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  〔万葉集/巻4・・・相聞歌のみ〕  
(巻3・巻4は・・・ 巻1・巻2を、継ぐ意図で構成されている)

           相  聞  歌  (そうもんか)    

        第43代/元明天皇の平城京遷都から・・・ 藤原氏の時代へ

 
                

 トップページNew Page WaveHot SpotMenu最新のアップロード     女流歌人: 里中 響子

 INDEX                          

プロローグ          = 凛とした日本・・・への回帰! = 2013. 3.30
No.1 〔1〕 第43代/元明天皇  2013. 3.30
No.2       【巻1-(35)】  元明天皇/阿閉皇女(あへひめみこ) - 雑歌〕 2013. 4.24
No.3      第43代/元明天皇と・・・ 奈良/平城京への遷都    2013. 4.24
No.4 〔2〕 第44代/元正天皇へ 2013. 4.24
No.5       【巻18-(4056)】   〔橘諸兄(たちばなのもろえ) - 雑歌〕 

      【巻18-(4057、4058)】   元正天皇/氷高皇女 - 雑歌〕
2013. 4.24
No.6       【巻20-(4293)】   元正天皇 ・・・【雑歌】

      【巻20-(4294)】   舎人親王 ・・・【雑歌】
2013. 4.24
No.7 〔3〕 巻4の歌・・・ 2013. 6. 6
No.8       【巻4-(484)】   難波天皇の妹・・・【相聞歌】 2013. 6. 6
No.9       【巻4-(488)】   額田王・・・【相聞歌】 2013. 6. 6
No.10       【巻4-(773)】   大伴家持・・・【相聞歌】 2013. 6. 6

 

プロローグ               

           
 
   <凛
(りん)とした日本・・・ への回帰
    

  


            



「ええ、里中響子です...」響子が髪に手を当て、アゴを上げた。「お久しぶりです...

  厳冬期/大寒(だいかん: 1月20日頃)が過ぎ...節分(立春の前日/2月3日頃)が過ぎ...雛祭(ひなまつり/3月3

日)が過ぎ...慌ただしく、桜の季節が到来しました。めまぐるしい季節の移ろいの中で、日本は...“未

曾有の大混迷・・・激情の渦の中” ...の春爛漫の季節です...

 

  でも...“未曾有の国難・・・大混迷” ...も“身から出た錆(さび)という側面があります。“国家3権

 + 1 = 司法・立法・行政府 + マスメディア” ...の責任とばかりとも、言い切れません。

 

  “この国難” は...確かに、“国家上流域からの・・・モラルハザード”起因します。でも、それを見

過ごしてきた国民にも、問題がありました。戦後民主主義下での・・・(りん: 態度、容姿、声などが、きびしく引

き締まっているさま)とした精神性の衰退” もまた...重要な要素だったのではないでしょうか。さらに言えば、

“宗教的基盤の・・・弱体化”  ...もあったと思われます。

 

  “古からの・・・日本民族の精神性・・・日本風土の中での・・・豊かな情動” ...は、一朝一夕

するものではありません。でも逆に言えば、一朝一夕に、喪失してしまうものでもないのです。私たちは、

“日本の・・・凛とした精神性”  を完全に、喪失しているわけではありません。

  日本列島には、長い伝統文化蓄積があり、そうした精神土壌が、営々と受け継がれて来ています。

を正し、体制を整えれば、早急な復元可能です。日本列島には、“古のよろずの神々”や、“民族の

精神性”が、今も力強く息づいています。その土台の上に、新たな社を築くことが、私たちの使命なのかも

知れません。

 

  それには、まず...【国民・参加型・・・新/評価制度】 というものの確立が、不可欠になります。【国

民の信頼に足る・・・国民に寄り添った・・・新/評価制度】確立が、何よりも重要です。政治は相変

わらず、砂上の楼閣を造り続けていますが、カギは...“公共放送の・・・奪還!”  にあると考えます。

 

  これまで、万葉集や、古今集新古今集...そして各ジャンルの、古典文学絵画などが...

日本磐石伝統文化を育んで来ました。これらは歴史を通じて、公正な評価蓄積されてきた結果で

す。さらにその上に、真摯芸術性が重ねられ、人間性求道精神性が輝き、歴史的評価に、磨き

かけられてきたわけです。ここに、日本人精神性のルーツ/精神の輝きがあります。 

 

  現在、日本社会衰退してしまったのは...“凛とした姿勢・・・真摯な態度/哲学” でしょう。それを

私たちは、歴史荒波洗練されてきた...“貴重な古典の世界・・・古の人々の精神性”...から、

学び取ることができるわけです...!! 」

 

  


〔1〕 第43代/元明天皇            

 
  
               


「さあ...」支折が言った。「万葉集【巻4】ですが...

  この巻は、“相聞歌”のみで構成されているようです。【巻4】は、【巻3】とともに、【巻1、2】 継ぐ意

図で構成されている、とも言われます。うーん...【巻1、2】続編といった性格なのでしょうか。【巻1、

2】は、これまでに述べてきたように、天皇家を中心とした内容でした...」

「他の、内容もあるわけですか?」夏実が言った。

「ええ...」支折が、うなづいた。「これから見て行くことになりますが...

  万葉集には“防人歌”も収録されているわけです。【巻13、14】にも含まれていますが、【巻20】

最も多く含まれているようです。これは、天皇家貴族社会とは全く別次元の、“庶民の心情”が詠(うた)

われているわけです」

「そうですね...」響子が、うなづいた。

「ともかく...」支折が、アゴに指を当てた。「この、【巻4】では...

  天平時代(7世紀終わり頃 ~ 8世紀中頃)以前の古い歌をまず掲げ...その後に天平時代を配置してい

ます。天平時代に入ってからは、大伴家持(おおともやかもち)女性たちとの、贈答歌が多く載せられている

ようですね」

「はい、」夏実が言った。

                         

日本の歴史というのは...」支折が言った。「こうした...“膨大な和歌で・・・営々と歌い上げられてい

る” ...という側面を持つわけです...

  歴史的1コマ1コマに...歴史的人物繊細な心/和歌が添えられ...あるいは、辞世句が詠まれ

て...時々の心境史実と並行し、和歌集に編纂されているわけです。その時の感性が、永遠歌い

継がれて来ているわけです」

「はい...」夏実が、コブシを握った。「そうですね...

  大津皇子が、石川郎女に贈った、逢引をスッポかされた時のも...その彼女返歌も...それから、

処刑される時の辞世句も...みんな、『万葉集』をはじめとする...歌集収録され、歌い継がれて来て

いるわけですね」

「そうです...」支折が、唇を引き結んだ。「すでに、紹介したですが、もう一度掲載しましょう...

 

あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと 

                   我れ立ち濡れぬ 山のしづくに

                 【巻2-(107)  ・・・ 石川郎女(いしかわいらつめ)に贈る御歌一首      【大津皇子】

 

(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 

                    山のしづくに 成らましものを

                 【巻2-(108)  ・・・ 石川郎女の和(こた)へ奉れる歌一首           石川郎女

 

百伝ももづた)ふ 磐余(いわよ)の池に鳴く鴨を 

                    今日のみ見てや 雲隠(くもかく)りなむ

          【巻3-(416)  ・・・ 大津皇子の辞世句/歌                  【大津皇子】

 
     
 


  ...ということですね」

「はい、」夏実が、ニッコリとうなづいた。「ありがとうございます...

  こんな風に、日本の歴史の流れは、ただ史実列記するだけではなく、その時々で、語りつくせぬ想い

を、として編纂(へんさん)して来ているわけですね?」

「そうです...」支折が言った。「これからも...

  歴史名を残すほどの人は、歌も残して置くべきでしょう。形あるものは、全て失われますが、永遠

に歌い継がれ、残って行きます。永遠のものとして、子孫たちに歌い継がれて行きますわ...」

「そうですね、」響子が、マウスに手を置いて言った。「ええと、少し紹介すると...

  本能寺自決した織田信長辞世句は... 能/『敦盛』です... 

 

         人間五十年 下天(げてん)の内をくらぶれば          

                夢まぼろしの如くなり

                      ひとたび生をうけ 滅せぬ者のあるべきか       【織田信長】

 

  ...というものです。太閤記で有名な豊臣秀吉辞世句は、こうです...

 

         露と落ち 露と消えにし わが身かな 

                           浪花(なにわ)のことは 夢のまた夢        【豊臣秀吉】

 

 ...それから、西行法師は、これは辞世句とは少し違いますが、こういう歌があります。そして、その通

りの時に、亡くなっています...

 

         願わくば 花の下にて 春死なん

                          その如月の 望月のころ             【西行法師】

 

  ...ということです」

「あ...」支折が、小さく手を上げた。「西行法師は、《俳句》/芭蕉『奥の細道』の時にも、紹介していま

す...                                              <・・・・・詳しくは、こちらへどうぞ>

  <平安時代・末期/平家滅亡後/鎌倉幕府開始の・・・少し前>...西行は、京都/朝廷の意を受け

て、義経・弁慶一行が落ち延びた、奥州/平泉への旅に出かけます。奥州/藤原氏・・・3代が栄えていた

時代です。その旅の途中...鎌倉鶴岡八幡宮に立ち寄った折に...偶然に、頼朝の目に止まります。

そのことが、『吾妻鏡』(あづまかかみ)にあるようですわ」

『吾妻鏡』というのは?」夏実が聞いた。

「はい...」支折が、うなづいた。「『吾妻鏡』/『東鑑』というのは...

  鎌倉時代歴史書です。ええと、鎌倉幕府家臣編纂によるもので、全52巻があるようです。でも、

巻45は欠落しているのでしょうか?...

  1180年(治承4年)、<以仁王の挙兵>(もちひとおうきょへい)=源頼政(平安時代末期の武将・公卿・歌人。摂津源氏

の源仲政の長男)挙兵から...1266年(文永3年・・・蒙古来襲の8年前)までの87年間を、変体漢文日記体で書

かれているようです。

  ええと...1180年の、<以仁王の挙兵>というのは...“第80代/高倉天皇”兄宮である、以仁

(もちひとおう)と、源頼政打倒平氏のために、挙兵したものです。諸国源氏大寺社蜂起を促した

ものですね。

  これは...準備不足追討を受け...以仁王源頼政は、<宇治平等院の戦い>で敗れ、鎮圧され

ます。でも、これを契機に、諸国反平氏勢力挙兵し...<全国的な動乱= 治承・寿永の乱>が始

まります...

  うーん...ついでに、<治承・寿永の乱>(じしょう・じゅえいのらん)というのも説明しましょうか。これは、6年

にわたる大規模な内乱で、いわゆる<源平合戦>です...平氏一門壇ノ浦滅亡するまでの内乱

です。

  義経も、この<源平合戦>大活躍していますが、兄/頼朝と不仲になり...かつて少年時代を過ご

した奥州/平泉へ、都落ちして行くわけです。歌舞伎/十八番(おはこ)の1つ/『勧進帳』(かんじんちょう)は、

この逃避行カットです。

  ほほ...ついでに少し解説しておくと...義経一行京/都を脱出...琵琶湖を北に渡って、加賀(石

川県)に入り...北陸道を北上すべく、“安宅の関”(あたかせき)を通ろうとします。ところが、義経一行

姿を変えているのは、すでにバレているわけです。そこで、腹芸になり、弁慶は持ってもいない“勧進

帳”をその場ででっち上げ、山伏である証拠として読み上げる...という次第ですね。あ、“勧進帳”という

のは、本来は、勧進の趣意をかいて、寄付を集めるのに使う帳面のことです。

  つまり、西行法師は...その後を追い、別ルート/東海道のルートで、頼朝のいる鎌倉を通り、奥州/

平泉に出たわけです。西行法師の方は、当然、頼朝のいる御所を強く意識しての、鎌倉入りだった

わけですよね...平泉への、手土産話にでもするつもりだったのでしょうか...

  ところが...たまたま参拝に来ていた頼朝の目にとまってしまい...超有名人/西行法師と分かって、

さっそく御所に招かれ、対面するわけですね。

  西行は元は侍の家系であり、栄誉ある“北面の武士”(御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊)であり、

奥州/藤原家とは同族でもあったわけです。そのことなども、聞かれたようですね。詳しくは、『吾妻鏡』

方でどうぞ...

「はい...」夏美が、コクリとうなづいた。

「さあ...」支折が、両手を組んだ。「西行は...

  26歳の時と、69歳の時2度...奥州への旅を敢行しています。これは2度目の旅ということですね。

そして、このには、明確な目的がありました。それは、衰退した東大寺再興のための、平泉への砂金勧

でした。でも...時が時です。奥州・17万騎関東は...まさに開戦前夜であり...弓の弦張りつめ

た状態だったわけです。

  <源平合戦>勝利した源氏/源頼朝は...日本全国をほぼ平定し...最後の障害/奥州を、残す

のみでした。頼朝は、潰しておきたかったわけです。1つ手強い要因は、弟/源義経天性の戦上手

いったっ所でしょうか。和睦(わぼく: 争いをやめて仲直りすること)がかなわず...戦に突入の状況でした。

  そんな緊張感の漂う中を...僧侶/歌人西行法師は、頼朝視線を背中に受けつつ...頼朝がこ

れから滅亡させる、奥州/平泉北上したわけですね。そして、むろん平泉では、同族である、都からの

珍客を、大歓迎したわけです...歌会奥州/平泉の、最後の花だったのでしょうか...」 

                                             <・・・・・『奥の細道』/平泉はこちらへどうぞ>

「うーん...」夏実が、大きくうなづいた。「歌人が、歴史的/大事件に、大きく関与している所ですね。そ

して...多くの歌を残しているわけですね...」

「そうですね...」支折が、ゆっくりとうなづいた。「芭蕉も、この西行足跡を偲び、『奥の細道』の旅に出

たわけです...」

「はい...」

 

               


「さあ...」支折が、スクリーン・ボードに目をやった。「話を戻しましょう...

  天平時代/“天平文化”というのは...奈良/平城京を中心にして華(はな)開いた、“貴族・仏教文化”

です。この文化を、“第45代/聖武天皇”の時の元号/天平を取って...“天平文化”と呼びます...」

天平時代というのは...」夏実が、両手を合わせた。「“第45代/聖武天皇”の時代なんですね...」

「そうです...」支折が、コクリとうなづいた。

 「高杉・塾長が...」夏実が言った。「何度も...

  『天平の甍』てんぴょうのいらか/井上靖の歴史小説という小説の話をしていました。それは、この“聖武天皇”

時代の話だったわけですね、」 

「うーん...」支折が、微笑した。「そういうことになります...

  その時代の...4人の学僧と、唐の高僧/鑑真和上の...苦難の渡海/来朝の物語ですね。あの時

代の遣唐使船は、よく難破したようです。

  それよりも古い、<白村江の戦い>(663年8月)では、難破船の話はあまり伝わっていないようですが...

ええと、600年後の、<元寇/蒙古来襲>(げんこう/もうこらいしゅう・・・文永の役=1274年、弘安の役=1281年)では、

“神風”が吹いて、大軍を、海中に沈めているわけですよね...」

大陸へ渡るのは...」夏実が言った。「相当に、大変だったのですね?」

「うーん...

  対馬から朝鮮半島へ渡るのは、距離からしても、大したことはなかったでしょう。実際に、それほどの

ではないですから。でも遣唐使船は、そうしたコースは取らなかったようですね。研究してみれば面白い

かも知れません」

「はい...」

 

       


「ええと...」響子が、小さく手を上げた。「いいかしら...」

「あ、どうぞ...」支折が髪を揺らし、唇を結んだ。

“第41代/持統天皇”の後...」響子が言った。「すったもんだの、挙句(あげく)...

   “持統天皇”譲位して、“第42代/文武天皇”(もんむてんのう)即位したわけですね。そして、“持

統天皇”は、最初の“太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)=上皇”となり...“文武天皇”並び座

執政に当ったわけです。さあ、その後の、時代推移を少し説明しましょう...」

「はい...」支折が、うなづいた。

「まず...」響子が、スクリーン・ボードを見上げた。「“第42代/文武天皇”最大の業績は...

   【大宝律令の制定・施行】になります。これには、当然、“持統・上皇”意思が、大きく関与していたと

考えられています。“持統上皇”崩御703年(大宝3年)であり...“文武天皇”崩御は、その4年後

707年(慶雲4年)です。“文武天皇”は若くして即位し、在位期間は10年ほどで、24歳崩御されているよ

うです...」

「はい...」夏実が、無表情にうなづいた。

「うーん...」響子が、口に手を当て、頭を斜めにした。「強烈なカリスマ性をもつ...

   “天武天皇”の亡き後、“第41代/持統天皇”を経て、“第42代/文武天皇”の頃になると...いわゆ

る、<壬申の乱>(じんしんのらん)功臣に代わって、藤原不比等(ふじわらふひと)ら、中国文化に傾倒した

い人材台頭するわけです。

  そうした勢力が、しだいに“天武天皇の・・・皇親政治”を揺るがし始めるわけです。“皇親政治”というも

のは、もともとシステムとして、相当な無理があったのでしょう。国家統治が大きくなって行けば、それは

ではなく、システムとして統治して行かなければならなくなりますわ」

「うーん...」支折が、腕組みをした。「時代の中で...

  いわゆる、“人材”登用しないというのは、問題かも知れませんね...天皇はもともと、の中の

大王だったわけです。対等豪族だったわけです...“天孫降臨”は、この時代に作られたものでしょう

から...」

  夏美が、支折にうなづいた。

微妙な話になりますね...」響子が言った。「ともかく...

  <壬申の乱>を制した直後の天武朝時代には、“天武天皇”1人の大臣も置かず、“天皇・独裁”

頂点を極めました。そして、“皇親政治”強烈推進したわけです。西国防人展開する、大陸/唐

緊張関係も、それを後押ししたと考えられます。

  でも、持統朝になると、天皇カリスマ性がなくなり...その無理が、大津皇子悲劇などに現われて

来ます。カリスマ性の有る無しで、組織社会空気感がまるで変わって来るわけです。まして、それが、

天皇であれば、時代の空気感までも変わったのでしょう...」

「そうですね...」支折が、腕組みを深くした。

“天武天皇”の亡き後...

  “持統天皇”治世では、<壬申の乱>大功のあった...長男/高市皇子太政大臣につきます。

この時点ですでに、“天武天皇”“皇親政治”“圧倒的・独裁制”は、変質が始まっているわけですわ。

女性である“持統天皇”には、“天武天皇”重席は、あまりにも重かったのでしょう...」

「うーん...」支折が言った。「それで、権力分散したと...?」

「結果的に...」響子が言った。「そうなったのでしょう...

  やはり、“天武天皇”重席は、1人ではこなせなかったのです。カリスマの後の、集団指導体制という

のは、よくあることですわ。権力分散です。こうしたカリスマ性というものは、システムとして受け継がれ

るものではないわけです。

   “天武天皇”のような、カリスマ的国家統治は、一代限りのものだったわけです。それゆえ、柿本人麻

らに...“天皇は神にしませば・・・”...の一連の歌を作らせたりしてるわけですが、真のカリスマは、

すでに飛び去ってしまっています...

      

      大君(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 

                 天雲(あまくも)の        

                         雷の上に 廬(いほ)らせるかも  

    
                                           
【巻3-235】/【柿本人麻呂】

 

  その上...太政大臣/高市皇子薨去(こうきょ: 皇族、貴人の死去)し...“持統天皇”“文武天皇”

譲位するわけです。

  そして、この頃になると...早くも、“皇親政治”に対する対抗勢力が、台頭してきたわけです。藤原不

比等(ふじわらふひと)ら、中臣鎌足の血を引く、藤原氏の台頭です。

  このような動きに対し、“持統・上皇”は...“聖地/吉野での6皇子の誓い”にも参加し、持統朝時代

には遠ざけていた...忍壁皇子/形部親王政務に復帰させるなど、対抗人事も行ったようです。

  “皇親政治”の側としては...前に紹介した、穂積皇子(天武天皇の皇子・・・【巻2-(203)や...舎人親王

(天武天皇の皇子)、それから、長屋王(天武天皇の皇子である高市皇子の子。母は元明天皇の同母姉/・・・<長屋王の変>で自害)

どがいます。

  そして、やがて...藤原氏台頭を許すことになるわけです。“第45代/聖武天皇”は、藤原不比

娘/宮子であり、以後、藤原氏全盛時代となって行くわけです。

  ええと...ここでは、まず、“文武天皇”の後の、“第43代/元明天皇”(げんめいてんのう/“第42代の文武天皇”

の母であり、草壁皇子の妃、“天智天皇”の皇女、“持統天皇”の異母妹)と...“第44代/元正天皇”(げんしょうてんのう)治世

を眺めてみましょうか...」

「はい...」夏実が、うなづいた。

「あ、その前に...」響子が言った。「“元明天皇”の歌を紹介しておきましょうか...」

「そうですね...」支折が言った。「ええと、私が...?」

「ほほ...お願いします...」

「はい...」支折が、微笑をこぼした。「では...

 

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【巻1-(35)】  元明天皇/阿閉皇女(あへひめみこ/阿部皇女) ・・・ 【雑歌】 <35 

                            勢の山を越えし時に、阿閉皇女の作りたませる御歌

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   これやこの 大和(やまと)にしては わが恋ふる 

                 紀路(き)にありといふ 名に負(お)ふ勢(せ)の山

 

                              *******************************************


        紀州路にあると聞き...かねて大和にいた折に...心ひかれていた勢の山...

                ああ、これこそ...その名にそむかぬ...背の山なのですね...

 
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阿閉皇女は、天武・持統朝時代東宮草壁皇太子ですね...

  このは、夫/皇太子を亡くした翌年に...紀州(和歌山)を訪れた折に、詠まれたものといわれま

す。歌の意味だけを眺めれば、に聞いた勢の山を目の前にして、その威容に感動したもの、という

ことですね。

  これは、その通りなのですが、もう1つ、勢の山誉めちぎるという側面があります。地の霊に働きか

け、旅の無事を祈るとう、地誉めの歌という側面があると言います。当時は、はしばしば落命するほ

どの、非常に危険なものでした。それで、土地の神々精霊に祈りの挨拶をし、旅の安全に込め

たわけです。は、言霊(ことだま)の力を持ち、呪術としての役割もあったわけですね...」

 

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<第43代/元明天皇と・・・平城京への遷都     

         

                            太安万侶/おおのやすまろ ( Wikipedia より/菊池容斎画・・・明治時代 )


「ここは...」夏実が、響子と支折を見た。「私が調べました」
 

「はい...」響子が、うなづいた。「お願いします」

   夏実が、唇を結び頭を下げた。

「ええ...

  “第43代/元明天皇”画像や、代用となる画像がありませんでした。そこで、太安万侶(おおやすまろ)

画像を使わせていただきました...まだ未熟者で、申し訳ございません...」

「うーん...」支折が、白い歯を見せた。「太安万侶か...

  いいわね...『Wikipedia』(/ウィキメディア財団が運営するインターネット百科事典)からかしら?」

「あ、はい...」夏実が、うなづいた。「古い絵で、著作権フリーのようなので、借用しました...」

  支折りが、うなづいた。

太安万侶は...」夏美が言った。「奈良時代文官です...

  多品治(おおほんじ)とする系図があるようです。でも、この言い方だと、確定はしていないということ

でしょうか...

  この多品治は、<壬申の乱>の折、大海人皇子(おおあまのみこ/“天武天皇”美濃国/安八磨郡(安八郡/

あんぱちぐん)にあった湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)湯沐令(ゆのうながし)だった人物で、大活躍しています。

  前にも紹介していますが、湯沐邑古代中国にならい、日本では飛鳥時代から平安時代までの、1部

皇族に与えられた領地です。したがって、ここは大海人皇子の生計を支えるために設定された、封戸

(ほうこ、ふこ)だったわけですね。ここを管理する役職が、湯沐令だったわけです。

  優れた舎人(とねり: 古代に天皇や皇族の身辺に仕えていた者。護衛・雑務の下級官人)や、こうした人たちを巧みに使い、

<吉野挙兵>となるわけです。この<壬申の乱>中心にいて、最も信頼され、活躍した臣下の1人で

すね。多品治はまた、戦略的要衝莿萩野(たらの/三重県名張市から、伊賀町拓植の辺り)を守って、敵を撃退した

武将としても、を残しているようです。

  その、多品治とも考えられる、太安万侶は...“第43代/元明天皇”治世下で...『古事記』

編纂したことで知られる文官です。“元明天皇”に命じられ、“天武天皇”稗田阿礼(ひえだあれ)誦習

(しょうしゅう)させていた『帝紀』『旧辞』筆録して、史書/『古事記』編纂したわけですね...」

「はい...」響子が、瞼を閉じた。 

「ええ...」夏美が、耳の後ろに髪を撫でた。「“第43代/元明天皇”は...

   あの“第38代/天智天皇”の、第4皇女/阿閇皇女(あへひめみこ)です。阿部皇女とも書くようですね。

鸕野讚良(うのさらら)皇女/“持統天皇”は、父方異母姉であり...母方従姉(いとこ: 父または母の兄弟・姉妹

の子。年齢・性別の違いで“従兄、従弟、従姉、従妹”などと書き分ける)であり...自身の夫の母でもあるために、(しゅうと)

にも当たるようです。

  阿閇皇女は、蘇我倉山田石川麻呂娘/姪娘(めいいらつめ)ですね。それから、もう1つの身分が、

“天武天皇”“持統天皇”御子である...皇太子/草壁皇子正妃であり...“第42代/文武天皇”

である、ということです...」

「はい...」響子が、うなづいた。

 

「それから...」夏実が、続けた。「阿閇皇女(あへひめみこ)は...

  天武4年(675年)に、十市皇女“天武天皇”と額田王の皇女)と共に、伊勢神宮参拝したという記録があるよう

です。天武4年ですから、“天武天皇”健在であり...伊勢斎宮初代/大来皇女です。大来皇女“天

武天皇”皇女で、処刑された大津皇子同母姉ですよね...

  あ、くり返しますが...十市皇女は、“天武天皇”女性歌人/額田王との間にできた皇女で...<壬

申の乱>敵方/近江朝廷の側の総大将/大友皇子正妃です。大友皇子は、明治3年(1870年)“明

治天皇”によって諡号(しごう: 貴人や僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名・・・贈り名)を贈られ、“第39代/弘

文天皇”として、承認されている天皇です」

「はい...」支折が言った。「うーん...

  伊勢神宮参拝は、天武4年ですから...<壬申の乱>4年後でしょうか...3年後でしょうか...

市皇女大友皇子正妃の立場から、“天武天皇”皇女の立場にもどり...片や、近江朝/“天智天

皇”第4皇女/阿閇皇女と共に...異母妹伊勢斎宮/大来皇女に会っているわけですね...

  皇女たちの、それぞれの錯綜した立ち位置気持ちはともかくとして、天武朝の最も華やかな時期だっ

たのでしょうか。

 

〔2〕 第44代/元正天皇へ        


      


707年(慶雲4年)に...」夏実が、斜めにスクリーン・ボードを眺めた。「“第42代/文武天皇”が、にわか

崩御されます...

  在位期間10年...24歳の若さでした。御子の、首皇子(おびとみこ/後の“聖武天皇”はまだ幼く...中継

として皇太妃(こうたいひ/天皇の生母・・・阿閇皇女)は...初めて、皇后(天皇の正妻)経ずに...“第43代/元

明天皇”として即位します...」

“持統天皇”即位と...」支折が言った。「よく似ていますよね...」

「そうですね...」響子が、首を反対側に倒した。「そして、いずれも、“太上天皇/上皇”になっています」

「そう...」支折が、前髪を払った。「そして、“第44代/元正天皇”もまた...同じ道を歩みますよね」

「そうですね...」響子が、口に手を当てた。「それは、その時に再度考察しましょうか...」

「はい...」支折が、うなづいた。

 

「ええ...」夏実が言った。「いいでしょうか?」

「はい、」支折が言った。「お願いします...」

「ちなみに...

  “元明天皇”即位の...翌/708年(慶雲5年)に...武蔵国/秩父/黒谷(埼玉県/秩父市/黒谷)自然

が発見され、いわゆる和銅が、朝廷に献上されました。朝廷はこれを喜び、年号“和銅”改元してい

ます。そして、“和同開珎”(わどうかいちん/621年に発行された唐の開元通宝を模したもの)鋳造させています。

  この時期というのは、大宝元年(701年)に制定された【大宝律令】を、整備・運用していく時代でした。そ

こで実務に長じていた...藤原不比等(ふじわらふひと)重用したようですね...ここから、藤原氏台頭

してくるわけです」

「うーん...」支折が、両腕を組んだ。「いよいよ...藤原氏台頭ですか、」

「はい!」夏見が、両手のコブシを握った。「ええと...

   それから、資料によると...それから2年後の、710年4月13日(和銅3年3月10日)...“藤原京”から

“平城京”遷都しています」

「はい...」支折が、うなづいた。

「そもそも...」夏美が、スクリーン・ボードをスクロールした。「“藤原京”というのは...

  “飛鳥京”(奈良県/高市郡/明日香村一帯)西北部(奈良県/橿原市)に存在した...日本史上最初で、最大

都城(周囲に城壁をめぐらした都市)です。また、日本史上で、最初条坊制(じょうぼうせい/碁盤の目状に組み合わせた、

左右対称で方形の都市)をしいた、本格的唐風都城です。ここへ遷都して来たのは...“第41代/持統天

皇”です。

  そして、“第43代/元明天皇”遷都した“平城京”(奈良県/奈良市、大和郡山市近辺)は...いわゆる、奈良

時代日本の首都/奈良の都です...このは、唐/長安北魏/洛陽城模倣し、建造されたと言

われます...」

「ええと...」支折が言った。「遷都では...私の方にも、少しデータがあります。それ、を整理しておきま

しょう」

「あ、」夏実が、白い歯を見せた。「お願いします」

 

「うーん...」支折が、膝に手を滑らせた。「そうですね...

  “藤原京”から平城京への遷都は...707年(慶雲4年)審議が始まり...708年(和銅元年)に、“元明

天皇”遷都(みことのり)を出したようです。“和銅”献上されたですね。でも、710年(和銅3年)3月

10日遷都された時は、内裏大極殿、その他の官舎整備された程度...と考えられています。

  それから、740年(天平12年)の、“恭仁京”(くにきょう: 京都府/木津川市/加茂地区に位置。山城国分寺跡として、国の史

跡に指定)への遷都...744年の、“難波京”(大阪府/大阪市)への遷都により...平城京(みかど: 天皇の

尊称不在となります。そして、745年(天平17年)には...再び平城京遷都が行われ、が帰って来ら

れたようです。

  あとは...784年(円暦3年)“長岡京”(京都府/向日市、長岡京市、京都市西京区)遷都されるまでは、政治の

中心だったようです。山城国/長岡京遷都 した後は、奈良/平城京南都(なんと)と呼ばれていたよう

です」

 

「はい...」夏実が、頭を下げた。「ありがとうございます...

  ええ、話を戻しますが...“藤原京”から“平城京”への遷都では...左大臣/石上麻呂を、藤原京

管理者として残しました。そのために、のこ時点で...右大臣/藤原不比等(ふじわらふひと)が...

実上最高権力者になったようです」

石上麻呂は...」支折が、響子の方を見た。「石川麻呂とは違うのかしら...?」

「うーん...」響子が、アゴに指を当てた。「蘇我石川麻呂は...蘇我馬子ですわ。謀反を起こし

しています。“元明天皇”が...蘇我石川麻呂姪娘(めいいらつめ)ですから...」

「そうか...」支折が、口に手を当てて笑った。「あれは、蘇我倉山田石川麻呂かあ...

   “第36代/孝徳天皇”派兵して...山田寺(奈良県桜井市山田にあった古代寺院)自害(/649年)していたわ

よね...中大兄皇子中臣鎌足の、陰謀とされる事件で...でも、はちゃんとにもらい受けていて、

第4皇女を産んでいるわけかあ...」

「そうですね...」響子が、うなづいた。

「ええと...」夏実が言った。「石上麻呂の方ですが...

  彼は<壬申の乱>で、近江朝廷側/大友皇子(“第39代/弘文天皇)の側につき、大友皇子自殺にまで

付き従った人物です。でも、“天武天皇”に赦されて、676年には遣新羅大使となっています。700年には

筑紫総領になっています。有能だったわけですね。

  それから...701年大納言となってからは、政治中枢に入っています。704年右大臣...708年

に、左大臣に任じられています。そして...715年から717年まで...太政官最高位者にあった

ようです。

  それから、もう1つ...特筆すべきことがあります。それは...あの『竹取物語』において...かぐや姫

求婚する、五人の貴族の1人/“石上まろたり”の、モデルと考えられているということです...」

「ふーん...」響子が微笑して、口に手を当てた。「かぐや姫に...求婚しているわけですか...」

「はい...」夏実が、嬉しそうにうなづいた。「壮大なロマンの...片割れです...」

「そうですね...」

 

「ええと...」夏実が、モニターを見た。「話を進めます...

    第43代/元明天皇”治世ですが...和銅発見の地...埼玉県/秩父市/黒谷に鎮座する、

神社には、“元明天皇”下賜と伝えられる...“和銅製-蜈蚣(むかで、めりべ)雌雄一対”...が、神宝

して納められているそうです。

  722年(養老6年)11月13日に、元明金命(げんみょう こがねみこと)として合祀(ごうし: 2柱以上の神を、1つの神社にま

つること)され...今日に至るようです...

  あ...“元明天皇”/阿閇皇女(あへひめみこ)は...661年(斉明天皇7年)誕生し、 721年12月29日

(養老5年12月7日)崩御されています。譲位した後は、“太上天皇/上皇”となり、6年後崩御されていま

す...」

「はい...」響子が、うなづいた。

「 ええと...」夏美が、モニターを見ながら言った。「混乱してすみません...

  ええ...“元明天皇”御子には...氷高皇女(ひたかひめみこ/“第44代/元正天皇”)珂瑠皇子(かるみこ

・・・軽皇子/“第42代/文武天皇”)、そして...次女/吉備内親王(きびないしんのう)がいます。それから、首皇

(おびとのみこ/“第45代/聖武天皇”)広成皇子広世皇子膳夫王葛木王鉤取王桑田王がいます...」

「つまり...」支折が、手助けした。「このあたりは...

  “天武天皇”“持統天皇”皇子/草壁皇太子と...正妃/阿閇皇女の間には...3人御子がい

たということですね。長女氷高皇女と、長男珂瑠皇子と、次女吉備内親王ですね...

  そして...“持統天皇”は、に当たる男子/珂瑠皇子譲位し...“第42代/文武天皇”となる。そ

して、“持統上皇”崩御され、続いて、“文武天皇”も若くして崩御されて...母/阿閇皇女が、皇后を経

ないで、第43代/元明天皇”となったというわけですね...?」

「はい!」夏美が、強くうなづいた。「そういうことです!」

「やがて...」支折が、続けた。「第43代/元明天皇”は...

  老いを理由譲位することとなります...でも、彼女にとっての首皇子はまだ若かく、長女/氷高

皇女(ひたかひめみこ/日高皇女)ピンチヒッターとして“第44代/元正天皇”(げんしょうてんのう)として即位...

譲位した彼女“太上天皇”となったわけです。つまり...“持統天皇”同じコースです...」

「はい...」夏実が、頭を下げた。「ありがとうございます...

  それで...“元明天皇”が、721年12月29日(養老5年12月7日)崩御され...翌/722年(養老6年)11

月13日に...元明金命(げんみょう こがねみこと)として、秩父市/黒谷聖神社合祀されたわけです」

「はい...」響子が、両手を組んだ。「ええ...

  さあ...“第44代/元正天皇”/氷高皇女は...今度は、皇后を経ないばかりでなく...結婚経験

なく...独身で、天皇即位しています。

   『続日本紀』(しょくにほんぎ)にある“元明天皇”譲位の際の(みことのり)には...氷高皇女は、“慈悲深く

落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい”...と記されているようです。美しい帝物腰が偲ばれます。

また、後で御製歌を紹介しますが...時代の空気というものも、(あで)やかなものであったのでしょう。

  あ、それから、歴代天皇の中で唯一...“母から娘へと・・・女系での継承が行われた天皇”...とする

論点もあるようです。

  でも...父親男系男子草壁皇子で連なっています。つまり、“元正天皇”父親もまた、草壁皇子

であり、連なっているわけです。そして、その後は、弟/“第42代/文武天皇”皇子である、“第45代/

聖武天皇”へと、男系に返されて行くわけです。“男系の血統は・・・しっかりと維持されている”...という

ことなのでしょう」

「そうですね...」支折が言った。「その辺り...当時も、こだわりのあった様子も見られますよね、」

  響子が、うなづいた。

 

「ええ...」響子が言った。「“第43代/元明天皇”/阿閇皇女が生まれたのは...

  斉明天皇7年です...この年は661年であり...“第37代/斉明天皇”が、筑紫朝倉橘広庭宮(あさ

くらたちばなひろにわみや)で、崩御された年です。7月24日崩御されたわけですが...それ以前の1月

8日に...大伯海(おおくのうみ/備前国邑久郡の前にひろがる海)船上で...大海人皇子妃/大田皇女皇女

を産み、大伯皇女(おおくのひめみこ/大来皇女・・・初代・伊勢斎宮と名付けられます。

  阿閇皇女“天智天皇”/中大兄皇子第4皇女ですから...彼女もまた、<白村江の戦い>の前

に、九州太宰府下向した折に産まれたのでしょうか?

  筑紫時代運命の3兄弟である、大伯皇女弟/大津皇子、そして皇太子になるも夭折(ようせつ: 若死に)

した草壁皇子。そして、その他に、中大兄皇子御子たちも、生まれていたわけですね...」

「うーん...」支折が、大きくうなづいた。「が、筑紫/朝倉遷都されていたわけですから、そうですよ

ね...」

「さあ...」響子が言った。「時代背景考察が長くなりましたが...巻4の方を見ましょうか、」

「はい...」支折が言った。「あ、その前に...“第44代/元正天皇”御製歌を見ておきましょうか、」

「そうですね...」響子が、微笑した。「忘れていました、」

「ええと...

   『万葉集』には、何首編纂されています。ここでは、【巻18-4056(/橘諸兄)、4057、4058】

【巻20-4293、4294(/舎人親王) を紹介します。

  まず、先に...左大臣/橘諸兄(たちばなもろえ/葛城王...そして、“第44代/元正天皇”御製

です。<題詞>には“元正天皇”のことを“清足姫天皇”と書いてありますね...うーん...そう呼ば

れていたのでしょうか...


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【巻18-(4056)】  橘諸兄・・・【雑歌】    <4056>

 <題詞> 太上皇御在於難波宮之時歌七首 <清足姫天皇也> / 左大臣橘宿祢歌一首 <原文>

 

   堀江(ほりえ)には 玉(たま)(し)かましを 大君(おほきみ)

                      御船(みふね)(こ)がむと かねて知りせば

 

【巻18-(4057)】  元正天皇 ・・・【雑歌】

 <題詞>(太上皇御在於難波宮之時歌七首 <清足姫天皇也>) / 御製歌一首<和>  <原文>

 

   玉(たま)(し)かず 君が悔(く)いて言ふ 堀江(ほりえ)には

                      玉敷(たまし)き満(み)てて 継ぎて通はむ
 

【巻18-4058)】   元正天皇 ・・・【雑歌】

  <題詞>(太上皇御在於難波宮之時歌七首 <清足姫天皇也>) / 御製歌一首      <原文>

 

   橘(たちばな)の とをの橘(たちばな) 八つ代にも 

                    我れは忘れじ この橘(たちばな)

 

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 (現代語大意・・・)



    堀江には玉石を敷いて置きましたものを...我が大君よ...               
<4056>

                お船遊びをなさると...前もって存じ上げておりましたなら... 


 

    玉石を敷いて置かなかったと...貴方が悔やんで言う...                <4057>

                堀江には私が玉を敷き詰めて...これからずっと通い続けましょう...


 

    めでたい橘の中でも...とくに枝もたわわに実ったこの橘...              <4058>

                いつの代までも...私は忘れないでしょう...この橘を...

 

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「さあ...」支折が言った。「これらの歌は...

  <題詞>によれば...“太上皇/清足姫天皇”つまり...“元正・太上天皇”難波宮滞在中に、詠

まれたものですね。その折、の左大臣/橘諸兄の屋敷で、舟遊びをされたのでしょう。すると...堀江

とは、天満川/大川 なのでしょう。

  そのの屋敷では、(たちばな: ミカン科の常緑小高木)の名に相応しく、枝もたわわに実った橘があり

ました。季節は秋なのでしょう。上皇はその(ほ)めちぎり、橘諸兄へのお礼の言葉にしています。

  “元正・太上天皇”ということは...すでに譲位されて“第45代/聖武天皇”の治世であり、恭仁京

(くにきょう)から、さらに、難波京遷都しているわけですね。これほど頻繁に遷都したのには、疫病など

さまざまな理由があるわけですが、それは“聖武天皇”の所で話します...」


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                                  山村(やまむら)に幸行(いでま)しし時の歌二首

【巻20-(4293)】   元正天皇 ・・・【雑歌】  <4293>

  先の太上天皇(だいじょうてんのう/おほきすめらみこと)、陪従(ばいじゅう/おほみとも)の王臣(おほきみおみ)に詔

(みことのり)したまはく、夫諸王卿等(いましらもろもろ)、和(こた)へ歌を賦(よ)みて奏(まを)せと宣(の)りたまひて、

即ち御口号(みうたよみ)したまはく                            

 

      あしひきの 山行きしかば 山人(やまびと)

                            我に得しめし 山つとそこれ

 

【巻20-(4294)】   舎人親王(とねりのみこ) ・・・【雑歌】

 
               
舎人親王、詔(みことのり)を応(うけたま)はりて和(こた)へ奉(まつ)れる御歌一首


      あしひきの 山にゆきけむ 山人(やまびと)

                            心も知らず 山人や誰(たれ)


 
右、天平勝宝5年の5月、大納言/藤原朝臣の家に在(いま)せる時、事を奏(まを)すに依りて請ひ問

ふ間(ほど)、少主鈴(すなきすずのつかさ)/山田( やまたの)(ふみひと)麿、少納言/大伴宿禰(すくね)家持

(やかもち)に語りけらく、昔(さき)に此の言(こと)を聞けりといひて、即ち此の歌を誦(よ)めりき。

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(現代語大意・・・)


             
     山道を歩いていたところ...たまたま逢った山人が...

                    朕(ちん)にくれた...山の土産であるぞ、これは....   <4293>
 

        

     (そもそも山にお住まいのはずの)仙女様であられる陛下が...

             山へ行かれたとかおっしゃるのは...御心がわかりません。

                      陛下のおっしゃる山人とは...誰のことでしょう...

                              (山村の村人のことなのですね...)         <4294>
 
 

**************************************************************
 
 
「うーん...」支折が、頭を左右に傾げ、髪を揺らした。「まず...

  上の歌は...“元正太上天皇”大和国/添上郡山村行幸した時に...付き従っていた人たち

に、和歌を奏すべしと仰り...自ら作った歌...ということですね。下の歌は、それに答えて、舎人親

がつくった歌ですよね。

  舎人親王は前にも紹介していますが...“天武天皇”皇子で、“第47代/淳仁天皇”(じゅんにんて

んのう)です。“天武天皇”皇子の中では最後まで生き残り...奈良時代初期において、長屋王

と共に、皇親勢力として活躍した人物です。

  あと...“あしひきの”、よく出てきますが...“山”にかかる枕詞ですね...」


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〔3〕 巻4の歌・・・           
     


「お久しぶりです...」支折が、髪に手を当てた。「多忙で、少し間が空いてしまいました...

  さあ...この【巻4】では...天平時代(7世紀終わり頃 ~ 8世紀中頃)以前古い歌を、まず掲げています。

その後に、天平時代配置している...ということですね。

  天平時代に入ってからは、大伴家持(おおともやかもち/)女性たちとの、贈答歌が多く載せられているよ

うです。大伴家持は、官位従三位・中納言“三十六歌仙の一人”として知られる、奈良時代貴族

あり、歌人です。

 大伴氏大和朝廷以来武門の家で、祖父大納言兼大将軍正三位/大伴安麻呂(おおともやすまろ/

・・・<壬申の乱>では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者になった)、 父は大納言・大伴旅人(おおとも

たびと/・・・大宰帥として妻・大伴郎女を伴って筑紫の大宰府に赴任。山上憶良とともに筑紫歌壇を形成する)です。

  大伴家持は...従三位・中納言にしか登れませんでしたが、“三十六歌仙”であり、『万葉集』編纂

に関わった歌人ということで、大きな名を残しています...それらを、のぞいて見てましょう...」

「はい、」夏美が、うなづいた。

 

 

(484)

【巻4-(484)】 巻頭    難波天皇(なにわのすめらみこと)の妹・・・【相聞歌】

                 難波天皇の妹(みいも)の、山跡(やまと)に在(いま)す皇兄に奉上(たてまつ)れる 御歌一首

*************************************************************

                

   

    一日(ひとひ)こそ 人も待ちよき 長き日(け)を 

                    かくのみ待たば ありかつましじ

 

     一日社 人母待吉 長気乎 如此耳待者 有不得勝      ( 万葉集の原文 )


****************************         

【現代語訳/大意・・・巻4-(484)】         



    ひと(/天皇を待つのに...一日くらいなら...待つのはかまいません...

            でも...このように長い日々を待つことは...

                     とても...耐えられませんわ...

             

*************************************************************

                             


「ええと...」支折が、コーヒーカップをカチャリと置いた。「まず...

  この歌の題詞(だいし)には...“難波天皇”(なにはすめらみこと)(みいも)の、山跡(やまと)に在(いま)

皇兄(すめらみこといろせみこと)奉上(たてまつ)れる御歌1首(みうたひとつ) ...とあります。

  作者は...“難波天皇の妹”ということですね。彼女が、大和にいます奏上(そうじょう: 天子に申し

上げること)する歌1つ...ということですよね。

  この“難波天皇”というのは...難波を置いた天皇のうち...“第16代/仁徳天皇”か、また

は、“第36代/孝徳天皇”と考えられる...ということです。他にも、“第45代/聖武天皇”も、天平

16年(744年)難波宮/瓦葺の離宮遷都を行っていますが...これは該当しないようです。

  第16代天皇か、第36代天皇かということですが...それにしても、ずいぶんと時代がかけ離れて

います。まず、“第16代/仁徳天皇”は、面積で世界最大仁徳天皇陵/前方後円墳で有名ですよ

ね。それと...仁徳という徳の高い名前ですが...もう一方で、【巻2-85~88】で、嫉妬の権化/

磐姫皇后激しく嫉妬されたことでも、『万葉集』に名を残す天皇ですね。                 

                                                     <・・・・・詳しくは、こちらへどうぞ>

   それから、“第36代/孝徳天皇”の方は...中大兄皇子(/天智天皇)らが引き起こした<乙巳の

変>(いっしのへん/蘇我入鹿を暗殺)の後、“第35代/皇極天皇”から、史上初めての譲位を受けた

天皇です。

  当時、“天皇以上の実力者”は、中臣鎌足(/後に藤原鎌足)とともに、<大化の改新>を推進してい

た、皇太子/中大兄皇子でした。その彼が、難波宮(/大阪市中央区)を引き払って倭京(やまとのみやこ)

/飛鳥京に帰ることを進言します。

  でも、“孝徳天皇”反対し、1人残され...翌年失意のうちに崩御されます。つまり、この天皇

可能性があるということですが、データ不足が不足し、よく分りません。申し訳ございません。

  あ、かわりに...少しおさらいをしておきましょう。“第36代/孝徳天皇”崩御の後、譲位した“第

35代/皇極天皇”が、再び、“第37代/斉明天皇”として即位しています。この“斉明天皇”が、朝鮮

半島/百済王国支援のために、船で筑紫(つくし: 九州地方の古称/太宰府を指すこともある下向するわ

けです。 

  この下向の折、額田王(ぬかたおおきみ)が詠んだ歌が、次の歌です...

 

     熟田津(にきたつ)に 船(ふな)乗りせむと 月待てば

                 潮(しほ)もかなひぬ 今は漕(こ)ぎ出(い)でな      【巻1-8】

 

  筑紫への下向途中...斉明7年(661年)1月...熟田津(にきたつ/愛媛県松山市)日和を待ち、さあ、

いよいよ大宰府へ乗り込む、という時のです。そして、“斉明天皇”は、九州/太宰府の近くの朝倉

橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわみや)に入ったわけです。

  でも、この下向は、何やら呪われていた様子です。まず、“斉明天皇”が、同年7月崩御され、百済

支援 しての大陸遠征の先行きに、暗雲が立ち込めます。それでも、<白村江の戦い>に突き進

んでいくわけですよね。

  ええと...それ以前なりますが...筑紫下向船中で、大海人皇子(/天武天皇)皇女/大来

皇女/伊勢斎宮が産まれています。大来皇女大伯(おおく)皇女とも書き...船が大伯の海上(岡山

県/瀬戸内市の沿岸)を通過している時に誕生したことにより、この名が付けられたと言われます。

  次に...九州滞在中に産まれた大海人皇子皇子は、皇太子/草壁皇子であり...その次に、

産まれたのが、処刑される大津皇子になります。大来皇女大津皇子を産んだのが、中大兄皇子

女/大田皇女であり...草壁皇子を産んだのは、次女/鸕野讚良皇女(うのさらら/・・・持統天皇)です。

  うーん...大田皇女鸕野讚良皇女は、共に中大兄皇子皇女であり、同母姉妹です。あ、大海

人皇子中大兄皇子実弟で、この兄弟は、“第34代/舒明天皇”(じょめいてんのう)と、“第35代/皇

極天皇=第37代/斉明天皇”の、同母兄弟になります...」

  支折が、冷めかけたコーヒーに手を伸ばし、それを全部飲み干した。

 

「ええと...」支折が、顔を上げた。「話を戻しますが...

  まず、“難波天皇”とは...“第16代/仁徳天皇”であり...このを詠んだとは、“仁徳天皇”

異母妹八田皇女(やたひめみこ)という、オーソドックス(正統的)な立場を、私たちも、採りたいと思い

ます。

   『古事記』には、八田若郎女(やたわきいらつめ)とありますが...2人とも、“第15代/応神天

皇”ということですね。つまり、異母兄妹です。宮廷一緒に育ったのでしょう。磐姫皇后もこんな

後宮に入ってこられては、皇后としての立場がありません...分かるわよね...

  ええと...八田若郎女は、仁徳天皇30年9月11日(342年10月26日)...異母兄/“仁徳天皇”

となっています。後宮入りを巡って、磐姫皇后激しく嫉妬し、後宮を飛び出し、嫉妬の権化となりま

す。そして、5年ほど後、皇后宮廷の外で崩御され、8年ほど後に、妃/八田皇女皇后に立てられ

ている様です。



    (488)

【巻4-(488)】    額田王 ・・・【相聞歌】

                      額田王(ぬかたおほきみ)の“近江天皇”を思(しぬ)ひまつりてよみたまへる歌一首

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    君待つと 吾(あ)が恋ひ居れば 

            我が屋戸(やと)の 

                   簾(すだれ)動かし 秋の風吹く

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【現代語訳/大意・・・巻4-(488)】         



    あなた様を...恋しく待っていますと...

            家の簾を動かし...秋の風が吹いてきます...

                     夏が過ぎ...もう秋なのですね...

             

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ええ...」支折りが言った。「清々しい日常風景の、穏やかな恋の情景が詠まれています...

  質素素朴な風景ですが...ここは琵琶湖の畔/近江朝の、“天智天皇”が通う歌人/額田王

です。私たちの感覚よりは、だいぶ重厚なのでしょう。文化が大いに栄えた近江朝で、額田王地位

も高かったものと思います。彼女の娘(父は大海人皇子で・・・十市皇女)大友皇子(/“弘文天皇”)であ

り、その後見でもあったわけですね。

  そして...この譲位を巡って...大海人皇子太政大臣解任があり、都落ちがあり...<吉野

出兵/壬申の乱/天武朝>...へと歴史が動くわけです。でも、この時は、大海人皇子兄/“天智

天皇”額田王を取り上げられつつも、賢くそれに従っているわけです。

  一方、額田王も、女の変わり身でそれを受け入れつつ...このようなすぐれた相聞歌を、『万葉集』

に残しています。でも、この不条理は、大海人皇子の心に、深く沈んでいたのかも知れません。<壬申

の乱>の後、近江の地は、忘れ去られて行くわけですから...

  あ...話は異なりますが...
【第8巻(1606)】にも...何故か、同じ歌この歌が編纂されていま

す...」



       (773)

【巻4-(773)】    大伴家持 ・・・【相聞歌】

                       大伴宿禰家持が久迩(くに)の京より坂上大嬢に贈れる歌五首(/そのうちの1首)

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    (こと)問わぬ 木すら紫陽花(あじさい) 諸弟(もろと)らが

                  練(ねり)の村戸(むらと)に あざむかえけり

 

    事不問 木尚味狭藍 諸弟等之 練乃村戸二 所詐来   ( 万葉集の原文 )   

 

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【現代語訳/大意・・・巻4-(773)】         
    

    ものを言わない木でさえ...紫陽花のように...

                 色鮮やかに...変わりやすいものがあります...

             それ以上に...言葉をあやつる諸弟たちの上手い言葉に...

                          すっかりだまされてしまったことです...

             

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入梅です...」支折りが言った。「そこで...

  雨の中で咲く、紫陽花を取り上げてみました。そういうわけで、このを取り上げたのですが、も

うひとつ、状況が飲み込めません。あ、これは、大伴家持が、である大伴坂上大嬢(おおともさかのう

おおおとめ)贈った歌ですよね...」