〔2〕
“第6の絶滅”と、現状の分析 
(1)
外適応と認知能力 
夏美は、マジックハンド先端の遊動チェアーで体を固定し、眼下に広がる巨大な質
量を見ていた。地球極軌道を周回する生態系監視衛星“ガイア・21”は、群青(ぐんじょ
う)のインド洋から、インド半島の北部、そして厳冬期のヒマラヤ山脈を、静かに抜けて
行く。その先の白い山々は、チベット高原だ...
彼女は、そっと両手でポニーテイルの髪に手をやり、キュッと首筋の方へ絞った。
そして、唇を開きかけた。が、その時、高杉の方が、つぶやくように言った。
「...もし、釈尊が...この高度600kmのからの、地球極軌道の風景を見られた
ら...何と言われたかな...」
「...」
「...思えば...時代は、ここまで進んできたわけです...あの釈尊やキリストの
時代から...我々は、こうやって、何処まで歩んでいくのですかねえ...」
「はい...」堀内も、眼下に広がる水の惑星を見つめた。強化ガラス1枚を隔ててい
るだけの無重力空間は、まるでそこへ吸い込まれていくような迫力があった。
「ええ...高杉・塾長、」夏美が、まばたきして言った。「...36億年に及ぶ、地球
の生物進化史上で、ホモサピエンスによって初めて文明の発祥を見たわけです...
それが、何故、ホモサピエンスだったのでしょうか?他の原人たちは、何故絶滅し、
完全に姿を消してしまったのでしょうか?そのあたりの謎は...」
「...うーむ...まあ、これは科学的とは言えない意見ですが...今、我々の人類
文明が、この地球上で繁栄している姿は、単なる生命進化途上の“偶然”とは思えな
いものがありますね...
生命体の“進化の実験場”で、ようやく人類というDNAで最高モードの種の原型を
を創出し、それにさらに磨きをかけ、ついに最初の知的生命体である“文明種族/ホ
モサピエンス”にたどり着いたような感じがします...」
「そう!確かに、そう思いたい所です!」堀内が、真っ直ぐに高杉を見た。「しかし、高
杉さん、それが一番陥りやすい感性でもあるのです。科学的立場から言えば、肝心
なのは“言語の発明”であり、“外適応”として、その潜在能力の器が、すでにホモサ
ピエンスに備わっていたということです。
すなわち、ほんの一部しか使われていないほどの、“大容量の脳”がすでにあり、
明瞭な言語を発生するのに最適な“声道”を、“外適応”として、すでに装備していた
ということです。
御存知のように、私たちの脳は、相対性理論と量子論の時代になった現在でもな
お、相当量の未使用部分が残っています。ここが、今後の“外適応”として、ホモサピ
エンスの“新しい能力”、“新しい機能”と結びついていく可能性があります...」
「はい...」夏美が、堀内の言葉を引き取った。「大容量パソコンの、未使用領域の
様なわけですね。現在は、それでワープロを打っているだけで、広大な未使用の領
域があるということですね、」
「まあ、そういうことですね。高杉・塾長の方は、いつものように、“人間原理”の立場
で言っておられるのでしょう...」
「はい」夏美が、うなづいた。「あの、今、堀内さんの言われた“外適応”というのは、
どの様なものなのでしょうか?」
「ああ...“外適応”が出てきましたね。それは、ポン助君に解説してもらいましょう
か。準備はいいかな、ポン助君?」
「おう!いいよな!」
≪ポン助のワンポイント解説・・・No.1≫
<外適応 .....> 
「進化論には、“適応”と“外適応”という言葉があるよな...
“適応”はよう、ある特定の機能を果たす現象だよな。“外適応”はよう、
発生しただけで機能は持たず、後で新しい機能に加わる可能性のある現
象だよな。
人類の“卓越した認知能力”はよ、鳥の“羽毛”と同じ様に、“外適応”と
して発生したらしいぞ。つまり、鳥の羽毛は、最初は何の役にも立たなか
ったけどよ、そのうちに、寒さから身を守る断熱材として機能するようになっ
たぞ。動物の毛皮と同じ様によ。そして、さらに、現在のように、空を飛ぶ
ために使われるようになったよな。
ヒトの場合はよう...解剖学的な頭蓋骨の形から、“大容量の脳”と、
“有節音声言語”を発生する“声道”を、“外適応”として備えていたことが
最大のポイントだよな。
これらの新しい構造は、邪魔にならないという理由で、“外適応”として、
世代を超えて、長い間保持されてきたと考えられるよな。大量の未使用領
域の脳は、ホモサピエンスでは、現在も受け継がれているぞ。
これらの、“外適応”として保存された人類のスーパー機能はよう、鳥の
羽毛と同じように、後で決定的に重要な“認知能力”の一翼を担い、それ
がやがて、文明の夜明けに続いていくことになったと考えられるぞ...
だけどよ、“進化”については、まだまだその全体像が、謎に包まれてい
るぞ。現在、行われている推理は...このあたりまでだよな...」
【
理解でなかったら、もう一度読んでくれよな...】
「うーむ...なるほど...」高杉は、地球表層を高速で流れて行きながら、腕組みを
した。「それでは、堀内さん、1つ質問します」
「どうぞ、」
「何故...その“スーパー機能”が、あまりにも偶然に...“外適応”として、すでに
そこに準備されてあったのでしょうか?
まるで、腹をすかせているポン助の前に、剣菱(日本酒の銘柄/辛口)の入った徳利と盃
が置かれてあったようなものです...つまり、私が言いたいのは、誰が、何者が、そ
こに徳利と盃を準備したかということです。それがあって、はじめて、“発声”と“言語
の発明”、そして“文明の夜明け”へと展開していくわけでしょう。ここに私は、何者か
の“意識”の臭いを感じるのです」
「そうですね」堀内は、小さくうなづいた。「確かに、その疑問は、率直に認めます。ま
だ分らないことは、山ほどありますからねえ。しかし、“神”や“何者か”の意図を認め
てしまったら、科学ではなくなってしまうのですよ」
「そりゃ、まあ、そうです」
「私たちが、今、この事をこうやって考えているのも、実に、不思議な風景です
わ...」夏美は、ダイナミックな形の雲海の上を、高速で流れて行きながら言った。
「私は、」高杉は言った。「そこに徳利と盃を準備したのは、“36億年の彼”ではない
かと思っているわけです」
「ふーむ...」堀内が言った。
(2) 雪男と雪女 
「では、先に進みましょうか」夏美が言った。
「はい...」高杉は、腕組みをしながらうなづいた。「ええ...あの、土と埃(ほこり)に
まみれた2000年前のパレスチナの地で、キリストが誕生しました。それから、その
少し前になるでしょうか...インド北部の釈迦族の中から仏陀が出現しました。ま
た、キリストよりは少し後になりますか...イスラムの預言者マホメッドが出現してい
ます...いわゆる、世界的に広がった3大宗教は、みなその頃に生まれているわけ
です...
さて、不思議なのは、その時代に生まれた宗教を、相対性理論と量子論に立脚す
る21世紀の科学文明が、全く超えることが出来ないという事実です...私は、20世
紀初頭に出現した相対性理論と量子論が、人類文明に巨大な断層を形成しつつあ
ると言いました。まあ、文明のパラダイムがシフトしたと言うよりは、古典力学の限界
を超え、新しいステージの時代が始まったと言った方がいいのかも知れません。
むろん、私はこの言葉を撤回するつもりはないのですが、21世紀に入った現在で
も、2000年前の宗教を超えることが出来ないというのも、不思議な話です。つまり、
それほど優れたものが、すでに2000年も前に出現していたわけです...
宗教とは、そうしたものだと言ってしまえばそれまでですが、それはより深い真実
に迫るものであり、人類文明の骨格を成すものです。あっさりと納得してしまうには、
その影響はあまりにも大きいのではないでしょうか。しかも、21世紀の科学的パラダ
イムも、あえてその宗教とは対立しないスタンスを取っています...まあ、これは、
非常に賢い判断だったとは思いますが...」
「はい...うーん...それは、何故なのでしょうか?高名な科学者は、なぜ科学と
宗教の両方を認めるのでしょうか?その代表格が、アインシュタインだと思うのです
が、」
「この眼前する世界というのは、実は、科学では説明しきれないものが沢山ありま
す。本質的な矛盾をはらんでしまうからです。そこで、全能の神に御登場していただく
というわけですがね...」
「ふーん...」
「まあ...ここで私が言いたいのは、世界中に広がった3大宗教が、ほぼ同じ頃に
出現している偶然です。ここに、意図的な痕跡はないでしょうか?」
「その問題ですか、」堀内が、額をこすった。「まあ、全歴史を検証して見る必要は、
確かにありますが、難しいですねえ...まあ、私の専門ではないですが、」
「それでは、ホモサピエンスに、“外適応”として大容量の脳や声道が準備されたの
は、何故か?それが言語の発明と高い認知能力に結びつき、ついに文明の発祥を
見たわけですが、その同じ経路の上に、宗教もまた、準備されていたとは考えられな
いでしょうか?」
「そうですねえ...」堀内は、地球の反射光を額に受けながら、ゆっくりと両腕を組ん
だ。「まず...高杉さんが抱いているような、人類文明に対する感情というものは、
非常に強い直観力から来るのだと思います...そういう直観力に対し、論理的に反
論するのは難しいことですね...
直感というのは、理屈抜きに、直接的に真理を掴むものですから。しかし、だから
といって、私には、それが正しいと保証するすべもないわけです」
「私は、実は、この感情も、“36億年の彼”という、私の自論に反映させています。
こうした“意図”もまた、“36億年の彼”の、人格の一部と見ています。それから、
何故“36億年の彼”が存在するのかということでは、この宇宙の初期条件の最後の
1行に、“知的生命の存在”と、書き込むわけですよ」
「まあ、整合性はとれますね」
「はい」高杉は、口元で笑った「まあ、実際の所、そんな単純な風景とは思いません
がね。ただ、この世界というのは、入れ子細工のようで、深くさぐれば深くさぐるほど、
益々複雑化していくのが特徴です。しかも、分割・分析から、今度は包括・統合へ折
り返して行くといいます。まさに、切りがない」
「しかし、より深まって入るでしょう」
「はい、」夏美がうなづいた。
「まあ、それにしても...“生命”とは、何なのでしょうか」高杉は言った。「それから、
“進化”とは、何なのか...その“ベクトル”は、何処を向いているのか...あと、10
万年も人類文明が続けば、それが分かってくるかも知れませんね」
「10万年ですかあ...」堀内がうなづいた。「さて...長いような...非常に短いよ
うな...」
「ネアンデルタール人は、それ以上存続したわけですよね」夏美が言った。「それが、
クロマニヨン人に駆逐されました。でも、ホモサピエンスには、天敵はいませんわ。だ
から、もっとずっと長く続くのではないでしょうか?もちろん、文明をうまくコントロール
できればの話ですけど、」
「その通りです...」高杉は、ポン助の方を見た。ポン助は、次の作業にかかってい
た。「文明が発祥したということは、そのための“巨大な力”を持ったということなので
す。ただし、その文化的側面で、真にそれに見合った超越的存在に解脱できたらの
話です。そうなれば、“外適応”に相当する未使用の脳の領域も活用し、100万年、
200万年と続くことも可能なはずです。ホモサピエンスは、器としては、軽くそれぐら
いのものは持っていると思います」
「はい...うーん、是非それぐらい続いて欲しいと思います...
あの、堀内さん、ひとつ気になっているのですが、ネアンデルタール人は、本当に
クロマニヨン人や現代人に絶滅させられたのでしょうか?」
「故意に、絶滅させられたのかとなると、それは大いに疑問ですね。大量虐殺された
ような痕跡は無いと言われています。
それから、そこが、先ほど高杉さんの言った、ホモサピエンスの“文明発祥の必然
性”に結びつくわけでしょう。そして、必要のない要素として、他の原人たちは実験場
から取り除かれたような...
うーむ、実際、どんな事が起こっていたのでしょうかねえ...」
「ミステリーですね」高杉は、混ぜ返すように言った。
「1つ言えることは、ですね...彼等が絶滅したという確証があるわけではないので
す。何がしかの“種”が、絶滅したと証明するのは、実は非常に難しいことなのです。
最近でもまだ、“雪男”を見たという話はあるでしょう。私などは、ひょっとしたら、それ
は私たち以外の人類...つまり、他の原人の末裔(まつえい)ではないかと思ったりも
するわけですよ。
まあ、現在でも、そうした原人の末裔がいても、不思議はないわけです。しかし、
それも、混血で消えていってしまったでしょうか...」
「さて、どうでしょうかねえ...いずれにしても、他の原人はみんな消え、ホモサピエ
ンスだけが残ったというのは、事実です。仮に、“雪男”の様な一族が点々と存在し
たとしても、ごくわずかな人数でしょう...うーん...まだまだ、DNAは闇の中です
からねえ、」
「まあ、ともかく、ここは不思議な世界ですし、何万年もの長い時間も流れています」
「あの、それじゃ、“雪女”というのも、いるのでしょうか?」夏美が聞いた。
「さあ...それは、別の話じゃないですか、」堀内は、高杉の方を見た。
「“雪女”...ですか?それは、別の話じゃないかなあ、」
「あら?そうかしら?」夏美は、真っ直ぐに高杉の顔を見た。
「それは、オバケだよな」ポン助が言った。
堀内は、手を振って笑った。高杉も笑い出すと、夏美も一緒に笑った。
「ま、」と、高杉は、笑いを押さえて言った。「様々な原人が生まれてきて、最後にホモ
サピエンスが出現し、ついに地球の生物進化史上で、最初の“文明の夜明け”を見
たというのは、実に特筆すべき大事件です。
それから、ホモサピエンスは、その科学技術文明の暴走ゆえに、この地球の全生
態系をも沈没させかけています。実に、因果な話です。まあ...ふざけた話でもある
わけです。
だから私は、この機械文明に振り回されている現在の状況は、いずれ、必ず、克
服されるはずだと言うのです。そうでなければ、この地球という“ハビタブルゾーン”内
の、特異な惑星上で、巨大文明が発祥した意味がないですからねえ...まあ、逆説
的な言い方になりますが、」
「うーん...それは、分ります!」夏美が、頬に笑窪を作った。「そういう論法は、面
白いです。私は、好きですわ。“ハビタブルゾーン”というのは、何となく、こじ付けの
ような感じがしますけど、」
堀内は、両手を開き、首を斜めにして見せた。
「でも、」と、夏美が言った。「素直に、直感的に、高杉・塾長の言うとおりだと思いま
すけど。何故か、人類文明の発祥は、生物進化上の偶然の産物とは思えないものを
感じますわ...」
「まあ、“人間原理”に基づく、逆説ですね...」堀内が、地球を眺め、考え深げに言
った。「あるいは、そうなのかも知れません。ただ、私は、塾長よりは、より科学者に
近いですからねえ、」
≪ポン助のワンポイント解説・・・No.2≫
<ハビタブルゾーン..... > 
「恒星系や銀河系の中で、生命体が存在できると推定される領域のことだ
よな...
太陽系で言えばよう、金星軌道の外側から、火星軌道のやや外側まで
の領域だよな。それよりも内側の軌道だと、太陽に近くて、金星のように灼
熱の世界になるぞ。火星よりもだいぶ外側へ行くと、今度は太陽から遠く
て、極寒の氷の世界になってしまうぞ。
太陽系では、地球と火星が、このハビタブルゾーンに入っているよな。だ
けどよう、木星の衛星のエウロパにも、氷の表面の下の海に、生命体が
いるかも知れないと、考えられているよな...これは、巨大な木星の重力
で、エウロパの形が激しく変形することで、エウロパという衛星自身が独自
の熱源を持つからだと考えられているぞ。
銀河系のハビタブルゾーンの方は、もう少し要素が複雑だよな。だけど、
太陽系を含む、外側の薄いディスクのドーナツ型領域が、要するに、銀河
系のハビタブルゾーンだよな。
いずれにしてもよ、ハビタブルゾーンというのは、はっきりした境界線が
あるのではなくて、地球の様な“水の惑星”が存在できる条件を、想定した
ゾーンだよな...夏美が、“こじ付け”のようだと言うのは、このあたりの大
雑把な概念だよな...
だけどよ、物理的にあまり激しい領域に、生命体が生存できないのも、
事実だよな...生命が生まれるには、“水の惑星”の条件と、穏やかな長
い時間が必要だよな。ただ1つの実例として、“地球生命圏”を見るかぎり
はよう、」
【
理解でなかったら、もう一度読んでくれよな...】
(3) 膨大な地下生物圏
(Deep
Biosphere) の存在

「ああ、そうそう、」堀内が、口を開いた。「高杉・塾長は、地下生物圏
のページを担
当していましたね。そっちの方は、現在、どんな様子なのですか?」
「はい。担当していますが、まだほとんどデータはありません...
しかし、まあ、深海底のさらに地底深くに、“地下生物圏”が存在しているのが分っ
てきています。この地球生命圏を構成しているのは、太陽光線の恩恵を受けている、
地表領域だけではないことが分って来たのです」
「はい。で、それは、確かなことなのでしょうか?」
「確かです。どうやら、深海底の地下深くに、膨大な未知の地下生物圏が存在してい
るのは、確かなようです。熱源も、太陽ではなく、地球の内部から得ています」
「ふーむ...すると、それは、別の生態系でしょうか?」
「この、眼下の...」高杉は、地球の雲海の強い反射光に目を細めた。「地球とい
う惑星上のことですから...まず、完全に独立した、別の閉鎖系が存在するという
ことは考えられません。しかし、これまでの推計では、かなり独立性の強い生態系だ
とは言えますね。つまり、別の熱源があるわけであり、自立しているのです」
「うーん...どういうことなのでしょうか?」夏美が言った。「私には、よく飲み込めな
いのですが、」
「そうですね。それじゃ、まず、地下生物圏について、簡単に説明しておきましょ
う...
そもそも “地下生物圏”というのは、海底火山のブラックスモーカーや、熱水鉱床
の地下から、その存在の一端が、少しづつ見えてきた生物圏です。ごく最近、ようや
く本格的な深海底の掘削調査も始まっています。私としても、その成果が上がってく
るのを、今まさに待っているところです」
「うーん...深海底の、さらにその下の地層を掘削するのですか...ずいぶんと難
しい作業なのでしょうか?」
「まさに、そのとうりです。だから、今まで発見されなかった。しかし、最近になって、
そのための深海底掘削船が建造され、第一線に投入されて来ています。海底に眠
る莫大な量のメタンハイドレートの調査が進んだのも、こうした海底掘削技術の成果
なのです」
「はい。メタンハイドレートは知っています」
「さて、その地下生物圏/(Deep
Biosphere)の微生物の総量は、膨大なものが予想
されています。炭素重量に換算して、地球表面の生物圏の200倍(200兆トン)とい
う試算もあるようです。
まあ、いずれにしても、本格的な研究はこれからになります。が、しかし、そんな膨
大な生物圏が、深海底の地下に存在しているとなると、この地球生命圏の全体像
が、大きく変貌してきます。これは、地球のホメオスタシス(恒常性)にも、深く影響してき
ます」
「うーむ...そりゃ、大変な話ですねえ、」堀内が言った。「それにしても、まだまだ分
らない事はあるものですねえ...この地球にも...」
「そうですねえ...海底に眠っている、膨大な量のメタンハイドレートの存在が分って
きたのも、つい最近のことでした。人類文明の科学力が、ようやく、本格的に、この地
球という惑星全体の探査に、手が届いてきたということでしょうか...」
「うーん...」夏美は、ポニーテイルの髪を、ギュと絞った。「地球表層の200倍もの
生物量なんて、そんなものすごい量が、本当に海底の地層の中に存在するのでしょ
うか?そんなものすごい量が...」
「まあ、これは推定です。実際のところは、まだ誰にも分りません。が、しかし、調査
が進めば、より正確な推定値が出てくるでしょう。いずれにしても、地球という生命圏
全体を考察する上でも、途方もなく巨大な新しい要素が加わることは確実なようです」
「この地下生物圏には、高等生物は居ないのでしょうか?」
「高温高圧という厳しい環境を考えれば、微生物が主体だと思います。しかも、こうし
た環境下では、移動も難しいでしょう。しかし、ともかく、まだ手の着けられていない
未知の世界です。生命の存在そのものが、まだまだ謎が多いわけですから、何が出
て来るか分りません...
まあ、おそらく、数々の驚くような発見があると思いますね。なんといっても、閉鎖
性の強い自立した生物圏です。生物進化の歴史も、環境も、地表とは異なるわけ
です。おそらく、36億年ほどの時間経過もあるわけでしょう。しかも、その上、我々と
は兄弟分というわけですからねえ...」
「うーん...どういうことになるのでしょうか?」夏美が、遊動チェアーを高杉の方に寄
せた。
「まあ...地表の生物圏というのは、ひょっとしたら、海の上に突き出した氷山の一
角、なのかも知れません」
「いや、地下生物圏の話は耳にしていましたが、そんな方向へ展開していくわけです
か...」
「不思議な惑星ですわ」夏美が、地球を見下ろしながら言った。「それに、美しい惑星
ですわ...」
「ともかく...“生命”というものにも、“意識”というものにも、実に謎が多い。私は、
地球に、自論の“36億年の彼”という地球サイズの人格が存在するとしたら、この
安定した地下生物圏にそのネットワークがあるような気がしていいます」
*********************************************************************************************
≪大川慶三郎と、ミミちゃんが到着...≫
ピピピピピーッ...ピピピピピーッ...ピピピピピーーーーッ

「こちら夏美!こちら夏美!
ええ...ただ今、大川慶三郎さんと、ミミちゃんが、生態系監視衛星“ガ
イア・21”に到着しました!」
「こちら、支折!了解!NASAより依頼されたミッションは、今後、大川慶
三郎さんが引き継ぎます。津田・編集長は、急遽“辛口時評”の仕事が入
り、宇宙空間には出られなくなりました。
軍事ミッションは、本来、大川慶三郎・軍事担当主任が最適任ですの
で、何の問題もありません。どうぞ、」
「こちら、夏美!了解!」
「大川・主任は、軍事衛星1号で、アフガン情勢及び中東情勢を監視して
いたのですが、今回の事態で“赤い稲妻”に帰還しました。NASAより依
頼のミッションは、全て了解しています」
「はい。そちらの方は、大川・主任にお任せします。あ、それから、ポンちゃ
んも、どうぞ、」
「あら、いいかしら?」
「はい。こちらの方は、ミミちゃんが来てくれましたから、」
「はい。了解しました...ありがとう、夏美。それじゃ、よろしくね」
「はい。あ...ミミちゃんが、観測モジュールに入ってき来ました。大川さ
んも来ました...大きなトランクを2つ運び込んできました...」
「おう!」高杉は、遊動チェアーから、手を上げた。「ご苦労さん!それじゃ
あ、大川さん、NASAの方は頼みます」
「ああ、はい、」
「こっちも、予定より大幅に時間がかかってます。まあ、いつものことです
が、話が伸びてしまいました」
「はい...」大川は、観測モジュールの中を見回した。「こっちも、すぐに準
備にかかります。もう、ほとんど時間がありませんねえ、」
「手が必要なら、言ってください」堀内が言った。
「ああ、はい...セットは簡単なものです。ただ、テストをしたかったのです
がね、」
**********************************************************************************************
(4)文明の力で、“6度目の大量絶滅”は、回避可能



「うーん...ミミちゃん、大丈夫でしょうか?」夏美が、首をかしげ、無重力空間でグ
ルグル回転しているミミちゃんを眺めた。
「うん!」ミミちゃんが、あらぬ方に体を回転させながら答えた。
「ええ...初めての微小重力環境で、落ち着かないと思いますが...」夏美は、チョ
イ、と手を伸ばし、ミミちゃんの耳をつかんだ。そして、クイ、と自分のそばに引き寄せ
た。「よろしくお願いします。気分はどうでしょうか?」
「うん!大丈夫だもん!」ミミちゃんは、夏美のポニーテイルをしっかりと掴んだ。
「そう...ええ...それじゃ、さっそく始めます...」
夏美は、キーボードを叩いた。そして、まず、壁面に折り畳まれている、軽量マジッ
クハンドの遊動チェアーを、もう1本起動させた。マジックハンドの先端に花開いた遊
動チェアーには、専用スクリーンとキーボードが標準装備されている。
「ええと...ミミちゃん、体をマジックテープで固定してください。そう...長すぎる部
分は、巻き込んで下さい...ええと、それから、キーボードは使えるかしら?」
「うん!たぶん...」
「そ...私も、少しまごついたけど、大丈夫。すぐに慣れるわよ」
「うん...」
「はい...ええ、よろしいでしょうか、塾長?」
「ああ、いいとも」高杉は、地球を俯瞰する窓に肩を寄せた。それから、ミミちゃんの
方を見た。「頼むぞ、ミミちゃん」
「うん!大丈夫だもん!」
「おお、」堀内が、顔をくずした。
「ええ...では、続けます...」夏美が言った。「ええと...地球の36億年に及ぶ
生物進化の歴史において、これまでに5回の大量絶滅があったのは、大体分りまし
た。最後の大量絶滅は、6500万年前の、恐竜時代の終焉だということも知りまし
た...
つまり、それから6500万年が経過したわけですね。そこで、現在、再びその兆候
はあるのでしょうか?つまり、“6度目の大量絶滅”に突入するような、前兆というよう
なものが、果たしてあるのでしょうか?」
「まあ...一口で言えば、その可能性はあります...」高杉は、遊動チェアーを、や
やスライドさせた。
「それは、高い確率なのでしょうか?」
「うーむ...確率というよりは、その大量絶滅の可能性を、人類文明が創出し、また
コントロールできるということです。したがって、それは、きわめて危険であるとも言え
るわけです。この地球生命圏を壊すも守るも、人類の科学技術文明にとっては、きわ
めて“お手ごろサイズ”といったところですね」
「...」
「つまり、人類文明のスケールと、地球生命圏のスケールが、非常に接近して来てい
るのです。もちろん、内容において比較できるものではありません。人類は、たった1
個の単細胞生物さえも、真の意味においては、創出したという実績は皆無です。ま
あ、生物体の基本単位である“細胞”というものは、まさに生命の神秘そのものであ
り、容易に創出できるものではありません...」
「はい、」
「しかし、この偉大で、奇跡的な巨大生命圏を、人類の手で破壊することは容易なの
です。もっとも簡単なのは、100メガトン級の水爆を10個も使えば、瞬時にして、こ
の地球生命圏の表層部を崩壊させることができます。つまり、その気になれば、この
生命圏を破壊することは至って簡単なのです。
それから、その対極には、いま現実に起こっている、“穏やかで確実な環境破壊の
進行”があります。まあ、このように、人類文明が内包する破壊力というものは、まさ
にバラエティーに富んでいると言えます」
「はい、」
「しかし、一方では、科学技術文明は、砂漠の緑化計画、農産物の増産、品種改良
と、生産面でも大きな威力を発揮できる状況にあります。これは、生物体をゼロから
創出するのではなく、育成する技術ですね。したがって、環境の保護や復元にも、人
類は大きな力を発揮できる実力を身につけているのも確かなのです...つまり、これ
らを総合して、先ほど、“お手ごろサイズ”と言ったわけです...」
「うーん...まとめると、どういうことになるでしょうか?」
「つまり、こういうことです...
人類文明は、この地球の全生態系をコントロールする、十分な力を、すでに持って
いるということです。ただ、残念ながら、それを有効に活用できる状態には至っていな
いということですね。二酸化炭素の排出量に関する『京都議定書』の様な、努力は始
まってはいるのですが、まだそれほど真剣という状況には至っていません。
しかし、様々な兆候から、事態は非常に切迫していると考えるべきだと思います。
今、人類文明が地球環境のコントロールに失敗すれば、最悪の場合、“第6の大量
絶滅”もありうるかも知れません...
その1つは、地球が、長期的な気候変動期に入ってきているということです。
2つ目は、人口爆発による、地球のホメオスタシス(恒常性)の破局点の到来と、
急速な全地球環境の変動です。人口爆発は、あらゆる意味で、地球生態系に急激な
負担をかけています。問題の全ての元凶は、まさに人口問題にあるのです。
それから...確かに、大自然のサイクルでも、これまでに5回の大量絶滅があっ
たわけです。火山や海底のメタンハイドレートの崩壊から、大量の二酸化炭素が大
気圏に放出される事もあります。そして、このことが、人類の地球温暖化回避の努力
を、いっきに押し潰してしまうこともあるかも知れません。
しかし、こうした自然界の危険性と、文明が定量的に、確実に地球環境を食い潰し
て行くのとは、明らかに意味が違うのです。したがって、人類文明が確実に地球環境
を食いつぶしていく事態は、絶対に回避すべきなのです。そして、その上で、大自然
の猛威に対処する道を、余裕を持って整備していくことです。
これが、真の人類文明の姿なのではないでしょうか...
まあ、このあたりが、人類文明の現状ということですね...」
「...20世紀の後半は、」堀内が言った。「人類は冷戦構造からの脱却が、最大の
テーマでした。環境保護と環境復元の運動は、21世紀の初頭から半ばへかけて
の、最大のテーマになりそうですね...」
「そうですねえ...いずれにしても、保護と復元の一方で、凄まじい破壊が進行して
いる現状は、何とかしないといけません...
“人口の爆発”と、それによる必然的な“環境破壊”、“気候変動”、“食糧危機”を
考えると、状況はきわめて厳しいものがあります。このままでは、近い将来に、確実
に悲惨な状況が到来します...
それが、人類文明に起因するものであるにせよ、ないにせよ、現在の地球上の膨
大な人口は、必ず“適正な数量”に修正される時が来ます。まず、飢餓と疫病の、相
乗効果による、“人口激減の圧力”が高まって来るでしょう。それを、文明の力と国際
社会の連携で、何処まで耐えられるかが問題です...」
「はい。ええ、夏美です...
今回は、ここで一応終了とします。次回は、“彗星と隕石の地球圏への侵入”と、
大川慶三郎・軍事担当主任の、軍事ミッションになります。どうぞ、ご期待ください!」
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