(ノルン)に従いつつ世界に影響及ぼし、その実、運命神へ反逆するための準備を推し進める秘密結社だった。
 総帥ランディ・ウェルザーズは、運命神に反旗を翻し、遊戯に飽きた運命神が世界をリセットするための『神々の黄昏(ラグナロク)』の起動スイッチだった『世界樹(ユグドラシル)』を破壊した。
 そして、その後、世界から運命神の干渉力を排除するために、『魔界(ムスペルヘイム)』を浮上させて、『新世界』を創造しようとした。
 しかし、組織の悲願ともいえる世界変革のための『プロジェクト・ユグドラシル』とそれに続く『プロジェクト・ムスペルヘイム』の過程において、総帥ランディ・ウェルザーズをはじめ、筆頭幹部シギュンン・グラム、第一秘書ミリア・レインバック等の最高幹部を多くを失った。
 その際に、『ヴィーグリーズ』を裏切り、ランディたちを討った者たちに力を貸したのが、ラーン・エギルセルとシルビア・スカジィルだった。
 彼女たちは、所属していた組織の総帥を討ち、組織に舞い戻ってきたのだ。
 憎まれて当然だった。
 だが、彼女たちは戻らずにはいられなかったのだ。
 彼女たちが仲間とともに戦い、守った世界を混乱させないために。
 ラーンは『裏切り者』と言われても、恐れも、怯えも、後悔も、その顔に浮かべず、毅然としてハーゲンの視線を受け止めた。
「私は後悔していない。そして、私は処断されるわけにもいかない。『ヴィーグリーズ』のためではなく、世界を守るために」
「裏切り者の汚名にも揺るがぬか。……ファーブニルめ。良い孫娘を持ったわ」
 ハーゲンは一瞬だけ遠くを見るような目をした。
 ラーンは毅然とした態度を崩さず、目の前の初老の男へ自分の疑問を口にした。
「ハーゲン。あなたはファーブニル老とともに世界の改革に情熱を向けていたではありませんか。しかし、今、あなたが行動を共にしているブレイザブリクは権力を得んとするだけの闘争を仕掛けています」
 多くの幹部を失った『ヴィーグリーズ』は結束力が弱まり、二派へと分裂していた。
 第二秘書ヒルダ・エッシェンバッハの派閥と、第三秘書ナンナ・フォン・ブレイザブリクの派閥に。
 二人とも総帥ランディ・ウェルザーズの秘書にしか過ぎなかったが、第一秘書ミリア・レインバックがそうであったように、機密に近い地位であるがゆえに、与えられた権限は強大だった。
 それでも、ミリアという実務能力にも作戦能力にも、そして、粛清の能力にも秀でた存在がいたことで、秘書部の権力は統制されていた。
 それが、ランディとミリアの死によって、タガが外れた。
 他の最高幹部たちの死も、二人の秘書の権力集中に拍車をかけた。
 二人の秘書に思想に明確な違いがなければ、それでも組織は一枚岩を固持しただろう。
 先の『プロジェクト・ユグドラシル』によって、『ヴィーグリーズ』の目的である運命神の干渉を世界から排除することには成功している。
 ヒルダは『プロジェクト・ムスペルヘイム』の結果を受けて世界の維持を主張し、ナンナは『プロジェクト・ムスペルヘイム』は終わっていないとして世界再構築の続行を主張した。
 大勢を占めたのは穏健派であるエッシェンバッハ派だった。
 ヒルダの主張する「今の『世界』こそ、『プロジェクト・ムスペルヘイム』において総帥の意図した『蟲毒(こどく)』から『生き残った世界』であり、この世界を維持しなければならない」という結論に達するものも多かったのは勿論のこと、数多くの有力な人材の喪失により、世界への影響力を保持することさえ困難になっている状況が誰の目から見ても明らかだったからだ。
 それに、すでに『魔界』を浮上させるための鍵である『レーヴァテイン』も破壊されており、『この世界』と『魔界』を融合させる手段は失われてしまっている。
 だが、ブレイザブリク派は、それを良しとせず、世界の変革の続行を邪魔するもの、すなわち、エッシェンバッハ派の粛清、破壊活動という強硬路線に踏み切った。
 裏切り者であるシルビア・スカジィルとラーン・エギルセルが、『ヴィーグリーズ』に舞い戻ったのは、そのような折だった。
「なぜ、あなたが、ブレイザブリクに与しているのです?」
「語るべき時は過ぎたのだよ。私はブレイザブリクに命を救われたことがあるのでな。その恩義には報いねばならん。おまえが退かぬように私も退けぬのだ」
「義理堅い男だ」
 そう言って二人の会話に割って入ったのは、ハーゲンよりさらに長身の男だった。
 しかも、その肉体は前後にも左右にも厚みのある雄大なものだ。
 黒いシャツから伸びる腕は丸太のように太く、黒いシャツを破けんばかりに盛り上げている大胸筋は分厚い。
 彫りの深い精悍な顔は、ラーンにも、そして、ハーゲンにも見覚えがあった。
「ジーク!」
 ラーンが若者の名を呼ぶ。
 彼は、ラーンと同じく『ヴィーグリーズ』に所属する戦闘幹部、難攻不落の要塞を想起させる肉体を持つ男、ジーク。
 ハーゲンは、その異相に多少の驚きを含めて、若者を見た。
「ジーク、生きていたか。ラーンたちに手を貸しているとは意外だが」
「オレもおまえと似たようなものさ。オレは別に命を救われたわけではないが、ファーブニル老からラーンたちのことを頼まれている」
「なぜ、あなたがここに?」
「オレの性格は知っているだろう、ラーン」
 ジークはそう言いながら、ラーンを庇うように前へ進み出た。
「この『ガルム』への侵入と同時に強力な闘気を感じ、ハーゲンかベオのどちらかだろうと考えて足を運んだのだ。手合わせをしたくてな」
 両拳を胸の前で、ガツンと合わせたジークの目に猛獣のような闘気が宿った。
 筋肉が膨張し、巨大な逆三角形を描く肉体から溢れる膨大な熱が、周囲の大気を歪ませる。
「ラーンよ、ここは任せて、赤毛のガキのもとへ行け」
「し、しかし」
「急襲部隊はすでに侵入した。ハーゲンも目の前にいる。もう派手に暴れて目を惹く必要はない。何より、赤毛のガキには、おまえが必要だろう」
 ラーンの戸惑いを無視して、ジークがゆっくりと構えを取る。
 もう、そこにいるのは、どこまでも純粋に戦いを求めるだけの漢だ。
 尚も口を開きかけたラーンは、ジークの姿を認めて声をかけるのをやめた。
 軽く視線を下に落とした後、決意の表情で顔を上げた。
 そして、無言で駆け去った。
 ハーゲンはその背を追わなかった。
 ジークが、野性的な笑みを浮かべた。
「ハーゲン、悪いが付き合ってもらうぜ」
「若造が生意気な、と言いたいところだが、良いだろう。"鋼鉄"ジーク。そのチカラ、見せてみろ」
 ハーゲンもまたその肉体から闘気を立ち昇らせた。

 パンキッシュな赤毛のツインテールと毒々しい漆黒のゴシックロリータのドレスを爆風で巻き上げながら、シルビア・スカジィルは突き進んでいた。
 エッシェンバッハ派の後続部隊をブレイザブリク派の本拠である超巨大航空母艦『ガルム』へ突入させた後は指揮権を他の幹部へと委譲し、自分は単騎で先行していた。
 この『ガルム』には一千人を超えるブレイザブリク派の兵士がいる。
 その中には、幹部級の実力者も何人もいる。
 そして、ラーンの活躍で最新鋭の防衛システムの八割は沈黙していたが、呪術的なトラップは生きていて侵入者を迎撃している。
 まさに、『ガルム』は、機動力を持った城塞だといえた。
 単騎で攻略できるものではない。
 しかし、シルビアはもともと暗殺者として剣技や電撃のチカラには自信を持っていても、猪突猛進の短気な性格もあって部隊を率いるのは得意ではない。
 ひとりの方が気が楽だし、効率的に前へ進むことができる。
 だから、あえて単独行動を願い出たのだ。
 たった一騎で先頭を切って駆け、敵兵たちを愛剣フランベルジュで切り裂き、電撃で感電させ、追い詰め、倒し、あるいは殺し、あるいは戦意を喪失させて逃亡を促していく。
 そのチカラは、破壊神(スカジ)の如き。
 液体の紅が舞い、気体の黒が視界を汚した。
 手にしていた白刃に返り血に濡れた自身の姿が反射しているのを見て、シルビアは想った。
 美しい空と穢れた空、アタシにはどちらが似合っているだろう、と。
 一昔前は、穢れた空の下、自分を守りたくて、ただただ剣を振るっていた。
 今は、美しい空の下、世界を守りたくて、やはり剣を振るっている。
 シルビアは想い直した。
 美しい空も穢れた空も、どこまでも繋がった空の一面、師やと師の生徒たちが美しい空を享受できるために戦えるなら、アタシたちのいる場所が穢れた空の下だとしても、構わない、と。
 そうだ。
 アタシには。
 新しい、そう、顔から火が出そうだが、新しい仲間といえる存在ができた。
 彼らとともに戦い、彼らとともに世界を、青空を守った。
 そこは、自分とシンマラ師と相棒のラーンだけで形作られた空ではなく、本当の意味での、空だった。
 自分とラーンは、仲間の想いを守り続けるために、彼らと別れた。
 自分とラーンは、師との絆を守り続けるために、師と別れた。
 そして、自分とラーンは今、新たな戦いの渦中にある。
 シルビアは真紅のツインテールを揺らしつつ、極細剣(レイピア)型の西洋剣(フランベルジュ)で次々と敵を屠っていく。
 二つ名"赤き雷光"を彷彿とさせる舞うような剣技は、見惚れるほどに洗練されていた。
 一方で、敵兵は苦痛にのた打ち回っている。
 彼女の愛剣であるフランベルジュは、殺傷力こそ低いが、そのギザギザの刃によって斬られる角度によっては縫合できぬほどの凶悪な裂傷を相手に負わせるのだ。
 しかし、その姿は、残酷ながらも、美しかった。
 大きく開けた部屋に入った途端、シルビアの美しい殺戮の舞が止まった。
「グレンデル」
 不機嫌さを隠そうともせず、シルビアは視線の先にいる男の名を呼んだ。
「久しいな、赤毛のロリータ」
 グレンデルと呼ばれた男が、ククッと喉を鳴らして応じる。
 目の落ち窪んだ両目とこけた頬のせいで髑髏のように見える顔をした男だった。
 全身が骨と皮だけでできているかのように細く、暗い色のアカデミックガウンにも似た服から覗く皺とシミだらけの腕はまるで枯れ枝のようだ。
 だが、眼光だけは暗い輝きを放ち、強欲な印象を与えてくる。
「おまえの相手をできるとは、うれしくてたまらぬぞ。オレは以前から生意気なおまえをボロボロに痛めつけてから、犯してみたかったんだよ」
「ゲスが」
 シルビアは童顔に不愉快さを浮かべ、不健康な笑みを浮かべるグレンデルを見下すように半眼で睨みつけた。
 彼女も敵に対して残酷で嗜虐的な一面もあるし、かつては恩師やその仲間を嬲り、痛めつけたこともある。
 だが、そこには、今思えば、自分自身でも情けないことだが、恨みや嫉妬があった。
 グレンデルにはそれもない。
 あるのは、暗い愉悦だけだ。
「テメーが劣勢のブレイザブリクに付いたのは信念でもなんでもなく、単にエッシェンバッハに腐った性根を嫌われて身の危険を感じたからだろ?」
「ククッ、一時、安全を図ったまでのこと。高慢なエッシェンバッハも、いずれ嬲り殺してやるさ」
 信念も復讐の念もなく、己の欲望だけを振り撒いている。
 しかも、欲望のために殉死しようとは思っていない中途半端な男だ。
 欲望と保身のどちらにも色目を使う愚かな小物でしかない。
「……まったく、テメーほどわかりやすいゲスも、そうそういないゼ」
「エッシェンバッハの前に、おまえを屈服させ、ラーンも奴隷にしてやろう」
「耳が腐る」
 吐き捨てるように言ったシルビアの額には青筋が浮かんでいた。
 忍耐が限界であることを示すように、フランベルジュの刃が帯びた電流の火花がバチバチと鳴る。
 とんっ。
 いかにも軽い音が響いた。
 シルビアの身体が床を蹴っていた。
「ぬっ?」
 真紅の稲妻が走った。
 グレンデルがそう思った瞬間だった。
 ドンッ。
 先程とは打って変わった重い音が鳴った。
 グレンデルの喉が蠢く。
 カサカサに乾いている唇の端からドス黒い血の混じった泡が溢れ出た。
 胸の中央にフランベルジュが突き刺さり、背中まで貫き通していた。
「なっ、バッ……!」
 グレンデルは、這い上ってきた激痛によって、自分の身に起こったことをようやく理解し、しかし、それを否定するように首を横に振った。
 震える手を伸ばし、胸を貫いている西洋剣を引き抜こうとする。
 しかし、それよりも早く、腹に衝撃が来て、グレンデルは後方へ吹き飛ばされた。
 シルビアが蹴り飛ばし、フランベルジュを無理矢理に引き抜いたのだ。
「死んでろ、ゲス」
 倒れたグレンデルに冷たく言い放ち、シルビアは愛剣の削ぎ取った肉と血を床に振り払った。
 そして、雷光を宿した瞳を前方へと向ける。
 新手。
 否、真打(しんうち)が現れたからだ。

 ――底冷えするような美しい色の黄金色の髪をした男だった。
 男にしておくにはもったいないような美しく整った顔に、真円に近い丸型の眼鏡を掛けていた。
 漆黒のファー付きのロングコートを着た長身は威風を感じさせはしたが、眼鏡の奥の双眸には生気が感じられなかった。
 シルビアは男を睨みつけ、その名を呼んだ。
「ベオ」
「久しいな、赤毛。グレンデルを倒したか」
「オマエの霊気を感じてたからな。話の邪魔になるゲスには、チャチャッと退場を願ったワケ。で、オマエもゲス野郎(グレンデル)と同類かい? "戦狼(ヴェアヴォルフ)"ベオ!」
 ニヤリと笑うシルビア。
 ベオと呼ばれた男はロングコートから漆黒の長い棍を取り出した。
「これ以上先に進みたいというのであれば、そうなるだろう」
「……グレンデル程度のヤツならともかく、オマエまで、ブレイザブリクに籠絡(ろうらく)されたのか?」
「そういうわけではないのだが、な」
 シルビアは軽蔑を隠そうともせずにぶつけてみたが、ベオは苦笑で応じるだけで怒る様子はない。
「ンじゃ、どういうワケだってンだ?」
「理由などないな」
「あン?」
「理由などないと言ったんだよ。オレはもともとブレイザブリクの護衛だからな。なりゆきだ」
「ナリユキ? オマエほどの男が、か?」
「ニンゲンってのは、目的がなくなると、堕落するモンだってことだ」
「目的?」
「オレはかつて、"氷の魔狼(まろう)"と戦い、敗れた」
 "氷の魔狼"シギュン・グラム。
 『ヴィーグリーズ』筆頭幹部にして、欧州の闇を貪り食らう狼と畏敬されたグラム家の当主。
 そして、北欧神話最強の魔獣フェンリルのチカラを自在に操る女降魔師。
「オレは、再戦を目的として『ヴィーグリーズ』に従い、チカラを磨き、技を研鑽し、生きてきたのだ。だが、"氷の魔狼"は死んでしまった。あの美しく、気高く、恐ろしいシギュン・グラムが死んでしまったのだ」
「ソレで、目的を無くし、オマエは生きながら亡霊になったってか?」
 目的を喪失した時、人は生きる力をも失う。
 思い入れが強ければ強いほど、邁進すれば邁進するほど、無目的状態になった時の反動は大きい。
 その目的が、『復讐』ともなれば、人生を代償にするほどの熱意を傾けることになる。
 それだけに、『復讐』の『対象』が忽然と喪失した時、生きる力は失われる。
「くっだらねェな。テメーみたいに簡単に腑抜けるヤツじゃ、"氷の魔狼"にも、『"氷の魔狼"を倒したヤツ』にも、手も足も出ねーだろーよ」
 シルビアは、せせら笑った。
「おい、ベオ!」
 フランベルジュの切っ先をベオに向け、全身に雷光を迸らせる。
「アタシと本気で戦えよ。そしたら、イイこと教えてヤんぜ。『"氷の魔狼"を倒したヤツ』のことを」
 戦闘準備を万端にし、亡霊のように佇んでいるベオの様子を覗う。
 覗いながら、思う。
 ――アタシはバカか?
 腑抜けには簡単に勝てる。
 それなのに、今、自分は相手を焚きつけようとしている。
 わざわざ強敵を作り出そうとしている。
 毒だ。
 毒が回ってる。
 『"氷の魔狼"を倒したヤツ』の毒が。
 ――まったく、メンドーなこったッ!
「さあ、来いよ。"戦狼"!」
 シルビアの呼びかけを受け、ベオがようやく漆黒の長い棍を構えた。
 轟ッ。
 ぐるりと回された棍が巻き起こした風が、シルビアの真紅のツインテールと漆黒のドレスの裾を後方へとなびかせた。
 真円に近い眼鏡が、雷光を反射して、ベオの表情を隠している。
 ただ、その全身から立ち昇る霊気と闘気が、無目的であるはずの亡霊に鮮明な存在感を与えていた。
「"赤き雷光"シルビア・スカジィル。おまえの電撃は、オレを少しは痺れさせてくれそうだな」
「はンッ、丸焦げ(ウェルダン)にしてヤんぜ」
 シルビアは、己の面倒な行動が自己満足である上、自分を不利な状況に追い込むものだと知っていたが、それでも――冷や汗を流しながらも、唇の端を吊り上げずにはいられなかった。


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