Menu文 芸短 歌万葉集持統朝

  〔巻1=原・万葉集/天武・ 持統朝

        持統朝/治世白鳳文化     
 

                   

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    女流歌人: 里中 響子

  INDEX                           wpe50.jpg (22333 バイト)house5.114.2.jpg (1340 バイト)

No.1 〔1〕 天武天皇の崩御・・・持統天皇の即位 2012. 4.12
No.2 【巻2-(159)】  持統天皇  天皇のせる時、大后の御作りたまふ 歌一首        2012. 4.12
No.3 【巻2-(160、161)】  持統天皇       太上天皇の御製りたまふ歌二首 2012. 4.12
No.4 〔2〕 持統朝の始まり 2012. 4.21
No.5    <大津皇子の悲劇> 2012. 4.21
                               ****/ ・・・・・ 推敲完了 2012. 5.11
No.6 〔3〕 持統朝下の白鳳文化 2012. 6. 2
No.7 【巻1-(28)  持統天皇    春過ぎて 夏来るらし・・・   2012. 6. 2
No.8 〔4〕 持統天皇の治世 2012. 6. 2

 

    参考文献

                      Wikipedia  ・・・ 万葉集 (・・・インターネット・サイト・・・)

                      やまとうた 和歌      (・・・インターネット・サイト・・・)   その他

〔1〕 天武天皇の崩御・・・持統天皇の即位         

                      

 

「さあ...」響子が言った。「“天武天皇”は...

  〔新しい国造り・・・国家の原型/線引き〕...の想いも半ばで、崩御されます。強烈なカリス

マ性を持つ巨星が...突如、歴史の波間に沈んで行きます。人々の悲しみは、いかばかりであ

ったでしょうか。

  また...皇后/鸕野讃良(うのさらら)動揺...そして、悲しみはいかばかりであったでしょう

か。そうした巨大な悲しみの中...〔国家体制〕の手綱(たづな)を引き締め...皇后/鸕野讃良

が、“第41代/持統天皇”として即位します。

 

   くり返しますが...天武・15年5月24日...“天武天皇”御病気になられました。仏教

効験(こうけん/効能、効果)によって、快癒を願ったのですが、効果はむなしいものでした。

   天武・15年7月15日には...政治皇后皇太子にゆだねています。それから、5日後/7

月20日に...元号朱鳥と変えています。引き続き天武年を使いますが...天武・15年9月

11日に...“第40代/天武天皇”は...崩御されます。

  あ...天武・15年9月9日...崩御...という資料もありますね。ともかく、病床でお過

ごしになり...秋口には、旅立たれた御様子です...」

「ふーん...」支折が、細い指を口に当てた。「...“黄泉(よみ/死後、その魂が行き着くとされている、地下

の世界)の国”への旅立ちですか...」

「そうですね...」響子が言った。「誰もが行き着く世界...ということですね...」

  マチコが、コクリとうなづいた。




                                            【巻2-(159)】   〔長 歌〕・・・【挽 歌】 

                     天皇の(かむあがりま)せる時、大后の御作(つく)りたまふ 歌一首

*************************************************************

          

 

 やすみしし 我が大君の 夕されば () したまふらし 

     明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)

         今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも () したまはまし 

    その山を 振り() け見つつ 夕されば あやに悲しみ 

         明け来れば うらさび暮らし 荒たへの 衣の袖は ()る時もなし

 

【現代語訳/大意・・・巻2-(159)】        


我が大君/“天武天皇”の御霊(みたま)は...今も、夜になればご覧になっていらっしゃるのでしょう...

          そして、朝が明ければ...お尋ねになっておられるのでしょう...

                “神岳の山はもう紅葉したか?”と...

      今日も...大君が生きておいでなら...そのようにお尋ねになられたことでしょうに...

                そして、明日も...ご覧になられたことでしょうに...

             残された私は...その山を仰ぎ見ながら...

                    夜になれば無性に悲しみ...朝が明ければ、また心寂しく...

                  粗布で織った喪服の袖は...乾く暇(いとま)もございません...

 

*************************************************************

            


「人を...」響子が、両手を固く結んだ。「...深く愛し...
その人と、死別する喪失感は...それが

分かっていても、耐えがたいほどの空虚感に、身の置き場も無かったことでしょう...ましてや、稀代

強烈なカリスマを突然喪失したわけです。その巨大な悲しみ、空虚感が、この歌に深く詠まれ...

長い歴史の彼方から、私たちの心に響いてきます。
 
  ええと...
“やすみしし”は...大君にかかる枕詞ですね。あと、“神岳(かみをか)は...不明という

ことですが、雷の丘(いかずちのおか)だとも、言うようです。この丘は、前にも出てきました...」

                                                             <雷の丘・・・・・詳しくはこちらへどうぞ> 

 

 

                                     【巻-(160、161)】  〔短 歌〕・・・【挽 歌】

                  天皇の(かむあがりま)せる時、太上天皇の御製(つく)りたまふ歌二首

*************************************************************

          

 


  燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 

                入ると言はずや 面智男雲(/読み方・意味・・・未詳)

 

 

 北山に たなびく雲の 青雲の 

                星離(さか)り行き 月も離(さか)りて

 

【現代語訳/大意・・・巻2-(160、161)】        


    燃える火も...取って、包んで...袋に入れることができると言いいます...

               人の魂だって...おそらく、取っておくことができるはずなのに...

 

   北山に...たなびく雲...その青雲が...

              星を離れてゆき...月からも離れて行って...

 

*************************************************************

              


「ええ...」響子が言った。
“面智男雲”は、訓義未詳と参考資料にはありました。また、“智”“知”

とする本もあるともあります。

  それから、“面智男雲”は...“も知るといはなくも”“あはなくもあやし”...などの読み方があるそ

うです。後は、研究が進むのを待つ、ということでしょうか。

  ともかく、皇后/鸕野讃良は...火を包んで袋に入れておくことができるように...“魂・・・鬼火/

狐火”を、大切にとっておきたいの...なすすべもなく、今は亡き大君/“天武天皇”に会うことがで

きない...嘆きを歌に詠んでいます。人を深く愛した者の、定めですね。

 

  もう一句の方の...“北山”というのは、原文では“向南山”だそうです。それから、“青雲”ですが、

雲はしばしば、死者の魂の暗喩になるのだそうです。つまり、ここでは“天武天皇”の御霊(みたま)という

ことですね。星や月は、この世に留まっている皇后や、皇子たちの暗喩となっているのでしょうか。

  彼らの元を、“青雲”は確実に離れ去って行きます。こんな風に、死者との別れが始まっていくわけで

すね。そして、やがて...“自分の心の中に・・・生きている”...と気づいて行くわけです」

「はい...」支折が深くうなき、顔を上げた。「ええと...

  【挽歌】(ばんか)というのは、初めて出てきましたよね。これは、“棺(ひつぎ)を曳(ひ)くときの歌”で、“死

者を悼(いた)み・・・哀傷を詠んでいる歌”です...3首すべてそうですね、」

「はい...」マチコが、コクリとうなづいた。

 

 

   〔2〕 持統朝の始まり             

            

 

“第41代/持統天皇”は...」響子が、両手を組み合わせた。「言うまでもなく... “天武天

皇”皇后/鸕野讚良(うののさらら、うののささら)です...」

「はい...」マチコが、うなづいた。

彼女は...

  “天武天皇”実兄/“天智天皇”皇女です...彼女の同母姉に、大田皇女(おおたひめみこ)

がいます。大田皇女鸕野讚良・皇女より先に、大海人皇子/“天武天皇”に嫁いでいたわけで

すね。大田皇女は、大海人皇子との間で2人の子供をもうけていますが、“天武天皇”即位前

早世となります。健在なら、彼女が皇后になった可能性が大きいわけです」

「うん、」マチコが言った。

もちろん、そういうわけで...

  大田皇女は...出家/吉野への都落ち(みやこおち)には、同行しなかったわけです。あ、すみま

せん。ここらあたりの、詳しい状況については、浅学のため現在研究中です。どの女官

同行したのかは、興味深いところです。

  ともかく...鸕野讚良・皇女は、吉野同行したことは間違いないようです。そして、吉野・脱

出/吉野・出兵の折には...美濃までは行かずに、桑名あたりに留まっていた様子ですが、ここ

らあたりも、さらに考察を深めてみようと思っています」

「うーん...」支折が言った。「多分、そうだと思うのですが...私の方も、確認を取ってありませ

ん」

「はい...」響子が微笑して、うなづいた。「それにしても...

  皇位移譲(/対等のものに譲る)といういうことでは...4人もの御自分の皇女を与えた実弟に対

しても、“意に添わなければ・・・首を落とす”...というほどのものなのでしょうか、」

「そこが、さあ...」マチコが、首をかしげた。「最も、理解に苦しむ所よね...」

「でも、いいですか...」支折が、マチコの方を見た。「その後...、

  今度は...大海人皇子が、<壬申の乱>を引き起こし...大友皇子(第39代/弘文天皇・・・1870

年に明治天皇により諡号・・・第39代天皇と承認められた)と、妃/十市皇女(大海人皇子と女性歌人/額田王(ぬかたの

おおきみ)との間の皇女)を追い詰めるわけです。そして、さらに、これから考察するわけですが、

讚良/“持統天皇”もまた...姉の忘れ形見/大津皇子を、自殺に追い詰めるわけです。これ

は、血の宿命と言えるのかも知れませんわ。それとも、時代的・宿命でしょうか...」

「うーん...」マチコが、口に手を当てた。「“持統天皇”も、同様ということですか...」

天皇地位というものは、非常に特別なものだったのでしょう...

  実弟であっても...また、姉の忘れ形見であっても...そうした“肉親の近しさを・・・はるかに

隔絶した高みに立脚していた”...ということかも知れません。つまり、天孫(てんそん)であり...

現人神(あらひとがみ)ということです。その感覚は、現代人の私たちにはよく分からないのかも知れ

ません」

「実際に...」マチコが言った。「“神”に近かったんだあ...」

「そうですね...」支折が、うつむいて言った。「それが、天皇地位だったのでしょう...」

「うーん...」

 

「ええ...」響子が、二人に顔を向けた。「いいですか...

  そこで...鸕野讚良・皇女の中では最も地位が高く...“天武天皇”即位の折、皇后

に立てられたということですね。もっとも、このあたりは、どのような経緯だったかは、よくは分りま

せん。

  鸕野讚良性格・能力...吉野・隠遁に同行した一途な情熱...吉野・出兵の日々の、同志

して報いも、あったのかも知れません。ともかく一夫多妻制の中で、彼女が皇后に立てられ、

後宮を抑えることになります」

  マチコが、うなづいた。

「それにしても...」響子が、バレッタ(髪留め)に手をあてた。「“持統天皇”評価は...

  人によって、大きく分かれるようです。それは、後で考察するとして、彼女“天武天皇”

近/ブレーンとしては、非常に優秀だったようですね。政治的なことにも、かなり関与していた様

子です」

「うん...」マチコが言った。

ええと...」響子が、口に指をあて、モニターを眺めた。「彼女は...

  “天武天皇”のようなカリスマ性はなかったわけですが...ブレーンとしては、切れ者で、優秀

だったのでしょう。そして、彼女が執政に当たって、何よりも欲しかったのは、“天武天皇”カリ

スマ性だったと思われます。吉野への行幸をくり返したのも、柿本人麻呂に一連の大君讃歌を詠

ませたのも、そうした意図が多分にあったと推察されます...」

女帝/女性天皇は...」支折が、ゆっくりと言った。「何人もいたわけですが...

  その場合、摂政(せっしょう/君主に代わって政治を執り行うこと。また、その人)がいるのが普通でした。“持統

天皇”のみが例外で...彼女は摂政は置かずに、自ら政務を執っていたようです。ただ、“天武

天皇”のような、真の天皇独裁ではなく...その即位期間の大部分で、高市皇子(たけちみこ/天

武天皇の長男/壬申の乱で全軍を任され、大活躍)太政大臣を務めています」

「その...」響子が言った。「太政大臣/高市皇子急逝(きゅうせい/急死)し...後継の天皇で、

再び紛糾したわけですね、」

「はい...」支折が、うなづいた。「結局...“文武天皇”で決着したわけです」

“持統天皇”の...意を汲んだ、わけですね?」

「そうですね...

  そして譲位した“持統天皇”は...最初の太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう・・・/上皇)にな

り...幼少の孫/“第42代/文武天皇(もんむてんのう)と並び座し...政務を執っています。

  ですから...やはり、相当な実力があったのでしょう。ただ、彼女に欠けていたものは、くり返

しますが、“天武天皇”カリスマ性だったようです。それが欠けていたがゆえに...“大津皇子

の悲劇”...も起こったのだと思います」

「うーん...」 マチコが言った。「鸕野讚良・皇女はさあ...

  クリントン大統領の、ヒラリー夫人のような感じだったのかしら...現在、アメリカ国務長官

の、」

「うーん...」支折が、首をひねった。「ちょっと違うわねえ...」

「ええと...」響子が、二人に微笑を送った。「いいですか...

  話を戻しますが...鸕野讚良・皇女大田皇女2人の子供のうち...1人は、大来皇

おおくひめみこ/大伯皇女とも書く/母の死亡時は7歳/伊勢神宮の初代斎王で...もう1人は、大津皇子(お

おつみこ/母の死亡時は5歳)です。2人は、母方の祖父/“天智天皇”に引き取られたようです」

「うん!」マチコが、まばたきした。

「ええと、こうした関係で......」支折が、モニターの方に目を流した。「まだ、話してないこと

があるので、述べておきますわ」

「あ、はい...」響子が、コクリとうなづいた。「お願いします」

 

ええ...」支折が、モニターに目を残しながら言った。「大田皇女鸕野讚良・皇女は、

智娘(おちいらつめ)といいます。

  彼女らにとって...母の父/=母方の祖父というのが...実は蘇我倉山田石川麻呂/

・・・蘇我石川麻呂/・・・石川麻呂...なのです。

  つまり...大化5年(649年)誣告(ぶこく/故意に、事実を偽って告げること)により...当時の中大兄皇

子/“後の天智天皇”に攻撃され...自害しているわけです。

  あ...蘇我倉山田石川麻呂について、もう少し詳しいデータがありますね。彼は、蘇我馬子

(そがうまこ/・・・敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るった。蘇我氏の全盛時代を築

いた人物)である、蘇我倉麻呂ですね...蘇我蝦夷(そがえみし/・・・乙巳の変で自害)伯父

蘇我入鹿(そがいるか/・・・乙巳の変で討たれる)従兄弟に当たります...」

「うーん...」マチコが言った。「つまり、彼女たちはさあ...

  大化の改新発端となった<乙巳の変(いっしのへんにおいて...標的なった側の豪族/

蘇我氏の、直系なわけなんだあ...」

「そうですね...」支折が言った。「多少、話が曲折しますが、その蘇我石川麻呂だというこ

とですわ。大田皇女鸕野讚良・皇女母/遠智娘(おちいらつめ)は...

  大化の改新というのは...その蘇我氏らの“豪族中心の政治”から、“天皇中心の政治”

の、転換のためのクーデターであり、変革だったのです。“天智天皇”に続く、“天武天皇”皇親

政治というのも、こうした延長線上にあったわけですね...

  あ、大化の改新は...もう一度説明すると...孝徳天皇・2年(大化2年/646年)に発布された

“改新の詔(みことのり)に基づく一連の政治的改革です。中大兄皇子らが蘇我入鹿暗殺蘇我

氏本宗家を滅ぼした<乙巳の変の後に行われたとされます。この暗殺事件も含めて、大化

の改新と呼ぶこともあるわけですね。

  この時は...天皇の宮殿(首都)を、奈良盆地/飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)遷都し、

蘇我氏など“飛鳥の豪族を中心とした政治”から離脱し、“天皇を中心とした政治”変革したと

されます。

  それから、さらに後のことになりますが...神亀6年(729年/奈良時代の初期)2月<長屋王の

変>...親政治は終わりを告げ、藤原氏が勢力が拡大して行きます。この年に、“第45代

/聖武天皇(しょうむてんのう)は、藤原不比等皇后(光明皇后)とするわけです...」

「うん...」マチコが、うなづいた。「藤原氏かあ...」

 

            


「ええ...」支折が言った。「話を戻しますが...

  <乙巳の変で...中大兄皇子中臣鎌足と共謀し...蘇我入鹿誅殺(ちゅうさつ/罪をとが

めて殺すこと)をはかった際...その暗殺の合図となる朝鮮使上表文大極殿で読み上げてい

たのが...大田皇女鸕野讚良・皇女母方祖父/蘇我石川麻呂だったのです...」

「つまり...」マチコが言った。「 <乙巳の変では、中大兄皇子の側だったわけかあ...」

「そうです...」支折が、うなづいた。「仲間に、引き入れられていたのです...

  その時...なかなか暗殺が実行されなかったので、石川麻呂上表文を読み上げながら、

震えて、冷や汗をかいたと言われます。そして、そのことを不審に思った蘇我入鹿に、“なぜ震え

ているのか”と問われ...“帝の御前だからです”と答えたようです」

「うん...」マチコが、うなづいて笑った。

「この時...

  標的の1人とも思われる、古人大兄皇(ふるひとおおえみこ/舒明天皇の第1皇子/母は蘇我馬子の娘

蘇我法提郎女(そがのほほてのいらつめ)/・・・中大兄皇子は異母弟になる)は、ここを脱出して私宮に逃げ帰り、

“韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い”韓人殺鞍作臣 吾心痛矣・・・歴史書の原文では、こう記されているようです

と言ったそうです」

「うん、」

ええと...

  その後...蘇我入鹿父/蘇我蝦夷も...自邸に火をつけて自害し、蘇我本家は滅び、

人大兄皇子は、後ろ盾を失ってしまうわけです。

  そして、前にも述べていますが...<乙巳の変の後、皇極天皇”退位を受け、皇位に即

く事を勧められますが...これを辞退し、出家して、“吉野へ隠退”する道を選びます」

「あ、そうか...」マチコが言った。「大海人皇子が、“天智天皇”譲位を持ちかけられ...これ

辞退して、出家して“吉野へ陰退”するのは...同じコースをたどったわけね、」

「そういうことです...

  でも、結局...吉備笠垂(きびかさしだる)から、“古人大兄皇子が謀反を企てている”との密告

があり...中大兄皇子に攻められ自害するわけですね。実際に、謀反を企てていたかどうか

で、謀殺可能性があります...」

「そうですか...」響子が、口に拳を当てた。

 

「これとは、直接関係はないのですが...」支折が言った。「もう1つ、時代背景をあげておきま

す...」

「はい、」響子が、うなづいた。

聖徳太子(用明天皇の第2皇子/推古天皇のもとで摂政・・・蘇我馬子と協調して政治を行う)以来...

  皇室の周辺には...国政天皇中心改革せんとする気運が強まっていたと言われます。

蘇我入鹿はこうした動きを押さえ、蘇我氏と縁の強い古人大兄皇子天皇につけようと、図った

とされます。くり返しますが、古人大兄皇子“舒明天皇”第1皇子で、蘇我馬子娘/

蘇我法提郎女(ほほていらつめ)です。

  そのために...邪魔になる聖徳太子皇子/山背大兄王(やましろおおえおう)ら、上宮王家

(かみつみやおうけ/聖徳太子の家系斑鳩宮(いかるがのみや/奈良県生駒郡斑鳩町を攻め...宮殿を焼き払

い...山背大兄王以下上宮王家の人々は、法隆寺自決に追い込まれました。

  非常に物騒な話ですが...これは皇極天皇・2年(643年)のことで...<乙巳の変(645年)

2年前です。蘇我入鹿大臣を譲られてから、1ヶ月も経たない、11月上旬の出来事です。

  ただし...この『日本書紀』とは矛盾する記載が...ええと、『藤氏家伝』(とうしかでん)にあるよ

うです。上宮王家討伐については...“皇極天皇”即位に関して、山背大兄王謀反を起

こす恐れがあるため、他の皇族とはかって暗殺したのであって...“入鹿の独断ではない”、と

あるようですね」

  響子が、コクリとうなづいた。

 

「その後...」支折が続けた。「蘇我石川麻呂は、クーデター後の政権において、右大臣に任命

されます。

  でも、大化5年(649年)...異母弟日向に、謀反を起こそうとしていると密告されて...“孝

徳天皇”により兵が差し向けられ、長男/興志ら、妻子と共に山田寺自害します。ちなみにこ

の事件も、中大兄皇子中臣鎌足陰謀であったとされていいます...」

「はい...」響子が言った。

「一方...

  中大兄皇子となった、石川麻呂娘/遠智娘(おちいらつめ)は...大田皇女伊勢斎宮となっ

た大来皇女と大津皇子の母)鸕野讚良・皇女(後の持統天皇)建皇子(たけるみこ/夭折・・・ようせつをもうけま

す。また、もう1人の娘/姪娘(めいいらつめ/蘇我石川麻呂の娘/同じ天智天皇の妃となる)は...御名部・

皇女みなべひめみこ/御名部内親王/高市皇子・妃・・・長屋王の母と、阿閇皇女あへひめみこ/後の元明天皇/

草壁皇子・妃を産んでいます」

「うーん...」マチコが、両手を頭の後ろに当てた。「中大兄皇子もそうなのかあ...

  姉妹そろって嫁いだ方が、何かと都合がよかったのかしら...大海人皇子は、“天智天皇”

皇女4人ももらっていたのかしら?」

  響子が口に手を当て、微笑を浮かべた。


「ええ、ともかく...」支折が言った。「このような時代背景ですが...

  <乙巳の変以来...“天智天皇”は、かなり異状な性格を示しているようですわ。ただ、

本の歴史全体から眺めた時...大化の改新というのは、高い評価を受けているわけです。つ

まり、豪族中心の政治から、国家/日本というものを意識し、天皇中心の政治大転換するわ

けです。

  この大化の改新改革は、“天武天皇”“持統天皇”まで引き継がれているわけですね

我入鹿暗殺から、持統朝のあたりまで含まれるという考えが、根強くあるようです...」

「そうかあ...」マチコが、腕組みをした。「うーん...」

 

「ええと...」支折が、マチコを見た。「いいですか...

  蘇我石川麻呂・娘/遠智娘/中大兄皇子・妃/造媛(みやつこひめ)...この不条理父の死

を嘆き、やがて病死したようです。大田皇女鸕野讚良・皇女もまた、幼くしてを失っていたよ

うですね。彼女たちは、そのの、両方の血を受け継いでいたということです。

  鸕野讚良・皇女/“持統天皇”が...多少の権謀術数(けんぼうじゅっすう/・・・人を欺くためのはかりごと)

を用いたとしても...その周囲の環境時代背景血統から...彼女の評価を下げてしまうの

は、片手落ちと思います。

  ただ...天皇専制の奔流の中で...彼女には、それを押し止める絶対権力が与えられてた

のですが...彼女は、母性本能の方に従ったということでしょうか。

  先日、高杉・塾長とお会いした折、このことを話すとこう言っていました...大津皇子の問題

が、飛鳥宮殿に持ち上がった時...まさにそこに、“天武天皇”カリスマ性を引き継ぐカギ

あったのだが...彼女の母性本能がそれを阻んでしまったのだろう。結局、大局を見る目を曇

らせ...吉野行幸をくり返す、寡婦(かふ/未亡人)になってしまったと...」 

「はい...」響子がうなづいて、 マチコの方を見、またうなづいた。

「うん...」マチコも、うなづいた。「普通の母親だったということよね...」

 

「さあ...」支折が続けた。「若かりし...

  鸕野讚良・皇女は...13歳の時大海人皇子に嫁いでいるわけです。その前に、同母姉

海人皇子に嫁いでいるわけですね。彼女らは、父/中大兄皇子が、蘇我石川麻呂姉妹を娶

(めと)っていることを、当然知っていたわけですね。彼女たちののことですから...

  あ、それから... “天智天皇”はこの二人の皇女の他にも、...大江皇女新田部皇女を、

実弟/大海人皇子に与えています。高い身分もあり、実力もあり、気心も知れている実弟に、

を嫁がせるのに、何のためらいもなかったろうと思います。

  皇女たちの方も...子供のころからよく知っていて、叔父おじ/父母の弟・・・父母の妹は叔母/伯父は父

母の兄・・・伯母は父母の姉・・・)とは、非常に親しかったのでしょう。そして、たちは、身近な異性に憧

れるものですわ。

  そこに...高貴武勇叔父がいれば、その話でもちきりになったのでしょう。そうした中で、

“天智天皇”も娘たちにせがまれ、皇女大海人皇子にくれてやったのでしょうか...

 だし...こんな御伽話(おとぎばなし)のようなことは...浮世離れのした飛鳥宮殿の中のみの

ことです。また、同じ宮中でも、皇族の外側では、厳しい戒律があり、奴婢(ぬひ/律令制における賤民の

1つ)も存在していたわけです。

  そうそう...皇族の中でも、皇位をめぐっては、に添わなければ、ともに苦難の道を歩いて

きた実弟でも...首を落とす、ということがあったわけですね...天皇は、“神”に近い、“はる

かな高み”に座していたようです...」

  マチコが、冷めたコーヒーに手を伸ばした。

「当時は...」マチコが、コーヒーカップを口に運びながら言った。「一夫多妻制かあ...

  なんとなく...皇女たちの気持ちも分かるわよね...いちばん身近な男性が、大海人皇子

ような人ならさあ...」

「そうですね...」響子も、唇をすぼめた。

 

「それから...」支折が、モニターを見た。「斉明天皇・7年(661年)...

  彼女らは...父/中大兄皇子と...夫/大海人皇子と共に...天皇の動座に伴って、九州

/大宰府まで下っています。

  その様子は...【巻1-(15)】...で考察していますが、海路で行っているようですね。これ

は、あの<白村江の戦い>2年前であり、朝鮮半島大戦に備えた天皇の動座です。この時

期のは、九州ということになるのでしょう。

  でも、すぐにその地で...“斉明天皇”崩御されます。そして...翌/天智天皇・元年(662

年)野讚良・皇女は、草壁皇子を産んでいます。長男ですね。あ、ええと...彼女の子供は、

この皇子のみのようです。それから...翌年姉/大田皇女大津皇子を産んでいます。大来

皇女伊勢神宮の初代斎王につぐ、2人目の子す」

「すると...」 マチコが言った。「草壁皇子の方が、大津皇子よりも1歳年上なわけかあ...」

「そういうことになりますね...

  でも...聡明だったのは大津皇子のようです。大津皇子『日本書紀』の中で、立ち居振る舞

言葉使いが優れ...“天武天皇”に愛され...才学あり...詩賦の興りは大津より始まる、

人物像が描かれているようです。一方、草壁皇子に対しては、何の賛辞も記されていないとい

うことです。

  『日本書紀』は、草壁皇子血統を擁護する政権下編纂されているわけで、このことは2人

能力差は、だれの目にも、歴然としていたことを示しているようです。

  織田信長や、徳川家光(3代将軍)のエピソードに見るように...この種の聡明さは、“将来的

・・・大事業を成し遂げる人格”とは、必ずしも結びつきません。でも、皆から好かる素質は、抜群

だったようです。おそらく凡人草壁皇子対し、大津皇子はよほど勝っていたのでしょう...」

「はい...」響子が、小さくうなづき、納得した。「草壁皇子は、大事にされながらも、早世してい

ますし、体が壮健ではなかったのでしょうか...」

「ともかく...」支折が言った。「そうでなくても...昔の人は短命でしたから...」

「そうですね...」

 

大津皇子の悲劇

            


「ええ...」支折が、前髪を撫で上げた。「“天武天皇”崩御(/9月11日)...

  翌月10月2日...大津皇子謀反が発覚し...自殺している様子です。いったい、この悲

しみにくれた慌ただしい時期に、何があったのでしょうか...少し調べてみました...」

「はい...」響子が、固唾(かたず)を呑(の)んだ。

「まず...」支折が言った。「密告したのは...川島皇子(かわしまみこ)のようです...

  ええと...聖地/吉野での・・・天武天皇と、6皇子の誓い”は...“天武天皇”皇后のもと

で...草壁皇子大津皇子高市皇子忍壁皇子...それから、川島皇子芝基皇子6皇子

で、誓ったものです。“これ以後は・・・皇位継承に関して・・・争い事はしない”...という、聖地

/吉野における・・・固い盟約”でした。

 その6皇子のうち、前の4人“天武天皇”皇子で...後の川島皇子芝基皇子が、“天智

天皇”皇子です。彼等も、含まれていたわけですね。

  そして、草壁皇子の母が、皇后/鸕野讚良...大津皇子の母が、鸕野讚良姉/太田皇女

です。6皇子対等というわけではなく、皇太子草壁皇子で定まっていました。

  それから、高市皇子は...“天武天皇”長男ですが、は身分の低い胸形尼子娘(むなかた

あまこいらつめ)です。でも、<壬申の乱>では、濃国/不破で、軍事全権をゆだねられて、

活躍をしています。彼は、“持統天皇”即位期間の大部分で、太政大臣を務めています。

  ちなみに...“天武天皇”は、大臣を置かずに、直接に政務を執っておられたようです。でも、

“持統天皇”太政大臣を置いたわけですね。ただし、女性天皇ではあっても、摂政は置かなか

ったわけです。“天武天皇”カリスマ性皇親政治遺産があり、天皇専制/天皇独裁頂点

を、引き継いでいたわけです。

  あ、ええと...あと...忍壁皇子は、かじ媛娘(かじひめいらつめ/父:宍戸臣大麻呂)で、太政大

高市皇子急逝した後は...大津皇子草壁皇子高市皇子他界したわけで...最後

“天武天皇”皇子となったようです。でも以前から、“持統天皇”には嫌われていたようです。

  結局...“持統天皇”は、自分の孫/草壁皇子の皇子に、譲位することになります。それが、

“第42代/文武天皇”です。この折、前にも触れましたが、<壬申の乱>敵将として戦った、

大友皇子妃/十市皇女(大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)の皇女)子/葛野王(かどのおおきみ)

が、紛糾していた場を収め、決定に功があったようです。

  この葛野王の孫に、淡海三船(おうみみふね)という人物がいます...彼は、現存最古漢詩集

『懐風藻』(かいふうそう)撰者とする説が有力ですが...確定ではないようです」

「うーん...」マチコが言った。「似た名前で...長屋王という人もいたわよね...」

「あ、はい...」支折が、唇に微笑を浮かべ、うなづいた。「長屋王は、高市皇子皇子です...

  <長屋王の変>が有名ですわ...729年に起きた、この事件を契機に、皇族の手から、今

度は藤原氏へと権力が移って行きます。この事件は重要ですので、いずれまた、触れることにな

ると思います...」

「はい、」マチコが、うなづいた。「というのはさあ...この人たちは男性よね。額田王女性歌

なのに、」

「そうですね...

  蘇我馬子も、がつくので、現在は女性に使われますが、もちろん、男性です。当時は、そう

いう区別はなかったのでしょうか、」

「うん...」マチコが、うなづいた。

 

「話を戻しますが...」支折が、続けた。「6皇子のうちの...川島皇子密告したようです」

「はい、」響子が言った。「“天智天皇”の皇子ですね、」

「そうです...

  具体的にどのような計画があったのかは...歴史書には記載がないようです。でも、皇位継

実力で争うということは、これまでもくり返されてきたことです。とりたてて、珍しいことではあ

りません。吉野の・・・天武天皇と、6皇子の誓い”があったのは、“天武天皇”深い反省からで

す...」

皇后/鸕野讚良も...」マチコが言った。「そう思っていたわけよね、」

「そうですね...」支折が、うなづいた。「その時...

  皇后/鸕野讚良も、それぞれ皇子を抱きしめ、誓いを固めていたようです。でも、権力者にな

ってみると、それは容易なことではなかったのでしょう。

  つまり、“天武天皇”の...“深い人間性・・・卓越した想像力・・・武人としての圧倒的なカリス

マ性で・・・負の連鎖を断つ道”...を切り開こうとしたわけです。

  ところが、突如の崩御となり...皇后/鸕野讚良執政となってみると...皇后には、“天武

天皇”ほどの卓越した能力が欠けていることが、彼女自身が、痛感したのではないでしょうか。

彼女には、そもそも、そうした超越した視座がなかったのです。理屈で理解しているのと、それを

運用できることとは違います...彼女は、運用の立場に立ってしまったということですわ...」

優秀ではあっても...」響子が、口を開いた。「カリスマ性がなく...

  そこから醸し出される優しさや...想像力も...なかったということですね...“天武天皇”

崩御ということで、それがひとしお感じられたわけですね。周囲も...そして、彼女自身も...」

「そうだと思います...」支折が、うなづいた。「圧倒的なカリスマのもとでは...

  政治的な根回しや、様々な協議というものは、一切必要としないわけです。天皇専制/天皇

独裁制頂点に立ち、そこから、〔新しい国造り〕号令をかけていれば良かったわけです。こ

事体は、簡単単純な風景のようですが、その人格を獲得することは、容易なことではありま

せん。

  そこには...大きなゆとりと...深い優しさと...圧倒的な信頼があり...さまざまな軋轢

あっても、そうしたものが〔新しい国造り〕を、全体的に押し包んでいたのではないでしょうか。

  ところが、持統朝になると、力の無さからリキミが出てきて、どこかギスギスしてきたようにも思

えます。あ、もちろん、多少ですが...いずれにしても、“天武天皇”のような強大なカリスマが、

国の中央に存在していた時代とは異なります...」

「うーん...」マチコが、腕組みをした。「それで...聖地・吉野/創業の地/思い出の地...

への、行幸がくり返されたわけかあ...」

「ともかく...」支折が、肘(ひじ)を立てた。「皇后/鸕野讚良執政となり...

  にわかにタガがゆるんで...大津皇子に・・・謀反の意あり”...の疑いが湧き起こるわけで

す。本人にその意思がなくとも、凡人/草壁皇子よりも、はるかに優秀大津皇子推戴したい

という空気があれば...“謀反の意あり”...ということが成立してしまう土壌です。あるいは、

“軽はずみな言動”...が、若い大津皇子の口から漏れ出たという可能性もあります。

  これはかって、“天智天皇”のもとで、大海人皇子がはまった謀反の疑惑です。この降って湧い

騒乱の種を、大津皇子皇后も、回避できなかったわけです。大津皇子はまだ若く、皇后

子/草壁皇子皇位につけるという、強固な意志で固まっていたわけです。この機を利用し、

皇后が、素早く動いた可能性はあります。

  でも、まさにこの最初の難所を...“柳に風のごとく裁けなかった”...ことが、いわゆるカリス

マ性の無さの、最悪の顕在化となったのでしょう。ともかく皇后、この時、天皇独裁制頂点

極めた歴史的にも最高位のポジションにいたわけです...どんなことも、できたわけですわ」

「そうですね...」響子が、両手の指を組み合わせた。

「あげくに...草壁皇子も、即位目前にして、早世してしまうわけです...」

  響子が、深くうなづいた。

 

鸕野讚良は...」マチコが言った。「優秀なブレーンだったのは、確かよね...

  でも、“天武天皇”のような...稀有カリスマ性を持つ指導者ではなかったわけかあ...」

「そうですね...」支折が言った。「普通の女性だったのだと思います...

  また、普通の母親だったということでしょう。皇后が、“天武天皇”のようなカリスマ性を持って

いなかったということは、彼女の責任ではありません。それが、普通の人なのです。でも、せめて

ここでは、自らも参加した...吉野での・・・天武天皇と、6皇子の誓い”...にかんがみ...

“1度・・・呼吸を整えて欲しかった”...と思います。

  “よほどの事態が・・・不可避なほど進展”していたのでない限り...大津皇子は、生かしてお

いて欲しかったと思います。それが...“あの誓いでの、天皇と皇后の側の責務”...ではなか

ったかと思います」

大友皇子自決は、さあ...」マチコが言った。「<壬申の乱>ケジメもあって...やむを

得ない所もあったわよね。でも、大津皇子の場合は、救う余地はあったということかしら?」

  支折が、うなづいた。

「うーん...」響子が、マチコを見た。「何かと、草壁皇子に比較される大津皇子は...後々も

魔な存在ということも...心の隅にあったのでしょうか...?」

大津皇子は...」支折が、頭をかしげた。「忘れ形見ですし...

  そこまでとは思いませんが...彼女の、力の無さ余裕の無さが...機敏な判断をさせた

能性は、あるのかも知れませんわ。

  大津皇子草壁皇子の差は、皇后危惧するほどのものだったのかも知れません。そのた

めに、後々の騒乱の芽は取り除いた...ということは、どうなのでしょうか...?」

「うーん...」響子が、腕組みをした。「“天武天皇”のもとで...

  皇后優秀なブレーンでした...周囲の目もありますし...そこまで勝手なことはしなかった

とも思えます。また、できなかったとも思います。大津皇子も、評判のように聡明であったら...

喪に服し身を慎んでいたのではないでしょうか。

  むしろ...大津皇子の周辺で...不測の事態が、大きくなっていたことも、考えられます。こ

れまでも、クーデターが頻発していた土壌があります。

  “吉野の6皇子の誓い”...はともかく...周囲の方が大津皇子を担ぎ、策謀をめぐらす土壌

は十分にあったわけです」

「うーん...」マチコが、首を左右に振った。「詳しい記述は、ないわけよね...」

「そうです...」支折が、唇を結んだ。「あえて、書かなかったのでしょう」

「そうですね...」響子も唇を結び、まばたきした。「その意思が...歴史の彼方から、伝わって

来るようですわ、」

 

「そして...」支折が言った。「結局...

  “天武天皇”が明けて...皇太子/草壁皇子即位する直前に、皇太子早世してしま

います。そこで、“第41代/持統天皇”即位となり、高市皇子太政大臣になるわけです。こ

の時、この期間...高市皇子皇太子か、皇太子に準ずる地位にあったようです。

  でも、この後...高市皇子も若くして急逝(きゅうせい)し、前に述べたように、6皇子のうち、3人

が他界するわけです。

  ちなみに、“持統朝は・・・690年2月14日 ~  697年8月22日”...までの約7年半

あり...高市皇子急逝し、後継の天皇紛糾します」

「つまり...」マチコが言った。「高市皇子が、後継と目されていたわけよね...」

「そうですね...」支折が、うなづいた。「衆目の見るところは、そうでした...

  でも...結局...“持統天皇の孫・・・第42代/文武天皇”の即位...“持統天皇”は最初の

“太上天皇/上皇”となり...幼い孫・・・文武天皇”と並び座し、政務をとり続けたようです。彼

女は、母性的権力欲が強かったようですね...」

「はい...」マチコが、うなづいた。「で...まずは、安泰ということですね...」

「そうです...」支折が唇を結び、微笑を浮かべた。

   〔3〕 持統朝下の白鳳文化        

         

 

  マチコと、響子と、支折の3人は...時折、窓から入ってくる強い薫風(くんぷう/初夏の頃、新緑の間

を吹き抜けて来る快い風)に、目を細めていた。その強い薫風の中に...はるかな古(いにしえ)王朝文

の、かすかなさざめきを聞き取っていた。時を超えた、人々の雑談に耳をそばだて...人々

のその呼吸に思いを馳(は)せていた。

  遠い...はるかな子孫である、バーチャル空間3人は...時のない世界で、その想いを

し...今、王朝の宮殿の、野趣のある庭園を渡ってくる強い薫風を顔に受け...その大気を

胸一杯に吸い込んでいた。そして...時のない世界の、豊穣の今が、濃密に熟成していく...

 

「では...」響子が言った。夢から現実世界に戻るように、窓から視線を移した。「“天武天皇”

き後の...【白鳳文化/持統朝・文化というものを...考察しましょう」

「はい...」マチコが、なおも窓の方を見ながら言った。

「くり返しますが...

   【白鳳文化は、天武・持続朝を中心とした、7世紀後半の文化です。別の言い方をすると、

【白鳳文化は...法隆寺の仏像・建築・・・などに代表される・・・飛鳥文化〕と...〔東大

寺の仏像/唐招提寺の建築・・・などによって代表される・・・天平文化〕との...間に位置

する、“独特の文化の開花期”ということになります。

  この時代は...〔律令国家・・・が形成されつつあった時期...であり、若々しく躍動感

のある文化が、開花していたようです。万葉集も、この時期に編纂が始まったわけですね。

  そもそも、【白鳳文化というのは...この時期の貴族を中心とした文化ですが...中国/

唐・初期の文化の影響を、強く受けていたようです。“藤原京”“平城京”も、隋・唐の都/長安

条坊制(じょうぼうせい/南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた都市計画)を、真似ているわ

けです...」

「絵は...」マチコが言った。「どんなものがあったのかしら...?」

「うーん...」響子が、モニターをのぞいた。「この時期の絵画としては...

  法隆寺金堂/壁画や...高松塚古墳/壁画や...キトラ古墳/壁画などがあるようです。

あの古墳壁画は、この時期の王朝の風景や、衣装や、文化を描いているわけですね...

  ええと...ともかく...ここでは万葉集を考察しているわけですから、まず、万葉集に収

録されている、“持統天皇”の方を見てみましょうか。

   【巻1-(28)】ですね...これは、百人一首にもとられている...誰でも知っている、“持統

天皇”の、一番有名な歌です...」

「はい...」マチコが、口を大きく結び、うなづいた。

 



                    【巻1-(28)】    【短 歌】  御製歌 (おほみうた)

                       小倉百人一首におさめられた、持統天皇の御製歌

*************************************************************

              

 


    春過ぎて 夏来
(きた)るらし 白妙(しろたへ)の 

              衣乾(ころもほ)したり 天(あま)の香具山(かぐやま)

 

【現代語訳/大意・・・巻1-(28)】      


    春も終わり...夏がやってきたようです...

  
       天の香具山に...純白の衣(神祭りのもの)が...乾されているのが見えます...

 

************************************************************* 

              

百人一首にもとられている、“持統天皇”の代表的な歌ですね...

  夏の訪れを告げる、のどかな風景を詠んでいますが、この歌には別の大きな意味があると言われま

す。夏を連れてくる“神”への...語りかけであり...祝い・感謝...の意味があるのだそうです。

  当時は、季節というものは、“神”によって運ばれてくる、と考えられていたようです。でもこれは、新し

仏教文化の新風ではないようですね。古来からある、あるいは道教的な...地神/祖霊農神など

に対する、儀礼なのでしょうか。

  “天の香具山”は...何度か説明していますが...かつて天から降りてきた山とも言われているわ

けで、大和の山々の中でも特別の地位にあり、神の山と崇め奉られていました。

  あ、その前に...“白妙の衣”というのは...“栲”(たえ/コウゾなどの樹皮からとった繊維)で織りあげた白

のことです。 この純白の衣は、神祭りの時に使うもののようです。この衣が、香具山に乾されて

されていて...“ああ、春が過ぎ去って、夏がやってきたようだ”...と遠目にも、微妙な季節の移ろい

が、具体的な風物として分かるわけですね...」

 

                               

             <インターネットで見つけてきた、持統天皇の図・・・・・・>

             左の図は、パブリックドメインになっています。パブリックドメイン (public domain) とは、著作物や発明など

           の知的創作物について、知的財産権が発生していない状態、または消滅した状態のことをいいます。

            右の図は、浅学のため、正体不明です。十二単/じゅうにひとえに、王冠をかぶっていて、当時の別の雰囲

          気を醸し出しているので、拝借/掲載しました...これも、相当に古いものと思います。          

                                                             

   〔4〕 持統天皇の治世        

           

 

「ええと...」支折が言った。 「“持統天皇”治世ですが...

  政策全般は...“天武天皇”政策を引き継ぎ...それを完成させたという評価です。その

意味では...“天武天皇”“高い志し”を引き継ぎ...それを立派に完成させたわけです。

  皇后として、そして次代/天皇としても...よくその歴史的・役割を果たしたと言えます。でも、

勝気攻撃的な性格から、鸕野讚良・皇女/“持統天皇”評価は、大きく分かれるようです、」

「はい...」響子が、うなづいた。「相当な、悪女のように見る人もいるようですね、」

「私が思うには...」支折が、両手を組んで言った。「彼女の...血筋/生い立ちから...

  勝気・・・/攻撃的な性格・・・/そこそこ頭の良い人・・・で...それ以外はごく普通の女性だっ

たように思います。その彼女が、“稀にみる・・・天皇独裁制の頂点”に座したことが...女性特

有のエゴや、視野の狭さ拡大投影され、日本の古代史反映されたということでしょうか...」

「うーん...」マチコが、肩を大きく左右に揺らした。

「ええ...」支折が、微笑して言った。「ともかく...

  具体的には...“飛鳥浄御原令・・・の制定”と...“藤原京の造営・・・遷都”が...持統

の大きな2本の柱となっているようです。あ、それから...“天武天皇”が生前に、皇后病気

平癒を祈願して造営を始めた、大和国/薬師寺を完成させ、勅願寺としていますよね。

  “飛鳥浄御原令” は...<日本史上・・・最初の体系的/律令法>と考えられています。

現物は失われていて、詳細は不明な部分が多いようです。“天武天皇”<律令事業>継承

し、それを完成させたものですね。

   “藤原京の造営”の方も...“天武天皇”念願でした。着工天武・5年(676年)とも言われ

ますが、本格的・着工に動き出したのは、持統・4年(690年)だったようです。そして、“飛鳥浄御

原宮”から“藤原京”へは...持統・8年(694年)遷都しています。あ...“宮”から、“京”

なっていることに、注意してください。

  この“藤原京”ですが...完成したのは、遷都してから10年後景雲元年(704年)と言われま

す。そして、和銅・3年(710年)...“平城京”(奈良県/奈良市及び大和郡山市近辺)遷都されるまで、

“3天皇/持統天皇・文武天皇・元明天皇”が居住し...“16年間/都として機能”しています。

  『扶桑略記』によれば...和銅・4年(711年)に、“宮が焼けた”とあるようです。これは、“平城

京”遷都した、翌年ということになるのでしょうか...」

  マチコが、黙ってうなづいた。

「話を戻しますが...」支折が言った。「天武・5年着工が進まなかったのは...

   “民の労役負担を避けるため”...だったとする説もあるようです。持統・4年本格着工は、

18年後になるわけですが、その準備が整ったということでしょうか。ともかく、遷都には莫大な費

がかかったようですね」

「うーん...」響子が、髪に手を当て、首をかしげた。「そうですね...

  “持統天皇”伊勢・行幸の折には...“行幸は農事の妨げになる”...という、中納言・三

輪高市麻呂諫言(かんげん/目上の人の過失などを指摘し、忠告すること)を押し切った、と言われています。

この行幸には...“藤原京の造営”...に関し、地方豪族協力させるという意図が、指摘さ

れています。それほどに、民に重圧がかかったということですわ...」

「それでも、強行したということかしら...?」支折が、ゆっくりと肩を引いた。

「そうですね...」響子が言った。「やや強行したということでしょうか...

  そこに...“天武天皇”治世とは...微妙に異なる空気があったのではないでしょうか、」

強烈な、カリスマ性が効かないということの、影響でしょうか?」

「そんな所かも知れません...

  人々が付いてこなければ、いちいちその合意を取り付けることは、混乱の中での大変な作業

になります。“持統天皇”は、そのことに非常に腐心したのだと思います。“大津皇子の1件”も、

“天武天皇”カリスマのもとでは、そもそも、そのホコリさえも、湧き立たなかったでしょう...」

「はい...」支折が、うなづいた。「そうですね...

  ええと、話を進めますが...官人武技・武装奨励ということでも、鸕野讚良忠実に、そ

政策を引き継いでいます。この政策そのものは、天武朝持統朝にのみ見られる特徴なので

しょうか...?

  浅学のため、広い見識はないのですが...国際関係軋轢下(あつれきか)で、国軍というもの

成立・運用とも、関係しているのかも知れません。ともかく、水城(天智・3年に九州/太宰府を防備する

ために造られた土塁)防人(北九州の防備にあたった兵士。後に、東国の兵役になった)の置かれていた時代です」

「うん...」マチコが、うなづいた。「そんな中でも、“持統天皇”はさあ、カリスマ性が欲しかった

わけなんだあ...」

「そうですね...」支折が言った。「これまでにも、述べてきていますが...

   “天武天皇”の、カリスマ的・権威皇親政治のもとでは...個々の皇族臣下支持・了解

は、一切必要としませんでした。鸕野讚良は、そうした政治風景を見続け、またそれに身近な所

参加し、体感し続けてきたわけです。

  彼女にとって...それを取り戻すこと...“天武天皇”権威自らに移すことに...非常に

腐心した様子です。柿本人麻呂に、一連の〔大君賛歌〕を作らせたのも、そうした意図によるの

もです。

  また、頻繁に吉野・行幸を行ったのも...そこが、単なる“思い出の地/出兵・創業の地”とい

うだけではなく...“天武天皇”権威を借りる、という意図もあったようですね。

  様々な混乱に際し、“天武天皇”のような独裁をふるえなかったことが、彼女には何とも歯がゆ

かったのかも知れません...」

「はい...」響子が言った。「そうですね...

  でも最後は...最初“太上天皇/上皇”として...幼い孫/“第42代/文武天皇”に並び

座し、天皇の座君臨し続けたわけです。ホホ...めでたし、めでたし、ということでしょうか、」

「そうですね...」支折が言った。「最後になりますが...

  大宝2年(702年)12月13日...“太上天皇”を発し...22日崩御されています。1年

間の喪の後、遺体火葬され、“天武天皇”合葬されたようです。“持統天皇”遺骨は、

銀の骨壺に収められていたようですね。

  このが、文暦2年(1235年)盗掘にあったことは、天武朝の考察の最後で述べています。

火葬は、これが初の例だということです。

 は...檜隈大内陵(奈良県/高市郡/明日香村/大字野口)...野口王墓古墳です。古代/天皇陵

としては珍しく、治定に間違いがない、とされています。つまり、“天武・持統-両天皇”合葬陵

だということが、明確確定されているということですね」

「はい...」響子が、うなづいた。
 

                

 

 

 

  

   スイーツ