Menu 仏道無門関・草枕南泉斬猫

     < 無 門 関・第14則>    南泉和尚、猫を切る...

                   南 泉 斬 猫  (なんせんざんびょう)      wpeA.jpg (42909 バイト)

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 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

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No.9  南泉斬猫なんせんざんびょう... <無門関・第14則>

          <3>... 趙州、履を頭の上に載せて出て行く

2000. 1.17 

2000. 1.27

 

 

   <1> 公案                     wpeA.jpg (42909 バイト)   

 

  ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた。

南泉は猫を提示して言った。

「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨

てよう」

  誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。

 

  夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州

は履( くつ )を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉は言った。

「もしお前があの時おったならば、猫は救えていたのに...」

 

 

  さあ、“南泉斬猫”です。これも風変わりな公案で、昔から非常に有名なものです。

ここには、南泉と趙州という名前が出てきます。趙州とはもちろん、“無門関第1則

・趙州狗子”に登場する趙州禅師のことです。つまりこの公案は、趙州が南泉禅師

のもとで修行をしていた頃の話です。時代はまさに唐の末期、中国における禅宗の

大隆盛期の出来事です。

  ちなみに、小猫を斬った南泉禅師の師は、馬祖道一です。また、その師は南岳

懐譲、そしてその師は六祖・慧能となります。この慧能はなぜ六祖なのかといえば、

中国における禅宗の初祖・菩提達磨(ボダイダルマ)から数えて、六代目の法嗣(ほっす

/法を継ぐ者)ということです。

 

初祖・達磨 

  (あの、赤い置物のダルマさんのモデルです/釈尊と同じインド人といわれ、海路より中国に入っています...)

二祖・慧可(“無門関・第41則/達磨安心”)

         三祖・僧燦 (そうさん/燦は火のヘンではなく王のヘンですが、登用漢字からは入力不可...)

四祖・道信

   五祖・弘忍(ぐにん、こうにん/慧能を法嗣としたことで有名です...)

六祖・慧能(えのう...“無門関・第23則/第29即)

     六祖以降は、このような呼び方はしないようです)

 

  この“南泉斬猫の公案は、動物愛護の人々や西洋人からは、小猫を殺すという

ことで問題にされたりもしているようです。しかし、動物愛護はまた別の次元の話で

す。“シュレーディンガーの猫(量子力学)も、こんな目にあっているわけですから。

  さて、この公案自体は、非常に難解なものであり、単に哲学的に理解するのは不

可能と言われます。むろん、南泉が小猫を斬ったことを非難したり、そこに趙州がい

なかったことを残念がっていたのでは、話しになりません。

  禅の書では繰り返し述べていることですが、“公案”倫理や一般的な常識論とは

別次元の領域で展開しています。つまり、実際に禅修業を積んだ者が、禅眼を開い

てこそ、うなづき得るものだということです。この公案によれば...

 

  “ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた”

 

  ...と言います。一体何について言い争っていたのかは、この公案からは何も分

かりません。つまり、ここでは、その争いの内容は問題ではないということです。 

  しかし...ここは少し脱線し、当時の僧たちは一体どんな議論に熱中していたの

かを考察してみます。“無門関・第二十九則/非風非幡”で、二人の僧がこれと似た

ような議論をしています。

  場所は...広州の法性寺(ほっしょうじ)五祖・弘忍から衣鉢を受けて六祖となった

慧能は、“無門関・第二十三則/不思善悪”の後、15年間ほど、中国の禅宗史の

表舞台から遠ざかっています。まだ僧侶の身分にもなっていない行者(あんじゃ/在俗

の修行者)法嗣/六祖となったことで、禅宗界が大揺れになった大事件以後です。

  その15年間...慧能は身分を隠して山中で修行を重ね、禅の境涯を深めてい

たと推測されます。そして、まさに六祖として名乗り出たのが、この“無門関・第二

十九則”となった広州の法性寺での出来事だったのです。

  儀鳳(ぎほう)元年(西暦676年)のことであり、慧能は行者の身分のまま、法性寺印

のもとで、涅槃経(ねはんきょう)の講義を聞いていたといいます。

 

    さて、この“無門関・第二十九則”で、僧たちが何を議論していたかということで

すが、寺の境内の幡(ばん/はた・・・高い竿の上から垂れ流す布)についてでした。

  涅槃経の講義を聴いているうちに外も暗くなり、少し風が出てきました。その風で、

寺の幡がハタハタと音をたて始めます...

「幡が動いたぞ...」後ろの方で講義を聞いていた僧のひとりが、ポツリと言います。

「いや...それは違う...風が動いたのだ...」隣の僧が、ささやき返します。

  すると、この話に回りの僧たちも加わり、ガヤガヤとしだいに騒ぎが大きくなって

行きます。講義をしている印宗も、どうも後ろの方が騒がしいと気付いています。

  そこで...そのそばでこの議論を聞いていた慧能が...ついに言いました。

「幡が動いた、風が動いたと、馬鹿なことを言う...それは、幡が動いたのでも、風

が動いたのでもない...君たちの心が動いたのだ...」

 

  うーむ...この“無門関・第二十九則/非風非幡”の解説は、その折にじっくりと

考察することにします。今ここでは、その当時の僧たちは、こんなことを議論してい

たということだけを記しておきます。当時も今も、若い僧たちが議論している内容は、

それほど違いはないようです。

  したがって...一匹の小猫のことで東堂と西堂の僧たちが言い争いをしていたと

いうのも、おそらくこんな類の話だったと推測できます。しかし南泉のもとには、常時

数百人修行僧がいたと言われます。こうした巨大な禅道場という背景を考えれば、

やはり生半可な場景ではなかったと思います。

 

 

   <2> 再度問う・・・言い得なければ・・・斬!   

         wpeA9.jpg (43459 バイト)                             


  さあ、そこで...現在のあなたに質問です。もしあなたが、“則・・・今ここで”

別の小猫を前にして...まったく同じ場景に出会ったなら、何とするでしょうか?

 

     禅の一語を...言い得るならば...この猫を助けよう!

                     言い得ぬならば...また、斬り捨てよう!

 

  さあ、今・現在、また別の小猫が用意されました。則・今、言い得なければ、再び

斬...となります。

                            wpeA.jpg (42909 バイト)   <ミケ>     

  つまり、無門禅師は、この公案の中で、まずこう迫っているわけです。当時の僧た

ちと同じように、やはり私たちにも、何も答えられないのでしょうか...

      “ならば・・・再び斬!”      <チャッピー>    

 

  ...ということになります。いったい、この小猫をどうやって救ったらいいのでしょう

か...何処にその手がかりがあるのでしょうか。“絶体絶命の縁”で考えてください。

 

<根本智の猫>            

 

  ある古禅哲は、この公案を評し、こう言ったといいます。

「根本智の猫は、いかに南泉禅師の刀といえども斬ることはできない。今日もなお立

派に生きている」

 

  ここでいう“根本智”とは、“一切の二元性を越える根本的な理法”という意味で

す。しかし、参考文献“無門関講話”の著者、柴山全慶師は、この答えも宗教哲学の

臭いがするといいます。

  さあ、それでは私たちは一体この“南泉斬猫”の難関に、どのように取り組んだら

いいのでしょうか...そして、まさにここで前面に出てくるのが、実践的な禅修業の

成果です。

  すなわち...趙州禅師の(無門関・第一則)になれ、倶胝禅師の一指(無門関・第三則)

になれ、無門禅師の内外打成一片ジャンプとなれ、ということなのです。

 

    このように、主体と客体という二元性が消えうせ、“唯一の絶対主体”となった時、

南泉禅師と小猫の境界線は消えうせてしまいます。つまり、殺すも殺さないも、それ

は同じ1つのものであり、殺すことなどは不可能なのです。そこにはただ、同じ1つの

全体が、同じ1つの全体を極め尽くしている世界が展開するばかりです。

 

 

<南泉、遂に、これを斬る...>

 

  さあ、そこに居合わせた大勢の修行僧は、誰一人答えることが出来ませんでし

た。そして、遂に南泉禅師は、小猫を斬ります。この“遂に、”の言葉に、周囲の忍び

難い心境がうかがえます。しかし、そうはいっても、誰も答えることが出来ないわけで

す。まさに、“忍”の一字です。

 

  が...この時、大禅匠としての南泉禅師の心境とは、どのようなものだったので

しょうか...むろん、真の禅者が、何の意味も確信もなく、単に小猫を斬ったわけ

ではありません...

 

  おそらく、倶胝和尚なら、ここでも黙って“一指”を立てたでしょう。また、後で話を

聞いた高弟の趙州は“無”とは言わずに、“履(くつ)を脱いで頭の上に載せて”

て行きます。

 

  この南泉が猫を斬ったという事態に対し、古禅哲たちは色々な評語を残していま

す。むろん、禅的な評価であり、道徳や動物愛護からの評価ではありません。

 

「南泉の斬ったのは争いの猫ばかりではない。仏と呼ばれる猫を斬り、祖

師と呼ばれる猫を斬り、彼らの棲み家である阿頼耶識(あらやしき)まで斬り尽

くし、清風凛々としている」

 

「幸いに南泉は正しい行為をした。一刀両断。勝手に評するがいい」

 

  さらに、この“一刀両断”の評に対し、道元禅師は、

 

                  “一刀一断”

 

と言っています。“内外打成一片”となっているものを斬るとは、まさにこの“一刀一

断”ということなのでしょうか...

 

                                                  (2000.1.27)

 <3> 趙州、履を頭の上に載せて出て行く...

 

さて、次に場面は一転し、高弟である趙州が外室から帰ってきた場景になります。

 

  夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州

は履( くつ )を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉は言った。

「もしお前があの時おったならば、猫は救えていたのに」

 

  さあ、趙州は何故こんな、今まで見たことも聞いたこともないような奇異な行動にで

たのでしょうか。小猫は殺され、それを聞いた趙州は、履を頭の上に載せて出て行き

ます...

  では、南泉に話を聞いたのは趙州ではなく、“私自身”、“あなた自身”だったらどう

したでしょうか.....うーむ.....(未熟者の私には、なんとも.....)

 

  それにしても、南泉は、何故趙州のこの奇行を良しとしたのでしょうか...趙州

は、“残念だった。可愛そうなことをした”だとか、“ほう、そんなことがあったのです

か”などとは答えなかったのです。南泉と趙州の間で交わされたのは、まさに禅問答

であり、趙州は則・今の境涯を答えなければならなかったのです。そしてそれは、ポ

ンと履を脱ぎ、頭の上に載せて出て行く行為になりました。

 

いかなるか、これ、仏法?」と問われ、「麻、三斤」と、近くにあった麻(あさ)

をひと掴みして答えたという話があります。

 

  これと同じように、趙州の行為は、緻密に計算されたものではありません。

“即・どうじゃ!”と問われ、間髪を入れずに答えた行為です。では、これが何故いい

のか...そこに...生死を越えた、永遠の行為...を見たからでしょうか...

  これについて、道元禅師はこう言ったと記してあります。“死や全機現”...これ

は、死ぬ時はただ死ぬだけ。徹底して死にきるところに、生死を越える消息がある

いうことです。うーむ...確か、“正法眼蔵”の“生死”の章に、こうした内容のことが

記してあります。

 

  生から死に移り変わると考えるのは誤りである。生といえば生になりきっ

ていて、始めから終りまで生である。従って、仏道では、生のことを「生死を

越えた生」というのである。死といえば死になりきっていて、始めから終りま

で死である。従ってそれを「生死を越えた死」というのである。

                                          <“正法眼蔵”/“生死”より>

  また、至道禅師は、こう詠じています。

 

生きながら 死人となりて なりはてて

            心のままに 為すわざぞよき

            

  この句は、生きながら 死人となりて なりはてて は、南泉禅師をうたい、

心のままに 為すわざぞよき は、趙州禅師の奇行をうたっていると言います。まさ

に、この“南泉斬猫”の公案をズバリと言い切っているように思います。何度も読み

返し、その意味を考察してください。南泉になりきり、趙州になりきってみてくださ

い...

  むろん、大禅匠になりきれというのは無理な注文ですが、その心境もまた生半可

なものではありません。しかし、とりあえずは挑戦し、その心がなへんにあるのかを

探ってみてください。

 

  いずれにしても、生も死も、斬るも斬らぬも、全ては二元論的な概念です。二元論

を超えた趙州禅師の、あるいは倶胝禅師の一指となった時、そもそも“斬る

の切らぬの”は、意味を成さないのです。唯一の絶対主体となった時、二元論的な

“斬る”という概念、“殺す”という概念そのものが成立しないのです。あるのは唯一

絶対の“1”であり、この宇宙、この世界全体が、分割することのできない唯一の存在

だと言うことです。

  言葉というものは、この世のあらゆる物を分断し、意味付け、概念付けます。しか

し、それはこの世の真実をあらわしてはいないのです。この世の真実、リアリティーと

は、概念化することも、対象化することも、分断することもできない、1つで全体の存

在なのです。そして、それは何処にあるかといえば、即・今・眼前している風景がそ

れです。即・今、聞こえている音がそれです。即・今、肌を刺す冷たい寒風がそれで

す。

  リアリティーは、あまりにも私たちに身近すぎて、私たちはそれをあまり考えなくな

ってしまっているのです。しかし、禅では、“直下に見よ!”と、いいます。禅眼は、あ

まりにも身近にあり、近すぎて、それがそこにあるのがなかなか気付かないのです。

目の前の風景、今聞こえている音、肌を刺す冷たい風、それそのものを“直下に見

よ!”ということなのです...それが、如何に身近なものか、自分自身でしっかりと

計ってみてください。

 

 

           この公案は、きわめて難解なものと言われます。

                           また、私自身も、己の未熟さを痛感しています。