安らぎを貪るもの
其の三



 時雨の顔つきが微妙に変わった。
「時雨?」
 響も奇妙な空気の流れを感じていた。
 自身の身体の中を蝕むのと同じ力が公園全体を包んでいるようだ。
「何かが来る」
 時雨はそう呟いて立ち上がり、緊張の満ちた表情で周囲に鋭い視線をめぐらせる。
「あぐっ!」
 突然、響が苦痛の混じった悲鳴をあげた。
 時雨が振り向く。
「響!?」
「く、苦しい……」
 響は、ブラウスの左胸――心臓――の辺りを抑えながら苦悶の表情を浮かべている。
 その肢体がぐらりと揺れ、ベンチからずり落ちた。
「響!」
 時雨が慌てて、響を抱き抱える。
 いつも明るい表情をしているはずの響の顔は、血の気が失せて真っ青になっていた。
「一体どうすれば!」
 時雨は今まで、これほどに切羽詰ったことはなかった。
 他人がどうなろうと知ったことではない。
 それが、時雨だった。
 しかし、彼は今、動揺していた。
「時雨、苦しいよ……」
 響が涙目で時雨を見つめる。
 だんだんと胸を襲う痛みがひどくなってきているようだ。
「響! そうだ、病院へ!!」
 時雨は決断すると響を抱え上げた。
 そして、公園の入口へ向かおうとして、気づいた。
 ソレに。
「!!」
 怪物。
 怪物が時雨たちから少し離れた場所に立っていた。
 見上げるような巨体は灰緑色で、鱗に覆われていた。
 ひょろ長い手足の先についた指の間には水掻きのような膜があり、そして、その頭は、魚。
 半身半魚の巨大な怪物だった。
「バケモノ!?」
 時雨は怪物に向かって叫んだ。
「我は、ダゴン。我は古き伸にして旧き支配者。我は深き処に住まう悪魔」
 半人半魚の怪物は、盛り上がった両目でギョロリと時雨を睨み、唸るような声でそう名乗った。
「ダゴンだと?」
 オカルト方面には疎い時雨でも、『クトゥルフ神話』や『ダゴン』の名は聞いたことがあった。
「ラヴクラフトの生み出したクトゥルフ神話に出てくる怪物だとでも言うのか?」
 ――『クトゥルフ神話』。
 それは、怪奇小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの描いた小説世界をもとにして、彼の友人オーガスト・ダ―レス等多くの作家によって作り出された『邪神クトゥルフ』をはじめとする架空の神々の神話体系だ。
 そして、ラヴクラフトの著作『インスマウスの影』に登場する半魚人である『深きものども(ディープワン)』が崇める邪神が、ダゴンだ。
 だが、信じがたい。
 目の前にいる半人半魚の巨大な怪物は、その作家たちが生み出した架空の神性が実体化したものだとでもいうのか。
 油断なくダゴンと名乗った怪物から目を離さずに、時雨は響をベンチに寝かせた。
「否にして応。我は変遷する存在。我は古きパレスチナの地におけるペリシテの神にして、すべての神とすべての悪魔の原型たるバアルが父。そして、盟主ルシファーとともに天より堕とされし悪魔でもあり、海産物へのヒトの恐怖が生み出した新しき神話の旧き支配者でもある」
 奇怪だが威厳のある姿をした魚神の存在感は圧力すら感じさせた。
 だが、時雨は響をダゴンの視線から遮るように立ち塞がり、一歩も引かない。
「その神だか悪魔だかが、何の用だ?」
「汝に用などない。我はその小娘に用があるのだ」
「まさか、おまえが響を苦しめているのか?」
「苦しんでいるのは小娘ではない。この我と我が眷属だ」
「何?」
 時雨は魚神の意外な言葉に不審な顔をする。
 ダゴンの言葉の意味が理解できない。
「小娘が命、消させてもらう」
 ダゴンは、手を軽く振る。
 次の瞬間、手に巨大な槍が出現した。
「……っ!」
 それを見た時雨は、ベンチの傍らの自分の荷物から二振りの刀を取り出した。
 『火影(ほかげ)』、『氷牙(ひょうが)』というのが、それぞれの刀の名前だった。
 もちろん、時雨が剣道部だからといって『真剣』を持ち歩いているわけではない。
 偶然だった。
 剣道部の香澄が、たまたま涼風家に伝わる二本の刀を見てみたいと頼んだのだ。
 それが、こんなところで使うことになるとは思いもよらなかった。
「邪魔をするか、人間」
「こいつは、オレの幼馴染みなんでな」
 時雨は二振りの刀を構えた。
 剣道部で振う竹刀のようにではなく、両手に一本ずつの二刀流の構え。
「ならば、小娘ともども死ぬがいい」
 そう言うと、ダゴンは雷光のような速さで槍を突き出してきた。

「涼風夢想流・豹双(ひょうそう)!」
「ぬ……う……?」
 ダゴンが唸る。
 時雨が頭上で二本の刀を交差させ、その交わった部分でダゴンの槍の先を受け止めていた。
 そして、渾身の力で槍を弾く。
 ダゴンの巨体が揺れ、その体勢が崩れる。
虎旋(こせん)!」
 正確に八回、時雨の両手に握った二本の刀が魚神の巨体を斬り裂く。
「!?」
 しかし、まったく手応えがないことに時雨は気づき、その場を飛び退く。
「効いてないのか?」
 斬り裂かれたはずのダゴンの胸板はまったくの無傷だった。
 ダゴンは嗤った。
「人間にしては、称賛に値する剣腕だが、得物が悪かったな。我を倒したくば、神を封じるという神剣『草薙』ぐらいの武器でなくては通じぬわ」

「時雨」
 響は朦朧とした意識の中で、時雨の危機に気づいた。
 しかし、身体が苦痛に蝕まれ、起き上がることもままならない。
「時雨、逃げて……」
 響には時雨の無事を祈ることしかできなかった。

 『火影』も『氷牙』も一級品の日本刀である。
 その刀を持ってしても、ダゴンには傷をつけることすらできない。
 だが、時雨は、あきらめてはいない。
 あきらめるわけにはいかないのだ。
 あきらめれば、死ぬ。
 自分はもちろん、響も死ぬ。
 時雨は深呼吸をすると両眼をカッと開き、疾走した。
蛇突(じゃとつ)ッ!」
 二本の刀がダゴンの胸を貫く。
「無駄だ。矮小なる人間よ」
 ダゴンは嘲笑しながら、時雨の刀を胸に残したまま反撃に転じた。
 力任せの大振りで、槍を一閃する。
「ぐあっ!?」
 時雨は慌てて飛び退いたが、避けきれずに槍の切っ先が胸を斬り裂く。
「死ぬが良い」
「まだだっ!」
「うぬっ?」
 ダゴンがとどめを刺すべく槍を引いた瞬間、時雨は傷ついた身体を叱咤して魚神の懐に跳び込んだ。
 そして、ダゴンの胸板に残っていた『氷牙』を引き抜く。
「無駄だ。効きはせぬわ!」
 ダゴンが引いた槍を、振り下ろす。
「はあああああああっ!」
 時雨はダゴンの嘲笑を無視して、『氷牙』で突きを放つ。
 それは正確に、ダゴンの胸に残っていた『火影』の柄に命中した。
「ぬぐぅっ!」
 苦痛の混じった驚愕の声が、ダゴンの口から漏れた。
 眩いばかりの閃光が爆発し、ダゴンの胸を焼く。
 息を切らせながらも、時雨が『氷牙』と『火影』を手に、ダゴンから離れた。
「何をしおった? この我が人間ごときの技で傷つくとは……」
 ダゴンの胸の『火影』が刺さっていた場所からどす黒い血が流れ出していた。
「『火影』と『氷牙』の力を核にして、俺の闘気を伝播させたのだが、たいして効かなかったか」
 時雨は片膝を地に落とした。

「時雨!」
 響は、時雨が膝をついたのを、初めて見た。
 剣道の試合の時も、ケンカの時も、彼は決して膝を折ることさえなかったはずなのに。
 ――時雨が死んじゃう。
 響は頭に浮かぶ絶望という文字を必死に追い出す。
 ――あきらめちゃだめ。あきらめたら、……あきらめたら、そこで終わりよ!
 ――ダメだと思った時に、ダメになっていくのよ。
 響は必死に状況を打開することを考えた。
 その時。
「……魚神ダゴンか」
 後方から静かな声が聞こえた。
 振り返った響の視線の先に立っていたのは、白い顔に黒き髪、白い肌に黒いロングコートの女性。
 昨夜の女性だ。
 その傍らには、大きな犬が控えている。
「あなたは……」
「……」
 女は響へ視線を向けようともせず、ダゴンへ向かってゆっくりと歩き出す。
「ケル、その娘を」
 大きな犬は響を守るようにベンチの前に身を置いた。
 そして、響は気づいた。
 いつの間にか、手元に手帳が返されていた。

「最後の一撃は少々驚かされたが、終わりのようだな」
「くそっ……」
「我が肉体を傷つけた報いに楽には殺さぬ。汝が両目を抉り出した後、牢獄に落として粉を引かせる奴隷としてくれるわ」
 時雨は舌打ちをしたが、闘気を爆発的に消費した肉体は鉛のように重い。
 すでに趨勢は決してしたかのようにも思えたが、地に膝をついた時雨に近づこうとしていたダゴンは、その気配、いや、殺気に気づいた。
 振り向くと、全身黒ずくめのまるで幽鬼のような青白い顔をした女が立っていた。
「……」
 女の後方、寄りかかるように座っている響の傍らには、大型の犬らしき影が見えた。
「冥府の番犬ケルベロスだと……?」
 その犬の正体を見極めて、ダゴンは唸るような声で呟いた。
「何者だ。あのような高位の魔獣を従えているなど……」
「おまえに名乗ったところで、おまえは知るまい。」
 無感情な視線で、女は悪魔を見据える。
 ダゴンは女の答え方に苛立ちを覚えた。
 畏怖されるべき古き神を目の前にして、女は微塵も脅えという感情を表していない。
「古き神にして旧き支配者ダゴンよ。なぜ、あの娘を狙う?」
 女が静かに尋ねる。
「あの小娘は我の脅威。闇深き場所にまで、光を声に乗せてもたらす存在」
 矮小な人間の問いに答える必要などないはずなのに、ダゴンは言葉を紡いでいた。
 もちろん、ダゴン自身は自覚していなかったが、まるで、女の殺気に無理矢理に口を開かされているようだった。
「心に響く歌は嫌いか?」
 ダゴンの唸るような声の中に、憎悪と、そして、微かな恐怖を、女は感じ取った。
「歌は言霊の一種」
「なるほど。闇を滅ぼす歌声もあるというわけか……」
 女はそう言うと、全身から霊気を解放した。
 物理的な圧力を持った霊気が風を巻き起こし、公園の木々がざわめいた。
 時雨は、驚愕していた。
 女の霊気の凄まじさに。
「うぬ……う……」
 ダゴンも目の色を変える。
 すべてを凍てつかせ、すべてを燃やし尽くすような殺気。
「凍てつく視線と燃え盛る憎悪を持つ女よ。邪魔をする気ならば、汝の肉は空の鳥や野の獣の餌となろうぞ」
「あの娘の歌は気に入っている」
「このダゴンに勝てるとでも思っているのか」
「負ける気はしない」
 殺気の風に揺れていた女のロングコートの裾が翻った。
 その瞬間。
 女の姿が蜃気楼のように歪み、ダゴンと時雨の視界から消失した。
 ハタッという音が微かになる。
 ロングコートの裾が、靡いた音。
 気づいた時には、女の姿はダゴンの後ろにあった。
「何が?」
 時雨には何も見えなかった。
「!」
 そして、ダゴンを見て驚愕した。
 女の後ろに立つダゴンには首がなかった。
「首は!?」
 首は女の足元に転がっていた。
 女の右手から血が滴り、地面へと赤い染みを作っている。
 いや、右手からではない。
 いつの間にか抜かれ、右手で握り締めている日本刀の切っ先から血が滴っていた。
「一瞬で、首を刎ねたというのか」
 霊験あらたかな『氷牙』と『火影』という名刀と時雨の研鑽された剣術をもってしても、ほとんど傷を負わせられなかったダゴンの首を一瞬で、刎ねたというのか。
 しかも、目に見えぬほどの速さで。
 驚愕する時雨を女は振り返った。
 背筋の凍るような視線を受け、時雨は畏怖を覚えずにはいられなかった。
 そして、同時に思う。
 この女は、危険だ。
 女は時雨には一瞥をくれただけで、響の座っているベンチに足を向けた。
 時雨も、響へと視線を向けた。
 その時。
 突然、女がその場を飛び退いた。
「何だ?」
 時雨が声をあげる。
 今まで女がいた場所に、ダゴンの槍が突き刺さっていた。

「古き神にして旧き支配者たるこの我が、首を落とされたくらいで死ぬと思ったか?」
 ダゴンの魚の姿をした頭部が、中空に浮く。
「しつこい」
 女はその首を見ながら、不快そうに眉根を寄せた。
 動揺はない。
「汝を見くびっていたようだ」
 ダゴンの首は、もとあった場所に乗ると、何事もなかったように収まった。
「再生か」
「女、汝を殺すのは至難のようだ」
 女の実力を、ダゴンは今の一撃で知った。
 神にして悪魔たる自分が負けるはないが、勝つのも困難だ。
「ならば、逃げるがいい。今なら見逃してやろう」
 女が静かに言った。
「そうはいかぬな。深き処にまで響き渡る光の歌声を消し去らねば、我が安眠はないゆえ」
 ダゴンが唸り声を上げると、それに呼応したかのように百近い影が周囲に出現した。
 その影のどれもが盛り上がった両眼、灰緑色の鱗に覆われた身体をした、ダゴンを人間大に縮小したような半人半魚の怪物だった。
深きものども(ディープワン)か」
「その通り。汝らヒトが生み出したる架空の物語の我が眷属。汝を殺すのは困難。だが、これほどの数の我が眷属すべててを汝が引き受けること叶わず」
「あくまで標的はあの娘か」
「あの小娘のこそ、我が勝利。行け、我が眷属どもよ」
 ダゴンの命令を受けた深きものども(ディープワン)が、時雨と、ケルベロス、そして、響に襲いかかり始める。
 同時にダゴンもまた、女の動きを止めるために戦いを再開した。


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