Lobby /Tokushuu・0 /文化・芸術 /響子の小倉百人一首/<42~60>

         響子の・・・ 小倉百人一首  

    第 3 巻  < 42 ~ 60 >  (2015年/4月5日~7月27日)
 

                          

トップページ/New Page Wave/Hot Spot/Menu/最新のアップロード         担当: 里中 響子 

                               

【42番 → 清原元輔】  契(ちぎ)りきな かたみに袖を しぼりつつ 末(すえ)の松山 浪越(なみこ)さじとは
【43番→権中納言敦忠】  あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
【44番 → 中納言朝忠】  逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
【45番 → 謙徳公】  あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
【46番 → 曾禰好忠】  由良の門(と)を 渡る舟人 かぢを絶え 行方も知らぬ 恋のみちかな
【47番 → 恵慶法師】  八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり
【48番 → 源重之】  風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな
【49番 → 大中臣能宣】  

 みかきもり(御垣守/皇宮衛士のこと) 衛士(ゑじ)のたく火の 

                  夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思へ

【50番 → 藤原義孝】  君がため 惜(お)しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
【51番→藤原実方朝臣】   かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
【52番→藤原道信朝臣】   明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな
【53番→右大将道綱の


  母】
 なげきつつ ひとりぬる夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る
【54番 → 儀同三司母】  わすれじの 行末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
【55番 → 大納言公任】  滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ
【56番 → 和泉式部】  あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな
【57番 → 紫式部】  めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半(よは)の月影
【58番 → 大弐三位】  

 有馬山(ありまやま) 猪名(いな)の笹原(ささはら) 風吹けば 

                          いでそよ人を 忘れやはする

【59番 → 赤染衛門】  やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
【60番 → 小式部内侍】  大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

 

                                上から ・・・下へ            
 4月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(356)

【42番 → 清原元輔】(きよはらのもとすけ/平安時代の歌人・官人。【36番→清原深養父】の孫。娘に、

                   『枕草子』にを書いた清少納言がいます。三十六歌仙の1人であり、<梨壺の五人>の

                   1人として、『万葉集』の訓読や『後撰集』の編纂に当たりました。『拾遺集』以下の勅撰

                   和歌集に約100首が入集。家集に『元輔集』があります。官位は従五位上肥後守。)


★ 契
(ちぎ)りきな かたみに袖を しぼりつつ 末(すえ)の松山 浪越(なみこ)さじとは


< 互いに、約束したのにねえ…

        泣いて、涙に濡れた袖を絞りながら…

               末の松山を、波が越すなんてあり得ないように…

                     決して、心変わりはしないと、言ったのにねえ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(357)

「この歌は…『後拾遺集(ごしゅういしゅう) - 巻14/恋』に…

<心変り侍りける女に、人に代りて>…として載っています。

まず…清原元輔は【36番→清原深養父(きよはらの・ふかやぶ)】の孫で、『枕草子』を書い

た清少納言の父であり、三十六歌仙の1人です。83歳で、肥後守の在任中に没して

います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(358)

元輔(もとすけ)は…歌人の家に生まれ、官吏としての活躍はありませんが、歌人としては

名を上げています。

天暦5年に和歌所(わかどころ)の寄人(よりゅうど)になり、『万葉集』に訓点(くんてん)をつける

事業に参加しています。また、<梨壺(なしつぼ)の五人>の1人でもあり、『後撰集』の撰

者にもなっています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1大中臣能宣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(359)

<梨壺(なしつぼ)の五人>とは…

第62代/村上天皇の命で…平安御所七殿五舎の1つの昭陽舎(しょうようしゃ/平安京内裏

五舎 (昭陽・淑景・飛香・凝華・襲芳) の1つ。)に置かれた、和歌所の寄人です。昭陽舎の庭には

梨の木が植えられていて、梨壺と呼ばれたそうです。

五人とは…大中臣能宣(おおなかとみの・よしのぶ)を中心として、源順(みなもとの・したごう)、清原

元輔、紀時文、坂上望城(さかのうえの・もちき)、です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(360)

この梨壺で 『万葉集』 の解読や、『後撰集/後撰和歌集』の編纂(へんさん)を行いまし

た。

元輔は…官位は進みませんでしたが、歌人としては大貴族たちの庇護を受け、お邸に

出入りし、賀歌(がのうた)、屏風歌(びょうぶうた)、贈答歌を献じたりしています。そのために、

『元輔集』には儀礼的な歌が多くあります。


 4月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(361)

『拾遺集』(しゅういしゅう)に…

79歳で、肥後守(ひごのかみ/肥後は、火の国でもあり、現在の熊本県で・・・そこの長官/・・・懐かしい和式ナ

イフの元祖にも『肥後守』の名前があります。)として下る元輔が、送別会で詠んだ歌があります。


★ いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き道をば



これも、洒脱
(しゃだつ/俗気がなく、さっぱりしていること。)な詠みですね。晩年の子の清少納言

(/57~58頃の子供)も、この時は結婚していて一緒には行きませんでした。(/83歳で、肥後

守の在任中に没しています。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(362)

清少納言の母は、物心がつく頃には亡くなった様子で、元輔は孫の様な娘を溺愛しま

した。66歳の時、周防守(すおうのかみ/現在の山口県東部に相当)として赴任する時には、彼女

も連れて行きます。彼女もこの父が好きだった様子で、『枕草子』 の執筆/物の見方や

発想は、元輔の教養や明るさに、負う所が大きい様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(363)

さあ…ともかく、この歌ですが…

詞書(ことばがき)に<心変り侍りける女に、人に代りて>とあるように、恋の恨み節を

代作してやった歌ですね。

梨壺(なしつぼ)の寄人(よりゅうど)に歌の代作を依頼するとは、どのような人物でしょうか。

しかも、その契りを裏切り、他の男と出来てしまった女がいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(364)

双方とも、教養のある高貴な身分の人なのでしょうか。また、元輔の明るい洒脱(しゃだ

つ)ないたわりが、裏切りの怨念(おんねん)を、甘美な思い出の示唆(しさ)に、昇華させて

いる様ですね。

ともかく、<契りきな>と最初の句こそ強いのですが、下の句へ行くにつれて、愚痴

(ぐち)に軟化しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清原元輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(365)

うーん…

プロ歌人として代作を依頼されたら、これぞ一級品の歌…とうなる様な1首ですね。双

方ともに、憤怒(ふんぬ)や怨嗟(えんさ)を残さないのが一番です。

あとは、元輔の明るい性格と、歌人としての技量なのでしょうか。

ほほ…依頼人はこの歌を、女性に贈ったわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(366)

<末の松山>は陸奥(むつ)の国の歌枕です。現在の宮城県多賀城市あたりの丘とか。

海辺にあり、決して波を被らないという言い伝えから、男女の契りに例えられました。も

し不実があれば、<浪こゆる>…と表現されます。

3・11の大津波(/東北地方太平洋沖地震・・・2011年(平成23年)3月11日(菌)14時46分18.1秒・・・太平

洋三陸沖を震源として発生した地震。)では…まさに波が越えたのでしょうね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(367)

【43番 → 権中納言敦忠】(ごんちゅうなごんの・あつただ/藤原敦忠/平安時代中期の公家・歌人。左大

                        臣・藤原時平の3男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の1人。通称は枇

                        杷(びわ)中納言・本院中納言。)


★ あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり



< ついに逢瀬(おうせ)を遂げた…

       その後の恋しい心に比べれば…

              それ以前の恋しい想いなど…

                     恋の悩み、という程のものではなかったなあ… >



 4月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(368)

「この歌は 『拾遺集 - 巻12/恋』 に、<題しらず>として載っています。

作者は…左大臣/藤原時平の3男/敦忠(あつただ)…【38番 → 右近】の恋人。右近

は敦忠の心変わりを…


★ わすらるる 身をば思はず 誓ひてし 人のいのちの 惜しくもあるかな


…と詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(369)

この歌は…複雑な恋心を、明晰(めいせき)に詠み下しています。敦忠が右近に贈った歌

かは不明ですが、恋の初め頃に与えたのかも知れません。

右近は【38番】で <人のいのちの 惜しくもあるかな>と詠んでいますが…いずれ

にしろ彼は、38歳の若さで亡くなっているのです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(370)

敦忠は、なぜ若死かというと…

左大臣/藤原時平の3男だからかも知れません。菅原道真を陥れ、大宰府に左遷し

た事の怨念かどうか…時平自身39歳で死に…兄の保忠(やすただ)、敦忠、敦忠の姉

(/仁善子(にぜこ) 長女。保明親王の妃。東宮・保明親王の妃となり、慶頼王生むが、親王が即位することなく薨御。

慶頼王も薨御)の夫の保明親王(やすあきら・しんのう/醍醐天皇の第2皇子でその皇太子となる。21歳で薨

御(こうぎょ/皇太子や大臣の逝去))…3歳で立太子(りったいし/天皇の跡継ぎとして太子に立てること)した

慶頼王(よしよりおう)も、5歳で夭折(ようせつ/若死に)します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(371)

当時、この権門一族の短命は、恨みを残して死んだ道真の怨念と信じられていました。

『大鏡』(おおかがみ/平安時代後期(/白河院政期)に成立した紀伝体(きでんたい/東アジアの歴史書の書式の

1つ。)の歴史物語。)にも…

<かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣(おとど)の御末(おんすえ/

ご子孫)はおはせぬなり>

…と書かれてます。時平は歴史物語でも悪役であり、憎まれていました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(372)

『大鏡』 によれば…敦忠自身も短命を意識していた事が、書かれています。

「われは命短き族なり、必ず死なむず」

…と妻に言います(/* おそらく、右近にも言っていたので、彼女は<人のいのちの 惜しくもあるかな>と

詠んだのでしょう・・・)。

敦忠の妻は…東宮(とうぐう/宮殿が皇居の東にあったところから、皇太子の住む宮殿を東宮と言います。皇

太子の称、としても使います。)/亡き保明親王の夫人の1人で…敦忠は2人の恋文の文使い

などをしていました。親王が亡くなられて、その夫人と再婚したようです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(373)

2人の仲は、睦(むつ)まじかったのですが、ある時こう言います…

「私の一族は短命だから、私も若死にする。あなたは私の死後、文範(ふみのり)と結

婚するだろう」

「何ですって、」

文範は邸の家令(かれい/皇族や華族の家の事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった人)で、その頃、

播磨守(はりまのかみ/播磨は、現在の兵庫県西部に相当する国。その長官。)でもあった。

「考えられませんわ、私が文範とだなんて…」 


     
 4月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言敦忠  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(374)

自信ありげに敦忠が言います…

「いや、間違いないね。私の魂が、天駆(あまがけ)って見ているのだ」

そして敦忠の死後、その通りになったと、『大鏡』 にあります。

敦忠は現代の言葉で言えば、そうした霊的能力があり、トランスパーソナル(超個的/トラ

ンスパーソナル心理学/個体を超えて広がる人格・・・人の人格は個体で完結するものではなく、雌雄の関係性に広が

り、人類文明は種の共同意識体の中で構築されている・・・)な目撃をしていたのでしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言朝忠     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(375)

【44番 → 中納言朝忠】(ちゅうなごん・あさただ/藤原朝忠/平安時代中期の公家・歌人。三条右大臣・藤

                      原定方の5男。三十六歌仙の1人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または

                      堤中納言と号した。)


★ 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし



< あの人との恋の機会が、全く無かったならば…

        あの人のつれなさも、我が身の辛い運命も…

                 恨むことはしないのだが、なまじ逢ったばかりに… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言朝忠     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(376)

「この歌は 『拾遺集 - 巻11/恋』 に、<天暦の御時の歌合に>として載っています。

兼盛と忠見と同じ恋の部ですね。

朝忠は、この世紀の歌合に召されて、六たび番(つが)えて五たび勝っています。六戦

五勝の好成績です。この朝忠の歌に番えられたのは、右方の藤原元真(ふじわらの・もとざ

ね/三十六歌仙の1人)の… 


 4月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原元真       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(377)

★ 君恋ふと かつは消えつつ 経るものを かくても生ける 身とやみるらむ


< あなたが恋しくて…

         私はほとほと消え入りそうなのに…

                 それでもあなたは、私を生きていると…

                          ごらんになるのですか… >


判定は、「左右の歌、いとをかし」 と認めつつ…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言朝忠     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(378)

「されど、左の歌は詞(ことば)清げなりとて、左を以て勝となす」

…とし、この歌が朝忠の代表作となります。

この歌は<恋>の文字がないのに恋歌になっていて、古来引用例が多い様です。王

朝の恋は<忍(しのぶる)恋 … 未(いま)だ逢わざる恋 … 逢(お)うて逢(あ)わざる恋>な

どと分類されます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言朝忠     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(379)

朝忠のこの歌は…<逢うて逢わざる恋>の例ですね。

<逢う>は、逢うて恋の時間を持つの婉曲(えんきょく)表現ですから、<逢うて逢わざる

恋>は、その後、なかなか逢えない状況です。

元真(もとざね)の歌も同じ題材ですが…朝忠の歌に比べ、言葉遊びに堕(だ)する点があ

るとも言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                   
                                                      <笙/しょう>を吹く源義光を描いた 『足柄山月』  月岡芳年 「月百姿」

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(380)

うーん…

朝忠は三十六歌仙の1人ですが、【25番 → 右大臣定方】の子ですね。順調に出世

して中納言になり、57歳で没しています。土御門(つちみかど)中納言とも呼ばれ、読書家

で、笙(しょう/雅楽などで使う管楽器の1つ。)の名手でもあった様です。

ちなみに<天暦の御時歌合>は、朝忠が51歳の時でした…」 



 4月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(381)

【45番 → 謙徳公】(けんとくこう/謙徳公は漢風諡号(しごうは、死後の贈名)/藤原伊尹(ふじわらの・これた

                 だ)のこと。平安時代中期の公卿。右大臣/藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ

                 冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達。摂政・太政大臣にまで上り詰めた。しかし、その

                 翌年に早逝。『大鏡』に、伊尹の若死についての逸話があります。)


★ あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな



< 私のことを…

      哀れだと思ってくれる人は…

           もう、誰も思い浮かばない…

                 君に捨てられたいま…

                       私はむなしく、死んでいくしかないのだなあ… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(382)

「この歌は、『拾遺集 - 巻15/恋』 に…

〈物いひ侍りける女の後につれなく侍りてさらにあはず侍りければ  一条摂政〉

…として載っている。

愛し合っていた女が冷たくなり、会ってもくれなくなった。その傷心の歌です。うーん…

分かりにくい歌ですよね。

 

 4月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(383)

まず…

<思ほえで>の意味ですが…これは“思われないで、思い当たらないで”…という意味

です。

<身のいたづらに>の<いたづら>は…“悪ふざけや悪さではなく、期待しただけの

こともない”…という意味。つまり、“無駄な事”という意味です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(384)

<なりぬべきかな>は…“なりそうです、なってしまいそうです”で…運命的な口ぶりで

す。

女に捨てられて…

<この身は、恋煩いで死んでしまいそうだ>

…と女の同情を引く、少々女々(めめ)しい歌です。でも、これもまた恋ですね。色々ある

から、楽しいですね。



 4月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(385)

王朝の恋歌は…

女々(めめ)しい歌が多いと言われますが、これは本音の弱味を曝(さら)け出しています。

男の面目をかなぐり捨てた、純情一途の恋です。

これが後に…<世の中は我が御心にかなはぬ事なく・・・>と言われた…一条摂政

/藤原伊尹(ふじわらの・これただ)の若い頃の歌です。謙徳公は諡(おくりな/諡号(しごう)・・・貴人

の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名。)ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原師輔         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(386)

伊尹(これただ)は…短命でしたが、幸運の人と言われます。第62代/村上天皇時代の

右大臣/藤原師輔(ふじわらの・もろすけ/長女・中宮安子の産んだ皇子が、第63代/冷泉天皇、第64代/

円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。)を父に持ち、大貴族の御

曹司として順調に出世します。

『大鏡』には、<をりをりの御和歌などめでたく侍れな>とあり…歌人としても名が通

り、<和歌所>の別当(べっとう/本官をもつ人が他の職務の統轄に当たるときに補任される職名・・・令外官

の役職で、蔵人所の長官にあたる。平安時代以降は、院・親王家・摂関家などの政所の長官。/・・・<和歌所>の別

当は<梨壺の五人>の事業などを監督した。)にもなっています。 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(387)

伊尹(これただ)は…父や一門の長老たちの亡き後、大臣・摂政となります。帝の伯父、

東宮の祖父で、天下の後見役です。

でも、摂政となり3年、49歳で亡くなられます。『大鏡』 にも…

<おん年五十(いそじ)にだに足らで、失(う)せさせ給へる可惜(あたら)しさ…世の人惜

しみ奉りしか>

…とあり、若死を惜しんでいます。



 4月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(388)

若い時から、伊尹(これただ)は美男で鳴らし、歌も学才も優れ、家柄も抜群…余りにも多

くの幸運を与えられていました。しかし、ただ寿命だけが不足したと、世間に言われて

います。

うーん…こんな人もいるのですね。穏やかな人格も育つわけですが…女に捨てられた

歌とは…ですね?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原師輔         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(389)

ともかく…

伊尹(これただ)は豪宕(ごうとう/気持ちが大きく、細かいことにこだわらず、思うままに振る舞うこと。)な性格

で、派手好きだった様です。贅沢で華美が好き…それも成金趣味ではなく、彼一流の

美意識によるものです。

父/藤原師輔(ふじわらの・もろすけ)がこれを察知してか、 『九条殿遺誡』(くしょうどのいかい/右

大臣・藤原師輔が公卿としての心得を記した家訓。10世紀中頃。)を子孫に残しています。公私にわたり

細々と心得を記した書で…家訓(かくん/家長が一族や子孫のために記した訓戒。鎌倉時代以後、武家に

こうした家訓を残す習慣が生れ、おもに武士の倫理や家法を説いた。)ですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原師輔         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(390)

覗(のぞ)くと…

<親に孝をつくし、兄弟仲よく、君には忠貞(ちゅうてい/忠義と貞節。よく仕え、節操を守ること。)

の誠を捧げ、信心あつく、悪友と交わらず、殺生や博打(ばくち)にのめり込まず、

口を慎み、怒りをおぼえても色に出すな、勉学に励み、立派な字が書けるように

せよ、暴飲暴食をするな・・・>

…等々、現代の我家の家訓の様です。



 4月 16日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(391)

『九条殿遺誡』 が書かれたことから…当時の王朝貴族社会の様子が窺(うかが)われま

す。師輔(もろすけ)は…

<衣冠(いかん)よりはじめて馬車に及び、有るに随(したが)ひて之(これ)を用ひよ。美

麗(びれい)を求むるなかれ>

…と規制します。右大臣は天下を見…足下の伊尹(これただ)の贅沢(ぜいたく)好みも案じ

ていたわけです。



 4月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(392)


さあ…師輔(もろすけ)の心配は直下に的中します。

『九条殿遺誡』(くしょうどのいかい)の中で<私の葬儀は薄葬(はくそう/簡略にした葬儀)に・・・>

と命じましたが、伊尹(これただ)は、そんな事ができるわけがないと、いつもどうりに派手

に行いました。

また、邸(やしき)で宴会を催した時…

寝殿(/寝殿作りの邸宅)の庇(ひさし)の裏板や壁が黒ずんでいるので、ふと思いつき、陸奥

紙(みちのくがみ/檀紙(だんし)/陸奥国を主産地としたために、みちのくのまゆみ紙・・・後に陸奥紙とも呼ばれた。

平安時代以後、高級紙の代表とされた。)を一面に張らせた事も、記録にありますよね。



 4月 18日

岡田健吉‏@zu5kokd1 謙徳公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(393)


この陸奥紙(みちのくがみ/檀紙(だんし))の一件は、予想以上の効果を上げ…

<白く清げに見えた>と 『大鏡』 に残っています。

うーん…

若い日の恋に、本音を曝け出しているのは、芸術家の率直奔放な性格からでしょうか。

でも…王朝貴族の社会は遥(はる)か彼方で…現代では分かり難(がた)い歌ですね…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(394)

【46番 → 曾禰好忠】(そねの・よしただ/平安時代中期の歌人。官位は六位・丹後掾(たんご・じょう/掾は

                    日本の律令制四等官のうち三等官を指す。掾は国司の三等官で、中央政府における

                    判官(はんがん・ほうがん)に相当)。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)

                    とも曾丹(そたん)とも称された。)


★ 由良の門(と)を 渡る舟人 かぢを絶え 行方も知らぬ 恋のみちかな



< 紀伊国(きいのくに/現在の和歌山県・・・歌枕)の由良(ゆら/由良岬のある所)…

      その海峡を渡る舟人が…

            舵を失って…

                 ゆらゆらと波間に漂うように…

                       わが恋もまた、ゆらゆらと…

                             行方も知れず、ただ漂うばかりだ… >



 4月 19日






 

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(395)

「この歌は… 『新古今集 - 卷11/恋』 に、<題知らず 曾禰好忠>として載ってい

ます。

不思議な魅力で、恋の不安感を美しく歌いあげています。由良の海峡に掛け、舵を失

った小舟のように、心がユラユラと揺れています。<由良の門>は紀淡海峡(きたんか

いきょう/紀州(和歌山県和歌山市、田倉崎)と淡路島(兵庫県洲本市、生石鼻)の間の海峡)のことですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(396)

好忠は丹後掾(たんごの・じょう/丹後の国の三等官で、中央の判官に相当)…だったので、由良とは

丹後の由良川の河口ともいわれます。

でも…好忠は中古三十六歌仙(/三十六歌仙は藤原公任によるものですが・・・中古三十六歌仙は、藤原

範兼による和歌の名人36人の総称。三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属されなかったが秀

でた歌人と、それ以後の時代の歌人が選ばれています。他に、女房三十六歌仙もあります。)の1人であり、『万

葉集』にも傾倒していたので、やはり、歌枕の紀淡海峡の由良と解した方が自然と言

います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(397)

好忠は変わり者で有名でしたが、下級役人で一生を終わり、ついに出世できませんで

した。

歌詠(うたよみ)でも名声を上げたいと願いましたが、異端歌人として遇されるのみでした。

歌風があまりにもかけ離れていて、材料・修辞にも、新機軸を打ち出そうとしていたの

です。

 

 4月 20日

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(398)

好忠(よしただ)は歌が異端だったと同様、性格も奇矯(ききょう/ひと癖、奇奇怪怪)だった様で

す。世に容れられず、鬱憤(うっぷん)も募(つの)り、偏屈にもなったのでしょうか。

王朝貴族社会では、血統(/祖先から続いている血のつながり)、門閥(もんばつ/家柄のよい家が、互い

に血縁関係を結んでつくった閥)、家柄(/系譜のよしあしによる家の位置づけ)が中心に、全てが動いてい

ます。多少の才気では、余程の運がない限り、上に登り詰めることは出来ません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                           円融天皇・・・ネットより画像を借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(399)

寛和元年(かんな・がんねん/985年)2月13日…円融院(えんゆういん/第64代・円融天皇)が船岡

で子の日(ねのひ/十二支の子にあたる日)の野遊びをされました。小松の根を引き、若草を

摘んで1年の無病息災を祈る行事とか。設(もう)けを凝(こ)らし、顕官(けんかん/地位の高い

官職)や殿上人(てんじょうびと/官制において五位以上の者のうち、天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ

昇ることを許された者。)が円融院のもとに集い、末席に5人の歌人が正装で列しますが…末

座に身なりの粗末な老人が居ました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                           円融天皇・・・ネットより画像を借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(400)

老人は…召されてもいない好忠(よしただ)でした。

「曾丹(そたん/好忠は、長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。)では

ないか。お召もないのに参上したか」

「歌詠(うたよみ)を召されたから来た。この5人に劣るわしではない」

人々が追い出そうとしますが、好忠は粘って立ち上がりません。

「力ずくで放り出せ」

…と声が飛びます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(401)

無数のゲンコツが飛び…たまらぬと逃げ出す好忠の背に、ドッと笑い声が追いかけ

ます。岡の上まで逃げ、好忠が叫び返します。

「おーい、わしをおいて本当の歌詠はおるまいが。おぬしらは末代まで恥をかく

ぞ」

人々は笑い弾(はじ)けて、さらに罵声(ばせい)を浴びせます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 曾禰好忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(402)

うーん…剽軽(ひょうきん)で直情型の自己顕示欲の強い人は、たまに見かけますよね。

『今昔物語』(こんじゃくものがたり/平安時代末期に成立したと見られる説話集)に…

<好忠、和歌は詠みけれども心の不覚にて>

…と評されます。芸術家の意気込みでも、行儀が悪かった様ですね。

好忠の歌の…新鮮な美しさが評価されるのは…死んでからでした…」



 4月 21日



岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(403)

【47番 → 恵慶法師】(えぎょう・ほうし/平安時代中期の日本の僧、歌人。中古三十六歌仙の1人。播磨国

                    分寺の講師をつとめ、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られた。986

                    年/花山院の熊野行幸に供奉した。大中臣能宣・紀時文・清原元輔など中級の公家

                    歌人と交流していた。)


★ 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり



< 蔓草
(つるくさ)が幾重にも生い繁(しげ)る、荒れ寂(さび)れた邸(やしき)…

          今はもう、訪れる人もない…

                  そんな庭にも、秋はひそかに訪れているのだなあ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(404)

「この歌は…『拾遺集 - 巻3/秋』に詞書(ことばがき)に…

<河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を人びとよみ侍りけるに>

…として載っています。

歌はそのままを詠んでいますが、詞書で、歌の風趣が深まります。もちろん、この河原

院とは、河原左大臣(/源融(みなもとの・とおる)/嵯峨天皇の皇子)の豪邸跡(/底抜けの財力と美意識

を有した源融は、この屋敷の中に、日本一美しい松島湾の名所/塩竈(しおがま)を再現しました。その上、毎日、尼崎

の浦から数百人の人夫で、海水を20石づつ運ばせ、塩竃を立て、塩焼く業を見せたといいます・・・)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                           源融 (菊池容斎 『前賢故実』)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(405)

ええ…【14番 → 河原左大臣】/源融(みなもとの・とおる)/第52代・嵯峨天皇の皇子の

豪邸ですよね。【14番】の歌は…


★ みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに



その…源融の東六条の広大な豪壮邸宅(/邸は・・・六条坊門の南、万里小路の東、鴨川の西に、四町

四方後を占めていたそうです。一説では、もっと広かったとも書かれているようです。)も…融の死後、奇怪な噂

にとり憑(つ)かれる様になります。



 4月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1   宇多院           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(406)

源融(みなもとの・とおる)の子/昇(のぼる)が、この広大な邸を宇多院に献じます。

それで、しばしば宇多院はこの邸で過ごされましたが、ある夜、衣(きぬ)ずれの音まし

た。ごらんになると正装した公卿(くげ)が控えています。宇多院が問われました。

「何者か」

「この邸の主、融(とおる)でございます」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                           源融 (菊池容斎 『前賢故実』)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(407)

「夜半に、何用か」

「ここは私の邸です。院がおわしますのは、恐縮ながら、誠に以って迷惑至極」

「慮外(りょがい)な事を申すな」院が一喝されます。「汝(なんじ)の子孫が献上したから

住んでおるのだ。霊鬼(れいき/死者の霊)のくせに、理非(りひ)もわきまえぬか」

融(とおる)の霊は、かき消す様に消えたという。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(408)

でも、宇多院の愛妃/褒子(ほうし)の御息所(みやすんどころ)も…

この邸ではよく、物の怪(もののけ)におそわれたといいます。褒子は、菅原道真を陥れて

太宰府に左遷した、左大臣/藤原時平(/藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原基経の長男)の娘で

す。第60代/醍醐天皇の内裏に入内(じゅだい/後宮が内裏に参入すること)したところを…

宇多院(/醍醐天皇の父親)が、<これは老法師たまわりぬ>といって、連れ帰った妃です

ね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(409)

その宇多院が薨(こう/薨ずる・・・とは、皇族や三位以上の人が死ぬこと。)じられる頃には、河原院

は相当に荒れていた様です。広大な邸だけに、源融ほどの財力と情熱を注ぎ込むこ

とが困難だったのでしょう。7、80年後には、ここは寺になっていました。そして、融の

曾孫(そうそん/ひまご)の安法法師(あんぽう・ほうし)という、僧で歌詠の人が、住んでいまし

た。






 4月 23日


 

岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(410)

曾孫の僧が住みつくと、融(とおる)の幽霊も鎮まり、河原院の荒廃ぶりにも、風情が加

わった様です。安法法師の友人の歌詠たちが、よく遊び来ていた事もあるのでしょう。

この歌の恵慶法師(えぎょう・ほうし)は、安法法師の親友でした。恵慶は、播磨の国分寺

の僧で、仏典の講師(/仏典を読み解いて布教する僧)だった様です。



 4月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1 花山天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(411)

この頃は…第65代/花山天皇(かざん・てんのう)の時代です。河原院ができてから、ほぼ

100年が経ちます。

恵慶(えぎょう)は、当時は名の知れた歌人で、勅撰集にも多くの歌が残っています。そ

の恵慶ら、河原院の荒廃の風情を賞でた歌人達も世を去ると、邸はいよいよ荒廃が

進んだ様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(412)

平安時代の半ば…

『源氏物語』の書かれた頃には…河原院はお化け屋敷の別名で…まるで物の怪の巣

窟の様になっています。

紫式部は『源氏物語/夕顔の巻』で…

<夕顔が物の怪におそわれて急死する舞台>

…に、河原院/なにがしの院…を使っています。




 



 4月 25日



岡田健吉‏@zu5kokd1 恵慶法師       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(413)

平安時代の末期…

『今昔物語』では鬼が跳梁(ちょうりょう)します。東国の旅人夫婦が、一夜の宿にします

が、妻が生気を吸われて殺されてしまいます。

その後…河原院は火災になり、1部は他に移され、1部は賀茂川の川床となり、やが

て原野に返った様です。源融(みなもとの・とおる)が、そう望んだのでしょうか…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(414)

【48番 → 源重之】(みなもとの・しげゆき/平安時代中期の歌人。第56代/清和天皇の皇子・貞元親王の子

                  である、従五位下・源兼信の子。伯父の参議源兼忠の養子。官位は従五位下・筑前権守。

                  三十六歌仙の1人。)


★ 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな



  < 風が激しくて…

          岩を打つ波が、砕け散る…

                岩は不動で…

                       波の私だけが、砕け散る…

             君は心を動かさず…

                    私の心だけが砕け散る、この頃だなあ…>


 岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(415)

「この歌は…『詞花集(しかしゅう) - 恋』に…

<冷泉院(第63代/冷泉天皇)  東宮(/皇太子の宮殿、皇太子の別称)と申しける時、百首歌た

てまつりけるによめる>

…として載っています。

うーん…

この歌は、在原業平(ありわらの・なりひら)の歌の様に…意あまって言葉足らず…と言われ

ています。素読(そどく)しただけでは、意味が分かりませんよね。

 

(★ 冷泉院は・・・

後院(ごいん/譲位後の御所)の1つです。大内裏の東に隣接し、左京二条二坊、大宮大路の東・二条大路の北4町を

占めていました。(現在の・・・二条城の北東部分に該当)。多くの殿舎を備えた、寝殿造であったといいいます。

第52代/嵯峨天皇が行幸したことが、記録上の初見だそうです。嵯峨天皇は譲位後、ここを後院として居住しました。

嵯峨上皇没後は、その皇后/橘嘉智子の御所となります。子の仁明天皇はたびたび行幸し、内裏修復の間はここを御

所とします。次代の文徳天皇も居住し・・・その後は、陽成院/陽成上皇が後院として活用しました。

さらに、村上天皇が仮御所とした他、冷泉上皇が後院とし、後冷泉天皇の里内裏にもなった様です。最初の名称は<冷

然院>でしたが、火災による焼失と再建を繰り返したことから、<冷泉院>に改称されました。

第63代/冷泉天皇は・・・譲位後は冷泉院に住まったことから<冷泉帝/冷泉院>の通称で呼ばれる様ですね・・・)



 4月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(416)

でも…こういう歌ほど、それが理解ができると、味わい深いものです。

<風をいたみ>とは…風が烈(はげ)しいために…という意味です。

<岩うつ波の おのれのみ>とは…岩は動かないが、波の方が、自分からぶつかっ

て行っては返す…その様に私も…という意味です。



 4月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(417)

この歌は…秘めた情熱を伝えていて…古来より愛されて来たそうです。

<くだけてものを 思ふころかな>は…『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう/平安時代後期の歌謡集。

後白河法皇撰。)にも有名な歌があります。


★ 山伏
(やまぶし/山中で修行をする修験道の行者。修験者
(しゅげんじゃ)とも言う。)の 

      腰につけたる 法螺貝(ほらがい/日本に産する最大級の巻貝。修験の法具として有名)の

           ちやうと落ち、 ていと破れ、 くだけて物を 思ふころかな





 4月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(418)

< 山伏の、腰につけてる法螺貝が…

       チョウと落ち、テイと音を立て、割れて砕ける…

             そのように、私の心も砕けんばかりに…

                   物思いをする、この頃であることだ… >


うーん…こっちの歌の方は、内省的ですね。時の無い/永遠の無心の瞬間…を詠んで

いる様にも思えます。

(★ 永遠には、2つの意味があります。1つは…時が無い、こと。もう1つは…無限に続く時間、です。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(419)

詞書(ことばがき)の、<冷泉院 東宮と申しける時>は…

冷泉院(れいぜいいん/第63代冷泉天皇)の東宮(とうぐう/皇太子)時代は…天暦4年~康保4年

(950~967年)で…源重之は、若き帯刀先生(たてわき・せんじょう/東宮警備の長)でした。

重之は、清和天皇の皇子/貞元親王(さだもと・しんのう/清和天皇の第3皇子)の孫で…清和源

氏(/源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの1つで、清和天皇から分

かれた氏族。)の家系であり、三十六歌仙の1人ですね。

(★ ちなみに、 “冷泉帝”は・・・『源氏物語』に登場する3番目の帝で、架空の人物です。光源氏と藤壺中宮の不義の

子。朱雀帝の東宮となり、11歳で即位。18年間、世を治めます。光源氏の絶頂期です。譲位後は冷泉院(実在した歴

代の上皇の御所)に住まったことから・・・“冷泉帝/冷泉院”の通称・・・で呼ばれます。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(420)

家集(かしゅう/王朝和歌の世界において、個人または一家の和歌をまとめて収めた歌集。)に『重之集』があ

ります。この『重之集』から、あちこちに赴任しているのが分かるそうです。最後は、赴

任先の陸奥(むつ)で没しています。

この様に…天皇の嫡流(ちゃくりゅう/氏族の直系の血筋のこと。)も全国へ流れているわけです

ね。こうした日本民族(/厳密な定義は難しい。)の末裔(まつえい/末の血統)が、最近、1億3000

万人のピークに達したわけです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源重之        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(421)

重之は、年老いて陸奥に2度目の赴任となり、そこで没しています。清少納言の父/

清原元輔(きよはらの・もとすけ)も、79歳で肥後守として赴任し、その地で没します。

(/重之は・・・冷泉天皇が即位すると左右の近衛将監となりますが・・・以後は、相模権守を皮切りに、信濃守、日向守

など地方の微官に任ぜられ、官職には恵まれませんでした。 995年(長徳元年)、陸奥守藤原実方に従って陸奥国に

下向し、その地で没しています・・・享年は60余。)

王朝時代の官僚制も、相当に厳しいものがあった様です。そして、そこから、美しい和

歌も、育まれて来たわけですね。



 4月 29日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(422)

【49番 → 大中臣能宣】(おおなかとみの・よしのぶ/平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副・大中臣頼基

の子。三十六歌仙の1人。官位は正四位下・祭主・神祇大副。) 


★ みかきもり(御垣守/皇宮衛士のこと) 衛士(ゑじ)のたく火の 

                 夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思へ


< 宮中の御門を守る衛士らが…

       警備の篝火(かがりび)を、夜な夜な焚くように…

              私の思いは…夜に燃えさかり…

                    昼は火が消える様に…心も消え入るばかりだ… >



 4月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(423)

「この歌も、前の【49番】と同じく…『詞花集(しかしゅう) - 恋』 に載っています。

王朝時代の宮殿は、夕方暗くなって来ると、各所でで篝火(かがりび)が焚(た)かれます。

警備のための衛士の火は、夜っぴて燃え続け、都の夜空を焦がします。灯りは権力と

文化の象徴であり、当時の人々には、よほど印象深いものだったと思われます。


(★ 衛士(えじ)は・・・古代、律令の兵制において、諸国の軍団から優秀なものが選抜され、1年 (のち3年) 交代で上京

し、衛門府、衛士府に配属され、宮門の警衛にあたった者たちです。)







 5月 1日



 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1          
                                   京都御所

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(424)


この歌で…

大中臣能宣(おおなかとみの・よしのぶ)の詠む<みかきもり 衛士(えじ)のたく火の・・・>の

夜警の詰所を<火炬屋(ひたきや)>言います。

清少納言も中宮定子(ちゅうぐう・ていし/第66代・一条天皇の皇后。通称は一条院皇后宮。『枕草子』の作者・

清少納言が仕えた女性。)に召し出され、初めて宮中の夜の景色を体験します。次の日も召さ

れ、雪の降る後宮(こうきゅう)の廊下を、期待と不安の中でいそいそと歩き、<火炬屋>

を目撃しています。

(★ 後宮(こうきゅう)とは…

王や皇帝や天皇などの后妃(こうひ/皇后や妃・・・上下の身分がある)が住まう場所。日本では、平安京/内裏の七

殿五舎、江戸城/大奥が該当します。

内裏は必ずしも男子禁制ではなく…
『源氏物語』や『枕草子』では、殿上人のうちでも家族や親しい人は頻繁に出入り

している様に…描写されています。

ただし…江戸城/大奥は、完全な男性禁制の場です。火事などの緊急時以外の男性の出入りは、厳しく制限されて

いました。

男子禁制をとっているのは…オスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などです。そこでは…宦官
(かんがん/去勢

された男子で宮廷に仕える者)が、家政一般にあたりました。日本では、宦官は置かれず、宮人(きゅうじん/くにん)

と呼ばれる女官が発達して、女性達によって秩序が維持されました。

後宮を意味するハレム(harem)はという言葉は…オスマン帝国の後宮が、そう呼ばれていたからです。)
 








 5月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(425)

清少納言は、雪が…

<火炬屋の上に降り積みたるも、めずらしうをかし>

…と 『枕草子』 の中に書いています。

<みかきもり>は御垣守(みかきもり)であり、<衛士>とことですね。全国の軍団の兵

士から、優秀な者が選抜され、衛門符(えいもんふ)の左右の衛士符(えいしふ/左右2府があり、

宮廷の警護や行幸の護衛などに当たった。弘仁2年(811)左右の衛門府に改称。)に配属されます。


(衛門府は・・・

/禁中(禁門の内部、天子が住む宮中)の守衛、諸門の開閉などを司った役所。大宝律令(/日本古代の基本法典。

・・・701年/大宝1年に第42代・文武天皇の時代に制定。この律令編纂の起源は、681年の、第40代・天武天皇

により、律令制定を命ずる詔が発令された時に遡る。)の兵制では1衛門であったが、弘仁2 (811) 年に左右の2衛

門府となった。 )

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(426)

平安王朝は、第40代/天武天皇(/第38代・天智天皇の近江朝から、都落ちした実弟の大海人皇子が

吉野で出兵し、<壬申の乱/じんしんのらん>となります。それに勝利し、天武天皇となり、その皇后が、持統天皇とな

り、孫が、文武天皇で・・・大宝律令も発布され・・・<日本の国の形>が定まります。)が礎(いしずえ)を築いた

中央集権国家(/統治権および財源が国の中枢機関に集中している体制です。)で、軍も天皇/朝廷の

統制下にあります。

こうした中で、九州に水城(みずき/7世紀中頃に構築された国防施設です)が造られ、防人(さきもり

/九州の辺要の地の守備にあてられた兵士。)が配置され…<白村江の戦い>(はくそんこうのたたかい

/663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた・・・倭国・百済遺民の連合軍と、唐

・新羅連合軍との、海戦・陸戦で、大敗北。日本の敗戦は、この敗北と、第2次世界大戦の2回だけです。)後の…唐

・新羅連合軍による、日本侵略に備えていたわけです。


(/この大戦で、天皇が動座され・・・第37代・斉明天皇
(第35代・皇極天皇でもある)は、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争

に備えましたが、直後に崩御されます。そうした不吉な中での大敗北です・・・

実質的な権力を握っていたのは・・・<大化の改新>を主導していた中大兄皇子であり、中臣鎌足であり、そして実弟

で右腕の大海人皇子ですが・・・即座に大宰府を引き払い、難波宮へ、内陸の飛鳥の都へと撤退を重ねます。でも、さら

にその奥の、琵琶湖のほとり、近江へと遷都したわけですね。大水軍が難波まで来れば、飛鳥では防ぎきれないと思っ

たのでしょう。)


ええ...随筆/『枕草子』を書いた清少納言
(/966年頃~1025年頃)は、こうした時代から、

300年も後の女性になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(427)

あ、ついでに言うと…

衛士の仕事は…公事の雑役、宮殿の清掃などもありましたが、最も重要な任務が、

皇宮の警護だったわけですね。

あと、ええと…『更級日記』(さらしなにっき/平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫

にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女(すがわらの・たかすえの・むすめ)。/本名は伝わっていません。)に、衛士

にまつわる有名な伝説/古い世の伝承/・・・『竹芝寺』の物語が載せられています。

 


 




 5月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           『更級日記』 ・・・/(重文/石山寺縁起絵巻・・・第1巻/第1段より・・・)

                          聖武天皇の勅命を受けた良弁が、蔵王権現の夢告で寺地選定。現/滋賀県大津

                          市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。 本尊は如意輪観音・・・開基は良弁。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(428)

『竹芝寺』(たけしばでら/『更級日記』に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語。)の物語では…


<あるとき東国武蔵の国から召された衛士が、御殿の庭を掃きながら独り言を呟いて

いた。

…ああ、なんでこんな辛い仕事を、毎日毎日しなきゃあなんねえんだ…

…故郷がなつかしいなあ…

…俺たちの故郷じゃあ、ズラーッと酒壺を並べ…


岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(429)

…瓢箪(ひょうたん)の柄杓(ひしゃく)が、その酒壺(さかつぼ)の上に引っ掛けてある…

…あの柄杓…南風吹けば北へなびき、北風吹けば南へなびき…

…西風吹けば東へ、東風吹けば西へ…ユウラリ、ユウラリとなびくんだあ…

…酒壷は、タップ、タップ、とこぼれんばかりだあ…









 5月 5日

 
(こどもの日)

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(430)

…そいつを、キューッと呑んで、青空を見ながら眠っちまうんだ…

…あーあ、故郷に帰りてえや…

…こんな仕事は、イヤになったなあ…


この衛士の独り言を…

帝の皇女/たいそう大事に育てられた姫君が…ひとり御簾(みす/宮殿や神殿などに用いるす

だれ。竹のひごを編み、平絹・綾・緞子(どんす)などで縁をとった目の細かいもの。)の奥で聞いていられまし

た。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(431)

姫君は、男の話が面白くて…そばに召して、言います。

「それが見たいわ、私を連れて行って見せて」

衛士は仰天し、勿体(もったい)ない、恐れ多いこと、を…と断った。

しかし、重ねて仰せがあったので、これも前世の因縁(いんねん)かも知れぬと思い、姫君

を背負って出奔(しゅっぽん/逃げだして、行方をくらますこと。)した。



 5月 6日

 
  振替休日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(432)

天皇も皇后も動転され、あちこちを捜された。そして…こんな情報を耳にされます。

<武蔵の国の衛士(えじ)のをのこなむ、いと香ばしき物を首にひきかけて、飛ぶ

やうに逃げける>

姫君のたきしめていられた香が残っただけで、さだかにその物は見えなかったと言う。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           『更級日記』 ・・・/(重文/石山寺縁起絵巻・・・第1巻/第1段より・・・)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(433)

さて…2人を武蔵の国へ追って行った人々に、皇女はこう言われます。

「これは私が命じたことです。私はこの男とこの国に住みたい。ここは住みよさそう

な所に思えるの」

天皇はこれを聞かれ、仰せられました。

「しょうがない・・・今更、都へ連れ帰ることもできまい」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(434)

天皇は…武蔵の国をその男にあずけられ、立派な邸(やしき)を造って…2人は幸福に暮

らしたという物語です。

その邸のあとを寺にしたのが、物語の題名の竹芝寺だと言います。朝廷はこれに懲(こ)

りて、後宮(こうきゅう/王や皇帝などの后妃が住まう場所。)に近い火炬屋(ひだきや)には、女を詰めさ

せることにした…と、ある様ですね。







 5月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大中臣能宣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(435)

歌の作者/大中臣能宣(おおなかとみの・よしのぶ)は…

天暦5年に、第62代/村上天皇の勅命で、<梨壺>におかれた<和歌所>の中心

人物です。<梨壺の5人>の1人で…『万葉集』の訓点や、『後撰集』の撰集に当たっ

ています。

官位は正四位下・祭主(代々神職の家で・・・伊勢大神宮の祭主)・神祇大副(じんぎたいふ/神祇の祭典

を司り、神官を管理する役所の次官。父親も同じであり・・・孫に【61番→伊勢大輔】がいる。)で、三十六歌仙の

1人です。当時の有力文化人ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原義孝      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(436)

【50番 → 藤原義孝】(ふじわらの・よしたか/平安時代中期の公家・歌人。摂政・太政大臣・藤原伊尹の三

                    男(または四男)。中古三十六歌仙の1人。ちなみに、子の藤原行成は・・・当代の能

                    書家として三蹟の1人に数えられ、書道世尊寺流の祖です。)


★ 君がため 惜
(お)しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな


< あなたのためなら…

       捨てても惜しくはないと思っていた命…

               逢瀬(おうせ)を遂げた今となっては…

           長らえて、いつまでも愛し合っていたいと…

                     思うようになりました… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原義孝      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(437)

「この歌は…『後拾遺集 - 巻12/恋』に載っています。

詞書には…<女のもとより帰りてつかはしける>とあります。女のもとに逢瀬に出

かけて一夜を共にし、帰ったあとに、歌を詠み贈ったものです。こうした歌は<後朝

(きぬぎぬ)の歌>と呼ばれます。



 5月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原義孝      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(438)

うーん…純情一途な、若者の恋の歌です。

作者の藤原義孝(よしたか)は…【45番 → 謙徳公】/あまりにも多くの幸運を与えられ、

寿命だけが不足したと言われる…一条摂政・藤原伊尹(ふじわらの・これただ)の3男です。

21歳で疱瘡(ほうそう/天然痘・・・高い致死率(諸説あるが40%前後とみられる)だが・・・世界で初めて撲滅に

成功した感染症。)で夭折(ようせつ)した美青年貴族ですが、調べも美しく、いい歌ですよね。





 5月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                            『世尊寺の月』・・・ 月岡芳年 『月百姿』/藤原義孝

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(439)

摂政の御曹司で、美貌(びぼう)と歌才は父譲り…義孝はたいそう女性にもてた様です。

1つ年上の兄/拳賢(たかかた)は前少将(ぜんしょうしょう)…弟も少将になったので後少将

(ごのしょうしょう)と呼ばれ、青年武官として王朝社会を闊歩(かっぽ)します。社交界の花形

で…『大鏡』 は2人を<花を折り給ひし君達(きんだち)>と記しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                            『世尊寺の月』・・・ 月岡芳年 『月百姿』/藤原義孝

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(440)

家集/『義孝集』によれば、色々な女性と恋をした様です。でも、この歌の女性が誰な

のか、は分かりません。

義孝は…ミーハー(/流行などに熱中しやすい人たち)な性格ではなく、仏道にも心を寄せます

が、ファッションセンスは抜群だった様ですね。まさに、御曹司であり、貴公子だったの

でしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                            『世尊寺の月』・・・ 月岡芳年 『月百姿』/藤原義孝

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(441)

天延(てんえん)2年(974年)…天下に疱瘡(ほうそう/天然痘)の病が広がります。

美貌の兄弟は、疱瘡の厄(やく/苦しみ,特に病苦の意味)に倒れます。朝に前少将、夕に後

少将が世を去ります。

<一日がうちに二人の子を失ひ給へりし母北の方のおん心地、いかなりけむ、い

とこそ悲しくうけたまはりしか>

…と 『大鏡』 にあります…」


 

 5月 10日

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実方朝臣              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(442)

【51番 → 藤原実方朝臣】(ふじわらの・さねかた・あそん/平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹

の孫、侍従・藤原時貞(定時)の子。中古三十六歌仙の1人。)


★ かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを



< 私がお慕いしていることを…

        知らせたいのですが、言えません…

              伊吹山の、さしも草ではないけれど…

                    この燃える想いを、あなたはご存知ないでしょう… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実方朝臣              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(443)

「この歌は…『後拾遺集 - 巻11/恋』 に、<女にはじめてつかはしける>として載っ

ています。かなり技巧的な歌ですね。

<かくとだに>は… “こんな状態ですとだけでも” という意味です。

<えやはいぶきの さしも草>は…<いぶき = 伊吹>は“言う” に掛かります。



 5月 11日


岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実方朝臣              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(444)

伊吹(/伊吹山は栃木県の下野の伊吹山なのでしょうか。平安時代以降、多くの歌人に詠まれた名所です。でも、ここ

はやはり・・・滋賀・岐阜県境の伊吹山なのでしょうか。後者の伊吹山は、古くから薬草が多いので知られた山だと言いま

す。ここの“もぐさ”を射しているのでしょうか?)は…“もぐさ”の名産地で<さしも草>に掛かります。

そこから、<さしも知らじな>が誘導されます。

<えやはいぶきの>は…“言えるものでしょうか、いえ、とても言えませんよ”、という口

振ですね。<燃ゆる思ひを>も…火を付ける“もぐさ”の縁語です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実方朝臣              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(445)

うーん…実に、ガンジガラメの縁語で、繋がっています。でも、その濃密な技巧が嫌味

にはならず、真情を伝えて、面白味があります。

さて…この恋歌を贈られたのは、実は、『枕草子』を書いた才女、清少納言かも知れな

いと言うことです。王朝時代のロマンを、彷彿(ほうふつ/はっきりと脳裏に浮かぶこと)とさせます。



 5月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                    
  藤原実方 (菊池容斎 『前賢故実』 より)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(446)

実方(さねかた)は…左大臣/藤原師尹(もろただ)の孫、父/貞時(さだとき/定時とも)が早世

したので、叔父(小一条大将/藤原済時/ふどわらの・なりとき)の養子になります。歌詠(うたよみ)と

しても名が知れ、貴公子ですから、恋愛関係も多かった様です。

清少納言との贈答歌も『実方朝臣集』 に残していますが、清少納言は『枕草子』でチラ

と触れているだけです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                      
藤原実方 (菊池容斎 『前賢故実』 より)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(447)

つまり…その程度の関係だったのでしょう。歌に詠むと、誇張や技巧が入り、それなり

に大げさになる様ですね。王朝時代の恋歌は、芸術的に誇張されているのです。

ともかく、実方は…一途で、かっとしやすい性格だった様で、色々な逸話を残している

人物です。


 

 5月 13日
 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                      
藤原実方 (菊池容斎 『前賢故実』 より)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(448)

ある時…殿上人達(てんじょうびと・たち)が東山(/京都盆地の東側にある山)のほとりで花見をして

いると、雨が降って来た。人々は騒いだが、実方は桜の下に佇(たたず)み、歌を詠んだ。


★ 桜狩(さくらがり) 雨は降りきぬ 同じくは 濡(ぬ)るとも花の 陰(かげ)に宿らむ


雨で、実方の装束は絞るほどに濡れた。人々はこれを面白がった。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                      
藤原実方 (菊池容斎 『前賢故実』 より)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(449)

この事を…斉信大納言(ただのぶ・だいなごん)が主上(しゅじょう/天皇を敬っていう語)に…

<こんな事がございました・・・>

…と奏上(そうじょう/天子や国王に意見・事情等を申し上げること・・・“上奏”ともいう。)した。

その席に、蔵人頭(くろうどの・とう/蔵人所の実質的な長。勅旨や上奏を伝達する役目を受け持つなど、天皇の

秘書的役割をはたす。)の藤原行成がいました。前の【50番 → 藤原義孝】の子で、能書家

(のうしょか/歴史上の書人で、今も書名の高い人物)です。行成が言いました…

「なるほど。歌は面白うございますが、実方の振る舞いは感心しませんな」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1         
                      
                                           笏・・・ (しゃく/束帯のとき威儀を正すために

                            手に持った。長さ1尺2寸 (約 40cm) の板状のもの。礼服着用のときには象

                            牙製、ふだんは木製を用いた。)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(450)

確かに….実方のパフォーマンスは度が過ぎていて、むしろ、シラケを誘います。

実方は…これを伝え聞いて、行成に恨みを持ちます。殿上でも争う事があり…怒気鋭

く、行成の冠(かんむり)を笏(しゃく)で打ち落し、庭に捨てたと言います。冠を叩き落とすの

は、最大級の侮辱行為です。



 



 5月 14日


 

岡田健吉‏@zu5kokd1                   
                                                              鳥山石燕 『今昔画図続百鬼』 より “入内雀”

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(451)


冠を落とされた行成
(ゆきなり)は騒がず、主殿寮(とのもりづかさ)を呼んだ。冠を取らせ頭に

被(かぶ)り、守刀(まもりがたな)におさめてある笄(こうがい/髪を整えるための道具)を抜き取って、

鬢(びん)を繕(つくろ)い…ゆっくりと実方(さねかた)の方を向いて言った…

<これはこれはご乱暴な。いかなる咎(とが)で、こういうお仕打ちを受けますのか、

後学のために、とくと承りたい>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                                                             月岡芳年 『新形三十六怪撰』より 「藤原実方の“執心雀”となるの図」

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(452)


実方はシラケてしまい、逃げてしまった。

この様子を…主上(しゅじょう)が窓からご覧になられていました。行成の沈着老練な態

度を賞で(めで/行成は、このことで蔵人頭に抜擢されました。)られ…一方、実方の軽率さを不快に

思われて…

「陸奥の歌枕を見てまいれ」

…と、実方を陸奥守に左遷されます。実方は、その陸奥で没します。

(/任国で実方が馬に乗り、笠島道祖神前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没しました。(宮城

県名取市愛島に墓がある)。没時の年齢は40歳ほどだったという。)

(死後、京都/賀茂川の橋の下に、実方の亡霊が出没するとの噂が流れました。このことを、清少納言は『枕草子』に、

“いやだ、気味わるいわ”、と思ったと書いています。

また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生・・・殿上の間に置いてある台盤の

上の物を食べたと言います。・・・『入内雀/執心雀』 )

 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(453)

【52番 → 藤原道信朝臣】 (ふじわらの・みちのぶ・あそん/平安時代中期の公家・歌人。太政大臣・藤原

                                                為光の三男。中古三十六歌仙の1人。)


★ 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな



< 夜が明けてしまうと…

        また、日が暮れて、夜になる…

               それは、分かっているのですが…

            それでもなお、貴方と別れる…

                     恨めしい、夜明けなのです… >








 5月 18日



岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(454)

「これも、後朝の歌(きぬぎぬのうた)ですね…

王朝時代には、男は女のもとへ通い、朝には必ず帰ったわげです。帰ってから歌を贈

るのも、当時の恋愛の形式の1つでした。

この歌は…『後拾遺集 - 恋』に…

<女のもとより雪ふり侍(はべ)りける日、かへりてつかはしける>

…として載っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(455)

雪の降る中の、朝帰り…

後朝の歌(きぬぎぬのうた)は、出来るだけ早くやるのが情の証(あかし)とされます。弛(ゆる)

んでしまう所を、朝にはキチンと帰り、1首詠んで反省し、精進するわけですね。それ

がこの時代の慣(ならわ)しです。

王朝の人々に愛された歌ですが…道信も愛される人柄だった様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(456)

薄命の女性は多いのですが、薄命の青年歌人も目立ちますね。道信も23歳の若さで

世を去っています。

正暦5年(994年)に、九州でアウト・ブレイクした疱瘡(ほうそう)/天然痘(てんねんとう/大陸と

の交流で、病原体も持ち込まれた。)が都にまで及び、猖獗(しょうけつ/悪い物事がはびこり、勢いを増すこと

。)をきわめた年です。

道信も、【50番 → 藤原義孝】の兄弟同様(/前少将と後少将)に、罹患(りかん/病気にかかるこ

と。罹病。)した様です。



 5月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(457)

正暦5年(994年)の疱瘡(ほうそう)のアウト・ブレイクは…今、《エボラ戦線レポート》 を担

当している 厨川アン(/生命科学・生物情報科学) に聞いたのですが…

前年8月に流行がはじまり、租・庸・調(そようちょう/律令制下の租税制度)が免除になっている

そうです。そして、翌/正暦5年4月に、都で流行が始まり、貴族の御曹子さえバタバタ

と死んだ、様だといいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(458)

したがって…

一般大衆の死者は、数えきれないほど、だったのでしょう。史書(ししょ/歴史を記した書物)

には…

<死亡者多ク路頭(ろとう)二満チ、往還(わうくわん)ノ過客(くわかく)、鼻ヲ掩(おほ)ヒテコ

レヲ過(よぎ)リ、鳥犬、食二飽キ、骸骨、巷(ちまた)ヲ塞(ふさ)グ>

…とあります。

都は…疱瘡のアウトブ・レイクで、死体が累々(るいるい)、腐臭が覆(おお)っていたので

しょう。

岡田健吉‏@zu5kokd1        
                                                                 一条天皇像 ( 真正極楽寺蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(459)

正暦元年(990年・・・/1月25日)…

第66代/一条天皇の内裏(だいり)に…皇后/藤原定子(ていし、さだこ/関白・藤原道隆の長女)

が入内(じゅだい)し、宮廷女流文学が盛んになります。

『枕草子』 の清少納言が仕えた皇后ですね。清少納言は正暦4年の冬頃から仕え始

めますが、疱瘡はその年の8月頃から流行が始まり、翌正暦5年、都で大流行してい

ます。



 5月 20日

岡田健吉‏@zu5kokd1      
                                                              ネットより写真借用/雪の中の朝帰り

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(460)

道信が、人々に愛されていたというのは、『大鏡』 に…

<いみじき和歌の上手にて、心にくき人にいはれたまひしほどに、うせたまひに

き>

…つまり、優れた歌詠(うたよみ)の上に、人柄が奥ゆかしい、と思われていた様です。と

もかく、この道信も疱瘡に倒れた様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(461)

道信は、これからという時に、太政大臣にまで登り詰めた父を亡くします。情の深い

道信は、1年間喪(も)にふし、忌(き)明けに歌を詠みます。


★ 限りあれば けふ
(/今日)ぬぎすてつ 藤衣(ふじごろも/藤づるの皮の繊維で織った粗末な衣

                   服。麻布で作った喪服)はてなきものは 涙なりけり


権門の子弟も父の庇護を失うと、立身は難しくなります。



 5月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原道信朝臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(462)

道信は…その資質と人柄を見込まれてか、従兄弟(いとこ)の内大臣/藤原道兼(ふじわら

の・みちかね/摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。同母の弟妹に詮子(せんし/一条天皇の生母)、道長(/平安

時代中頃、政治の実権は貴族がにぎりましたが、中でもひときわ大きな権力を持ってたのが道長・・・)がいます。 )の

猶子(ゆうし/養子)となります。そして道兼夫人の、妹姫と結婚しています。

ともかく…

道信は23歳の若さで、疱瘡で亡くなった様ですね。でも彼の歌は、勅撰集に49首もと

られています…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(463)

【53番 → 右大将道綱の母】(うだいしょう・みちつなの・はは/藤原道綱の母・・・平安時代中期の歌人。

                          藤原倫寧(ふじわらの・ともやす)の娘。『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく/

                          日本の初期の系図集)に<本朝第一美人三人内也>(=日本で最も美

                          しい女性3人のうちの1人である)と書かれていますが、『尊卑分脈』は間

                          違いも多く真偽は不明。『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者です。)


★ なげきつつ ひとりぬる夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る



< 嘆きながら…

       一人で寝ている夜…

              明けるまでの時間が…

          どれほど長いか、ご存じでしょうか…

                  あなたは、おそらく、ご存じないでしょうね… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(464)

「この歌の…作者/右大将道綱(うだいしょう・みちつな/摂政関白太政大臣・藤原兼家の次男。正妻腹

の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べ、昇進は大きく遅れた。)の母とは…

奇妙な名前ですが、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者です。本人は特定できるのです

が、名前が判明しない様ですね。

それで、生んだ子の名をもって、“その母”として知られる女性です。でも、ともかく…藤

原倫寧(ふじわらの・ともやす)という中流貴族の娘で、たいそうな美人だったのでしょう。



 5月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(465)

『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者の姪(めい/兄弟姉妹の娘)に…

『更級日記』(さらしなにっき)の作者/菅原道真の5世孫にあたる…菅原孝標(すがわらの・た

かすえ/右大臣・菅原道真の曾孫にあたる右中弁・菅原資忠の子。官位は従四位上・常陸介。)の次女/菅原

孝標女(すがわらの・たかすえの・むすめ/10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者。)がい

ます。文学的才能のある一族だった様です。

さて…

彼女は非常な美人(『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく/日本の初期の系図集)に<本朝第一美人三人内也>

(=日本で最も美しい女性3人のうちの1人である)と書かれています。)で…

『大鏡』には…<きはめたる歌の上手>…ともあり、才能が容色を輝かせた人物の

様ですね。



 5月 25日

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(466)

『蜻蛉日記』 は女性が好む本と言われます。思考形式が女性に合っているのでしょう

か。まず冒頭に、こんなことが書かれています…

<過去の年月ははかなくすぎさってしまった。平凡な私、役にもたたぬ人間だけ

れど、つれづれに世間にはやっている小説を見ると、

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(467)

つまらぬ作り話が多い。それよりありのままの私の身の上を書いてみようかしら。

高い身分の男と結婚して、玉の輿といわれるけれど、その実態はどんなものか、

知ってほしいわ>

…で、わが夫婦生活の半生を書きますが、邪推(じゃすい)、嫉妬(しっと)、意地の張り合い

に身をすりへらします。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1        

                                                                      『枕草子絵巻』 (鎌倉時代)   /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(468)

現在、まさにそうした生活をしている女性は、我が意を得たり、ということでしょう。一

方、『枕草子』 は竹を割った様な面白さと機知…

私/響子…のような人間には、『枕草子』の方が断然いいですね。清少納言は、父(/

清原元輔(きよはらの・もとすけ)・・・歌人・官人。深養父の孫で下総守・清原春光の子。三十六歌仙の1人。官位は従

五位上肥後守。)から、モノの見方・性格の影響を受けたと言われます。



 5月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1     
                           
藤原兼家・・・菊池容斎 『前賢故実』

                           右大臣藤原師輔の三男。策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条

                           天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、

                           摂関の地位を飛躍的に高め、また息子の道隆にその地位を譲って世襲を固める。

                           以後、摂関は兼家の子孫が独占する。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(469)

さて…

『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者は…政界の大物/藤原兼家(ふじわらの・かねいえ/)と結

婚します。すでに妻子もいたのですが、側室ではありません。上流貴族の男は何人で

も妻をもて、妻の地位は対等です。しかも兼家は正室を持たず、自分の邸には妻を入

れずに、妻達の邸を渡り歩いていました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(470)

そうした彼女/道綱母は中流貴族の出…実家の権威は期待できません。美人で、プ

ライドが高く、独占欲の強い女性で、様々な悶着を引き起こします。

他の妻に、嫉妬し…呪い…尼になろうとし(/兼家は急いで彼女を取り戻し、家に連れ帰った。)…兼

家が邸を訪れてもプンとふくれていたり…女の地獄のような日々を綴(つづ)っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      
                           
藤原兼家・・・菊池容斎 『前賢故実』

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(471)

この歌は…彼女が道綱を生んだ直後の頃だと言われます。

兼家は…上は内親王(ないしんのう/律令制では、天皇の姉妹および皇女。)から、下は“町の小路

(こうじ)の女”まで、まめに女に手を出す好色家でした。

一方、彼女は、人に兼家の後をつけさせたり…嫉妬と憤怒に煮えくりかえり…それを、

行動に起こすという女性でした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右大将道綱母 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(472)

ある時…

兼家が夜明け前に門を叩いたが、ついに門を開けさせず、朝になって、この歌…


★ なげきつつ ひとりぬる夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る



…を、色あせた菊に付けて兼家に贈りました。これに対し、兼家も歌を返しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      
                           
藤原兼家・・・菊池容斎 『前賢故実』

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(473)

★ げにやげに 冬の夜ならぬ 真木(まき)の戸も おそくあくるは わびしかりけり


< いや、ほんとうに….

        言われる通りです…

               冬の夜の長さもつらいが…

            木の戸でも、開くのが遅いのは…

                    つらいものです… >


彼女の面白さを、兼家は愛していたのですね…」



 5月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(474)

【54番 → 儀同三司母】 (ぎどうさんしの・はは/・・・高階 貴子(たかしなの・きし、たかこ/平安時代の女流歌人。

                      女房三十六歌仙の1人。通称は高内侍(こうの・ないし)、または儀同三司母。前者は女

                      官名、後者は息子/藤原伊周の官名(儀同三司)による。)


★ わすれじの 行末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな


< いつまでも忘れない…

        その、あなたの言葉も…

               変わらないというのは、難しいでしょう…

            だから、言葉を聞いた今日を限りに…

                     命が、尽きてしまいたいのです… >



 5月 29日

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(475)

「激しい恋歌ですね…

この歌は…『新古今集 - 巻13/恋』 に、

<中関白(なかの・かんぱく)かよひそめ侍(はべ)りけるころ>として載っています。

現代人にもスッと分かる、激しい恋歌です。古(いにしえ)の時代はよく<命>というテー

マが出てきますが、死は日常の中の、すぐ隣にあったからですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(476)

現代社会は…死を隠そうとし、大方は平均年齢は生きて当然と考えています。でも古

代では、人の死は容易にやって来ました。したがって、死生観というものも相当に違

います。

それ故に、現在の生と真剣に向き合っていました。この歌は、それを更に縮め、<今

日をかぎりの>、と詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(477)

現代人も…文学的表見で<今日をかぎりの命>と言いますが、古代では誇張では

なかったのです。

この時代は…正式に結婚しても、男は女の元へ通いました。子ができても女の親が養

育します。後には同居も多くなりますが、<かよひそめ侍りけるころ>の歌ですね。



 5月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(478)

歌の作者は…学者/高階成忠(たかしなの・なりただ/平安時代中期の公卿。宮内卿・高階良臣の子。

官位は従二位・式部大輔。)の娘/貴子(きし、たかこ)です。当時は第64代/円融天皇の宮廷

に仕え、高内侍(こうの・ないし)と呼ばれる有名な才女でした。高は高階からとられていま

す。

彼女は…父譲りの学才で、漢学の素養の深いインテリでした。子供達がみな、美貌と

うたわれていますから、彼女もそうだったのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             

                                                              藤原道隆 (菊池容斎/ 『前賢故実』より )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(479)

その才女に言い寄ったのは…青年武官/藤原道隆(/平安時代中期の公卿。摂政関白太政大

臣・藤原兼家の長男。花山天皇退位事件で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速

に昇進した。娘の定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父兼家が死ぬと後を継いで関白となる。)でした。

道隆の父親は藤原兼家(/村上朝の実力者・右大臣・藤原師輔の三男。妻の1人が、『蜻蛉日記』の作者・

道綱母)で、当時は大納言という高官であり、名門中の兄弟どうしで政権争奪(/相手は、

兄の藤原兼通/右大臣・藤原師輔の次男)に明け暮れていた頃です。

したがって道隆の将来は、まだ判然としていませんでした。でも、道隆の方も、彼女に

すっかり惚れ込んでしまっていた様です。



 6月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(480)

そして、父/兼家は数多(あまた)の政敵を倒しトップの座に着きます。長男/道隆の地

位も確固となり、父の死後は後を継いで関白となります。

貴子(きし、たかこ)は関白夫人となり…伊周(これちか)・隆家(たかいえ)らの息子、定子(ていし、

さだこ)・原子(げんし、もとこ)らの娘を生みます。定子は、一条天皇の中宮に、原子は東宮

妃として入内(じゅだい)します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(481)

息子達も、若くして昇進を重ね…貴子は女の栄華を極めます。道隆は父譲りの好色家

(/『蜻蛉日記』の作者を妻の1人とする。)でしたが、貴子に対する愛情と敬意は失わなかった様

です。

貴子は…<行末までは>と歌に詠んでいる様に、浮気は覚悟していたわけですね。

『蜻蛉日記』の作者とは、だいぶ違う様です。



 6月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1             

                                                              藤原道隆 (菊池容斎/ 『前賢故実』より )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(482)

道隆と貴子の娘/定子が…

第66代/一条天皇の皇后になり、『枕草子』の清少納言が仕えます。さすがに、学者

の家系の才女/貴子の娘ですから、清少納言を見抜く素養があったわけですね。

さて…大酒飲みの道隆の栄華は、短いものでした。43歳の若さで没しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(483)

また…同族中での、激しい政権争いが始まります。

兼家の息子/22歳の伊周(これちか)は…父/兼家の末弟である、叔父/道長の敵で

はなく、たちまち蹴落とされてしまいます。さらに、謀(はかりごと)に落ちて官位も剥奪され、

九州へ流されます。貴子は、引き立てられる息子に取付き、号泣したと伝えられます。



 6月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(484)

道隆の死後…貴子は尼(あま/尼僧(にそう)・・・一般に、出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修

行する女性。)になります。

でも、道心(どうしん/仏道を修行して、悟りを求めようとする志)を起こすゆとりすらない、急激な一家

の没落ぶりだったと言われます。弟/隆家も流され、中宮定子も悲しみのあまり落飾

(らくしょく/高貴な人が髪をそり落とし、仏門に入ること)します。

貴子の不幸な晩年を、<賢(かしこ)すぎる女の末路はあんなもの>と嗤(わら)う者もあ

りました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 儀同三司母    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(485)

皇位の争奪は血生臭いものですが…摂関家の争いも凄まじかった様です。

でも、これらは、人物・人間性で、回避(/第40代・天武天皇は、こうしたことを繰り返さないために、<吉

野の6皇子の誓い>をしましたが・・・ここに参加した皇后/第41代・持統天皇が・・・息子/草壁皇子の皇位を守るた

めに・・・また、姉の息子/大津皇子の命を奪います。)できたのかも、知れませんね。

後年…伊周(これちか)は復位し、自ら儀同三司(ぎどうさんし)を名のります。これは、太政大

臣・左大臣・右大臣の3大臣に同じという意味で…<儀同三司の母>(/『小倉百人一首』

で使われている貴子の名前)は、これに由来します…」



 6月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大納言公任    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(486)

【55番 → 大納言公任】 (だいなごん・きんとう/藤原公任/平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣/

                      藤原頼忠の長男/・・・祖父・実頼、父・頼忠ともに、関白・太政大臣を務め、母(醍

                      醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに2世の女王。いとこに、具平親王、右大臣

                      /藤原実資、書家/藤原佐理がいて・・・政治的にも芸術的にも名門の出・・・

                 家集/『大納言公任集』、私撰集/『金玉和歌集』、歌論書/『新撰髄脳』・『和歌

                  九品』などがあり、『和漢朗詠集』や・・・

                     <三十六歌仙の元となった・・・『三十六人撰』>は、公任の撰によるものです。)

                  
★ 滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ



< 滝の流れる水音は、絶えて久しくなるが…

        嵯峨帝の名声は、今も世に流れ…

                人々の耳には、ありし日の栄(は)えを偲んで…

                        水音が、今も聞こえている… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 大納言公任    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(487)

「この歌は…『拾遺集 - 雑』に、

<大覚寺に 人々あまたまかりたりけるに ふるき滝をよみ侍りける>

として載っています。

京都/嵯峨野の大覚寺(/京都市右京区・嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山。本

尊は不動明王を中心とする五大明王。開基は嵯峨天皇。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた、皇室ゆかりの寺院。)は…

第52代/嵯峨天皇の離宮ですね。そこには有名な滝(/名古曽滝(なこそのたき))がありま

す。天皇は、滝殿(たきどの/滝に臨むように建てた殿舎)を作って賞(め)でられたと言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大納言公任    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(488)

うーん…

ここでは平安時代(794年 ~ 1185年/1192年頃・・・第50代/桓武天皇が平安京/京都に都を移してか

ら、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指す。)を…初期・中期・後期と大雑把に区切っていま

すが…第52代/嵯峨天皇(/桓武天皇の第2皇子)は初期であり…中期の藤原公任(ふじわ

らの・きんとう)の生きた頃からみると、百数十年も遥かな昔です。

公任が仕えたのは、第66代/一条天皇であり(/一条朝時代の4納言の1人・・・一条天皇の頃に、

才芸の特にすぐれているといわれた四人の納言。権大納言/藤原公任(ふじわらの・きんとう)・権中納言/藤原斉信

(ふじわらの・なりのぶ)・権中納言/源俊賢(みなもとの・としかた)・権中納言/藤原行成(ふじわらの・ゆきなり)の4人)

…清少納言などとも、交流があった様ですね。



 6月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大納言公任    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(489)

離宮が大覚寺となったのは、第56代/清和天皇の時代ですね。

あ、それから、【59番】の女流歌人/赤染衛門(あかぞえもん/この後、【59番】で詳しく考察します)

も、<大覚寺の滝殿を見てよみ侍りける>として…


★ あせにける いまだに懸(かか)る 

         滝つせ(/滝つ瀬・・・滝のように急な流れ。枕詞として<早く>にかかる?)の

                  早くぞ人は 見るべかりける


…と詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                          藤原公任/「しらしらとしらけたる夜の月かけに 雪かきわけて梅の花折る』  (月岡芳年『月百姿』)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(490)

赤染衛門の歌は…早く見に行かないと、滝は無くなってしまう…と詠み、公任の歌で

は滝は枯れている様ですね。

同時代の人ですから矛盾がありますが…公任の歌は大覚寺へ至る天然の鳴滝を詠

んだもの…という説もあります。でも、季節で滝が枯れる事もありますよね…



 6月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                          藤原公任/「しらしらとしらけたる夜の月かけに 雪かきわけて梅の花折る』  (月岡芳年『月百姿』)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(491)

この歌は…古来から魅力のない歌として有名です。三十六歌仙を選出(/三十六歌仙の

元となった・・・『三十六人撰』は公任の撰)したほどの公任(きんとう)です。他にいい歌は沢山あり

ます。藤原定家は何故、この歌を 『小倉百人一首』 にとったのか?

私は、素人ですが…歌道師範と、今も仰がれる公任の駄作と言われる歌は…ホッと

一息つくものを感じます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                          藤原公任/「しらしらとしらけたる夜の月かけに 雪かきわけて梅の花折る』  (月岡芳年『月百姿』)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(492)

藤原公任(ふじわらの・きんとう)は…王朝全盛期に活躍した花形貴族の1人です。歌人・歌

論家としての書物も多く、道長時代の四納言(しなごん)の1人です。

(★ 藤原道長は・・・

父の兼家(/妻の1人に・・・『蜻蛉日記』の作者)が摂政になり、権力を握ると栄達しますが、五男であり道隆、道兼と

いう有力な兄がいたため、目立たない存在でした。兼家の死後に摂関となった道隆が大酒で、道兼が伝染病により相

次いで病没します。後に・・・道隆の嫡男/伊周との政争に勝ち、左大臣として政権を掌握します。

☆ “一家立三后”とは・・・

藤原道長は・・・一条天皇に長女の彰子(しょうし、あきこ)を・・・次の三条天皇には次女の妍子(けんし、きよこ)を・・・

先帝を退位させ、即位させた後一条天皇には四女の威子(いし、たけこ)を入れて中宮となし・・・ “一家立三后”(一家

三后)と驚嘆されました。)

公任は…博学多才で、負けん気も強く、自己顕示欲も旺盛だった様です。王朝初期の

スーパースター/在原業平(ありわらの・なりひら)とは、相当に性格が異なる様(/業平は、権力

志向ではなく、詩人・芸術家タイプでした。)ですね。



 6月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                          『紫式部日記絵巻』 に描かれた・・・土御門殿釣殿に立つ・・・ 藤原道長

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(493)

ある年の事…

左大臣/道長が大堰川(おおいがわ/京都市・西部の桂川の上流域・・・嵐山/渡月橋付近から桂橋まで

の呼称。船遊びが行われ、歌枕になっています。)で遊んだ時でした。漢詩の船、音楽の船、和歌

の船と分けて、その道に優れた人を乗せました。

公任は全てに優れていたので、道長は…

<どの船にお乗りになられるか>と問いました。

<では、和歌の船にしましかな>と言い…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            

                               『紫式部日記絵巻』 に描かれた・・・土御門殿釣殿に立つ・・・ 藤原道長を拡大

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(494)

…公任は、次の歌を詠みました。

★ をぐら山(/小倉山) 

     嵐(/嵐山と風に掛けて、)の風の 寒ければ もみぢ(紅葉)の錦 着ぬ人ぞなき

< 小倉山や嵐山から…

         吹き下ろす山風が寒いので…

                  紅葉の落ち葉が、人々の衣に散りかかる…

              その紅葉の、錦の衣を着ない人は…

                         誰もいないことだなあ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                          藤原公任/「しらしらとしらけたる夜の月かけに 雪かきわけて梅の花折る』  (月岡芳年『月百姿』)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(495)

この歌に人々が感じ入ると、公任が言いました…

<いや、漢詩の船に乗ればよかった。そして、この歌ぐらいの漢詩を作っていれ

ば、名声はいっそう上がっただろうに、惜しいことをした>

公任は…その才と自負は認めても…少々、口が軽すぎる所があった様ですね。



 6月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大納言公任    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(496)

また…

公任の妹/遵子(じゅんし、のぶこ/・・・978年、円融天皇に入内、女御宣下を受ける。982年、中宮に冊立。

990年、皇后宮。)が円融帝(えんゆうてい/第64代・円融天皇)の中宮で入内(じゅだい/皇后・中宮・女

御になる人が、儀礼を整えて正式に内裏に入ること。)する時、行列が兼家(/妻の1人に『蜻蛉日記』の作者

・道綱母がいる。)の邸の前を通った。兼家の娘も円融帝・女御の1人で、遵子の立后(りっ

こう/皇后を正式に定めること。)を羨(うらや)ましく見送っていたと思われる。

公任は、得意のあまり馬を控え…

「こちらの女御はいつ立后なさるのかね」

…と放言しました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大納言公任    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(497)

でも…

遵子(じゅんし)にはお子ができず…兼家の娘/詮子(せんし)の方に生まれた皇子が、

一条帝(第66代・一条天皇)として皇位に即(つ)き、立場は逆転します。詮子が皇太后とし

て入内する時、詮子側の女房が公任に言います…

「お妹さんの素腹(すばら)の后(きさき/后・妃・女御・夫人等には序列がある。)はお元気なの?」

最大級の侮辱ですが…仕方ありませんね…」



 6月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1 和泉式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(498)

【56番 → 和泉式部】(いずみ・しきぶ/平安時代中期の歌人。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、

                   女房三十六歌仙の1人。はじめ、御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親

                   王付の女童だったらしい(母が、昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する

                   論もある。)


★ あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな



< 私は、もう長くはありませんわ…

        あの世へ旅立つ思い出に…

               せめて、もう一度…

                       愛しいあなたに、お会いしたいのです… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 和泉式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(499)

「この歌は…『和泉式部・集』に<こころあしきころ、人に>、として載っています。

式部は病床にあって、心細くなり、男にこの歌を贈ったわけですね。さあ、男の方は、

全てを打ち捨てて、恋人である式部の元へ駆けつけた、かどうか。

…ともかく、心に響く歌ですね。



 6月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1 和泉式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(500)

<あらざらむ この世のほかの>とは…

“自分がいなくなってしまうであろう、この世と、別の所の”…つまり、“あの世の”。

“あの世へ出向く”…<思い出に>…と言う事です。

絶妙な表現、絶妙な美しい言い回しです。和泉式部の歌は、現在もファンが多い様

ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 和泉式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(501)

ボス(/岡田)も…小説/『普遍時間』の中で、次の歌を引用しています。

                            <・・・・・小説/『普遍時間』はこちらへどうぞ・・・・・>


★ 暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥(はる)かに照らせ 山の端(は)の月


ボスも、小説の中でも考察していますが…<暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき>と

は…煩悩の充満する、この世の人生を指しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                    和泉式部  菊池容斎『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(502)

<遥かに照らせ 山の端の月>とは…<山の端の月>を御仏(みほとけ)の光に例

え…“暗く細い・・・人生という山道”を、どこまでも照らして行って欲しい…と願います。

これも美しい歌ですね。

でも、実は…

式部は、“恋多き・・・メチャクチャな・・・奔放な人生”を歩んだ人で、歌は性空上人(しょう

くう・しょうにん)に…御仏の救済を求めたものです。

(性空上人/・・・平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系

統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられます。1007年、播磨国弥勒寺

で、98歳(/または、80歳)で亡くなっています。)



 6月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                    和泉式部  菊池容斎『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(503)

和泉式部の歌は、底深いとも言われます。奔放な人生を歩んだ一方、哲学をも感じさ

せます。

式部の父は、越前守/大江雅致(おおえの・まさむね)… 母は、越中守/平保衡(たいらの・や

すひら)の娘で…太皇太后・昌子の乳母だった人です。両親の仕えた昌子・内親王は…

第61代/朱雀天皇の皇女、第63代/冷泉天皇の中宮ですね。

(★ 中宮/・・・本来の意味は<皇后の住居>。転じて、そこに住む皇后その人を指して中宮と呼びました。また、皇

太后・太皇太后も同じく后位にあることから、その住居及びそこに住む本人の呼称として同様に、中宮が用いられまし

た。)


 6月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                    和泉式部  菊池容斎『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(504)

和泉式部は…幼くして、母と共に昌子内親王の御殿に仕えた様で、やがて父の下僚

(かりょう/下役)の橘道貞(たちばなの・みちさだ)と結婚します。道貞が和泉守(いずみのかみ/・・・

和泉国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の1つで、現在の大阪府和泉市。)になったので、彼女

の候名(さぶらいな/禁中の下級女官の呼び名)を和泉式部(式部は、女官の呼び名)と言うわけです。

この結婚で式部は1人娘を得ますが、これが女房三十六歌仙の1人/小式部内侍(こ

しきぶの・ないし/【60番 → 小式部内侍】で、説明します。)ですね。


 6月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                    和泉式部  菊池容斎『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(505)

式部は…

歌人として、若くして有名で…夫と娘も得て、幸福な結婚生活をスタートします。でも、

それから数奇(すうき/ 「数」は運命、「奇」は食い違うの意で・・・ふしあわせ。不運)な恋の遍歴を歩む

事になります。

昌子・中宮が病まれた時…冷泉院の第3皇子/為尊親王(ためたか・しんのう)がお見舞い

に来られて…中宮にお仕えする式部を見染(みそ)められます。

(/★ 暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月 /この歌は・・・彼女の少女時代の作と

言われています。波乱の人生の予感に、思いを寄せている様ですが・・・それゆえに、この歌の本来の純粋性に、私

/響子は、強く心が引かれます。

『和泉式部日記』によれば・・・播磨の性空の名は、心の救済者として絶対的な響きを持っていました。この歌には、性

空上人の返歌があります・・・★ 日は入りて 月はまだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法のともしび )

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                    和泉式部  菊池容斎『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(506)

この時…為尊親王(ためたか・しんのう)は22歳、式部は26、7歳頃…

美しき才人/女流歌人は、若き多情多感な貴公子と激しい恋に落ちます。当時の宮

廷では、大ロマンスとして噂が広がる一方です。

橘道貞(たちばなの・みちさだ)は、やむなく妻を離別…式部の父/大江雅致(おおえの・まさむね)

も怒って娘を勘当します。これで、タガ(/桶や樽などの周囲にはめ、堅く締めるために用いられる・・・竹

などを裂いて編んだ輪。)が外れてしまいます。



 6月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                        和泉式部   ネットより画像を借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(507)

その貴公子/為尊親王(ためたか・しんのう)は…2年後に亡くなられます。でも、今度はそ

の弟宮/敦道親王(あつみち・しんのう)が、式部と袖(そで)引き合う仲になります。やがて

親王の方が夢中になられ、式部を邸の一間に迎えます。この事態に、親王妃が怒っ

て邸を出られ、両人は轟々たる世間の非難をあびます。

 

                

      アジサイ・・・・・  iPhone 6 plus で撮影

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                              和泉式部   ネットより画像を借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(508)

敦道親王(あつみち・しんのう)も…恋に燃え尽きるように、4年ほどで、27歳の若さで亡く

なられます。敦道親王との恋を書いたのが、『和泉式部日記』(/敦道親王が亡くなった後、喪

に服している1年間に書かれた様です。女流歌人の和泉式部にふさわしく、日記の中に和歌の贈答の場面が頻繁に

出てきます。女流日記文学の、代表的作品の1つですね。)ですね。

式部は…敦道親王の死をいたむ歌を、数多く詠んでいます。


★ すてはてむと 思ふさへこそ 悲しけれ 君に馴れにし 我ぞと思へば

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                            和泉式部   ネットより画像を借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(509)

★ 黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞこひしき


式部の身の振り方ですが…ピカイチの才媛
(さいえん/高い教養・才能のある女性 )は左大臣

/道長のお声がかりで、第66代/一条天皇の中宮/彰子(しょうし、あきこ/藤原道長の長

女)に仕える事になります。成人していた1人娘/小式部内侍(こしきぶの・ないし)共々の

出仕の様です。



 6月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                        和泉式部   ネットより画像を借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(510)

式部が仕えた中宮/彰子には…紫式部も仕えていました。

やがて和泉式部は…

道長の家臣/藤原保昌(ふじわらの・やすまさ)と再婚し、だいぶ年上の保昌に従い、大和

(やまと/奈良県)、丹後(たんご/京都府北部)の任地へ下ります。それから、1人娘の小式部

内侍に先立たれていますね。保昌とは、かなり晩年まで連れ添った様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                            和泉式部   ネットより画像を借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(511)

紫式部は…

中宮/彰子に仕えている時に『源氏物語』を書いた様ですが…和泉式部の歌を、本

格派歌人ではないと、けなしている様子です。でも…

<口から出るに任せた歌のようだが、必ず一点は魅力あるところがある>

…と、一流文学者どうしとしては、その才は認めています。



 6月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1 和泉式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(512)

紫式部は…

和泉式部の歌を<口から出るに任せた歌>と言ますが…

<率直な心の叫びの歌>とも言えますね。

それ故、彼女の歌は千年後の世までも、心に響き続けるのでしょう…


★ 白露も 夢もこの世も まぼろしも たとへていへば 久しかりけり


岡田健吉‏@zu5kokd1 和泉式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(513)

この歌には…

<つゆばかりあひそめたる人のもとに>という詞書(ことばがき)があります。

つまり、ほんの短い間の逢瀬だった男に、贈った歌ですね。

< 白露・夢・現世・まぼろし…

        これらの儚(はかな)いものの例えだって…

                貴方との逢瀬(おうせ)に比べれば…

                        随分長いものです… >



 6月 25日

岡田健吉‏@zu5kokd1 紫式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(514)

【57番 → 紫式部】(むらさき・しきぶ/平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者。中古三十六歌

                 仙、女房三十六歌仙の1人。屈指の学者、詩人の藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、1娘

                 /大弐三位(/女房三十六歌仙の1人)を産んだ。夫の死後・・・召し出されて一条天皇の

                 中宮/彰子に仕えている間に、『源氏物語』を書いた。)


★ めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半
(よは)の月影


   < 久しぶりに逢えたのに…

         貴方だと分かるかどうかの、わずかな間に…

               あわただしく帰ってしまわれた…

                   まるで、雲間に隠れてしまう、夜半の月のように… >



 6月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1 紫式部    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(515)

「この歌は…『新古今集 - 卷16/雑』 に…

<早くよりわらは友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、

七月十日ごろ、月にきほひて帰り侍りければ>

…として、載っています。この歌は 『紫式部集』 の冒頭にも、据(す)えられている様で

すね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紫式部

                          『石山月』 (月岡芳年『月百姿』) 『源氏物語』を執筆する紫式部

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(516)

これは恋の歌ではありません。相手もずっと以前から幼友達だった女性です。その彼

女と、ずいぶん久しぶりに逢った。でも、あまりにも束の間で、顔を確かめる間もなかっ

た。彼女は、七月(ふみづき)十日の夜半(よわ)に沈む月と競うように、早々に帰ってしまっ

た…と詠んでいます。

 



 6月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1 紫式部

                          『石山月』 (月岡芳年『月百姿』) 『源氏物語』を執筆する紫式部

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(517)

七月十日は…当時の太陰暦だと、すでに初秋です。現在の太陽暦だと、8月の中頃

…ちょうど秋の気配が漂う、お盆の頃ですね。

紫式部は…若い頃は多くの女友達がいたようで、そうした幼友達の1人だったのでしょ

う。『紫式部集』 によると、この歌の次には…こうあります…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紫式部    

                           紫式部 ( 菊池容斎 『前賢故実』 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(518)

<・・・その人遠き所へいくなりけり。

秋の果つる日来たるあかつき、虫の声あはれなり。


★ 鳴き弱る まがきの虫も とめがたき 秋の別れや 悲しかるらむ


・・・>

その女友達は…おそらく、地方官に任じられた父に従い、任地国へ下って行ったので

しょう。

 


 6月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1  紫式部    

                           紫式部 ( 菊池容斎 『前賢故実』 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(519)

9月末の夜ふけに…女友達は紫式部に別れを告げに来ました。2人は、別れを悲しん

だ…のでしょう。

現代なら…単身・手ブラで電車で乗り…食事の心配もいらず…携帯電話で…全てと繋

がっています。でも当時は…こうした別れが、今生(こんじょう/この世に生きている間、この世)の

別れ…となる事も多かったわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紫式部    

                           紫式部 ( 菊池容斎 『前賢故実』 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(520)

『源氏物語』の作者/紫式部は…実は、生没年が不明なのです…

稀代(きたい、きだい/世にまれなこと)のカリスマ性(/人々の心を引きつける、強い魅力があること)を持つ

第40代/天武天皇(てんむ・てんのう/第40代天皇で…第41代/持統天皇は皇后に当たる。・・・第38代

/天智天皇の近江朝/琵琶湖の畔から都落ちし、吉野へ逃避行。その後、<吉野出兵>で・・・戦史上前例のない、

わずか数日間で数万の大軍勢を湧き上がらせ・・・ダイナミックに2方向から、近江朝の都に軍を進めました。これを、

<壬申の乱>(じんしんのらん)といいます。以後、天武天皇によって日本の国造りが始まりました・・・)の、生まれ

た年なども不明で…何歳まで生きたのか分かりません。

その時代には当然すぎることでも…500年、1000年と経てば…日本の歴史の中で、

抜け落ちる記述も多い様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紫式部     

                           「古今姫鑑」 紫式部・・・ 月岡芳年/画 (明治9)1876年)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(521)

ともかく…紫式部は【27番 → 藤原兼輔】(ふじわらの・かねすけ)を曽祖父に持ちます。

父親/藤原為時(ふじわらの・ためとき)は、歌人・漢詩人で藤原北家・良門流ですが…官途

(かんと/官吏の勤務や地位)にめぐまれず、第66代/一条天皇に詩で訴え、越前守に任ぜ

られ…後に越後守にもなります。式部は、そんな父の元で、自由闊達に育った様です

ね。



 7月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1  紫式部     

                           「古今姫鑑」 紫式部・・・ 月岡芳年/画 (明治9)1876年)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(522)

おそらく…

紫式部は、970年代に生まれ、1014年頃に亡くなった様だ…と言われています。母

は早逝(そうせい/若くして死去すること)し、年の近い姉がいた様です。

姉妹の家には、女友達が多く集まったのでしょうか。その知的なグループで、物語を論

じたり、歌を読み合っていたのでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                            紫式部  (土佐光起筆 ・・・石山寺蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(523)

式部は…幼い頃から怜悧(れいり/賢く利口なこと)だったと、自分で書いています。兄/惟

規(のぶのり)に父が漢籍(かんせき/漢文で書かれた中国の書籍を指す言葉。)を教えているのを、そ

ばで聞いていた式部が兄より早く覚えました。父は、<この子が男だったら>と、惜

(お)しがったと言います。

よく聞く話ですが…やがて歴史的な大文学者になるわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                            紫式部  (土佐光起筆 ・・・石山寺蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(524)

少女時代の式部は…貪(むさぼ)るように学問を吸収し、見聞を広めていた様です。父

は、官吏としてはうだつが上がらず、詩で天皇に訴えるほどでしたが、漢詩文では大

家でした。

式部は学問を学ぶという点では、血脈も環境も恵まれ、その父の素養からか、女友達

も集まる家だった様ですね…」



 7月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大弐三位     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(525)

【58番 → 大弐三位】(だいに・さんみ/平安中期の女流歌人。女房三十六歌仙の1人。藤原宣孝の女、母

                    は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわらの・かたいこ/けんし)。藤三位(とうの・さんみ)、

                    越後弁(えちごの・べん)、弁乳母(べんの・めのと)…とも呼ばれます。)


★ 有馬山
(ありまやま) 猪名(いな)の笹原(ささはら) 風吹けば 

                          いでそよ人を 忘れやはする


   < 有馬山の近くの、猪名にある笹原…

          その笹の葉が、そよそよと音をたてる…

                 そよ、そよ…そうよ、そうですよ、と…

                       どうしてあなたを、忘れたりするものですか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大弐三位     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(526)

「この歌は…『後拾遺集 - 巻12/恋』 に、詞書に…

<離(か)れ離(が)れなる男の、おぼつかなくなどいひたりけるによめる>

…として、載っています。

大弐三位(だいに・さんみ)は【57番 → 紫式部】の1人娘です。第66代/一条天皇の中

宮/彰子に仕えた…紫式部と和泉式部には…それぞれ1人娘がいました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大弐三位     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(527)

うーん…

『源氏物語』は大作ですから…和泉式部が左大臣/道長のお声がかりで、中宮/彰

子(/道長の長女)に仕えた頃には、紫式部は先輩として仕えていて…すでに執筆してい

たのでしょうか。

『紫式部日記』 (/紫式部が中宮・彰子に仕えた期間のうち寛弘5年(/1008年)7月から約1年半にわたる日

記と、消息文から成る。道長邸の生活、彰子の出産、正月の節会など大小の見聞が式部独特の鋭敏な感覚を通して

記録されている。)や 『和泉式部日記』(/140首余りの和歌を擁する、王朝女流日記文学の傑作。亡き恋人

への追慕に明け暮れる和泉式部へ、その弟の敦道親王から便りが届き、新たな恋が始まります。和泉式部が宮邸に

部屋を与えられ、正妻が怒って宮邸を出るまでの10か月を記しています。)などを読めば、その辺りの詳細

が分かるのかも知れませんが…浅学(せんがく/学問や知識が未熟なこと)で、申し訳ございま

せん。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大弐三位     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(528)

和泉式部は…1人娘/小式部内侍(こしきぶの・ないし)と共に出仕した様ですが…彼女自

身は再婚し、じきに地方へ下ったのでしょう。小式部内侍の歌(/【60番 → 小式部内侍】か

らも、その様子が分かります。

ともかく、2人の1人娘とも、女房三十六歌仙の1人であり、母たちと同様に、中宮/

彰子に仕えています。



 
 7月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大弐三位     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(529)

さあ、この歌ですが…

足が遠くなり、しばらく女の元へ通わなくなった男が、言いわけの様に…

<貴方の気持ちが、おぼつかなくなってしまって・・・>

…と言って来たのを、この歌を詠んで返したわけですね。この歌は、現代語訳が非常

に難しいと言われます。

 


             

            <カラス・・・・・/iPhone 6 plus で撮影!>

 

 7月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大弐三位     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(530)

技巧の極致のような歌とも言われますが…

実感があってその技巧くささを消し…しかも調べが美しいですね。歌の核は…結びの

<人を 忘れやはする >であり、あとは修辞が幾重にも重なります。

こういう調べが美しい歌は…口ずさみ、詠唱を楽しんだ方が良いのだそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(531)

<有田山>(摂津の国の有馬付近の山々の称)と<猪名の笹原>(いなのささはら/摂津の国の猪名

篠原)は、古い歌枕です。<有>と<猪名/・・・否>は、男女の恋を巡る対句(ついく)。

<笹原>のそよぎから、<そよ/・・・それよ>という言葉が引き出され、<いでそ

よ/・・・さあ、それなんですよ>となりますね。男の気まずさに、弾む様に言葉を掛

けています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(532)

響きの良い歌で…明るい女性的ユーモアで応じ…調べが美しいですね。

この明るさは母/紫式部にはなく、父/藤原宣孝(ふじわらの・のぶたか/藤原北家高藤流、権

中納言・藤原為輔の子。)譲りだった様ですね。宣孝は有能な官吏で、社交界でもてた伊達

男です。

一方…母/紫式部は、1人でじっくりと想像を巡らし、努力を惜しまないタイプです。面

白い組み合わせですね。



 7月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(533)

大弐三位は…本名は藤原賢子(ふじわらの・けんし、かたいこ)です。2、3歳頃に父と死別し、

母と共に祖父/藤原為時(ふじわらの・ためとき/紫式部の父)に養われます。為時は有名な

学者で、紫式部の系統は文雅(ぶんが/詩文を作ったり、文事に親しんだりする風雅の道)な人々で

すから、環境にも育まれた様です。

彼女は、母/紫式部と共に中宮/彰子(/第66代一条天皇の皇后)に仕えますが、母は長

和3年(1014年)頃に死没します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(534)

母/紫式部が死没したのは…41、2歳と推定されています。賢子(けんし、かたいこ)が、

14、5、6歳の頃でした。さらに…その2年後には、祖父/為時が出家(しゅっけ/家を出

て仏道の生活にはいること)します。

賢子はこの歳で独りぼっちとなり…宮廷女房として、才と若さと、母/紫式部の威光

で、泳いで行くことになります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(535)

賢子には…母/紫式部譲りの才能と勝気…父/宣孝譲りの社交性な快活さがあり…

それを頼りに、宮廷社会を泳いで行きます。

また、その頃には、宮中で『源氏物語』がさかんに読まれる様になっていて、母の存在

が、しだいに大きくなり始めていた様です。賢子はそれも巧みに利用したのでしょう。



 7月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(536)

賢子(けんし、かたいこ)は…権門の貴公子と次々に恋をします。

そして藤原兼隆(ふじわらの・かねたか/関白右大臣・藤原道兼の次男。 兄が夭折したため、嫡男として育てら

れます。父の道兼は995年に関白に就任しましたが、在任僅か二週間にも満たずに急死します。権力の座は叔父/

藤原道長に移ります。同じく道長を叔父とする従兄弟の伊周・隆家兄弟は道長に反抗し、権力闘争に敗れますが・・・

兼隆はそのような動きを見せることなく・・・以後、道長には愛され、側近としての道を歩んでいます。)の子を産ん

だ時…ちょうど第70代/後冷泉天皇(ごれいぜい・てんのう/父は第69代/後朱雀天皇で、母は藤

原道長の6女/藤原嬉子・・・父/後朱雀天皇は一条天皇の第三皇子で、母は藤原道長の娘/中宮・彰子であり・・・

まさに、和泉式部とその娘、紫式部とその娘が、仕えていました。)が誕生され…賢子が乳母(うば/母親

の代りに乳児に授乳し養育する女性。古来宮廷貴族の間では乳人 (めのと) といって、生児のために母親のほかに

授乳する女をおくのが常でした。)に選ばれます。

天皇の乳母の権威は大きなものでした。さらに、賢子は聡明で情理の分かる女性で、

後冷泉帝へのお躾(しつけ)も評判の良いものでした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(537)

そんなこんなで…

賢子は宮廷で重く扱われ…従三位(じゅさんみ/正三位の下、正四位(正四位上)の上に位。律令制下

では任参議及び従三位以上の者を<公卿>と言いました。また、従三位以上を<貴>と称し、星の位ともいわれ、<

上級貴族の位階>でした。)、典侍(ないしの・すけ、てんじ/ 内侍司(ないしの・つかさ/・・・天皇の秘書役)の次

官(女官)で、・・・単に<すけ>とも呼ばれました。 )と出世し…36、7歳の頃に、太宰大弐(だざいだい

に/大宰府で、次官に相当する役職。長官に相当する役職は<大宰帥/だざいのそち、だざいのそつ>と言いました)

/高階成章(/たかしなの・なりあき/高階氏は成章の大伯父・成忠の代で藤原道長と覇を競う勢力を誇ったが、

最終的に道長の天下が確立するとともに成忠の系統は没落した。対して成忠の弟/敏忠の系統は、受領層として道長

に取り入ることによって、勢力を確保した。成章もその系譜をたどり、国司を歴任、最終的には太宰大弐に至り、晩年に

は公卿に列せられた。)と結婚します。成章は蓄財に長けた男で、大金持ちです。

賢子は14、5、6歳で、独りぽっちになりましたが…恋もし、仕事の業績も上げ、金持

の高級官僚と結婚もしました。



 7月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                           大弐三位  菱川師宣/国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(538)

賢子は…太宰大弐の成章と結婚したので、大弐三位(だいにさんみ)と呼ばれました。三

位は従三位の意味ですね。それ以前は、祖父が越後守だったので、越後の弁(えちご

のべん/弁とは・・・かんむり、それをかぶる者・・・というような意味)と呼ばれていました。

『源氏物語』の作者/紫式部の名声は益々高まったのでしょう。賢子はまさに、その

1人娘の名に相応しい生涯を、生き抜き抜いてみせた…とも言えますね、」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  赤染衛門   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(539)

【59番 → 赤染衛門】(あかぞめえもん/平安時代中期の女流歌人。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の1人。大

                   隅守(/大隅国は、鹿児島県東部と奄美群島の長官)・赤染時用の娘。ただ、赤染衛門の母

                   親が前夫である平兼盛と婚姻していた頃に懐胎した後、再婚先の赤染家において、赤染衛門

                   を出産したため・・・実父は平兼盛との説もあります。後に、平兼盛は娘の親権を巡り赤染時用

                   との間で裁判を起こしますが、敗訴しています。

                   ☆ 平兼盛は三十六歌仙の1人で・・・<天徳内裏歌合>における、【41番→壬生忠見】と対

                   決した人ですね。その歌/【40番→平兼盛】 ・・・

                   ★/ 忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

                 ・・・の作者です。この人は、第58代/光孝天皇の曾孫にあたり、臣籍降下前は兼盛王と名の

                   って乗っていました。官位は従五位上・駿河守ですが・・・生存中から様々な挿話、逸話の主人

                   公として知られていた人物です。)


★ やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな



   < こんなことなら、起きていずに…

          さっさと寝てしまいましたものを…

                夜が更(ふ)け、月が西に傾いて沈んで行くまで…

                       ずっと、見続けてしまいました… >


岡田健吉‏@zu5kokd1  赤染衛門   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(540)

この歌は…『後拾遺集 - 巻12/恋』に、詞書(ことばがき)に…

<中の関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり、たの

めて来ざりけるつとめて、女にかはりてよめる 赤染衛門>

…として載っています。男が来なかった翌朝、姉妹の代作をした様ですね…



 7月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1  赤染衛門   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(541)

さて…この歌は痛切な皮肉ではなく、待ちわびて自他共に呆れ、やるかたなく眠ってし

まった…という歌ですね。

当時は、現代の様に携帯電話があるわけではありません。でも、その心のゆとりが、こ

うした待ちぼうけのユーモアと、美しい調べの歌を育みました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  赤染衛門   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(542)

詞書(ことばがき)の<中関白>とは、藤原道隆です。栄華を究め、ドン底に没落した儀

同三司母の夫です。道隆は【54番 → 儀同三司母】の…


★ わすれじの 行末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな



…と歌を贈った妻を、生涯敬愛し、多くの子女をもうけました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(543)

一方、道隆は…通う女も多くいたのです。赤染衛門の姉妹もその1人なのでしょう。

<少将(/当時の権門の男子は、この地位に就くことが多かった)に侍りける時>とありますから…

道隆が22~25歳の青年の時です。権力を競う権門の貴公子で、陽気で羽振りがよ

かったわけですね。女性に評判がいいのは、この赤染衛門の代作の歌からも、香っ

て来ます。



 7月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(544)

赤染衛門は…衛門尉(えもんの・じょう/皇宮警備の役所の3等官)/赤染時用(あかぞめの・ときもち)

の娘だったので、その名があります。妻が、前夫/平兼盛(たいらの・かねもり/三十六歌仙の

1人で・・・<天徳内裏歌合>において、【41番→壬生忠見】と対決した歌人。)の子を懐妊したまま嫁いだ

と言うことで…兼盛は女の子であるなら、引き取りたいと訴えます。でも、時用は…早く

から兼盛の妻と通じあっていたと申し立て…これが通ります。

うーん…??

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(545)

赤染衛門は若い頃から歌が巧みでした。

初めての出仕は…皇族の血を引く名家/土御門左大臣(つちみかどの・さだいじん)/源雅信

(みなもとの・まさのぶ/宇多天皇の皇子である敦実親王の3男であり、宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道

長の正室である源倫子の父。)の娘/倫子姫(りんし・ひめ)のもとでした。その倫子姫の婿(むこ)に

なったのが、左大臣/藤原道長(/藤原氏全盛期を築く)だったのです。その縁があり、やが

て道長の娘/中宮・彰子にも仕える様になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(546)

赤染衛門は当代屈指の歌人ですが…

その歌からも分かる様に…人柄は穏やかであり…寛容で女性的であり…誰からも好

かれる…調和のとれた女性だった様です。

同僚の紫式部や和泉式部(/3人とも、第66代・一条天皇の中宮・彰子の女房・・・)とは、当然、親

しかったのですが…定子(ていし/第66代・一条天皇の皇后・・・関白内大臣/藤原道隆の長女。先に長

女/彰子を入内させていた道長は、このことで焦慮し、彰子の立后を謀る。政治的に対立・・・)の女房であった、

清少納言とも友人でした。



 7月 16日

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(547)

紫式部は『紫式部日記』の中で…和泉式部には厳しいことを言っている様ですし、清

少納言はボロクソに罵(ののし)っています。(/・・・これは、清少納言は政敵の定子の側の女房という

事があるのかも知れません。)

でも、赤染衛門は誉(ほ)めています。

男たらしの和泉式部…サッパリと聡明な清少納言…そして、寛容で敵のいない赤染

衛門の様な女性も…確かに…!

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(548)

赤染衛門の歌には風格があり…出しゃばらず…人格と表裏一体の古典的心が…歌

に詠まれる、という事でしょうか?

自由奔放/心の叫びの和泉式部とは、対極にあります。そして紫式部は、そうした女

性的な据(す)わりの良さを…ヨシとしたのでしょうか?

さすが、紫式部ですが、男性は清少納言を好みますよね?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(549)

そうそう…もう1人、典型的な女性像がありました…

『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者/右大将道綱母です。うーん…女性は彼女の様な嫉

妬深い女性に、共感を感じるのでしょうか?いつの時代にも、一定割合で存在するわ

けですよね。

ともかく…赤染衛門は、文章博士(もんじょう・はかせ/文章道を担当した大学寮の教官。728年に令外

官として設置。定員1人・・・奈良時代末に淡海三船が大学頭兼文章博士に任じられて以来、急速に権威が高まった)

/大江匡衡(おおえの・まさひら/菅原氏(菅家)と並ぶ学問の家柄で、菅原道真の失脚後に飛躍した。)の妻と

しても、模範的な女性だった様ですね。



 7月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(550)

ところで…

感情を鎮(しず)めた寛容的人格、良き妻、模範的な定型的女性が…感情の発露の表

現者/芸術家/歌人としては…どうなのでしょうか?

それゆえ、当時はともかく現代人から見ると…赤染衛門の歌は、大味、古風、安定し

過ぎで、面白みに欠けるとも言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                            赤染衛門 『前賢故実』より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(551)

対極的な…男たらし(/男好き、男との情事を好む)の和泉式部の歌は…

紫式部によれば…<口から出るに任せた歌のよう・・・>という事になりますが…

まさに、ほとばしる感情の発露たる叫びで、不安定そのものです。でも、詩情豊かな

彼女の歌は、キラ星のように輝き、千年後の現代でも、多くのファンがいますよね…」



 7月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1 小式部内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(552)

【60番 → 小式部内侍】(こしきぶの・ないし/は平安時代中期の女流歌人。掌侍(ないしのじょう/律令制における

                     女官の1つ)。女房三十六歌仙の1人。父は橘道貞、母は和泉式部。母の和泉式部と共に

                     一条天皇の中宮・彰子に出仕。そのため、母式部と区別するために、小式部という女房名

                     で呼ばれるようになった。)


★ 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立



  < 大江山を越えて行く…

           生野を通る、丹後への道は…

               はるかに遠く離れていて…

             まだ、天橋立の地を…

                   踏んだこともなく….

                         母からの手紙も…

                                まだ、見てはおりませんわ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 小式部内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(553)

「この歌は…『金葉集 - 雑』に、長い詞書(ことばがき)が付けられて載っています。

(★ 『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)とは・・・平安時代後期に編纂された勅撰和歌集、全十巻 )

詞書によると…

その頃、小式部内侍の母/和泉式部は…左大臣/藤原道長の信頼する家臣だった

藤原保昌と再婚し、一緒に任地の丹後(たんご/丹後国は京都府北部・・・丹後半島)へ下ってい

ました。都では歌合が催される事になります。



 7月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1 小式部内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(554)

小式部内侍(こしきぶの・ないし)は…物心がついた頃には、母/和泉式部は最初の夫/

橘道貞(たちばなの・みちさだ)とは離婚していた様です。

男たらしの和泉式部ですが、それにも増して、歌人としての名声が高かったのです。

やがて、時の権力者/道長のお声がかりで、道長の娘/中宮・彰子に母娘で出仕し

ます。

(/そこには、紫式部母娘も、赤染衛門もいたわけです・・・政敵の中宮・定子の側には、清少納言がいました。

第66代/一条天皇は・・・中宮・定子が第一皇子/敦康親王を出産。翌年2月25日、彰子が皇后に冊立され<中宮

>を号します。同年末、定子が難産で崩御した後は、名実共に唯一の后となります。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 小式部内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(555)

小式部内侍の境遇は…紫式部の母娘とよく似ていて、歳も同じ位と言われます。

彼女には…母譲りの美貌と歌才があり…弾ける若さもあって、宮廷の男達を魅了して

いた様です。そして中には…

<彼女の歌は、みな母親がこっそり代作してやっているんだよ・・・>

…との噂もありました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原定頼   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(556)

その様な折…母は丹後に下っていて、折しも都では歌合があり…小式部内侍も歌人

の1人に選ばれたわけですね。

さあ…小式部内侍の局(つぼね)にやって来た、歌人/藤原定頼(ふじわらの・さだより/権大

納言・藤原公任(三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は公任の撰)の長男・・・。中古三十六歌仙の1人・・・。『小

倉百人一首』では、【64番 → 権中納言定頼】)が…

<歌合の歌はもうお出来になりましたか。丹後への使者はもうおやりになりまし

たか・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             藤原定頼と小式部内侍 ・・・ネットより画像借用/『絵入 本朝美人鑑』 より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(557)

お母上からのお返事はまだ来ませんか。さぞお心細いことでしょうね・・・>

…などと、からかって去ろうとします。

<お待ち下さいませ!>

…と小式部内侍は…キッ、袖(そで)を引き、とっさに…


★ 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立


…と詠みました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             藤原定頼と小式部内侍 ・・・ネットより画像借用/『絵入 本朝美人鑑』 より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(558)

歌人である定頼は…この、とっさの機智(きち/その場に応じてとっさに働く鋭い知恵。ウイット。)に舌

を巻いた事でしょう。

大江山(標高832m/酒呑童子(しゅてんどうじ)伝説で知られるます。)は丹後半島(/京都府北部の日本海

に北東に突き出た半島)の手前の山で…

<いく>は…<行く>に<生野>(生野は丹後へ通じる道にある集落。生野神社のケヤキが有名。)を

かけた丹後への道中です。

<まだふみも見ず>の<ふみ>は…丹後の地を<踏み>と<文>にかけていま

すよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             藤原定頼と小式部内侍 ・・・ネットより画像借用/『絵入 本朝美人鑑』 より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(559)

<天の橋立>は…京都府宮津市の湾にある砂州で、日本三景(/① 松島=宮城県宮城郡

松島町を中心とした多島海  ② 天橋立=京都府宮津市にある砂嘴(さし) ③宮島(厳島) - 広島県廿日市市にある厳

島神社を中心とした島)の1つです。

うーん…小式部内侍は…

日頃から…母恋しさに、その道中の事や山々の事、天の橋立の事などを、人々から聞

き、自らも想像し、心を膨らませていたのでしょう…

現代のスマホの時代とは、大違いですね…



 7月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             藤原定頼と小式部内侍 ・・・ネットより画像借用/『絵入 本朝美人鑑』 より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(560)

小式部内侍のこの歌には…

<母に、代作なんか頼んでいません!>

…という、強い気迫がこもっています。ここで定頼も、気の利いた返歌で応じていれ

ば、才と才を認めあう名場面と成ったのでしょう。でも、彼の方は、尻尾を巻いて逃げ

出した様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             小式部内侍 ・・・ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(561)

定頼は…王朝全盛時代の花形貴族/歌人・歌論家としても有名な藤原公任(ふじわらの

・きんとう/【55番 → 藤原公任】)の長男です。父/公任は博学多才、血筋もよく、負けん気

が強く、自己顕示欲が旺盛でしたが…それが行き過ぎて…

<お妹さんの素腹の后(きさき/皇后)はお元気なの?>

…と痛切にやり込められています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             小式部内侍 ・・・ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(562)

この父子共々…歴史に記されるほどの<痛烈なしっぺ返し>を喰らうとは…歴史上、

コミカル(/喜劇的で、こっけいみのあるさま)なキャラ(キャラクター/性格、人格)ですよね。

実は…おそらく…定頼も、小式部内侍の才気と若さと美貌に、惚れていたのかも知れ

ません。だから、わざわざ、チョッカイを出しに行ったわけでしょう。



 7月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             小式部内侍 ・・・ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(563)

小式部内侍も…母が母ですから、かなり花やかな恋愛遍歴があった様ですね。

まず…藤原教通(ふじわらの・のりみち)の愛人となって子を産みます。教通は時の権力者

/藤原道長の息子(/5男)ですから、まさに権門の最高クラスの御曹司だったのでしょ

う。母譲りの美貌と才で、非常にもてたのが分かります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             小式部内侍 ・・・ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(564)

その後、教通とは別れ…滋井頭中将(しげのいの・とうの・ちゅうじょう)の愛人となり、その子を

産んだ時、産婦死亡します。25、6歳の若さだった様です。

紫式部の娘は、大弐三位(だいにの・さんみ)と呼ばれるまでに出世したわけですが、彼女も

もっと生きて欲しかったですね。母/和泉式部の悲しみは深かった様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             小式部内侍 ・・・ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(565)

『和泉式部集』に哀傷(あいしょう/人の死を悲しみ嘆くこと)の歌が載っています。

詞書に…

<小式部内侍みまかりて、むまご(孫)どもの侍(はべ)るを見て>

として…


★ とどめおきて 誰を哀れと 思ふらむ 子はまさりけり 子はまさるらむ



1人娘を失った、和泉式部の慟哭(どうこく/声をあげて激しく嘆き泣くこと)が、歴史の彼方から聞

こえて来ます…」