文芸俳句松尾芭蕉・選集

       松尾芭蕉・選集        wpe75.jpg (13885 バイト)  

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 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                          選者: 星野 支折

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プロローグ   = 選者の言葉 =  (1) 芭蕉/ 風雅への妄執 2011. 2.12
No.1   閑さや岩にしみ入る蝉の声 2011. 2.12
No.2   山も庭も動き入るるや夏座敷  2011. 2.12

 

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (2) 芭蕉/ 西行法師と奥州・平泉 2011. 2.26
No.3   夏草や兵どもが夢の跡 2011. 2.26
No.   五月雨の降のこしてや光堂 2011. 2.26

    

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (3) 芭蕉/ 出羽三山 2011. 3.26
No.5   有難や雪をかほらす南谷 2011. 3.26
No.   涼しさやほの三か月の羽黒山     2011. 3.26
No.   雲の峯幾つ崩て月の山        2011. 3.26
No.   語られぬ湯殿にぬらす袂かな    2011. 3.26

    

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (4) 芭蕉/ 最上川・象潟 2011. 4. 8
No.9   五月雨をあつめて早し最上川 2011. 4. 8
No.10   あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ 2011. 4. 8
No.11   暑き日を海にいれたり最上川 2011. 4. 8
No.12   象潟や雨に西施がねぶの花 2011. 4. 8

 

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (5) 芭蕉/越後路・・・曽良日記 2011. 4.23
曽良日記    『曽良日記』/越後路・越中路 2011. 4.23
No.13   文月や六日も常の夜には似ず 2011. 4.23
No.14   荒海や佐渡によこたふ天河   2011. 4.23
No.15   早稲の香や分け入る右は有磯海 2011. 4.23

 

  プロローグ    芭蕉の句の選集に当たって         house5.114.2.jpg (1340 バイト)

     選者の言葉 (1) 芭蕉/風雅への妄執 (もうしゅう)


 
               wpe4F.jpg (12230 バイト)

  支折が、手を結び、深く頭を下げた。

星野支折です...

  現在...小林一茶俳句を選集しているわけですが、中休とし、松尾芭蕉

目を移してみたいと思います。一度、他に目を移すことにより、一茶考察も、よ

り深まるものと思っております。

  それから、芭蕉一茶も尊崇した、蕉風/正風初祖です。そして、私はまだ

勉強が足りないのですが、芭蕉によつって連歌発句(ほっく)が、俳句として確立

されたのでしょうか。

  それ以前には、貞門談林派などもあったようですが、これから調べてみたい

と思います。そうした意味でも、興味津津(きょうみしんしん)ですね。松尾芭蕉与謝

蕪村小林一茶...そして明治に入っては、夏目漱石と知己の、正岡子規が有

名でしょうか。

 

  ええ、ともかく...芭蕉の名前は、一茶よりもはるかに知られています。俳句

も、非常に有名なものがあり、日本文学巨星1つですね。一茶庶民的

俳句を詠みますが、芭蕉俳句脱俗した、洗練されたもののようです。

  でも...そこから先になると、分からない世界ですよね。また、非常に奥の深

い世界のようですし、多くの国文学者が、長年にわたり研究を重ねています。そ

の辺りも含めて...私の個人的なスタンスで...見て行きたいと思います。

  そういうわけでので...ここでは、文法足跡などに深入りすることは避けて、

私なりに芭蕉を拾い、散文的芭蕉の世界を考察してみようと思います。私

としても、初めて分け入って行く、芭蕉の世界です。私も、非常にドキドキしていま

す...」

 

「さて...

  芭蕉について...少しづつ考察して行くことになりますが...芭蕉

とは、非常に深くかかわりを持った人のようです。芭蕉といえば、最も有名

に...

 

古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音   (芭蕉)

 

  ...というのがあります。これは、1つ“禅の公案(参禅者に、考えさせる対象や手が

かりにさせるために示す、祖師の言動)のようにもなっています。この一事からも...“芭

蕉が深い禅的境涯を極めた人”...だということが、分かります。

  でも、その一方で...“風雅への妄執(もうしゅう: 迷いによる執着に、生涯ひきず

られ・・・旅の空を彷徨(さまよ)った文学的・求道者”...の面が重なります。

  これは、一体どういうことなのでしょうか。これから芭蕉の世界に分け入り、こう

したことも考察してみたいと思います。

  ええ...その前に...道元・禅師(どうげん・ぜんじ: 永平寺開祖/『正法眼蔵』の著者。鎌倉

時代・初期の禅僧)に...このような歌/短歌があります。

 

“花紅葉 冬の白雪見しことも 思へばくやし色にめでけり”  (道元)
 (はなもみじ)

  道元は...若い頃に学僧として入宋(にっそう: 日本の僧や使節が宋/中国に行くこと)し、

仏道生涯をささげた人です。その道元が、四季の風雅をめでたことを...“思

えばくやし色にめでけり”...とに刻んでいます。

  僧侶である道元は...風雅物欲喜怒哀楽を超え、“悟り/無我無心”

到達しなければなりません。事実、道元永平寺(曹洞宗の大本山/福井県吉田郡永平寺

町)開山し、禅宗日本で押し広めるという、偉業を成し遂げました。

  でも、芭蕉俳人です...“無我無心”になっては...俳句を作る必要もなく

なり、俳人ではなくなってしまいます。そこで芭蕉は、深い禅的境涯に到達しなが

らも、あえて文学的・求道者として...“風雅に深く恋をし・・・風雅の魔心/妄

執に・・・身をゆだねた”...のではないでしょうか。そこに...“芭蕉の独特の

世界が結晶化”...したものと思います。

 

  ともかく...芭蕉俳句敷居が高く、私の両手には余るものです。また、そ

ういう次第で、高い禅的素養も求められます。そこで、ここでは他の皆さんにも、

助力を仰ぐことにしました。あ、でも、最終的には私が取りまとめます。

  ちなみに...《当・ホームページ》では...ボス(岡田/一風/止水)が、独学で、

『正法眼蔵』を学んでいます。それから、ボスと同格の高杉・塾長がいて、里中

響子さんは、塾長のお弟子さんです。そして私は、主に響子さんから、教えを仰

いで来ています...」

 

  支折が、チラリとインターネット正面カメラを見た。そして、モニターをスクロー

ルした。

「さあ...

  これから、考察を進めて行くわけですが...その前に、時代背景を簡単に述

べておきましょう...

  松尾芭蕉が活躍したのは...江戸時代・前期/元禄の頃でした。元禄文化

いうのは、有名ですよね。上方(関西地方)では、井原西鶴(いはらさいかく: 俳人/談林派、

浮世草子/上方を中心に出された娯楽的な通俗小説・・・代表的なものは、好色一代男)や、近松門左衛

(ちかまつもんざえもん:人形浄瑠璃と歌舞伎の作者 )がよく知られています。

  芭蕉は、江戸/深川芭蕉庵を持っていたわけですが、 元禄文化中心は、

上方にあったようです。江戸は、徳川幕府開府されてまだ日も浅く、文化の中

心地にはなり得なかったようです。

  でも、一茶が活躍した...文化・文政(1804年〜1829年)/江戸時代・後期化政

文化は...江戸を中心とした町人文化だったようです。

  一茶(1763〜1828年)は、芭蕉(1644〜1694年)から、およそ100年ほど後の俳人

です。正確には...ええと...芭蕉誕生した年から...119年後に、一茶

誕生していますよね。

  あ、それから...芭蕉は、芭蕉翁などとも呼ばれたりしますが...それは尊称

です。実際には、51歳という若さで、早世(そうせい: 早く世を去ること)しています。

  一茶の方は...65歳で没していますね。うーん...これは当時としては、よく

生き抜いた方なのでしょうか...?

  さあ...あまり固くならずに...塾長のよく言われるように...ブラリと...

芭蕉の世界に入ってみましょう...」

 

 <1>

     閑さや岩にしみ入蝉の声 wpe4F.jpg (12230 バイト)
     
(しずか)                     (いる)(せみ)

『奥の細道』/立石寺

  元禄2年/5月27日(1689年/太陽暦・・・7月13日)


《  山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にし

て、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに

依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日い

まだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。

  岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩

上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て

仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ...

                  ...『奥の細道』より...

 

「うーん...この句は、『奥の細道』の中の絶唱と言われています...

  また、芭蕉の句中のでも、特に優れた句と評価の高いものです。一茶の

句に...“しずかさや湖水の底の雲の峰”...という句があり、この句か

ら...閑かさや・・・しずかさや”...を連想したものと思われると、紹介

していますね。そうした関係で、芭蕉の句では、まずこの句が頭に浮かび

ました...」

 

「『奥の細道』の、文章によれば...

 一度見ておいた方が良い、と人々に勧められ、尾花沢山形県/尾花沢

から引き返したとあります。予定変更で、立石寺へ回ったわけですが、

そのおかげで名句ができたというわけです。

  ちなみに...蝉の声が聞えるといっても、その日は5月27日(現在の太

陽暦で7月13日)で、山形県あたりでは、蝉の数は多くはないと言われます。

また、その蝉も油蝉ではなく、あまりうるさくないニイニイ蝉だとも言われま

す。これは、学校で習ったかも知れませんね。

  ともかく、芭蕉は...静寂な立石寺の山中の情景を、こういう句に詠ん

でいます。

 

      山寺や石にしみつく蝉の聲

      さびしさや岩にしみ込む蝉の声

      閑さや岩にしみ入蝉の声

    

  でも...深い考察を重ね...最後の句に決まったのは、何年も後のこ

とだったようですよ。こうしたことは、関連の句集などから分かるのだそうで

す。俳句というのは、こんな風に、考察/推敲を重ねるものなのですね。こ

の句の出来上がった背景ということで、一応書き留めておきます。

  あ、それと...芭蕉は一茶のように、一人旅をしていたのではありませ

んでした。『奥の細道』では、門人/曽良との2人旅です。また、一茶のよう

に極貧の行脚俳人ではなく、多くの門人や支援者がいて、生活を支えてい

たようですね。その様子についても、これから考察して行きます。

  ええ...芭蕉や、芭蕉の句については、さすがにインターネットで調べ

ても、データが非常に多くあり、色々と研究がされているようですね。句碑

や足跡などの写真も多く、この方面では、浅学な私がコメントをする余地も

なさそうです...」

 

「そこで...さあ...この句ですが...

  芭蕉はまず、立石寺の岩に岩を重ねたような山容に圧倒されたことが、

『奥の細道』の文章から分かります。

  それに、松や杉やヒノキは、老木となり、古くなった土石は苔むし、岩の

上の多くのお堂の扉は閉じられており、物音ひとつ聞こえない...とあり

ます。

  芭蕉は...そうした俗界(ぞくかい)を離れた山中で、岩山の仏閣を参拝

してまわり...美しい景観と静寂の中で、心が澄み渡っていったと、感動

を綴(つづ)っています。

  そうした苔むした壮観の中で...蝉が鳴いているが、かえって静けさが

つのるようで...まるで古い岩々に、蝉の声がしみ込んで行くようだ...

と詠んでいるわけです。

  私は、立石寺へは行ったことはないのですが...芭蕉の感じた立石寺

は、おそらく...その瞬間にだけ存在し/芭蕉とともに存在し...もう、他

には、何処にも存在していないのだと思います...芭蕉の、この俳句の中

にのみ、結晶化した情景なのだと思います。

  地球の風景全般のように、年々風化が進み、深山もまた俗化してきた、

ということではありません。元々それは...芭蕉のみの知る、芭蕉だけの

立石寺...なのではないでしょうか。

  仮に...江戸/元禄の立石寺であっても...この句に示される“閑か

さ”は...芭蕉のみの...“永遠の立石寺の閑寂(かんじゃく)”...なので

しょう。

  私たちは、芭蕉の句を通してしか、その永遠性に触れることはできない

のだと思います。これは...“心の中に美しく響く情景”...であり、目や

耳で探し求めるものではないようですね...」

 
                  

 

 <2>

      山も庭も動き入るるや夏座敷     

『奥の細道』/黒羽

  元禄2年4月4日(1689年/太陽暦・・・5月22日)

那須/黒羽に、門人の秋鴉(しゅうあ)を尋ねての挨拶吟

  (この折、芭蕉が俳号/挑雪を与えたようです。栃木県/大田原

  市/前田に・・・浄法寺桃雪邸跡があります)

 

 那須の黒羽と云所に知人あれば、是より野越にかか

りて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨

降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を

行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、

野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべ

きや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人

の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所

にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬

の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞

なれぬ名のやさしかりければ、


   かさねとは八重撫子の名成べし   (曽良)

  頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を

返し 

                   ...『奥の細道』より...


「芭蕉は...

  『奥の細道』の旅の途上...門人の黒羽(くろばね)藩の館代/城代家老

(/留守居役)浄法寺図書(じょうほうじずしょ)/秋鴉(しゅうあ)・・・桃雪に招か

れ...この地を訪れています。大いに歓待されたようで、この地には14日

の長逗留となり、とくに桃雪亭では8泊しています。 

  『奥の細道』の旅では...現在の山形県/山形市/立石寺(7月13日)

に至る以前であり...栃木県/那須郡/黒羽町(5月22日)で詠んだもの

です。

  その黒羽に至る前...那須野の原の様子を、『奥の細道』では、現代

語に訳すと、このように記しています...

 

  那須の黒羽という所に、知人がいるので、ここから那須野の原に足を踏

み入れ、真っ直ぐ行くことにする。はるかに1つの村を見かけて行くうちに、

雨が降り出し、日も暮れてしまった。農夫の家で一夜を借り、夜が明けて、

また野中を行く。

  途中、野原に放し飼いの馬がいた。草刈りの男に、馬を貸してくれるよ

うに懇願(こんがん)すると...“野夫(やふ)といへど、もさすがに情しらぬに

は非ず”...とあります。つまり、親切にしてくれた、というわけですね。

  野夫は...“いかがすべきや...されども此(この)野は縦横にわかれ

て、ういういしき旅人の道ふみたがえん、あやしう侍(はべ)れば、此馬のと

どまる所にて、馬を返し給(たま)へ”...と言い馬を貸してくれた、とありま

す。

  うーん...なんとも素朴な...のどかな農村風景ですよね。それで、芭

蕉も心に強く感じるものがあり、『奥の細道』に記したのでしょう。芭蕉の、

深い人間性に触れた感じがします。

  さらに、こうあります。 “ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる”...

小さい子供が二人、馬の後をしたって走ってきた。そのうちの1人は、小さ

い娘で、名前を“かさね”と名のりました。聞き慣れない名前でしたが、その

名前に優美な響きがあるので、門人/曽良が、一句詠んでいます。

 

      かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名成べし   (曽良)

 

  やがて、人里に至ったので、お礼のお金を鞍つぼに結わえ付け、馬を

返した、とあります。

  それから、江戸/深川で、芭蕉が朝夕なく参禅に赴いた、仏頂・和尚が

庵を結んだ雲巌寺や、黒羽藩の館代/浄法寺図書を訪ねたわけですね。

雲巌寺では...

 

      木啄(きつつき)も庵(いお)はやぶらず夏木立  (芭蕉)

 

  ...きつつきも、さすがに仏頂・和尚の結んだ庵は、破ろうとはしないよ

うだと、詠んでいます。ここには、親しかった仏頂・和尚の庵がありました。

あの...

     

     古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音   (芭蕉)

 

  ...の句に、ゆかりのある和尚です。仏頂・和尚は、雲巌寺45世/徹

通・和尚と親交が深く、晩年はこの雲巌寺で庵を結び、ここで没していま

す。享年74歳ということです。

  さあ、本題の...芭蕉の句の考察に入りましょうか...

 

     山も庭も動き入るるや夏座敷   (芭蕉)

 

  夏座敷とは...ふすまや障子などを取り外して、涼しげに整えた、夏の

座敷のことです。エアコンの完備した:現代風の住宅では、見かけない風景

ですね。でも逆に、当時の、非常に豊かな夏の風物と、健康的な夏の熱気

と、涼しげな涼風を感じます。古(いにしえ)の、郷愁の夏の風景ですね。

  芭蕉は...その歓待された夏座敷の中に、山も庭も揺れ動いて入って

来るようだと詠んでいます。さぞかし、黒羽藩/城代家老の屋敷の、夏座

敷は、田舎ならではの豊かさに満ちていたのでしょう。

  かつての...年輪を重ねた樹木の雄大さ、家屋の重厚さというものは、

その時代を背負ったものであり、現在ではなかなか感じられないものだと

思います。それは、山形領/立石寺/山寺でも、同様だと思います。

 

  高杉・塾長は、この句に関しては... 『正法眼蔵』/山水経の中の、芙

蓉道楷・和尚(ふようどうかい・おしょう: 曹洞宗において、釈迦牟尼仏から数えて46代

目/中国の人)の言葉が、参考になると示して下さいました。

  ええと...ちなみに、『正法眼蔵』を書かれた道元・禅師の師である、

童如浄・和尚(てんどうにょじょう・おしょう/天童山景徳寺31世住職・・・中国の浙江省寧

波地区)釈迦牟尼仏から51代目...日本で永平寺を開祖した道元・禅師

は、52代目になります。

  あ、それと、中国での禅宗の初祖/菩提達磨・和尚(ボダイダルマ・おしょう:

南天竺/南インドの人・・・海路から中国南部に入り北上、魏の嵩山少林寺にて9年面壁

ダルマさん) は、釈迦牟尼仏から29代目です。 

  さて...その道楷・和尚が...何と言ったかというと、“青山(せいざん)

常に運歩(うんぽ)し、石女(うまずめ)は夜子を生む”、と言ったとあります。

  また...同じ『正法眼蔵』/山水経の中に...雲門匡真・大師(うんもん

きょうしん・だいし: 雲門宗の開祖/中国の人)の言葉もあります。これは、“東山

(とうざん)は水上を行く”、というものです。

  これらは、いずれも、仏道の深い悟りを示した言葉です。詳しくは『正法

眼蔵』/山水経を読んでいただきたいのですが、道元禅師は本の中で、こ

のように書かれています。   ・・・・・『正法眼蔵』/山水経はこちらへどうぞ・・・・・    

  “青山も運歩を参究...東山も水上行を参学するがゆえに...この参

学は山の参学なり...”と...

  これは、現代風に言うと...“青山自身も歩むことを学び、東山自身も、

水上を行くことを学ぶのであるから...山を学ぶことは、山が山を学ぶこ

とである”...ということです。

  うーん...これは、『正法眼蔵』の中でも言っていることですが、理屈で

割り切って考えていては、理解できないことです。それゆえに、座禅などの

修行が必要になるわけですね。

  ともかく...青山は運歩するものであり、東山は水上を流れて行く...

ということですね。納得できない時は...私もそうですが...“青山運歩・

東山水上行”...をそっくり呑み込んでおきましょう。『正法眼蔵』に、そん

な言葉があるということですね...ふふ...

  この世界とは...“主体性の鏡に映し出された・・・壮大な何者かの影な

のだ”...ということですわ。そうであってみれば、...“青山運歩・東山水

上行”...もあり得る、ということでしょう。

  あ、ええと...塾長は...『正法眼蔵』/山水経を参照するように言い

ましたが...芭蕉がこの書を読んでいたかどうかは、分からない...とも

言っていました。でも...芭蕉は、深く禅に踏み込んでいたわけだから、こ

ういう句が生まれたのだろう...とも言っていました」

 

「うーん...そういうわけで...

  熱気を帯びた夏の山々も...草木のムンムンする緑の生気も...グ

ラリと揺れて...夏座敷へ入り込んで来るようだ、と詠んでいます。

  夏座敷が...豊饒(ほうじょう)の夏を呑みこみ...まるで天地が入れ替

わるようです。

  芭蕉の...夏の風雅/人々との出会い/一期一会の...絶唱が伝わ

ります。一茶とはまた別の、脱俗した芭蕉の世界です」

 

「また...

  那須野の原で、馬の後をついて来た...小さな娘/“かさね・ちゃん”

は...風雅の結晶した姿として...今も、その那須野の原に...生き生

きと息づいています。

  俳諧の宗匠/芭蕉が...馬に揺られながら目を細め...人なつこい

子供たちの相手をしているのが...生き生きと感じられます。それは、俳

句の中に結晶化した姿として、永遠の時空の中で生き続けています。

  素朴な子供たちは...芭蕉と曽良の旅に、後を慕ってついて行ったわ

けですね。芭蕉にとっては...農夫の家に、一夜を借りるのも風雅...

思わぬ、親切の気転に出会うのも風雅...人なつこい子供たちに出会う

もの風雅...大いなる、現実肯定の世界観です。

 

  “雨降らば降れ、風吹かば吹け・・・(/有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰

る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け...一休・禅師の歌)

 

  ...ですね。そうした全てが、芭蕉にとっては、巨大な風雅の極みだっ

たのでしょう。そうした風雅の魔心は...ある意味では、禅的な覚醒とは

対極にある、妄執(もうしゅう: 迷いによる執着になります。

  でも芭蕉は...文学者として、風雅の魔心に深く恋をし...あえてその

苦しい...風雅の魔心/風雅への妄執...という道を歩んだのでしょう

か...」

 

                    


 

 


選者の言葉 (2) 芭蕉/ 西行法師と奥州・平泉

            wpe4F.jpg (12230 バイト)    

 

星野支折です...」支折が両手をそろえ、ゆっくり頭を下げた。それから、後ろ

髪に手を当てた。

「ええ...

  芭蕉は、奥州/平泉を訪ね、幾つかの有名な句を残していますよね。文献によ

ば、『奥の細道』はこの岩手県/西磐井(にしいわい)郡/平泉町北限のようで

す。あ...地図上では、秋田県象潟(きさかた)北限になるのでしょうか。ともか

く、この辺りが、芭蕉にとって奥の細道限界だったようです。

 

夏草や兵どもが夢の跡          (芭蕉/平泉)

五月雨の降のこしてや光堂        (芭蕉/平泉/中尊寺)

象潟や雨に西施がねぶの花     (芭蕉/象潟)
        
(せいし: 中国の絶世の美女 )

  さあ...ここ平泉は...奥州・藤原3代/清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひ

でひら)100年の栄耀栄華(えいようえいが: 今を盛りと時めくこと)の地です。また平安

時代・後期北方文化の中心地でした。

  当時の平泉は...日本では都/平安京に次いで、第2の人口を誇っていまし

た。そして、遠い奥州の地にあって、あたかも独立国のように栄えていました。

州17万騎といわれた強大な武力と、政治的中立性を背景に、豊かさ平穏の中

で、仏教文化を育んでいたようです。

   そして、やがて...鎌倉幕府の成立の過程で...その豊かな北方文化圏は、

どのように滅んで行ったのでしょうか。

  芭蕉は...奥州/平泉古戦場と、中尊寺/光堂を通し...そして、敬愛

西行・法師の足跡をしのびつつ...その栄耀栄華悲劇的最期となった地

の感慨を、『奥の細道』に記しています。

 

  最後となったのは...平安時代・末期の武将/北方の王者/奥州・藤原氏/

第3代目当主・秀衡(ひでひら)であり...第4代目当主・泰衡(やすひら)...そして、

義経・弁慶主従たちの...兵どもが・・・夢の跡...となるわけですね。

  第3代目当主・秀衡は、直前に病没します。そして、第4代目当主・泰衡(やすひら)

は...父親/秀衡の遺言に背き...鎌倉/源頼朝の命により...頼朝の弟/

義経襲撃するわけです。それは、戦略の甘さもさることながら、あまりにも苦し

い決断だったと思われます。

  そんな、不条理な戦いで、義経・弁慶以下が討ち取られるわけです。そして、結

局その後...奥州/平泉は、義経を失って烏合の衆のようになります。あっさり

と、頼朝大軍に滅ぼされてしまうわけです。

  結果は同じだったかも知れませんが、秀衡遺言したように、義経総大将

して戦ったならば、戦の様相は相当に変わっていたと思われます。

  これは...いわば、頼朝/鎌倉勢力の、戦略的な勝利ですね。そして頼朝は、

この勝利全国平定を終え、鎌倉幕府を開府する運びになるわけです...」

 

「うーん...

  この説明だけでは...もう1つ...背景が分かりにくいでしょうか。この、時代

の空気というものを...もう少し説明しましょうか。

  この奥州/平泉が...源平合戦勝利した後の頼朝/鎌倉勢力に攻め滅ぼ

される、少し前に遡りましょう。ここに芭蕉敬愛していた、放浪の歌人/西行・

法師が登場して来るのです。

 

  非常にキナ臭い...鎌倉勢力平泉勢力の...ピリピリとした時代の空気

真只中に...情報僧/連歌師/西行・法師が、千両役者のごとくに出現してい

ます。非常に、ダイナミックですよね...

  ご存知のように...西行・法師は、諸国行脚しながら、数多くの歌/短歌

残しています。特に桜の花を愛でたは有名ですよね。ええと...その多くは、

『山家集』に収められていると思います。

  芭蕉俳諧師ですが...連歌師とどう違うのかというと...一口で言えば、

俳句短歌の違いでしょうか。もちろん、俳諧芭蕉によって全国的に知られる

ようになったわけです。一方、短歌の方は、万葉の時代からあるわけですね...

 

  ええと...今も言ったように...西行・法師は、歌人とは別の、もう1つ別の顔

を持っていたわけですね。西行・法師は、出家の前は武士だったそうです。それ

で、当時の政界中枢に顔がきき、また武家にも顔がききました。平清盛らとも

交わり、奥州・藤原氏遠戚(えんせき: 血縁の遠い親戚)の関係にありました。そして、

歌人/僧侶でしたから...自由の立場にありました。

  つまり...西行・法師は、源平争乱の世で、有力者知己が多く、情報僧/連

歌師として活躍していたわけですね。この僧という身分/僧形(そうぎょう: 髪をそり、僧衣

を着た姿)が...芭蕉蕪村(ぶそん: 与謝蕪村)一茶が...僧形をしていたとい

う、原点のようなものを感じます。

 

  ともかく...奥州/平泉は...芭蕉敬愛/尊崇していた...“西行の愛し

た・・・藤原文化の地”だったわけですね...『奥の細道』の旅の最大の目的は、

この平泉を訪れることにあったようです。

  あ、それから...“芭蕉が生涯・・・旅を住処(すみか)としていたのも...放浪

の歌人/西行・法師共鳴していたからでしょうか。私はまだ、芭蕉の研究を始

めたばかりですので、はっきりしたことは言えませんが、強い影響を受けていたこ

とは確かだと思います。

  ええと...西行・法師有名な1首です...

 

願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃   (西行)


  うーん...西行・法師は...歴史的にも、非常に多くの人々に敬慕されていま

すが、当時にあっても、超有名・歌人でした。そんな西行・法師が、鎌倉源頼朝

とも出会っているのですよね。

  頼朝公が...鎌倉/鶴ヶ岡八幡宮に参拝していた時...鳥居のあたりに、

しい老僧が徘徊していたそうです。頼朝が、人をやって問いただしたところ、それ

西行・法師でした頼朝は、さっそく西行・法師御所に招き、歓談したそうで

す。

  その時...西行・法師の方は...東大寺・再建勧進(かんじん: 寄付を募ること)

ために、奥州/平泉に向かう途中だったということです。そこで、鶴ヶ岡八幡宮

立ち寄ったわけですが、縁故があり、寝食の提供でも受けていたのでしょうか。

 

  一茶考察の折にも、少し触れましたが...当時はをするのは大変なこと

でした。また、お金もかかったようです。俳人俳諧のツテを頼ってをしていた

のであり、無宿人ヤクザのツテを頼って、仁義を切り、旅をしていたわけですね。

そして、旅僧寺を拠点として、をしていたのでしょうか。情報僧/連歌師であ

り、有力者に顔のきく西行は、そういう面ではは楽だったと思います...

  それにしても...西行は、平泉藤原秀衡とは遠戚関係にあり...そんな折、

ただ、ブラリ平泉まで旅をしたとは思えません。何らかの情報僧としての役割も、

担っていたものと思われます。

  でも、平泉では...西行・法師訪問は、よほど嬉しかったと思います。縁故

のある、超有名・歌人であり、都の政治・文化の香りもします。

 

  うーん...そういう次第かどうか...西行頼朝公からもらいうけた“銀の猫”

を、通りで遊んでいた子供に、ポイ、とくれてやったそうですよ...ホホ...持ち

歩くには重かったのかも知れませんが...そんなことが伝わっているということ

は...当然、頼朝公の耳にも入っていたと思います。面白いですね...

  くり返しますが...源平合戦勝利をおさめた鎌倉勢力と...奥州/平泉勢

とは、極度緊張関係になっている時期です。“関ヶ原の合戦”前夜のような

空気ですしょうか。でも、状況としては、頼朝/鎌倉勢力圧倒的でした。現在と

違うのは...うーん...武力集団移動速度/機動力でしょうか...

  そんな時代に...西行・法師は、奥州/平泉を訪れているわけですね。歴史

が大きく動いている時ですが...結局...西行にも、如何ともしがたい状況だっ

たのでしょうか...

  ええと...詳しくは...『吾妻鏡』(/鎌倉時代の歴史書)...をご覧ください...」

 

「うーん...申し訳ございません...

  芭蕉を考察する前に...何故...奥州/平泉に、このような独立国/豊

かな文化圏/強大な武力集団が...成立しえたのでしょうか。それを考察してお

きましょう。

  平安時代・末期武家社会の状況...源氏の御曹司/頼朝・義経兄弟の関

係...義経・弁慶主従の関係...そして、鎌倉幕府・成立の遠景を...ザッ、と

眺めておきましょう...」 
   平安時代・末期・・・兵どもが夢のあと wpe4F.jpg (12230 バイト)


「...ええ...

  平安時代末期になると...武士絶大な勢力を持つようになります。や

て、武門/・・・平家/・・・平清盛(たいらのきよもり)が、絶頂を極めます。さらに、清盛

は、娘/徳子高倉・天皇(きさき: 天皇の正妻)にし、安徳・天皇が生まれます。

  ついに...平家一門から天皇をだすまでに、勢力を誇るわけですね。そして、

“平家でなければ人にあらず”...というほどに(おご)わけです。でも、それ

も、“驕れる平家は久しからず”...ということで、やがて一連“源平の合戦”

で、平家没落して行きます。

  最後の...“壇ノ浦(山口県下関市周辺)の戦い”では...万策尽き、幼少安徳・

天皇まで戦に引き込み...最後は、天皇入水するという大悲劇がありました。

以後、源氏/鎌倉勢力の時代になって行くわけです。

  でも、それから...兄/頼朝弟/義経の...齟齬(そご: ゆきちがい)が始って行

きます。そして、ついに、義経追討がかかります。また同時に、中立を保ってい

奥州/平泉にも、軍事的威圧が加わり始めます...

  そして...日本中に逃げ場を失った義経が...その微妙な立場奥州/平

に逃げ帰り...平泉の状況はさらに悪化します。その前後の状況を、もう少し

詳しく見てみましょうか...

 

  まず...先ほども言いましたが、奥州・藤原氏は...清衡(きよひら)基衡(もとひ

ら)秀衡(ひでひら)...そして最後の、ごく短期間泰衡(やすひら)と...4代/100

にわたって、栄耀繁栄を極めました。

  先ほども言いましたが...奥州/平泉は、都/平安京に次ぐ、日本第2の

繁栄都市となっていたようです。戦乱の続くとは対照的に、遠く離れた奥州/

平泉は、まるで別天地のようだったと言われます。

  初代/清衡は...朝廷藤原・摂関(摂政と関白)には...砂金など

献上品貢物(みつぎもの)を、欠かさなかったと言います。そのために、朝廷

奥州・藤原氏信頼し...“事実上・・・奥州支配を容認”...していたわけで

すね。

  それから...朝廷内で、源氏平氏の間で政争が起きたために、奥州をか

まっている余裕がなかったという事情もあったようです。また、奥州・藤原氏の側

は、から来る国司(地方官)を拒まず、奥州有力者として、それに協力するとい

う形を崩さなかったわけです。

  ともかく...そんなこんなの炯眼(けいがん: 鋭い眼力)で...奥州朝廷での政争

とは、無縁であり続けました。また、源氏平氏合戦の最中でも、奥州17万騎

強大な武力と、政治的中立性を背景に、平泉平穏の中で過ごしてきました。

  でも、結果的に...この中立という戦略が、正しかったかどうかは、大いに

のある所かも知れません。もちろん、当時も大いに議論されたと思います。で

も、その上で、中立という戦略を取ったわけです。

  それにしても...私/個人としては...“運命の絆は・・・容易には変わらな

かった”...と思います。うーん...前にも、“一茶も・・・よく試練に耐えた”、と言

いましたよね。そうした...【容易には変えられない・・・人間原理ストーリイの

原型】...のようなものが、あるのではないでしょうか。その高次元でのカラクリ

が、私たちには、そのように認識されるのでしょうか...

  ともかく...奥州/平泉に...兄/頼朝と確執を持つ義経が、逃げ帰って来

るわけです。鎌倉勢力としては、いずれ平定しなければならない奥州/平泉です

が...この奥州/17万騎に、希有な軍略家義経が加われば...少々厄介な

ことになります。

 

  ええと...これより...さらに前に遡ってみます...“保元の乱”(朝廷が、後白河

天皇がたと、崇徳上皇がたに分裂し、双方の武力衝突に至った政変)や、“平治の乱”(院近臣らの対立に

より発生した政変)動乱をへて、平家全盛期を迎えた時期です。この頃...奥州

/平泉では、第3代目当主/藤原秀衡が、独自の繁栄を誇っていたわけです。

  でも...貴族たちは...奥州・藤原氏財力武力が...やがて天下に

関わることを、恐れていたようです。そして恐れと同時に、例によって蛮族と下げ

すんでもいたのです。

  もっとも...都/平安京には...圧倒的軍事力/財力/文化力があるの

も、確かだったわけです。だからこそ、下げすんでいたわけですが、ともかくその

ような関係/空気の中に...奥州/平泉は位置づけられていたようです。

 

  そうした...“平家の・・・驕った世”で...義経/幼名・牛若丸と、武蔵坊弁

が出会うわけです。

  本当に...五条の橋の上で出会ったのかどうかは知りませんが、源氏の

御曹司である義経は、にいることに身の危険を感じ始めます。そして、都/鞍

馬山から逃亡して、奥州/平泉秀衡を頼ります。つまり義経は、奥州/平泉

養育されることになるわけですね。この経緯は、とうぜん兄/頼朝も承知していた

わけです。

   そして...治承4年(1180年)...兄/頼朝平氏打倒挙兵すると、義経

兄の元へ向います。秀衡義経を強く引き止めたのですが、義経は密かに館を

抜け出したとも言われています。そういうわけで、秀衡は惜しみながらも、義経

奥州から送り出すことになります。

 

  以後...源平合戦での義経大活躍...兄/頼朝との齟齬...平泉での

経の最後....大軍略家・義経なき後、平泉奥州合戦において、鎌倉の大軍

に攻められ、あっけなく陥落します。

  ここで、奥州・藤原氏3代/100年の栄耀栄華は、幕を閉じるわけです...」

「うーん...

  この平泉を...芭蕉は、訪れているわけですね。ともかく、今のように、新幹線

でちょいと行ける旅ではなかったのです。

  芭蕉江戸/元禄の時代でさえ、そこは奥の細道でした。“旅空で・・・死ぬこ

とも覚悟”し...芭蕉は、敬愛する西行・法師足跡を訪ね、出かけて来たわけ

ですね...

  さあ、それでは、芭蕉の方を見てみましょうか...」

 

 

 <3/4>

      夏草や兵どもが夢の跡     
                 (つわもの)

    
五月雨の降のこしてや光堂        
         (さみだれ)                           (ひかりどう)            (中尊寺/光堂)

『奥の細道』/平泉

        元禄2年5月13日(1689年/太陽暦・・・6月29日)

  奥州/平泉(岩手県/西磐井郡/平泉町)...藤原3代の

栄耀栄華の地(平安時代・後期/北方文化の中心地)...

経・弁慶主従の最後の地

 

  三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなた

に有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。

先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣

川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。

泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷

をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功

名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青

みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 

   夏草や兵どもが夢の跡       (芭蕉)

 

   卯の花に兼房みゆる白毛かな   (曽良)



  兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこ

し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝

散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既

頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨

を凌。暫時千歳の記念とはなれり。


   五月雨の降のこしてや光堂    (芭蕉)

                           ....》

                   ...『奥の細道』より...

「...うーん...

  奥州/平泉...そして、平泉にある中尊寺/光堂を詠んだ句ですね。

『奥の細道』は、ここが往路の終着点です。もちろん、細道はさらに蝦夷地

(えぞち: 明治以前の、北海道・千島・樺太の総称)へ続いているわけですが、芭蕉

と曽良の俳諧の旅は、あとは日本海側を回って大垣までの、気楽な帰路

になります。

  蝦夷地まで足をのばすには、体力面での限界と、サポート面での限界

があります。つまり、その先は俳諧の門人も少なく、文化も希薄な土地で

は旅の拠点もままならず、経済的な援助も受けられません。したがって、

事実上、蝦夷地への旅は不可能だったようです。

  さあ...『奥の細道』の文章を現代語訳すると...奥州/平泉の章で

は、だいたい、このようなことが記されています...

 

  藤原三代の栄耀栄華は、一睡の夢の中のようで、大門の跡は一里こな

たに有る。秀衡の館跡は田畑や野になり、金鶏山のみが形を残している。

  まず、高館にのぼれば、北上川は南部地方より流れる大河である。衣

川は、和泉が城をめぐり、高館の下に出て大河に合流している。泰衡たち

の旧跡は、衣が関を隔てた所にあり、南部地方の出入り口を固め、蝦夷

からの侵入を防いでいたようだ。

  さても...義臣すぐってこの城にたてこもり、功名を競ったが...それ

も一時の夢と消え、今はボウボウとした草むらとなっている。“国破れて山

河あり、城春にして草青みたり(杜甫/とほ: 中国の唐時代の詩人 )”と、笠打敷

て、時のうつるまで泪を落した。

 ...芭蕉の、深い感慨の光景が偲ばれますよね...ここがかつて、戦

雲急を告げる中、芭蕉の敬愛する西行・法師の訪れた、奥州/藤原文化

の中心地だったのです。

 

夏草や兵どもが夢の跡       (芭蕉)

 

  句の意味は...今はただ、夏草だけが繁茂する。かつて、藤原一族の

者たちが、そして後に義経・弁慶の一行も加わり、功名や栄華を競ったと

ころだ。

  今、夏草を眺めていると、そうしたすべてが、夢のように勇壮であり、ま

た、はかなく...今はただ甘く悲しいばかりだ...というものですね。

 

卯の花に兼房みゆる白毛かな   (曽良)



  この句は...夏草に混じって、白い卯(う)の花
(夏の季語/この日は、太陽

暦で6月29日)が咲いている。これは兼房が、白髪をふり乱し、勇猛に敵に

向かう姿が想い浮かんでくるものだ...というものです。

  兼房は、平泉で源義経に最後までつき従い、義経の死を見届けてから、

自らも討ち死にした人物です。もとは、義経の愛妾(あいしょう)/静御前(し

ずかごぜん)の、生まれた時からの守役でした。そして嫁いだ後は、義経の

家来になっていました。その忠臣も、もう白髪の老人になっていたわけで

すね。

  ええと...それから...


  かねて耳を驚していた、二堂経堂、光堂が開帳していた。経堂は、三将

の像清衡、基衡、秀衡の像が残されていて、光堂の方には、これら三代の

(ひつぎ: 死体を入れて葬る木の箱)が納められ、三尊の仏像が安置されてい

た。

  七宝が散うせて、珠玉で飾られた扉は風にやぶれ、金箔のはられた柱

は霜や雪に朽て、すでに頽廃空虚の草むらとなりそうであった。しかし、そ

れを、四面を新に囲って、屋根を瓦で葺(ふ)き、雨風をしのいでいる。これ

で、暫時(ざんじ)、千歳の記念遠い昔をしのぶ記念物となっている...という

光景でした...

 

   五月雨の降のこしてや光堂    (芭蕉)

 

  句意は...まわりの建物が雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のま

まに輝いてい。まるで光堂にだけは、五月雨も降り残しているようだ...

と芭蕉は、詠んでいます...」

 

「...うーん...

  今回は...古(いにしえ)の栄耀栄華の流れを中心に、話ました。芭蕉の

江戸/元禄時代は、まだ徳川幕藩体制の時代だったわけですよね。芭蕉

の時代から、400年ほど前のことですが、源平合戦の頃に比べても、まだ

弓と刀に、鉄砲や大筒(おおづつ: 大砲)が加わった程度の変化でしょうか。

  でも...芭蕉の時代から、400年ほど後の世の現在となると...封建

社会はすでに終わり...産業革命を経て...現在の科学技術文明の時

代になり...世界観も雲泥の差です。時代は、ますます加速していますよ

ね。これから、どのように歴史を紡いでいったらいいのでしょうか。

  でも...こうした中にあってなお...私たちは、800年前の古の時代

に郷愁を感じています。万葉の時代から ...歌や俳句は...私たち/

日本人の精神性の本流であり...心のルーツ(根源、起源)になっていま

す...」


 

 

  選者の言葉 (3)芭蕉/出羽三山  

    wpe4F.jpg (12230 バイト)    


星野支折です...」支折が、深く頭を下げた。「ええ...

                         

  2011年/3月11日/午後2時46分頃...東北地方/太平洋

岸/牡鹿半島沖で、マグニチュード9.0 の大地震が発生しました!

  東北地方は、その未曾有の巨大地震による“大津波災害”と、

“原発の炉心溶融事故”で、甚大な被害が発生しています...

   被災された方々に、心からお見舞いを申し上げます!  

 

  このような状況ですが...被災された方々に...少しでも心を休めていただく

ために...ここは引き続き、被災地域でもある...『奥の細道』の考察を続けて

行くことにします。

  ええ...今回は、里中響子さん助力を仰ぎました。《危機管理センター》

非常事態下なのですが...被災地域/東北地方/奥州のことですから...と喜

んで助言することに、応じて下さいました。ありがとうございます...」

 

「さあ...

  それでは、紀行の順路としては少し戻って、被災地域/太平洋岸の辺りを振り

返ってみましょう...

  ともかく、『奥の細道』の紀行では、芭蕉江戸を発ったのは、旧暦の3月27日

(新暦/太陽暦の 5月16日)です。4月1日(新暦 5月19日)には、日光東照宮に参拝して、

4月3日(新暦 5月21日)に、那須野の原を超えて、黒羽に到着しています。この辺り

のことは、このページでも考察していますよね。

  そして、ええと...4月20日(新暦 6月7日)白河の関を越え、須賀川では7泊

ています。仙台に入ったのが、5月4日(新暦 6月20日)のことで、ここでは4泊してい

ます。

      

桜より松は二木を三月越し   (さくらより まつはふたきを みつきごし)  

                  (芭蕉/岩沼市/武隈(たけくま)の松

 (桜より、待っていてくれたのは二木の松であり、三月越しに見ることができたことだ...)

 

笠島はいづこ五月のぬかり道   (芭蕉/名取市/笠島(かさしま)

 笠島はどの辺りなのだろうか。梅雨の雨でぬかるんだ道では、尋ねていくこともできない...)

 

あやめ草足に結ん草鞋の緒  あやめぐさ あしにむすばん わらじのお

                     (芭蕉/仙台

 (ちょうど端午の節句であり、軒端には邪気ばらいの菖蒲がさしてある。さて、わたしも旅の無事

  を祈って、草鞋にあやめ草を結び、出立することにしよう...)

 

松島や鶴に身をかれほととぎす  (曽良/塩釜

 (壮大で感嘆させる松島である。この松島には華麗な鶴がにあう。そこで鳴いているホトトギスよ、

  鶴の姿になって飛んでみてくれないか...)

 

  うーん...ここから石巻(いしのまき)を通り...奥州/平泉に至るわけですね。こ

こも、このページでは詳しく考察しました。奥州/藤原3代の栄華の地ですよね。

この辺りも、内陸部ではありますが、被災地域に入るでしょうか。すぐ東側には

津波の直撃を受けた、気仙沼市陸前高田市大船渡市があります。

  かつて、芭蕉曽良が歩んだ...今回の大津波災害被災地域ですが、今は

すっかり様相が変わってしまってしまいました。でも、これは地球プレートの沈み

込みによる、海溝型地震であり、自然災害ですよね。美しい風景は、必ずまた

してきます。

  さて...奥州/平泉の後は、出羽越えですね...

 

蚤虱馬の尿する枕もと  (さくらより まつはふたきを みつきごし)  

                  (芭蕉/岩沼市/武隈(たけくま)の松

 (桜より、待っていてくれたのは二木の松であり、三月越しに見ることができたことだ...)

 

そして、ここから、5月17日(新暦7月3日)尾花沢に至ります。

 

涼しさを我宿にしてねまる也   (芭蕉/尾花沢) 

 (涼しい座敷で、我が家に居るような心地よさでくつろいでいることだ...)

 

  ...となり、ここから、人の勧めもあり、山寺/立石寺に引き返しています。

 

閑さや岩にしみ入る蝉の声    (芭蕉/山形市/立石寺) 

 

  ...となるわけですよね...」支折が両手を結び、深く頭を下げた。

                                  wpe4F.jpg (12230 バイト)

「さあ...

  ここから...出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の章です。芭蕉出羽三山を訪れた

のは、元禄2年(1689年) 6月3日〜6月10日(新暦 7月19〜7月26日)です。羽黒山/

南谷/別院に宿泊し、ここで静養の時を過ごしたようです。

  うーん、実のところ...私は芭蕉研究をはじめて、まだ日が浅いので、細か

い経緯は、十分には咀嚼(そしゃく: 口の中で食べ物を良く噛み砕き、味わうこと)していません。

でも、ともかくこの時期は、梅雨の長雨もそろそろ開けようという頃でしょうか...

  この前...芭蕉曽良は、五月雨(さみだれ)で満々と水を張りつめた最上川を、

で下る体験をしてるわけです。それから途中で下船し、羽黒山に至っています。そ

の時の絶唱句が...

 

五月雨をあつめて早し最上川    (芭蕉/・・・最上川)

 

  ...があります。

 

  ともかく、芭蕉出羽三山を訪れたのは、そんな梅雨の終わり頃季節だった

ようです。その出羽三山では、まず羽黒山(はぐろさん)を訪れています。

  参道の両側は、森閑とした杉並木だそうです。そして、歩き始めてすぐに、羽黒

山・五重塔 (国宝・・・東北地方/日本海側で唯一の国宝建造物)が見えてくるそうです。祀(まつ)

られているのは、大国主命(おおくにぬしのみこと: 出雲大社の祭神)だとのことです。うーん、

そうですか。

  あ...この大国主命は、神話では、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)を助けた、心の

優しいご利益のある神様である...とのことですよ。

  ちなみに...明治時代神仏分離によって、神仏習合の形態の羽黒山は、

のみとなり...仏教寺院僧坊(そうぼう: 寺院内にある、僧の起居する建物)は、ほとん

どが廃され、取り壊されたそうです。

  でも、国宝/五重塔のみは、壊されずに残されたようですね。芭蕉の訪れた

戸時代/元禄の頃には、五重塔の周囲には多くの建造物があり、僧坊も立ち並

び、修験の場として賑わっていたようです。 

 

  それから...月山(標高1984メートル)は、山形県のほぼ中央に位置する山で...

これは火山のようですね。ともかく、日本百名山1つとして有名ですよね。ご存

知のように、月山夏スキーが可能なほど、豊富な残雪があるようです。

  この月山から湯殿山(1504メートル)へ下る道は、月光坂とよばれる鉄梯子難所

があります。芭蕉は、月山登頂を果たした日は、頂上付近の山小屋で一夜を過ご

し、翌日は湯殿山まで、難所のある修験の道往復しています。

  現在では車で行けるそうですが...江戸時代/元禄の頃には、その修験の道

しかなかったのでしょうか。申し訳ありません。浅学のため、詳しいことは分かりま

せん。

  ともかく芭蕉は...この修験の山難所のある坂道を、往復したようですね。

あ、でも、芭蕉翁などとも呼ばれ、老人のように聞こえますが、それは前にも言っ

たように、尊称です。

  芭蕉は、51歳という若さで早世(そうせい: 早く世を去ること)しているわけであり、芭蕉

自身もまだ若く、旅から旅への健脚自慢でもあったはずです。あ、でも...早世

ているわけですよね。うーん...

  道元・禅師も、響子さんに聞いたところでは、若くして没しています。53歳だった

でしょうか。そして、芭蕉51歳ですか...でも、ともに、足跡は大きいですよね。

そういうものなのかしら...

  さあ、それでは、俳句の方を見て行きましょうか...」



 <5・6・7・8>

  有難や雪をかほらす南谷   
   (ありがた)

    涼しさやほの三か月の羽黒山      

           ***************************************************    (羽黒山)

  雲の峯幾つ崩て月の山       

  語られぬ湯殿にぬらす袂かな           

           ***************************************************   (月山、湯殿山)

 

『奥の細道』/出羽三山

  元禄2年(1689年) 6月3日〜6月10日(新暦/太陽暦

         7月19〜7月26日)

  出羽三山(山形県鶴岡市/磐梯朝日国立公園の一角

          月山、羽黒山、湯殿山の総称) 

 

《 六月三日、羽黒山に登る。

  図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。

南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊にをゐて誹諧興行。

 

有難や雪をかほらす南谷  


 五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代

人と云事をしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書

写、「黒」の字を「里山」となせるにや。

「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」とい

へるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍と

やらん。月山・湯殿を合て三山とす。

  当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓

融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行

法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にし

て、めで度御山と謂つべし.....》

《  八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に

頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に

氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入か

とあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月

顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消

れば湯殿に下る。

  谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て

爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。

彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。

道に堪能の執あさからぬ事しられたり。

  岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜

のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を

忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほ

るがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさ

りて覚ゆ。

  惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を

禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の

需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

 

   涼しさやほの三か月の羽黒山   (芭蕉)

   雲の峯幾つ崩て月の山       (芭蕉)

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな   (芭蕉)

   湯殿山銭ふむ道の泪かな     (曽良)

                           .....》

                    ...『奥の細道』より...

 

 「...さあ、『奥の細道』の紀行文では、出羽三山を訪れています...

  6月3日、羽黒山に登る...とあります。図司左吉という者を訪ね、その

案内で羽黒山の別当代・会覚・阿闍梨(えかく・あじゃり)にお目にかかる...

とありますが、別当とは一山の法務を統括する長のことです。

  そして、代とありますが、これは代わりの意味で、50代別当・天宥が流

罪になり、東叡山(とうえいざん: 東京都台東区上野にある寛永寺の山号。 京都の叡

山/比叡山に対していう)から代理が置かれていたものです。

  阿闍梨(あじゃり)は、模範となる高僧の敬称ですが、密教で伝法潅頂(で

んぽうかんじょう: 菩薩が仏位に上る時、法王の職を受ける証として、諸仏が智水を頭に注

ぐ儀式)を受けた僧のことです。また、天台宗と真言宗では、伝法潅頂の職

位を受けた僧を、このように呼ぶようですよ。

  ともかく...会覚・阿闍梨にお目にかかったわけですね。そして、南谷

の別院に宿泊しましたが...芭蕉は広く名前が知れわたっていましたか

ら...阿闍梨は思いやりの心で、懇(ねんご)ろにもてなしてくださった、とい

うことです。

  西行・法師は歌人であり...一茶もそうでしたが、芭蕉も、僧形で旅をし

ていたわけですよね。つまり、歌人や俳人というのは僧侶に近く、またこの

阿闍梨にしても、教養として短歌や俳句は詠んでいたわけですよね...お

そらく。

  それから...4日に、本坊において俳諧を興行した、とありますから。

 

      有難や雪をかほらす南谷    (芭蕉/羽黒山)

 

  句意は...ああ、ありがたいことだ。ここ羽黒山/南谷では、残雪の香

をのせて心地よい風が吹き寄せてくる。旅で疲労した身には、この上なく有

難く、清らかな空気であり、風である...というものです。

  芭蕉は、この霊山の森林の中で、静養の時を過ごしたようです。残雪の

谷あいから吹き寄せてくる薫風(くんぷう: 初夏に、新緑の中を吹いてくる快い風)

に、旅の疲れも癒されたようです。

  この句は、旅の支援者への参詣句です。こうした俳諧の支援者、文化

交流の支援者があってこそ、芭蕉と曽良は奥州を回る大旅行ができたわ

けです。

 

「5日、羽黒権現(はぐろごんげん: 出羽国羽黒山の山岳信仰と修験道が融合した神仏

習合の神であり、観音菩薩を本地仏とする)に参詣する...とあります。

  羽黒山を開山した能除・大師(のうじょだいし)は、どのような時代の人かは

知らない、とありますが...能除・大師/能除太子は、崇峻天皇(すしゅん

てんのう /32代)の第3皇子で、聖徳太子の母(穴穂部間人皇女: あなほべのはし

ひとのおうじょ)の同母弟だそうです。

  つまり...能除・大師/能除太子/蜂子皇子(はちこのおうじ)と聖徳太子

とは、いとこ同士になるのでしょうか。能除・大師の肖像画というのは、気

味の悪い、恐ろしい感じのものだそうです。多くの人の悩みを聞いた結果、

そのような顔になったと言われています...

  それから、芭蕉はこんなことを書いています...延喜式に“羽州里山の

神社”とある。これを書きうつすときに、“黒”の字を“里山”としてしまったの

だろうか。それとも、“羽州黒山”を中略して「羽黒山」と言うのだろうか、と

芭蕉は首をひねっていますね...

  うーん...どうなのでしょうか...?...ホホ...芭蕉翁でも、そんな

ことを考えるのですね...

  それから...この国を、出羽と言うのは、鳥の羽を国の貢物(みつぎもの)

として朝廷に献上したから、と風土記に書いてあるようだ。羽黒山に、月山

と湯殿山を合わせて、三山と称している...とあります。

  この寺は、武蔵国/江戸の東叡山に属していて...天台宗の止観が

月の光のように行き渡っている。円頓融通(えんとんゆうずう: 円頓戒、融通念仏)

の法の灯も合わせ灯っていて、僧坊が棟を並べて建つほどに隆盛してい

る。

  修験者も修行に励んでいて、人々はこうした霊山霊地の験効を、貴びな

がら恐れている。繁栄は長く続くと思われ、目出たい立派なお山と言うべき

だろう...と言っています」

 

「ええと...それから、紀行文には...

   8日、月山に登る...とあります。木綿注連(ゆうしめ)を首に掛け、宝冠

(ほうかん)で頭を包み、準備万端を整えての登山です。

  注連(しめ) は、不浄を払う意味で、注連縄(しめなわ)などとも使われる言

葉です。注連縄は白い紙(紙垂/しで)をはさんだ縄で、結界(けっかい)などに

も使われますが、ここでは木綿の注連を首に掛けるわけです。

  月山に登る者は、登山前の潔斎(けっさい:心身を清めること)の時から下山

するまで、修験袈裟(しゅげんけさ)として首に掛けるのが習わしのようです。

  宝冠というのは、ここでは山伏の頭巾の一種になりますよね。布の長さ

は五尺、八尺、十二尺の各種があり、山での温度が激変するのに対応し

ます。

  さあ、芭蕉と曽良は...木綿注連に宝冠、そして金剛杖を持って登るわ

けですね。いかにもそれらしく、凛々(りり)しいお姿です。強力(ごうりき)とい

う山岳ガイドに先導されて、雲や霧が立ち込めて冷え冷えとした山の中を、

氷雪を踏みながら、8里(1里は4キロほどですから・・・32キロメートル)ばかり登っ

たとあります。

  さらに、日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうかと思いながら、息

も絶え絶えに、冷え切った身体で、頂上に登り詰めました。すると、折から

日が暮れて、既に出ていた月が鮮明になった...とあります。うーん...

そうですか。

  それから、頂上付近の小屋で、笹を敷き、まとめた篠竹(しのだけ)を枕に

して、横になって夜が明けるのを待った、とあります。そして、朝日が出て、

雲が消えたので、湯殿山の方へ下ったようです。

  前日は、雲や霧が立ち込めて悪天だったのですが、翌日は朝日が出て

雲も消え、良い天気だったようですね。この日は、旧暦の6月9日になりま

すから、新暦では7月25日です。ちょうど梅雨が明けたのでしょうか。色々

考えると、楽しいですよね。

  それにしても...現在のような、防寒具や雨具もなく、カップラーメンも

ないわけで、当時の登山風景が偲ばれます。でもその代わり、強力が重い

荷物を背負い、山岳ガイドもしてくれたわけですね。

  うーん...山頂で、朝を待つ冷気まで感じられますよね。私もそうした経

験がありますが、共感できます。芭蕉はこうした全てを風雅とし、その風雅

恋い焦がれ、妄執に陥って行ったわけでしょうか。こうした体験もまた、

風雅というわけですね。

  そうした、大いなる現実肯定の世界観の中で生きるとは、一体、どのよ

うなものなのでしょうか。無我無心で、飄々(ひょうひょう)と生きる禅僧とはま

た別の、文学的・求道者の険しい道のようです

  そうした深い芸術的・深淵を、恋い焦がれて歩み進んだ、芭蕉の独特の

“風雅の結晶世界”が...確かに存在しています」

 

「ええと、それから...

  谷の傍らに鍛冶(かじ)小屋があった...と記されています。この地方の

刀鍛冶、月山という人が、霊験のある水をこの地に選び、身を清めて剣を

打ち、ついに“月山”と銘を刻んで世に賞せられたようだ...と記していま

す。これは、かの(/中国の)龍泉の水で剣を鍛錬した故事に、通じるものだ

ろうか。その干将と莫耶の昔が偲ばれる...と記しています。

 

  それから...岩に腰かけてしばし休んでいると...三尺ばかりなる桜

のつぼみ、半ばひらけるあり...とあります。

  降り積った雪の下に埋て、春を忘れぬおそ桜の花の、心わりなし...と

感嘆しています。ホホ...つまり、非常にけなげだ、とほめているわけです

ね。

  “炎天の梅花”えんてんのばいか: 実際には有り得ないもの。珍しいもののたとえ

が、ここに香るがごとしであり...行尊・僧正平安時代・後期/天台宗の僧。平

等院大僧正/歌人の歌の情も思い出されるが、むしろこの花の方がまさりて

覚ゆ、と言っています。

  芭蕉は、当の可憐な桜の花を前にして、お世辞をこめて言っているので

しょうか...芭蕉の優しさが満ち溢れています。この桜の花も、芭蕉の“風

雅の結晶世界”で、今も生き生きと息づいているわけですね。

 

  さて...この山中(湯殿山)の細かなことについては、修験者の決まりご

ととして、他言することは禁じられている。したがって、筆を止めて記さない

ことにする...とあります。

  下山し...羽黒山/南谷の宿坊に帰ったのち、会覚・阿闍梨の求めに

応じて、三山順礼の句々を、短冊に書記留めておいた...とあります」

 
  
         house5.114.2.jpg (1340 バイト)

「さあ、それでは...その短冊の4句を見て行きましょうか...

 

     涼しさやほの三か月の羽黒山    (芭蕉/羽黒山)

 

  これは、羽黒山へ登る途中の情景を詠んだ句でしょうか。日の落ちた、

霊山の静謐(せいひつ)な充足感の中にたたずんでいると、三日月が出てい

るのが見えたのでしょう。

  私は、羽黒山に登ったことがないので、どの時刻に、どの地点で詠んだ

情景かは分かりません。また、現在の杉林も、芭蕉の訪れた当時は、まだ

若木だったということです。でも、そうした時代考証は、学者にお任せする

ことにします。

  響子さんも言っていましたが...芭蕉の俳句として肝心なのは、心象風

景のスケッチの方だと思います。芭蕉は常に、禅的な深い境涯とは、不可

分の世界に生きていたわけです。そこに、“芭蕉の独特の世界観”が展開

しているわけです。したがって、“芭蕉の俳句の真髄”は、そこにあるのだと

考えています。

  芭蕉は...深い禅的境涯の中で、あえて無我無心ではなく...風雅に

恋い焦がれ...“禅的な悟りとは対極にある妄執(もうしゅう)に身を沈めた

・・・文学的・求道者/風狂の俳人”...だった、ということでしょうか。

  重ねて言いますが...ここに焦点を合せないと...芭蕉の俳句も、単

なるスケッチ/デジタルカメラの1ショット、になってしまうと思うのです。

  深山の霊気の中で、羽黒山へ巡礼している芭蕉の姿が、ほの三日月と

焦点を合わせて、豊かに満ちて来ます。

  立石寺での...閑さや岩にしみ入る蝉の声”...と同じように、芭蕉

だけが知っている、“風雅の結晶世界”なのかも知れませんね。あ、でも、

俳句を通して、私たちもその“風雅の結晶世界”を、垣間見ることができる

わけです」

 

「さあ...次は、月山を詠んだ句ですね...

 

    雲の峯幾つ崩(くずれ)て月の山    (芭蕉/月山)

 

  月山(がっさん)は、鳥海山(ちょうかいさん)に次ぐ、この地方の高峰です。月

の神/月読命(つくよみのみこと)を祭神として、“月の山”とも呼ばれるようで

すね。

  “雲の峰”は、入道雲のことで、夏の季語ですよね。“月の山”は、当然、

月山に掛けているわけです。空にそびえる入道雲が、日暮れとともに幾つ

崩れていき、月の光の中の雄大な月山となったのだろうか...と詠んでい

ます。

  一茶の句に、“蟻の道  雲の峰よりつづきけん”...というのがあります

が...同じ“雲の峰”を季語としていることもあり、同じような響きがありま

す。あ、もちろん、芭蕉翁の方が大先輩ですから、一茶の方が、芭蕉のこ

の句を、知っていたことになります...」

 

「ええと...次の2句は...湯殿山を詠んだものですね...

  出羽三山の奥の院とも呼ばれる湯殿山は、標高1504メートルであり、

月山に連なっています。湯殿山は、伊勢と熊野と並ぶ、日本の三大霊場の

1つなのだそうです。

  山の北側の中腹...梵字川(ぼんじがわ)の侵食でできた峡谷には、五

穀豊穣(ごこくほうじょう)/家内安全の守り神として名高い、湯殿山神社

(標高1000m付近)があります。月山・羽黒山で修行をした行者は、この湯殿

山で悟りの境地に至るのだとか。

  御神体は、茶褐色の巨岩です。“語るなかれ、聞くなかれ”ということで、

『奥の細道』でも、芭蕉はあえてここでは筆を置いています。そして、俳句

でもそのことを詠んでいますよね...

 

     語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな  (芭蕉/湯殿山)

 

  湯殿山で修行する人は、山でのことを一切口外してはいけない、という

習わしがある。また、恋の山とも聞き及ぶ湯殿山であり...語られぬ幽谷

神秘に接し、涙で袂をめらした...と詠んでいます。

  ええと...それから曽良の句があります...

 

     湯殿山  銭ふむ道の泪かな       (曽良)

 

  湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられているそう

です。こうしたことから、参道は、お賽銭(さいせん)を散り敷いたような光景

だったようです。この銭を踏みながら参道を行くのは、かたじけない思い

がわき、涙が滲んでくることだ...と曽良は詠んでいます。

  うーん...袂を濡らすとか...泪かな...というのは、奥州/平泉でも

そうでしたが...芭蕉の句には、よく出て来るのでしょうか。

  一茶の...“擂粉木(すりこぎ)で蠅を追いけりとろろ汁”...というような

庶民的な“軽味”の光る句と...芭蕉の脱俗した句の違いというものが、

よく分かると思います。

  でも、芭蕉も...“雲の峯幾つ崩て月の山”...とか...“日月行道の

雲関に入かとあやしまれ・・・”...というような、まるで少年の夢のような

句や文章も、残しているわけですね...うーん...」

 

                    

 

 

 

  選者の言葉 (4)44芭蕉/最上川・象潟     
                                       


 
             
                                                            

 

「コホン...」支折が喉に手を添え、グラスを取り上げた。水を少し飲んだ。ゆっく

りとグラスを戻す。

「あ...コホン...申し訳ございません...少し、喉の調子が悪いものですから。

でも、大丈夫です...

  ええと...今回は、『奥の細道』の...最上川(もがみがわ)の情景を集めてみまし

た。芭蕉曽良は、仙台領/“尿前(しとまえ)の関”を越え...出羽の国(/現在の山

形県と秋田県にほぼ相当・・・秋田県北東の鹿角市と小坂町は含まれない)に入りました。

  ともかく...この地は現在でも、山形県/最上郡/最上町などと、やたらと

という名称が出て来ます。そして、最上川ですよね。この最上川には、山形県

を流れる大半の河川が注ぎ込んでいるようです。それで大河となり、水量豊富

な川となっているようです。

  私もいずれ、芭蕉の足跡をたずね、この地方を訪れてみたいと思っています。

この最上川は、日本3急流1つだそうです。現在日本の町並みは、コン

ビニ居酒屋も、日本中が画一的になり、チェーン店化し、面白味がなくなったと

言われます。

  でも...江戸時代/元禄の頃というのは、街道間道も、歴史野趣に富

んでいたわけですね。城下町港町独特の風情で発展し、というのはまさに

大ロマンであり、よほど風雅なものだった様子です。

  もちろん...現代と比べると、全てが未発達であり、難儀なことも多かったと思

います。怪我病気もあり、治安も悪く、旅で倒れることも少なくなかったわけです

ね。でも、芭蕉のように、そうした風流に恋い焦がれる人々も...(いにしえ)の頃

より、多くいたわけです。

  西行しかり、宗祇(そうぎ: 室町時代の連歌師)も、しかりです。ともかく、その種の人々

は、ロマンチスト(夢想家)であり、が好きだったようです。西行宗祇、そして芭蕉

を加えて、“放浪3詩人”などとも呼ばれているそうです。

  もちろん、一茶なども、生涯歩き続けた俳人です。は人生そのものだったわけ

ですね。私たちもある意味では、毎日2本の足で歩き続けています。ですから私た

ちも、人生という旅人なわけです。西行芭蕉一茶と同じように...」

 

「現在...東北地方は...

  広島・長崎に次ぐ...“3つ目の・・・原爆投下”を受けたような...大災害にみ

まわれています。でも、これを機に...〔未来型都市/千年都市・・・極楽浄土

のインフラ建設〕復興し...大自然の中の奥州復活されることを期待して

います。

  〔西行・法師の訪れた・・・奥州/平泉〕...そして、〔芭蕉が歩いた・・・奥

の細道の数々・・・〕...ですね。そうした、〔草深く・・・平和で・・・豊かな東北〕

が...復活することを、期待し、祈っています。また、私たちも、できるだけのこと

をする、つもりです。

  私もいつか...草鞋(わらじ)ではなくとも...スニーカー自転車で訪れること

ができるような...〔人間の巣/未来型都市/千年都市〕、を期待しています。

 

  それが、いわゆる...“文明の折り返し”...になるわけです。これは、“国内

における・・・反グローバル化・・・地方分散化”...になるわけですが...かつ

て、確実に存在した郷愁の過去への回帰です。極言すれば、江戸時代〔未来型

都市〕ミックスした姿でしょうか。

  さあ、そこからは...〔若者の世代・・・若者の仕事〕になります。今、私たちの

なすべきことは、まず...〔人間の巣/未来型都市/千年都市〕という...〔極

楽浄土の原型〕を...子孫に残して行くことです。頑張りましょう!


                                      

「さあ...」支折が、傾けたグラスを、コトリと置いた。「芭蕉曽良は...

  最上川を...本合海(もとあいかい)から清川まで...約7里(28キロ)を、川船で下っ

ています。このあたりはが両岸に迫り、そのを埋めるように、満々と張った水

が流れていたようです。

  うーん...ここへ来たことがないのが残念です。でも、それはどうぞ、ご容赦くだ

さい。私も、訪れる日を楽しみにしています。それまでに『奥の細道』研究を、さ

らに重ねておくつもりです。

  ええと...この最上川を、江戸時代/元禄の頃には、物資を積んだ多くの川船

が行き交っていたのでしょうか。

  素朴な活気と賑わい...満々と張っている梅雨末期の大量の水量(芭蕉がこの川

を下ったのは・・・7月中旬/梅雨の末期)...緊張感ある早い川面の流れ...芭蕉はこの

情景を、『奥の細道』絶唱として...発句(ほっく)に残しています。

   五月雨をあつめて早し最上川  (芭蕉)   

 

  それから...話は前後しますが...下船して、出羽三山/羽黒山・月山・湯殿

巡礼(じゅんれい)しているわけですね。ここでは、最上川の特集ということで、こ

の章にまとめました。

  出羽三山巡礼を終え...羽黒山/南谷/宿坊を発った芭蕉曽良は、鶴が

岡の城下酒井氏/14万石の城下町で、長山氏重行ながやまうじじゅうこうという武士の家

に迎えられ...俳諧を開催し、歌仙一巻を作ったようです。

  羽黒山会覚・阿闍梨(えかく・あじゃり)を紹介してくれた図司左吉が、長山氏重行

縁者ということもあって、ここまで同行したようです。土地の風物を紹介しながら

の、心の交流のお見送りですね。

  現代人の私たちは...気軽に、出会い別れていますが...当時の出会い

別れには、“一期一会”の深さを感じますよね。そのために...出会い別れ

も、作法/しきたりというものがありました。このお見送りもそうした1つでしょうか。

この世では、2度とお会いすることのない、“今生の出会いと・・・別れ”です。

 

  それから、芭蕉曽良は...また川舟(/小さな舟だったのでしょうか)に乗って酒田

へ下り...その日は、医師伊東玄順/淵庵不玉(えんあんふぎょく: 不玉は俳号)のも

とに泊めてもらったと、記してあります。

  淵庵は、庄内藩主侍医を勤めている者で、この地の俳諧の中心人物だった

ようです。ここでは、次の2句が残されています...

 

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ    (芭蕉)

暑き日を海にいれたり最上川     (芭蕉)

 

  さて...6月15日(新暦 7月31日)...芭蕉曽良は、この酒田を出発して北上

ます。日本10景の1つ/象潟(きさかた)を訪れるためです。象潟は、北方約10里

(40キロ)海岸あります。その日のうちに着く予定でしたが、途中、土砂降りの雨

にたたられました。そこで俳句にも詠んだ吹浦で一泊したようですね。

  そして翌日...“有耶無耶関跡うやむやのせき/三崎峠(山形県と秋田県の県境)を通

過して、象潟を目指しています。ここは、この地方の最高峰である鳥海山(2230m)

が、日本海まで下り降りている所です。

  うーん...考えてみれば、本当に風流な...贅沢(ぜいたく)な旅ですよね。その

ためなら...旅に病み/旅に倒れても...かまわないということなのでしょう。西

芭蕉も、その覚悟/世界観があっての、“放浪詩人”であったわけですね。

 

  うーん...ともかく芭蕉曽良は...日本海側北上し、現在の山形県から

田県に入ったわけです。そして県境三崎峠の付近に、“有耶無耶の関”があっ

たようです。ここは、“白河の関”と同じように、“歌枕(うたまくら: 和歌/短歌に多く詠み込ま

れる名所や旧跡)の地”です。

  あ...ええと...『奥の細道』では、芭蕉はここを“有耶無耶の関”としているわ

けですが、笹谷峠(ささやとうげ: 山形県と宮城県の県境)に、“有耶無耶の関”があったとい

う異説もあります。さすがに、場所も、“ウヤムヤの・・・関”ですよね。

  私としては...『奥の細道』にちなんで...芭蕉翁の言うとおりに、三崎峠の方

に決めてしまいたいところです。でもこれは史実が何処にあったかということです

よね。勝手に決めてしまうことはできません。ウヤムヤのままにしておきましょう。

  うーん...笹谷峠の方も、その歴史平安時代まで遡るようです。例の、奥州

/平泉の栄えた頃ですよね。“有耶無耶関跡(/鬼の伝説で知られる)...そして、“阿

古耶の松(あこやのまつ: 阿古耶姫の悲恋の伝説がある)などの史跡もあり...譲らないよう

ですよ。

  よけいなことかも知れませんが...それぞれに、歴史ロマンを大切にしてほし

いと思います。“阿古耶の松”“阿古耶姫”も、調べてみると面白そうですね。私

は現在、非常に多忙なので、それができないのが残念です...」

 

 < 象 潟 >           

                     (鳥海山・・・・・象潟は、大地震で隆起し、現在は存在しない)

ええと...

  象潟は...東西の長さ20町(約2180m)南北の長さは30町(約3270m)を超

える程度だったと言われます。

  入り江に、無数の島々が浮かび...絶景の地として、松島と並び...天下に

賞賛されていました。

  でも、文化元年(1804年)...象潟大地震で...海底が2.4メートル隆起/象

潟の海水が失われ...現在の陸地になったようです。今はそこに水田が広がり、

美しい松や島影が...往時(おうじ: 過ぎ去った時)を偲ばせてくれるようです。

 

         象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花    (芭蕉)

 

  奥州/平泉が...『奥の細道』北限/折り返し地点...と言いましたが、

図上では象潟北限になります。でも、江戸時代/元禄の頃には、現在のような

精密な地図はなかったわけですね。芭蕉としてはやはり平泉が...北限/折り返

し地点だと思っていたはずです。

  したがって、芭蕉曽良にとっては...象潟も含め日本海側は...気楽な帰路

の旅だったわけですね。目的を達成した後の、“風流/風雅の旅”だったと思われ

ます。

  ええと...それでは、の方を見て行きましょうか。最上川酒田象潟を巡り、

また酒田に戻って...一休みですね...」



 <9>

    五月雨をあつめて早し最上川   
         (さみだれ)                (もがみがわ)                  

    wpeE.jpg (25981 バイト)   wpe4F.jpg (12230 バイト) 
 

『奥の細道』/最上川

  元禄2年(1689年)・・・5月28日〜6月3日(新暦/太陽

暦 7月14日 〜 7月19日)

 

《  最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰(ここ)

に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、

芦角一声 (ろかくいっせい: 芦角は葦/アシの葉を巻いた笛 )

心をやはらげ、此道(このみち)にさぐりあしゝて、新古ふた

道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなけれ

ばとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰(ここ)に至れ

り。

 

  最上川はみちのくより出て、山形を水上(みなかみ)

す。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山

(いたじきやま)の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆

(おお)ひ、茂みの中に船を下す。是(これ)に稲つみたるを

や、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て

仙人堂岸に臨(のぞみ)て立。水みなぎつて舟あやうし。


   五月雨をあつめて早し最上川    (芭蕉)


                           ....》

                   ...『奥の細道』より...


「...これも『奥の細道』の、絶唱と言われている1句です...

  五月雨というのは、旧暦/陰暦の5月頃に降り続く長雨のことです。い

わゆる梅雨のことですね。五月雨は夏の季語になりますが、芭蕉は好ん

で使ったようです。『奥の細道』の、この章を現代語に訳すと、大体こんな

ことを言っています。

 

  最上川を舟に乗って下ろうと、大石田というところで日和(ひより)を待つ。

つまり、当時の舟というのは、川も海でもそうですが、荒れた天気の日は

日和まちで、舟を出さないのです。

  ええと、それから...『奥の細道』のこの章では原文に、“船”と“舟”とい

う語が出て来ます。“船”は、帆を張るような、比較的大型のものです。そし

て“舟”というのは、小型の、手こぎのものをいうようですね。

  川舟でも当時から、客と荷物を混載するような、“船”と呼ぶものもあった

わけです。もちろん、稲船や年貢米を運ぶような、荷船もあったわけでしょ

う。特に大きな河川では、昔から水運は大きな威力を発揮してきました。

  それは、時には戦争や、文化の伝達においても、巨大な水上の道だっ

たわけです。また、それは酒井港のように海に開き、日本海/若狭湾か

ら、都にも通じていたわけです。

  こうした日本海側の海路から眺めれば、東北/山形/酒井港は、京都

とは意外に近いことが分かりますよね。まして、日本海は内海であり、太平

洋のように漂流する危険も少なかったわけですか...うーん...

 

  さあ、芭蕉はこう記しています...かつてこの地に、古き俳諧(/談林派

の俳諧)の文化が伝えられた。それが実って定着し、盛んに詠まれた頃を

忘れずに、懐かしがっている。

  これから先、古風な俳諧を継承していくか、それとも新風の蕉風の俳諧

を会得するか、迷っている。舵取りをしてくれる人がいなく、是非にというこ

となので、歌仙を巻いて一巻残した...とあります。

  今回の、風流/風雅の旅は、ついに、こんなことまですることになってし

まった、とこぼしています。でも、まんざらでもない御様子ですよね。また、

そのために、俳諧の縁者を訪ね、北の地までやって来たという側面もある

わけです。

  うーん...何と言っても...蕉風/正風の初祖/芭蕉翁の、江戸から

の来訪です。この当時でも、その筋の文化人には、大変なイベントであり、

刻々の情報が飛び交っていたものと思われます。

  その当時の人であれば...噂の俳諧宗匠/芭蕉翁の来訪であり...

是非お姿なりを拝見し、一声なりと言葉をかわし、頭の1つも下げたいと

思っていたのではないでしょうか。当時の人々は、本当に純朴ですから。

  そして...最新の江戸文化の教祖であり...スーパースターです。現

在のように、経済原理に載ったスーパースターではなく、本物の蕉風の教

祖だったわけですね。

  ええと...歌仙というのは、浅学な私には良く分からないのですが、室

町時代の末期に俳諧連歌が興り、江戸時代の俳諧のもとをなしたと言わ

れています。私たちは普通、その発句(ほっく)を俳句としているわけですよ

ね。

  一茶も、そうした複数人で行う、俳諧連歌を楽しんでいたようですね。そ

れには、花鳥風月や季節などの決まりごとが多く、私たちには馴染みのな

いものです。でも当時は、風流で高い文化の香りのする、よほど風雅なも

のであったようです。

  もちろん、古くは...和歌・・・短歌/連歌であり...それから、俳諧/

俳諧連歌が興ったということでしょうか。この辺りのことは...申し訳ござ

いません...私の勉強不足でもあり、ほとんど分かりません。ええと、そ

れから...

 

  最上川は、みちのくから流れ出て、山形あたりを水上(みなかみ)し、途

中、碁点(ごてん)、隼(はやぶさ)などという恐ろしい難所があり...と、紀行文

に記してあります。それから、板敷山の北を流れて、最後に酒田の海に入

る...ということのようですね。

  また...“左右山おおい、茂みの中に船を下す”...とあります。両岸

から山や茂みが川面に迫り、そうした鬱蒼(うっそう)とした緑が繁茂する中

を、船で下って行ったようです。樹木につる草などもからみ、現在とは異な

る、野趣の溢れる壮観だったのでしょうか。

  この船に、稲を積んだのを、稲船というのだろう...白糸の滝は、青葉

の隙間から流れ落ちているのが見え...仙人堂(義経の家臣/常陸坊海尊の

ゆかりの御堂・・・/一行が平泉へ逃げ帰る途中、傷を負っていた海尊は、1人この地に残っ

たようです)は川に臨んで立っている。最上川は梅雨の末期で、満々と水が

張り、川面は速く、小舟は危ういようだ...と記しています。

 

五月雨をあつめて早し最上川    (芭蕉)

 

  俳句でも...五月雨を集めた最上川は、濁水が満々と張り、勢いよく

流れていく...と詠んでいます。俳諧宗匠/芭蕉は...このような激しい

流れを船で下る体験をしているわけですが、こうしたスリルというものを芭

蕉は、どのように見ていたのでしょうか。

  武者なら武者の眼力/見方というものがあります...治安をつかさどる

為政者や役人ならば、治水・水運を考えるでしょう。

  そして俳人にも、文学的・求道者としての見方があるわけですよね。芭

蕉の見方/眼力とは...風物や、そこに溶け込んでいる人々に対する、

存在そのものの感動...ということなのでしょうか。

  うーん...芭蕉は...“深い精神的世界・・・深い禅的境涯”の中に身を

置いていた、俳人/風流人だったと思います。そうした芭蕉が、満々と水を

たたえた速い水流を下る体験をしているわけです。

  これは、いわば物理的な、体の引き締まるような体験だと思うわけです。

これもまた...“大いなる風流・・・風雅の極み”...ということなのでしょう

か。俳句から、芭蕉翁の深く広い思いを、ひたすら推察するのみです。

 

  あ、そうそう...芭蕉はこの船上で、2人の禅僧と乗り合わせたようで

すね。かつて江戸深川/芭蕉庵で死去した人に、縁のある禅僧のようで

す。私は、芭蕉の研究を始めたばかりですので、詳しい事情は分からない

のですが、これは偶然ではないですよね。響子さんも、私と同じ意見です。

  うーん...人との出会いと別れは...まさに、旅の醍醐味でもありま

す。そして、芭蕉にとっては、旅が住処だったわけですね...

 

  さて...私たち/生命体/個体は...生まれ落ち...ピカピカの命

で...その緑の生態系の中に...それぞれに、大冒険の旅に出かける

わけですよね...それが、生まれ落ちてきたも生命体の役割です...

  早くに落命してしまう個体もありますが...たまたま芭蕉のように...

“風流/風雅の世界に・・・深く覚醒する人物”...も出現するわけです。

そうした様々な、莫大な個体群が...波のように流れ、揺れ、縦糸と横糸

を紡ぎ、巨大なストーリイ/巨大な布模様が形成されていきます...

  そして...それぞれの熱い想いが...夢を結び、結晶化し...析出し

ます。そうした言語的・亜空間世界の中に...“芭蕉の風雅の結晶世界”

が、星のように輝いています...」


  
                        


「あ...今...2匹のテントウ虫君が...勢いよく...緑の回廊/緑の

ジャングルの中に...発進して行きました...

  ピカピカの命で...彼らに、どのような冒険が待っているのでしょうか。

ビートのリズムに乗って、彼等の命の冒険の旅が始まって行きます...」

  支折は、グラスを片手に持ち...テントウ虫たちの去った...深い緑

の重なる街路樹を眺めていた。

  無数の命が、続々と冒険の旅に旅立ち...濃密な生態系が形成され

て行くのを、ボンヤリと眺めていた。そして彼女は...ゆっくりとグラスに

唇を寄せた。

 

 <10/11> 

     あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ          

     
 (
温海山)      (ふくうら)

   暑き日を海にいれたり最上川         



『奥の細道』/酒田

  元禄2年(1689年)・・・6月13日〜月25日(新暦 7月

29日〜8月10日・・・13日間/・・・その間に、象潟への往復に4日)

《 羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふ

の家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。

川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許

を宿とす... 》

                    ...『奥の細道』より...

 
「さあ...
この酒田は...

  最上川が日本海に注ぐ、河口の湊町(みなとまち)ですね。庄内平野の中

心地として、また最上川沿岸の米の集積港として栄えました。江戸時代に

は北前船が、米・紅花・海産物などを、大阪や江戸へと運び、港町/商業

の町として、その名を全国に轟かせたいたようです。

  あ、そうそう...ええと、“湊(みなと)”と“港(みなと)”の違いは...港湾

施設のうちで、水上部分を“港”、陸上部分を“湊”と呼ぶようですよ。もう少

し言えば...“港”は港湾施設をイメージし、“湊”は陸上の地域をイメージ

するようです。

 

  私が知っている酒田といえば、昭和51年の“酒田大火”でしょうか。映

画館から出火し、折からの強風(/風速12.2m)にあおられて、市内中心部

を焼き尽くしました。商店街/約22.5ヘクタール/焼損棟数1774棟と

いう、大火だったということです。風にあおられると、そんな大火事になると

いうことですね。

  酒田は、江戸時代から大火が多かったようです。記録も多く残っている

ようですよ。これは、酒田の地形・地勢も強く影響していると言われていま

す。つまり、海や山や河口などの配置であり、またその高低なども、影響し

ているようです。

  こんなことを覚えていて、申し訳ございません。それから、“歌/雪の降

る街を・・・”...は酒田のイメージから作曲されたと思っていたのですが、

調べてみると、これは隣の鶴岡市のようでした。うーん...重ねて、謝罪

します。

 

  ええ...ともかく、江戸時代/元禄の頃に...芭蕉と曽良がこの酒田

に到着しています。旧暦の6月13日(新暦 7月29日)ですね。象潟(きさかた)

への往復4日間をはさみ、6月25日(新暦 8月10日)まで13日間...酒田

には、9日間も滞在しています。

  この湊町は...交易で豊かに栄え、上方の町人文化が流れ込んでい

たこともあって、芭蕉にとってはすこぶる居心地が良かったのでしょうか。

それとも、旅の途上とはいえ、真夏の移動は困難であり、ここで骨休めを

したのでしょうか。ともかく、この酒田は居心地が良かったようです...

 

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ    (芭蕉)

 

  最上川河口の、袖の浦に舟を浮かべ、夕涼みしたときに詠んだ句のよ

うです。

  句意は...折からの、暑さにゆかりのある名前の山/あつみ山が、彼

方に見える...頭をめぐらすと、暑気払い名前の、吹浦(ふくうら)が見渡さ

れる。まるで、暑い山に涼しい風を吹きかけているようだと、掛けているの

でしょうか。

  そうした眺望の中での夕涼みであり、まことに風流なことだ...と詠ん

でいます。あつみ山は、今は、“温海山”と書くようですね。それから、もう

1句詠んでいます...

 

暑き日を海にいれたり最上川    (芭蕉)

 

  最上川の大河が、海に流れこむさまは、まことに雄大で涼感にあふれて

いる。まさに最上川が、暑かった一日を、海に流し入れたかのようだ。沖合

には今まさに、真赤な夕日が波間に沈もうとしている...と詠んでいます。

  これは、雄大な風景のスケッチですね。酒井港の絶景と、豊かで落ち着

いた風情が感じられます。

  うーん...私もいつか...『奥の細道』の句碑などをたずね、訪れたい

と思っているわけですが...当時の面影は、もうないのでしょうか。それと

も、海や川がそこにあるように...江戸時代/元禄の頃の潮の香りも、ま

だ残っているのでしょうか...」

 

  <12>

    象潟や雨に西施がねぶの花       

    きさかた)        (せいし)                  (鳥海山・・・・・象潟は、大地震で隆起し、現在は存在しない)

 

『奥の細道』/象潟

  元禄2年(1689年)・・・6月16日(新暦 8月1日)

 

《  江の縦横、一里ばかり、おもかげ松島にかよひて、

また異なり。松島は、わらふがごとく、象潟はうらむがご

とし。さびしさに、かなしびをくわえて、地勢、魂をなやま

すに似たり... 》

                    ...『奥の細道』より...

 

...うーん...

  入江の縦横は、1里(約4キロ)ばかり...面影は松島に似ているが、ま

たそれとは異なっている...と芭蕉は記しています。

  松島は笑うがごとく...象潟は恨むがごとし...とも表現しています。

芭蕉翁の言われることですから、まずそうなのでしょう。疑う余地なしです

よね...

  淋しさに、悲しみを加えて...地勢/風景のたたずまいは...美女(西

施)が、魂を悩ますのにも似て、憂いを漂わせているようである...と言っ

ています。象潟とはまさにそんな、沈んでいる絶世の美女の面影を漂わせ

る風景だったのでしょうか...

 

象潟や雨に西施がねぶの花   (芭蕉)

 

  象潟の...雨にぬれて咲く、合歓(ねむ)の花/ネムノハナ(/夜になると

葉が閉じる)は...絶世の美女/西施が、目を閉じて眠っているかのような

趣である、
と芭蕉は絶賛しています。

  西施(せいし)王昭君(おう しょうくん)・貂蝉(ちょうせん)・楊貴妃(ようきひ)は、

古代中国の四大美女と言われています。

  ええと...西施は、中国/春秋時代の越で暮らしていた、薪取りの田

舎娘だったそうです。この娘を、軍事参謀の范蠡(はんれい)が、貴婦人にな

るように猛烈な特訓をし、いわゆる、絶世の美女/西施に育て上げたと言

われています。

  うーん...絶世の美女を、戦略兵器とでも考えていたのでしょうか...

でも、そんな他国もうらやむ美女/貴婦人も...確かに存在していたわけ
ですよね。

  絶世の美女/貴婦人を作るというのは、可愛い/美しいというだけでは

ダメなのだそうです。それに加えて、深い教養と、振る舞い、天性で備わっ

ている女の魔法が必要なのだ...と塾長が話していました。

  まさに、芸術作品のように...“生きている・・・絶世の美女/貴婦人”、

を国の威信をかけて、作り上げていたのでしょうか...ホホ...


  ええと、それから...合歓の花/ネムノハナ...ですが、ネムは豆科

の落葉樹です。夕方になると葉が閉じ、朝になると開くのでこの名があり

ます。7月ごろに、淡紅色や白色の可憐な花をつけます。どんな花かは、

ネットで見て下さい。

  芭蕉も、そんな...絶世の美女/西施を持ち出してくるとは...ずい

ぶんとロマンチスト(夢想家)ですよね...」

   
         
  
 

 

 


  選者の言葉 (5)
芭蕉/越後路・越中路    

  
   
         wpe4F.jpg (12230 バイト) 



「ええ、支折です...皆さん、お元気でしょうか...

  今回は...『曽良の・・・奥の細道随行日記』(/特に名前は付けられてはいなかったようで

す)から...芭蕉曽良『奥の細道』の旅が...どんなもだったかを、のぞいて

見ましょう。この、いわゆる『曽良日記』には、旅の詳細が非常に細かく綴られて

いるようです。

  この...貴重『曽良日記』発見されたのは...与謝蕪村(1716年〜1783年。

江戸時代・中期の俳人、画家)の時代でもなく...小林一茶(1763〜1827年。江戸時代・後期の

俳人の時代でもありません。実は...なんと、234年も後の...昭和13年(1938

年)に発見され、昭和18年(1943年/第2次世界大戦・末期・・・学徒出陣の年)に、出版されて

います。

  それまで...234年もの間...日本文学史上の貴重な史料が日の目を見るこ

ともなく、『奥の細道』は片肺飛行だったことになります。まさに衝撃に値します。と

もかく『曽良日記』の出現によって、よって『奥の細道』は随分と、“ボリュームの厚

い句集・・・紀行文学”になったと言えます。

  ええ...実は私も...『曽良日記』については、今回、初めて読んでみました。

これから、研究を深めようと思っている段階です。したがって、至らない点も多々

あると思いますが、それは容赦願います...」

 

さあ...

  この越後路では...『奥の細道』順調だった旅も、下降気味になります。様々

な難儀遭遇し、体調も崩します。でも、越後路の難儀があって、この可笑しさ

あって、奥州・出羽への壮大な紀行文は、中ダルミもせずに、緊張感を保ったよう

に思われます。

  めでたし、めでたしだけの旅では...人々の人情の機微にも触れず、つまらな

い作品になったのではないでしょうか。

  ともかく『奥の細道』は...元禄2年3月27日(1689年5月16日)に、江戸/深川

出発し...夏の奥州・出羽を回り...岐阜/大垣までを踏破した...全行程約

600里(2400km)/日数約150日という、大旅行/壮大な風交の紀行文です。

蕉/46歳...曽良/41歳の時でした。

 

  芭蕉『奥の細道』紀行を終え...伊勢伊賀上野(三重県/伊賀市: 芭蕉の生まれ

た地)京都など経由しながら、元禄4年(1691年)の秋に、江戸に戻っています。

  曽良とは、旅の終着点(大垣)の1歩手前/中山温泉で別れています。曾良が腹

を病み、先に帰しています。旅も終着で、気が緩んだのでしょうか。曽良は、伊勢

(現在の三重県の大半)の国/長島という所にゆかりあるので、先にそこへ向かい、体を

休めた様子です。

  それで芭蕉も、岐阜/大垣で、『奥の細道』旅を完結した後、伊勢/長島

向かったようです。

 

  うーん...150日/600里徒歩での大旅行...300年前の無銭旅行です

から...全てが順調に行くとは思いません。その下降の波/バイオリズムの低下

が、越後路で顕在化したようですね。

  6月25日(新暦 8月10日)に、出羽の国/酒田を出発したわけですが、まだ暑さの

厳しい頃です。その越後路紀行文もごくわずかです。も少ないようですね。

そこでは、いったい何があり、どんな旅だったのでしょうか。

  うーん...興味津津(きょうみしんしん)ですよね。そこで今回は、『曽良日記』のを中

心に、それがどんな旅だったのか、詳細をのぞいてみることにしましょう。

 

  あ...ええと...『奥の細道』における越後路・越中路は、北国街道になります

よね。少々ややこしいのですが、一茶の...有明や浅間の霧が膳を這ふ...

で、追分宿(軽井沢町)から、日本海直江津宿(上越市)までのルート北国街道(/

信越)と紹介しています。

  北国街道というのは、江戸時代における北陸道の呼称ですが、色々なルート

があるようです。私も、全てを把握しきれず、風物なども含め、現在研究中です」


******************************************


     『曽良日記』/越後路・越中路

        6月25日 〜 7月15日/・・・ 20日間
         
       日本海       日本海    

6月25日(新暦 8月10日)・・・越後路>     

  二五日 吉。酒田立。船橋迄被送。袖の浦 、向也。不玉父子・徳左・四良右・

不白・近江や三郎兵・かゞや藤右・宮部弥三郎等也。未の尅、大山に着。状添而

丸や義左衛門方に宿。夜雨降。

 
  25日 吉...非常に天気がいいということでしょうか...

    酒田を出発...門人たちが船橋までお見送りをする。袖の浦へ向かった。不玉父子・

  徳左・四良右・不白・近江屋三郎兵・加賀屋藤右・宮部弥三郎等なり...

    未の刻(尅)(ひつじのこく・・・本文では、刻と尅の両方を使っているようです)2時頃、大山に到

  着。添状(そえじょう: 用向きなどを書いて添える手紙)があり、丸屋儀左衛門方に宿をとった。夜

  雨が降った...ということですよね...」

 

<6月26日(新暦 8月11日)・・・晴越後路    

  二六日 晴。大山を立。酒田より浜中へ五り近し。浜中より大山へ三り近し。大

山より三瀬へ三里十六丁、難所也。三瀬より温海へ三り半。此内、小波渡・大

渡・潟苔沢の辺に鬼かけ橋・立岩、色々の岩組景地有。未の尅、温海に着。鈴木

所左衛門宅に宿。弥三良添状有。少手前 より小雨す。及暮、大雨。夜中、不止。


  「26日 晴...

    大山を出発...酒田より浜中へ5里近くあり。浜中より大山へ3里近くあり。大山より

  三瀬へ3里16丁ほど...難所なり。三瀬より温海へ三り半ほど。このうち、小波渡・大波

  渡・潟苔沢の辺に鬼かけ橋・立岩など、色々の岩組の景勝地があった。

    (ひつじ)の尅/午後2時頃、温海(あつみ)町に到着。“あつみ山や吹浦かけて夕すヾ

  み”...と詠んだ温海ですよね。

    鈴木左衛門宅を宿とする。弥三良(弥三郎)/美濃(岐阜県)の商人/低耳(ていじ)の、紹

  介状が有あった。少し手前より
小雨が降った。夕方になって大雨。夜中、雨が止まなかっ

  た...ということです。

    うーん...俳諧仲間が、ちゃんと次の宿を手配し、紹介状を書いてくれたわけですね。

  それでも、全部を手配に及んだわけではなく、添状があれば上々で安心というわけでしょ

  うか。

    ともかく、急な天候の異変もありますし...雨が降りだし日が暮れて(/那須野の原)、農

  夫の家に泊めてもらったり...封人の家
(/
仙台領・尿前の関を越えて、やがて日が暮れる...封

   人とは国境の守役であり、その役宅)に泊めてもらったりの...行き当たりばったりの宿泊のよ

  うですね...」
 


<6月27日(新暦 8月12日)・・・雨止越後路    

  二七日 雨止。温海立。翁は馬にて直に鼠け関被趣。予は湯本へ立寄、見物

して行。半道計の山の奥也。今日も折々小雨す。及暮、中村に宿す。
 
  27日 雨が止む...

    温海あつみ)を出発...翁(/芭蕉)は馬に乗って、真っ直ぐに鼠ヶ関ねずがせき)経由

  で旅を続ける...鼠ヶ関の関所があったわけですね。しかし、私(/曽良)は、湯本に立ち

  寄り、見物して行くということです。

    半道計の山の奥なり...とあります。うーん...半道計とは、どういう意味でしょうか。

  半日ほどの行程という意味でしょうか、それとも、半時/1時間程の行程ということでしょ

  うか...申し訳ございません...勉強不足です。

    ええと、それから...今日も時々小雨が降った。夕方になって、中村新潟県/岩船郡/

   山北町北中
で宿をとる...ここで、芭蕉と落ち合ったのでしょうか...」




<6月28日(新暦 8月13日)・・・朝晴越後路    

  二十八日 朝晴。中村を立、到蒲萄(名に立程の無難所)。甚雨降る。追付、止。

申の上刻に村上に着、宿借て城中へ案内。喜兵・友兵来て逢。彦左衛門を同道

す。


  「28日 朝は晴れていた...

    中村を出発...葡萄峠に至る。言われている程の難所は無いようだ...ということで

  しょうか。そのうちに大雨が降ってきた。追い付き、止まる?...この日も芭蕉は馬を使

  い、それで追い付いて、休んだということでしょうか?

    (さる)の上刻/午後4時頃...村上(新潟県/村上市)に到着。宿借て、城中へ案内と

  は...旅の荷物を置き、身支度を整え、城へ出向いたという事でしょう。そして、曽良が

  よく知っている、喜兵と友兵が出て来て会った。そして、彦左衛門を同道する...とは彼

  も呼んできて、一緒に下城したということでしょうか。

    うーん...喜兵というのは、菱田喜兵衛で、ともかく城内で会ったようですね。これは

  『曽良日記』ですから、会ったのは、曽良に個人的なゆかりのあった人々です。芭蕉に関

  しては、前日の日記に...翁芭蕉)は馬に乗って鼠ヶ関経由で旅を続ける...とあるだ

  けで、以後の記述が無いですよね。曽良にとっては、お城に登って旧知の友にあう事が、

  よほどの重大事であったようです。

    ええ...ともかく...この日は久左衛門(伊勢/長島時代の曾良の知人。筆頭家老の榊原帯刀

   の父/榊原吉兼/一燈
に着いてきた・・・伊勢/長島の商人)
宅に宿泊したようです。

    浅学で曾良の前歴は良く分かりませんが...曽良はこの伊勢/長島あたりで...今

  の村上藩/筆頭家老/榊原帯刀の父・・・一燈を、主筋として、侍として仕えていたので

  しょうか。そして、主君が移封(いほう: 大名などを他の領地へ移すこと)になり、村上の地に来て

  いたという事なのでしょうか。

    ちなみに...前にも言いましたが...曽良は、終着地点の大垣の手前/中山温泉で

  腹痛を起こすわけですが、その時、伊勢に知人がいるということでそこへ向かいます。曽

  良にとっては、伊勢/長島は、そのような事情で、故郷のような所だったのかも知れませ

  んよね...」

 

<6月29日(新暦 8月14日)・・・天気吉越後路   

   二九日 天気吉。昼時、喜兵・友兵来て(帯刀公より百疋給)、光栄寺へ同道。

 一燈公の御墓拝。道にて鈴木治部右衛門に逢。帰、冷麦持賞。未の下尅、宿久

左衛門同道にて瀬波へ行。帰、喜兵御隠居より被下物、山野等より之奇物持参。

又御隠居より重之内被下。友右より瓜、喜兵内より干菓子等贈。

  「29日 天気吉...

     昼時に喜兵・友兵が来て、村上藩/筆頭家老/榊原帯刀(さかきばらたてわき)よりの下

  賜(かし: 高貴な人が身分の低い人に物を与えること)/草鞋代(旅の費用)、百疋(ひき・・・百疋で1/4

   両=金1分。現代では3万円程度ですが、諸説があり)を給わる。

     ちなみに、草鞋そのものは、1足/平均10文ぐらいでしょうか。それを日に2足は、確

  実に履(は)きつぶしていたのでしょうか...まんじゅうは1個/3文程度ですしょう。1文は

  現在の価値で、これも諸説ありますが、だいたい10円〜30円ぐらいでしょうか...

     ええと...ともかく...下賜された草鞋代も届けられ...3人で光栄寺へ一緒に行っ

  たとあります。気のおけない仲間だったのでしょう。そこで、かつて仕えていた
榊原一燈の

  墓参りをしました。
道で鈴木治部右衛門に逢った。かつての上司でしょうか、顔見知りで

  しょうか。それから、宿に帰って冷麦を賞味した...とあります。

     未(ひつじ)の下刻(尅)/午後2時過ぎ...宿に来た久左衛門と同道し、瀬波へ観光に

  出向いた。帰ると、喜兵・御隠居よりの届け物があった。また、山野らよりの珍しい物の持

  参があった。また、御隠居より重之内を下された。うーん...重之内とは何でしょうか。重

  箱に入った料理でしょうか。友右から瓜、喜兵衛夫人からは干し菓子等が贈られた。

    と...こまごまとありますが...大体の意味は、こんな所だと思います。当時/江戸・

  元禄時代の...旅の途上の金銭的支援/金額...また旧家臣・旧知のお付き合いの

  在り方...その時の届け物というものの...空気がうかがえ
ます...)

 

<7月1日(新暦 8月15日)・・・折々小雨降る越後路   

 七月朔日(ついたち) 折々小雨降る。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。 喜

兵・太左衛門は被見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳の尅、村上を立。午の下尅、

乙村に至る。次作を尋、甚持賞す。乙宝寺へ同道、帰てつゐ地村、息次市良方へ

状添遣す。乙宝寺参詣前大雨す。即刻止。申の上尅、雨降出。及暮、つゐ地村次

市良へ着、宿。夜、甚強雨す。朝、止、曇。


  「七月朔日 折々小雨降る...

    旧暦では、6月29日から7月1日になっていますね。旧暦/太陰暦と、新暦/太陽暦

  の違いです。朔日は、(ついたち)と読むのだそうです。朔だけでも、(ついたち)と読むそ

  うです。月の始まり/月立ち(つきたち)が転じて(ついたち)になったとか。現代的な定義で

  の、新月(しんげつ: 西の空に見える細い月)と同義になります。

    ええ...喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右らが訪ねてきた。喜兵・太左衛門は見送り。

  朝のうちに、榊原一燈の菩提寺/泰叟院へ別れの参詣に行った。

     巳の尅/午前10時頃、村上を出発する。午の下尅/午後1時頃、乙村(新潟県/北蒲

   原郡/中条町)に到着。庄屋/次作を尋ね、大変もてなしをうける。乙宝寺へ一緒に行き、

  帰って、つゐ地村の息子/次市良方へ、添状を遣わしてくれた。

     乙宝寺の参詣前に大雨が降った。雨はすぐに止んだ。申(さる)の上尅/午後4時頃、ま

  た雨が降り出した。日暮れになって、つゐ地村/次市良方へ着き、宿とした。夜になって

  強い雨が降る。朝、雨は止み、曇り空...

     うーん...この辺りは、俳句もなく、芭蕉のお姿も見えませんね...曽良の日記も、旧

  知の人々のことばかりです」



<7月2日(新暦 8月16日)・・・朝、止、曇越後路    

 二日 辰の刻、立。 喜兵方より大庄や七良兵へ方へ之状は愚状に入、返す。

昼時分より晴、あい風出。新潟へ申の上刻、着。一宿と云、追込宿之外は不借。

大工源七母、有情、借。 甚持賞す。

 

  「2日 辰の刻/午前8時頃、出発する...

    村上の喜兵より、大庄屋/七良兵宛の紹介状は、愚状に入...つまり、話が通らな

  かったということですね。それでとって返す、とあります。紹介状というのは、しっかりとした

   権威のあるものか、関係性のしっかりしたものでないと、愚状となってしまうことがあるよ

  うです。また、それを愚状とするような、受け取り側の自由度もあったわけです。

     うーん...ともかく、顔をつぶし断ったわけですね。“俳諧宗匠/江戸の芭蕉翁である

  ので・・・よしなに”...という内容の書状ですよね。身元不信の者でもないわけですが、こ

  れも旅の苦労の1つなのでしょうか。これを裏返せば、旅の楽しみにもなるわけですが。

     ともかく...小林一茶も若い時分には、こんな苦労を重ねていたようですね。何と言っ

  ても、ヒッチハイクのような無銭旅行です。俳諧宗匠といっても...反面、旅坊主であり、

  乞食坊主のようにも見えるわけです。風交の旅も、苦労ですよね。ともかくそんな旅をして

  いた、愉快な時代だったとも言えます。

     ええと...昼より晴れ...アイ風出?...とは、どういう意味でしょうか?そして、

  (さる)の上刻/午後3時半頃、新潟に到着です。申は、今の午後4時ごろですが、かなり

  大雑把な時間概念で、2時間ほどの幅があったようです。あ...それから...当時から

  新潟という地名はあったわけですね。うーん...そうですか...

     ええ...そして、ここで宿をとろうとするのですが...“一宿という・・・追込宿/下級宿”

  しか、借りられなかったとあります。みすぼらしい恰好をしていたので、差別を受けたので

  しょうか。うーん...そんなこともないと思うのですが...ホホ...この時代は身なりをし

  っかりしていないと、そんな難儀にもあったようですよ。

    これも、越後路での難儀の1つですよね。でも...大工源七母ですから...大工/源

  七/母...大工というのは職業、母というのは源七の母親/御母堂ということでしょう。

  その者が、情が有り...そこに宿を借りることができたようです。ひどい仕打ちをされた

  わけですが、反対に、優しい人もいたわけですね。地獄に仏といったところでしょう。

     でも、ですよ...“追込宿”という所は、旅慣れている芭蕉と曽良にとっても、よほどひ

  どい所だったようですね。尿前の関では...“蚤虱馬の尿する枕もと”...と詠み、そうし

  た封人の家も風流である、俳句に詠んでいるわけです。

     旅人ですから、雨露をしのぐだけなのに...1泊もしたくない...というような宿という

  のもあったのでしょうか...ゴロマキがいたり、ひどく不潔そうだったり、下品だったり。う

  ーん...何となく、分かるような、分からないような。

    あ...でも...そんな“追込宿”が、確かにあったわけですよね。芭蕉と曽良がウソを

  つくわけもありません...」

 

<7月3日(新暦 8月17日)・・・快晴越後路     

  三日 快晴。新潟を立。馬高く、無用之由、源七指図に而歩行す。 申の下刻、

弥彦に着す。宿取て、明神へ参詣。

 

  「3日 快晴...

    新潟を出発...馬代が高く、無用の由(よし)...源七の助言を入れ、徒歩で行くことに

  したわけです。ふふ、倹約したわけですよね。懐具合が分かります。ええと...そして、

  の下刻/5時頃には、弥彦に到着しました。宿を取ってから、弥彦神社に参詣に行ったと

  記しています...」

 

<7月4日(新暦 8月18日)・・・快晴。風/三日同風也越後路      日本海 

  四日 快晴。風、三日同風也。辰の上刻、弥彦を立。 弘智法印像為拝。峠より

右へ半道計行。谷の内、森有、堂有、像有。二三町行て、最正寺と云所をのづみ

と云浜へ出て、十四、五丁、寺泊の方へ来りて左の谷間を通りて、国上へ行道有。

荒井と云、塩浜より壱り計有。寺泊の方よりは 、わたべと云所へ出て行也。寺泊り

の後也。壱り有。同晩、申の上刻、出雲崎に着、宿す。夜中、雨強降。

 

   「4日 快晴...風...三日間、同じような風である...

    辰の上刻/午前8時頃、弥彦を出発する...弘智法印像を参拝する。峠より右へ、半

  道計(?)行く。谷の中に、森が有り、お堂が有り、その中に像があった。2〜3町行って、  

  最正寺という所を、のづみという浜へ出て...14、5丁...寺泊の方へ来て、左の谷間

  を通って、国上へ行く道があった。荒井という塩浜より1里の距離がある...?...

    寺泊の方よりは、わたべという所へ出て行った。寺泊の後ろなり...?...1里あり。

  うーん...分かりにくいですよね。でも、この辺りの地形は複雑ではないですよね。ともか

  く、その辺りを歩いたようです。その晩、申の上刻/午後3時半ごろ、出雲崎に到着し、宿

  をとった。夜中、雨が激しく降ったようです。  

     ええと...この出雲崎は...佐渡・金山の陸揚げ港となっていました。それから、良  

  寛・禅師(りょうかん・ぜんじ/1758〜1831: 江戸末期の禅僧 )の生誕地ですね。芭蕉よりも百年

  ほど後の、曹洞宗の禅僧です...」

 

<7月5日(新暦 8月19日)・・・朝迄雨。辰ノ上刻止越後路>  

  五日 朝迄雨降る。辰の上刻止。出雲崎を立。間もなく雨降る。至柏崎に、天や

弥惣兵衛へ弥三良状届、宿など云付るといへども、不快して出づ。道迄両度人走

て止、不止して出。小雨折々降る。申の下尅、至鉢崎。宿たわらや六郎兵衛。

 

  「5日 朝まで雨が降っていた。辰の上刻/午前8時頃、雨がやんだ...

    出雲崎を出発する。間もなく、また雨が降り出した。ええと...ここはからは面白いの

  で、ちょっと詳しく考察してみましょう...

    出雲崎を出た芭蕉と曽良は、柏崎に向かったわけですね。ここは約6里(24キロ)ほど

  の、楽な道程のはずですした。ところが、柏崎に到着して、宿のことでトラブルです。

    ええ...この地には...大庄屋/豪商/・・・俳人・・・/天屋弥惣兵衛という者がいま

  した。芭蕉は出羽/象潟で一緒になった、低耳(ていじ)から添状をもらっていました。柏崎

  ではこれで大庄屋/天屋弥惣兵衛方に宿を頼むつもりでいました。

    紹介した低耳は、美濃(岐阜県)の商人/・・・俳人です。酒田や象潟には度々来ていて

  いたようです。越後路/北陸道の宿は、ほとんどがこの低耳の紹介だったようです。芭蕉

  も謝意を込め、象潟ではこの低耳の句を取り上げ、入れているようです。そして、象潟か

  ら、酒田まで一緒に来たのでしょうか...その辺りの『曽良日記』は、読んでいないので、

  申し訳ございません...

    さて、ところが...柏崎/天屋弥惣兵衛の対応が悪く...芭蕉は、“不快して出づ ”、

  ということになってしまったようです。そもそも、そんなことのないように、紹介状を書いても

  らったわけですよね...それにしても、いったいどんな対応をして、芭蕉を怒らせたので

  しょうか...

 

    “ほう...お前さんが、江戸の芭蕉とかいう...俳諧師の乞食坊主かい...?”

 

     ...とでも言ったのでしょうか。ともかく、このぐらいのことを言わなければ、初対面で

  こんな悶着にはならないわけですよね。うーん...世の中には、ビックリする人もいるも

  のです。自分も俳句をやり...新しい蕉風が何だ、芭蕉がどうした...という気概もあっ

  たのでしょうか。でも、気品がないですよね。

    井の中の蛙(かわず)大海を知らず...で、地元を背景に、チョイといじめてやれ、とでも

  思ったのでしょうかか...ホホ...これでは、風交・風雅も、たまったものではありません

  よね。うーん...本人も、まさかこの一事が、紀行文で日本文学史に残るとは、想像もし

  ていなかったことでしょう。

     ええと...“道迄両度人走て止、不止して出”...とありますから。2人の家人が道まで

  走って来て止めたのですが、芭蕉は相手にせず、出て行しまった、ということになるよう

  す。芭蕉も突っ張ったわけですね...禅的境涯を深めた芭蕉翁も、下駄の鼻緒が切れて

  しまいました。面白い風景ですよね。

    うーん...そう言えば、7月2日もトラブルでした。2日の件は...村上の喜兵方より

  の、大庄屋/七良兵宛の添状が...愚状になってしまったということでした。同じようなト

  ラブルがあったわけですね。

    越後路では、芭蕉の評判は、それほどでもなかったのでしょうか。出羽/酒田のように

  は、古き俳諧(/談林派)の種が蒔かれておらず、文化も遅れていたのでしょうか。芭蕉の

  情報は、その筋では、相当に飛び交っていたと思うのですが...

    それとも、『奥の細道』は150日に及ぶ大旅行ですから、不運が重なるということもあり

  ますよね。もちろん越後路でも、親切な人々や、蕉風/新風の教祖/芭蕉を、歓迎する

  人々も、大勢いたわけですが...

    ええと...結局...この日は当てにしていた宿がトラブルとなり...次の宿場/鉢崎

  まで、十里(40キロ)の道程を歩くことになりました。芭蕉翁も、小雨のなか、曽良と愚痴の

  1つも交えながら、申の下尅/午後5時頃、鉢崎に着きました。俵屋六郎兵衛方(/現在の

   柏崎市米山町に宿をとります。

    うーん...本当に、お気の毒なことでした...でも、芭蕉も旅のベテランです。こんな

  ことは幾度となく経験して来ていることでしょう。そして、これも旅の味わいですよね。こう

  した辛いことがあって、人の親切が身に染み、また旅を愛するようにもなったわけです。

    そこが、いわゆる大名行列の旅とは、違うところでしょう。芭蕉はこうした旅を、誰よりも

  愛していたわけですね。そして、生涯、旅を住処(すみか)とていたわけです...」

 

<7月6日(新暦 8月20日)・・・雨晴越後路     

  六日 雨晴。鉢崎を昼時、黒井よりすぐに浜を通て、今町へ渡す。聴信寺へ弥

三状届。忌中の由にて強て不止出。石井善次良聞て人を走す。不帰。 及再三、

折節雨降出る故、幸と帰る。宿、古川市左衛門方を云付る。夜に至て、各来る。

発句有。

 

 6日 雨のち晴...

    鉢崎を昼時に出発し、黒井よりすぐに浜を歩いて、今町/直江津へ到着する。ここは

  距離的に近かったわけですね。聴信寺に、昨日と同じ弥三/弥三郎(良)/低耳(ていじ)

  の添状を届ける。しかし、忌中と言っていい顔をしない。うーん...また、ですか。これは

  柏崎/大庄屋/天屋弥惣兵衛と、グルなのでしょうか。そう言えば、近いですよね。

     ここでも、芭蕉は取って返します。すると、石井善次郎という者が聞きつけ、人を走らせ

  て追ってきた。しかし、戻らずにいた、とあります。ホホ...芭蕉も、だいぶヘソが曲がっ

  て来ているようです。ところが、再三呼びに来て、押し問答をしていると...折しも、雨が

  降り出した。それでこれ幸いと戻ることにした、とあります。今度は、うまく決着しました。

    宿は、古川市左衛門方を言い付ける...とあります。まだ機嫌が悪いようですね。そ

  の夜、少し機嫌を直し、聴信寺で句会を催します。この時に詠んだ句が...

 

          文月や六日も常の夜には似ず    (芭蕉)

 

    ...うーん...さすがに、芭蕉翁というところでしょう。機嫌が悪かろうが、句の方は心

  が冴えわたり、凛として詠み上げています...」

 

<7月7日(新暦 8月21日)・・・雨不止越後路     

  七日 雨不止故、見合中に、聴信寺へ被招。再三辞す。強招くに及暮。 昼、少

之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招て俳有て、宿。夜中、風雨甚。

 

  「7日...

    雨降り続いているので、出発を見合わせていると、聴信寺から迎えが来た。再三辞退

  した。それでも強く招かれているうちに、夕方になった。ゴチャゴチャしていますよね。昼

  間、少しの間、雨がやんだ。その夜、佐藤元仙に招かれて句会を催し、そこに宿泊する。

  夜中に、風雨が強くなった。

    うーん...聴信寺には、まだ根に持っているようです。ところで、佐藤元仙というのは、

  何者でしょうか。地元の俳人らしいのですが、名前からして武士なのでしょうか。いずれに

  しても、生活にゆとりのある、地元の有力者ですよね。

    さて...この句会の発句が、『奥の細道』の絶唱の1つとされる、次の句です...

 

         荒海や佐渡によこたふ天河 (あまのがわ)    (芭蕉)

 

    ...この句については、後で考察しますが...この夜/芭蕉が滞在していた直江津  

  は、朝から雨とのことです。雨は夜になっても止まなかったようですよ。つまり、この夜、芭

  蕉は天の川を見ていないわけです...とすれば、それ以前に作ったものということになり

  ます。どのあたりで作ったのでしょうか...」

 

<7月8日(新暦 8月22日)・・・雨止越後路     

  八日 雨止。欲立。強て止て喜衛門饗す。饗畢、立。未の下刻、至高田。細川

春庵より人遣して迎、連て来る。春庵へ不寄して、先、池田六左衛門を尋。客有。

寺をかり、休む。又、春庵より状来る。頓 而尋。発句有。俳初る。宿六左衛門、子

甚左衛門を遣す。謁す。

 

  「8日 雨が止んだ...

    出発したかった。が、喜衛門がどうしてもと止め、接待に及んだ。それが終わって出発

  した。(ひつじ)の下刻/午後3時過ぎ頃、高田(上越市)についた。細川春庵より人を遣

  (つかわ)しての迎えがあり、連て来た...この春庵は医師だったようですね。

    でも...春庵方へ寄らずに、先に池田六左衛門を尋ることにした。ここでは、客があっ

  た。それで、寺をかりて休んだ。

     また、春庵より招待状が来た。それで、今度はすぐに訪問した。発句有り。俳初る...

  ですから、句会を始めたようです。

    そのうちに、六左衛門が、子息の甚左衛門を使いによこした。それで、謁(えっ)す、とあ

  ります。“謁する”とは、貴人や目上の人に会うことを言います。つまり、池田六左衛門とは

  そういう人物であり、俳句にも造詣が深かったのでしょう。芭蕉も先に挨拶するように、気

  を使っているわけですね。高田藩の重職の人でしょうか...」

 

<7月9日(新暦 8月23日)・・・折々小雨す越後路   

  九日 折々小雨す。俳、歌仙終。

  「9日 折々小雨が降った...歌仙があったようですね」


 
<7月10日
(新暦 8月24日)
・・・折々小雨越後路   

  十日 折々小雨。中桐甚四良へ被招、歌仙一折有。夜に入て帰。夕方より晴。

  10日 折々小雨...中桐甚四良方へ招かれ歌仙あり。夜になって帰る。夕方より晴れ

  たようです



<7月11日
(新暦 8月25日)
・・・快晴。猛暑越後路   

  十一日 快晴。暑甚し。巳の下尅、高田を立。五智・居多を拝。名立は状不届。

直に能生へ通、暮て着。玉や五良兵衛方に宿。月晴。



  「11日 快晴。暑さ甚(はなはだ)しい...

    (み)の下尅午前11時頃、高田を出発する...五智国分寺と、居多(こた)神社を

  参拝する。名立(名立町・・・上越市に編入)には書状が不通であったので、そのまま能生

   う: 新潟県/西頸城郡/能生町
へ行く。暮れて、能生に着く。玉屋五郎左衛門方に宿をとる。

  月晴れの夜である...」




<7月12日(新暦 8月26日)・・・天気快晴越後路   

  十二日 天気快晴。能生を立。早川にて翁つまづかれて衣類濡、川原暫干す。

午の尅、糸魚川着、荒や町、左五左衛門に休む。大聖寺そせつ師言伝有。

母義、無事に下着、此地平安の由。申の中尅、市振に着、宿。

  
    「12日天気快晴...

    能生を出発する...早川という川で、翁/芭蕉はつまづいて衣類を濡らしてしまった。

  ホホ...つまり、川を渡る時、転んでしまったわけですね。川原でしばらく衣類を干し、暇

  をつぶしたようです。

    うーん...当時の、旅の情緒が偲ばれます。真夏の快晴のもとで、水浴でもしたので

  しょうか...水がきれいで、魚なども見えたでしょう。のどかな風景ですね。あ、川の水は

  冷たいそうですよ。

    ボス(岡田)が少年時代を過ごしたのは、この糸魚川の位置から、妙高山の裏側になり

  ます。この辺りの夏の川原のことは、よく知っているそうです。子供はその川原で泳ぎ、ヤ

  スでカジカを突き、日に焼けた川原の石の上に寝て、体を温めたそうです。

     ええ...午の尅(うまのこく)昼頃ですね...芭蕉と曽良は、糸魚川に着きました。新

  屋町の左五左衛門方で休憩をとった...とあります。

    “大聖寺ソセツ師言伝有”とは...大聖寺のソセツ師という僧に、伝言を預かって来た

  ということでしょう。その内容でしょうか...“母義、無事に下着、此地平安の由”...との

  ことです。携帯電話のない時代ですから、江戸/深川あたりから糸魚川まで、伝言を運ん

  だのでしょう。当時の日本は、はるかな空の下で、非常に広かったわけですよね。

     ええと...申(さる)の中尅/午後5時頃...市振に到着、宿をとったとあります。
うー

  ん...申の上尅/申の中尅/申の下尅と出てきますが...当時の時間は大雑把で、

  浅学な私には、その感覚の違いというものがよく分かりません。申し訳ございません。

    ちなみに...江戸時代の時間/時刻の呼び方は...一刻
(2時間)を、上・中・下に3

  等分していました。それが上刻・ 中刻・下刻となるわけです。でも、干支(えと: 12支)を使っ

  た時刻そのものが、かなり幅があるようですよね。

    私は、それで、分からなくなってしまうのですが...曽良は、干支と上刻・ 中刻・下刻を

  使い分けているわけです。ということは、かなり正確なのでしょう。でも、そもそも旅の途上

  で、時計もない時代ですから、どうして正確な時間が言えるのでしょうか。やはり、かなり

  大雑把だったのではないでしょうか...?

    あ...参考までに、干支(えと/十二支
(じゅうにし)は、“子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・

  申・酉・戌・亥”ですね。『曽良日記』に出て来る、“巳の刻・・・9時〜11時”、“午の刻・・・

  11時〜13時”、“未の刻・・・13時〜15時”、“申の刻・・・15時〜17時”、“酉の刻・・・

  17時〜19時”です。

    研究の余地ありですね...でも、この問題はここまでとしましょう。先へ進みます。ええ

  と、
この市振(新潟県/西頚城郡/青海町・・・親不知の南2.5km。北陸線市振駅周辺に相当)では、桔

  梗屋(ききょうや)という旅籠
(はたご)に宿泊したと、当地では言っています。でも、不明という

  ことのようです。

    
宿舎の記述が『曾良日記』にはなく...ここでの、有名な“遊女の一件”も...後の虚

  構であろうと思われる...との研
究者の意見もあるようです。

    あ...ええと...意見は色々あるのだと思います。でも、芭蕉の研究を始めたばかり

  の私としては...私見は差し控えたいと思います。したがって、ここではその遊女の話は

  割愛します。別の機会に譲りたいと思います...」


<7月13日(新暦 8月27日)・・・虹立/越後路 〜 越中路  

  十三日 市振立。虹立。玉木村、市振より十四五丁有。中・後の堺、川有。渡て

越中の方、堺村と云。加賀の番所有。出手形入の由。泊に到て越中の名所少々

覚者有。入善に至て馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。雨つヾく時は山の方

へ廻べし。橋有。壱り半の廻り坂有。昼過、雨為降晴。申の下尅、滑河に着。暑気

甚し。



  「13日...市振を出発した。虹が立っていた...

   
玉木村は、市振より14、5丁ほどあった。“中・後の堺、川有”...とは、越中と越後の

  堺には、川があったということですね。つまり...市振を出発した芭蕉と曽良は、国境/

  藩境の川/境川を渡って越後から越中へ入っています。ここは高田藩と加賀藩/支藩の

  の富山藩との、藩境にもなっていたわけですね。現在も、新潟県と富山県の県境になって

  いるようです。

    ともかく...川を渡って、越中の方は堺村ということですね。ここに、加賀藩の番所が

  あったようです。出入には手形が必要とのことである。泊に至って、越中の名所で少々聞

  き及んでいる所もあるということでしょうか...?

     “入善に至て馬なし”...とは、芭蕉は相当にバテてしまい、馬を使おうとしたのでしょ

  う。でも、馬はなく、人を雇って荷を持せ、黒部川を越えたようです...雨つづく時は山

  方へ廻べし、ということですね...そして、橋有り...1里半の廻り坂有りですか...

    ええと...昼過になって、雨が降って晴れる...申の下尅/午後5時頃、滑河(滑川)

  に到着。宿をとるわけですよね...最後に...暑気甚
(はなはだ)し...とあります。

    よほど暑い1日だったようです。でも、二人はこの猛暑の中を、黒部四十八ヶ瀬といわ

  れる数多くの川を越え、夕方、滑川に宿をとり...1日10里/40キロの行程をこなして

  いるわけです。大した健脚ですよね。

    昔の旅というのは、ただ風光を愛(め)で、俳句を作り、ブラブラと歩いていたのではな

  いわけです。相当な健脚が必要だったようですね。このぐらいの健脚であれば、月山・湯

  殿山の修験の山も、二人にとっては、それほどのことではなかったのでしょう。

    現在は、山で何かあるとすぐにヘリコプターを呼ぶようですが、当時は、覚悟というもの

  があったわけですね。そこで、生涯を終える覚悟ということです...」



<7月14日
(新暦 8月28日)・・・快晴。暑甚し/越中路>   


  十四日 快晴。暑甚し。富山かヽらずして(滑川一り程来、渡てとやまへ別)、三

り、東石瀬野(渡し有。大川)。四り半、はう生子(渡有。甚大川也。半里計)。氷見

へ欲行、不往。高岡へ出る。二り也。なご・二上山・いはせの等を見る。高岡に申

の上刻着て宿。翁、気色不勝。 暑極て甚。不快同然。

  
  「14日...快晴。暑さ甚(はなはだ)しい...

    滑川を出発し...富山には行かず、滑川から1里ほど来て...川を渡り、富山へ

  別の道になる、ということでしょうか。3里(約12キロ)で、東石瀬野...ここも大川で、渡し

   (舟の着く渡し場)があった...ということでしょう。

    4里半、はう生子(...とは何でしょうか?...渡しが有り。非常に大きな川である。半里計?)。氷

  見
へ行きたかったが、行くことができなかった。それで、高岡へ出た。2里であった。なご・

  二上山・いはせの等を見た...とあります。

    うーん...この辺りの地理がよく分からないのですが...ともかく、常願寺川・神通川

  ・庄川を渡り、高岡へと旅をしたようです。高岡には、申の上刻/4時ごろ着いて、宿をと

  ったようですね。

    最後に...翁/芭蕉は...疲労困憊で、気分がすぐれなかった。尋常な暑さではな

  かった。翁は不快同然であった...と記しています。ともかく、大変な一日だったようです

  ね...」


<7月15日
(新暦 8月29日)・・・快晴/越中路     

  十五日 快晴。高岡を立 。埴生八幡を拝す。源氏山、卯の花山也。くりからを見

て、未の中刻、金沢に着。 京や吉兵衛に宿かり、竹雀・一笑へ通ず、艮(即)刻、

竹雀・牧童同道にて来て談。一笑、去十二月六日死去の由。


  「15日 快晴...

    高岡を出発した...埴生護国八幡宮/小矢部市/源氏の武将・木曽義仲が戦勝祈願した神

   社)に参拝した。源氏山(/源氏ヶ峰の辺りでしょうか?)は、卯の花山なり...白い卯の花が

  いっぱいに咲いていたということでしょう。

    それから、倶梨伽羅峠(くりからとうげ: 富山県と石川県の境にある砺波山の峠)を見て...

   (ひつじ)の中刻/3時頃...金沢城下に入ったようです。何かと難儀の多かった越後路を

  超え、すでに越中に入っていたわけですが、いよいよ加賀・百万石の城下町に入ったわけ

  です。

    気分も一新...この日は浅野川近くの京屋吉兵衛方(森下町の酒屋//尾張町の旅籠とい

    史料もあるようです)に宿を借り...さっそく、一笑(小杉一笑: 通称/茶屋新七・・・元禄元年没/

   36歳)
ら加賀・蕉門
(/芭蕉の門下)の者達に連絡を入れたようです。ここには、気心の知れ

  た、加賀城下の蕉風/蕉門の弟子たちがいたわけです。まずは、一安心といったところ

  です。

    即刻...首を長くして待っていた...竹雀と牧童(研屋彦三郎: 研刀業として加賀藩の御用を

   勤める。同業の弟/研屋源四郎/立花北枝は蕉門十哲の一人)
が一緒にやってきた。この時、初め

  て、一笑が、去年の12月6日に、死去していることを知った...とあります...」


           日本海         


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うーん...

  『奥の細道』の...越後路での難儀は...有名ですよね。でも、何故たったの

でしょうか。『曽良日記』でも考察しましたが、単なる偶然とは思えませんよね。

流・風雅とは対極/表裏にある...人間社会が必然的に持つ、(さが: 宿命)/業

(ごう: 理性によって制御できない心の働き)なのでしょうか。

  “みすぼらしい恰好だった”ので、“宿を断られた”とか...の意見もありますが、

でも、それなりの人物/有力者からの、紹介状/添状もあったわけですよね。そ

れに...“俳諧宗匠・・・江戸の新風/蕉風の教祖・・・松尾芭蕉”...が巡回して

来ることは、その筋の人は
様々な情報から、だいぶ以前から分かっているわけで

すよね。


  そうしてみると...俳諧人/風交仲間のうちで...(ねた)み心/誹謗中傷/

地元意識/イジメ
とかが...あったのでしょうか。案外、そんな所正解
も知

れませんよね。 

  そして、当人たちの思いも及ばぬ...“日本の文学史に残る波紋”...を呼ん

だということでしょうか。軽い気持ちでやったことが、芭蕉変動指数が非常に高

く、
文学的なモニュメントになったかったということでしょう。

  ともかく...150日/600里徒歩旅行/風交の大行脚ですから...全てが

順調に行くわけではないと思います。越後路では、バイオリズム下降曲線を描

いたようですね。そういうことも、重なったのだと思います。

  うーん...でも芭蕉にとっては...そうした不愉快イジメで、難儀にあうのも

風雅
...金沢城下に入って蕉門の弟子たちとの再開を楽しむのが
倍加したとも

言えます。

  風雨の難儀も...文の不通も...土地の風物も...それら全てを含め、芭蕉

“風雅の妄執”の中に生き...続けていたわけです。 さあ、俳句の方を見

て行きましょうか...」


  <13・14>

  文月や六日も常の夜には似ず 
     (ふみづき)

  荒海や佐渡によこたふ天河   

『奥の細道』/越後路・越中路

  元禄2年・・・6月25日 〜 7月15日

   (1689年・・・新暦 8月10日 〜 8月29日/・・・20日間・・・)

《  酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のお

もひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞。鼠の

関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶ

りの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病

おこりて事をしるさず...     》

                   ...『奥の細道』より...

 

ええ...

  これは『曽良日記』ではなく、『奥の細道』の原文の方です。紀行文も句

も、非常に少ないわけですが...だいたいこういうことが書いてあります。

  酒田では、名残(なごり)を惜しんで長居をしてしまったが、ようやく北陸道

の雲を望むこととなった。つまり、再び、旅路についたということです。蕉風

の教祖らしい、多少気取った、屹然(きつぜん: 孤高を保ち、周囲に屈しないさま)

とした旅立ちです。でも、その越後路ではイジメにあうわけですね。

 それから...紀行文では...加賀の府(前田家/加賀百万石/金沢城下)

で、130里(520キロ)と聞けば、その旅路のはるけきこと万感胸に迫る、と

記しています。

  鼠の関/鼠ヶ関(ねずがせき: 山形県/鶴岡市に位置。新潟県との県境)...と

いうのは、関所です。現在ここは、全国的にも珍しい、市街地の中に引か

れている、山形県と新潟県の県境があるらしいですよ。大概は、川とか山

の峰とかになるわけですが...

  ちなみに、この鼠ヶ関は...当時は、白河関(しらかわのせき)と勿来関(な

こそのせき)とともに“奥羽三関”と呼ばれ、東北地方の玄関口の1つとなって

いたようです。

  芭蕉は、ここを越えれば...“越後の地に歩行を改(あらため)て、越中の

国一ぶり市振/いちぶり)の関に到る”...と記しています。つまり、出羽の

国から鼠ヶ関を超えて越後の国に入り...市振の関からは、越後の国か

ら越中の国に入るということですね。

  少し調べてみると...市振の関は、親不知子不知(おやしらずこしらず)

難所が東にあり...北陸道における越中/加賀藩と、越後/高田藩との

国境の要衝となっています。

  市振の関で一泊していますが...ここはよく話題になる“遊女の句”の

詠まれた地です。前にも言ったように、虚構という説もあるわけですが、桔

梗屋という宿で詠まれたという、俳句の方だけ紹介しておきましょうか...

 

   一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月     (芭蕉)

       
            <与謝蕪村の俳画>

 

  ええと、紀行文では...この間九日...暑さと雨の難に精神は疲労し、

加えて体調を崩し、ために、記すべき記録を持たない、と記しています。

  9日間とは、いつからいつまでを指しているのかは分かりませんが、ど

のような様子だったかは...『曽良日記』で紹介した通りです...」

 

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「さあ...それでは、俳句の方を見てみましょうか。越後路では、句も少な

いようですね...

 

    文月や六日も常の夜には似ず   (芭蕉)

 

  この句が...いつ、何処で、詠まれたかは、『曽良日記』で紹介してい

ます。直江津へ到着するも、聴信寺は紹介状があったにもかかわらず、忌

中と言って、いい顔をしなかったわけですね。

  柏崎の前日と、2日にわたって気分を害し、さすがの芭蕉もすっかり気

が滅入っていたと思われます。そしてその夜、聴信寺において、芭蕉のこ

の句を発句とし、句会が始まったわけです。発句というのは、ご存知と思い

ますが、連歌・連句の第1句のことですね。

  句意は...初秋の7月となった...明日は、牽牛けんぎゅう)・織しょ

くじょの2つの星が、1年ぶりに会う夜だ。そう思うと、前日/6日の夜も、

なんとなくワクワクし、華やいだ気分になることだ...と詠んでいます。

  前にも言いましたが、さすがに芭蕉翁です。機嫌が悪くても、句の方は

心が冴えわたり、凛とした心境で詠み上げています。

 

    荒海や佐渡によこたふ天河    (芭蕉)

 

  さて、この句は...その翌日の夜/7月7日/七夕(たなばた)の夜、佐

藤元仙に招かれて、句会を催した時、発句として詠まれています。

  句意は...越後の海には荒波が立ち騒いでいる。彼方には佐渡ヶ島

がある。その上に天の川がかかり、雄大な景色である...今夜は、この

天の川の両側にある牽牛けんぎゅう)・織女しょくじょの星が、1年ぶりに

う夜であるなあ...と詠んでいます。

  佐渡は、古くからの流刑地であり...順徳院(じゅんとくいん: 順徳天皇/後

鳥羽上皇の第3皇子・・・承久の乱で敗れて佐渡に流される。21年後に、佐渡で没す)

日蓮(鎌倉時代の僧)、日野資朝(ひのすけとも:鎌倉時代・後期の公卿・・・後醍醐天皇

の側近 )などが、この島に流されている...

  この七夕の夜には...牽牛と織女1年に1度出会うわけだが...異

郷の島にある罪びとは、この夜、何を思ったことだろうか...と芭蕉は、想

像を膨らませていたのでしょうか。

  ええと...小林一茶の句に、この芭蕉の句を引用した、次の句がありま

す...

 

    木曽山へ流れ込みけり天の川    (一茶)

 

  ...うーん...一茶は100年ほど後に、木曽の山中で、この句を詠ん

でいるわけですよね。俳句だけを見れば、一茶の句には“動き”があり、よ

り壮大な情景をかもしだします。

  でも...佐渡という流刑の島/金山の島は...特別な島です。そして、

七夕の夜というのも、1年に1度の特別な夜ですよね。そこにはストーリイ

があり、ロマンがあるわけです...つまり全く別の意図で、壮大な天の川

を詠みこんでいます...」

 

  <15>

  早稲の香や分け入る右は有磯海        

       (わせ)                                   (ありそうみ)

 

「ここは越中路...前田家/加賀藩の領内になるわけです...

  『曽良日記』によれば...7月15日...倶利伽羅峠(くりからとうげ: 富山

藩10万石/加賀藩の支藩と、加賀藩の国境)のあたりで、眼下はるかに富山湾を

眺望...とあります。それから、この峠を下って行ったわけですね。そして

この句を詠んだようです。

  句意は...早生の香の漂う一面の稲田を分け入って行く右手は、紺碧

(こんぺき)の有磯海(ありそうみ)...と詠んでいます。有磯海は、現在の富山

湾/伏木(ふしき)港付近の海...富山県/高岡市/伏木から、氷見(ひ

み)市までの海岸の古称だそうです。

  ちなみに...有磯海(ありそうみ)/荒磯海(あらいそうみ)というのは...北

の枕詞(まくらことば)だそうです。なんでもこれは和歌の伝承の過程で生

まれ、歌人の幻想の中で生まれ育った、名所/風景なのだそうです。

  うーん...浅学な私としては...一応、聞き留めておきましょう。現在、

句で精一杯で、和歌や短歌の方にまでは手が回りません。ええと、この

は、これで終わります...ご静聴、ありがとうございました...」