Menu文 芸短 歌万葉集相聞歌・挽歌(2)

 〔原・万葉集/巻2-2〕   <巻1/雑歌> と <巻2/相聞・挽歌> で1対を形成

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プロローグ       

            
地球温暖化・・・COP18/夏美の涙

2012.11.18
No.1 〔1〕 相聞歌・・・ 挽歌・・・ 2012.11.18
No.2     <穂積皇子/穂積親王とは・・・> 2012.11.18
No.3 【巻2-(114)  さE 但馬皇女-相聞歌〕 2012.11.23
No.4 【巻2-(115)  さE 但馬皇女-相聞歌〕 2012.11.23
No.5 【巻2-(116)  さE 但馬皇女-相聞歌〕 2012.11.23
No.6 【巻8-(1515)  さE但馬皇女-相聞歌〕 2012.11.23
No.7 【巻2-(203)  さE 穂積皇子-挽歌〕 2012.11.23

 

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「里中響子です...

  季節が、秋の深まりを見せています。心が充足している時、時の流れ豊穣(ほうじょう: 土地が肥えてい

ること)の川のように、穏やか満ち足りています。

  軽井沢は今...落葉松(カラマツ)に光る陽光...ススキのひと揺れの中にも...深い今/永遠

宿り...孤高に輝いています...

  この世の全ては...朝のススキの穂水滴の内に宿り...そのひと揺れに...太古からの万物

の真理が...無数にを舞い降り...歴史を重ねる大地に降り注ぎ...語りかけます...

   この...軽井沢晩秋の今を知るのも...また、それを知らぬのも...この世の、悟りの風景

す。風の中に...時を超えた万葉の人々のさざめきが...かすかに聞こえて来ます...」


    
          


「それにつけても...

  この落ち着いた、豊かな季節の移ろいの中で...日本の指導者たちは、何を思い、何を成そうと

しているのでしょうか...

 

   国家3権//司法・立法・行政・・・

      プラス・・・第4の権力//マスメディア・公共放送による・・・

           日本の空洞化/文化の空洞化/慣習法の空洞化・・・

                国家財政と経済の混乱/社会の信用システムの大崩壊・・・

                     最後に・・・国民生活の大破綻が、到来しています・・・”

 

  ...これらは、急速に進行している様相です。《当・ホームページ》で、《危機管理センター》

する者として...非常に気がかりな、昨今となっています。

  そうした中で、2012年秋...〔国家三権の1つ・・・立法府/衆議院〕解散となり...日本の

大混乱の中で...〔政治・最大のイベント・・・総選挙モード〕...に突入しています。そちらの

方も、目の離せない、短期決戦となっていますね...」

 
18 
<地球温暖化・・・ COP18/夏美の涙・・・> index.1102.1.jpg (3137 バイト)house5.114.2.jpg (1340 バイト)


「さあ...」響子が、白川夏美の方を見た。「今回から、夏美さんが参加します!」

「はい!」白川夏美が、満面の笑みで、頭を下げた。「夏美です!みなさん、お久しぶりです!」

「そうですね、」支折も、満面で顔を和ませ、うなづいた。

「色々と、」響子が言った。「企画が立て込んでいて、申し訳なく思っていますわ...

  でも、その分、“地球温暖化”考察の方も、進んだのではないでしょうか。堀内秀雄さんは、お

元気ですか?」

「はい!」夏見が、しっかりとうなづいた。「元気でやっています...

  でも...“地球温暖化/対策”の方は、1997年/“COP3”(第3回・気候変動枠組条約締約国会議/地球

温暖化防止・京都会議)京都議定書(気候変動枠組条約に関する、議定書)以来...その勢いは、急速下火

になっていますわ。

  レイチェル・カーソンRachel Carson沈黙の春Silent Spring/1962年に出版以来...ローマ・クラブ

(Club of Rome)の、成長の限界(第一報告書/1972年など...数多くの警告が行われてきましたが、こと

ごとく、“経済原理のダイナミクス・・・欲望/競争原理”によって...反古(ほご)にされてきました」

「そして...」響子が言った。「今また...京都議定書が、反古になろうとしているわけですね?」

「うーん...」夏美が、両手を固く組んだ。「当時危機感は、薄れているようです...

  2012/11月末から...中東/カタール/ドーハで...“COP18”(第18回・気候変動枠組条約・締約国

会議)が行われていますが...“途上国側”“先進国側”の、意見対立の溝が埋まっていません。

  “途上国側”は...“経済成長に伴う・・・温室効果ガスの排出抑制”を、求められる立場にあ

るわけですが...“地球温暖化が進んだ原因は・・・先進国側にある”、との主張で...“先進国

側”からの、より一層資金・技術移転を、強硬に要求しています...」

「はい...」響子が、うなづいた。

「でも...」夏美が言った。「“先進国側”は...

  “金融システムの不安/経済成長の鈍化等”で...その余裕はなく、失速しつつあります。今、

のあるのは...人口大国/中国、インドを含む...急速に伸びているアジア途上国です。そこ

で、ギリギリチキン・レースになっています」

「うーん...」響子が、耳の後ろに手をやった。

「その一方で...」夏実が言った。「南極圏では...

  巨大な棚氷(たなごおり: 大陸氷河が、海に張り出して浮いている部分)が海に落ち...北極圏グリーンランド

では雨が降って、無数の青い氷湖ができ...シベリアツンドラでは、永久凍土が溶けて大量のメ

タンガス/温室効果ガス(メタン (CH4)は、二酸化炭素 (CO2)の21~72倍の温室効果をもたらす)が、大気中に放出され

続けています」

「うーん...」響子が言った。「永久凍土から、マンモスなども出て来ていますね...」

「はい...

  ヒマラヤでも、氷河が融け出していて...氷湖決壊が、下の集落を危険にさらしています。この

まま、“地球温暖化”が進むと、相乗効果事態急速加速します。でも...巨大な慣性がかかり、

この傾向は、すぐに止まることはありません。私たちは、その準備をしなくてはなりません...」

急速な、長期気候変動に対し...」支折が言った。「〔人間の巣〕世界展開して行くことですね、」

「はい!」夏実が、コクリとうなづいた。

「そうですね...」響子が、口にコブシを当てた。「ともかく、頑張りましょう...

  私たちとしては、京都議定書に代わるものとして...〔人間の巣のパラダイム・・・ポスト戦後

民主主義・・・脱/冷暖房社会〕、を提唱しているわけです...挽回することは、可能です!」

「はい!」夏実が、小指の先で、そっと涙をぬぐった。

 

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「ええ...」響子が、姿勢を正した。「今回は...

  綾部沙織との交代で...夏美さんが入って下さいました。夏美さんは...高校以来の親友であ

る、折原マチコ交代の交代になるわけですね。

  折原マチコが...“ミッション/永田町・考”で、ミッション・コーディネーターとして多忙になり...

またまた、その大型ミッションで...心理学者/ユング心理学が必要となり、綾部沙織参加が要

請されました。

  そして、折原マチコはまさに...その“奇妙な巡り合わせ”課題の、“大型ミッション”だとか申

しておりました。マチコさんも、ミッション・コーディネーターとしての才能を発揮し、良い仕事をしてい

る様子です。ともかく、そういうわけですので、よろしくお願いします」

「はい...」夏実が、頭を下げた。「マチコは、そういう方面は才能があるのよね...」

「認めますわ...」響子が、口をすぼめた。

今年の秋は...」支折が、夏美に言った。「《軽井沢基地》になりましたね、」

「そうですね...

  軽井沢の秋を、楽しみにしています。お蕎麦(そば)と、落葉松黄葉を楽しみにしてきました...」

「一緒に見に行きましょう、」

「はい、」

《本部基地》(/航空宇宙基地・赤い稲妻内)の、」響子が言った。「〔半・地下基地化/人間の巣化〕は、だ

いぶ進んでいるのでしょうか?」

「そうですね...」夏実が、うなづいた。「観測ヘリを飛ばして...

  草原の東側で、測量ボーリング調査が始まっているようですわ。それから、〔半/地下基地〕

被せる土壌の採取で...かなりの大きさの窪みが出来るそうです。そこを池/湖沼にするそうです

が、場所の選定が話題になっていました。南谷清流を引いて、ボートも浮かべる案もありました」

「そうですか...」響子が、窓の方を眺めた。「水辺はいいですね...」

「はい、」夏実が、うなづいた。「それに...

  草原を、自給自足農業耕作地とする時、非常用の水源にもなると話していました...」

「そうですね...」支折が言った。

 

〔1〕 相聞歌・・・ 但馬皇女         index.1102.1.jpg (3137 バイト)     

        

 

「ええ...」響子が、スクリーン・ボードを見た。「但馬皇女(たじまひめみこ)【相聞歌】ですね...

  万葉集【巻2-(114、115、116)】...と但馬皇女【相聞歌】3首続いています。そ

して...【巻2-(203)】は、この【相聞歌】が贈られた穂積皇子(ほづみみこ)が...後に、彼女の

御墓/吉隠(よなばり)の猪養(いかい)の岡を詠んだ...【挽歌】ですね。

  ええと...今も、奈良県/桜井市に、吉隠の地名は残っています。それから、“猪養の岡”正確

な場所というのは、特定されていないようです。でも、この地は、名前が示すように、“当時は・・・猪(い

のしし)を放牧していた場所”、と推定されています。かなり、広い場所だったのでしょうか。

  “天武天皇”天武4年675年)に...“詔/勅”(みことのり: 天皇の言葉。天皇の命令を直接に下す文書)で、“牛

・馬・犬・猿・鶏を・・・食することを禁止”、しました。つまり、“天武天皇の詔が・・・最初の肉食禁

止令”...だったようですね。                           ・・・・・<詳しくは、こちらへどうぞ>

  その一方で...“家畜として・・・猪の放牧”も、していたわけです。梓弓(あずさゆみ)をとり、勇壮な狩

をされた天皇も、安定した食糧の方も、しっかり確保していたわけですね。そういえば、“詔”では、

確かに、は含まれていないようです。

  そうした“猪養の岡”の一角に...但馬皇女(みささぎ)が作られたのでしょう。穂積皇子皇族

して、当然、(もがり)葬儀儀礼には参加しているのでしょう。この辺りは、後でさらに考察します。

 

  さあ...但馬皇女(たじまひめみこ/生年不詳 ~ 和銅元年6月25日(708年7月17日)没)ですが...“第40代/

天武天皇”皇女であり...は、中臣鎌足/藤原鎌足娘/氷上大刀自(ひかみおおとじ/大原大刀自

の姉で・・・姉妹とも天武天皇の夫人。皇后・妃・夫人の位があるあり・・・鎌足は皇族ではないので、娘も夫人の地位だったと思われます)

ですね。

  母の妹/大原大刀自/藤原夫人(ふじわらぶにん))には、万葉集に採られた2首あります。1首

はすでに紹介していますが...【巻2-(104)、巻8-(1465)】です。

 

     わが岡の おかみに言ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ

       (天武天皇/【巻2-(103)】の返歌です・・・)                           <詳しくはこちらへどうぞ・・・> 

     霍公鳥(ほととぎす) いたくな鳴きそ (な)が声を 五月(さつき)の玉に あへ貫(ぬ)くまでに

       【巻8-(1465)】 大意: ほととぎすよ、ひどく鳴いてくれるな。おまえの声を端午の薬玉に混ぜて、ひもに通すまでは・・・)

 

  そうした血筋の、但馬皇女ですが...万葉集4首の歌があります。それは後で紹介しますが、

彼女が高市皇子(たけちみこ)にいたことが、万葉集<題詞>にあります。そのことから、

市皇子だったとする説と、兄弟で最年長高市皇子に養われていた、とする説があるようです。

  ともかく...歌人としての但馬皇女は、穂積皇子へ贈った【相聞歌】が、万葉集に収録されてい

るわけです。そして、その内容から、2人恋愛関係にあったと分かります。

  でも、これらは全て、万葉集からの推測であり...史書/日本の正史/六国史(りっこくし: 古代日本

の律令国家が編纂した、6つの一連の正史。編纂は飛鳥時代から平安時代前期にかけて行われた。神代から光孝天皇の仁和3年(887年)

に至る。『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』 には、結婚したと

いう記録は、一切見当たらないと言います。

  ちなみに...“持統朝・時代”のほとんどを...“天武天皇”長男/高市皇子太政大臣の任に

あり、大勢力を持っていたわけです。そして、但馬皇女高市皇子であったとすれば、穂積皇子

とのは、大スキャンダルだったわけですね。穂積皇子もまた、“天武天皇”御子であり、高市皇子

とは異母弟になります。

  当時は...父親が同じでも、異母であれば、結婚はごく普通に行われていたわけです。したがっ

て、高市皇子但馬皇女としていても、何の問題もなかったわけです。また、それは、穂積皇子

同様じ立場です。では、何がスキャンダラスだったかというと、やはり但馬皇女高市皇子

なかったか...ということです。

 

  “天武天皇”崩御(ほうぎょ: 天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬って、その死を言う言葉)された時...直後に、大津

皇子悲劇があったわけですね。ところが...肝心要(かんじんかなめ: 非常に大切なこと)皇太子/草壁

皇子もまた、若くして薨去(こうきょ: 皇族または、三位以上の貴人が死去すること)されたわけです。

  そこで...やむなく、“持統天皇”即位となるわけです。以後、長男/高市皇子太政大臣の任

に就(つ)き、皇位継承権も依然として持ちながら、草壁皇子御子成長するのを待つわけですが、

万一の備えであった高市皇子薨去しするに至って、皇位継承が再び紛糾したわけです。この辺り

は、すでに考察していますね。

  つまり...そうした時代の高市皇子に、但馬皇女もいたということです。高市皇子の死後、

馬皇女穂積皇子婚姻したとも言われますが、史書には記録がないわけです。でも、平城京・跡

ら、但馬皇女があったことを示す木簡(もっかん: 木札)が発見されているそうです。

  ということは、彼女は独立の宮を持っていたことが窺(うかが)われます。そのことが、どんな意味を持

つのかも、古代ロマン推理になります...」

<穂積皇子/穂積親王とは・・・>                     

         


「さあ...」響子が言った。「それから...

  穂積皇子(ほづみみこ)/穂積親王(ほづみしんのう)ですが...彼も“第40代/天武天皇”御子です。

母親は、石川夫人/大蕤娘(おおぬいらつめ/蘇我赤兄の娘。“天武天皇”の多くの妻の中で、最も没年が遅い・・・724年8

月6日で・・・推定70歳前後)です。

   ちなみに...穂積皇子“天武天皇”第5皇子で、官位“一品”(和銅8年/元日の朝賀に際し、一品に

叙せられる)ということですが...どういう官位かはよくは分かりません。今後、注意して、資料を見て行

く事にします。

  うーん...ともかく、知太政官事(ちだじょうかんじ)という高位まで上りつめたようですね。知太政官事

とは、文字どおり...“太政官の事を知る”という意味です。つまり、太政官長官として、“万機を総

攬”する官職だったようです。8世紀前半日本に存在した、令外官(りょうげかん: 律令の令制に規定のない

新設の官職)の1つです」

「あの...」夏美が言った。「それは...高市皇子太政大臣とは違うのかしら?」

「そうですね...」響子が、しっかりと、うなづいた。「同じようなものと思いますが...

  何かの理由で...意図的に避けたのかも知れません。これも、注意深く、資料を見て行きましょう」

「はい、」夏美が、うなづいた。

 

「ええと...」響子が言った。「穂積皇子は...

   実は...前半生は、不明な点の多い人物です。持統朝・以前では、“持統天皇”5年/691年

封500戸を与えられたこと以外は、詳細な事跡不明なようです。

  それから 万葉集によれば...蘇我氏に代わって台頭する、藤原氏の血を引くところの...

馬皇女(藤原不比等の姪)との密通露顕し、一時・左遷(させん)されていた、と推測されています。その時

但馬皇女の歌が...後で紹介しますが、【巻2-(115)】になります。

  この左遷は、“持統天皇”(みことのり)によって、“近江/志賀の山寺”に遣わされた、と言うこと

でしょうか。つまり、“2人を・・・強制的に別れさせた”、ということなのでしょう。2人とも、“天武天皇”

異母兄弟の、御子たちであり、重い罪にはできません」

大津皇子悲劇とは...」支折が言った。「レベルが、違うわけですね...」

「そうですね...

  穂積皇子は...その後、大宝2年(702年)“持統・太上天皇”崩御に際し、作殯宮司をつとめて

います。つまり、(もがり)葬儀儀礼で、重要な役目を担っています。それから、慶雲2年(705年)には

異母兄/忍壁皇子(刑部親王)後任として...知太政官事に任ぜられ、太政官統括者となったよう

です。

  それから...霊亀元年(715年)“一品”に叙せられていますが、その年、母/大蕤娘に先立って

薨去しています。享年40代前半推定されます。



  あと...群馬県にある“多胡碑”(たごひ)に、和銅4年3月9日(711年)日付とともに、“太政官二

品穂積親王”と、彼の名が刻まれているそうです。これは、群馬県/高崎市/吉井町/池字御門

ある古碑(/金石文)で、国の特別史跡に指定されていますね...

  この多胡碑は、奈良時代初期和銅4年に、当時の群馬県では14番目の郡多胡郡が誕生した

ことを記す記念碑だそうです。日本三古碑1つだそうです。当時の三つの郡から、三百戸を分割し、

新しく多胡郡を設けたことが記されているそうです。

 

  あ、それから...穂積皇子を、“高松塚古墳”被葬者...とするもあるようですわ。これも、

歴史ロマンを感じさせるものですね。さあ...ともかく...の方を見て行きましょうか...」

 

 

 

    【巻2-(11)】    【相聞歌】/・・・但馬皇女  114

      但馬皇女(たじまひめみこ)の高市皇子たけちみこ)の宮に在(いま)しし時に、

                                           穂積皇子(ほづみみこ)を思(しの)ひて作りませる、御歌一首

*************************************************************

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   秋の田の 穂向(ほむき)の寄れる かた寄りに

              君に寄りなな 言痛(こちた)くありとも

                

****************************

     【現代語訳/大意・・・巻2-(115)】     



 
  秋の田の稲穂が風になびいて...自然に片寄りそうように...

             私も心を風になびかせて...愛しいあなたに寄りそいたい...

                      人々に...どんなに悪く...うわさされようとも...

 

*************************************************************

                             



「ええと...」支折が言った。「この歌は...

  但馬皇女(たぢまひめみこ)穂積皇子(ほづみみこ)に贈った恋歌です。但馬皇女穂積皇子は、ど

ちらも天武天皇御子で、異母兄妹の関係にあります。当時は、母親の異っていれば、兄妹結婚

認められていたわけで、2人恋仲になることもごく普通のことでした。でも、この2人は、別の重大な理

で、恋仲になることは、周囲からは、強く憚(はばか)られていた様子です。

  上の<題詞>にあるように...当時は但馬皇女高市皇子(/天武天皇の長男で、但馬皇女や穂積皇子と

異母兄弟)で暮らしていたようです。一説では...但馬皇女高市皇子夫婦であったともいわ

れているようですが、15歳ほどの年齢差もあり、父親的/保護者だったとも考えられるようです。いず

れにしても、但馬皇女穂積皇子恋仲は、周囲からは明確に憚られるような関係、だった様子です。

 

  歌の方ですが...“穂向(ほむき)とは...風に揺れる稲穂(いなほ)向きことですね。“穂”穂積

皇子の名にかけられた言葉で、歌の巧みさが光っています。これをもらった穂積皇子も、おもわず口元

を緩め、顔を輝かせたのではないでしょうか。

  それにしても...一途乙女心(おとめごころ)が、真っ直ぐに、歌い上げられています。そして、非常に

情熱的な歌ですね。時代を超えて、但馬皇女乙女心/人間性が快く伝わってきます...このような

歌も、万葉集には、編纂/収録されているわけですね...」 

 

 

 

    【巻2-(115)】  さB  【相聞歌】/・・・但馬皇女   115

      穂積皇子(ほづみみこ)に勅(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣はしし時に、

                                                但馬皇女たじまひめみこ)の作りませる、御歌一首

*************************************************************

          

 

   後(おく)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 

              道の阿廻(くまみ)に 標結(しめゆ)へわが背 

                

****************************

     【現代語訳/大意・・・巻2-(115)】            



 
  後に残され...恋に苦しんでいるぐらいなら...いっそ追いかけてゆこう...

          だから...道の曲がり角ごとに...

                草を結んで標(しる)しをつけておいて欲しい...

                       愛しき...わが君よ...

 

*************************************************************

                           


「この歌は...」支折が言った。「前の、
【巻2-(114)】の続きですね...

  上の
<題詞>に書かれているように...この歌は、穂積皇子天皇の勅(みことのり)によって近江/

志賀の山寺に遣わされたとなっています。でも、但馬皇女との関係が天皇に咎められ、2人の恋仲を引

き裂く目的で、志賀の山寺遣わされたものと思われます。

  うーん...この時の天皇は誰だったのでしょうか。“天武天皇”でしょうか、“持統天皇”なのでしょう

か。浅学をさらけ出してしまいますが、おそらく、壮年御子たちの様子からして、“持統天皇”なのかも

知れませんね。すると、“天武天皇”長男/高市皇子は、皇位継承権も持つ太政大臣であり、皇族

率いで、相当の勢いがあったわけです。

  但馬皇女は...その太政大臣として...あるいはとして...高市皇子にいたわけです

か。そして、但馬皇女穂積皇子が、不倫関係のようになってしまい...“持統天皇”がそれを心配なさ

れ、穂積皇子近江/志賀の山寺に遣わされた...という場面になるのでしょうか?

  ともかく、ここは古代ロマンの、推理ということになりますね...古代には、推理の種が山ほど眠って

います。それが、考古学的学問的・推理と重なっていて、発掘調査などで立証されて来るのが、面白

いですね。

  卑弥呼邪馬台国(『三国志』における“魏志倭人伝”では・・・卑弥呼はこの国の女王であり、約30の国からなる倭国

の都として、ここに住居していたとしている)所在地などは、“九州説”“畿内説”があり、国民的な大論争

なっていますよね」

 

「さて、歌の方ですが...

  穂積皇子都/飛鳥から、近江/志賀の山寺に遣わされといいます...する乙女心は、片時も

離れてはいられない心境です...その恋い焦がれる心境を、情熱的に歌い上げ...【相聞歌】として

穂積皇子に贈っているわけですね...

  現代風な...スマホ(多機能携帯電話)片手に持っての見送りよりも...はるかに、情熱的/深い趣

/一期一会の離別...ですよね。

  うーん...万葉時代人々の方が...はるかに純朴で...はるかに豊かな時を送っていたように

も思えます。そして...短命でもあったわけですね...但馬皇女も、若くしてこの世を去っています、」

 

 

 

    【巻2-(116)】  さB  【相聞歌】/・・・但馬皇女  116

      但馬皇女(たじまひめみこ)の、高市皇子の宮に在(いま)しし時に、

                    竊(ひそ)かに穂積皇子(ほづみのみこ)に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りませる、御歌一首

*************************************************************

            

 

     人言(ひとごと)を 繁(しげ)み 言痛(こちた)

              己(おの)が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る    

                

****************************

     【現代語訳/大意・・・巻2-(116)】         



 
  
人の噂が辛いから...わたしは...生まれてはじめて...

           夜明けの...冷たい川を渡って...

               自分の家に...帰ることにします...

 

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「これらの3首相聞歌は...」支折が言った。「物語のように進展して行きます...

  いよいよ...“事すでに形(あら)はれて作りませる、御歌一首”...と<題詞>に書かれているよう

に、全てが露見してしまったようです。

  そして、人々の噂冷たい目が辛く...生まれて初めて、女の身でありながら、(よい)男の館/

穂積皇子へ行きます。そして、夜明けの冷たい川を渡る冒険をし、自分の住まいである高市皇子

の宮へ帰る...ということを詠んでいます。

  この時代は、男性女性のもとへ通うのが普通でした。でも、この歌では女性である但馬皇女

積皇子のもとに通い、人に気づかれないように、夜明けの川を渡って帰ったと詠んでいます。それも、

るく若々しく...詠み上げていますね。恋をする女性力強さが感じられます。但馬皇女は、若くし

てこの世を去りますが...“朝帰り”は、“天武天皇”皇女の身分では、生涯で唯一大冒険だった

のでしょうか。

  ええ...からだけでは、正確な状況は分りません。でも、を贈られた穂積皇子には、全ての事

が分かっていたわけです。乙女ドキドキするような、この世の冒険が、よく表現されています。その

体験相聞歌として、恋人に贈っているわけです。現代にはない、豊かな文化を謳歌していたわけです

ね。

  こうした、行動的女性の姿は、現代的な錯覚さえ覚えます。但馬皇女人間性への共感、はる

かな時を越え、現代まで新鮮に響いて来ています。ただ、どうしたものか、穂積皇子から但馬皇女への

返歌は、『万葉集』には収録されていません。

  どのような意図があったのでしょうか...ともかく、遠い古(いにしえ)の恋物語ですね...」

 

 

 

    【巻8-1515)】  さB  【相聞歌】/・・・但馬皇女  116

     但馬皇女(たじまひめみこ)の、御歌一首

               “一書に云はく・・・子部王(こべおおきみ)の作”とあり・・・子部王が但馬皇女の気持で、詠んだのでしょうか

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     言(こと)しげき 里に住まずは 今朝(けさ)鳴きし  

              雁(かり)に副(たぐ)ひて 往(ゆ)かましものを

                 

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     【現代語訳/大意・・・巻8-(1515)】     



 
  
あれこれと...人の噂のひどい...里なぞに住まず...

             ああ、今朝声を聞いた...雁と連れだって...

                       此処を去ってしまっていたかった...

 

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「こ歌は...」支折が言った。「
穂積皇子の...

  御歌2首/【巻8-(1513、1514)】に続いて、『万葉集』に収録されています。また、<題詞>

には、 “但馬皇女 御歌一首 一書云子部王作”...と書かれているようです。あ、これは、『万葉集』

原文ですね。原文は、このように漢文で書かれているようですよ。

  

    今朝の朝明(あさけ) (かり)が音(ね)聞きつ 春日山          

                    もみちにけらし 我(あ)が心痛し     

                                              【巻8-1513・・・穂積皇子】


     秋萩(あきはぎ)は 咲くべくあらし 我がやどの              

                    浅茅(あさぢ)が花の 散りゆく見れば   

                                              【巻8-1514・・・穂積皇子】

 

        (こと)しげき 里に住まずは 今朝(けさ)鳴きし  

                   (かり)に副(たぐ)ひて 往(ゆ)かましものを 

                                          【巻8-1515・・・但馬皇女

                                              

  この最後の1首が...但馬皇女 御歌一首 一書に云はく・・・子部王(こべのおおきみ)の作”とある

わけです。これは、子部王但馬皇女の気持ちなって、を詠んだということでしょうか。

  面白いですね。当時の『万葉集』編纂者たちが、この不倫騒動を承知していて、あえて、部王

1首を持ってきているわけですね。万葉時代の、大らかな時代の空気というものが感じられます...」

 

 

 

    【巻2-203)】  さB  【挽歌】/・・・穂積皇子  203

       但馬皇女(たじまひめみこ)の薨(こう)ぜし後に、

            穂積皇子(ほづみみこ)、冬の日に雪の降るに、御墓を遙望(ようぼう)し悲傷流涕(ひしょうるてい)して作らす、歌1首

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       降る雪は あはにな降りそ 

            吉隠(よなばり) 猪養(ゐかひ)の岡の 寒からまくに 

                   

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     【現代語訳/大意・・・巻2-(203)】         



 
  ああ、降る雪よ...そんなに積もらないで欲しい...

            吉隠の、猪養の岡に眠っている...

                      但馬皇女が寒いだろうから...

 

                      

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「ええと...」支折が、コーヒーカップをそっと置いた。「“あはに”は...たくさん、という意味です...

  この歌は、但馬皇女が亡くなった後、穂積皇子が詠んだものです。雪の降る中、彼女の(みささぎ)

のある、吉隠猪養の岡の方を眺め、彼女を偲んで詠んだ歌です。悲しく淋しく深い愛情のこもった

【挽歌】ですね...

 

  和銅元年(708年)秋近い日に...但馬皇女訃報(ふほう: 死去したという知らせ)が届いたと言いま

す。偲び逢う激しい恋をし...穂積皇子(みことのり)によって、近江/志賀の山寺に遣わされたの

が、2人別れとなって行ったのでしょうか。

  それとも...【巻2-(115)】山寺に遣わされた後に、【巻2-(116)】があり、朝川を渡る

をしているのですから、そうした逆境の中で、2人の関係は続いていたのでしょうか。ともかく...こ

訃報は...その頃から13年余りが過ぎていたようです。

 

  穂積皇子没年は、和銅8年(715年)7月27日...知太政官事まで出世し、40代前半/享年44

歳頃だったと、推定されています。そして、その没年のはじめに、“一品”という官位に叙せられているよ

うです。

  歴史的・記述では...但馬皇女は若くして、淋しく死に...穂積皇子の方は、日本天皇制/中央

集権国家重鎮として君臨します。でも、穂積皇子は...若い頃但馬皇女との思い出が、を得た

私生活においても、歪んだ影を落とした様子です。あ、そのことは、ここでは触れないでおきます。別の

機会にしましょう。 

 

  ともかく、この歌は...降り積もる、雪景色遙望(ようぼう)し...吉隠(よなばり)猪養(いかい)の岡

に眠っている...但馬皇女が寒いだろうから...どうか雪よ、そんなに降らないでおくれ...と詠んで

います。

  但馬皇女穂積皇子の...それぞれの生き方と...命のはかなさ...そして、それを超える、

(とわ)の愛情を感じさせ...万葉時代時空に...原初的な、懐かしい想いを馳せます...」

 


「ええと...

  但馬皇女が眠っている吉隠猪養の岡は...現在、明確な場所は分らないようですね。さしあたり、

奈良県桜井市/吉隠公民館あたりから...“見渡せる岡・・・のどこか”...と思われているようですよ

ね。

  あ、こういう資料もあります...吉隠公民館には、この歌碑が建てられているそうです。この公民館

裏手広い一帯が、猪養の地(当時、猪を放し飼いしていた所)としてあり...一角に但馬皇女(みさ

さぎ)があるとされますが...発掘には至っていない、ということですね...」 

 


 

 

 

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