文芸俳句与謝蕪村・選集

             与謝蕪村・選集              
                   
(よさ)      (ぶそん)

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          蕪村の俳画『奥の細道』  ・・・  
庄内藩・鶴岡城下/長山氏重行の家>        <市振の宿/芭蕉と遊女

トップページHot SpotMenu最新のアップロード/                            選者: 星野 支折

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プロローグ   = 選者の言葉 =  (1) 蕪村の句の選集に当たって>

                  江戸中期の・・・俳人/画家
2011. 5.14
No.1   夏川をこすうれしさよ手にぞうり   2011. 5.14
No.2   五月雨や大河を前に家二軒 2011. 5.14
No.   石工(いしきり)の鑿(のみ)冷したる清水かな 2011. 5.14
No.4   滝口に灯を呼ぶ声や春の雨 2011. 5.14

 

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (2) 蕪村/邪気のないスケッチ 2011. 6.10
No.5   涼しさや鐘をはなるるかねの声 2011. 6.10
No.   夕風や 水 青鷺(あおさぎ)の脛(はぎ)をうつ 2011. 6.10
No.   不二ひとつうづみ残して若葉かな 2011. 6.10
No.   みじか夜や毛虫の上に露の玉 2011. 6.10
No.   ほととぎす平安城を筋違に 2011. 6.10

 

選者の言葉    = 選者の言葉 = (3) 蕪村/春−五月雨−雲の峰 2011. 6.26
No.10   春の海 ひねもすのたりのたりかな 2011. 6.26
No.11   春の暮 家路に遠き人ばかり 2011. 6.26
No.12   菜の花や月は東に日は西に 2011. 6.26
No.13   さみだれの 大井越たるかしこさよ 2011. 6.26
No.14   さみだれや 名もなき川のおそろしき 2011. 6.26
No.15   さつき雨 田毎の闇となりにけり 2011. 6.26
No.16   雲の峰に 肘する酒呑童子(しゅてんどうじ)かな 2011. 6.26
No.17   曠野(あらの)行く 身にちかづくや雲の峰 2011. 6.26

   

選者の言葉   = 選者の言葉 = (4) 蕪村/幅広い人格 <日本人の肉食制限の歴史> 2011. 7.10
No.18   動く葉もなくておそろし 夏木立 2011. 7.10
o.19   垣越(かきこえ)て蟇(ひき: ヒキガエル)の避行(さけゆく)かやりかな  2011. 7.10
No.20   水桶にうなづきあふや瓜茄子    2011. 7.10
No.21   朝顔や一輪深き淵のいろ 2011. 7.10
No.22   相阿弥(そうあみ)の宵寝(よいね)起こすや 大文字 2011. 7.10
No.23   毛見の衆の 舟さし下せ最上川 2011. 7.10
No.24   口切や 五山衆なんどほのめきて 2011. 7.10
No.25   冬ちかし 時雨(しぐれ)の雲もこゝよりぞ 2011. 7.10
No.26   楠(くす)の根を静にぬらす時雨哉(かな)  2011. 7.10

       

  プロローグ  蕪村の句の選集に当たって  house5.114.2.jpg (1340 バイト) 

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選者の言葉 (1) 江戸中期の俳人/画家

  

支折です!

  今回は、小林一茶松尾芭蕉に続いて...3人目与謝蕪村(1716 〜 1783年)

の登場です。一茶芭蕉の考察は少し間をおいて、さらに俳句の視野を広げ

てみたいと思います。

  蕪村(ぶそん)は...江戸中期/享保元年(1716年)...八代将軍/徳川吉宗

将軍に就任した年に...摂津国(せっつのくに/大阪市)/東成郡(ひがしなりごおり)/毛馬

(けまむら)で誕生しています。

  “江戸前期/元禄文化・・・松尾芭蕉(1644〜1694年)が没し、22年後に誕生し

ています。“江戸中期・・・江戸俳諧の中興の祖”、と言われる人物ですね。“江戸

後期/化政文化・・・小林一茶(1763〜1828年)と、松尾芭蕉との、中間の時代

活躍した、“江戸俳諧の巨星”ということになります。

 

  芭蕉・・・蕪村・・・一茶...と、俳諧の巨星たちを眺めて行くと、少しづつ近代

=明治/大正/昭和足音が聞こえてきます。その、リアルな歴史の流れを...

//人間的時空//事象の蓄積//...というものを、俳句を通して感じ取って

ほしいと思います。

  ちなみに、蕪村は...“俳画(俳句に添える簡略化した文人画)の創始者”...としても

有名です。つまり、画家としても大成しているわけで、ここは括目(かつもく: 括は、こする

の意味・・・目をこすって、よく見ること)に値します。そこから来る、“写実的/絵画的な発句”

得意としたようですね。

  近代の足音と言いましたが...蕪村は、明治時代俳人/正岡子規に、強い

影響を与えた人物として知られます。逆に、そのためかどうか、私には蕪村

が、非常に近代的錯覚を受けてしまいます。でも蕪村は、吉宗の治世(ちせい)

江戸中期/享保元年に誕生した、古い世代の俳人なのですよね。

 

  当時...蕪村が生まれた江戸中期/18世紀の頃には...連歌形式俳諧

いうものは、しだいに下火になりつつあったようです。また俳人たちも、発句の方

に力を注ぐようになっていたようです...

  うーん...それは、『奥の細道』においてもそうですね。歌仙(連歌・俳諧の形式の1つ。

長句と短句を交互に36句つづけたもの。蕉風の確立以後、連句形式の主流になったようです)もやったよう

ですが、紀行には発句のみが記されていますよね。ともかく、申し訳ありません。

この辺りは、勉強不足です。

  でも...一茶などは...まだまだ俳諧連歌を興行し、それを1つの楽しみとし

て、行脚・俳諧師を続けていたわけですよね。また、一方で...江戸時代の文化

として、流行の伝達者として...文化の普及にも貢献していたわけです。当時

は、江戸のうわさ話や、江戸の文化の風に、人々は非常に飢えていたようです。

 

  ちなみに...俳諧連歌をやるのは、“通な人たち/精通している人たち”であっ

たのでしょうか。ともかく、江戸庶民に受けたのは発句の方だったわけです。その

方が、よほど分かりやすかったわけですよね。

  ええと...地方/田舎においては、まだ文化の程度も低く、...俳諧そのもの

が、生活に余裕のある有力者が中心だったようです。藩の重職豪商本陣

の住職庄屋網元、などでしょうか。でも、加賀藩/100万石の城下には、さす

がに芭蕉の門人などもいたわけですね。うーん...そうですか...加賀藩の勢い

というものが感じられますよね。

  それから、時代が下り...一茶のように...信濃/百姓の変わり種でも、俳句

をかじるようになったわけでしょうか。その頃には、江戸の庶民と同じように、田舎

の人々の口にも、俳句が棲みつくようになったのでしょうか。

  それが...発句特化してきた...分かりやすさの効果なのでしょう。いわゆ

俳諧(/俳諧の発句を・・・俳句と命名したのは正岡子規)は...5・7・5の発句のみとなり...

余分なものは全て削ぎ落とし...結局、俳諧連歌をも削ぎ落としてしまったわけで

しょうか。面白いですね...これなら確かに、子供でも作れますよね...」

 

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「うーん...」支折が、子猫の頭に片手を添え、モニターを眺めた。「与謝蕪村

ついて...もう少し、基本的な人物像を見ておきましょうか...」

 

「ええと...先ほども触れましたが...

  蕪村は、摂津国/東成郡/毛馬村(大阪市都島区)で生まれました。江戸時代・中

俳人であり、画家です...俳人としても、また画家としても、当代一流高い

評価を受けた人物です。ともかく、晩年はそう言えるのでしょうか。

  その意味では、芭蕉と同じように、その道の成功者です。後援者門人もあり、

暮らしぶりは楽だったと思われます。後の一茶のように、江戸俳諧宗匠になる

という夢が挫折し...故郷/柏原に帰るという...ある意味での敗北者とは違

います。

  もちろん...一茶も、歴史的に見れば大成功者です。歴史の荒波を生き抜く、

2万句に及ぶく発句を残した、江戸俳諧の巨星であることは確かです。ただ、経済

的成功者ではありませんでした。でもそれゆえに、“一茶の句”完成したわけで

すよね。

 

  あ、そうそう...ここで面白いことに気付きました...江戸時代/江戸俳諧

形成した“3人の巨星・・・芭蕉/蕪村/一茶”は...いずれも、江戸の人=江戸

で生まれ/江戸で死んだ人...ではないですよね。これは、どういうことでしょう

か...? 

  芭蕉は、伊賀上野(三重県/伊賀市)で生まれ...家は百姓のようでしたが、苗字

を持つ家柄だったようです。生涯を閉じたのは...旅の途上/大阪の宿でした。

“旅に生き・・・旅に倒れる”...ことを実践したわけですから、芭蕉としては本望

だったのでしょう。

  さて、蕪村ですが...は、今述べたように、摂津国/毛馬村(大阪市都島区)で、

生まれました。母が、毛馬村名主の家に奉公に上がっていた時、主人の子を身

ごもり、生まれたのが蕪村だったようです。そして、江戸に出て俳句俳画を学び、

後半生は、京都市/下京区に居を構え、68歳生涯を終えています。蕪村

建社会の中にあって、いたって気ままに生きていける立場にあったようですね。

  それから、一茶は...信濃/柏原(長野県/上水内郡信濃町/柏原町)百姓長男

して生まれ、継母と折り合いが悪く、15の歳江戸荒奉公に出ました。そこで

俳諧の世界とめぐり合い...夢破れて、故郷/柏原に帰り...そこで自分の俳

句を完成し、生涯を終えています。

  この辺りは、まだ《小林一茶・選集》では書いていませんが、これから全体を眺

めた上で、書くことにしています。あ...《松尾芭蕉・選集》も同様です...

  うーん...この、“江戸の人ではない”というのは...どういうことなのでしょう

か?3人とも、生まれた地没した地も...江戸ではないですよね。これは、江戸

幕藩体制/江戸文化という、特殊性を反映したものでしょうか。3人とも士分/武

士の身分ではなく、気ままな身分でした...

  でも...俳句の世界だけを眺めても、本当の所は分かりませんよね。もう少し、

熟成を待ちましょうか...ホホ...また、浅学をさらしてしまいました...」

 

               

 

  ポン助が、ブラリと入って来た。《鹿村/鳴沢温泉(/ユキちゃんの故郷)の柏餅を

持って来た。

「置いていくぞ!」ポン助が言った。

「うん...」支折が、モニターを見ながら、うなづいた。

  ポン助がすぐに出て行く...窓から気持のいい薫風(くんぷう: 初夏、新緑の間を吹いて

くる快い風)が吹きこんで来る。支折は、柏餅を1つ食べながら、急須(きゅうす)から冷

めたお茶を注いだ。窓から風と一緒に、ツバメが1羽入って来た。スーッ、と部屋

の中で弧を描き、また出ていった。

 

「ええと...」支折が...ツバメの出て行った空をボンヤリと眺めた。柏餅の残り

を口に入れ、茶を飲んだ。

「...さあ...話を戻しましょうか...

  まず、与謝蕪村本姓ですが...谷口、あるいはのようですね...蕪村

もちろん俳号です。名前は...信章。俗称は...です。

  蕪村の由来ですが...中国の詩人/陶淵明(とうえんめい)『帰去来辞』由来

するようです。

  俳号ですが...蕪村の他にも...宰鳥(さいちょう)夜半亭(やはんてい/2代目)

日庵紫狐庵などもあるようです。画号の方は...長庚春星謝寅(しゃいん)

どが、あります。

  与謝蕪村与謝ですが...丹後(京都府)与謝地方に客遊した後、与謝の姓を

名のったようです。42歳頃からだったようですね。あ、もう1つ、母親が、丹後/与

謝の出身だったから、与謝を名のったという説もあるようです。

 

  うーん...ともかく蕪村は...18歳頃江戸に出て...最初は画俳を志した

ようです。そして22歳頃...早野巴人(はやのはじん)/夜半亭宋阿(やはんていそうあ)

師事し、本格的に俳諧を学びました。この頃は、宰鳥(さいちょう)を名のっていたよ

うですね。

  そして27歳の時...巴人(はじん)が没し...下総/結城(茨城県/結城市)/砂岡

雁宕(いさおかがんとう)巴人・門下の縁故を頼り、俳諧を続けました。約10年にわ

たり...常総地方//常陸(ひたち: 茨城県北東部)・下総(しもうさ: 茨城県南部と、千葉県北部)

・上総(かずさ: 千葉県中部)歴遊した様子です。

  そう言えば...この地域は...後の、一茶地盤/縄張りとも重なって来るわ

けですね。ええと、蕪村が没するのは1783年です。一茶が生まれるのは、1763

です。差し引きすると、生存期間が重なるのは20年ですか...

  一茶15歳江戸荒奉公に出た頃は...蕪村53歳ですか。この頃は、

京都に居を構えていたわけでしょうか。一茶は25歳の時、二六庵・小林竹阿に師

事して、本格的俳諧を学んだわけですが...この時は、蕪村が没して5年程

つわけですね。

  こう推理してみると...直接顔を合わせていた可能性は、低いのでしょうか。

でも、“江戸俳諧の・・・中興の祖・・・蕪村/2代目・夜半亭影響は...非常に

強く受けていたようですよね。うーん...研究の余地あり...ですよね。

 

  ええ、蕪村に戻ります。ともかく蕪村は...“芭蕉に強く憧れ”...28歳の時、

『奥の細道』足跡をたどったようです。芭蕉51歳で没し...蕪村22年後

生まれ...28歳周遊したわけですから...50年ほど後になるのでしょうか。

いえ...芭蕉46歳の時、その大紀行を敢行したわけですから、マイナス5年

なるのでしょうか?

  いずれにしろ...そんな時代に...『奥の細道』追体験しているわけですね。

関所も、街道も、細道も、芭蕉の当時と、ほとんど変わっていなかったと思います。

鎖国幕藩体制下にあり、“260年の・・・長い平和の惰眠”をむさぼっていた、

戸中期という時代です。

  落ち着いた封建体制下にあり...時が非常に緩やかに流れ...文化にとって

は揺籃期(ようらんき: ユリカゴに入っている時期)として...非常に優しかった時代です。そ

うした意味で...“世界史の中でも奇跡といえる・・・鎖国下/日本独自の文化が

育まれた・・・良き江戸時代”...だったわけです。

  蕪村は...この“奥州・周遊の手記”を...砂岡雁宕娘婿/佐藤露鳩(さとう

ろきゅう)の家/宇都宮(栃木県/宇都宮市)に身を寄せていた時に...編集・出版してい

ます。これが、『歳旦帳(さいたんちょう/ 宇都宮歳旦帳)です。この時、初めて、蕪村を名

のっています...29歳の時ですね...

  ちなみに、歳旦帖(さいたんちょう/さいたんじょう)というのは、“自分の門弟の発句を集

め・・・刷ったもの”です。俳諧宗匠として、“一家をなした宣言”となるものですね。

応の弟子も集まり、実力も付き、俳人として一人前になったということです。

  正岡子規は...“蕪村を・・・貧窮のうちに死んだ・・・天明期の俳人”...と見

ていたようですが、ここでは、そうでもなかったということにしておきましょう。側腹

(そばはら: 妾からうまれること)ということになりますが、名主の子として生まれたわけで

す。また、修行時代困窮もあったかもしれませんが、一家をなし、俳画も書いて

いたわけですから、困窮していたとは思われませんよね。

 

  うーん...一茶もそうした俳諧宗匠を目指し...江戸で、こうした活動をしてい

たわけです。でも、その方面には才能がなかったようです。不運重なったようで

すが、人を組織し、弟子をとり、収入を上げ、一派を形成するというのは、芸術とは

別の才能を必要とするようです。

  くり返しますが...一茶は、2万句に及ぶ発句を残すことはできましたが、世渡

りでの出世はできなかったわけです。それが、一茶一茶らしい所で...おかしく

もありますが...江戸大看板をか掛けた一茶というのも...勝手な言い分です

が、面白みがないですよね。

 

  さあ、それでは...蕪村の方を見て行きましょう。蕪村俳人であり、画家

でもあったわけです。“絵画的で・・・鮮明なイメージを・・・言語によって結晶化!”

することに、成功しています。

  これは、簡単なことではありません。でも、それを成し遂げ、“蕪村の俳句”を確

立しています。ここに、蕪村の句真骨頂があるようです。芭蕉が、談林派などの

古い俳諧を脱し、蕉風を打ち立てたのにも通じるものがあるでしょうか。

  もう一言...付け加えれば...蕪村俳句/発句は、芭蕉とは異なり...そ

思想性表面には出ない...もののようです。でも、言語新鮮で...時代を

超えた洗練さが光ります...さあ、ともかく...の方を見て行きましょう...」

 


  <1>

    夏川をこすうれしさよ手にぞうり    
     

 

「うーん...手に草履(ぞうり)ですか...

  まさに、夏の川原のすがすがしく、涼しげな情景が、手に取るように伝わ

ります。そこには確かに、精神性は皆無です。ただ、夏の川原の涼しさが、

短い言語で、強烈なイメージとして迫って来ます。

  正岡子規の言う...“俳句は、絵画的・写生でなければならない”...

というのがよく分かる句です。俳句でもこのような、風景描写性というもの

もあるわけですね...

  子規は、ここが新しい俳句には、重要だと主張しているわけですか。ふ

ーん...そうですか。もっとも絵画でも、そこに内面性や精神性さえも感じ

させる肖像画もあります。そして、単にすがすがしい風景画もあるわけです

よね。

  絵画表現と、言語表現の探求ですか...あ、そう言えば、音の表現の

探求が音楽ですし...味の表現の探求がお酒やお料理ですし...ええ

と...香りは、香道(香木をたいて、香りを賞翫/しょうがんする芸道)や、アロマテ

ラピー(花や木など植物に由来する芳香成分を用いて、心身の健康や美容を増進する技

術/行為)になるわけですね。

  いわゆる、人間の5感の探求が、芸実的に昇華して行くわけですね。そ

こに、それぞれの道の表現があり、感受性の受容の昇華もあり...文化

が深まって行くわけですね。

 

  さあ、夏川を超えて行くのは...僧形/旅支度をした...蕪村自身な

のでしょうか。それとも旅人の様子を、すこし遠くから眺めているのでしょう

か。あるいは、村の子供たちが川を超える風景の描写なのでしょうか?

  この...想像を豊かに膨らませる言語表現が...絵画とは違うわけで

すね。でも、絵画的・言語表現を手中にし、俳画の簡略性の中に、そのイ

メージを開放した蕪村は...キレのいい、絵画的・俳句というものを開拓

できたわけでしょうか...

  ともかく...楽しく...邪気のない...光に満ちた風景のスケッチです

よね。うーん...これが、蕪村の句ですか。確かに、一茶とも違いますし、

脱俗した芭蕉の句とも違います。

  例えば...芭蕉の句が、洗練された懐石料理とすれば...一茶の句

は、丼モノか、B級グルメ...蕪村の句は、それと比べると、ドレッシング

をかけたサラダのような感覚かしら...

  でも、1句だけでは分からないですよね...次を見て行きましょう...」

 

  <2>

 五月雨や大河を前に家二軒       

     (さみだれ)      (おおかわ)             
       

 

うーん...有名な句ですね...

  五月雨が降り続き...水かさの増大した大河が...ゴウゴウと流れて

います。これは、最上川でしょうか...その大河の前に、二軒の家が並ん

でいるスケッチです。大自然の迫力の前で、まさに肩を寄せ合っている風

景です。

  心細い2軒の家が、いっそう大河の猛威をかきたてています。この2軒と

いう軒数は、2人にも通じます。本質的なペア、男女2人の風景とも言えま

す。大自然に対峙しているカップルの、力強くもあり、淋しくもある情景です

ね。東日本大震災の直後、ということもあるのでしょうか。心細い人間の営

みと、大自然の豪快な様相が対比的です。

 

  ええと...芭蕉と蕪村の、五月雨を詠んだ次の2句は、よく比較されま

す...

 

     五月雨をあつめて早し最上川    (芭蕉)

                       

     五月雨や大河を前に家二件    (蕪村)

                 


  さあ...どうなのでしょうか?...蕪村の句の方が、荒々しく、大河の

水音/大河の地響きさえも聞こえてくるような句です。でも、雄大さでは芭

蕉の句に軍配が上がるのでしょうか。別々の情景を詠んでいるので、優劣

をつけるというのは心外でしょうが、蕪村は対抗心を燃やしていますよね。

  うーん...それでも...個人的に、どちらの句が好きかと言われれば、

私は芭蕉の句の方が、やや好きでしょうか...現在の所はです...

  結局、どちらが好きかは...自分の人格の中に、霊的に蓄積されてい

る、原風景(げんふうけい: 原体験におけるイメージで、風景の形をとっているもの)によ

るのでしょうか。

  俳句とは...自分が直接体験していない、遠い過去の霊的風景まで、

遡って行く力があるのでしょうか?...あ、もちろん私には、この世の構造

が、全て分かっているわけではありません。でも、自分の知らない情景まで

(よみがえ)り、そこに懐かしささえ感じるのは、何故なのでしょうか。

 

  さて、蕪村のこの句は...明治時代の巨匠/正岡子規が...“芭蕉

以上である!”...と最高評価を下した句として有名です。つまり、このよ

うに、比較して考察したわけですね。

  子規は、芭蕉の句の...“あつめて”...という言葉が、“巧み過ぎる臭

みがあり・・・面白くない”...のだそうです。芭蕉の句を、幾度も深読みし

ているうちに、そうした境地に到達したのでしょう...子規という人は、面

白い人ですね...ホホ...

  うーん...子規の批判も...“玄人(くろうと)過ぎる・・・臭みがある”...

と言えるのではないでしょうか?“巧み過ぎる臭みとか...玄人過ぎる臭

みとか”...妙なことを言い始めたものです...ホホ...

  でも...巨匠/正岡子規の言葉ですから...素直に拝聴し、もう少し

時間をかけ、ゆっくりと眺めてみることにしましょう。子規の心が、分かる時

が来るのかも知れません。

  ともかく...子規は...蕪村を芭蕉以上の俳人と見なし、最大級の評

価をしたようです。浅学な私には、詳細は分かりませんが...蕪村の絵画

的表現の俳句というのは...子規によれば、それほどに、優れたものの

ようですね。

    

  でも...ここで...あえて私見を述べさせてもらえば、それだけでいい

のでしょうか、ということです。芭蕉は...“風雅への妄執”/“禅を極めた

上での・・・文学的・求道者”として...“風雅の未知なる探求”...をテー

マとして歩みました。

  そして芭蕉は...求道者として、旅に死すことも覚悟していたわけです。

でも、子規は...絵画的なスケッチのキレ、その素晴らしさを最良としたわ

けです。ここは、それを認めても...禅道を歩む私としては...簡単には

譲歩できないところですよね。

  一方...子規ではなく、蕪村の方ですが...蕪村にとっては、俳諧はど

ちらかと言えば、余技(よぎ )だった側面も見えます。つまり、絵画の大家で

ることを、あるいは、主としていたのかも知れません。

  その証拠に、俳壇においても、蕪村は一門を拡大して行く野心はなかっ

たようです。また、心構えにおいても、文学的・求道者の芭蕉と、遊び心も

混ざった蕪村とでは、だいぶ違うものがあります。その分、凡人の私たちに

とっては、蕪村の方が近しいのかも知れません...ややこしいですね。

  もっとも、面白いことに...蕪村は生涯、芭蕉を非常に慕っていたわけ

です。その足跡をたどって、『奥の細道』を追体験しているわけですし、自

分の死後は、芭蕉碑(ひ: 後世に伝えるために、先人の氏名・事跡などを刻んだ石碑)

のある金福寺に...自分の遺体を葬るように、遺言したほどなのです。

  でも...また、ひっくり返すつもりはないのですが...晩年の蕪村の日

常というのは...風交の友や、趣味の合う仲間との、遊行に終始していた

ようですよ。

  嶋原(京都/下京区にあった遊郭の名称)/角屋(揚屋とし今も遺構が残る)で俳句

をつくったり...年老いて、小糸という芸妓と深い関係になり、門人の樋口

道立から意見されたりもしています。

  つまり...蕪村は、芭蕉を非常に慕い、『奥の細道』の俳画なども残し

ているわけですが、求道者としての芭蕉の生き方までは、まねをしようとは

しなかったわけです。

  その点...ホホ...私たちと同様で...通俗的な凡人だったのでしょ

うか。身近な、人間味を感じます。

 

  ええと...これは一茶も同様で...“芭蕉をまねても・・・芭蕉を超える

ことはできない”...という自覚があったのでしょう。

  おそらく、蕪村には...“芭蕉翁にはとてもかなわないし・・・オレには絵

師としての道もある・・・生まれてきたからには、人生を楽しむべきで・・・旅

に倒れるというのもどうか”...とでも思っていたのでしょうか。

  一茶も...“芭蕉翁を超えることは無理だし・・・そっくり真似るのもどう

か・・・器用に芭蕉を真似る俳人もいるが・・・そんな二番煎じはすぐ忘れら

れてしまう・・・一茶には一茶の俳句道がある”...と、俳諧行脚の空の下

で、思っていたのでしょう。

 

  ええ...私は浅学な身で...まだ俳句の全体を見渡すには、程遠い段

階です。でも、ともかくそういうことで...芭蕉/・・・蕪村/・・・一茶という、

江戸俳諧の系譜が、受け継がれて来たようです。もちろんその背後には、

何千何万という俳人が、累々(るいるい)と存在したわけですね。

  最後に、もう1句...高浜虚子(たかはまきょし: 明治7年〜昭和34年/1874年

1959年)の、最上川を詠んだ句があるので、ここに取り上げておきましょ

う...

 

      夏山の襟(えり)を正して最上川    (虚子)

                       



  虚子は幕末の時期...松山藩士の家に生まれ、同郷の正岡子規の弟

子になります。虚子の俳号は、子規より授かったものですね。さあ、いよい

よ昭和の足音が聞こえてきました...次の句を見て行きましょう...」

 

  <3>

  石工の鑿冷したる清水かな        

        (いしきり)   (のみ)

 

「この句の季語は...清水/夏ですね...

  “石工”と書いて、“いしきり”と読みます。もう1つ、“石切”という表記もあ

るようですが...同様の読みです。あ、もう1句あります...

 

   石切(/石工/いしきり)の飛び火流るる清水かな   (蕪村)

 

  いずれも、夏の石切り場の情景です。汗と、真夏のムンムンする熱気が

伝わってきます。石鑿(いしのみ)は、たたかれてさらに熱く焼けます。その火

打石の臭いする石鑿を、清水の中に放り込みます。本当に暑そうですね。

  健康的な、江戸中期の労働風景です...ここも精神性は皆無です。当

時は、石を吊り上げるクレーンも、石を切る動力も有りません。巨岩は筋

目を読み、ノミ穴を並べ、バカッ、と豪快に割るわけです。ホコリの中、石

切り職人の汗が飛び散ります。

  蕪村は、こうした活動的な労働風景を...絵筆同様に短い言語で、発

句として描くことに成功しています。そこに絵画を超えた、言語特有のイメ

ージを膨らませています。

  絵画は絵画の...言語は言語の...特有の長所があります。そして

蕪村は、その両面を融合できた俳人です。正岡子規は、そこに惚(ほ)れ込

んだのでしょう。ともかく蕪村は、独特の境地を開拓した俳人のようです。

  この句も...真夏の石切り場...熱く焼けた石鑿をスケッチし...蕪

村らしさをよく表現していると思います...」

 

  <4>

  滝口に灯を呼ぶ声や春の雨         

       (たきぐち)     (ひ)                                                                                                 (京都御所)

「この句の季語は...春の雨/春ですね...

  前の句とは、だいぶ趣(おもむき)の変わったです。後で、もう少し詳しく触

れることもあるかと思いますが...蕪村は後半生は、御所(ごしょ: 天皇の御

座所)のある、京都に居をかまえました。生まれたのは、摂津国(/大阪市)

すから、比較的近いわけですね。

  この...深く長い歴史の香る街の住人になった蕪村は...京都ならで

はの句も残しています。ここから、当時の京の街の空気が偲ばれます。当

時の雅(みやび)な御所の香りというものを、私たちに体現させてくれていま

す。

 

  句意は...春雨の降りしきる中、京都御所は夕闇が迫って来ました。

日常の一風景ですね。“滝口”というのは、清涼殿(せいりょうでん)の北東に

ある御溝(みかわみず)の落ちる所です。ここには、宮中警固に当たってい

る、武士の詰所がありました。

  ええと...この清涼殿ですが、紫宸殿(ししんでん)が儀式を行う殿舎であ

るのに対し...清涼殿は、天皇の日常生活の居所として使われた、と言

われます。この時代は、江戸幕藩体制下の京都御所になりますよね。

  小雨の中...御所に夕暮れが迫り...宮中警固の詰所に、“灯を呼ぶ

声”がします。ちなみに、御所の屋外用の灯火は、篝火(かがりび)や松明(た

いまつ)でした。

  春雨の中...篝火が焚(た)かれ...一時の緊張が流れます。

 

     春の夜に尊き御所を守(も)る身かな   (蕪村)

 

  ...という句もあるわけですから...“火かかげよ!”...という声を聞

いたのは、宮中警固の武士なのでしょうか。

  ある日...ある夕刻...御所の一風景です。そこに、濃密な事象が経

歴し...春雨が降り...雨の夜が重なり...歴史が紡(つむ)がれて行き

ます。

  うーん...京都御所の夕刻ですか...何とも、趣(おもむき)深い句です

ね...」

 

 

  

  選者の言葉 (2) 蕪村/邪気のないスケッチ 


              

 

支折です...

  東日本大震災/原子炉大災害の真只中ですが、今年は早い梅雨入りですね。

すでに、3か月に及ぶ被災生活をされている方々に、“心からのお見舞い”を申

し上げます。

  ええ...まさに、激動日本列島となっていますが...私たちは私たちの仕

事を、しっかりと、着実に前へ進めて行くことが、任務だと考えています...」

                


「さあ...そこで...

  今回は、蕪村発句の方を、多く取り上げてみました。これらのから、蕪村

感性人間性を汲み取って欲しいと思います。蕪村という人は、非常に感性の鋭

...それでいながら、私たちと同じスタンスに立っている...俳人です。

  でも、現代の俳人ではなく、江戸時代・中期/8代将軍・吉宗の治世下の俳人

なのです。紀州藩主/吉宗将軍職に就いたのは... 1716年です。有名な

享保の改革を断行し、大いに倹約(ムダを省き、出費を抑えること)に努めた時代ですよね。

  将軍職長男/家重に譲ったのが... 1745年ですから...その間/29

年間の治世になります。つまり、蕪村は、吉宗将軍職・就任の年に誕生し、この

8代将軍のもとで、若い時代を過ごしたことになるわけです。

  ええ...ともかく蕪村は、今から260年ほど昔の江戸時代・中期俳人です。

でも、不思議感性共鳴します。それが、現代俳句にも通じる、“写実的/絵画

的発句”の、迫真(はくしん: 真に迫っていること)ということになるのでしょうか...」

 

       首くくる縄切れもなし年の暮れ    (蕪村)

 

「ええ...

  この句は...京都での、蕪村貧乏暮らしを物語る1句です。京都府/下京

区/仏光寺/烏丸西入ル居宅に...借金取りを追い返すため、張られたもの

です。

  さすがの借金取りも、この名句にはあきれ、苦笑して帰ったというエピソード

伝えられています。相当な生活苦にあったようですが、洒落(しゃれ)がきいています

ね。

  うーん...正岡子規蕪村を...“貧窮のうちに死んだ・・・江戸時代/天明

期の俳人”...と見ていたわけですね...私は、そうでもないのではないか、と

しましたが...結局、その両面があったようですよね。

  ホホ...元々、そんな気はしていたのです。芸術家ですから、お金がある時も

ない時もあります。門人もあり、文人画も描き、また旦那衆支援もあったわけで

すが、商売人/実業家の感性はなく、金銭面も頓着しなかったのかも知れませ

んね。

  葛飾北斎(かつしか・ほくさい/1760〜1849年/江戸時代・中〜後期の浮世絵師)引っ越し魔

でしたし...レンブラント(1606〜1669年/オランダの画家)浪費癖も有名です。そう

そう、バルザック(1799〜1850年/フランスの小説家)浪費癖も有名ですね。芸術家

いうのは、時として、そういうものなのでしょうか。

  蕪村も...俳人・文人・画家などの社交場でもあった...嶋原(京都/下京区にあっ

た遊郭の名称)/角屋(揚屋とし今も遺構が残る・・重要文化財建造物に入れ上げ...円山応挙

(まるやま・おうきょ/1733〜1795年/江戸中期の画家。円山派の祖・・・孔雀図、雪松図屏風など、)や、

池大雅(いけたいが/1723〜1776年/江戸中期の文人画家、書家)など遊んでいたわけです。

  45歳頃結婚して、“一人娘/くの”も、そばにいる生活です。貧乏暮らしでは

あっても、一茶ほどの困窮とは様相が違うようですよね。でも、本質的に詩人

あり、金銭出世には、執着心が薄かったのでしょうか。

 

  ちなみに...“南画(なんが)/文人画(ぶんじんが)というのは...中国/“南宗画

(なんしゅうが)の影響を受け...江戸時代・中期以降に、日本独自のものに確立

れた、“絵の様式”です。これを大成したのが、与謝蕪村であり、池大雅です。

  “俳画”は、与謝蕪村創始者ですが、これも文人画範疇(はんちゅう)に入りま

す。俳画は、丁寧・緻密に描くのではなく、“簡潔に表現する・・・味のあるセンス”

というものが重要になります...むろん、これは南画にも共通するものです。

  さて...蕪村大雅、以降の文人画では...浦上玉堂(うらかみ・ぎょくどう/1745〜

1820年)谷文晁(たにぶんちょう/1763〜1841年)田能村竹田(たのむら・ちくでん/1777〜

1835年)山本梅逸(やまもと・ばいいつ/1783〜1856年)渡辺崋山(1793〜1841年)など

を輩出し...江戸時代・後期の、“一大画派”となっていったわけです。

  うーん...こう眺めてみると...蕪村南画大成者であり、俳画創始者

であり...俳人としても芭蕉以来“江戸俳諧・中興の祖”であり...当代一流

の文化人であったことは、間違いありません。

  その彼が...“首くくる縄切れもなし年の暮れ”...とは...ホホ...面白

い人ですね。そう言えば...ホホ...一茶もそうでした...

  ええ...脱線はこのぐらいにして、蕪村の方を見て行きましょうか...」

 

 

  <5>

  涼しさや鐘をはなるるかねの声   
 

「この句の季語は...涼し/夏ですね...

 

 句意は...早朝の涼しさの中、鐘が突かれている。鐘の響きが、1つ、

また1つと鐘を離れ、さわやかな空気の中を伝わり、風景にしみわたって

行くことだ...と詠んでいます。

  梵鐘(ぼんしょう: 寺の鐘)は、この世のけがれを払い、すべてを清らかにし

て行きます...何ともすがすがしい、早朝の鐘の響きです。

 

  蕪村の句は...ここでも精神性は皆無で、ただ鐘の音をスケッチしてい

ます。でも、その絵画的な活写(かっしゃ)の中に、早朝の鐘が選択されてい

ます。その鐘の音の伝わる情景が、心をさわやかにして行きます。

  精神性は、あえて詠まず...風景の活写の中に、蕪村の人柄や精神

性を反映させています。そこから、しつこさのない句が、構成されて来る

でしょうか。蕪村の達観(たっかん: 俗事を超越し、悟りの境地で物事に臨むこと)した

人間性を感じます...」

 

  <6>
  夕風や 水 青鷺の脛をうつ   house5.114.2.jpg (1340 バイト)

         (ゆうかぜ)          (あおさぎ)    (はぎ)

「この句の季語は...青鷺/夏です...

 

  夕風というのは、夕方に吹く風のことですね。夕涼みという言葉もありま

すが、夏の夕涼みというのは趣があります。すぐに、クーラーだの扇風機

だのというのではなく...自然と寄り添った、良き時代の風景です...

  現代では...花見に行くと、桜をまるで貪(むさぼ)るような感覚で眺めま

す。また桜の方も、これでもかと言うほど、並んで植えられています。そうな

ると...うーん...桜も、あまり美しいとは感じなくなりますよね...

  幼い頃...野辺の山桜や、畑の脇の数本のコスモスの花を、本当に清

(せいそ: 飾り気がなく、清らかなこと)で美しいと、飽(あ)かずに眺めていたも

のです。

  そう言えば、女性のファッションや、お化粧についても、同じことが言える

のでしょうか。ホホ...余計なことを申してしまいました。どうぞ、お気遣い

なく...

  ともかく...現代は...お店を出して商売をするのにも、そうしたビジネ

ス・モデルとかいうものがあるようですね。まるで、貪るかのごとく、お店を

展開するのでしょう。次々とチェーン店を作り、撒餌(まきえ: 魚や小鳥などを寄

せ集めるために、エサを巻くこと)で客を寄せ、投げ付けるように売りまくります。

  そうした結果...牛/生肉が大腸菌O−111で汚染され...、食中毒

を引き起こしてしまいました。多くの犠牲者が出てしまいました。うーん...

それにつけても、古き良き時代への、郷愁を感じます。

 

  さて...青鷺/アオサギというのは...サギの仲間では、最も大型種

なのだそうです。ここに入っているイラストは...似てはいますが、実は、

コウノトリなのです...ホホ...申し訳ございません。適当なイラストが、

手元になかったものですから...

  このコウノトリも...同じように水辺に生息しています。姿や特徴も共通

していますが、アオサギよりもさらに大型なのだそうです。水辺でこの種の

鳥を見かけたら、デジタルカメラに収め、確認して欲しいと思います...

  ええと、それから...脛(はぎ)というのは...脚の膝(ひざ)から踝(くるぶ

し)までの部分です。いわゆる、脛(すね)といわれる部分ですね。

 

  句意は...日が沈み...ようやく夕風が立った。岸辺では、さざ波が、

青鷺の脛を洗っている。優しい夕風が、何とも気持ちの良いことだ...と

詠んでいます。

  水辺の情景が、眼前に活写されるような句ですね。やはり、ここにも精

神性はなく、1枚の風景画のようです。蕪村の句というものが、少しは、分

かってきたのではないでしょうか...」

 

  <7>

  不二ひとつうづみ残して若葉かな 

      (ふじ)                                                                             (わかば)

 
 

「季語は...若葉/夏ですね...

 

  まず...“不二”の意味ですが...@ 2つと無いこと(/ふに)...A 2

つに見えるが、実際には1つであること(/ふに)...B 手紙の末尾に記す

語で、十分に意を尽くしていないという意味で、自分の文章をへりくだって

言うこと(/ふに)...それから、全く別の意味で、C 富士山のこと(/ふじ)

を言います。

 つぎに...“うずみ”の意味は、“埋み”ということで...埋もれるという

意味になります。あとは分かりやすい句ですよね。

 

  句意は...見渡す周囲全体が...むせぶような若葉で埋めつくされる

季節になった。その新緑の中で、残雪のかかる富士だけが、埋もれ残って

いることだ...と詠んでいます。

  蕪村が...旅の途上か、生活の合間に...こんな富士の姿を見たの

でしょうか。そんな蕪村の、動的な足跡を想像してみるのも、楽しいことで

すよね。

  あ...ええと...くり返しになりますが...蕪村もまた、西行・法師や、

宗祇・法師(そうぎ・ほうし: 1421〜1502年/室町時代・後期の連歌師)、そして、

芭蕉や後の一茶と同じように...僧形で旅をしていたようです。

  この僧形というのは...あちこちをブラブラしていても...比較的あや

しまれずにすんだ身分だったのでしょうか。西行・法師のように、朝廷や武

家にまで顔のきく僧侶や、念仏聖(ねんぶつひじり)のような半僧半俗の僧も

いたわけですね。

  乞食坊主などとも言われていたわけですが...全国の寺院が、そうした

修行僧を、多少なりとも援助していたわけです。少なくとも、やくざ者とは異

なり、寺の軒下ぐらいは、借し与えたのでしょうか...

  ともかく昔は...旅というのは、大きなロマンに満ちたものでした。でも

それは、命の危険を伴うものでもあったわけですね。治安の面、怪我や病

気の面、宿泊の面...それから資金面でも、現代とは比較にならないほ

ど必要だったと思われます。

  一生に一度の、“お伊勢参り(江戸庶民にとっては・・・旅行と言えば、お伊勢参り

でした)”でも...その軍資金/旅費を、みんなでコツコツと貯め、鍋や米を

持ちあい...東海道を大遠征したわけです...」

 

  <8>

  みじか夜や毛虫の上に露の玉   

                                          (つゆ)

 
 

「季語は...みじか夜/夏ですね...

 

  句意は...短い夏の夜が白々と明けてきた。庭先の草花には露が降

りている。そういえば...小枝にいる毛虫の上にも、透明な露の玉が光っ

ている...何ともすがすがしい、朝の風景だ...と詠んでいます。

  うーん...単純明快な句ですね。他意はなく...小さな毛虫に視点を

合わせた、蕪村らしい1枚のスケッチです。そこに...無為のすがすがし

い、早朝の時間が充足しています。

  自らはそれと知らず...ほのかな幸福と倦怠感と...そして、覚醒(か

くせい)の姿が漂います...いつしか心に残る、夏の朝のひと時です、」 

 

  <9>

  ほととぎす平安城を筋違に   

                                        (すじかい)                      
  (京都御所)

 

「季語は...ほととぎす(時鳥/不如帰)/夏です...

 

  まず、ホトトギスという鳥ですが...これはカッコウ目/カッコウ科の鳥

で、全長は28センチぐらいでしょうか。ヒヨドリよりも少し大きく、ハトよりは

少し小さい程度です。

  頭部と背中は灰色、翼と尾羽は黒褐色...そして、胸と腹は白く、黒い

横縞(よこしま)が入ります。あと、目のまわりには黄色のアイリングがありま

す。インターネットや電子辞書で、確認をお願いします。

  生息地は...アフリカ東部、インド、中国南部に分布しますが...アジ

ア東部で繁殖するものは、冬は東南アジアに渡るようですよ。日本には、

初夏に渡って来るので、俳句では夏の季語になっています。

  キョッキョッ、キョキョキョキョキ...と鋭く鳴き、この鳴き声が、“ホ・ト・

ト・ギ・ス”とも...“特許許可局”とも、“テッペンカケタカ”とも聞こえるよう

です。

  あ...ええと...ホトトギスは、夜中にも鳴くこともあるようですよ。とも

かく、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵(たくらん: 鳥が他種の鳥の巣に卵

をうみ、抱卵をさせること・・・ホトトギス、カッコウ、ジュウイチ、ツツドリに見られる)する習

性で知られています。ズルく、賢い、ハトよりも少し小型の、渡り鳥です。

 

  次に...平安城(へいあんじょう)ですが、これは平安京平安時代の日本の首

の異名です。平安京は、794年(延暦13年)に、桓武天皇(かんむてんのう)

により、この地が都と定められました。現在の、京都府/京都市の中心部

に相当します。

  この平安城/平安京は...基本的には平城京(奈良の都・・・奈良時代の日

本の首都)を踏襲し...碁盤の目のような、隋・唐の“長安城/長安の都”

に、倣(なら)ったものです。でも日本では、中国のような都市城壁というもの

は模倣せず、発達もしなかったわけですね...

 

  さあ...句意ですが...ホトトギスが鳴きながら...碁盤の目のような

平安城を...筋違/筋交(すじかい: 斜めに交差していること)に、一直線に飛

んでいった...と詠んでいます。

  うーん...壮大な句ですよね。これは、夜の聴覚的な情景なのでしょう

か。句からは、その辺りは分かりませんが...

  でも、夜ならば...鋭い鳴き声が薄闇を切り裂き、渡って行く情景は、1

枚の絵になります。逆に...昼間の光の中では、句が視覚的になり、周り

もビジュアル(目に見えるさま)になり...ホトトギスの特徴が弱くなります。ど

うなのでしょうか...?

  ホトトギスは...夜も鳴くといっても、闇夜を飛ぶフクロウほどの、夜行

性は持っていないと思います。でも、夜も鳴いているわけですから、月明か

り程度なら、平安京の空を、一直線に飛んでいくこともあったのでしょうか。

 

  うーん...こうした雄大さも、蕪村の句の特徴の1つに数えて置いてみ

ましょうか。今後、検討してみましょう。蕪村という人は、本当に、面白い人

のようですね。絵も描きますが、芭蕉のような求道者ではありません...

  その点...私たちに近いのかも知れませんが...そう思っているとグ

イと突き離し...少し高みの所へ逃げてしまいます...

  それに...京都御所のことを詠んだり...色々な側面を見せてくれま

すね。まだ、蕪村の全体像というものが見えてきません。実に、不思議な、

身近な人ですよね...」

 

 

 

  選者の言葉 (3)蕪村/春・五月雨・雲の峰    

          

支折です...」支折が、両手をそろえ、頭を下げた。「梅雨真只中ですね...

東日本大震災/被災地のことが、常に頭をよぎります...

 

   さて、今回は...蕪村有名な春の句と...季節がら、梅雨(つゆ)/五月雨(さみ

だれ)の句...それから、夏/雲の峰の句を...取り上げてみました。私は、蕪村

研究を始めたばかりで、まだ全体像は掴めない状況ですが、そこが楽しい所で

もありますね...

  そんな私が感じるのは、蕪村という人は随分と...“幅の広い人格/遊び幅の

ある人格”...のようですね。それが、どのようなものかは、説明するよりも、彼

作品群(・・・俳句、俳詩、俳画、文人画など)から、汲み取って欲しいと思います。

  ともかく今回は、蕪村をできるだけ多く取り上げます。そこから、私なりに、

蕪村の人間性というものを、考察してみたいと思います。御一緒にどうぞ、考察し

てみてください...

 

  ええと...蕪村には、春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)という作品があります。

これについて、正岡子規は...俳句やら漢詩やら・・・何やら交ぜこぜにものし

たる・・・蕪村の長篇にして・・・蕪村を見るにはこよなく便となるものなり」...と

いています。その、書き出しはこうです...

 =春風馬堤曲=  

 

余一日問耆老於故園

渡澱水過馬堤            

偶逢女帰省郷者           

先後行数里

相顧語

 

( 私はある日、古い友人に逢うためふるさとを訪ねた。

 淀川を渡り、馬堤という所で、たまたま帰郷する娘さん

と一緒に同じ道を歩いた。後になったり先になったりす

るうちに、自然と親しくなり話をするようになった...)

             

         

  これは...蕪村が子供の頃、摂津国/東成郡/毛馬村(大阪市都島区)(つつ

み)で出会った少女がモデルの、フィクションのようだ、ということです。

  俳句漢詩を組み合わせたこの俳詩は...大阪から蕪村故郷/毛馬村

の道行きの形をとり...少女の望郷の思いに託して...蕪村自身の思いを述べ

ているようだ...ということです。

  私は、ほんの少しのぞいただけですが、興味のある人はインターネットで検索

し、本文をお読みください。私の方は、もう少し蕪村を知ってから、そのうちに読む

ことにします。

  うーん...還暦を過ぎた蕪村には、故郷への深い思いがあったようですね。と

もかく、全体的な位置づけは分かりませんが、こういう作品があるということだけ、

紹介して置くことにします。

  ちなみに...萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう: 1886〜1942年/群馬県に生まれた詩人。口語

自由詩による近代象徴詩を完成・・・)は...蕪村郷愁の詩人と呼んでいたそうです。こ

の作品から、そうした思いを読み取ったのでしょうか。うーん...何と言っても、

太郎の言葉ですから、重いですよね...

  あ...ええと、それでは...蕪村の方を見て行きましょうか。今回は、多

めに、を取り上げてみました...」

 

 

  <10> 

 春の海 ひねもすのたりのたりかな 

 

                          「季語は...春の海/春ですね...

 

  蕪村の非常に有名な句です。ひねもすとは、1日中、という意味です。

のたりのたりは...うーん、辞書を引いてみると...“緩やかにノン 

リと動くさま...だそうです。

 

  句意は...春の穏やかな日差しの中で、風も凪ぎ...一日中、のたり

のたりと時が過ぎて行く...というほどの意味でしょうか。蕪村の句で、雄

大さという視点を1つ提案しておきましたが、これもその“雄大な句”の部類

に入るでしょうか。

 

  こうした蕪村の句と比べると...まず、一茶には、海を詠んだ句は少な

いようですね。海のない、信濃/柏原で生まれたからでしょうか。でも、こ

れも、説得力のない説明ですよね...ホホ...

  それに一茶の句は...雄大というよりも、そもそも構造的に、非常に小

さくまとめられている様子です。あ、でも...こうした比較は、全体を見渡

した上で、改めて行うつもりです。今回は、雄大な句”という視点で、少し

触れておきました。

  あ、そうそう、一茶には...木曽山へ流れ込みけり天の川...とい

う雄大な句がありますよね。でも、これは芭蕉の...荒海や佐渡によこ

たふ天の川...という句を、強く意識したものですよね。

 

  うーん...春の海 ひねもすのたりのたりかな...ですか。子供には

子供の、若者には若者の、そして老人には老人の...穏やかで/飽き飽

きするほど退屈で/振り返った時には限りなく貴重な...人生の中の春

時間が流れて行きます...

  それは...昔も今も、それぞれに変わらないようですね。人生という旅

の中で...本人はそれと知らず、静かな、無為の...貴重な時空の結晶

風景が流れて行きます...そして、それを覚醒するのが...“悟り”...

ということなのです...」

 

  <11>

  春の暮 家路に遠き人ばかり     

「季語は...春の暮/春ですね...

 

  句意は...ようやく寒い冬が去り、花も咲き、春がやって来た。日も長く

なったので、人々はそれを楽しみ、それ惜しむかのように、家路につくのも

遅くなっていることだ...というものです。人々のほのかな共鳴は、まるで

春のぬくもりそのものですね...

 

  うーん...蕪村の、言語によるスケッチのキレが冴えます。また、蕪村

という俳人の、世の中を見る視線/人間性というものの豊かさと、清浄さ

が感じられます。

  このようなコメントを...あえてしたくなるのも...現代社会の呆(あき)

れるような、モラルハザード/陳腐の雲が...社会全体をおおっている

からでしょうか。東日本大震災という国難の中で、不謹慎な政治/軽薄な

文化が、続いています。

  あ、申し訳ございません...つい、こんなことを言ってしまいました。え

えと、これと同じような情景を詠んだものに...

 

はるさめや 暮なんとしてけふも有(あり)  (蕪村) 

 

   ...という句があります。これも春の暮れ...暮れようとしながら...

いつまでも、こぬか雨が降っている、と詠んでいます。その中に...現在

の覚醒/心境...を詠んだものすね。うーん...そこに、人生の充足感

が感じられます...」

 

  <12>

  菜の花や月は東に日は西に     

 

季語は...菜の花/春ですね...

 

   うーん...これも、蕪村の非常に有名な句です。これは、昭和の時代

の、流行歌の歌詞にもなっていますよね。私はそっちの方から、月は東

に日は西に...というフレーズ(句・・・音楽で楽句)を知りました。

 

  句意は...見渡す限り菜の花の咲く頃...日が西に傾き、東の空には

もう月が昇っている...というものです。菜の花畑は、赤く夕日に染まって

いるのでしょうか...そんな情景が目に浮んできます...

  その季節には、こんな天体現象もあるということですね。これも、蕪村の

 雄大な句と数えておきましょうか。

 

  それから...丹後地方(/京都府北部・・・丹波の向こうの、丹後半島の地方)

は、当時こんな盆踊り歌があったようです。

 

   月は東に、

      すばる(おうし座/ブレアディス星団/M45/6連星)は西に、

         いとし殿御(とのご)は真ん中に        (/不明

 

  これは、蕪村の時代(/明和年間)に出版された、『山家鳥虫歌(さんかちょ

うちゅうか)』...という本に載っているそうです。昴(すばる)は、枕草子にも出

て来るように、当時でもよく知られていました。蕪村は、この本を読んでい

たのかも知れませんね...

  それとも...母親が、丹後/与謝の出身でしたから...そうした関係

から耳に入っていたのでしょうか。あ...蕪村も、この地に3年ほど、逗留

したことがあるようですよね...

  うーん...ともかく蕪村は、この歌を知っていたと思われます。本歌取り

(/古歌の語句や趣向などを、とりいれて作ること・・・)ですね...でも、こっちの方

が超有名になり、昭和の流行歌にも借用されていますよね...」 

  <13>

  さみだれの 大井越たるかしこさよ   

       
(五月雨)

 

「季語は...もちろん、五月雨/夏ですね...

 

  大井とは、大井川のことです...駿河の国/静岡県にあります。江戸

時代には、天下の要衝(ようしょう: 軍事・交通・産業の上で、重要な地点)である東

海道の大井川は、軍事戦略上、橋を架けることは御法度(ごはっと: 禁じ事)

とされていました。

  ちなみに、東海道の著名な川では...天竜川、富士川、六郷川(ろくごう

がわ)は、渡し船の設置が許されていました。そして、酒匂川(さかわがわ)

興津川、安倍川、大井川は、徒歩渡し(とほわたし)とされていたようですよ。

 

  うーん...越すに越されぬ大井川...などとうたわれ、大井川は東

海道の難所として有名でした。そこでは、旅人は川越人足(かわごしにんそく)

の肩車に乗ったり、馬や、大小の輿(こし)に乗って、川越(かわごし)をしまし

た。格式/身分、そして多少の見栄(みえ)もあったようですね。

  でも...その金子(きんす: おかね)を惜しむ人たちは、荷物・衣服・刀など

を頭の上にくくりつけ、褌一丁(ふんどしいっちょう)で川を渡ったようです...

ホホ...夏なら、それもいいですよね...

  でも...橋も船も御法度でしたから...川は、しばしば増水で危険にな

、“川止め/川留となりました。これは、強制的な渡河の中止です。川

留になると、大名でさえ、渡河を許さなかったということです。もし、強行

れば幕命違反ということで、厳しい処罰があったようです。

  そこで...川越のための、大きな宿場が形成されました。梅雨時など

は何日も足止めを強いられ、宿場は喜び、旅人は難儀したようです。参勤

代の大名行列などは、こうした意味からも、梅雨時の大旅行は避けたの

でしょうか。

  うーん....何故、こんな非合理なことをしたかを...もう少し、詳しく説

明しましょう。この大井川というのは、江戸/関東の軍事防衛拠点に加え

て...家康公の隠居城/駿府城の...外堀ともなっていたようですね。

  家康公が没するまでの大御所・政治時代には、駿府は江戸と並ぶ政治

・経済の中心地として、大いに繁栄したようです。そのために、

し舟は、大井川/外堀をやすやすと越えてしまうので、御法度となってい

たわけです。

 

  つまり...箱根の関所神奈川県/箱根町箱根/・・・芦ノ湖の湖畔や、荒井

(新居)の関所(静岡県/湖西市)と同様に...大井川は、軍事的な要衝となっ

ていたわけですね。それに加え、大御所の隠居城もあったわけです。

  ええと...さらに、もう1つ...別の大きな意味がありました。これは、

参勤交代の制度と同様に、幕府の威圧政策でもあったわけですが...同

時に...家康公の隠居城/駿府城下の下々に...宿場形成の、莫大な

富をもたらしていたわけです。

 

  大井川は、常水を2尺5寸...それ以上を、増水としたようです。増水2

尺/・・・合計4尺5寸で...一般人は川留となりました。さらに5尺で...

公用も含め、全面川留となったようです。

  ええと...参考までに、次のような句もあります...

 

    みじか夜や 二尺落ちゆく大井川   (蕪村)

 

    五月雨の 雲吹き落せ大井川      (芭蕉)

  ...いずれも、往時(過ぎ去った時)の大井川の様子が偲ばれます。みじ

か夜/短夜/夏の夜には、水位が一晩で2尺も下がっているのが詠まれ

ています。そうなれば、もちろん、川留も解除になります...

  また、逆に芭蕉は...五月雨の雲吹き落とせ・・・”とは...その諦め

にも近い、人々の願いを詠んでいます。

 

  さあ...本題の句意ですが...

 

     さみだれの大井越たるかしこさよ  (蕪村)

 

  ...とは...ともかく五月雨の季節には、うまく渡河できれば、それは

非常にかしこいことだ/要領がいいことだ”...というわけです。大井川

川留がいかに難儀なことだったかが偲ばれます。

  後は...梅雨の晴れ間に富士山を眺めながら、江戸へ上って行くのも

良し...富士を背に、尾張の方へ下って行くのも良し、ということです。さ

ても、難儀を1つ、通り越したということですね...

  芭蕉も、蕪村も、一茶も...この東海道の難所/大井川を、何度となく

渡河しているわけです。そうした難儀もまた、古(いにしえ)の郷愁を誘う風景

です。島田宿と金谷宿が、両岸にあり、大いに繁盛したようですね。歌川広

重の版画/『東海道五十三次』に、その様子が描かれています。

  新幹線や飛行機で、ビュッ、と超える現代にはない、趣深い人生の旅路

が望見されます。昔の人々にとって、真に、旅が大きなロマンだったことが

よく分かります。

  でも、それは、誰にもできることではなかったわけですね。江戸庶民に

は、一生に一度のお伊勢参りが、それこそ大冒険だったわけです。また、

当時の旅は、様々な意味で、死に遭遇する危険も高かったわけです...」

 

  <14>

 さみだれや 名もなき川のおそろしき wpe75.jpg (34365 バイト)      

       (五月雨)

                                  

                          「季語は...五月雨/夏ですね...

 

                            句意は...五月雨の増水は、著名な大河川ばかりではなく、名もなき

                          幾多の川が、非常に恐ろしい...と詠んでいます。

                            実際に、かつては川の増水というのは、非常に恐ろしいものだったよう

                          ですね。あ、もちろん、今でもそうなのですが... 

                         

                            五月雨/雨季の長雨は...稲作には必要なものですが、旅人にはつ 

                          らいものでした。でも、それをも“風雅”として、芭蕉や蕪村は、俳句に詠

                          んでいるわけです。

                            そうした様々な出来事...旅の艱難辛苦(かんなんしんく)があって...

                          それゆえに、富士の雄姿や、雨に咲く紫陽花(あじさい)美しさに感動で

                          きるわけですね...」                     

                          

  <15>

 さつき雨 田毎の闇となりにけり   

                   (たごとのやみ)

 

「季語は...さつき雨/五月雨(さみだれ)/夏ですね...

 

  まず、田毎の闇(たごとのやみ)ですが...うーん...これには説明が

必要です。田毎の月(たごとのつき)というは、信州/姨捨山(おばすてやま)

の麓の、棚(たなだ)に映る月のことです。ここは月の名所の1つです。

  西行、宗祇(そうぎ)、芭蕉、一茶も...それぞれこの地をたずね、歌や

句を詠んでいます。それにしても...姨捨/長楽寺の周辺には、蕪村の

句碑とかは無いようですね。蕪村は、この地を訪れてはいないのでしょう

か...

  でも、芭蕉に習ったのでしょう...芭蕉が、“田毎の月”を、元旦/初日

の出の“田毎の日”としたのにひっかけ...冗談好きな蕪村は、田毎の

と、茶化しているわけですね...ホホ...他愛のない遊びですね...

 

       元日は田毎の日こそ恋しけれ   (芭蕉)

 

        姥捨た奴も一つの月夜哉       (一茶)

  ここでも、蕪村は芭蕉を深く敬慕していたことが分かります。したがって、

芭蕉の人格である...風雅の求道者・・・風雅に深く恋をした苦悩...

というものをも、深く知り抜いていたわけです。その上での、蕪村の戯言(ざ

れごと)/ジョークです。

  蕪村という人は、本当に面白い人ですね。芭蕉を深く敬慕していながら

も、芭蕉と同じ道は歩まなかったわけです。そして、南画/文人画/俳画

を描き...遊郭にも通ったというわけです。

 

  句意は...さっき雨の季節には...田毎の月も、田毎の日も、

田毎の闇になっていることだ...と詠んでいます。うーん...深い意味

はないようです。

  でも、蕪村は、どんな顔をして、こんな戯言の句を、詠んでいたのでしょ

うか...ホホ...」

 

  <16>

 雲の峰に 肘する酒呑童子かな     

                
 (ひじ)         (しゅてんどうじ)

 

「季語は...雲の峰/・・・積乱雲・入道雲/夏ですね...

  

  この句で説明を要するのは...酒呑童子(しゅてんどうじ/酒顛童子、酒天

童子、朱点童子...とも書くようです)という固有名詞でしょうか。

  酒呑童子は、京都と丹波(京都の北西方向の地。さらにその向こうには、丹後半島

があります)の国境に住んでいた、鬼の頭領だそうです。 

  本拠は大江山(丹後/833メートル)で、宮ような御殿に棲み、あまたの

鬼たち従えていたといいます。1説では、盗賊とも言われています。

  また、1説では...酒呑童子は、越後国の蒲原(かんばら)郡中村で誕生

したと伝えられるようです。伝説の大蛇(だいじゃ)/八岐大蛇(やまたのおろち)

が...スサノオ(日本神話の神: イザナギとイザナミの子で...天照大神/アマテラス

オオミカミの弟。多くの乱暴を行ったため、姉の天照大神が怒って、天の岩度にこもり、高天

原から追放した...)との戦いに敗れ...出雲国から近江へと逃げ...そこ

で、富豪の娘との間で子を作ったといわれます。

  つまり、その子供が酒呑童子という説です。神話の世界の話となると、

真偽のほどは、私たちには分かりませんね...

 

  ええと...京都の周辺では...丹波の方向に出る入道雲のことを...

丹波太郎と呼ぶことがあると言います。

  つまり...雲の峰/入道雲/丹波太郎...ということであり...丹

波・丹後/大江山/酒呑童子...とつながるわけですね...ともかく、

の連想です...

  

  句意は...丹波・丹後/大江山に棲んでいる...鬼神/酒呑童子が、

雲の峰に肘を当て...豪快に酒を呑んでいることだ...と詠んでいるの

でしょうか。

  ホホ...これは壮大な...蕪村の夢想/戯言(たわごと、ざれごと)/ジョ

ークであり...これも、大した意味はないように思います。でも、山にかか

入道雲を見て...酒呑童子が肘かけにして、酒を飲んでいる姿を想像

するとは、気宇壮大なことです。

  これも、蕪村の“雄大ん句”、と数えておきましょうか。でも、だいぶ、マン

的なジョークですよね。この辺りが...蕪村が、いかにも現代風な感性

ち...身近に感じられる所以(ゆえん)かも知れませんね...」

 

  <17>

  曠野行く 身にちかづくや雲の峰     

        (あらの)

 

「季語は...雲の峰/・・・積乱雲、入道雲/夏ですね...

  “雲の峰”で、蕪村にはもう1つ似ている句がありました。掲載しておきま

す...

 

      廿日路(はつかじ)の 背中に立つや雲の峰  (蕪村)

 

 それから、すでに取り上げた、芭蕉と一茶の“雲の峰”の句も、もう一度

並べてみましょう。 

 

     雲の峯幾つ崩て月の山      (芭蕉)

 

     しづかさや湖水の底の雲の峰  (一茶)

 

  さあ、本題の句...ですが...これは何時の頃、何処の旅の途上で、

詠まれたものなのでしょうか。私は、浅学のため、分かりかねています。そ

れとも、曠野/荒野とは、人生という旅路の象徴なのでしょうか?

  ともかく...我身の行く手に、巨大な雲の峰/入道雲が迫って来ます。

ものすごい迫力ですよね。でも、これは、蕪村の得意とする風景の活写な

のでしょうか。それとも、人生の旅の途上で、巨大なイベントに立ち向かっ

ている、ということなのでしょうか?

  うーん...、蕪村の場合は...余計な詮索はしないで...素直に、そ

のスケッチを受け入れるべきなのでしょうか。これも、非常に“雄大な句”

です。そして、動的なダイナミズムがありますよね...

 

  それから...“廿日路の 背中に立つや雲の峰”...の方は、場所は廿

日路と明白です。でも、この廿日路がよく分りません。江戸から京都へ下る

途中の木曽路という説もありますが...日数/廿日路ばかりの行程...

という意味もありますよね。

  それとも...広島県/廿日市市と関係するのでしょうか。その辺の道路

はみんな廿日路なのでしょうか?

  ホホ...また、浅学のほどをさらけ出してしまいました。あ、でも...と

もかくこの句は、前方に雲の峰があるのではなく、背中に雲の峰を背負っ

て歩いているわけですね...うーん...

 

  さあ、本題の...“曠野行く 身にちかづくや雲の峰”...句意ですが、

広々とした荒野を歩いて行くと、ぐんぐんと我が身に雲の峰/入道雲が近

づいて来る...と詠んでいます。雄大で迫力があり、若いエネルギーが満

ちているのを感じます。

  蕪村自身も若く...放浪の中で、夢があふれていたのでしょうか...

人生の中には、確かにこのような、青春時代特有の感性/時節といもの

がありますよね...

 

  でも、こうした底抜けの明るさは...時代そのものが...ドッシリと落ち

着いていればこそです。それにつけても...現代日本の姿は、情けない

限りですね。

  元凶は...政治・行政・文化の全てが...経済原理/経済至上主義

で動いていることでしょうか...文明はすでに、“脱・資本主義”の方向へ

向かいつつありますが、旧パラダイム/既得権を離脱するのは、やはり簡

単なことではありませんね...

 

  これは...ここで話すようなコトではないのですが...せっかくの折で

すら、くり返しコメントしておきましょう。

  それは...バーチャル世界でいかに巨大資本を積み上げても...“世

界市民”がソッポを向き...自給自足生活/スローライフを選択し...資

本というものに従わなくなれば...巨大資本は、何の価値/意味も無くな

るということです。

  資本主義もまた、世界市民の合意の上で波動しているということです。

その価値観が今、人類文明レベルで、見直しが始まっているということで

す。その証拠に私たち日本人は、もうモノをあまり欲しがらなくなっていま

すよね...価値観が、大きくシフトし始めているのです。

 

  私たちは今...“文明の折り返し/反グローバル化・・・人間の巣のパ

ラダイム/自給自足社会”を...提唱/推進しています...

  人類文明が...こうした方向へ舵を切れば...再び、蕪村の時代のよ

うな...底抜けの明るさが、戻って来るのではないでしょうか...?」

 

             

 

 

 

  選者の言葉 (4)  蕪村/幅広い人格  house5.114.2.jpg (1340 バイト) 

 
              
 

「...星野支折です...」

  支折がテーブルに指を立て、スッ、椅子に掛けた。インターネット・正面カメラを

見上げ、深々と頭を下げた。

東日本大震災から...7月11日で...もう4カ月が過ぎたわけですね。

  復興は、立法府・行政府というエンジン不調のため...遅々として進んでい

ない様子です。いよいよ... “失速が・・・懸念される状況” ...となって来まし

た。たいへん、心配しています...」

<日本人の肉食制限の歴史> 肉食  

 

「さて、今回は...

  “日本人の・・・古来からの肉食制限”...の話をしたいと思います。日本

伝統的肉食制限は、非常に古く、どうやら飛鳥時代(あすかじだい)に始まったもの

らしいですね。

  飛鳥時代という歴史区分は...崇峻天皇(すしゅんてんのう)5年(592年)から、和銅

3年(710年)118年間...飛鳥(奈良県/高市郡/明日香村)に、“都”が置かれていた

時代を指します。草創期古墳時代・末期と重なるようです。

  でも、狭義の意味では...推古天皇(すいこてんのう)・元年(593年)に、聖徳太子

摂政(せっしょう: 君主に変わって政治をとり行うこと。また、その人)になってから...以後...

統天皇(じとうてんのう)・8年(694年)の、藤原京(/飛鳥京の西北部・・・奈良県/橿原市。中国/唐

の都/長安を模し、碁盤の目のように区画整理された。ただし、長安のような城壁はなかった。)への遷都

(せんと: 都を田の地に移すこと)までの...約102年間飛鳥時代としています。いずれ

にしても、その差はわずか、16年間です。

  推古天皇/摂政・聖徳太子“推古朝”では...飛鳥文化が、大きく開花しま

した。そして、“天武(てんむ)・持統(じとう)朝”(天武天皇、持統天皇の時代・・・持統天皇は天武天

皇の后で、後に天皇の位につきました)には...白鳳文化(はくほうぶんか)が、大きく開花しま

した。

 

  ええ、余計な説明をしましたが...この白鳳文化・時代の、天武天皇の治世/

天武4年675年)に...“詔/・・・勅”(みことのり: 天皇の言葉。天皇の命令を、直接に下す文書)

で...“牛・馬・犬・猿・鶏を・・・食することを禁止”...しました。つまり、“天武

天皇の詔が・・・最初の肉食禁止令”...だったようです。

  江戸幕府/5代将軍/徳川綱吉の...生類憐みの令...と似ているわけ

すが、本質的な違いがあります後者の方は、“天下の悪法”と呼ばれていて、

の目的も、“世継ぎが欲しい!”という個人的な欲望が背景でした。つまり、“お

犬様”を大切にすれば、“お世継ぎ”が授かる、と言われていたわけですね。

  私は...天武天皇持統天皇も好きなのですが...“肉食禁止の(ちょく

れい: 天子や国王の命令)...もいいですね。もちろん、現在の民主主義の基準に当

てはめれば、いかにも“変な命令”ですが...“この勅令が・・・穏やかな日本人の

・・・精神基盤の(いしずえ)となったのかも知れません。

  ええ...この天武天皇について、少し説明しましょうか。天武天皇は、“大化の

改新”をした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ: 後の天智天皇です。そして、実は、

この天智天皇(てんちてんのう)天武天皇の間の期間に...古代最大の内乱/“壬

申の乱”(じんしんのらん)勃発しています。

  この乱は...天智天皇の弟/東宮(皇太子の住む宮殿。皇太子の別称)/大海人皇子

(おおあまのみこ/後の天武天皇と...天智天皇の子/大友皇子(おおとものみこ)との間の、

皇位継承問題で起こったわけです。

  結局...東宮/大海人皇子地方豪族を糾合し、反旗を翻して大勝利し、

武天皇治世となるわけです。形式的には、反乱者である大海人皇子勝利

るという、(まれ)な内乱でした。

  もっとも...そもそも、東宮天皇に即位するというのは当たり前であり、横槍

を入れたのは、大友皇子の存在です。あ、でも...どちらが正当かということは、

浅学な私としては、発言する立場にありませんね。

  ともかく、この悲劇は、天智天皇心変りが生み出したもの、と思われます。

としては、このことを予測し、万全の準備を整えていたフシがうかがえます。でも、

戦略の常として、こうしたケースでは、“士気が高い方が勝つ!”と、軍事・戦略

担当大川慶三郎さんが教えてくれました。うーん...そういうものでしょうか。

  実質的に...“東宮・地方豪族の連合軍”と、“天皇の直属の武力”衝突した

わけですね。また...取り巻きが多く、こうした構図が出来あがってしまい、肉親

の情では、話がまとまらなくなっていたのでしょうか。

  でも、それ以前の状況として...東宮/大海人皇子は...単なる平凡な皇太

ではなかったということです。朝鮮/百済への出兵などでも、力を尽くし、非常

人望が厚かった、ということです。

  状況としては、豊臣秀吉崩御し...関ヶ原の合戦で、徳川家康につくか、

田三成につくか、というような状況だったのでしょうか。家康三成では、次世代

を担うカリスマ(超自然的、超人間的な力を持つ)が、まるで違うわけですね。こういう場

合は、“士気が高い方が勝つ!”、ということでしょうか...

 

  あ、ついでに言うと...“天智天皇の治世・・・/天智2年/663年8月28日

に...(/中国)・新羅連合軍によって滅ぼされた、百済(くだら)を復興させるため

に、日本の水軍が、白村江(はくそんこう、はくすきのえ: 現在の錦江付近)最後の決戦を行

います。

  唐(/中国)水軍7000人新羅に増派し...日本では、天皇九州動座

(どうざ)し...662年/水軍170隻を派遣663年3月/27000人を増派、など

の資料等もありますが...百済を救援した、日本軍/日本水軍完敗します。

  “日本へ帰還した船/九州へたどり着いた船”は...ほとんど無く、全滅だった

ようです。そして日本は、大国/唐との戦に敗れたわけであり、事後処理が大変

でした。関東から防人(さきもり)九州に派遣されたのも、大国/唐の侵略を恐れ

たからです。当時の防人の歌が、万葉集載っていますよね。

 

  あ、そうそう...女流・万葉歌人額田王(ぬかたのおおきみ)も、この時代の人です

よね。天智天皇天武天皇...そして持統天皇の、おそば近くに仕えていたよう

ですよ。

  それから...くり返しになりますが...持統天皇は、天武天皇の后(きさき)/鸕

野讃良(うののさらら、又は、うののささら)皇女で、天武天皇の亡き後、持統天皇となるわ

けです。この時代は、飛鳥時代が最も輝いていた、白鳳文化(はくほうぶんか)が花開

いていた頃です。

 

  ええ、話を戻しますが...ともかく、天武天皇の治世に、(みことのり)で...

...を、食することを禁止したようです。でも、野の野獣の類

は、含まれていなかったようですね。したがって...鹿や、(いのしし)や、(うさぎ)

や、(きじ)などは...まだ一般的には、食べていたのかも知れません。

  でも、やがて...仏教思想により...殺生の禁止(けが)れの思想が広ま

り...庶民肉食に罪悪感を持つようになって行きます。ホホ...私などは、現

在もそうです...“慣習法の威力”とは、すごいものですね...

 

  ただ...こうした中で...武士だけは、武芸として狩りが許されていたわけで

す。当然、その肉は食べたわけです。

  そして...庶民また、“薬と称して・・・こっと肉を食べしていた”...

うですよ。そうしたを、いくつか拾い集めてみました...

       しづしづと五徳(ごとく)据えけり  薬喰(くすりぐい)   蕪村

 

  “薬喰(くすりぐい)といっているのは、獣肉を食べることです。を食べる習慣の

ない庶民も、冬の栄養補給には“薬喰”と称し、肉を賞味していたようです。ただ、

これは滅多にできることではなく...それも、人目を盗んでのことだったようです。

  この句でも...ずしずと五徳を置き...そろそろとを載せ...ひそかに

に、獣肉賞味した様子がうかがえます。庶民のささやかな、肉食パーティー

の様子がうかがえます。おそらく、や、や、時にはだったりしたのでしょう。

 

      妻や子の寝顔も見えつ 薬喰     (蕪村)

 

      薬喰 隣の亭主箸(はし)持参       (蕪村)

 

    客僧の狸寝入や 薬喰            (蕪村)

 

    戸を叩く音は狸か 薬喰       (子規)

 

  ええ...正岡子規明治の俳人ですが...その頃も、まだ庶民には、“薬喰

の感覚だったのでしょうか。それどころか、冷蔵庫の発達する昭和時代までは、

“薬喰の感覚”は、あったのかも知れませんね。

  研究してみると、面白いと思います。いずれにしても、日本人が貪(むさぼ)るよう

を食べるようになったのは、ごく最近のことです。しかも、ユッケレバーなど

と、生肉を食べるそうですよ。ホホ...私は、ユッケというのも、食べたことはあり

ません。

 

  さあ...蕪村の方に移りましょうか...今回は、9句を選びました。“蕪村

の幅広い人格”というものが、浮かび上がってきます...」 

 

 

  <18>

  動く葉もなくておそろし 夏木立 

                (なつこだち) 

「季語は...とうぜん、夏木立/夏ですね...

 

  東日本大震災の中...暑い夏が本格化しています。ガレキの山から、

裏山の方に視線を移すと、毎年変わらない深い緑が繁茂しています。津波

を逃れた夏木立も、黒々と深い影を落としていますね。

  その夏木立が...動く葉もなく...まるで、時間が止まっているように

感じる時があります。深い悲しみが、時間の中で結晶化し、全てが静止し

ているかのようです。まるで静止画のような...そして...真昼の夢のよ

うな...2011年/夏です...

  この、結晶化した悲しみの夏も...しっかりと記憶しておきましょう...

無風の、全てが止まった一瞬の真昼に...巨大な悲しみを押しこめ、結

晶化しておきましょう...そして、命の波/命のベクトルは...何かを求

め、無心に波動し、歩き始めます...

 

  “永遠”には、2つの概念があります。“永遠に続く・・・終わりのない時間

性”と...“時というもののない・・・無時間性”です。この句は、後者の方を

見ているのでしょうか。“時がない”...とは、どのようなものか...それ

を、考えてみて欲しいと思います。

 

  句意は...動く葉もなく、全てが止まって静寂となった、夏の真昼...

永遠の夏木立だけが...黒い影を落としている...と詠んでいます。蕪

村は、その夏木立の情景を...“おそろし”...と詠んでいます。ここに、

この句の本質があります。

 

  蕪村は...この静寂の夏木立の情景に、超越的存在感を垣間(かいま

見ていたのでしょうか。鋭い芸術家の感性は、しばしば、こうしたシュール

(超な感性を持つようですね...

  20世紀に...“シュル・レアリズム/超現実主義”という芸術の潮流が

起こりました。“深層心理/意識下の世界”を追求した芸術です。ドロリと

溶けたような時計を描く、サルバドール・ダリが有名ですね。蕪村の感性

は、その先駆けなのでしょうか...

 

  ええと...前に出てきた、一茶の“夏木立の句”も...う一度並べてお

きましょうか。

 

   利根川は 寝ても見ゆるぞ夏木立   (一茶)    

 

                           

 

  <19>

 垣越て蟇の避行かやりかな       

    (かきこえ)    (ひき)  (さけゆく)                                             (ヒキガエル)

 

「季語は...蟇(ひき)/蟇蛙(ひきがえる)/夏ですね...

 

  “蟇”は...無尾目/ヒキガエル科の両生類で...体長は10cm 〜

15cm ほどあります。稀(まれ)に、不意に見かけることがありますよね。敵

にあうと、白い毒液をだすそうですよ。そしてこの毒液が、“ガマの油”や、

“六神丸”として、薬に用いたのだそうです。

  うーん...“ガマの油”というのは、見たことがないのですが...それに

しても...本当に効くのでしょうか?ホホ...蟇蛙に聞いてみれば、分か

るかしら...

  “かやり/蚊遣り”というのは...蚊を追い払うために、草木の葉や木く

ずなどを燻(いぶ)したり、お香をたいたりすることですよね...また、その

燻すものや、器具類のことも、言うのでしょうか。

 

  上のイラストに、“蚊遣りブタ”があります。江戸時代にはすでに、“蚊遣

りブタ”はあったそうです。当時の武家屋敷の跡から、こうしたものが発見

されているそうです。

  あ、そうそう...申し訳ございません...上の、イラストの“蚊遣りブタ”

は、蚊取り線香をくわえていますが、蚊取り線香が発明されたのは、明治

以降になります。海外から除虫菊が輸入され、最初は棒状の線香にしてい

たそうですが、それを、長時間使えるように、誰かが渦巻状にしたのだそう

です。

 

  でも...何故、ブタなのでしょうか?不思議ですよね。肉食の行われて

いなかった当時、ブタだなんて...うーん...これも、調べてみると面白

そうですね。

  そうそう...当時の“蚊遣りブタ”は、杉の葉などを燃やしていたので、

現在よりも大型だったようですよ。それに、ブタというよりも、イノシシに近い

様子だったとも...

 

  句意ですが...“蚊遣り”が焚かれたので、池の築山(つきやま: 庭園など

に石や土を盛って作った小山)にいた蟇蛙が...のっそりと、垣根を越えて逃げ

出して行くことだ...と詠んでいます。

  大きな蟇蛙が、“蚊遣り”の煙で逃げ出して行くのが、いかにもユーモラ

スですよね。“雄大な句”を作る蕪村ですが、動物のこんな所作をも、俳句

にしているわけです...」

 

  <20>

  水桶にうなづきあふや瓜茄子     

     (みずおけ)                              ( うり なすび )

 

「季語は...瓜と茄子/夏ですね...

 

  蕪村は、江戸/中期の俳人ですが...つい最近の昭和時代でも、井戸

水を汲んだ水桶や盥(たらい)...あるいは清水の滝壺に、ナスやキュウリ

やスイカを、冷やしてあったものです。清水は、手がしびれるほど、冷たい

所もありました。

  お盆には...ビール瓶なども、井戸や清水に放り込んであったのを、見

かけました。懐かしい昭和時代の、豊かな夏を思い出します。

  うーん...思えば、あまりにも急速に...社会構造が変貌してきたもの

です。

 

  この句は...蕪村が、青飯・法師(せいはん・ほうし)に出会った時に、詠

れたものと言われています。“青飯・法師に初めて逢けるに・・・旧識のごと

く語り合て”...とありますから、よほど気が合ったのでしょう。蕪村の人柄

から、青飯・法師なる人物も、おおよその想像ができそうですね。

  それで...水桶の中の瓜と茄子のように、最初から...“そうだ!その

通りだ!”、と心からうなづき、語り合ったのでしょう。当代一流の、俳人/

絵師/蕪村であっても、本当に気の合う友と出会うのは、よほどうれしかっ

た様子です。

  もっとも、蕪村の高い評価は後世のもです。実際には、貧乏暮らしの中

で、瓜や茄子を食べながら、酒を呑み、語り明かし、この句をものにしたと

いうことでしょう。詳しいことは、分かりませんが...

  ホホ...“書生っぽい・・・放浪俳人”...の高笑いが聞こえて来そうで

すね。蕪村は、人づきあいの良い、誰からも好かれる、好人物のようです。

これも、蕪村の人格の1側面でしょう。

  蕪村は、芭蕉のような禁欲的・求道者にはなれず...軸足は常に、庶

民の中にあったのでしょうか?ともかく、非常に幅の広い人格が想像され

ます。浅学な私には、まだ蕪村という人が、分かりかねています...

  でも、そうした所に...私たちは蕪村の、懐の深さと、親しみを、感じる

のかも知れませんね。

 

  句意は...水桶の中に浮かんで、瓜と茄子がうなづきあっている。初対

面で、肌色も違うのに、仲の良いことだ...と詠んでいます。

  うーん...これも、深い意味を詮索するようなものではなく...ほほえ

ましい、1枚のスケッチですね。そこに、気のあった友との語りあいが重

ります。そして、何気に、そんなことをやっている蕪村に、私たちは親しみ

感じるわけでしょうか...」

  <21>

  朝顔や一輪深き淵のいろ

             
(いちりん)     (ふち)


「季語は...朝顔/秋ですね。ちなみに、朝顔市は夏の季語に

なっています...

 

 説明の必要な言葉は、ありませんよね...ただ、朝顔の季語で

すが、朝顔市が夏の季語で、朝顔が秋の季語というのは、微妙な

季節のうつろいを反映しているのでしょうか。

  ともかく...朝顔は、初夏ではなくて...盛夏〜晩夏〜立秋

の花...ということでしょう。晩夏のすがすがしい朝、蕾(つぼみ)

が開いて朝顔が咲いていたわけですね。特に、その中の1輪は、

深い淵のような藍色(あいいろ)をしていた...ということです。

 藍色というのは、濃い青色のことで、息を呑むような美しさだっ

たのでしょう。絵師でもある蕪村だからこそ、その深い藍色の美し

さが...その精妙で可憐な朝顔の命が...見えたのでしょう。

 

 句意は...朝顔の中に、1輪、深い淵のような藍色のものがあ

る...本当に可憐で美しいことだ...と詠んでいます。

 

 前にも言いましたが...現代日本では、桜や、コスモスや、ヒマ

ワリの群性を、まるで貪(むさぼ)るような眼で眺め回します。また、

そんな風に植えられていることもあり...その背後に、経済原理

のソロバンも使われています。

 でも...花を愛(め)でるには...蕪村のように1輪の花に寄り

添い...その命の賛歌を共有するのがいいですね。貪るように、

その可憐さを奪うがごとく、眺めるものではありませんよね。

 

  うーん...これは、私の反省を込めての言葉でもありますが、

貪るのは...覇者/覇道(武力や権謀を持って支配・統治すること)

眼です。行き過ぎた経済原理/競争社会が、私たちの精神基盤

を、こんな風に変えてしまったのでしょうか。悲しい姿ですよね。

 

  今、“日本丸”は...未来社会へ向かって、大きく舵を切ろうと

しています。それは、実はこんな所から、始まって来るのかも知れ

ませんね。

  “文明の折り返し/かつて確実に存在した/郷愁の時代への

折り返し”が...今、始まろうとしています。そのための社会的器

が...〔人間の巣/未来型都市/千年都市〕...だと思うので

すが、どうでしょうか...」

 

  <22>
  相阿弥の宵寝起こすや 大文字      

      (そ う あ み )       (よいね)                  (だいもんじ)


      

 

 

「季語は...大文字/秋ですね...

 

  まず...大文字“大文字・五山の送り火”...から説明しましょう。

これは、知る人ぞ知る、京都の晩夏を彩る...“大文字送り/京都の五

山・送り火”...のことですよね。

  8月の16日の夜、京都盆地を囲む山々に...“大”、“妙法”、“船形”、

“左大文字”、“鳥居型”...の順で、火文字/火形が点火されて行きま

す。うーん...江戸時代も、現在のようなものだったかどうかは、私は知

りません。これも、知る人ぞ知る、ですね。

  ともかく...お盆に迎えた先祖や故人の精霊を、あの世へ送り返すた

めの、“送り火”だそうです。起源は諸説あるようですが、さすがに、“古都

/京都”の風習といったところでしょうか。蕪村の時代/江戸中期には、

でに相当に大きな、観光イベントになっていたようです。

  毎年のように...多くの見物客を集め...蕎麦(そば)を食べたり...

盃に大文字を映して酒を呑んだリ...にぎやかだったようですよ。蕪村

陽気で、人好きで、戯言が好きですから、“大文字の送り火”などは、大好

きだったかも知れませんね。

  次に、“相阿弥(そうあみ)”ですが...これは銀閣寺慈照寺/・・・観音殿は

の庭特別史跡・特別名勝を作った庭師ですね。銀閣寺は京都市/左

京区にある、室町時代・後期/東山文化を代表する、臨済宗/相国寺派

の寺院です。

  ええと...くり返しますが、慈照寺には国宝が2か所あります。いわゆ

る、銀閣/観音殿(かんのんでん)と、東求堂(とうぐどう)の2か所です。

 

  さて...その銀閣寺は、大文字・送り火の背後にあたるようです...そ

れで、ビックリして...酒を喰らって“宵寝/酔寝”をしていた相阿弥は、目

を覚ますだろう...と蕪村はジョークを言っています。

  銀閣寺を造営したのは、室町時代・後期/足利義政ですから、当然、相

阿弥もその時代の人です。お盆で、精霊が招かれていたのでしょうか。そ

して、銀閣寺の庭で、“宵寝/酔寝”をしていたところを、そろそろ帰りの時

刻だと...“送り火”...で起こされたというのでのでしょうか...

  ホホ...愉快ですね。蕪村は、こんな“雄大な戯言(ざれごと)”を、句にす

るわけですね。そう言えば、酒呑童子(しゅてんどうじ)の句もそうでした...

  うーん...蕪村は教養の幅が広いので、戯言も歴史の彼方へ言い放っ

ていますよね。

 

  さて、句意ですが...“相阿弥の宵寝起こすや大文字”...とは、“相

弥さん...そろそろ、あの世へのお帰りの時間ですよ”...と耳元で、

かけるように、詠んでいるのでしょうか...?

  それとも、“大文字”は...銀閣寺の庭師/相阿弥も、仰天/ビックリ

巨大な火文字だ...こんな風景は、さすがに相阿弥も想像もしいな

かっだろう...と古(いにしえ)の時代に、戯言を叫んでいるのでしょうか。

いずにしても、“気宇壮大な句”ですよね...」

                  


「ええと...お盆ですが...

  江戸時代の庶民は、青竹の棚の上にムシロやゴザを敷き、台を作った

そうです。そこに、位牌、花、線香を並べ、おダンゴや、季節の野菜/果物

などを、お供えしたそうです。

  胡瓜
(きゅうり)と茄子(なすび)を使って、馬と牛を作ると地方もあったようで

す。“胡瓜の馬”は、祖先の精霊に早く来ていただくために...そして、“茄

子の牛”は、ゆっくり帰っていただくため...と言われています。

 

  あ、それから...盆と正月には、“藪入り(やぶいり)”...というものがあ

りました。かつては、子供は学校へ行くのではなく、奉公に出たらけです。

その奉公に出ている息子や娘たちが、この“藪入り”には休暇をもらい、家

に帰ってくるわけです。

  それは、1年に2回の、大イベントでした。息子や娘たちの方も、迎える

親たちの方も、ソワソワ・ワクワクです。

  “盆と正月が、一緒に来たようだ”...などというという諺(ことわざ)があり

ますが、“藪入り”は、それほど嬉しかったわけですね。いずれにしても、分

かれていた子供と親が、久しぶりの再開です。   

  

    やぶ入の夢や小豆(あずき)の煮えるうち    (蕪村)

 

  つかの間の再会の後、子どもたちはまた奉公先にもどって行きます。そ

して、しだいに大人になり...やがて、自分もまた、子供を持つようになっ

て行くわけです...」


  <23>

 毛見の衆の 舟さし下せ最上川    

       (けみ)                                            カタバミ: 庄内藩/酒井家の家紋・・・(譜代大名)

                                                       (現在の... 山形県/鶴岡市/鶴ヶ岡城...

                                                       明治初年まで約250年間、庄内を治める。戊辰戦

                                                       争において、抗戦の末、官軍に降伏・・・開城・・・ )

 

「季語は...毛見(けみ)/検見(けみ)/秋ですね...

 

  “毛見の衆”とは、米の収穫前に、出来高を検分する役人たちのことで

す。したがって、秋の季語になります。当時は、役人がやって来て、作柄を

査定し、年貢(ねんぐ)高を決めていました。

 

  “最上川”といいますから...ここは、庄内藩/酒井家の毛見衆の舟で

す。舟を見て毛見衆と分かるのは、時節柄がらもありますが、庄内藩/酒

井家の家紋/“カタバミの旗を、立てていたのでしょうか...

  あ、そうそう...私は、山形県の歴史については、特に詳しいわけでは

ないのですが、俳句のことであれこれと接触して行くと、少しずつ分かって

来ることもあります。そこで、目に触れたものを、少し記しておきます。

  この地方には...最上川をはじめとして、最上という地名が多いですよ

ね。それは、出羽山形藩/最上家/57万石というものが、存在していた

からのようです。

  最上家は、天下分け目の関ヶ原の合戦時に、東軍/徳川方についたよ

うですね。その戦いが有名な、“慶長出羽合戦/長谷堂城の戦い”、だそ

うです。これは慶長5年(1600年)に、出羽国で行なわれた、上杉景勝(西

軍)と、最上義光・伊達政宗(東軍)の戦いですよね。

  そこで、出羽山形藩/初代藩主は...最上義光(最上家/第11代当主・・・

それ以前にも、この地方に、大きな勢力を張っていたようです。)であり...仙台藩/

初代藩主は...伊達政宗伊達家/第17代当主であり...義光は政宗の、

叔父にあたるそうです。

  それから、最上家の改易がありました。そこで、信濃/松代より酒井忠

勝が、13万8千石で、出羽山形/鶴ヶ岡城に入った...ということになる

ようです。そして、以後、譜代大名として、戊辰戦争まで続きます。

 

  句意ですが...“毛見の衆の 舟さし下せ最上川”...とは、毛見の衆

を乗せて遡って来る川舟を...最上川よ、押し戻してくれ...と蕪村は、

民百姓の立場から詠んでいます。

  どうか、今年は石高の検分はしないでくれ、そして、年貢は取らないでく

れ...と訴えています。でも、たとえ嵐が来ようとも、1度でもそんな願いが

かなったことはないわけですね。恨めしい毛見衆の舟です。

 

  非常に豊かな庄内平野ですが...今年も毛見衆がやって来て、石高を

査定しています。そして、ほとんどの米を、この地から積み出して行ってし

まいます。青空と秋風の中で、民百姓が嘆いています。でも、平和な日々

ですよね。

  やがて...稲船(いなぶね)がにぎやかに最上川を下り、最後に酒田港に

集まります。そして、酒田港から大阪や江戸へ出荷されて行けば、それは

庄内米の新米です。これが、毎年くり返されていきます。

 

  酒田港から出て行くのは、北前船です。五百石船や千石船という大型船

になります。新米の他に、季節に応じて紅花(ベニバナ)や、北の海の幸など

も、積み出して行くわけです。

  ともかく...内海である日本海は、漂流してしまう危険も少なく、船によ

る交易は大いににぎわったようです。庄内平野から、京都/若狭湾は一

足です。そして、琵琶湖の湖水を使い、京都まで物資が運ばれます。

  大阪へは、山陰を回り、瀬戸内海に入り、大阪湾に入ります。江戸へは

大阪から江戸へ行くコースと、青森の津軽海峡を抜けて、太平洋の外海に

出るコースがあったわけです。

  外海/太平洋は、漂流してしまう危険があります。当時、羅針盤のなか

った日本の帆船は、沿岸に寄り添いながら航海していました。太陽の方向

を見定めつつ、そして嵐を避けて日和を見ながらの船旅です。

  それでも、船の輸送力というものは、莫大なものでした。良き時代の、日

本の海の風景ですね...」

 

  <24>
  口切や 五山衆なんどほのめきて       wpe52.jpg (32011 バイト) 

      (くちきり)      (ござんしゅう)

 

「この句の季語は...口切(くちきり)/冬ですね...

 

  “口切”とは...茶道で、新茶を入れて目張りをしておいた茶壷の、封を

切ることです。“口切の茶事”とは、旧暦/陰暦10月の初め頃、新茶の口

切をして催す茶会のことです...つまり、これは、晩秋の茶会なのです。

 

  “五山衆”とは...京都五山の僧たちのことです。京都五山とは、“五山

の制”のうち...京都の禅宗(臨済宗)の寺格...官寺の制度です。鎌倉

時代・末期から、北条氏は南宋(/中国)にならい、五山制度を導入し、鎌倉

の寺院を中心とする五山を選定しました。

  そして、室町時代になり...足利尊氏のもと、夢窓疎石(むそうそせき: 臨

済宗の禅僧)が中心となって...京都の寺院から京都五山が、新たに制定

されたようです。

  ええと...数回の選定変更がありましたが...室町時代/1386年に、

3代将軍/足利義満が相国寺を創建した後に...“五山”を、“京都五山”

と、“鎌倉五山”に分割、“両五山”の上に“別格”として、南禅寺を置く、とい

う改革が行われたようです。

 

  ちなみに...“京都五山”の寺格は...【南禅寺/別格】、【 天龍寺/

第1位】、【相国寺/第2位】、【建仁寺/第3位】、【 東福寺/第4位】、【

寿寺/第5位】、となるそうです。

 

  ええと...ここは重要なので...あえてコメントを入れておきます。今日

でも、“京都五山”とは...“京都の禅寺の格付”と、一般に勘違いされや

すいわけですが...これは正しい解釈ではないということです。

  “京都五山”は...あくまでも、足利氏の政治的な、格付けなのだそうで

す。例えば、有名な大徳寺があります。この寺は、後に、一休宗純・禅師な

どを輩出する、京都でも有数規模の禅宗寺院です。でも、後醍醐天皇に保

護されていたために、足利氏の時代になると、逆に格を下げられてしまい

ました。そして、後にこのような大寺が、五山制度からは脱却しています。

 

  さて、句の方に戻りましょうか...“五山衆なんど”、“ほのめきて”...

ら、どうやら、五山の僧たちが招待されていたのではないようです。

五山の僧を招待したつもりで...厳粛な面持ちで...茶会を催した、とい

うことのようです。

  京都は有名な茶所です。禅寺で喫茶の礼として始まった茶道が、やが

て、“茶の湯文化”として定着して来た経緯があります。蕪村など風流・風

雅の俳は、こうした茶道の席も、1つの遊び場だったのでしょうか。

  蕪村は...摂津国/東成郡/毛馬村(大阪市都島区)で生まれ...江戸

・関東に出て、俳諧/絵画の修行をしたわけです。でも、伝統文化の色濃

い京都の地に、腰を落ち着かせたわけですね。

  蕪村には、京都の水が合っていたのでしょうか。それから、母親の郷里

/丹後半島の方へも、足を延ばしています。蕪村の人格を知る上で、重要

になりすよね。

 

  ええと...似ている句を並べてみましょうか。いずれも、茶室のスケッチ

です。

 

        口切や 北も召されて四畳半      (蕪村) 

 

  ...“北”は“喜多”であり...能楽・五流の喜多流です。四畳半は茶室

ですね。

 

        炉びらきや 雪中庵の霰酒(あられざけ)  (蕪村)

 

  “炉びらき”...地炉(ちろ/いろり)を、その年初めて開いて行うもので

す。“雪中庵(せっちゅうあん)”は、服部嵐雪(はっとり・らんせつ)の庵(いおり)

名前です。

  嵐雪は、蕉門十哲の1人です。其角(きかく/宝井其角/蕉門第1の高弟とと

もに、江戸俳諧の双璧をなした人物です。

 

  蕪村は、当然、それよりも後の世の人です。でも、蕉風/正風を受け継

ぐ俳人でから、当然とも言えるわけですが、こんな所にも関わりをもって

いるけですね。

  嵐雪は、すでに故人となっていたわけですが、“雪中庵は蕪村時代

にも残っていたのでしょうか...

  “霰酒(あられざけ)”というのは...霰餅を、焼酎(しょうちゅう)につけて干す

ことを数回繰り返し、ミリンの中に入れて密封し、熟成させたお酒だそうで

す。奈良の特産だそうですが...うーん...どのようなものなのでしょう

か...

  ええと、句意ですが...口切や 五山衆なんどほのめきて”...とは、

の茶会で...格式の五山の僧が招かれているかのごとくに...

に...と詠んでいます。うーん...分かりますよね...

  そうした厳粛さも、形式美の遊びです。それが当時の、風流・風雅の道

でもあったわけですね。そしてそれは、“京都五山”でもわかるように、“禅

の道/仏道”にも通じていたわけです...奥の深い遊びということに

りますね...」



  <25>
  冬ちかし 時雨の雲もこゝよりぞ  house5.114.2.jpg (1340 バイト)

                        (しぐれ)



「季語は...時雨
(しぐれ)/冬ですね...

 

  “時雨”は...晩秋から立冬にかけて、パラパラと通り雨のように降る

のことです...近年、梅雨のしとしと雨のイメージは、完全に変わったと言

われますが、時雨はどうなのでしょうか...うーん...

 

  “芭蕉忌(ばしょうき)”を...別名で、“時雨忌”ともいうのは...芭蕉が

亡くなったのが、旧暦/陰暦10月12日であり、時雨の季節でもあったか

らですね。

  芭蕉が没したのは...元禄7年10月12日であり...新暦/陽暦では

1694年の...11月28日です。

  でも、現在は、10月12日ということで...新暦/陽暦で、“芭蕉忌”が

実施されているようです。詳しいことは、その方面のホームページで、確認

お願いします。

 

  ちなみに、この句は...“芭蕉庵で詠んだ一句”...だそうです。蕪村

は仲間と、京都/一乗寺村/金福寺に草庵を作り、そこを“芭蕉庵”と名

づけていたそうです。ホホ...これも、戯言(ざれごと)なのでしょうか。

  “芭蕉庵”といえば...もちろん江戸/深川ですが...京都にも“芭蕉

庵”があったわけですね。蕪村をはじめ、当時の俳人たちが、蕉風/正風

初祖・芭蕉翁を、いかに慕っていたかが偲ばれます。そして、それがた

とえ戯言であっても、当代一流の蕪村の戯言は、格が違います。

 

  句意ですが...冬ちかし 時雨の雲もこゝよりぞ...とは、まさに字句

の通りですね。

  これが、初時雨で...これから、時雨の季節が始まることだ...と詠ん

います。もう、冬が間近に迫っているということでしょう...」



  <26>  
  楠の根を静にぬらす時雨哉   house5.114.2.jpg (1340 バイト)

    
(くす)                             (しぐれ) (かな)


「季語は......時雨(しぐれ)/冬ですね...

 

  この句は...“蕪村の代表的な名句”...と言われているそうです。

 

  “楠(くす、くすのき)”というのは...クスノキ科の常緑高木です。暖かい地

方に自生し、高さ20メートルにも達する、長命な樹木です。よく寺の境内な

どで見かけますね。

  “楠”は“樟”とも書きますが...この木から樟脳(しょうのう)をとります。樟

というのは、無色透明の板状結晶の物質で、昇華しやすい性質を持ちま

す。昇華とは、個体から液体にならず、直接、個体から気体になることです

よね。

  この樟脳は...水に溶けず、アルコールなどの有機溶媒に溶けます。

楠/樟の木片を、水蒸気蒸留して精製します。樟脳はセルロイドや無煙火

薬の原料にもなりますが、私たちがよく知っているのは、香料や防虫剤で

しょうか。

  分子式は...C1016O...で二環性モノテルペンケトンの一種す。医

薬品としては、“カンフル”とか、“カンファー”と呼ばれます。“カンフル剤”

などという言葉もありますよね。ホホ...余計なことを言ってしまいました。

 

  ええと、句意ですが...これも、改めて説明するまでもなく、字句の通り

です。楠の根を、静かに時雨が濡らしている情景をスケッチしています。

  でも...その簡潔で洗練された情景描写が...“蕪村の代表的な名

句”...となっています。

 

  “時雨”は...芭蕉もよく取り上げた題材ですが...“これでどうか?”、

と初祖/芭蕉に、伺いを立てたくなるような句ですね。芭蕉は、何と答える

でしょうか...

 

  蕪村は、芭蕉に強い憧れをもっていたわけですが...やはり、求道者

としても...光る何者かを持っていたようです。名句ということですので、も

う一度、句を並べてみましょう...

 

     楠(くす)の根を 静にぬらす時雨哉(かな)   (蕪村)    

 

  うーん...森閑とした寺の境内に...永遠の時雨が降っているようで

す...白い雨に濡れた黒い楠の根に、さらに時雨が降り注いでいます。

時間の消失して行く...永遠の風景のスケッチです...」

 

 

 


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