Menu文 芸短 歌万葉集/巻5・6雑歌

    〔万葉集 - 巻 5〕 /大伴旅人、山上憶良     〔万葉集 - 巻 6〕 /山部赤人
  
   
     
【巻 - 5・6】 / 雑
 歌     
     
             
聖武天皇と天平文化の考察 

 

 
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トップページNew Page Wave/Hot SpotMenu最新のアップロード        担当 : 里中 響子

  INDEX                  

プロローグ        < 新憲法 ・・・起草の時期は? > 2013. 7. 5
No.1 〔1〕 聖武天皇と、治世・・・ 2013. 7. 5
No.2        <皇親政治と・・・藤原氏の台頭 > 2013. 7. 5
No.3        <長屋王の政権と・・・長屋王の変> 2013. 8.2
No.4 〔2〕 天平年間の災害と疫病・・・ 2013. 8.31
No.5        <カキ氷と・・・ 〔人間の巣/梁山泊〕 の遠景 > 2013. 8.31
No.6                <5年間で・・・4回の遷都> 2013. 8.31
No.7        <譲位/太上天皇へ・・・> 2013. 8.31
No.8        <聖武天皇の・・・御製歌> 2013.10. 3
No.9       【巻6 - (1030)】         聖武天皇 ・・・【相聞歌】 2013.10. 3
No.10       【巻6 - (1539、1540)】    聖武天皇 ・・・【雑歌】 2013.10. 3
No.11       【巻8 - (1638)】         聖武天皇 ・・・【雑歌】 2013.10. 3
No.12       【巻8 - (1658)】         光明皇后 ・・・【相聞歌】 2013.10. 3
No.13       【巻19 - (4224)】        光明皇后 ・・・【雑歌】 2013.10. 3
No.14       【巻19 - (4240)】        光明皇后 ・・・【雑歌】  2013.10. 3
No.15       【巻4 - (530、531)】      聖武天皇 ・・・【相聞歌】 2013.10. 3
No.16 〔3〕 巻/5・6 = 雑 2013.11. 9
No.17       【巻5 - (793)】          大伴旅人 ・・・【雑歌】  2013.11. 9
No.18       【巻5 - (822)】          大伴旅人 ・・・【雑歌】  2013.11. 9
No.19       【巻5 - (818)】          山上憶良 ・・・【雑歌】  2013.11. 9
No.20       【巻6 - (907、908)】      笠金村   ・・・【雑歌】 2013.12. 7
No.21       【巻5 - (892、893)】      山部赤人 ・・・【雑歌】  2014. 1.29

  


プロローグ ・・・              

           < 新憲法・・・ 起草の時期は? >

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「あ、お久しぶりです...」響子が、日傘を下ろし、頭を下げた。「入梅の季節ですが...

  前半雨量が少なかったですね。現在、ダムの水量十分のようですが、今度は集中豪雨による土砂

災害が心配です。この季節の、“参議院選挙は・・・土砂災害と重なる選挙”通例となっています。

 

  私たちは幾度も、そうした選挙の中で、“万能型・防護力”/〔人間の巣/未来型都市〕の、全国展開

提唱して来ました。しかし大災害の中でも、選挙の争点とはならず、空虚/欺瞞的(ぎまんてき)選挙が続

きました。

 

  ともかく、地震・噴火なども含めて、“日本列島全体で・・・万全な態勢”を整えたいものです。とりあえ

ず、“緊急に・・・大量避難可能”な、〔未来型都市/千年都市・・・プロトタイプ〕を、先進的全国展開

して置きたいものです。日本の、先進的国土展開は、“世界動向/文明動向”水先案内となります。

 

  それから、“脱・原発・・・脱・競争社会・・・脱・市場経済”の、〔大自然とシンクロする・・・質素で豊

かな・・・共生社会〕へ...1日も早く移行したいものです。そこで...“気候変動・・・環境変動・・・海洋

の相転移” にも耐え、“文明の第3ステージ/意識・情報革命”の、本格展開を目指したいと思います。

 

  さて...その、〔未来型都市/千年都市〕展開に、“第1歩”を踏み込んだ段階で、〔明治・維新〕

〔戦後・維新〕のように、“新・国家の屋台骨”となる、【新憲法の・・・起草】着手すべきでしょう。現下

の、“未曾有の・・・国家大混乱の真只中” ではなく...“時節到来の禊(みそぎ)の時”を持つべきです。

その程度の戦略性がなくては、【新憲法の・・・構想】も、“空手形/幼稚園の作文” になってしまうでし

ょう。

 

  “憲法改正”...“原発再稼働”...“TPP参加”は...主権者/国民“嘘”をついたり、状況をわき

まえない“軽はずみ”で、選挙の争点にすべきではありません。マスコミも含めて、“時間をかけ・・・国家

・国民が・・・真剣に討論するべき課題”です。急いで、“丁・半” を決める必要のないものです。

   くり返しますが...“30年/50年/100年という・・・戦略的な将来展望”のもとで、“納得いく議論”

を、展開するべきです。現在、“参議院選挙”真只中ですが、安部・政権は...きわめて拙速(せっそく)

であり、きわめて幼稚です...」

 

「はい...」支折が、歩きながらうなづいた。

  2人は、ヒマワリの苗が大きく背を伸びているのを眺め、《赤い彗星・ビル》 の入り口へ向かった。南東

の方角では、草原の中に...〔人間の巣/プロトタイプ・・・梁山泊〕 ...の建設が進んでいる。

  “プロトタイプ/基本型”が...先日、“梁山泊”命名されていた。“梁山泊”は、水滸伝(すいこでん

/中国・明時代で書かれた伝奇歴史小説・・・水のほとりの物語)に登場する、 〔理想郷/別天地〕  のことです。世界大乱

/文明閉塞の中で形成する  〔別天地〕  はまさに、“万能型・防護力”/〔自給自足社会/千年都市〕

と重なります。

〔1〕 聖武天皇と治世・・・             

         


「ええ...」支折が言った。「“第45代/聖武天皇”ですね...

  まず、<壬申の乱>の後...“第40代/天武天皇”から、“第41代/持統天皇-女帝”へ...そして、

ごたごたの末、孫の... “第42代/文武天皇”...そして、在位期間10年も、24歳夭折(ようせつ)した

ため...母親“第43代/元明天皇 - 中継ぎ/女帝”即位在位期間8年も、高齢になり、“第44代

/元正天皇 - 中継ぎ/女帝”在位期間9年...と女帝が多く続きます。

  そして...ようやく、“第45代/聖武天皇”即位です。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)...祖父は、

皇太子/草壁皇子...は、“第42代/文武天皇”が...“藤原不比等の娘/宮子”です...」

「はい...」夏美が、うなづいた。「いよいよ、藤原氏台頭ですね、」

「そうです...」支折が、口に手を当てた。「でも、どうなのでしょうか...?...

  “皇親政治”が、そのまま続いた方が良かったのでしょうか?藤原氏台頭は、時代の要請だったので

はなかったのでしょうか?

  国家組織膨大になり、複雑化して行けば...“天武天皇”のような強烈なカリスマでも、いずれ皇親

での統治は難しくなります。人材登用活用は、不可避だったのではないでしょうか...?...」

「はい...」夏美が言った。「でも...“皇親政治”が続いていたとすれば、歴史は大きく変わっていたでし

ょうね?」

「うーん...」響子が、姿勢を正した。「そうですね...

  でも...いずれにしても、戦国時代中世近代を経て...多くの戦争をくり返したことでしょう。世界

多くの民族国家が、そういう歴史を刻んでいますわ...武具も、剣・弓・槍を経て...鉄砲・大砲と推移

しています。日本にも...種子島から、鉄砲上陸/伝来(1543年)しています...」

「はい...」夏美が、深くうなづいた。

<皇親政治と・・・藤原氏の台頭 >        

          


「さあ...」支折が、モニターに目を投げた。「いいですか...」

「はい、」夏美が言った。

「そもそも...」支折が、コントローラーを手に持って言った。「“皇親政治”というのは...

  <壬申の乱>の後...“天武天皇”が強力に推進した、皇族による政治のことですよね。“天智・天武

系の皇子”朝廷要職に就け、政治の中枢を担わせる形態です。これは、この時期政治体制を指す、

歴史学上の用語です。

  この政治形態は、防人を配置し、国際紛争対処できる、強力な中央集権国家を築き上げる成果があ

ったわけです。しかし、やがてその緊張感も去り、藤原氏台頭で崩れて来るわけですね。これは、先ほ

ども言ったように、人材の登用・活用といった意味で、歴史の必然かも知れません」

「はい...」夏美が、飲み残していたコーヒーカップに手を伸ばした。

「 ええ...」支折が言った。「おさらいして置きますが...

  藤原氏というのは...中大兄皇子(なかおおえおうじ)と共に〔大化の改新〕を進めた中臣鎌足(なかとみ

かまたり)が、晩年賜った姓ですね。“天智天皇”臨終に際し、大織冠(だいしきかん)という冠位ともに、藤原

(たまわ)ました。大織冠というのは、冠位最上位で、歴史上、藤原鎌足だけが授かっています。

  あ...ええと...これは大化3年制定された“冠位13階の制”で設けられたものですね。でも、この

冠位天武朝/天武天皇14年廃止され、“冠位48階の制”制定されます。冠位名称も全面的に

変わり、大織冠もなくなっているようです...」

「はい...」響子が、しっかりとうなづいた。「ええと...

  “八色の姓”(やくさのかばね/・・・真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)

(むらじ)、稲置(いなぎ)八つの姓の制度のこと)は、天武天皇13年制定ですが...この“冠位48階の制”は、

にずれ込んだのでしょうか?」

「うーん...」支折が言った。「あ、そのようですね...」

 

「さあ...」響子が、右肩を後ろに引いた。「“第45代/聖武天皇”首皇子(おびとのみこ)は、“第42代/文

武天皇”第1皇子として生まれました...

  でも、7歳の時に父は崩御...母/宮子心的障害に陥り...長らく、皇子に会うことはなかったと言

われます。物心がついて以後...“聖武天皇”病気平癒対面したのは、37歳の時と言われます。

母/宮子精神障害というのは、よほど重かったのでしょう。

  ともかく...“文武天皇”24歳崩御され...7歳首皇子即位するわけにもいかず...“文武天

皇”母親が、皇后を経ないで、“第43代/元明天皇 - 中継ぎとして即位します。“持統天皇”と似てい

ます。そういえば、2人とも“天智天皇”皇女ですね。“持統天皇”第2皇女“元明天皇”第4皇女

しょうか...?」

「あ、はい...」支折が、顔を上げ、うなづいた。

「ええ...」響子が続けた。「それから...

  714年(和銅7年)には、首皇子(おびとみこ)元服が行われて、正式立太子(立太子礼/天皇の詔により、皇太子

が指名)されるも、病弱であったこと、それに、“皇親勢力と・・・藤原氏との対立”もあり...天皇への即位は、

先延ばしされます。

  そして...翌/715年(霊亀元年)は、“第42代/文武天皇”が、“第44代/元正天皇・・・中継ぎ

の中継ぎ(/女帝から女帝へ)として、皇位継承します。24歳/未婚女帝が...即位したわけです。

   『続日本書紀』(しょくにほんぎ/平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる)に記された、“元

明天皇”譲位の詔(みことのり)によれば...“慈悲深く、落ち着いた人柄であり・・・あでやかで美しい”...

とある様です。この時期は、まさに御伽話(おとぎばなし)のような、宮廷だったのかも知れませんね、」

「でも...」夏美が言った。「皇親勢力藤原氏との、確執もあったわけですよね?」

「そうですね...」響子が、顔を和ませ、うなずいた。「でも...

  ビジュアル(視覚)に、面白い時代だったのかも知れません。野趣猛々しい時代に、そのような女帝

いうのは...ほほ、少女マンガのようですわ...」

「そうですね...」支折も、微笑んでうなづいた。  

          

「ええと...」響子が言った。「いいかしら...」

「はい...」支折が、うなづいた。

 「“第45代/聖武天皇”の、治世初期は...

  “皇親勢力”を代表する、長屋王政権を担当していました。左大臣正二位です...”皇親勢力”

であり、政界全体重鎮で...父は、“天武天皇”第1皇子/高市皇子です。“天智天皇”

御名部皇女(みなべひめみこ)で、“元明天皇”同母姉ですから...第3皇女になるのでしょうか。とも

かく皇親としても、嫡流非常に近かったわけです」

「はい...」夏美が、両手を組んだ。

「そして...」響子が言った。「この頃...

  藤原氏としては...藤原氏・出身光明子(こうみょうし/光明皇后・・・初めての皇族以外からの皇后/父が藤原不比等、母

が県犬養三千代/“聖武天皇”の母の宮子は異母姉・・これで、令制の原則が崩れた。それ以前には、“第16代・仁徳天皇”の皇后/磐姫皇

(いわのひめ・こうごう)/葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘・・・がいたようですが、遠い昔です立后を、画策していたわけで

す。

  でも、“皇后は天皇の亡き後・・・中継ぎの・・・天皇として即位”する...可能性があります。そのために、

皇族しか立后されないのが習わしでした。そのことで、長屋王光明子立后には、反対していたわけで

すね」

「うーん...」支折が言った。「そこで、<長屋王の変>勃発するわけですね、」

「そうですね...」響子が、モニターを眺めた。「ええと...

  729年/<長屋王の変>が起き、長屋王自殺を強いられます。それで反対勢力がなくなり、光明子

(こうみょうし)非皇族として、初めて立后されます。この長屋王を取り除き、光明子皇后にするため

に...不比等息子光明子異母兄である、藤原4兄弟(/武智麻呂、房前、宇合、麻呂)策謀と言われま

す」

「ええと...」支折が、小さく手を挙げた。「その前に、長屋王政権治世について、説明しておきます」

「あ、はい...」響子が、髪をなでた。「お願いします...」

 

<長屋王の政権と・・・長屋王の変>      


 
  
  
舎人親王 

 

「ええ...」支折が、モニターから顔をあげた。「長屋王は...

   “第40代/天武天皇”長男/高市皇子長男ですね...鈴鹿王(/<長屋王の変>で連座を免れ...

後に、橘諸兄・政権に参加)がいます。

  長屋王立身は...“第41代/持統天皇”の後、“第42代/文武天皇”704年に...正四位上

直叙(ちょくじょ/順序を踏まずに、すぐにその位に叙すること。家柄の高い者や、特に名誉を得た者に行われた)されています。そして、

709年従三位宮内卿(くないきょう/・・・卿とは、律令制で八省の長官)翌年式部卿(しきぶきょう)716年には正三

に叙せられています。

  馴染みのない官位ですが、小耳にはさんでおいてください。後々の参考になります...」

「はい...」夏美が、小さくうなづいた。

「ともかく...」支折が言った。「710年(和銅3年3月10日/旧暦)“平城京・遷都”以降...

  右大臣/藤原不比等(ふじわらふひと/中臣鎌足=藤原鎌足の次男)が、政界の中心となります。舎人親王

屋王らの“皇親勢力”が、これに対峙する形だったようです。ただ長屋王は、藤原不比等としてい

ました。したがって、不比等生存中は、長屋王立位置は、藤原氏に近かったとみる向きもあるようで

す。

  その後は...逆に舎人(とねり)親王藤原氏に近くなるわけですね。宮廷朝廷においては、そのよう

な、政治力学・人間力学の中にあったということでしょう。互いに知り尽くした一族の中での、人の交流

あり、権力闘争だったわけです。その中心に、天皇家があったわけです」

「うーん...」夏美が、頬に手を当てた。

「さあ...」支折が続けた。「717年に、“藤原京”に残った左大臣/石上麻呂薨去(こうきょ)します...」

“藤原京”残ったといっても...」夏美が言った。「“平城京”とは、ええと、27キロの距離ですね?」

「そうです...」支折が、うなづいた。「“藤原京”は、現在の奈良県/橿原市(かしはらし)にありました...

  “平城京”は、奈良市から大和郡山市ですから...当時の牛車(ぎっしゃ/・・・平安時代には確かに使われた

が、奈良時代はどうか、よく分からない・・・)交通機関を考えれば...遠からず近からずでしょうか。現在のような

道が整備されていたわけでもありません...」

「うーん...」夏美が、髪を揺らした。「でも、遷都する必要があったのでしょうか?」

「当時は、よく遷都をしています...

  建造物の老朽化や...屎尿・ゴミの処理...権力闘争...それから、疫病の蔓延なども、あったよう

です。この頃から、日本人は、新しい家を好むようになったのかも知れませんね...」

  響子が微笑した。

 

「ともかく...」支折が、モニターに目を落とした。「最高位左大臣/石上麻呂薨去(こうきょ)します...

  その翌年...長屋王非参議から、一挙に大納言に任ぜられます。太政官で、右大臣/藤原不比等

に次ぐ地位に上ります。不比等はまだ余裕だったでしょうが、先を考えると、不安だったかも知れません。

  そして、3年後/720年、その藤原不比等薨去します。藤原四兄弟(/武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若

く、議政官参議房前のみでした。当然、長屋王が、皇親代表として政界の主導者となります。“第

44代/元正天皇”も、妹/吉備内親王とその夫/長屋王は、ひときわ厚い信任を寄せていたようです、」

「はい...」夏美がアゴを上げ、スクリーン・ボードの画像を切り変えた。長屋王の資料を表示した。

  支折が、ボードを一瞥(いちべつ)して続けた。

「その翌年/721年には...長屋王従二位・右大臣に進みます。この年、退位していた、“元明・太上

天皇”崩御 しています。関係があったのでしょうか...

  それから、724年...“第45代/聖武天皇”即位と同時に、長屋王正二位・左大臣になります。

最高位についたわけですね。絶頂期です。

  この頃の長屋王エピソードとしては、719年新羅/朝鮮半島からの使者長屋王邸に迎え、盛大

な宴会が催されています。その時の長屋王や、文人らのが、『懐風藻』(かいふうそう)に収録されてい

ます。『懐風藻』には、この時のを含め、長屋王漢詩3首あるようです」

「読めるかしら?」夏美が聞いた。

「うーん...」支折が、頭を横にした。「準備 してありませんが、難しいものではありません...

  『懐風藻』というのは...琵琶湖の畔/近江朝(/“弟38代/天智天皇”以後...約80年間における64名

漢詩/約120首を...作者別・年代順配列してあります。作者は、大友皇子大津皇子長屋王

どが代表的ですが...何故か3人とも、最高権力者近い所で、悲劇的な最期を迎えています。

  形式としては、五言詩(/1句が5字からなる詩)が多く、対句(/並置された2つの句が、語形や意味上、対応するように作られ

た表現形式。詩歌・漢文・漢詩・諺(ことわざ)などによく用いられる・・・“男は度胸女は愛敬”・・・など、)重視されてたようです。有名

なのは、やはり持統朝の時代に刑死した、大津皇子辞世の歌でしょう。これは、すでに紹介してあります

ね、」

「あ、はい...」 夏美が、うなづいた。「大体の様子が分りました...」

 

「さあ...」支折が言った。「こうした...

  長屋王権勢というものは、藤原4兄弟には面白くないものでした。藤原不比等生前こそ、娘婿(むす

めむこ)の関係が際立っていましたが...父/不比等の死後...不比等の娘/聖武天皇の母/宮子

を巡って、長屋王4兄弟衝突します(/辛巳事件(しんしじけん)・・・724年2月)

 <長屋王の変> は...729年(神亀6年)2月...漆部君足(ぬりべきみたり)中臣宮処東人なかとみみや

ところあずまびとが...“長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す”と、密告...それをうけて、

原宇合(ふじわらうまかい)らの率いる六衛府(左右の近衛(このえ)府・衛門(えもん)府・兵衛(ひょうえ)府の総称)軍勢長屋

王の邸宅包囲し、舎人親王などが糾問します。

  長屋王は...妃/吉備内親王子/膳夫王らの首を絞めて殺し...自分は服毒自殺しました。

  舎人親王“皇親勢力”でしたが、藤原氏傾斜したわけです。後に、子息“第47代/淳仁天皇”

即位していますが、そのへんの取引があったのでしょうか。“天武天皇”皇子のという、“皇親勢力”

巨頭も...所詮は宮中であり...術中にはまり、その程度結束力だったようです。

  ともかく、舎人親王735年...天然痘(てんねんとう/・・・天然痘ウイルスを病原体とする感染症。大きな感染力、致死率

(40%前後とみられる)をもつ。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう)蔓延する平城京で、60歳生涯を終えています」

天然痘で死んだのかしら?」夏美が聞いた。

「うーん...」響子が、顎に手を当てた。「おそらく、そうだと思います...

  新羅(/朝鮮半島・新羅王国)経由感染か...735年帰国遣唐使船によるウイルスの伝播か...ともか

く、天然痘西海道(/日本古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の1つ。現在の九州地方)諸国から大流行し始めて、東上

しています。からにかけ、新田部親王(にいたべしんのう/天武天皇の皇子。母は鎌足の娘)舎人親王が相次い

死去した...とありますから、そう見ていいのではないでしょうか。原因特定されなくても...」

「はい...」夏美が、うなづいた。

翌年には...」響子が言った。「平城京でも、天然痘猛威を振るい始めたようです...

  そして、3年目737年4月から8月の間に...藤原四兄弟も全て天然痘感染し、死去したようです。

同年9月になり、天然痘はようやく、下火になった様子ですね...

  そこで...藤原四兄弟補充人事が行われ...参議・橘諸兄(たちばなもろえ)大納言に...参議・多

治比広成(たじひひろなり)参議・大伴道足などで...橘諸兄・政権スタートします。藤原氏からは、12月

武智麻呂長男/豊成が、参議補充されただけです...」

「はい...」支折が、両手を揃えた。「ええ...

  この時代は...未婚の女帝/“第44代/元正天皇”譲位して...太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうて

んのう)となり...【巻18-(4056、4057、 4058)】 が詠まれた...あの時代ということです」

太上天皇が...」夏美が、モニターをスクロールして言った。「“清足姫天皇”と記されている...あの時

ですね...“聖武天皇”治世で...“難波宮”の時代の?」

「そうです...」響子が言った。「ともかく、<長屋王の変> の後...

  藤原四兄弟は...聖武天皇夫人(/皇后・妃・夫人の順位がある)であった光明子(こうみょうし)皇后に立

て、藤原四子・政権(729年から737年)樹立するわけです。でも、737年には4人とも、天然痘で相次いで

し...“長屋王を・・・自殺に追い込んだ祟(たた)りだ”...とされた、と言います。

  ちなみに、密告した1人/中臣宮処東人なかとみみやところあずまびとも、妙な死に方をしています。738

政務の合間に囲碁に興じていた時...話題が長屋王のことに及び、かって長屋王世話になってい

相方憤慨し、(ののし)られた上に、斬殺されたようです。とんだボロが出てしまったわけです。

   『続日本紀』(しょくにほんぎ)における、この斬殺事件の条では...<長屋王の変>発端となった、東人

密告“誣告”(ぶこく/他人を陥れることを目的として訴えること)表現しているそうです。当時から、この密告

であったことが、公然化していたようです...」

「そうなんだ...」夏美が、うなづいた。「歴史もまた、処断していたわけですね」

「そうですね...」響子が、バレッタ(髪留め)に手をやった。「背景としては...

  “第45代/聖武天皇”病弱で、事件当時には、非・藤原氏系安積親王(あさかしんのう/・・・聖武天皇の第

2皇子/母は県犬養広刀自)しか、男子がいなかったと言います。

  “聖武天皇”安積親王に何かがあった場合は...天皇の叔母/吉備内親王の生んだ男子(長屋王の息

子)である膳夫王3王が...男系皇族で、皇位継承最有力となっていたようです。これも、長屋王・排

理由として、上げることができると言います」

  支折が、無言でうなづいた。

「ともかく...」響子が言った。「光明子立后し...

  他に4人夫人“聖武天皇”後宮に入るわけですが...それも全員が...藤原不比等県犬養

三千代(あがたいぬかいみちよ/・・・藤原不比等の後妻となり、光明子と多比能(たびの/・・・橘諸兄の正室)を生んだ)のいずれ

か、または両人の血縁者だったわけです。まるで、悪ふざけのような、後宮への大量投入でした。もっとも、

彼等大真面目だったのでしょう」

「それで...」夏美が言った。「4人とも、天然痘死没ですか、」

「でも...」響子が言った。「藤原氏の時代はやって来るわけです」

「はい...」夏美が、コクリとうなづいた。

 〔2〕 天平年間の災害と疫病          

            橘諸兄 

カキと・・・ 〔人間の巣/梁山泊〕 の遠景>    

              wpe4F.jpg (12230 バイト) 

 

  響子が目を細めた...《本部基地/赤い彗星ビル3Fの窓から...外の陽射しの輝きを眺めた。

南東方向草原は、〔自給自足農地〕整備が進み、作物が青々と畝って広がっている。猛暑の続いた

晩夏の空は、秋の気配が漂っていた。響子が、『古今和歌集』を口ずさんだ...


      秋きぬと・・・ 目にはさやかに・・・ 見えねども・・・        

             風の音にぞ・・・ おどろかれぬる・・・   

                                          【古今和歌集169・・・藤原敏行】  

 

  〔自給自足農地〕に...農作業をしている人々の姿が点在している。入植も、順調に進んでいる。現在

農業機械多用されているが、いずれ労働集約型農業へと移行して行く。健全な労働は、生物体とし

自然な姿である。

  やがて...かつての郷愁の時代を超える、“超安定・・・未来型社会”...が実現していくはずである。

現在の、市場主義・資本主義経済からの脱却は、既得権勢力との軋轢(あつれき)を生む。

  しかし、それは一時のことである。人類文明はまもなく、“パラダイムシフト”突入 して行く。時代

きく飛躍して、流れて行く。その中で...“グローバリズム/世界経済/世界金融は・・・破綻”...

“戦争ゴッコ”消滅...“核弾頭”廃絶...されて行くのは自明の理である。

 

  〔人間の巣〕は...まず、“単体/1個の細胞” のように...〔生態系の中で・・・原則自立の・・・存

在の器〕である。次に...〔国民のための・・・超安定社会確立〕のために、〔人間の巣〕全国展開し、

〔国土と産業構造を・・・再編成〕 していくことになる...必然の大河の流れである...

  さらに、〔人間の巣〕世界展開し...“地球温暖化/海洋酸性化/気候変動・・・食糧危機/人口爆

発”対処し、“21世紀・大艱難”軟着陸させる。

   “反グローバル化・・・地域分散・・・地産地消・・・分化/多様性の・・・生態系と協調”...これこそ

が、“地球生命圏の・・・生命潮流・・・地球ガイアのベクトル” である。〔人間の巣=文明の器は・・・

ホモサピエンスと不可分〕となって行くだろう。そして、“次の進化のステージ”へ昇って行くことになるだ

ろう。

 

  眼前に青々と展開する 〔自給自足農地〕 は...〔人間の巣のパラダイム〕 実践して行く、まさに、

第1歩となる風景だった。

  起伏する農地の向こうに...〔人間の巣/未来型都市・・・プロトタイプ/梁山泊〕...の円柱型

ランドマーク・ビルが見える。下のゆるい丘陵台地が...〔人間の巣・・・プロトタイプ/梁山泊〕...だ

った。丘陵樹木がまばらで、緑が濃くなっている。丘陵上屋外公共施設の整備も進み、各階のアクセ

ス道路が見え、白い軽車両が動いている...

  やがて...樹木が生長し...野外施設が整えられ...スポーツ施設も整地される。人々の憩いの空

間が...時間的に、芸術的に...試行錯誤の中で...創出されて行くはずである。ホモ・サピエンス

生態も、大きく変化していく。

  ここで生まれ、ここで育った人々は、〔人間の巣・・・梁山泊〕 に強いアイデンティティーを持つようにな

ると考えられている。新世代誕生である。“人類文明/第3ステージ・・・意識・情報革命時代”

タートである。

  ホモ・サピエンス文明は...〔人間の巣〕とともに、“野生・・・食物連鎖の喧騒・・・淘汰圧力と環境

圧力” から離れるわけである。そして大自然に対し、“知的生命体として・・・さらに深い探究心” を向け

ていく。それが...“21世紀・大艱難の時代”克服した後の...“22世紀の・・・文明展望”である。

 

「うーん...」響子が、腰に手を当てた。

  彼女は、ボンヤリとした眼差しで唇を結び、窓から室内に視線を戻した。日差しに背を向け、支折が準

備作業を進めている作業テーブルの方へ歩いた。

「夏は...」響子が、スクリーン・ボードの調整をしている支折に言った。「毎年...

  軽井沢基地で過ごしているわけですが、今年は色々なことが重なりました。とうとう、本部基地に留まっ

てしまいましたわ...」

大変な夏でした...」支折が、響子に言った。「“2013・参議院選挙”もありましたが...

  やはり、〔プロトタイプ/梁山泊〕の立ち上がりが、大きかったと思います。入植人口も、膨らんできまし

た。その分、難問山積しています...〔人間の巣型/災害対策拠点・・・プロトタイプ〕の、“ミッション

/人間の巣”でも、想定外の難問も出てきました」

「そうですね...」響子が、支折の調整しているボードを眺めた。「人間が、大挙して移動するわけですか

ら、様々な問題が出てきます。でも、不動の原則から見れば、些細な問題でしょう」

「はい...」支折が、うなづきつつ、正倉院宝物の画像をスクロールさせた。

「サアサア...」夏美が、かき氷を載せた盆を運んで来た。窓の輝きを眺め、盆をテーブルに置いた。「今

日も、暑くなりそうですね、」

「ええ...」響子が、顔を崩した。「おいしそう!」

「支折さんも、どうぞ!」

「はいはい...」支折が、自分の椅子に掛け、窓の方を眺めた。「でも...

  『古今和歌集』のように...秋の気配を感じますわ...風の音ではなく、空の色に...」

「そうですね...」響子も、窓を眺めた。

「どうぞ...」夏美が言い、カップからスプーンを抜き取った。

  3人は、残暑の窓を眺めながら、カキ氷のスプーンを動かした。


                  wpe86.jpg (6318 バイト)    

<5年間で・・・4度の遷都・・・>

         
    聖武天皇           鑑真和尚像     正倉院/東大寺大仏殿の北西に位置/世界遺産  東大寺/大仏殿/・・・盧舎那仏=国宝

   

約1300年昔...」響子が、空っぽになったカキ氷のカップを、脇へ押した。「奈良時代において...

  5年間4度も、遷都 したした時代がありました。長屋王/左大臣が、謀略自害に追いこまれた、

の後の時代です。“平城京”天然痘大流行し、藤原4兄弟をはじめ、貴族庶民が、多数死亡し、

(たた)とも言われました。また、大地震風水害多発した様子です。

  ともかく遷都して...謀略疫病社会的不安を脱し...人心一新を行うこと...“聖武天皇”悲壮

な気持ちで、転々遷都を敢行しました。

 

       奈良/平城京 → 京都/恭仁京(くにきょう) → 大阪/難波京 →

                   滋賀/紫香楽京(しがらききょう) →  奈良/平城京 ・・・  

 

  ...と遷都を重ね...結局、り出しに戻ってきました...」

「うーん...」夏美が、肩を傾げた。「大変よね...」

「でも...」支折が言った。「疫病/天然痘も...それは、恐ろしかったと思います...

  当時としては、遷都賢明な手段だったように思います。遷都すれば、衛生環境一新されます。しば

らくの間は、流行の勢いも治まったのでしょう...あとは、ひたすら、神仏に祈ったのでしょうか...」

「ふーん...」夏美が、口に手を当てた。

                                                       

「ええと...」響子が、モニターに目を落とした。「これは、余談ですが...

  “滋賀/紫香楽京/紫香楽宮”(しがらきのみや/滋賀県甲賀市信楽町/宮町遺跡と推定)で...2012年1月に、

天皇政務を執った“内裏正殿(だいり・せいでん)跡”発掘されたそうです。“東西約25メートル南北約15

ートルの・・・大型掘立柱建物跡”が見つかり、市教委1月18日発表したとあります。2013年にも、

規模“内裏正殿”とみられる建物跡が出土しており、“左右対称の配置”だったとみられています。

  “内裏正殿”というのは...天皇祭祀(さいし/神々や祖先などをまつること)を行ったほか、歌会役人の任

命式などが行われた所です。“平城京/平城宮”では1カ所ですが、“京都/恭仁京/恭仁宮”では、

“左右2カ所”にあり、配置が似ていると言います。 “正殿”1棟原則ですが、紫香楽宮恭仁宮では

2棟あるようです。

  これは、“聖武天皇”先帝/元正太上天皇”による、“双頭態勢”を物語ると推測されています。また、

“元正太上天皇”再即位/重祚(ちょうそ/一度退位した君主が再び即位すること)を目指して...反/藤原氏勢力

対抗激化で...双方に配慮して、2つ“内裏正殿”配置したという...憶測もされています」

「うーん...」支折が、髪を揺らした。「『続日本紀』(しょくにほんぎ)に記されている...

  “慈悲深く落ち着いた人柄であり・・・あでやかで美しい”...という、“清足姫天皇”がですか...?」

「そうですね...」響子が、バレッタ(髪留め)に触れた。「御2人とも...

  対立的人柄には見えません。でも、取り巻きの人々がいます。そして、“聖武天皇”意見できたの

は、先帝だけだったのかも知れません。母/宮子は、精神病んでいましたし、」

「そうかあ...」夏美が、両手を組んでうなづいた。

 

「さあ...」響子が、夏美に微笑した。「先に進みます...」

「はい、」

ええ...737年(天平9年)に...

 にも天然痘大流行しました。藤原4兄弟をはじめ、多くの議政官死去します。出仕できる公卿は、

従三位・左大弁(太政官の職の1つ)橘諸兄たちばなもろえ/“第30代敏達天皇”の後裔。大宰帥(だざいのそつ/宰府の長官)

/美努王(みぬおう)の子。元の名前を葛城王(かつらぎのおおきみ)と...大蔵卿(太政官の職の1つ)鈴鹿王すずかおおきみ

“天武天皇”の皇子の高市皇子の次男のみ、となったようです。

  そこで、急遽(きゅうきょ)...長屋王の実弟/鈴鹿王知太政官事(ちだじょうかんじ/太政官の長官として、万機を総

攬する官職・・・太政大臣と同等に任じ...かろうじて、政権体裁を整えます。

  そして...実際に政治を担ったのが橘諸兄(/後に、正一位・左大臣)であり...から帰国した、吉備真備

きびまきび/遣唐留学生となり、717年に阿倍仲麻呂玄昉らと共に入唐/後に、正二位・右大臣)と、玄昉(げんぼう/法相宗の僧。僧

官は僧正/後に、筑紫観世音寺別当に左遷)重用されるようになります。藤原氏勢力は、大きく後退します。

  そして、前にも指摘していますが、疫病九州から広がっていて、遣唐使船大陸から持ち込んだ可能

もあったのです...」

  支折が、うなづいた。

ええ...」響子が続けた。「740年(天平12年)に、<藤原広嗣の乱>が起こります...

  藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は、藤原4兄弟宇合(うまかい)長男です。大養徳(読み方:ヤマトノクニ・・・大和)

から大宰少弐(だざいしょうに/大宰府の次官)に任じられ、大宰府赴任します。

  広嗣はこれを左遷(させん)と感じ、強い不満を抱いたようです。広嗣は、吉備真備玄昉処分を求め、

上表を送ります。そして、九州/大宰府挙兵しますが、官軍によって鎮圧されます。

  ところが...乱の鎮圧報告“平城京”に届く前に...“聖武天皇”は突如、関東に下ると言い出し、

巡行(じゅんこう)に出ます。そして、伊賀国伊勢国美濃国近江国を巡り、京都/山城国“恭仁京”

移ったわけです。その後も大阪“難波京”へ移り、また奈良“平城京”へ還って来たわけですね。

  遷都別の角度から眺めると...“聖武天皇”が、九州/筑紫/大宰府で起きた、<藤原広嗣の乱>

極度に恐れたのが...コト発端ということになります」

「はい...」夏美が、コクリとうなづいた。「でも...

  そんなことができるなんて、“すごい権力・・・権威”があったのですね?」

「そうですね...」支折が言った。「“古代律令制の・・・成熟期に君臨した天皇”...と言うことができます。

絶大な権威を有していました...」

 

                  

天平年間/天平感宝の年間729年~749年。聖武天皇の治世。奈良時代の最盛期には...」響子が言った。「ともか

く、災害疫病多発しています...

  “聖武天皇”も、父/“文武天皇”とは7歳の時死別...母/宮子心的障害に陥り...平癒した母

対面したのは、“聖武天皇”37歳の時...薄幸“聖武天皇”は、仏教に深く帰依して行きます...」

「うーん...」夏美が言った。「(みかど)として養育されても...色々に苦労されたわけですね...」

  響子が、うなづいた。

「そうですね...

  母/宮子は、藤原不比等です...藤原邸宮中女官たちの中で...何不自由なく育ったので

しょう。でも、御仏(みほとけ)に深く帰依し...御仏にすがるほどの難儀...5年間4度遷都するほどの

心の動揺...それゆえに、叔母/“元正太上天皇/元正上皇”サポートも必要だったのでしょう...」

「はい...」夏美が、うなづいた。

首皇子(おびとみこ/“聖武天皇”は...

  大海人皇子(おおあまみこ/“天武天皇”血を引くも...カリスマ性を持つ武人ではなく...多感気弱/

病弱な...普通皇子だったのでしょう。晩年は、“10年を超える・・・激しい闘病生活”であり、そのため

に、“御仏に深く帰依”し...また天皇としての敬神の態度”も...継承しています...」

  夏美が、うなづいた。

 

「ええと...」響子が、モニターを見た。「“聖武天皇”は...

   741年(天平13年)“国分寺建立の詔(みことのり)を...743年(天平15年)“東大寺・盧舎那仏像(るしゃ

な・ぶつぞう)建立の詔”を出しています。また...たびたびの遷都で、様々な災いを一掃 しようとしたものの、

臣下・民の負担も莫大で、反発も強く...結局、“平城京/平城宮” に戻って来ているわけです...」

  支折が、小さくうなづいた。

「ええ...」響子が、顔を上げた。「支折さんが、説明したように...

  国政は、橘諸兄たちばなもろえ光明皇后とは異父兄弟が仕切っていました。743年(天平15年)に、新たに【墾

田永年私財法を制定】(/こんでん・えいねん・しざいほう=自分で新しく開墾した耕地の、永年私財化を認める法令)しますが...

これによって、“律令制の根幹の一部”が、崩れることとなったと言われます。

  それから...744年に...安積親王聖武天皇の第2皇子。母は県犬養広刀自。皇太子の基皇子が死去したため、唯一の皇

子となり...藤原氏の系統ではないも、皇太子の有力候補脚気のため急死 します。藤原仲麻呂(藤原南家の祖である左大

臣・藤原武智麻呂の次男)による、毒殺と見るもあるようです」

毒殺ですか?」夏美が、両手を開いた。

「そうです、」支折が、うなづいた。「17歳でした...」

「はい...」夏美が、神妙に目を閉じた。


<譲位/太上天皇へ・・・>          

                             
    
聖武天皇          
       正倉院展のパンフレット (平成22年)                                           阿倍仲麻呂

 

“聖武天皇”の...」響子が言った。「2人皇子はすでに他界...

  749年天平勝宝・元年...“聖武天皇”皇女/阿倍内親王“聖武天皇”と光明皇后の皇女)“第46代/孝謙

天皇”(こうけんてんのう)譲位します。史上6人目女帝で...天武系からの最後の天皇となります。つまり、

“第47代/淳仁天皇”を経て重祚(ちょうそ/一度退位した君主が再び即位すること)し、“第48代/称徳天皇”(しょうとく

てんのう/孝謙天皇重祚)となるわけです。

  ちなみに、その後は...“第49代/光仁天皇”(こうにんてんのう)となるわけです。父親は、“第38代/天

智天皇”第7皇子・施基親王志貴皇子、芝基皇子とも/・・・<壬申の乱>の後、“天武天皇”“吉野の6皇子の誓い”にも参加

【巻3-(267)】 歌はこちらへです。ええ、施基親王第6子であり、白壁王(しらかべおおきみ)です。ここから

に至るまで、天智系になります」

あ...」支折が、手を握った。「ええと、いいかしら...」

「どうぞ...」響子が、支折の方に手を流した。

天皇御子は...」支折が言った。「皇子であり皇女です...

  その彼等の子と呼ばれたようわけです。それから、“孝謙天皇”即位の過程を少し説明します」

「はい...」響子が、両手を組んだ。

「そもそも...

  “聖武天皇”光明皇后の間には、男子皇子が育たず(/基王(もといおう)=基皇子(もといのみこ)早世阿倍

内親王のみであったようです。“聖武天皇”県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ/夫人・正三位との間には

安積親王(あさかしんのう)が生まれたのですが、藤原氏後ろ盾がなく、即位望み薄でもありました。

  そういう次第で、阿倍内親王立太子し、“史上唯一の・・・女性皇太子”となっていました。むろん、この

状況を、反・藤原氏勢力座視しているはずもなく、安積親王急死も、謀殺の臭いがするわけですね」

「はい...」夏美が、コブシを握った。

阿倍内親王は...」支折が言った。「742年(天平14年)“元正太上天皇”御前五節舞(ごせちのまい)

披露しています...

  そして、結局...安積親王脚気のため急死 し...“聖武天皇”皇子はいなくなり、阿倍内親王

“第46代/孝謙天皇”として即位します。『続日本紀』では“高野天皇”と呼ばれていていますが、ほかに

“高野姫天皇”とも呼ばれています...」

「はい...」響子が、大きくうなづいた。「ええ、話を進めましょう...

  一説では...自らを、“三宝の奴”(さんぽうのやっこ/・・・奴とは、古代の最下級の隷属民のこと)と称した“聖武天皇”

は、独断出家したとも推測されています。それを受け、朝廷が慌てて退位の手続を執ったとも言われま

す。周囲も、本当に大変だったと思いますが、天皇地位磐石なものでした。

  『続日本紀』では...このあたりの明確な記述はないようですが、ともかくの、男性太上天皇/“太

上天皇沙弥勝満”となるわけです。沙弥しゃみ)とは、“出家し・・・修行未熟な僧”のこと。戒名(かいみょう/仏

門に入った証の名前)勝満(しょうまん)です。したがって“沙弥勝満”(しゃみ・しょうまん)は、“聖武天皇”仏弟子とし

ての名前です」

「それで...」夏美が言った。「“三宝の奴とも、自称ていたわけですね、」

「そうです...」響子が言った。「三宝とは、仏教における3つの宝物を指します...

  具体的には、“仏・法・僧のことです。この三宝に帰依するのが、いわゆる仏教徒になります」

「はい、」夏美が、うなづいた。

 

「あ...」支折が、手を開いた。「この時代の...

  “天平勝宝“第46代/孝謙天皇”の治世元号は...“天平感宝“第45代/聖武天皇”の治世 の後...“天

平宝字“第46代/孝謙天皇”、“第47代/淳仁天皇”、“第48/称徳天皇(孝謙天皇重祚)”の治世 の前で、749年~757年

までの期間を指します。この時代の天皇は、したがって、“第46代/孝謙天皇”になります...」

「はい、」響子が言った。「ありがとうございます...

  この後の...太上天皇/上皇となった“聖武天皇”/“太上天皇沙弥勝満”を眺めていくと、行基(ぎょうき

/・・・僧侶を国家機関と朝廷が定め・・・仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に・・・この禁を破り、畿内を中心に民衆や豪族層など問わず、広く

仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬されていた。道場や寺院を多く建立。また、溜池15、溝と堀9、架橋6、困窮者のための布施屋9等の設立。

数々の社会事業を各地で成し遂げた)らの協力を得て...東大寺/大仏造営をしています。752年(天平勝宝4年)

は、大仏“開眼法要”をしています。

  そして、翌/753年(天平勝宝6年)には...“唐の高僧/鑑真”(がんじん/日本における律宗の開祖)来日

年早々奈良に到着。“聖武上皇”は、皇后(光明皇后)“孝謙天皇”と共に歓待します。鑑真は、東大寺

大仏殿戒壇を築き、“上皇から僧尼まで・・・400名に菩薩戒”(ぼさつかい)を授けています。

  後に鑑真は...奈良市五条町“唐招提寺”(/世界遺産)を建立し、晩年を過ごします。ここは、南都六

(奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の6つの宗派の総称)1つである“律宗の総本山”で、本尊東大寺/大仏

同じ廬舎那仏(/国宝)です。

  このは...“毘盧遮那仏”(びるしゃなぶつ)/“盧遮那仏”(るしゃなぶつ)/“遮那仏”(しゃなぶつ)とも略称され、

また“大日如来”(だいにちにょらい)とも別称されます...」

「はい...」夏美が言った。「普通は、“盧遮那仏”(るしゃなぶつ)なのですね?」

「さあ...」響子が、頭を傾げた。「どうなのでしょうか...申し訳ありません、勉強不足です...」

  支折も笑って、首を左右に振った。

「ええと...」響子が、唇を指で押さえた。「この時期には...

  長く病気を患っていた、母/宮子薨御(こうぎょ/(?)・・・皇太子や大臣などの死を意味。薨去(こうきょ)は、親王や三位以

上の死を意味します・・・)します...

  そして...756年(天平勝宝8年)...“聖武天皇”は、“天武天皇”2世王/道祖王(ふなどおう/・・・父は新田

部親王、祖父は“天武天皇”皇太子にすると遺言を残し...崩御されます...55年の生涯でした...

  “古代律令制の・・・成熟期に君臨した天皇”で...“絶大な権威を有し・・・死後も偉大な聖王”として、

歴史を残しています...でも、“晩年は10年を超える・・・長い闘病生活の末の崩御”でした...」

 

                 
                          
 鑑真和上坐像(唐招提寺/御影堂/国宝)       行基菩薩坐像(唐招提寺蔵/重要文化財)          唐招提寺


「ええと...」支折が言った。「“聖武天皇”遺言した道祖王(ふなどおう)について、少し調べてあります」

「はい...」響子が、顔を向けた。

道祖王の...」支折が言った。「皇太子については...

   その翌年/757年“孝謙天皇”勅命廃されています。そして、同年/4月、後任の皇太子大炊

(おおいおう/後の“淳仁天皇”/父は舎人親王が立てられています。その際、“孝謙天皇”(みことのりして...

  “道祖は...先帝の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなした。先帝への服喪の礼を失している。

宮中の機密を巷間に漏らした。天皇がたびたび戒めても態度が改まらない。夜中に勝手に東宮を脱けだ

して私邸に戻る...”

  ...等の理由を挙げ、廃太子正当化しています。もっとも、これは“孝謙天皇”一方的な見方/立

で、道祖王にも言い分はあったと思われます。でも、これが、皇位継承伝統であり、天皇絶対的な

権力を持っていたわけです。

  “天智天皇”も、片腕として働き、4人の娘/皇女を与えた実弟/大海人皇子でさえ、邪魔になれば

を落す状況になるわけです。この場合、後に<壬申の乱>(じんしんのらん)発展し、決着したわけですが、

1種のゲーム感覚の、権力の行使のようにも思えます。

  “孝謙天皇”の場合は、臨終の折の先帝の遺言さえ、新しい絶対権力者の前には無力なことを示してい

ます。彼女にとっては、予定していた行動だったのでしょう...」

  夏美が、無言でうなづいた。

「それから...」支折が続けた。「同年/7月...

  <橘奈良麻呂の乱>(たちばなならまろらん/・・・橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てた。しかし、密告

により露見。未遂に終わる)発覚すると...奈良麻呂たちが擁立しようとした天皇候補の中に、道祖王(ふなどお

う)の名前がありました。それで、道祖王逮捕されます。道祖王“麻度比”(まどひ/・・・惑い者)改名させ

られた上に...同時に逮捕された黄文王大伴古麻呂多治比犢養(たじひこうしかい)賀茂角足(かもつの

たり)らと共に、“杖で激しく殴打される拷問”を受けたようです。

  最後は、獄死しているようですね。皇位継承をめぐっては、一族/皇族でありながらも、その処罰

なものでした。でも、そうしなければ、紛争の種はいつ芽を吹き返すか分らない、時限爆弾だったわけで

すね。当時の、時代の息遣いが聞こえてくるようです...」

「はい...」響子が、大きくうなづいた。「ありがとうございます...」

 

                               


「ええ...」響子が、スクリーン・ボードを眺めた。「光明皇后希望もあり...

  東大寺“聖武天皇”遺愛品が奉納されました。一部は、東大寺/大仏殿北西に位置する、“正倉

院”(しょうそういん)現存しています。

   “正倉院=世界文化遺産”は...“高床式の大規模な・・・校倉造(あぜくらづくり)倉庫”です。“聖武天

皇と光明皇后の・・・ゆかりの品”をはじめ...“天平時代を中心とした・・・多数の美術工芸品”収蔵して

いる...“古代からの施設”です。“古のシルクロード伝来の品々”も...“日本の古都/奈良の終着

点/正倉院”...に収蔵されています」

「ええと...」夏美が言った。「“正倉院”は...

  “建造物として貴重”(/国宝)なことと...“正倉院宝物”(/国宝には、あえて指定されていない)と...“正倉院

文書”(しょうそういんもんじょ)が...あるわけですね、」

「そうです...」響子が言った。「“正倉院の御物や建物は...長年...国宝重要文化財等には

されて来ませんでした...

  ところが、古都/奈良文化財を、“ユネスコの世界遺産”として登録するに当たり、文化財所在国

法律によって、保護の対象となっていることが条件でした。そこで、正倉院の建造物“正倉院正倉”

として、1997年(平成9年)に、文化財保護法による、“国宝”指定された経緯があります...」

「うーん...」支折が言った。「これは、言うまでもなく...

   1000年以上もの長きにわたり・・・国家/民族の至宝”として...周知されて来たということです。

戦乱の時代にさえ、権威の象徴として、敬遠されてきたということです。ただ、盗難皆無ではなく、ええと、

過去3回ほど、盗難に遭ったという記録が残っているそうです」

「はい ...」響子が、細い指を組み体を傾けた。「“正倉院”も、手付かずというわけではなかったようで

す...

  でも、“国家の至宝”として珍重され...重い敬意を持って扱われてきました。そうした意味で、非常に

残念なのは...“天武・持統天皇陵/野口王墓”(のぐちのおうのはか)が...荒らされたということですわ。

  藤原定家の日記/『明月記』の...“1235年(文暦2)4月2日・6月6日条”に...“同年/3月20日、

21日の両夜に賊が入り・・・野口王墓が盗掘を受けている”...ことが記されている、ということです...」

「はい...」夏美が、うなづいた。「荒らされた...わけですね、」

「そうです...」響子が、唇を結んだ。「不埒(ふらち)に扱われたようです。盗賊は、数百年後のことまでは、

思いが及ばなかったのでしょう...」

 

「ええと...」支折が、片手を立てた。「一言...」

「はい...」響子が、うなづいた。

1907~1908年(明治40年~41年)の...

  東大寺/大仏殿改修の折...蓮華座(れんげざ)近辺で見つかっていた、2本の太刀について...」

「はい...」響子が言った。「太刀が見つかったことは、聞いたことがあります、」

  支折が、うなづいた。

「実は...

  759年遺愛品奉納されてまもなく...正倉院から持ち出され、正倉院目録である『国家珍宝帳』

に、“除物”という付箋(ふせん)の付けられていたものがあります。“陽寶劔”(ようほうけん)“陰寶劔”(いん

ほうけん)です。

  2010年に...その蓮華座の近くで見つかった2振りの太刀を、エックス線で調べました。すると、まさ

“陽寶劔”“陰寶劔”判明したそうです。この組の太刀は、“聖武天皇”遺愛品だったわけです。

“正倉院に納めた後・・・何らかの理由で・・・光明皇后に返還された”...と考えられると言います...」

「はい...」響子が言った。「ええ...ありがとうございます...

  さあ...それでは...『万葉集』の方を見て行きましょうか...」

「そうですね...」支折が、耳の後ろに髪を撫で下した。

“聖武天皇”御製は...」響子が言った。「万葉集11首あるようです...」

光明皇后もあります、」支折が言った。

「まず、それらのですね、」夏美が、口元を崩した。

 

<聖武天皇の・・・御製歌

              

「ええ...」響子が言った。「くり返しますが...

  “聖武天皇”御製(ぎょせい/・・・天皇や皇帝、皇族が、手ずから書いたり作ったりした文章・詩歌・絵画など。日本では一般に、天皇

が詠んだ和歌のこと・・・)は、『万葉集』11首が収録されています...

  あと、『新古今集』以下の勅撰集にも、8首が収録されている様ですね。光明皇后は、『万葉集』

3首が収録されています。

  それから、『続日本紀』(しょくにほんぎ)の、724年(/神亀元年二月六日条)に...従四位下から従三位に昇った

3人の女性(/海上女王、智努女王(ちぬじょおう/長屋王と吉備内親王の娘・・・結婚適齢になると入宮し、即位と同時に夫人となった)、長

娥子(原不比等の次女・長娥子(ながこ)は、長屋王の変の際、側室であったが、不比等の血脈を理由に子供と共に助命されるの中に、

上女王(うなかみおほきみ)がいます。【巻4-(530、531)】ですね...これを取り上げようと思います...」

はい...」夏美が、コクリとうなづいた。

 

 


   
【巻6-(1030)】
   聖武天皇 ・・・【相聞歌】(1030     天皇御製歌1首

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     (いも)に恋ひ 吾(あが)の松原 見渡せば 

                      潮干(しおひ)の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る

  

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【現代語訳/大意・・・巻6-(1030)】         



    妹を恋しく思い...吾の松原を見渡すと...

                  潮の退いた干潟を...鶴が鳴き渡ってゆく...

          

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「うーん...」支折が、ポン助の頭に手を置いた。「まず...

  “吾(あが)の松原”というのは...“吾/われ松/待つ...にかかっていますね。この天平

12年伊勢国行幸した折に詠まれた推定されます。『万葉集』左注に、“伊勢国三重郡にあ

った松原”とあります。現在の四日市市のあたりとか...あ、を慕って、鳴くのだそうです...」




   
【巻8-(1539、1540)】
   聖武天皇 ・・・【雑歌】(1539) 天皇御製歌2首 

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        house5.114.2.jpg (1340 バイト)  

 

    秋の田の 穂田(ほた)を雁(かり)がね 暗けくに

                   夜のほどろにも 鳴き渡るかも

 

    今朝の朝明(あさけ) 雁(かり)が音(ね)寒く 聞きしなへ 

                   野辺(のへ)の浅茅(あさぢ)ぞ 色づきにける

 

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【現代語訳/大意・・・巻8-(1539、1540)】         

 

   穂の出た秋の田を...

             まだ夜の明けきらない暗い中を...

                      雁が鳴き渡って行くなあ...

 

   今朝の明け方...

           雁の鳴き声が寒々と聞えた...

                     それと時を同じくして、野辺の浅茅は色づいたことだ...

        

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「うーん...」支折が言った。「まず...

  “秋の田の...穂田を”は...“刈り”から“雁”を導く序詞ですよね...同時に、“雁”が鳴き渡って

ゆく場所を示しています...“夜のほどろ”は、“夜が明けかける頃”のことです。

  “聖武天皇”細やかな、優しい感性が偲ばれます...古代日本の原風景を感じます...」



   
【巻8-(1638)】
   聖武天皇 ・・・【雑歌】 (1638)      天皇御製歌1首

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    あをによし 奈良の山なる 黒木もち

                造(つく)れる室(むろ)は 座(ま)せど飽(あ)かぬかも

 

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【現代語訳/大意・・・巻8-(1638)】         

 

      奈良の山の...

               黒木で造ったこの室は...

                        いつまで座っていても飽きないことだ...

 

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“黒木”は...」支折が言った。「樹皮がついたままの木材です...

  『万葉集』“左注”によると...長屋王佐保宅の宴での御製歌です。古の、樹皮がついたままの

木材を組んだ、豪壮な邸宅だったようですね。そうした質量感は、現代人の私たちには想像が難しい

のかも知れません...

  “あおによし”は、奈良にかかる枕詞ですね...」




   
【巻8-(1658)】
   光明皇后 ・・・【相聞歌】(1658) 

                                      故                藤原后の天皇に奉る御歌1首 

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    我が背子(せこ)と 

          二人見ませば いくばくか

                 この降る雪の 嬉しからまし

 

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【現代語訳/大意・・・巻8-(1658)】         


    わが君と二人で見るのでしたら...

              どんなにか今降っているこの雪が...

                        喜ばしく満足に思われたことでしょうか...

 

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                               wpe86.jpg (6318 バイト)    


「これは...」支折が、カチャリとコーヒーカップを置いた。「初冬、
大和初雪が降った時でしょうか...

  “聖武天皇”はどこかにか行幸中...平城宮には不在だった様子です。このの降る詩情あふれる

一大事に、なんと不在です。ため息とともに、皇后が詠まれた一首...宮中の一大事の、幸せな

時間結晶化しています。

  “わが背子”は、女性恋人を呼ぶ言葉で、農民たちの歌ことばと言います。“聖武天皇”“わ

が背子”と歌う光明皇后に、言い尽せぬ優しさと、愛情を感じます...」 




   
【巻19-(4224)】
   光明皇后 ・・・【雑歌】

                                      吉野の宮に行幸があった時に、藤原皇后が作られた歌1首

                        (/年月不明...天平勝宝2年10月5日に、河辺朝臣東人が伝誦したものという)

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     朝霧の たなびく田居に 鳴く雁を 

                   留め得むかも 我が屋戸の萩

 

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【現代語訳/大意・・・巻19-(4224)】         


    朝霧のたなびく田に...

             羽を休め鳴いている雁を...

                       引き留めることができるだろうか、我が庭の萩は...

 

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光明皇后は...」支折が、ミミちゃんの耳をつまんだ。「藤原不比等3女です...

  母は県犬養(あがたいぬかい)三千代武智麻呂房前宇合麻呂“文武天皇”夫人/宮子の...

異母妹にあたる首皇子(“聖武天皇”)となり、阿倍内親王(“孝謙天皇”)基親王(/早世・・・早死に)

をもうけています。

  彼女は、皇后宮職(皇后の家政機関を指す。最初に設置されたのは光明子の立后に際して。現在は置かれていない)

施薬院を置き、自らの財薬草を集め、病者に施したと言われています。疫病流行4人の兄を失

ますが...“聖武天皇”東大寺造立専念するようになると、次第に政治的影響力を増して行きま

す。

  娘/阿倍内親王“第46代/孝謙天皇”として即位(天平勝宝元年 )すると、皇后宮職を改めて紫微

中台(しびちゅうだい/天平勝宝1年に設置された令外官 )を設置し、甥/藤原仲麻呂(武智麻呂の次男。武智麻呂は

藤原不比等の長男で鎌足の孫・・・藤原南家の始祖長官を兼ねさせて、ほぼ宮中の実権掌握します。

  “聖武天皇”崩御すると、自ら願文を草し、天皇遺愛の品々東大寺献じています。これが正倉

の始まりです。

  正倉院には、『楽穀論』(がっきろん)筆跡が伝わっています...光明皇后が、王羲之(おうぎし/東晋

の政治家・書家)『楽毅論』臨書(/手本をそっくり真似て書くこと)した名品です。本文は43行“藤三娘”

署名があります。藤原家の3女という意味。光明皇后44歳の時の親筆です。端正な筆跡からも、彼

女の“深い人間性が伝わる作品”と言われています...」




   
【巻19-(4240)】
   光明皇后 ・・・【雑歌】(4240)

                          春日(かすが)にして神を祭る日に、藤原太后の作ります御歌1首

                                           即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ

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    大船に 真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き この吾子(あこ)を 

                    唐国(からくに)へ遣る 斎(いは)へ神たち

 

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【現代語訳/大意・・・巻19-(4240)】         

     大船に櫓(ろ)を多く備えて...

              この我が子を唐国へ遣わします...

                        どうか、神々たちよ、守って下さい...

 

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「ええ...」支折が言った。「例の、藤原清河遣唐使船船出のことですね...

  清河は、藤原大后/光明子の甥です。国母という立場から、“吾子”と詠んでいます。751年/天平

勝宝3年のことですから、“第46代/孝謙天皇”即位して3年...“沙弥勝満太上天皇/・・・聖武天

皇”も、病気がちも健在...実権を持っていたのは光明子です...

  『万葉集』には藤原清河返歌も収録されています...次の、【巻19-(4241)】です...」

 

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【巻19-(4241)】                      大使藤原朝臣清河の歌1首

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   春日野(かすがの)に 斎(いつ)くみもろの 梅の花

                   栄(さか)えてあり待て 帰かへり来くるまで  

 

    春日野で、お祭りする社の梅の花よ...

        このまま咲き栄えてずっと待っていてほしい...私が帰り来るまで...

 

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「うーん...」支折が、遠くを見た。「でも...

  大陸からの帰路遣唐使船は嵐にあい、遭難するんですよね。清河帰国を果たすことができませ

んでした。でも副使船の方は、無事薩摩坊津秋目に漂着します。そして、実はこの福使船の方に、

鑑真和上・一行が乗船していたのです。

  こういう経緯がありました。鑑真渡日の決意を聞き知った遣唐使/藤原清河は、鑑真のもとを訪

れ、固い約束をします。遣唐使として皇帝懇願します。しかし当時の第9代/玄宗皇帝(/寵姫が楊貴

阿倍仲麻呂が科挙に合格し玄宗に仕えている)は、鑑真才能を惜しみ、渡日を許さなかったのです。清河

としては、皇帝に逆らうわけには行きません。

  遣唐使船帰路...大使/藤原清河鑑真乗船を拒否します。鑑真の方はそれは承知で、何

度も密航を敢行していたわけです。これが最後の機会でした。状況を知った副使/大伴古麻呂が、密

かに鑑真乗船させます。そして、福使船の方が、仏舎利(ぶっしゃり/釈尊の遺骨・・・無数に分骨が繰り返され

ている)を携えた鑑真・一行を、無事日本に届けたのです...」

大使/藤原清河の方は...」夏美が、口を開いた。「玄宗皇帝に...を刺されていたわけね、」

「そうです...」支折が、コクリとうなづいた。「天命の...分かれる所です...」

  響子が、深い眼差しでうなづいた。

「ええと...」支折が言った。「...鑑真・一行は...

  11月17日大陸出航...12月20日漂着...

  753年(天平勝宝5年)12月26日に...鑑真大宰府/観世音寺に隣接する戒壇院で、初の授戒

を行っています。日本施政権下に入ったわけです。翌/754年(天平勝宝6年)1月には、奈良の都/

平城京到着...首を長くして待っていた、“聖武上皇”以下の歓待を受けます...

  “孝謙天皇”により、戒壇設立授戒について全面的に一任され、東大寺住することとなり

ます。前年には大仏“開眼法要”があり...続いて、唐の珍客/高僧・鑑真渡来は、歴史的にも

大事件でした。“沙弥勝満・・・聖武上皇”としては...“病気快癒も・・・間違いなし”...と思われたこ

とでしょう...」




【巻4-(530、531)】
   聖武天皇 ・・・【相聞歌】(530)

 天皇の海上女王(うなかみおほきみ)に賜へる御歌(おほみうた) 1首  海上女王の和(こた)へ奉る歌 1首

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  赤駒(あかごま)の 越ゆる馬柵(うませ)

            標(しめ)(ゆ)ひし

                    妹(いも)が心は 疑ひも無し

                         

  梓弓(あずさゆみ) 爪(つま)ひく夜音(よと)の 

           遠音(とほと)にも 

                    君が御幸(みゆき)を 聞かくしよしも

 

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現代語訳/大意・・・【巻4-(530、531)】         

    

  赤駒が...越えるかも知れない馬柵を...

       縄で結(ゆ)い固めておくように...

            私と固い約束を結んだのだから...あなたの心に何の疑いもない...

 

  魔除けに梓弓を爪びく...夜半の弦打の音が遠くから響いてくるように...

          君の行幸のお噂が...

                遠くから伝わって来るのは...嬉しいことでございます

 

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                 h4.log1.825.jpg (1314 バイト)   
 
 

“聖武天皇”が...」支折が、髪を絞った。「海上女王(うなかみおほきみ)に贈った相聞歌です...

  そして海上女王返歌ですね。この海上女王は、実は志貴皇子です。志貴皇子は少し前にも

説明していますが...“天智天皇”皇子で、<壬申の乱>(じんしんのらん)後、“天武天皇”皇后

鸕野讃良・皇后(うのさらら)の、<吉野の6皇子の誓い>にも参加しています。天智系で、もっとも

には縁遠かった彼が、“第49代/光仁天皇”父親になります。

  海上女王はその志貴皇子で、“第45代/聖武天皇”夫人となるわけです。つまり、後の

仁天皇”姉妹に相当するわけですね。母方は不詳で、海上女王光仁天皇”即位する前に、

(こうきょ)されています。

  あ...志貴皇子も、光仁天皇”即位する50年以上も前に、すでに他界してしまっています。

皇位継承執着のなかった志貴皇子ですが、その6男“第49代/光仁天皇”となり、現在までその

血脈が続いています」

 

ええと...

 の方は、説明の必要はないと思います。重ねて言いますが、海上女王“第49代/光仁天皇”

即位の時には、他界していました。(はかな)い命だったのですね。あ、もちろん“聖武天皇”も、とおに

崩御しているわけです...


 

〔3〕 巻/5・6 = 雑歌         

        【巻5】/大伴旅人、山上憶良・・・ 巻6/山部赤人

  (旅人)       (オクラ)         (赤人)

 

「お久しぶりです...」響子が、耳に手を当てた。「秋も...いよいよ深まって来ました」

「そうですね...」支折が、花台の紅葉の小枝に目を移した。

古都の...」夏美が言った。「奈良の秋は、どうだったでしょうか...」

  響子が、うなずいた。

現代の奈良よりも...」響子が言った。「心の故郷...

  古都/・・・飛鳥・・・藤原京・・・平城京の秋が、偲ばれますわ。“天武天皇”がいて、“富本銭”が作られ

て...“元明天皇”治世下武蔵国秩父黒谷自然銅が発見され、“和同開珎”鋳造された頃...

その時代の、秋の様子が偲ばれます...」

「はい...」夏美が、ニッコリとうなづいた。「“天武天皇”が...そこに、居られるようです...耳を澄ます

と...今も、人々のさざめきが聞こえてくるようです...秋風に乗って...」

「そうですね...」支折が言った。「紅葉の、梢の奥から...」

「はい...」夏美が、嬉しそうにうなづいた。

 

「さあ...」響子が、スクリーン・ボードに肩を回した。「話を、進めましょう...

  万葉集/【巻-5・6】=雑歌ですね。【巻-5】は、大伴旅人(おおともたびと)山上憶良(やまのうえおくら)

の、九州/筑紫大宰府在任時代を中心に、編纂している様子です。

  大伴旅人武門の家系です。太宰帥(だざいそち)であり、方面軍司令官の身分です。山上憶良筑前

ですから、市長あたりでしょうか。身分としては、太宰帥の方が高く、水城(みずき/7世紀中頃に構築された国防

施設。福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった)防人総覧(そうらん/全体にわたって目を通すことし、権限強大です...

  【巻-6】の方は...ええと...奈良宮廷をおもな舞台として、詠まれています。笠金村(かさかなむら/

『万葉集』に45首を残す)山部赤人(やまべあかひと/36歌仙の1人などが、代表的歌人です。あ...吉野などへの、

行幸の時も多いようですね...では、さっそく、見て行きましょうか...」

「はい...」夏美が言った。



 
【巻5-(793)】
大伴旅人おおともたびと) ・・・【雑歌/報凶問歌】793)

太宰帥(だざいそち)大伴の卿(きょう)の凶問(きょうもん)に報(こた)へたまふ・・・ 歌1首、また序・・・

<序文> 

禍故(かこ/・・・不幸)重畳(ちょうじょう)り、凶問(きょうもん)(しき)りに集まる。永(ひたぶる)に心を崩す悲し

みを懐(いだ)き、独り腸を断つ泣(なみだ)を流す。但両君の大助に依りて傾命(けいめい)(わづか)に継

ぐのみ。筆言を尽さず。古今歎(なげ)く所なり。   

<左注> 神亀五年(/728年)六月二十三日

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    世の中は 空しきものと 知る時し 

                  いよよますます 悲しかりけり

**************************      

現代語訳/大意・・・【巻5-(793)】         

    

    世の中がむなしく...無常だとの現実に知り...

                      今までよりも...ますます、悲しいことです...
 

 

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                          h4.log1.825.jpg (1314 バイト)    
 
 

「ええ...」支折が言った。「この歌は...

  大伴旅人おおともたびと/『万葉集』76首の歌を残す)が、筑紫を失くした時の歌です。大伴旅人は、

大伴安麿(おおともやすまろ/大納言兼大将軍正三位、贈従二位<壬申の乱>では大海人皇子(天武天皇)の側に立

ち、大伴吹負からの連絡の使者長子で、大伴家持(おおともやかもち/『万葉集』の編纂に関わる歌人の父です。

武門の家系で、歌人であり、将軍です。

  旅人の経歴は...左将軍・中務卿を経て、養老2年に中納言...養老4年に征隼人持節大将軍

なり、<隼人の乱>(はやとのはんらん/720年・“第44代/元正天皇”の治世下・・・九州南部に住む隼人がヤマト王権

に対して起こした反乱)を鎮定。晩年大宰帥(だざいそち)として九州/筑紫赴任します。天平2年、大納

となり帰京翌3年/従二位大納言で亡くなっています...」

「これは...」夏美が言った。「晩年の歌なのですね...」

「そうです...」支折がうなづき、髪を揺らした。「大伴旅人は...

  晩年大宰府赴任するに際、を伴いました。60歳を越えた老大官にとって、この筑紫への旅は、

今生の別れとなる可能性が、濃厚でした。この正妻にははなかったのですが、別れ難く、連れて行く

ことにしたようです。

  あ...ええと、大伴家持正妻の子ではなく、側室の子です。この筑紫への赴任でも、家持も伴って

います。そして...正妻は、大宰府について間もなく他界します。旅人落胆は深かったようです。その

弔問に応えた歌が、この『万葉集』/【巻5 -冒頭】に掲げられた、この歌です...」

「はい...」響子が、口に指を当てた。「ええと...

  “いよよ”は...“いよいよ”の略ですね。<序文>に、“但両君の大助に依りて”とありますが、弔問

の中には山上億良もいます。両君1人は、億良なのかも知れません...」

「はい...」支折が、唇の隅で微笑した。

「ええと...」響子がメモを見た。「これまでは...

  人の死を歌う時は...など...移ろいやすいものに託して述べるのもでした。でも旅人は、

 “世の中は・・・空しきものと・・・知る時し・・・”と、世の無常正面から詠んでいます。“いよよますます

・・・悲しかりけり・・・”と...悲しみもまた、素直にに表現しています。旅人表現新しさです...」

「はい...」支折が、うなづいた。「妻の死後...

  旅人は、山上億良沙弥満誓(さみまんせい)らとの交流を通じ、筑紫歌の世界を展開していくことに

なります。そして、数年後...大納言に昇進し...帰京します...」



【巻5-(822)】
主人= 大伴旅人おおともたびと) ・・・【雑歌】822)

<序文>

天平2年(730年)正月13日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)きき。

時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はい

ご)の香(かう)を薫(くん)ず。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛け

て蓋(きぬがさ)を傾け・・・

*************************************************************

                                  

 

     わが園に 

            梅の花散る ひさかたの

                        天(あめ)より雪の 流れ来るかも

***************************

現代語訳/大意・・・【巻5-(822)】         
    

      わが園に...

               梅の花が...白く舞い散る...

                       天界から...雪が流れて来るように...

 

 ************************************************************

                          

730年/・・・天平2年正月13日・・・」響子が、言った。「有名な、“梅花の宴” がありました...

  大宰帥(だざいそち/・・・大宰府の長官。ちなみに次官は、大宰大弐(だざいのだいに)、及び大宰権帥(だざいのごん

のそち)/大伴旅人の邸宅で、“梅花の宴”が、華やかに催されました。

  集うた者たちは...、山上憶良(やまのうえおくら/第7次遣唐使の少録より・・・従五位下/筑前守。『万葉集』

78首の歌を残す小野老(おのおゆ/・・・2年前、728年大宰大弐となっていて、大宰府の次官『万葉集』3首

短歌)沙弥満誓(さみまんせい/“元明上皇”病臥に際して出家・・・723年(養老7)造筑紫観世音寺・別当として西下・・・

大宰帥/大伴旅人らと交わる。『万葉集』7首の短歌・・・)など、当時、筑紫在住の、名の通った万葉歌人たちで

す。以下に、小野老と、沙弥満誓『万葉集』収録のを紹介します。山上憶良は、別に紹介します」

 

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【巻6-(958)】<・・・小野老(おのおゆ)/雑歌>

 

  時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟かしひがた

                潮干しほひの浦に 玉藻たまもりてな  



   【巻3-(351)】    <・・・沙弥満誓(さみまんせい)/雑歌>

 

  世間(よのなか)を 何に譬(たと)へむ 朝開き

                漕(こ)ぎ去(い)にし船の 跡(あと)なきごとし

 

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  他に...大隈壱岐対馬薩摩におよぶ、九州各地の官人も加わる、盛大な宴だった様子です。

その時の...“梅花の歌・・・32首”が...美しい詩文の序とともに、『万葉集』/【巻5】に残されてい

ます。【巻5-(822)】は、宴の主人/大伴旅人です...


 


【巻5-(818)】
(818)山上憶良 (やまのうえおくら/筑前守山上大夫) ・・・【雑歌】

                                         (上の・・・ “梅花の宴”の時の歌)

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    春されば まづ咲く屋戸の 梅の花

                  独り見つつや 春日暮らさむ

 

現代語訳/大意・・・【巻5-(818)】         

    

     春が来れば、真っ先に咲くわが家の梅の花...

                 私は独りぼっちで見ながら...

                            春の一日を過ごすのだろうか...

 

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「ええと...」夏美が言った。「ここは、私の担当です...

  “梅花の宴”で、山上憶良が詠んだものですね。憶良の画像ないので、オクラを掲載しておきます...

ええ...“春されば”“さる”は、現代語の“去る”語源だそうです。古くは、方向を問わず、移動する

意味だそうです。したがって...来る訪れる、という意味になることが多いようです。それから、反語

的疑問形となっているので、実は...みんなで一緒に楽しみたい...という反対の意味が含まれます」

  夏美が、自分のモニターに目を落とした。

 

「あ、すみません...」夏美が、顔を上げた。「山上憶良については、私が参加する以前にも触れてい

るようですね。でも、くり返し説明しておきます...

  山上憶良は、701年(大宝元年)正月/第七次遣唐使少録(記録係で、正八位上相当)に任命されていま

す。この時は、実質的には無位で、名は山於億良とあるあるようです。

  同年9月...“第42代/文武天皇”紀伊国行幸の時の作と思われるものに...長意吉麻呂の、

《結松を見て哀咽歌》/『万葉集』/【巻2-(143・144)】 ...があり、これに追和した憶良の歌があ

ります。【巻2-(145)】ですね。一緒に、続いて掲載されています」

 

「...その...

  翌年・・・6月/遣唐使船出航・・・10月頃には...唐の都/長安に入ります。それから2年ほど過

ごし、遣唐使/粟田真人らが帰国していますから、憶良同船したと思われます。身分が低いので、

がないようです。

  714年(和銅七年/“第43代/元明天皇”の治世)正月従五位下に叙されています。716年に、伯耆守(ほ

うきのかみ/伯耆は、鳥取県の中西部)に任ぜられています。721年には首皇子(後の“聖武天皇”侍講。退

朝後、東宮(じ/高貴な人や目上の人のそば近くに仕えることしています。

  726年筑前守に任命され、筑紫下向します。2年ほど後に...大伴旅人大宰府着任しま

す。以後は、旅人歌友として、倭歌の制作に励んだようです。730年(天平2年)正月旅人の邸“梅

花の宴”に参加しています。

  ええと...それから...翌年頃へ帰っていますから...筑紫への下向の任務では、旅人

じコースをたどっています。あ、でも...から下向してくる官人というのは、同じコースをたどるわけで

すよね」

「はい...」支折が、コクリとうなづいた。


 


【巻6-907、908)】
笠金村 かさかなむら) ・・・【雑歌】 (907)

養老七年(723年)癸亥(みずのとい/干支の1つ)の夏五月、吉野離宮へ行幸の時に笠朝臣金村が作った

                                                歌一首 并(並) 短歌

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滝の上の 御舟(みふね)の山に 瑞枝(みづえ)さし 

     繁(しじ)に生ひたる 栂(とが)の樹の 

   いやつぎつぎに 万代(よろづよ)に かくし知らさむ み吉野の 

         蜻蛉(あきづ)の宮は 神柄(かむから)か 貴(たふと)くあるらむ 

       国柄(くにから)か 見が欲しからむ 山川を 清み清(さや)けみ 

              うべし神代ゆ 定めけらしも

 

 

毎年(としのは)に かくも見てしか み吉野の

               清き河内(かふち)の 激(たぎ)つ白波

 

 

現代語訳/大意・・・【巻6-(907)、返歌 (908)】         

    

    吉野川の...激流のほとりの御船の山に...みずみずしい枝を張り出し...

           すき間なく生い茂る...栂の木...そのように次々と...

         いつの代までも...このようにお治めになっていく...ここ吉野の蜻蛉の離宮は...

                 地神のご威光から...こんなにも貴いのか...国の品格から...

              こんなにも見たいと思うのか...山も川も清くすがすがしく...

                       なるほど神代から...ここを宮とお定めになったのだ...

 

 

毎年このように...見たいものだ...

         吉野川の...清らかな河内に...激しく流れる白波を...

 

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「うーん...」支折が、アゴに手を当てた。「笠金村(かさかなむら)ですね...

  この人物の系譜は明確ではないようです。ただ、笠垂(かさしだる/吉備笠垂)と記す系図がある

ようです...笠垂/吉備笠垂について、少し説明しましょうか...」

  夏美が、うなづいた。

「ええ...」支折が、モニターに目を落とした。「時代を遡ります...

  645年(大化元年)に...<乙巳の変>(いっしのへん)/蘇我入鹿暗殺事件が起こりますよね。<大化

の改新>発端です...

  その折の...中大兄皇子(/後の“天智天皇”)中臣鎌足(/後の藤原鎌足)標的の1人と考えられる

のが、古人大兄皇子(ふるひとおおえおうじ/“第34代/舒明天皇”の第1皇子)です。事件後、“第35代/

皇極天皇”退位を受け、皇位に即くことを勧められますが、危険察知して辞退...出家して吉野

隠退します...」

「はい...」夏美が、髪を絞って、うなづいた。

「ええ...」支折が言った。「“第34代/舒明天皇”第1皇子ということですが...

  “舒明天皇”の前は...“第33代/推古天皇”ですよね...その時の摂政聖徳太子でした...」

「はい、」

「その<乙巳の変>の後...」支折が言った。「吉野隠退した古人大兄皇子に対し...

  “謀反の企てあり”、と密告したのが吉備笠垂です。謀反真偽は不明ですが、どうやら謀略のようで

すね...笠金村はその、吉備笠垂ということでしょう。

  古人大兄皇子は、“謀反の企てあり”ということで、吉野中大兄皇子に攻め滅ぼされます。その同じ

吉野逆手にとり、<吉野出兵>数万の兵数日で動員したのが、“天武天皇”<壬申の乱>

す...“天智天皇”は、臨死の床でこのことを予想し、途方にくれたわけです...」

  夏美が、唇を結び、コクリとうなづいた。

「ええ...」支折が、スタンド・スクリーンに目を流した。「いいですか...

  笠金村越前守ですね...『万葉集』45首を残します...年次がわかるものは、715年(霊亀元

年)志貴皇子に対する挽歌から...733年(天平5年)<贈入唐使歌>までの、前後19年です...」

「はい...」夏美が言った。「山上憶良は、701年正月/第七次遣唐使ですから、30年以上も前です

ね、」

「うーん...」支折が、響子のほうを見た。「その時は、憶良も若かったでょうし...」

「そうですね...」響子が、耳に手を当てた。「憶良も、その733年頃没しているようですね...同時

歌人だったのでしょう」

「はい、」支折が、うなづいた。

 

                   

   【巻5-892、893)】 山部赤人 やまべあかひと) ・・・【雑歌】 (892)

                                         貧窮問答の歌一首  また短歌

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風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 

(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 

糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに 

しかとあらね 髭(ひげ)かき撫でて 我(あれ)を除(お)きて 人は在らじと 

誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 

布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 

(われ)よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 

妻子(めこ)どもは 乞(こ)ひて泣くらむ この時は 如何にしつつか 

(な)が世は渡る

 

天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる 

日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 

人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 

人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の 

海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる 襤褄(かかふ)のみ 肩にうち懸け 

伏盧(ふせいほ)の 曲盧(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 

父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に 

囲み居て 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 

(こしき)には蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)(かし)く 事も忘れて 

ぬえ鳥の のど吟(よ)ひ居るに いとのきて 短き物を 

(はし)きると 云へるが如く 楚(しもと)取る 里長(さとをさ)が声は 

寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 斯(か)くばかり 術無きものか 

世間(よのなか)の道
 


世のなかを 憂(う)しと恥(やさ)しと 思へども 

                 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
 

 

現代語訳/大意・・・【巻5-(892)、(893)】         

  風まじりの雨が降る夜...雨まじりの雪が降る夜は..どうしようもなく寒くてたまらず...

粗塩を少しずつかじりながら...糟湯酒(かすゆざけ)をすすったりして...絶え間なく咳き込み...

鼻汁をびしびしすすり上げ...大してありもしない髪を撫でては...

私のように立派な人間はいない...と誇ってみるけれども...やはり寒くて仕方がない...

それで麻の夜具を引っかぶり...布の肩衣(かたぎぬ)をあるだけ重ね着しているのだが...

それでも寒い夜を...私より貧しい人たちの父や母は...さぞ飢えて凍えていることだろう...

妻や子は腹をすかして....泣いているだろう...

こんな時、あなたたちは...どのようにして世を渡っていくのか...

 

天地は広いとはいえ...私のためには狭くなったのか...太陽や月は明るいというものの...

私のためには照ってくださらないのか...人も皆そうなのか、私だけそうなのか...

幸いに人と生まれたのに...人並みに耕作して働いているのに...

綿も入っていない布の肩衣の...まるで海松(みる/海藻の一種。食用)のように...

裂けて破れて垂れ下がった...襤褸(ぼろ)のみを肩にかけ...

掘っ立て小屋で傾きかけた中に...地面に直接わらを敷き...

父や母は上の方に、妻子は下の方に...身を寄せ合って嘆き悲しみ...

かまどには火の気を立てることもなく..こしき古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器)には

くもの巣がかかり...飯を炊くことなどすっかり忘れて...

ぬえ鳥(/日本で伝承される妖怪あるいは物の怪)のように弱々しく鳴いているのに...

すごく短い物の端を...さらに切り取るという言葉のように...

鞭(むち)を持った里長の声は...寝床にまでやって来ては呼び立てる...

これほどに、どうしようもないものなのか...世を渡る道とは...

 


 この世を辛く...身も痩せ細るような所と思うけれども...

                 この世から飛び立つことはできない...鳥ではないから...
 

 

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山部赤人については...」支折が、首筋に指を当てた。「これまでにも、すでに紹介しています...

 

  田子の浦ゆ うち出でてみれば

         真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける     万葉集 【巻3-(318)】

 

  田子の浦に うち出でてみれば

        白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ      小倉百人一首・・・④番

                                                      <詳しくはこちらへ>

 

  潮(しほ)(ひ)なば 玉藻(たまも)刈りつめ

        家の妹(いも)が 浜づと乞(こ)はば 何を示さむ   万葉集 【巻3-(360)】

                                                                 <詳しくはこちらへ>

 

  ...ええと...【巻3-(318)】 は、万葉集編纂されている、山部赤人本来の歌ですね。

下の小倉百人一首・・・④番の方は、『新古今集』転載された折に...新古今風(しんこきんふう)

に...調べを重視し...流れを優美にするために...変更されたものです。

  ご存知のように...この手直しは、昔から評判が悪く、小倉百人一首・・・②番持統天皇

と同様に、万葉集本来の歌の方が良かった、と言われています。『新古今集』の選者は、藤原定

(ふじわらさだいえ)・・・源通具(みなもとみちとも)・・・藤原有家(ふじわらありいえ)・・・藤原家隆(ふじわら

いえたか)・・・藤原雅経(ふじわらまさつね)・・・寂蓮法師(じゃくれんほうし)らであり、彼等がやった事です。

もちろん、後鳥羽院(/後鳥羽天皇、後鳥羽上皇、後鳥羽法皇・・・平安時代末期~鎌倉時代初期の天皇、鎌倉時代前

期の治天の君)指示により、編纂されたわけですね。

  あ、後鳥羽院は...平安時代末期~鎌倉時代初期天皇です。鎌倉幕府・3代将軍/源実朝

暗殺されると、<承久の乱>を引き起こします。でも、あっさりと敗北しますよね。そして、隠岐に流され

て、そこで崩御しています...ええ、ここは、これぐらいにして置きましょうか...」

「はい...」夏美が、コクリとうなづいた。