安らぎを貪るもの
其の終



「……」
 女はまったく息を乱すことなく、ダゴンの猛攻を無表情に見切ってかわす。
 全て紙一重、無駄な動きは一つとしてない。
 しかし、ダゴンにも焦りの色はない。
 悪魔の目的は、あくまで、月嶺響。
「ガウウウウウッ!」
 威嚇するような声を上げながら、ケルベロスが疾走する。
 そして、響にまとわりつこうとする無数の深きものども(ディープワン)を爪や牙で引き裂いていく。
「この犬、普通の犬じゃない?」
 迫りくる半魚人を次々と屠っていくケルベロスの姿に、響が驚きに目を丸くする。
 しかし、恐怖はない。
 ケルベロスは、響を守ろうとしてくれているから。
「時雨!」
 時雨も、必死に深きものども(ディープワン)と戦っていた。
 ダメージを負った身体でも、その滑らかな太刀筋は衰えない。
 数体の深きものども(ディープワン)が、首を刎ねられ、胴を薙がれ、存在を維持できなくなって消滅させられていく。
「響、無事か?」
 肩を大きく上下させるまで息を切らせながらも、時雨はどうにかして響のいるベンチの前まで辿りついた。
「ええ、時雨こそ、傷は大丈夫なの?」
「心配など必要ない」
 ダゴンにやられた傷は、深い。
 しかし、それ以上に身体を動かす力が時雨にはあった。
 時雨には、それが何かはわからない。
 ただ、響を守りたいとは思う。
 幼馴染みだからだろうか?
 時雨は、大きく息を吐いた。
 どうでもいい。
 とにかく、響は守る!
 呻き声のような声を発しながら、再び半魚人の波が時雨たちを飲み込む。
「あちらは苦戦しているようだな」
 ダゴンが攻撃の手を休めずに嗤った。
「……」
 女は無言で、大鎌をかわし続ける。
「あれだけの物量では、時間の問題だろう」
 ダゴンの振り下ろした槍を、女はゆらりとした動きで軽く後ろ下がって避ける。
 女の顔は無表情で、何を考えているかは読めない。
 ただ、その暗い眼差しは、ダゴンを凝視し続けていた。

 時雨の強さは抜群だった。
 深きものども(ディープワン)どもを響に触れさせない。
 夢想の二振りの日本刀を駆使して、半魚人の波を退ける。
 しかし、不意の事態は起きる。
 地に倒れ伏し戦闘不能になったと思われていた深きものども(ディープワン)の一体が、跳ね起きるように響へと飛び掛かったのだ。
「きゃあ!?」
 深きものども(ディープワン)の鉤爪が、響のブレザー切り裂く。
 飛び散る鮮血に、時雨は目を奪われた。
 冷静沈着のはずの涼風時雨が、動揺を隠しきれずに叫ぶ。
「響!」
 隙のできてしまった時雨の背を、半魚人が引き裂く。
「ぐっ、この!」
 時雨の身体からも、響から飛び散ったとのと同じ色の液体が舞った。
 しかし、時雨は、倒れない。
 気合だけで、自分の背を引き裂いた深きものども(ディープワン)を消滅させると、響を傷つけた半魚人を二本の名刀で千切りにした。
「はぁ……、はぁ……、響、大丈夫か?」
 血まみれの時雨に涙目を向ける響。
「時雨、あたしのせいで……」
「響、そんな顔をするな。おれはおまえの歌が聴きたい」
 気を失って、時雨が倒れる。
「いやあああああああああああ!!!」
 響の絶叫が木霊した。

 女は、響の悲鳴に視線を向ける。
 少年が倒れている。
 友のケルベロスは大丈夫そうだが、響を完全に守る余裕はなさそうだ。
 どうやら、ダゴンの力を甘く見積もっていたようだ。
「もはや、あの小娘の命も終わる」
 古代の神にして新しき神であるダゴンが嗤う。
 槍の鋭さは、いささかも衰えない。
 女は槍を避け続けている。
 ダゴンの槍捌きは強力だが、反撃ができないほどではない。
 だが、再生の時間を与えずに一瞬で女が致命傷を与えるほどの隙をダゴンは決して見せることはない。
「……」
「我の勝ちのようだな」
 響が死ねば、ダゴンは、女を相手にせずに姿を消すだろう。
「……」
 女は唐突にロングコートを翻し、ダゴンの目の前で背を向けた。
 その両目は、周囲の喧騒を、ダゴンの存在さえも無視し、月嶺響きへと向けられている。
 唐突な行動に不審を抱いた古き神の槍が止まった。
「月嶺 響」
 女の冷たく鋭く厚く厳しい視線が響を射抜く。
 響が、ハッとして、女の顔を見返した。
「月嶺 響。強さを持て」
「強さ?」
 小首を傾げながら、響が女の言葉を反芻する。
「愛する者に、おまえの歌を」
 女の瞳は暗い。
 だが、その苛烈な視線は、響へ強い力を注ぎ込んだ。
 響は、理解した。
 彼女の暗い眼差しの原因を。
 ――この女性は、愛する人を。
 響は俯いた。
 倒れた時雨の姿が目に入る。
 彼は私を守ってくれた。
 今だけじゃない。
 いつもは他人に無関心なくせに、私が困ってくれる時はいつも側にいてくれた。
「うっ……ひ、び……き……」
 気を失ったまま、苦しそうに呻く時雨。
 身体のあちらこちらが傷つき、血が滲んでいる。
 ――「響、そんな顔をするな。おれはおまえの歌が聴きたい」
 倒れる直前の彼の言葉を思い出し、響はゆっくり顔を上げた。
 その瞳には、決意と力が満ちていた。

「女!」
 背を向けている女の様子を伺っていたダゴンだったが、女のまったくの無防備さに我にかえった。
 そして、渾身の力で槍を振り下ろす。
 不快な金属音が響く。
 槍の切っ先は女の肩に入る寸前に、動きを止めた。
 鋭い切っ先を、薄い刃で止める絶技によって、ダゴンの槍は受け止められていた。
 女は振り返りもしていない。  到底信じすことのできない恐るべき力量。
 そして、視線をダゴンに向けもせずに、静かに言った。
「開演よ」

 響は、倒れている時雨に、やさしい視線を向けた。
 そして、自然と響の口から、メロディが流れ出す。
 同時に暖かい光が、時雨を包み込む。
 それは拡散し、辺りに降り注いだ。
 透き通った歌声と、淡い光は響の身体を通して、公園に満ち溢れた。
 ダゴンを、深きものども(ディープワン)を、ケルベロスを飲み込む。
 響に視線を向ける続ける女を飲み込む。
 女の表情は、落ちついていた。

 響は大きく息を吐いた。
 静まり返ったあたりに視線を移す。
 すべての深きものども(ディープワン)は消滅していた。
 ケルベロスは、穏やかに響を見上げている。
 そして、響の傍らに、傷の完治した時雨の姿があった。

「……やってくれたな。まさか、小娘の力がここまでのものとは……」
 ダゴンの声は苦悶に溢れ、半人半魚の巨体からは力強さが失われていた。
 響の歌は、深淵に住まう神にして悪魔たる存在の力を弱めていた。
「心の強さが違う」
 女が、刀の刃先を悪魔に向けた。
「強き心か」
 女の言葉を聞き、ダゴンは皮肉くるように嗤った。
 だが、女は表情をまったく変えなかった。
「何がおかしい?」
「汝の心は、その小娘にはるかに及ばぬ脆き硝子であろうが」
「だから、どうしたというのだ、古き神にして旧き支配者よ。まさか硝子の破片が危険だと知らぬわけではあるまい」
 女は日本刀を構え直した。
 半人半魚の神も槍の切っ先を女に向け直した。
「自らのことはわかっているか」
「血に沈むのは、私とおまえだ」
 女とダゴンの姿が重なる。
「オオオオオオオオッ!」
 女の日本刀が、ダゴンの厚い胸板を突き破っていた。
「終わりよ」
 静かに一言発した女が、刀身に莫大な霊気を送り込む。
 胸に刺さった日本刀を核にして体内へと伝播された霊気によって、ダゴンの肉体は粉砕された。
 断末魔を上げる間もなく、古き神の肉体は爆発を起こし、跡形もなく四散した。

「響?」
「時雨」
「響、どうなったんだ? 怪物は?」
「消えちゃった」
「消えた?」
「うん。消えちゃった」
「そうか」
「時雨」
「何だ?」
 響は時雨の頬にキスをした。
「なっ!?」
「守ってくれて、ありがと」
「……」
 時雨は咳払いを一つすると、『火影』と『氷牙』を鞘に納めた。
「響、気分は?」
「気分? 最高よ」
「そうか。じゃあ、おれは帰る」
「え!? ちょっと!」
 響が止めるまもなく、時雨はさっさと公園を出て行ってしまった。
「もう!」
 響が、少し怒気を含めて叫ぶ。
「でも、時雨、カッコよかったなぁ」
 響は、ベンチに座りなおした。
 ふと見ると、響の手帳がベンチに乗ったままだった。
「あ……」
 思い出したように公園の中を見まわす。
「あの女の人は?」
 しかし、彼女の姿はどこにもなかった。
 響はため息を吐いた。
 ――あの人のためにもう一度歌ってみたかったな。
 もう一度静かな場所で。
 あの人の心の傷を癒せるような歌を。
「もう一度、会いたいな」
 響は、呟いた。

 暗闇の中、女は歩を進めていた。
 周りを取り巻くのは、闇だけだ。
 血塗られた日本刀と、暖かな友が女の全てだった。
 恋を語り合った青年の姿が胸をよぎった。
 あの娘の歌を聴いたせいだろうか。
 そして思う。
 二度と会うことはないだろう。
 闇の中、女は静かに呟く。

「だが、良い歌だったわ、月嶺響」


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あとがき

 ようやく、QEDさんに捧ぐ響の短編が決着を見ました。
 疲れた(笑)
 QEDさん、毎回毎回、イラストをありがとうございます! ホント、重宝してますよ♪
 最後に、あのお方は、出したはいいが、こういう話だと難しかったです。
 と、付け加えておきましょう(笑)
 彼女、性格なんか違うくなってるし…短編仕様?(爆)