Community Space ボスの展望台ボスのTwitter文学響子の小倉百人一首<21~40>

         響子の・・・ 小倉百人一首  

     第 2 巻  < 21 ~ 41 >  (2015年/2月12日~4月4日)
 

               

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【21番→ 素性法師】  いま来むと 言ひしばかりに 長月(ながつき)の 有明の月を 待ちいでつるかな
【22番→ 文屋康秀】  吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
【23番→ 大江千里】  月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身1つの 秋にはあらねど
【24番→ 菅家】  

 このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 

                    紅葉(もみじ)の錦(にしき) 神のまにまに

【25番→ 三条右大臣】

 名にし負(お)はば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 

                       人に知られで くるよしもがな

【26番→ 貞信公】  小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
【27番→ 中納言兼輔】  みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ
【28番→ 源宗于朝臣】  山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
【29番→ 凡河内躬恒】  心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる 白菊の花
【30番→ 壬生忠岑】  有明(ありあけ)の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂(う)きものはなし
【31番→ 坂上是則】  朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪
【32番→ 春道列樹】  山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
【33番→ 紀友則】  久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
【34番→ 藤原興風】  たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
【35番→ 紀貫之】  人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
【36番→ 清原深養父】  夏の夜は まだ宵(よい)ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
【37番→ 文屋朝康】   しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
【38番→ 右近】  わすらるる 身をば思はず 誓ひてし 人のいのちの 惜しくもあるかな
【39番→ 参議等】

 浅茅(あさぢ)(ふ)の 小野の篠原(しのはら/篠竹の生えている原。ささはら。) 

                  しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

【40番→ 平兼盛】  忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
【41番→ 壬生忠見】  恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか

 

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 2月 12日 

岡田健吉‏@zu5kokd1 素性法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(156)

【21番→ 素性法師】(そせいほうし/平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。

                                           僧正遍昭(良岑宗貞)の子。俗名は諸説あるが、一説に良岑玄利(よしみねのは

                                   るとし) 三十六歌仙の1人


★ いま来むと 言ひしばかりに 長月
(ながつき)の 有明の月を 待ちいでつるかな



< あなたが…

        すぐ行くよとおっしゃったばかりに…

                秋の夜長を、私はずっと待ち焦がれ…

             とうとう…9月の有明の月が出るまで…

                       むなしく時を過ごしました… >




 2月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1 素性法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(157)

「このは…

男性女の気持になって詠んだものです。恨み節も漂う、歌の虚構性お遊

です。

素性法師は…9世紀後半から10世紀初めの人で、三十六歌仙の1人ですから、

力歌人だった様ですね。平明口調のいい分かりやすい歌が多いと言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 素性法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(158)

素性法師父親は…

【12番→ 僧正遍昭】


★ 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ


…を詠んだ人です。

父親出家した時、素性はまだ少年でした。それから成人し、第56代/清和天皇

に仕えていたのですが…ある時、会いに行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1素性法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(159)

すると、僧正遍昭は…

「法師の子は法師になるのがよいのだ」

と言い、僧侶にされてしまった…と言います。

素性さん人生の岐路に悩み、仏門にあった父を訪ねたのでしょうか?そして、

と同じ様に仏門に入り、風雅に生きる道を選んだ様ですね。

(/清和天皇のもとで・・・左近将監(さこんのしょうげん/・・・左近衛府の三等官。従六位上相当。)まで昇進しまし

たが、父親の命令で出家して雲林院(うりんいん/京都市北区紫野にある臨済宗の寺院)別当(/本官をもつ人が

他の職務の統轄に当たるときに補任される職名)に任ぜられました。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1素性法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(160)

『古今集』 に、<花ざかりに京を見やりてよめる 素性法師>として、有名な歌

があります。


★ 見わたせば 柳桜を こきまぜて みやこぞ春の 錦なりける


素性法師はのち、大和国/石上
(奈良県天理市)良因院住持になります。父/遍昭

と同様、人々に愛される人柄だったようですね。

 

 2月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(161)

【22番→ 文屋康秀】(ふんやのやすひで/平安時代前期の歌人。官位は正六位上・縫殿助(ぬいどのすけ)六歌

                   仙の1人)


★ 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ



< 山風が荒々しく吹き、秋の草木が萎れてしまう…

         嵐とはよう言うたもの、山風と書いて嵐と読むとは…

                 さて、これも納得だが…秋の山風が身に沁むわい… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(162)

『古今集 - 巻5/秋の歌』下の巻頭<是貞親王の家の歌合の歌>として載

っています。

文屋康秀という名前は現代風ですが、9世紀半ば頃の人です。三河山城などの

三等地方官を経て、縫殿助(ぬいどのすけ)に至っています。皇族権門の一族と比べ

れば、低い身分です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(163)

でも、六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)1人ですから、

評判が良かったのでしょう。あ、でも紀貫之は、自分で六歌仙に挙げておきながら、

辛口です…

<文屋康秀は、詞(ことば)はたくみにて、そのさま身におはず。いわば、商人の

よき衣着たらむがごとし>

…と評しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(164)

つまり…

詩句の使い方は(うま)が、内容がともなわない。いわば、商人立派な衣装

着て身を飾ったようなもので、中身に品がない…つまり、ボロクソの評です。

でも…気を抜いた気楽な歌で、駄作の様に見えつつ…古来より不思議に民衆に愛

されて来ました

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(165)

『古今集』撰者(/紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人・・・中心は紀貫之。)たちは…

“秋歌上”冒頭に、立秋の風の歌を配したので…“秋風下”巻頭にも、晩秋の山

風の凄さを配し、この歌を採った様です。立秋の歌 【22番】 藤原敏行の…


★ 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる



…です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(166)

六歌仙の1人/小野小町は…

同じ六歌仙在原業平肘鉄砲を食わせ…出家して行方不明僧正遍昭清水

で見破っていますが…文屋康秀ともエピソードがあります。

康秀小町と仲が良かった。康秀三河の国三等官赴任する時、一緒に行か

ないかと誘いました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋康秀        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(167)

その誘いに、小町歌で返答します。


★ わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ



< そうね、この頃は…

         浮草みたいに、根なし草になって…

                 水の誘うまま、何処かへ出かけたい気持です… >


結局…小町行かなかった様です。

 

 2月 16日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大江千里        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(168)

【23番→ 大江千里】(おおえのちさと/) 


★ 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身1つの 秋にはあらねど



< 秋の月を見れば、物思いさまざま…

          心は千々に乱れて、うら悲しい…

                   私1人のために、秋が来たのではないけれど… >


岡田健吉‏@zu5kokd1  大江音人         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(169)

「このは…

『古今集-秋』<是貞のみこの家の歌合によめる>として載っています。前の

【23番】“むべ山風の歌”と、同じ歌合の時に作られた様です。

大江千里は…漢学者/歌人、そして、在原業平です。大江音人(おおえのお

とんど、おとひと/1説で、阿保親王(/平城天皇の第1皇子)の長子。従三位・参議、江相公・・・<承和の変・・・

廃太子を伴う政変>に連座して一時尾張国に配流された)漢学者漢学者の家系(子の、千里、千古

ともそうそうたる漢学者で、その子孫はよく逸材を出した。)ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大江千里        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(170)

千里には 『句題和歌』(くだいわか)という歌集があります。宇多天皇勅命で、漢詩の

を題にして和歌を詠み、献上したものです。

そこで、このは…『白氏文集』(はくしもんじゅう、はくしぶんしゅう/・・・中国・唐の白居易の詩文集。)

漢詩翻案(ほんあん/既存の事柄の趣旨を生かして作りかえること)したと言われています。


燕子(えんし)楼中(ろうちゅう) 霜月(そうげつ)ノ色

秋来ツテ 只(ただ)一人ノ為(ため)ニ長シ


うーん…



 2月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1 大江千里        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(171)

千里生きた時代とは…

9世紀末~10世紀初頭・・・宇多・醍醐朝の時代(887年~930年)・・・

日本では…中国文化の影響を抜け出し、日本古来の文化が見直された頃です。

は、女手の文化和歌熱心になりはじめ…女達も、男に負けずに漢詩文に親

しみはじめていました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大江千里        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(172)

『源氏物語』紫式部や、『枕草子』清少納言が活躍した時代よりも100年ほど

前です。その時代に漢詩を読み、和歌を詠む千里の才は人々に愛された事でしょう。

千里の父/音人は…在原業平異母兄業平小町遍昭など六歌仙この時代

の人々です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              
                           「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第82段の「ちればこそ いとどさくらは め

                           でたけれ…」の歌にあわせた景を描く。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(173)

大江(/“大枝”から“大江”へと改姓している。枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)

事にも繋がり、不吉であるとの理由。しかし“大枝”姓は桓武天皇より賜ったもので、全面的に変更するわけにもいか

ず、読み方はそのままで、漢字だけ変えた。)家系は…

東宮(とうぐう/皇太子、皇太子の住む宮殿)天皇侍講(じこう/主君に仕えて儒書その他を講義して君

徳を養うこと。または、それを役目とする職名。)代々つとめる家柄です。でも、音人異母弟

業平は、堅苦しい経学(けいがく/儒家の作った経典(四書・五経など経書)を研究する学問)苦手で、

逆に一族世間から目立っています。

『三代実録』(さんだいじつろく/『日本三代実録』は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあ

たる。清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である858年~887年までの30年間を扱う。)では…

<業平(なりひら)体貌(たいぼう)閑麗(かんれい)、放縦(ほうじゅう)ニシテ拘(こだ)ハラズ、

(ほぼ)才学(さいがく)無キモ、善(よ)く倭歌(わか)作ル>

とあります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 大江千里        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(174)

つまり…

業平上品な美男で、奔放な性格、ほぼ漢学の才はないが、和歌の名人だった…

ということです。当時の男達は、漢学の素養第一です。

史書(/歴史書・・・六国史<略才学無キ>と、あえて記録される方もナンですが…

に関しては、千里業平足元にも及びませんよね…」



 2月 18日

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(175)

【24番→ 菅家】(かんけ/(菅原道真の尊称)・・・宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左

               大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没しました。死後天変地異

               が多発したことから、朝廷に祟(たた)りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は

               問の神として親しまれます。)  


★  このたびは 幣
(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 

                    紅葉(もみじ)の錦(にしき) 神のまにまに


< このタビの旅は、慌しく発ちましたから…

           幣の用意もできませなんだ…

                     手向山の神よ、この見事な美しい紅葉の錦を…

      私の捧げる幣として、御心のままにお受け下さい… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(176)

「まず…菅家(かんけ)というのは、菅原道真尊称です。

『古今集 - 巻9/羇旅(きりょ)』 に…

<朱雀院(/宇多上皇)の奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよみける>

…として載っています。

あ、(ぬさ)とは…神道で用いる御幣(ごへい)で、2本の紙垂(しで/特殊な断ち方をして折った

紙)または幣串(へいぐし)に挟んだものです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(177)

道真<天神さま>として、古来より親しまれていますね。学問の神様としても

されています。

このを詠んだのは、権大納言・右大将/54歳で…生涯の絶頂期間近登り坂

の時です。翌年右大臣となり、左大臣藤原時平と、首班争う事になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(178)

藤原時平は…

関白/基経の長男…後の宇多院京極御息所/褒子(ほうし)父親です。

もっとも…この頃は、宇多天皇時平もまだ若い頃です。宇多天皇は、勢力のある

老臣/基経(・・・そして背後にある藤原氏の勢力)煙たくてならない。そこで、学才・識見・高

潔な人格道真を…大抜擢重用して来たわけです。



 2月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(179)

道真は…

先祖代々学者の家に生まれ、学者として最高文章(もんじょう)博士になります。ま

父祖伝来私塾/“菅家廊下(かんけろうか)を主宰、多くの学者を育てました。漢詩

・和歌も巧みでした。もし道真が、学者・詩人として生涯を全うしていれば…幸福な一

だったでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(180)

でも…

若くヤル気満々宇多帝は…老臣・関白/基経重石(おもし)と、藤原氏の勢力

何とも邪魔でした。

道真高潔な人格で…藤原氏専横(せんおう/好き勝手に振る舞うこと)は目にあまり、

新風を入れようとする宇多帝期待に応えます。

当然、藤原氏の側は…儒者上がりめ…と排斥を模索します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(181)

醍醐帝においても、道真順調昇進を続けます。

でも、道真の主張する中央集権的財政運営は、朝廷への権力集中を嫌う藤原氏

など、有力貴族反発し始めます。他の貴族も、改革に不安を持つ者もありました。

道真は…右大臣(/太政大臣、左大臣の次に位し、政務を統轄した。正従二位相当官)昇進し、右大

(/右近衛大将(うこんえのだいしょう)右近衛府の長官。左近衛府とともに、武器を持って宮中の警護、行幸の

供奉(ぐぶ)などをつかさどった役所。)兼任します。

 

 2月 20日

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(182)

ここで重要になるのが…

31歳の若さでの宇多帝退位と、13歳皇太子/醍醐帝即位です。これが

運命を激変させ、<天神さま>生み出すことになります。

宇多院若くして退位したのは単純明快で、要するに、根っからの遊び好きだった

のです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(183)

窮屈(きゅうくつ)皇位イヤな上に、いよいよ道真を付けて来ました。皇太子に、

<道真のいうことをよくきくんだよ>

…と言い聞かせ、皇位を下りてしまわれます。

その後の65歳の生涯は、放埓(ほうらつ/馬が埒(らち)から外に出る意・・・勝手気ままに振る舞うこ

と。)遊蕩(ほうとう/酒や女遊びにふけること)ぶりです。法皇の身で、時平の娘/褒子

れ去ったのが好例でしょう。



 2月 21日






岡田健吉‏@zu5kokd1                  
                                                               三善清行・・・ 菊池容斎前賢故実』 より

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(184)

道真右大臣となった翌年でしょうか?

三善清行(みよしのきよゆき/平安時代中期の公卿、漢学者。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのた

めに官位が停滞したといわれます。)が…

<止足(しそく/足を止める)を知り・・・引退して生を楽しむよう>

…に諭しますが、道真はこれを容れません。

(/・・・摂政・関白だった基経はすでになく、時平はまだ若く、藤原氏の勢力を抑える意図があったと思われます。)

宇多上皇は間もなく落飾されます。仏門に入り法皇となれば、もう政治には介入でき

ません。左大臣/時平は、この時を待って動き出します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                    
                                                              誣告される・・・菅原道真 ・・・ネットから 画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(185)

時平醍醐帝を抱き込み…

<道真は皇弟を擁立する、謀反を謀っておりますぞ!>

…と誣告(ぶこく/故意に事実を偽って告げること。)します。

道真はただちに太宰権帥(だざいの・ごんのそち/大宰府は大宰帥を長官とし、権帥を長官代理とする。

帥は皇族が列せられ、実質的な支配権は権帥が握った。大宰権帥と大宰府の次官である大宰大弐を同時には任

命できない。)左遷され、息子らも土佐駿河に流され、に置かれます。

宇多院が駆けつけても、醍醐天皇面会しませんでした…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              
                           配流の・・・菅原道真・・・ネットから 画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(186)

当然、時平の手が回っています。権力の移譲の難しい所です。一旦譲れば、後の祭

なのです。

第45代/聖武天皇から皇女/孝謙天皇へ…そして光明皇后=光明子のいた時代と

は…様相が異ります。

高潔な学者と、権謀術数の本家藤原氏とでは、元々勝負になりません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(187)

道真筑紫配所念仏詩作の日々を送ります。その年9月9日道真が歌い

ます…


< 去年ノ今夜、清涼(せいりょう/清涼殿・・・平安京の内裏のうち、天皇の日常の居所。)二侍(じ)ス。

秋思(しゅうし)ノ詩篇、独リ断腸。恩賜ノ御衣(おんしのぎょい)、今ココニアリ。捧ゲ持チ

テ毎日、余香(よこう)ヲ拝ス >


道真無実の罪を晴らす術もなく、配所の筑紫59歳で没します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                           宇多法皇・・・画像をカット加工

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(188)

さあ…遊び人宇多院に話を戻します…

宇多院放埓(ほうらつ/馬が埒(らち)から外に出る意・・・勝手気ままに振る舞うこと。)ですが、文学好

でもあられました。宮中でよく詩酒(ししゅ/詩を作り酒を飲むこと)の宴を開かれ、皇后

合わせをしばしば催されました。

この文学的機運の高まりが、やがて 『古今集』 へと続き、“古今集前夜の時代”と言

われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                      
『古今集』・・・パブリックドメイン: 著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(189)

あ、参考までに言いますと…

よく引合いに出す 『古今集』 は、正式には『古今和歌集』です。第60代/醍醐天皇

勅命による勅撰和歌集(/天皇や上皇の命により編集された歌集です。

そして 『小倉百人一首』鎌倉時代・初期藤原定家撰集し…定家『新古今

= 新古今和歌集』(/後鳥羽院の命による勅撰和歌集)撰者の1人です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      
                           『万葉集』・・・・・ネットより写真借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(190)

ついでに言いますと…

『万葉集』 は、7世紀後半 ~ 8世紀後半1世紀に及ぶ編纂(へんさん)で…783年

に…大伴家持(おおとものやかもち)によって、実質的に完成された、とされます。

(/・・・『万葉集』はすぐに公に認知、とはなりませんでした。785年の家持の死後、すぐに大伴継人らによる藤原

種継暗殺事件があり、すでに亡くなっている家持も連座したからです。『万葉集』という歌集の編纂事業は、恩赦に

より家持の罪が許された、806年以降にようやく完成した…と推測されます。)

平安時代は、794年桓武天皇の平安京遷都が始まりですから…『万葉集』 は、

太古 ~ 奈良時代までの歌…になりますよね。



 2月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(191)

本題に戻って…


★ このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに


…のですが…898年10月20日宇多上皇
(/落飾して法皇になるのはこの後。)吉野

宮滝(/・・・奈良県/吉野郡/吉野町/宮滝)へ出かけられた時、お供をした道真が詠みま

した。

<幣(ぬさ)神主お祓(はら)の時に持つ白い紙ですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(192)

白い紙垂(しで/特殊な断ち方をして折った紙)に挟んだものは、御幣(ごへい)と言います。

でもこの時代(ぬさ)は、色の絹小さく切ったものの様です。旅ではそれを幣袋

(ぬさぶくろ)に入れ、峠で撒(ま)旅の無事を祈ったと言います。

道真の…峠で紅葉を幣として撒くという思いが…きらびやかに詠まれています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(193)

<手向山(たむけやま)固有名詞の山ではなく、神の鎮(しず)まります峠の事です。

旅の安全を祈るは、昔は神聖な場所でした。そんな所にも道祖神(どうそじん/路傍の

神)が置かれたのでしょうか。

道真54歳絶頂期間近の権大納言(ごんだいなごん/大納言の権官。定員外の大納言。)

右大将…この翌年から、時平台閣(たいかく/国家の政治を行う機関)首班(/第1の席次)

を争う事になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(194)

配流となった道真は…

失意の中で、2年後/59歳で、淋しく没します。にいる親友紀長谷雄(きのはせお

/平安時代前期から中期にかけての公卿・文人。『竹取物語』の作者の候補者の1人であり・・・『長谷雄草紙』の主

人公。)詩稿が届けられます。これは、悲痛な美しい詩集/『菅家後集』(かんけこうしゅ

う)として今に残ります。

以後…<道真の怨霊(おんりょう)時平の一族若死させ、宮中(いかずち)を落

としたという話は、古来有名です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(195)

道真の死後疫病がはやり、日照りが続き、醍醐天皇皇子相次いで病死しま

す。また宮中/清涼殿<落雷>があり、多くの死傷者が出ました。朝廷道真

の祟(たたり)りだと恐れ、道真罪を赦し贈位を行います。

この清涼殿落雷事件から…道真の怨霊<雷神>と結びつくわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 菅原道真        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(196)

京都北野の地には…

平安京西北/天門の鎮(しず)として、もともと火雷天神が祀(まつ)られていまし

た。朝廷はここに北野天満宮を建立し、道真の祟りを鎮めようとします。また太宰府

の墓所にも、太宰府天満宮が建立されます。道真の怨霊を、極度に恐れていた

子がうかがわれます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              
                           配流の・・・菅原道真・・・ネットから 画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(197)

天神信仰は…<天神/雷神>に対する信仰ですが…道真<天神様>として

の対象となります。東京にも、上野/不忍池の近くに、湯島天神(/湯島天満宮)があ

りますよね。

ええと…道真京の都去る時に詠んだ惜別(せきべつ/別れを惜しむこと)の歌です…


★ 東風(こち)ふかば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ


< 春風が吹いたら、梅の花よ

          香りをその風に託して、大宰府まで送り届けよ…

                    主人である私がいないからといって

                             春を忘れてはならないぞ



 2月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(198)

【25番→ 三条右大臣】(さんじょう・うだいじん/・・・藤原定方。平安時代前期から中期にかけての貴族・

                     歌人。内大臣/藤原高藤の次男。醍醐天皇の外叔父甥の敦仁親王(醍醐天

                     皇)の即位に伴い右近衛少将と累進を重ねた。三条に邸宅があり三条右大臣と

                     呼ばれた。) 


★ 名にし負(お)はば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 

                       人に知られで くるよしもがな


< 暗示的な名前だと思わないかい、

                  逢坂山のサネカズラというのは…

            逢坂山の“逢う”と、サネカズラの“さ寝”なんてさ…

                          そういえば、サネカズラは蔓草(つるくさ)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(199)

ツルをたぐる様に人目につかず、クルクル巻いて…

                     クル、手立てはないものかねえ… >


技巧的で…このウイット
(/気のきいた会話や文章などを生み出す才知。機知。)その種の才

がないと、理解されにくいですね。また、当時は面白くウケたとしても、全てが複雑

した現代社会では、面白くも何ともない…のかも知れません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(200)

ても定家が選んだわけです…

またをもらった女性も、思わず口元がほころぶ気のきいた歌だったのでしょう。

代の空気才能、そして人間の素朴な感受性でしょうか…

このは…『後撰集 - 巻11/恋の部』 に、<女のもとにつかはしける>として載

っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(201)

作者三条右大臣は、藤原定方と言います。内大臣/藤原高藤母方は身分

の低い山科の豪族です。

この父/藤高豪族の娘の間には、『今昔物語』ロマンスがあります。高藤

い頃鷹狩りに出かけた山科雷雨に会い、近くの邸(やしき)雨宿りをします。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(202)

そして、はからずもその屋敷の娘一夜を過ごしました。

その後、を恋しく思いながらも事情があり、再会できませんでした。何年かしてよう

やく高藤が訪れると、はいよいよ美しくなり、横に可愛い小さな女の子がいました。

一夜の契(ちぎり)でできた女の子です。



 2月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(203)

純情高藤は喜び、母子(やしき)に引き取ります。そして生涯他に妻は持たず

定国定方という2人男子をもうけます。この定方が、この歌の作者です。

藤原高藤は、さしたる業績は残していませんが、一夜の雨宿りで生まれた姫君が、

一家大幸運を運びます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(204)

雨宿りの姫君は年頃になり、源定省(みなもとのさだみ)という官吏結婚します。

定省光孝天皇第7皇子ですが、光孝天皇即位する時に子女(/息子と娘)

て臣籍降下(しんせきこうか)し、皇位継承しない事を表明しています。

ところが…

光孝天皇病気を得て、に伏し…にわかに、皇位継承問題再燃し始めます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                           宇多天皇・・・画像をカット加工

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(205)

でも、実力者/藤原基経(/摂政・関白を務めた老臣ですが、官位は色々・・・)は…大御心(おおみ

ごころ/天皇の心を敬っていう語・・・天皇の意志)定省にあるとし、朝議(/朝廷の評議)一決

ます。

源定省皇族に復帰皇太子となり、天皇崩御されると、皇位につき、第59代

/宇多天皇となります。

雨宿りの姫君は…皇后とはなれずに女御(にょご/皇族でもなく、光明子のように権門の貴族でも

ないため、皇后・妃の下の女御ということでしょうか?)とますが、2人の間の子第60代/醍醐天

になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(206)

さあ…

藤原高藤はどんどん昇進します。宇多天皇が若くして譲位し、醍醐朝の治世になる

内大臣になります。そして、息子定国定方立身を遂げます。

定国政治の方ですが、定方管絃の道名高い文化人となり…当時の歌壇

の中心的人物の1人です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              
                           醍醐天皇・・・画像をカット加工

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(207)

醍醐天皇は…

母君に、雨宿りの姫君の話を何度も聞かれた様です。その故地(こち/昔からの縁故のある

土地)に、

<死後の陵(みささぎ/天皇・皇后などの墓所・・・御陵。)はそのあたりに>

…と遺勅(いちょく/後世に残された勅命)がありました。豪族の家勧修寺(かじゅうじ/京都市山

科区にある門跡寺院。)となり、高藤系氏寺(うじでら/特定の氏族一門が帰依し、祈願所または菩提所

とした寺院。)になりました。

定方は…右大臣にまで登りますが…この若い頃のものですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条右大臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(208)

この時代は…

は…人目を忍んで女のもとへ通う…のが慣わしです。

しだいに人の噂にも上り、通うのが難しくなります。かといって、大っぴらに通うほど

もない頃…<人知れずに通う方法はないものか?>…ということを、いかにも技巧

に詠んだものですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1          
                   
さねかずら・・・ ネットより写真を借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(209)

<くるよしもがな><くる>は…定方の心女のもとにあるから、<くる>にな

ります。英語にも、この言い回しはありますよね。

<さねかずら>は…ビナンカズラ(美男蔓)ともいい、昔はツルから粘液をとって整髪

にしました。のある赤い実は、ブドウ粒がボール状につきます。


 2月 25日

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(210)

【26番→ 貞信公】(ていしんこう/・・・藤原忠平(ふじわらのただひら)・・・藤原基経の四男。兄・時平の早世

                 後に朝政を司る。朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初

                 期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。

                 平将門(たいらのまさかど/平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王

                 の3男・平良将の子。桓武天皇5世。)は忠平の家人として仕えていた時期もあります。


★ 小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆき待たなむ



< 小倉山の紅葉よ、心あるならば…

      その美しさをそのままに、どうか散らずにいて欲しい…

           もう一度、帝の行幸があるので、その日まで待っていて欲しい…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(211)

「このは…『拾遺集(しゅういしゅう) - 巻17/雑秋』に載っていています。詞書(ことばが

き)に…

<亭子院(ていしいん/宇多天皇のこと/本来は・・・宇多天皇の譲位後の後院。東七条宮とも称し、宇多天皇

の中宮/藤原温子の御所です。池の中に亭(/亭子・・・あずまや)を設けていたことから、亭子院と呼ばれました。

亭子院歌合、亭子院酒合戦など著名な文人や大宮人を召いては宴や催しが行われたことで知られます。)、大井

川に御幸(みゆき/帝・上皇・法皇・女院の外出。)ありて、行幸(天子/帝の外出。)もありぬべき

所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して 小一条太政大臣(/邸にちなみ小

一条太政大臣と呼ばれました。忠平は宇多上皇の信任厚く、その皇女/源順子を妻としています。) 貞信公>

…とあります。

貞信公とは…藤原忠平死後の贈り名(/諡号(しごう)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(212)

つまり…


<宇多院が大井川に御幸され、小倉山の紅葉の美しさに感じ入られて、これはぜひ

醍醐帝にもお見せしたいと仰せられたので…お供をしていた藤原忠平が…さようで

ございますなあ、その旨(むね)、主上(おかみ)に奏上(そうじょう)致しましょう… >


 …と言い…この歌を詠んだ様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(213)

天皇大井川行幸は、醍醐天皇の時に始っています。

この大井川は、京都西を流れる桂川です。嵐山から上流大堰川(おおいがわ)

大井川下流桂川/葛河(かつらがわ)と称された様です。

『土佐日記』(/平安時代前期・・・紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を、虚構を交えて綴った日

記文学)では“桂川”『日本紀略』(/神代から後一条天皇の長元9 (1036) 年までの編年体の歴史書。

平安時代後期の成立。)では“大堰川”『徒然草』(/兼好法師による、鎌倉時代後期の随筆。)では

“大井川”の記載があります…


 2月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(214)

<小倉山>は…京都市/右京区/嵯峨(さが)亀ノ尾町にあり…桂川(かつらがわ)

北岸に位置します。南岸には嵐山があります。

小倉山標高286mで、平安期には山麓貴人の隠棲地(いんせいち/俗世間を逃れて静

かに住む所。)でした。『小倉百人一首』小倉は、定家ここの山荘百人一首撰集

したことに由来します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(215)

うーん…このは、詞書ナシでは意味の掴めない歌ですよね。

でも、そこが分かると…

天皇上皇、そして殿上人(てんじょうびと/清涼殿の殿上の間に昇ることを許された人。)心のやり

とりの中に…桂川嵯峨野(さがの)嵐山、そして小倉山清々(すがすが)しい紅葉風

が浮かんで来ます。古の風雅(いにしえのふうが)が、今も歌の中から漂って来ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(216)

王朝時代は、風流,風雅の時代です。この日本的情緒は、この頃から濃くなった様で

す。宇多院もこの美しい景色を、我が子/醍醐帝にも、見せたかったのでしょう。

醍醐帝は…いつもニコやかで、和歌をよくし、『古今集』撰進紀貫之らに命じてい

ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  貞信公           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(217)

歌の作者/藤原忠平は…基経(もとつね)4男です。

道真を陥(おとしい)れた時平女流歌人/伊勢の愛人の仲平【19番→伊勢】とは、

母兄弟です。3兄弟3平(さんひら)と呼ばれ、人気者だった様です。

忠平は…早逝(そうせい/若くして死去すること)した兄/時平と違い温和な性格で、摂政12

年・関白8年を務め、藤原氏全盛(もとい)を築きます。



 2月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1  中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(218)

【27番→ 中納言兼輔】(ちゅうなごん・かねすけ/平安時代中期の公家・歌人 賀茂川堤に邸宅があったこ

                     とから堤中納言とよばれた。三十六歌仙の1人。当時の歌壇の中心的な人物。紀

                     貫之や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)など多くの歌人が邸宅に集まった。家

                     集に『兼輔集』がある。紫式部の曽祖父でもあります。)


★ みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ



< 甕(みか)の原を、2つに分けて溢れる泉川よ…

      川の名のように…

           あなたをイヅミ/いつみき/何時(いつ)見た、のでしょう…

                まだ見ていないのに、何故(なぜ)これ程に恋しいのか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(219)

「このは…『新古今集』兼輔(かねすけ)として載っています。

でも『兼輔集』には存在しません。詠み人知らずの歌『新古今集』撰入する際、

定家誤ってか、意図的にか、兼輔作とした様です。藤原兼輔三十六歌仙の1

歌壇のパトロン的存在で…『源氏物語』を書いた紫式部(そう)祖父になりま

す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(220)

<みかの原>は…山城国(やましろのくに)相楽郡(そうらくぐん)/京都府木津川市加茂地

です。

第45代/聖武天皇が…741年、ここに恭仁京(くにきょう)造営されました。3年余

で、この時期は奈良から方々に、彷徨(ほうこう)する様に遷都(せんと/・・・遷都の理由は、

大きな天変地異や、衛生面から来る疫病の流行、社会混乱、気分一新などのためです。/3年後の、744年には

波京に遷都・・・さらに、1年後の745年には、都は平城京に戻されます。)しています。

<みかの原>には、もともと離宮があり…泉川木津川(きづがわ)古名です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(221)

うーん…<みかの原> <わきて流れる> <いづみ川>

これは…山城国/恭仁京の大地を詠んだなのでしょうか?

旅に出る前に、彼の地を想像してワクワクし…やがて、ああこれが、あの枕詞(まくらこ

とば/)の地か…という様に。特に、写真の無い当時は、旅の大きな楽しみですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(222)

でも…王朝の時代には、(あ)わざる恋という恋愛テーマがありました。まだ見ぬ

深窓(しんそう)の姫君に憧れ、恋文を贈り、求愛するわけですね。

一方…年頃の姫君のいる家では、(はく/金属をごく薄く打ち延ばしたもの。金箔・銀箔・錫箔など)

を付ける(/重みを加える、貫禄を付ける)ために親側(うわさ)を流します。お付きの女房

や、出入りの人を使い、美貌(びぼう)を流します。

はどうやら、こっちの方のようですね。



 2月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(223)

自分の側から(うわさ)を流すと言うのは…何となく、ネット社会小型版ですね。

元良親王【20番】が、宇多院京極御息所(きょうごくみやすんどころ/褒子(ほうし)不倫

し、歌に詠むというのは、ネット投稿小型版の様です。

うーん…当時の噂機能社会性は、現代ネット社会と非常によく似ていますよ

ね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(224)

ともかく、そうやって…

男たちは、まだ見ぬ深窓(しんそう)の姫君心を熱く焦(こ)がし恋文恋歌を贈り続

けます。姫君の親は、そうした中から、この男ならば、身分・人柄も申し分なし、とな

るわけです。ただ、在原業平高子姫/二条后(にじょうこう/清和天皇女御、のち皇太后。摂政

・関白/藤原基経の同母妹。)のように…勝手燃え上がる恋(/『伊勢物語-二条后』もある様

ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 中納言兼輔      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(225)

は…デマ(/根拠のない、いい加減な噂話のこと)もあります。

『源氏物語』の中で、光源氏失敗します。忍びこみ一夜を過ごすのですが、朝にな

って姿を見て<いや、しまった!>となり/…原典では<胸つぶれぬ>となりま

す。王朝時代現代とは真逆で…奥ゆかしい恋文や、恋歌のやりとりが中心です。」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源宗于朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(226)

【28番→ 源宗于朝臣】(みなもとのむねゆき・あそん/平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。

                     光孝天皇の皇子/是忠親王の子。娘に閑院大君/歌人がいる。三十六歌仙

                     の1人。)


★ 山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば



< 山里はいつも淋しい…

         とりわけ冬の、枯れすがれたあり様は、身に沁(し)む…

                  草は枯(か)れ…人は離(か)れる…

                          往き来する人の姿も、絶え果てて… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原公任         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(227)

「このは… 『古今集 - 巻6/冬』 に載っています。

作者源宗于(みなもとのむねゆき)は、三十六歌仙の1人です。この三十六歌仙という

のは、平安時代中期第66代/一条天皇の頃…藤原公任(ふじわらのきんとう)選定

した36人の歌人です。第60代/醍醐天皇より、6代後の時代の事です。



 3月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1 源宗于朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(228)

ええ、源宗于(みなもとの・むねゆき)は…

第58代/光孝天皇皇子/是忠親王(これただしんのう)で、臣籍降下源姓とな

っています。『大和物語』では、かなり活躍しているそうです。

宗于は…地方官を経て右京大夫(右京職(うきょうしき)の長官。正五位上相当。)になっています。

官位進まないので、宇多天皇にそれとなくを奉(たてまつ)っています…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源宗于朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(229)

それが…


★ 沖つ風 ふけゐ(い)の浦に 立つ浪の なごりにさへや われはしずまむ



< 吹井
(ふけい)の浦に、沖から風が吹いて、波が立ちます…

     波は岸を洗いますが、私は岸へ寄る事もなく、沈んだままでございます…

          このまま浮き上がるということは、ないのでございましょうか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源宗于朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(230)

うーん…

つまり…そんな事を言っていられる、身分・人格だったわけですね…

在原業平もそうですが…“どちらも”とは…なかなか行かない様です。その分、色々な

恋歌を贈ったり、贈られたりして…

そして…年齢を経て足元を見た時…この歌の風景に重なる様な現実が… 」



 3月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(231)

【29番→ 凡河内躬恒】(おおしこうちのみつね/平安時代前期の歌人・官人。三十六歌仙の1人『古今

                     集』を撰集した1人。官位は六位で、和泉大掾和泉(いずみのくに)は、かつ

                     て日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。(じょう)は、国司

                     の三等官で、中央政府における“判官”に相当する。大国と呼ばれる最上級の令

                     制国には特に大掾・少掾が設置された) 


★ 心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる 白菊の花



  < 初霜で真っ白になってしまった…

         白菊の花が、分からないじゃあないか…

                 あて推量で、折るなら折れるかも知れないが…

                         一面、白い中の白菊だからなあ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(232)

「このは…

『古今集 - 巻5/秋歌下』<白菊の花をよめる>として載っています。同様の趣

で、躬恒(みつね)春の歌もあります…


★ 月夜には それとも見えず 梅の花 香をたづねてぞ 知るべかりける



白々とした月光のもと、白い梅の花がよく見えないと言いいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(233)

うーん…

こうした単純で子供のような機知(きち/ウイット。その場その場に応じて活発に働く才知。頓智(とん

ち)は…裏返せば人生の深みが香ります。こうした繊細な驚きの中に、王朝時代

風雅の心があったのでしょうか。

現代人のいる….物欲・欲望・薄っぺらな大量消費のパラダイムでは…時空間その

ものが異質の響きです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                      
                    
正岡子規・・・詰襟ですから、帝国大学(東京大学)国文科の頃でしょうか。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(234)

俳人・歌人・国語学研究家である正岡子規(まさおかしき/明治時代を代表する文学者の1人。死を

迎えるまでの約7年間は結核を患った。享年34歳。<・・・詳しくはこちらへどうぞ>は…

この躬恒(みつね)を、<1文半文のねうちもこれなき駄歌(だか)に御座候(ござそう

ろう)とけなしています。でも、【6番→ 中納言家持】の…


★ かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞふけにける


…の(ほ)ています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1          
                           わらじの緒を結ぶ正岡子規・・・明治25年/箱根の旅>  
<詳しくはこちらへ>

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(235)

躬恒は…些細(ささい)なことを大げさに詠んだもので無意味であり…虚構なら

のように、大ウソをつくのが面白い…と言います。

ホホ…そう言っている、子規ヤンチャ魂は好きですね。子規明治維新ど真中

の頃俳人で、『歌よみに与うる書』力作です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(236)

でも、躬恒は…紀貫之らと共に 『古今集』撰者です。身分は低かったのですが、

力者です。

だから、と言うのではありませんが…

私は、この白菊の歌の…軽さ・浅さ・透明さが、むしろ好きですわ。そこへいくと、家持

かささぎの歌は、何とも意味不明ですよね。


 3月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(237)

躬恒(みつね)は…即興(そっきょう/その場の感興を、即座に詩歌や音楽などに作ること。)歌人としても

名を残しています。

ある時、醍醐天皇から下問(かもん/自分より身分・年齢の低い者に対して物事を尋ねること。があり

ました。

「月の異名を、弓張(ゆみはり)というのは、如何なるゆえか?」

躬恒はすぐさま、でお答えしました。


★ 照る月を 弓張としも いふことは 山の端
(は)さして いればなりけり

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(238)

このは…“射る”“入る”をかけた洒落(しゃれ)で、醍醐天皇大いに賞(め)られま

した。

『大鏡』(おおかがみ/平安時代後期の歴史物語。作者未詳。)によれば、躬恒褒美(ほうび)白絹

を賜ります。そして、それを肩に掛け(/慣例として禄(ろく/お祝儀)を賜る時は、肩に掛ける。)

再び即興で詠みます…


★ 白雲の このかたにしも おりゐ
(い)るは あまつ風こそ 吹きてきぬらし

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(239)

このは…

白雲が私の肩に下りているのは、天から吹き下ろして来る風であろう。白絹は雲

りがたき思し召しは天つ風躬恒即妙(そくみょう)の歌です。

躬恒はまさに呼吸するように、口から流れ出すような歌人だった様です。歌の姿

も、一種の風格がありますね。



 3月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(240)

醍醐天皇(ろく/お祝儀)を受ける躬恒の姿が、眼前に浮かんで来ます…


奈良時代人口は…450 ~ 650万人平安時代でも…900万人ほど(/1000万人を

越えたのは、15世紀以降と推定されます。江戸時代前半の17世紀に人口が急増、18世紀から19世紀は3000万

人前後で安定化しています。)です。

この時代は、筑紫太宰府唐・朝鮮に開かれていて、奥州征夷大将軍/坂上田

村麻呂(さかのうえのたむらまろ)平定に向かい…平泉栄えた頃(/奥州・藤原氏3代とは・・・藤

原清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)で・・・4代泰衡(やすひら)の時・・・平家が滅んだあとのゴタゴタ

で逃亡してきていた義経を裏切る形で、鎌倉の頼朝に滅ぼされます。頼朝が攻め込む直前、西行法師が平泉を訪れて

います。頼朝は、奥州平泉を平定した後、鎌倉幕府を開いています。)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 凡河内躬恒      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(241)

古代王朝官僚・武官を形成たのが貴族です。一方で、王朝文化開花させます。

当時の皇族貴族社会コンパクトで、血統非常に交錯しています。

日本は…この時代の人口数百万人から…つい最近、1億3000万人余ピーク

達して、減少に向かっています」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(242)

【30番→ 壬生忠岑】(みぶのただみね/平安時代前期の歌人。三十六歌仙の1人。子に同じく三十六歌仙

                   の1人である壬生忠見がいる。)


★ 有明(ありあけ)の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂(う)きものはなし



< 空には有明の月が…つれなくかかっていた…

          あなたのそばに、もっと長く居たかった…

                    あの日から私は、夜明け前の暁ほど…

                             辛く感じる時はないようになった… >


 

 3月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(243)

「このは…『古今集 - 巻13/恋の部』 にあります。

この前後には、逢えない恋や、女のつれなさを恨む歌が並んでいます。それで

この別の解釈ができます。つれなく見えるのは、有明の月と、両方に掛か

というものです。忠岑(ただみね)に聞きたいですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(244)

でも定家は、女への恨みではなく、別れの辛さと取り…

<このぐらいの歌が詠めれば、この世の思い出になるだろう>

…と賞讃しています。

忠岑(ただみね)は、右大将(/右近衛府(うこんゑふ)の長官・・・左近衛府とともに、武器を持って宮中の警護、

行幸の供奉(ぐぶ)などをつかさどった役所。この地位は左遷する直前まで、右大臣の菅原道真が兼務していた。)

藤原定国随身(ずいしん/平安時代以降、貴人の外出のとき、警衛と威儀を兼ねて勅宣(勅命の宣旨、みこ

とのり。)によってつけられた近衛府の官人)だった事があります。

ある夜、定国他所(よそ)を飲んで酔い…夜更けて帰る途中

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(245)

「おお、そうだ、これから左大臣邸に参ろう!」

…と言い出します。酔っ払いには往々にある話です。

突然押しかけられた左大臣時平(/・・・摂政・関白だった藤原基経の長男。褒子/京極御息所の

父親。父・基経の死の時点では時平はまだ若年だったため、宇多天皇は自ら親政を始めます。そこで、皇親である

源氏や学者の菅原道真らを起用。醍醐天皇が即位すると道真とともに左右大臣に並び対立、ついに時平は道真を

讒言して大宰府へ左遷させます。時平は政権を掌握すると意欲的に改革に着手しますが、39歳の若さで死去。道

真の祟りとされます。)です。この頃、ライバル道真(みちざね/菅原道真)左遷し、意気揚々

若き実力者気性も激しい方です。邸の人々は、右大将の来訪に大慌(おおあわ)

です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(246)

<この夜更けに、何をしに来た?>と、時平は腹を立てますが、高い身分の客人

追い返すわけにもいきません。

「何処へお出かけになった帰りですかな?」などと言う。

随身忠岑が…パチパチと爆(は)ぜる松明(たいまつ)を手に捧げながら、(ひざまず)

定国代弁をして、ご挨拶(ごあいさつ)を申し上げます…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(247)

「大将殿は、仰せられておりまする・・・


★ かささぎの わたせる橋の 霜の上を 夜半にふみわけ ことさらにこそ


…」

もちろん、このは…【6番→ 中納言家持】本歌取(ほんかどり/歌学における和歌の作成

技法の1つで、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法。)ですよね。

大臣邸階段を指しています。を訳すと、こういう意味になります…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(248)

< 御殿の階段に置いた霜の上を…

     この夜中にふみわけ、わざわざ、参上したのでございます…

         他所へ行ったついでに、思いついて寄ったわけではございません… >


忠岑当意即妙(とういそくみょう/すばやくその場面に適応して機転をきかすこと。)の歌でとりなした

ので、風流人時平も、これには感じ入って、うなります...



 3月 7日



岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(249)

時平は…

「これぞ、風雅というもの!愉快じゃ、愉快じゃ!よく訪ねて下さった!歌を肴に、まず、

一献!」

…と、一転、上機嫌となり、一夜じゅう主客快く酔い音楽も楽しんだ。辞去する時

には、右大臣定国には引出物(ひきでもの/祝い事で招待客に配られる贈呈品のこと)を、忠岑

褒美(ほうび/ほめて与える金品を与えました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(250)

こうした逸話(いつわ/世人の目から逸した(逃れた)話のこと。 特定の人物や物事にまつわる興味深い話とし

て逸話が語られることが多い。)からも…

王朝時代生活の一端や、主従の姿酔っぱらいの振る舞いが、垣間見えて来ます

ね。また、辞去する時に引出物褒美を与えるのも、摂関家(せっかんけ/摂政・関白に任ぜ

られる家柄。平安中期以後・・・藤原氏北家の九条流をいい、鎌倉期にはそこから近衛・九条・二条・一条・鷹司

摂家が分立し、江戸時代に及んだ。)絶大な力財力を感じさせます。

財力の源は…荘園(しょうえん/公的支配を受けない一定規模以上の、私的所有・経営の土地)領主の、

摂関家への荘園寄進(きしん/・・・寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付することですが、荘園の

寄進は庇護を受けるためです。)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(251)

地方豪族たちは…荘園を作りますが、徴税警察権国司(/地方行政単位である国の行政

官として中央から派遣された官吏。)介入して来ます。それを嫌い、彼等の任免権を持つ、

関家荘園寄進する者が出ます。

すると、実際に手を出してこなくなり、競って藤原氏荘園寄進するようになります。

この時代の、別の側面が見えますよね。



 3月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1   壬生忠岑       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(252)

ええ…忠岑(ただみね)は同じ 『古今集』 の中に、次のがあります…


★ 風吹けば 峰にわかるる 白雲の 絶えてつれなき 君が心か



< 風に吹きやられた白雲が…峰で千切れて絶える…

             そのようにあなたの心も…私から離れてしまった…

                            ほんとうに無情なあなた… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 坂上是則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(253)

【31番→ 坂上是則】(さかのうえのこれのり/平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。 三十六歌仙

                   の1人。醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って1度も落

                   とさなかった。天皇はことのほか称賛し、絹を下賜した。)


★ 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪



< 夜がほのぼのと明けてきた…あたりは白く明るい…

        この明るさは…有明の月の光かと思ったが…白い雪…

              これは薄雪の積もったあかり…吉野の里に降る白雪だ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 坂上是則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(254)

「このは…『古今集 - 巻6/冬歌』 にあり…詞書(ことばがき)に…

<大和国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる>

…とあります。

吉野といえばですが、私は 『万葉集』考察をしていますので…第38代/天智

天皇の末期、大海人皇子(天智天皇の実弟で片腕/皇太子/後の天武天皇都落ち/吉野へ

の逃避行<・・・詳しくはこちらへ>が頭に浮かびます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 坂上是則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(255)

大海人皇子吉野離宮逃避後天智天皇の監視下で<吉野出兵>となります。

数日数万の軍勢を糾合し、2方向から近江朝/大津京(/滋賀県大津市錦織の遺跡が近

江大津宮の跡・・・琵琶湖のほとり(天智帝は、朝鮮の<白村江の戦い>に敗れた後、唐と新羅の反撃を恐れ、

城、防人を配置しますが、都も飛鳥よりさらに奥の大津に移しています)進軍します。

戦史上例のない武力の糾合が、大海人皇子/天武天皇比類なきカリスマ性を生

みます。ここから天武・持統朝が始まります。



 3月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1  坂上是則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(256)

京都/平安京醍醐朝においては…

<壬申の乱>100年以上昔の出来事です。吉野離宮(/吉野町・宮滝遺跡)から

遥かに遠く、山深い幾重もの峠を越えた異郷です。でも、数多くの歌に詠まれ、歴史

ロマン心象風景が鮮やかです。その、吉野の里…が詠まれています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  坂上是則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(257)

実は、『古今集』 には…この歌/<冬歌332>の少し前に、<冬歌327>前出

壬生忠岑の、次のがあります。


★ み吉野の 山の白雪 ふみ分けて 入りにし人の おとづれもせぬ



このは、あの義経
(/源義経・・・頼朝の異母弟)(めかけ/妻以外にも囲う女性)/静御前

歌取し、歴史上有名です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1        
                           静御前 (菊池容斎画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(258)

ええ、このですね…


★ 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき



…で有名です。静御前義経都落ちに同行し、吉野山まで来ます。でも、それ以

上は雪が深くて、女の足では付いて行けず、逃避行足手まといになります。彼女

はここで別れ、囚われ人として、鎌倉護送されます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1         
                           静御前 (菊池容斎画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(259)

1186年4月8日

鶴岡八幡宮(/鎌倉市)神前で、白拍子(しらびょうし/平安時代末期から室町時代初期にかけて行わ

れた歌舞の一種、およびその歌舞を演じた舞女。)静御前を舞います。源頼朝妻/政子

(/北条正子・・・伊豆国の豪族、北条時政の長女。伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹

立すると御台所と呼ばれる。)をはじめ、名のある武将が、都一番評判白拍子の舞に刮

(かつもく/目をこすってよく見ること。)しています。スーパースターライブです。

神前の舞ですから当然、関東鎮護鎌倉幕府の安泰を祝うものです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1         
                           静御前 (菊池容斎画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(260)

でも、(しず)/静御前(うた)ました…


★ しづ
(倭文/日本古代の織物)やしづ 

          しづのをだまき(苧環/おだまき・・・つむいだ麻糸を空洞の玉のように巻いたもの)

                    くり返し 昔を今に なすよしもがな


< しずの布を織る…

        麻糸を巻いたおだまきから…

                糸が繰り出されるように…たえずくり返しつつ…

                        どうか…昔を今にする方法があったなら…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       
                                              北条政子 (菊池容斎画  江戸時代) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(261)

…さらに…


★ 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき


この現代語に訳す必要がありませんね…

吉野の大雪の中での、今生(こんじょう/この世)の、立ち別れです。

さあ…頼朝は怒り出します。でも、政子のとりなしで、彼女褒美(ほうび)を与えたと言

います。



 3月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1                      
                           西行法師(菊池容斎画/江戸時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(262)

静御前は…鎌倉武士追討する義経への思いを、天下歌い上げました。

彼女神前で舞ったのが…1186年4月8日頼朝鶴岡八幡宮で、偶然、西行法

を見かけ御所(/大倉御所・・・源頼朝の邸宅(現在の・・・鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯の地)

へ招いたのが…同年の8月15日です。西行東大寺再建勧進(かんじん/元来は、仏

道精神に励むことが功徳になるということを人に教えて、仏道に入ることをすすめること。後に・・・堂塔を造ったり、

社の修理のために必要な寄付金を募ることを、いうようになった。)で、奥州平泉へ行く途中でした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                          壇ノ浦みもすそ川公園の源義経像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(263)

奥州藤原氏西行縁戚です。鎌倉一触即発にあるのは、百も承知での訪問で

す。歌人である西行は、当然、静御前の歌は知っていたはずです。

一方…義経・弁慶主従逃避行は…安宅の関(/加賀・・・石川県小松市安宅町) 『歌舞伎

/勧進帳』(/歌舞伎十八番の1つ。この関越えがモデルになった。)を演じ…翌1187年2月平泉

に入っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    源義経          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(264)


西行からの珍客として平泉へ入ったのは、1186年12月初旬義経到着

翌年の2月西行の旅立ちと入れ替わるように、義経が到着した様です。

でも…静御前の、消息は、義経届いたはずですよね。現在はライン(/無料通話

・メールアプリ)で一発ですが…古のロマンです…



 3月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1  坂上是則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(265)

ええ…坂上是則(さかのうえのこれのり)ですが、蹴鞠(けまり)名人三十六歌仙1人

すから、多才だった様です。下級官吏から累進(るいしん)して地方長官になっています。

貫之躬恒忠岑とも、さぞ意気投合していたのでしょう。

是則大和権少掾(やまとの・ごんの・しょうじょう/・・・を経て、従五位下・加賀介(かがの・すけ)まで、出世

しています。)の時があり、吉野へは公用だったのでしょうか…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  春道列樹       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(266)

【32番→ 春道列樹】(はるみちのつらき/物部氏の一族。官位は六位・壱岐守まで出世したが、赴任前に

                   没しました。)


★ 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり



< 山中を流れる川に…風がかけた、流れ止めの柵(しがらみ)がある…

              それは、清流で流れ切れずにいる…紅葉の集まり…

                           なんと…美しい紅葉の柵だったよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  春道列樹       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(267)

「山越えの、美しい歌ですね…

『古今集 - 巻5/秋歌下』 に、<志賀の山越えにてよめる>として、載っています。

志賀の山越えは、京都市左京区北白川から如意ヶ岳比叡山との間を通り、近江志

へ抜ける山道とか。志賀寺参詣もあって、往来多かった様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(268)

これは、山道で見た実景でしょうか…

晩秋紅葉の吹き込む清流は、さぞ旅心を満足させたでしょう。今は、その消えか

けている様です。でも、それが尚の事、往年の風雅を偲ばせます。風雅とは、今も昔も

変わらない、それを感じ取ることの出来る心なのでしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(269)

うーん…<風のかけたる>と風を擬人化(ぎじんか)…かるく拈弄(ねんろう/・・・ある物事や

概念を、ずっと心にとどめ、手で揉むように、もてあそぶようにして、くり返し考えていくこと。仏道修行のひとつで、そう

することで、考えの質が高められ、物事の本質に近づくこと。)するところが、『古今集』 調…なのだそう

です。

<しがらみ>は…水を堰(せ)き止める柵(さく、しがらみ)を打ち、を打ち

付けたものです。してみると…清水の下が落葉で堰き止められる程度ではなく…

なのですね…



 3月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1         
                                                          紀貫之 (菊池容斎・画/ 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(270)

詞書(ことばがき)<志賀の山越え>は、『古今集』前書(まえがき)にはよく出てきま

す。この時代歌枕(/和歌に多く詠み込まれる名所や旧跡。)かも知れない…と言います。

紀貫之が、にこの<志賀の山越え>をした時に、女達連れ立って来るのに出

逢い…


★ あづさ弓
(梓弓) 春の山辺を 越えくれば 道もさりあへず 花ぞ散りける

(梓弓/・・・神事などに使用されるアズサの木で作られた弓。枕詞としての梓弓は・・・『万葉集』などにおいては、

春(張る)、引く・・・などを導きます。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1         
                                                          紀貫之 (菊池容斎・画/ 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(271)

…と1首詠み女達に捧げています。

< 春の山道を越えてくると…

            おお、花だ花だ…これは満開の花だらけ…

                        道を避けることも出来ぬほど…

                                    花が散りますなあ… >


貫之『古今集』撰集するほどの有名人女達は手から手へを渡し…大喜び

です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  春道列樹       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(272)

春道列樹(はるみちのつらき)は、風のしがらみの歌『小倉百人一首』 に採られて、歴史

を残しました。

主税頭(ちからのかみ)/現在の財務省局長クラスで、本人管理登用試験(/中国・

唐の科挙を見習ったものでしょうか、)パスし、叙位任官(じょい・にんかん/・・・叙位は、朝廷の儀式の1つ

で、五位以上の位階を進授する行事。任官は、官職に就くこと。)され役人になっています。現在エリ

ートですが、皇族・貴族社会では、出世限定的です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 
                                                八咫烏
(やたがらす/)に導かれる初代/神武天皇 (安達吟光

                         八咫烏は・・・日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇

                          のもとに遣わされ・・・熊野国から大和国への道案内をした・・・3本足のカラス

                          現在、日本サッカー協会のシンボルマーク になっています。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(273)

その意味では、列樹(つらき)身分身近ですね。

でも…縄文中期で、推計人口30万人弥生時代で200万人…そこから、日本民族

膨れ上がって来ました。はなから、悲観することも無いのです。

ただ逆に…その時代から、天皇血統明示されてきた事は…民族の宝です…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  春道列樹       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(274)

列樹(つらき)は、醍醐朝壱岐守(いきのかみ/壱岐島(いきのしま)は九州・玄界灘にある島。そこの守

に任官されましたが、大国の地方官ではありません・・・)に任じられ、着任前に亡くなった様です。

5首が伝わるのみです。次のは…『古今集 - 冬歌/341』 で、<年のはてによ

める>として大晦日(おおみそか)に詠んでいます。


★ 昨日といひ 今日とくらして あすか川 流れてはやき 月日なりけり

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  春道列樹       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(275)

< 昨日と言い…今日と言って…日々を暮らし…

       明日はもう新年を迎える…

             飛鳥川の流れが速いように…

                  あっと言う間に、過ぎ去ってゆく月日であることよ… >


<あすか川>
(飛鳥川/・・・奈良県中西部を流れる大和川水系の一級河川。)に、明日をかけてい

ます。うーん…その通りです。今も昔も同じですよね…」



 3月 13

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀友則       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(276)

【33番→ 紀友則】(きのとものり/平安時代前期の歌人・官人。紀貫之の従兄弟(いとこ)にあたる。官位は

                 六位・大内記。三十六歌仙の1人。)


★ 久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ



< このような…

        日の光がのどかに射している、おだやかな春の日…

               静かな心もなく、桜の花はあわただしく…

                       音のない花吹雪となり、散り急ぐのだろう… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀友則        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(277)

「このは…

『古今集 - 巻2』 に、<さくらの花のちるをよめる>として、載っています。

<久方の>は…光・日・空・月・天…などにかかる枕詞ですね。

うーん…まずこのの、ゆったりとした心象風景の中に身を沈めてみないと、上面

通り過ぎてしまいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀友則        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(278)

それができないと…

微風に沈む花吹雪情景描写だけになります。この核心は…<しずこころ>

/静かな心…でしょう。<しずこころなく>桜を擬人化しています。では…私達自

桜の花となって…満開に咲き春の光の中で散っていたらどうでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀友則        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(279)

このは…これぞ 『古今集』“心”といい…『万葉集』 好きの人々からは…凡庸単

(ぼんようたんじゅん)排斥されて来た…とも言います。

うーん…『万葉集』 好きと、『古今集』 好きですか。【2番→ 持統天皇】 【4番→ 山

部赤人】 に、万葉歌新・古今調風に、変えた歌がありました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀友則        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(280)

【2番】 【4番】から…万葉調新・古今調違いが分かります。新・古今風に…

優美にするためですが…改悪だと評判の悪いものす。

写生的で素朴な力強さの…万葉調象徴的で情緒的な気分の漂う…新・古今調

巧的で繊細で優美な…古今調…と言います。



 3月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                            紀友則  菊池容斎 『前賢故実』

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(281)

ええと、時代的には…

『万葉集』 は…古代から奈良時代の終わりまでで、巻1持統天皇(/や、柿本人麻呂)

どが関与し、最終的大伴家持がまとめた様です。

『古今集/古今和歌集』 は…平安時代醍醐朝勅撰和歌集で、撰者紀友則・

紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑4人です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                            紀友則  菊池容斎 『前賢故実』

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(282)

『新古今集/新古今和歌集』 は…鎌倉時代初期後鳥羽院勅撰和歌集で、撰者

は…藤原定家・源通具(/堀川通具/ほりかわみちとも)・六条有家(/藤原有家)・藤原家隆・飛

鳥井雅経(あすかいまさつね/『小倉百人一首』では・・・参議雅経)・寂蓮(/俗名は藤原定長)6人です。

『小倉百人一首』 は…藤原定家が、京都市右京区/小倉山の麓の、小倉山荘/嵯

峨山荘…後世の時雨亭(しぐれてい)で、撰集しました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原興風         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(283)

【34番→ 藤原興風】(ふじわらのおきかぜ/平安時代の官人・歌人。官位は正六位上・治部少丞。三十六

                   歌仙の1人。)


★ たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに



< いったい、誰を友としたらいいのか…

         高砂の松は、私と同じように…

                 年古りている、とはいうけれど…

                        松も昔なじみの、友ではないのだもの… >


 

 3月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原興風         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(284)

「このは…

『古今集 - 巻17/雑歌』<題しらず>として載っています。この前後には、

老いの嘆きの歌が集められていて、これもその1つです。

高砂の松(たかさごの松/兵庫県高砂市の高砂神社境内にある、黒松と赤松とが基部で合した相生(あいおい)

の松。)は、住吉の松(すみよしの松/大阪市住吉区の、住吉大社の松)と共に長寿とされ、めでた

いものですが、ここは人生の晩年の淋しさを詠んでいます。



 3月 16日

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                                                           高砂郵便局前の郵便ポスト上に設置されている尉と姥の像ネットより写真借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(285)

<高砂>は今の兵庫県高砂市住吉大阪市の住吉付近古代にはどちらの

でも老松が生い茂り、美しい景色名所だったと言われます。

謡曲(ようきょく/能の台本)『高砂』では、老夫婦(じょう)(うば)があらわれて、相生

の松(あいおいのまつ/雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。夫婦の

契りの深さにたとえる。高砂神社のものが有名。)いわれを物語ります。では、なぜ淋しい歌なの

でしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原興風       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(286)

この老いの孤独悲しみは、(りん)とした男の淋しさです。長寿老松の風景

神寂びて(かみさびて/古びて神々しく見える)立派ではあっても、老人の淋しさ(なぐさ)

てはくれません。

作者の興風(おきかぜ)は、親友次々と世を去り、とうとう1人になってしまった、人生

の悲哀と、毅然(きぜん)と対峙している様ですね。



 3月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1                 
                                                                現在の高砂神社内にある相生の松。 /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(287)

『古今集』 ではこのの前に、<詠み人知らず>として次のがあります…


★ かくしつつ 世をや尽(つ)くさむ 高砂の 尾(お)の上(へ)にたてる 松ならなくに



< 高砂の松は、老いてもガッシリと枝を張り…

           風雪に耐えて、変わらぬ色を増している

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                            住吉大社第一本宮の本殿前の幣殿(重要文化財)パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(288)

               私も老いたが、屈せず雄々しく…

                        生を終わろうと思う…

                                高砂の松ではないけれど… >


『古今集-雑上』
には、次のもあります。この 『伊勢物語』 では…(みかど)か、

(そば)にいた業平(*在原業平らしき人)が、詠んでいます。


★ われ見ても 久しくなりぬ 住
(すみ)の江の 岸の姫松 いく世経(へ)ぬらむ

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                 
                                                        第三本宮(左)・第四本宮(右)の本殿前の幣殿(重要文化財)パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(289)

< 私が見てからでも、ずいぶんと久しくなったものだ…

      この住之江の海岸の、背の低い松は…

            いったい、どのぐらいの長い年月を、過ごして来たのだろうか… >


これらは…男の老いの歌です。老いの嘆きが、シンプルで、雄々しく現世肯定的

すよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 小野小町        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(290)

これに比べ、女の老いの歌で思いつくのは…

小野小町に見るように、容色の衰えの嘆きに、重なるのでしょうか


★ 花のいろは 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに


ともかく興風(おきかぜ)老い嘆きながらも、自分を高く持する気概が漂いま

す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(291)

【35番→ 紀貫之】(きのつらゆき/平安時代前期の歌人。『古今集/古今和歌集』の選者の1人。また三十六

                 歌仙の1人。紀友則は従兄弟。散文作品として、『土佐日記』があります。日本文学史上、

                 少なくとも、歌人としては、最大の敬意を払われてきた人物です。


★ 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける



< あなたは、さあ…

       どんなお心か、分かりませんが…

             この昔なじみの故郷では…

                    そこに咲く花は、昔と変わらずに…

                          良い匂いで、私を迎えてくれますねえ…〉

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(292)

「ええ『古今集』撰者/紀貫之ですね。

これは 『古今集 - 巻1/春上』 にあり、長い詞書があります。これを読むと、この

作られた情景が分かってきます。


<はつせにまうづるごとに、宿りける人の家に、ひさしくやどらで、程へて後にい

たりければ、



 3月 18日

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                                                            紀貫之 (菊池容斎・画、明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(293)

かの家のあるじ、かくさだかになんやどりはあると、いひいだして侍りければ、

そこにたてりける梅の花を折りてよめる>

…とあります。

貫之が、大和長谷寺参詣した時に、寺近くの知人の家に泊めてもらった時の様

です。参詣のたびに泊まっていた様ですね。


 3月 19日





岡田健吉‏@zu5kokd1                          
                            謡曲/『玉鬘(たまかずら)詠われる、長谷寺の二本の杉(ふたもとのすぎ)/ネットより写真借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(294)

大和長谷寺奈良県桜井市初瀬にあり、十一面観音菩薩本尊平安時代には

熱い信仰がありました。

『源氏物語』でも玉鬘(たまかずら)の姫徒歩(かち)参詣し、そこに描かれる二本(ふたも

と)の杉は、現在も境内にある様です。

『枕草子』では…清少納言が、椿市(つばいち)粗末な宿に泊まっています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                                                            紀貫之 (菊池容斎・画、明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(295)

ともかく、貫之の方は定宿(じょうやど/いつもきまって泊まる宿屋)にしている知人の家があった

わけです。ところが久しぶりに行ってみると、そこの人は…


( ここの家は昔に変わらず、ちゃんとございますのに …)


…と言います。そこで貫之は、そこに立っている梅の花を折り…このを詠んだわけ

です。

 

 3月 20日

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                                                            紀貫之 (菊池容斎・画、明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(296)

<人はいさ><いさ>は、打ち消しで、“いざ”ではありません。

うーん…

この知人男性女性かで、だいぶ様相が違ってきます。でも、貫之はその事には

言及していません。もちろん、当時知る人ぞ知るという事でしょうが、今はだけが

残っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                                                            紀貫之 (菊池容斎・画、明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(297)

『古今集』撰者は…紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑4人で…序文では

紀友則筆頭に挙げられています。

でも…編集の中心は当時の第一人者貫之で、友則途中で没しています。友則

貫之従兄弟(いとこ)ですが、20歳ほど年上で、その様子が分かります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                                                            紀貫之 (菊池容斎・画、明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(298)

歴史的にも…第一級紀貫之は…

屏風(びょうぶ)などに書かれる様な、堂々としたもが多い様です。また、公的な場

多いとも言われます。

晴れがましく美しくおめでたいそうした歌の名手です。そうした歌で、1000年

にわたり、歌聖と呼ばれています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(299)

【36番→ 清原深養父】(きよはらのふかやぶ/平安時代中期の歌人。『枕草子』を書いた清少納言曽祖

                     。官位は従五位下・内蔵大允。)


★ 夏の夜は まだ宵(よい)ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ


< 夏の夜の短さよ…

       まだ宵のうちと思っていたのに…

             はや、白々と明けそめた…

                   月は山の端に入るひまもなく…

                          雲のどの辺りに、宿っていることやら… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(300)

このは…『古今集 - 巻3/夏歌』 に、<月のおもしろかりける夜、暁(あかつき)

たによめる>として載っています。

同意の歌としては、同じ『古今集 - 巻3/夏歌』 に…紀貫之があります。


★ 夏の夜の 臥(ふ)すかとすれば 時鳥(ほととぎす) 

                 鳴くひと声に 明けくるしののめ(東雲/夜明けの薄明かり)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(301)

〈夏の夜…

       横になったと思ったら…

              時鳥の鳴き声に、目が覚めた…

                     もう、雲が白くなったよ…〉


これも、
(さわ)やかいい歌ですね。

でも…同じ夏歌でも、季節の移り変わりがあります。季語時鳥初夏五月(さつき)と、

六月(みなつき)短夜(みじかよ)では、だいぶ開きがあります。



 3月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                        時鳥/ホトトギス・・・ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(302)

夏歌は…

太陰暦/旧暦の…四月(卯月/うづき)/藤の花から始まります。五月(皐月/さつき)/初夏

を告げる渡鳥の時鳥(不如帰/ほととぎす)あやめ五月雨(さみだれ)=梅雨(つゆ)(う)

、そして夏至(げし/新暦の6月21日頃)短夜(みじかよ)旧暦の六月(水無月/みなずき)

暦では7月(・・・7/12~8/9 )季語は百合(ゆり)になります。旧暦六月が終れば、はや

ですね。季語は残暑になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(303)

深養父(ふかやぶ)の…短夜(みじかよ)は…

『古今集 - 巻3/夏歌』前後の関係から、厳密な夏至というわけではなく、旧暦六

月下旬頃といいます。この頃は下弦の月で…月の出は遅く夜明けが早く日が出

ているのに、月は中天に白く霞(かす)んでいます。いわゆる有明(ありあけ)の月ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(304)

…だからどうした?こんな歌のどこがいいのか?

…と言う人が、いるかも知れませんが…これも 『古今集』なのだそうです。

私などは、理屈ではなく、思わず口元が緩み、その夏の夜明けの、どことない倦怠感

(けんたいかん)共感します。これが…人生の時間ですよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(305)

『古今集』 の時代の人々は…機知/ウイット・エスプリというものを珍重しました。明晰

(めいせき)なものを愛し、硬質な理知を好み、ユーモア/有情滑稽(うじょうこっけい)楽しん

様ですね。

<雲のいずこに 月宿るらむ>…という軽い諧謔性(かいぎゃくせい/面白さと共感とが混り合

った状況を描写する性質)が、この時代の人々には受けたのでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(306)

清原深養父は…ニヒル(/冷たく醒めていて、暗い影のあるさま)の影があり、乾いた機知

あり…人々には人気があった様です。

(ひるがえ)って、現在の日本を眺めると…“林家三平系/支離滅裂のお笑い”は…

に、人気がない様です。TVメディアなどで(あお)っていますが、機知品位が無い

からでしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1清原深養父       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(307)

清原深養父の…詳しい生涯不明です。10世紀前半の人で、官吏としては不遇です

が、勅撰集(ちょくせんしゅう/天皇や上皇の命により編集された歌集・・・時代により、『古今集 - 後撰集 - 拾遺集

 - 後拾遺集 - 金葉集 - 詞花集 - 千載集 - 新古今集』・・・など41首も入っています。

『古今集 - 真名序(まなじょ・・・漢文による序文)に…

<貴きことは相将(しゃうしゃう/大臣や大将)を兼ね、富めることは金銭を余すといへど

も、骨いまだ土中に腐(く)ちざるに、名は先ず世上に滅す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1               
                             藤原公任・・・菊池容斎『前賢故実』より /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(308)

たまたま、後世のために知らるる者は、ただ和歌の人のみ。いかにとなれば、こ

とばは人の耳に近く、義は神明に慣(なら)へばなり>

…とあるように、深養父はまさに、そんな人だったのでしょうか。ただ藤原公任(ふじわら

のきんとう/平安時代中期の公卿・歌人。関白太政大臣/藤原頼忠の長男。『小倉百人一首』では大納言公任。)

判断基準にはかなわず、三十六歌仙には(も)れています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                           藤原俊成 (菊池容斎・画、明治時代)  /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(309)

ただし…300年ほど後の藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい/平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌

人・・・藤原定家の父には認められて、『古来風躰抄』(こらいふうたいしょう)にはこの歌が採られ

ています。

『古来風躰抄』 とは…式子内親王(しきし・ないしんのう/藤原定家とは・・・世を忍ぶ恋愛関係にあったと

する伝説があります。)に求められて、藤原俊成が著した歌論書(/和歌の本質を論じた書)です。

来からの歌の中で、俊成秀歌と認めたものを挙げ、鑑賞批評したものです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                    
清少納言 (菊池容斎・画 明治時代)  /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(310)

清原深養父は…実は全く別の所で、歴史に名を残しています。それは 『枕草子』

書いた清少納言曾祖父(そうそふ)としての名です。清少納言の父/清原元輔(きよは

らのもとすけ/三十六歌仙の1人。官位は、従五位上肥後守。)は、深養父になります。

つまり…清少納言散文家ですが、由緒ある歌人の家柄に生まれた女性…だった

わけですね…」



 3月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋朝康       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(311)

【37番→ 文屋朝康】(ぶんやのあさやす/平安時代中期の歌人。六歌仙の文屋康秀の子。従六位下・大

                   舎人大允。)


★ しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける


< 草の葉の上に、光る露の玉…

       風がしきりに吹きつける、秋の野原は…

              まるで、紐(ひも)に通してない水晶の玉が…

                    パラパラと散り乱れて、吹き飛んでいるようだよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋朝康       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(312)

このは…『後撰集 - 秋』<延喜(えんぎ/・・・日本の元号の1つで、醍醐朝の一部。901年から

923年までの期間。形式的ながらも天皇親政が行われた。延喜の治と呼ばれます。)の御時、歌めしけれ

ば>としてあります。

うーん…清冽(せいれつ/水などが清らかに澄んで冷たいこと。)です!これは実景(じっけい/実

際の景色)なのでしょうか!

『古今集』朝康の…もう1つ別の、白露の歌があります。


★ 秋の野に おく白露は 玉なれや つらぬきかくる 蜘蛛(くも)の糸すぢ


 3月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋朝康       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(313)

< 秋の野に置く白露は…

        水晶の玉だろうか…

               つらぬいて通す…

                       蜘蛛の糸すじよ…〉


これらの結果的に、姉妹歌なのでしょうか。今度は白露(しらつゆ)蜘蛛の糸で貫

(つらぬ)き、やわらかな露の玉の美しさ心も静止します。先の歌こぼれ散る動と…

糸で貫かれた静ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋朝康       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(314)

『後撰集 - 秋中/308』は…『新撰万葉集』詞書(ことばがき)<寛平御時(か

んひょうの・おんとき/日本の元号の1つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間。宇多天皇~醍醐天

皇。)  后宮(きさきのみや)の歌合の歌>とあります。

『古今集』の方の詞書は…<是貞親王(これさだ・しんのう)の家の歌合によめる>

…ですね。うーん…これでは状況がよく分かりませんが、宇多天皇寛平初年頃

作られた様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文屋朝康       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(315)

清らかな美しい歌ですね。定家もこの好きだった様で、百人一首にも採り、広く

後世に伝わりました。

<5・7・5・7・7>で、秋の野白露を詠みきり…1000年にわたり歌壇/日本の

歴史に、燦然(さんぜん)と残っています。私たちもこんな1首を、作ってみたいものです

ね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg 僧正遍昭       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(316)

白露玉と詠んだ歌には…僧正遍昭(そうじょうへんじょう/【12番】・・・天つ風 雲のかよひ路 

吹きとじよ をとめの姿 しばしとどめむ)に、次のがあります。


★ 蓮葉
(はちすば)の にごりにしまぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく



< 蓮(はす)は泥水に生えながら…

       濁りに染らない清らかな心をもつ…

             その心でどうして…

                   葉の上に置く露を水晶(/または真珠)と見せ…

                         人を騙(だま)すのか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1          
                                                           土佐光起筆 『源氏物語画帖』より「若紫」。

                                                       飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(317)

詠み人知らず/一説では第51代/平城(へいぜい)天皇として…次のもあります。


★ 萩の露 玉に貫(ぬ)かむと とれば消(け)ぬ よし見む人は 枝ながら見よ



現代語訳は必要ないですね。『源氏物語』 にも、露の歌は多いですが、朝康の詠む

白露の歌別格の観があります。



 3月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1 右近          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(318)

【38番→ 右近】(うこん/平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。醍醐天皇の中宮穏子に仕え

               た女房で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛

               関係があった様です。)


★ わすらるる 身をば思はず 誓ひてし 人のいのちの 惜しくもあるかな


< 忘れ去られる、私の身は何とも思わない…

      ても…

           いつまでも愛すると神に誓ったあなたに…

                 神罰が下って命を落としてしまわれるのも…

                        私は嫌なのです… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右近          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(319)

「この歌は…

『拾遺集 - 巻14/恋』 に載っています。

解釈2通りあって…

<わすらるる 身をば思はず>で、切る場合と…

<わすらるる 身をば思はず 誓ひてし>で、切る場合です。

切り方によって、意味少し変わってきます

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右近          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(320)

<誓ひてし>が…

愚かなわが身に掛かるのか、恋しかった人が約束したコトに掛かるのか…

それによって、女性心の座標が違ってきます。

神仏に誓い、それを裏切った人に、神仏の罰(ばち)が当たればいい…その先です。

う1つの要素は、右近恋多き女性だったことです…



 3月 25日


 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右近          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(321)

つまり…

男に忘れ去られる我身のことは何とも思わない。でも、神仏に誓ったあなたは、(ば

ち)が当たって死んでしまう。いい気味だと思うけれど、死んでしまうのはイヤなのです

…と。

は、こういう女性がいいのです。でも恋多き右近が、こんな貞淑(ていしゅく)女性だっ

たのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1藤原敦忠       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(322)

男性には、非常に好かれた様子ですから…頭も良く機知も巧みで、情もあったはず

です。トータルで眺めた場合、右近が最も愛したのは、この藤原敦忠(あつただ)

ったのでしょう。

は、『小倉百人一首 → 43番』歌の作者で、菅原道真太宰府に左遷した、

大臣/藤原時平3男です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 右近          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(323)

時の権力者御曹司(おんぞうし)で…に優れ、音楽の才もある貴公子です。一方、

右近身分は低く醍醐天皇皇后穏子(こうごう・おんし)に仕える一介の女房です。

当時は、血筋・身分絶対的社会です。恋の熱が冷めれば別れがきます。【19番

→伊勢】の場合と、非常によく似ているかも知れませんね。



 3月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1 右近          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(324)

だからこそ…

恋が燃え上がっていた時は…別れる事などは絶対にない…と、何度も神仏に誓った

のでしょう。右近その事を言っています。

『大和物語』(やまとものがたり/平安時代中期の和歌説話集。作者未詳。2巻。約 173段。)に、この

が載せられていて、そこに至った男女の誓い事も載っていますが、よくある話という

事ですね。


 3月 27

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議等        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(325)

【39番→ 参議等】(さんぎひとし/源 等(みなもとのひとし)・・・平安時代前期から中期にかけての公家。

                 嵯峨源氏、中納言・源希の次男。官位は正四位下・参議)


★ 浅茅(あさぢ)(ふ)の 小野の篠原(しのはら/篠竹の生えている原。ささはら。) 

                 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき


< 茅
(ちがや)が生える野の、篠竹ではないけれど…

        人に隠して忍んでいても、想いが溢れてこぼれそうになる…

               どうして、あの人のことが、こんなに恋しいのだろうか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議等        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(326)

「このは…『後撰集 - 巻9/恋』 に、<人につかはしける>として載っています。

<人>とは女性恋人へ贈った恋歌ですね。

うーん…

<浅茅生の 小野の篠原>は、<しのぶ>を引き出すための、です。これは、

<しの… 篠竹>に掛っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議等        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(327)

そこから…広漠な原野が想起され、中に佇む心細さ忍ぶ恋の辛さもあり、に訴

えます。

実はこのは…

『古今集 - 巻11/恋』 にあるから採られている…というのが定説と言います。


★ 浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや いふ人なしに

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議等        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(328)

< 私が、あの人を恋していることを…

      あの人は、知ってくれているのだろうか…

             いや、知らないだろうなあ…

                 あの人に告げ、知らせてくれる人はいないんだもの… >


このは…読み人知らずで、かなり古い歌らしく、万葉調の味があると言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 茅/チガヤ      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(329)

はこのを、うまく、王朝風言い回しにすげかえています。

<浅茅>古典ではよく出てくる場景です。王朝の頃(/天皇が政治の実権を握っていた時代。

 奈良時代平安時代を指しますが・・・狭義では平安時代の言い換えとして用いられます。)は、少しを外れ

ると、浅茅の野や、篠原があった様ですね。<小野の篠原>というのは、特定の場

所ではなくて、<小>接頭語(せっとうご/単独では用いられず、常に他の語の上について、その語と

ともに一語を形成するもの → お話、小猫です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                            源氏物語絵巻 「末摘花」

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(330)

『源氏物語』浅茅が出てくるのは、常陸宮(ひたちのみや)姫君/末摘花(すえつむはな)

(やしき)ですね。

<浅茅は庭の面(おも)もみえず、しげき蓬(よもぎ)は軒をあらそひて生ひのぼる>

…という荒れた邸に、姫君は心変わりもせず住んでいる場景です。浅茅は、

が低いとか、(まば)らに生えている、とかの意味です。



 3月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1 平兼盛        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(331)

【40番→ 平兼盛】(たいらのかねもり/平安時代中期の歌人。三十六歌仙の1人。父は光孝天皇の曾孫にあ

                 たる大宰大弐・篤行王。臣籍降下前は兼盛王と名乗っていた。官位は従五位 上・駿河守。)


★ 忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで



< 心に秘めてきたけれど…

        顔の表情にまで、出てしまっているようだ…

              私の恋は…

                    想いごとでもしているのかと…

                          人に尋ねられるほどになってしまった… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 平兼盛        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(332)

「このは…『拾遺集(しゅういしゅう) - 巻11/恋』 に、<天暦(てんりゃく)の御時(おんとき)

の歌合>として載っています。

これは第62代/村上天皇天徳4年3月30日に、内裏(だいり)で催された歌合です。

この時の歌合は、後世の模範と仰がれ、以後、歌合この時盛儀(せいぎ/華やかでり

っぱな儀式)にのっとることになりました。


 3月 29日 

岡田健吉‏@zu5kokd1 村上天皇         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(333)

この歌合は…

国文学史上でも特筆すべき一大事で、<天徳内裏(てんとく・だいり)歌合>とも…

村上帝の、印象的な年号天暦から、<天暦の御時(てんりゃくの・おんとき)の歌合>とも

呼ばれています。

村上天皇は…当代きってのインテリで…芸術愛好家で、ご自身典雅(てんが/みやびな

さまな歌を詠まれる歌人であられました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 京都御所/建礼門  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(334)

その上…

朝廷実力もともに充実していた時期で…日本史上燦然(さんぜん/きらきらと光り輝

くさま)と輝く豪奢(ごうしゃ/非常にぜいたくで、はでなこと)にして華麗(かれい/はなやかで美しいこと)

歌合を、催しきる…ことが出来たわけですね。

その歌合とは…

当時の、一流の歌人達左右に分かれて…天皇御前で、歌の勝敗を競うという

やかなものでした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1京都御所/紫宸殿   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(335)

ことは…

宮廷だけの盛り上りではありませんでした。朝野(ちょうや/朝廷と民間、天下)をあげて、時代

文学的機運の高まりがあり、男女貴賎(だんじょ・きせん)を問わず、歌心が深まり、そ

頂点天皇御前での、内裏における一大歌合になりました。

時は…

弥生つごもり(晦日/月の最後の日)

陰暦では…翌日から初夏に入る、3月30日でした。



 3月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1京都御所/清涼殿  

平安時代の初期、天皇の日常生活の居所として仁寿殿常寧殿が使用されていたが、中期にはこの清涼殿がもっぱら天皇の

御殿とされ、紫宸殿(ししんでん)が儀式を行う殿舎であるのに対し、日常の政務の他四方拝・叙位・除目などの行事も行われた。

ただし、この清涼殿も次第に儀式の場としての色彩を強め、中世以降は清涼殿に替わって、常御所が日常の居所となった。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(336)

弥生つごもり/晦日/三十日には…もうが咲いていたでしょう…

歌合が行われたのは清涼殿(せいりょうでん)天皇をはじめ女御(にょご)ご臨席で、

百官(ひゃっかん/数多くの役人)女房(にょうぼう/女官)も居流れて、世紀の一大歌合を見

守ります。

村上天皇気鋭の35歳であらせられました。この気力で、世紀のセレモニーに臨ま

れました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1京都御所/清涼殿   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(337)

申の刻(さるのこく/現在の午後4時前後)天皇臨御(りんぎょ/天子がその場においでになること)

日が暮れて、がともされ、には篝火(かがりび)が焚かれます。左右に分かれた

(かとうど、かたうど/味方、仲間)の頭には、天皇お妃(おきさき/・・・更衣が当った。更衣は本来、

天皇の衣替えに奉仕する女官の称ですが、嬪・女御に次ぐ令外の后妃の身分になりました。)を頂きます…

お題<霞・鶯・柳・桜・藤・暮春・・・>から、<恋>に至るまで20番講師(こうじ)

を詠み上げ、判者(はんじゃ)勝ち負けを判定して行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実頼         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(338)

判者は…左大臣/藤原実頼(ふじわらのさねより/平安時代中期の公卿。 摂政関白太政大臣を歴任した

藤原忠平の長男)で、温和重厚な人物で信望があります。歌合進行し、いよいよ白熱し

ます。

判定理由は…<左歌の心ばえ、いとをかし>とか、<右歌、させることはなけれ

ど、難は見えず>とか、<歌の品の同じほどなれば、持(じ/歌合わせで、引き分けのこと)

にぞ定め申す>などです。


 3月 31日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実頼         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(339)

判者は大変ですが、は益々白熱を帯びて来ます。左右の方人達の声も喧(かまびす)

しくなります。そして、最後<恋>の部になります。恋の歌5番勝負です。

この時の出詠歌人12人

藤原朝忠(ふじわらのあさただ/三十六歌仙の1人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号

する。『小倉百人一首』では中納言朝忠。)大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ/三十六歌仙の1人。官位は

正四位下・祭主・神祇大副。)壬生忠見(みぶのただみ/【30番→ 壬生忠岑】の子。父とともに三十六歌仙の

1人に数えられる。官位は正六位上・伊予掾。)源順(みなもとのしたごう/嵯峨源氏の一族。下総権守・和泉守等

を歴任し、極官は従五位上、能登守。)らで…

女流歌人中務(なかつかさ/三十六歌仙の1人。母は、【19番→ 伊勢】本院侍従(ほんいんのじじゅ

う/村上天皇の中宮(ちゅうぐう)安子や女御(にょうご)徽子(きし/斎宮女御)らにつかえた。摂政/藤原伊尹(これただ)

と太政大臣/藤原兼通の兄弟,歌人の藤原朝忠らと恋愛関係にあったといわれ、,恋の贈答歌がおおい。)らです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 平兼盛        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(340)

さあ…平兼盛


★ 忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで



に配せられたのは壬生忠見


★ 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか



<恋している、と…

        私の噂がもう立ってしまった…

                 誰にも知られないように…

                        心ひそかに、思いはじめたばかりなのに…>


どちらも珠玉のような秀歌で、人々がどよめきます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(341)

勝負の間は、(さかな)もめくった様です。天皇御前とはいえ、緊張もほぐれて

います。その風雅な品格の中で、勝負水を打った(/大勢の人々が静まりかえるさまように

高まります。

兼盛か…忠見か…

研ぎ澄まされた感覚の中で、優劣がめぐります。が、交互に、声高にうたわれます。



 4月 1日



岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実頼        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(342)

さあ…張りつめた中時間がゆっくりと流れて行きます。

判者左大臣/藤原実頼は、軍配を上げられず(きゅう)してしまいます。それで、

(みかど/天皇の尊称の方を向き、奏上(そうじょう/天子に申し上げること)します。

「左右ノ歌、伴(とも)ニ以(も)ツテ優ナリ。勝劣ヲ定メ申スコト能(あた)ハズ」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 村上天皇         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(343)

村上天皇が、仰せられます。

「各々(おのおの)歎美(たんび)スベシ。タダシ、猶(なほ)、之(これ)ヲ定メ申スベシ」

さあ…いよいよ実頼困り果て大納言/源高明(みなもとのたかあきら/醍醐天皇の第10皇

子。学問に優れ朝儀に通じていて、また実力者/藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て、朝廷で重んじられた。

官位はこの時の大納言から、正二位・左大臣に至る。京都右京四条に壮麗な豪邸を建て、西宮左大臣と呼ばれた。)

意見を求めます。高明も、

「お任せします…」

と頭を下げます。

その間も左右の方人(かとうど)は、互いにわが方の歌を詠み示威します。
 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(344)

【41番→ 壬生忠見】(みぶのただみ/平安時代中期の歌人。【30番→ 壬生忠岑】の子。父とともに三十六

                   歌仙の1人に数えられる。官位は正六位上・伊予掾。)


★ 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか


< 私の噂が、もう立ってしまった…

             誰にも知られないように…

                        心ひそかに、思いはじめたばかりなのに…>


「改めて、【41番】壬生忠見ですね…



 4月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(345)

両者の歌から伝わる…<実感、感性、技巧、調べ・・・>

…その上で、どちらに贔屓(ひいき/自分の気に入った者に対して肩入れし、援助すること。)するか。こ

れは和歌の世界で、千年にわたる論争(/現代の私たちも・・・)となっています。

壬生忠見(みぶのただみ)は…【30番 → 壬生忠岑(みぶのただみね) の子で、幼い時から

巧みだった様です。ても、父子共々下級官吏で終っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(346)

ちなみに…

壬生忠見天徳2年に、摂津大目(せっつのおおさかん/・・・目(さかん)は、国司の4等官(中央政府に

おける「主典」に相当する)を指します。大国と呼ばれる最上級の令制国には、特に大目・少目が設置されました。)

地方官の下級官吏になっています。

天徳4年歌合には、堪能(たんのう/技芸・学問などにすぐれているさま。)をもって、勅命(ち

ょくめい/天皇の命令)召されています。この名誉は、忠見にとってどんなに嬉しかった事

でしょうか。その上京する様子が、『袋草子』(ふくろぞうし/平安時代後期の歌学書。藤原清輔の著)

に書かれています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(347)

忠見は感激して、任地摂津(せっつ/摂津国は・・・現在の大阪府北西部と兵庫県南東部にあたる)

ら…

<田舎の装束(いなかのしょうぞく)のままにて、柿の小袴衣(こばかぎ)を今に持ちて肩に

(か)く・・・>

…とあり…まさに田舎者の格好で上京し、召しに応じて、この歌を詠みました。忠見は、

一世一代の光栄十分に応えるだけの力作を、まさに詠進(えいしん/詩歌をよんで宮中や社

寺などに差し出すこと。)したわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実頼        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(348)

さあ…

判者実頼(さねより)軍配(きゅう)する中、なおも左右の方人(かとうど)たちは声高

うたいます。

ついに、実頼<天気(てんき/・・・天皇の気配)をうかがいます。

村上天皇は、どちらがよいとも仰せにならぬままに…ひそかに、右方の、

<忍ぶれど 色にいでにけり ・・・>

…のを口ずさまれました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 村上天皇         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(349)

御心は…

双方の歌を口ずさんで…ゆっくりと優劣を考えられる…おつもりだったのかも知れませ

んが、右方の歌を詠じられた段階で…

源高明(みなもとのたかあきら/・・・先程、実頼が意見を求めた大納言/源高明。)が…

<天気若シクハ右二アルカ>

…と、判者実頼(も)らします。判者はそこで、

「右が勝ち・・・」

…と宣しました。



 4月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実頼        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(350)

この時、実は判者/実頼は…ではなく…

「左ノ歌甚ダ(はなはだ/非常に)好シ」

…として、<持(じ/引き分け)ダナ、>と思い…引き分けを考えていた様です。

でも、ともかく、兼盛勝ちと決し、右方がドッとわき、勝鬨(かちどき)音楽を奏し

ます。

<盃酒(はいしゅ)、頻(しき)リニ巡リ、絃歌(げんか/琵琶(びわ)・箏(こと)・三味線(しゃみせん)などの

弦楽器を弾きながらうたう歌。)、断(た)ユルコト無シ>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 村上天皇         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(351)

<歓楽ノ至リ、今夜二如(し)カザルナリ>

これほど楽しい夜はなかったと言います。

<群臣、快ク酔ヒ、雑興(ざっきょう)、禁ジ難シ>

君も臣も楽しんだ。

やがて…夜も白々と明け、入御(にゅうぎょ/天皇・皇后・皇太后が内裏へはいること。)されます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 平兼盛        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(352)

歌合の座には…作者歌人たちは列していません。

兼盛衣冠(いかん)正しく陣の座にあって、勝ち負けの報せを待っていました。勝った

聞くや、喜びを押さえられず、その他の勝負のことは聞きもせず、拝舞(はいぶ、はいむ/平

安時代に・・・宮中で、叙位、任官、賜禄の際などに、謝意を表して左右左(さゆうさ)を行う礼。中国/唐の礼法をまねた

もの・・・あるいは立ち、あるいは座し、手を動かし左右を顧み、喜悦のあまり手の舞い、足の踏むところを知らないという

さまを表示。)して退出しました。

忠見の方は、別の所に詰めていました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(353)

忠見は…

<恋すてふ わが名はまだき…>は、会心(かいしん/心から満足に思うこと)自信作

でした。勝ち信じていたのですが、心外の報(しら)が来ます。

『沙石集』(しゃせきしゅう、させきしゅう/鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集。)によれば…

その途端、忠見は…

<あわと思ひて>大きなショックを受け…<胸ふたがりて>…ついに<不食の病

になりて…死んでしまいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 壬生忠見      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(354)

田舎装束(いなかしょうぞく)駆けつけて…歌人としての名誉に感激しつつ…会心の力作

恋歌詠進し…<負け>と報らされ…落胆して死にます…

忠見純粋無垢(じゅんすいむく)コミカル(/こっけいな、笑いを誘う、)姿に…私/響子好感

…こちらに贔屓(ひいき)します。そして、忠見純朴一途で、非常に幸福な生涯だった…

と思います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原実頼        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(355)

それにしても…

<持(じ)/引分け>…にできなかったかと思います。

こうした思いもあり…千年<優劣論争>となっているわけですね。

藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい/『百人一首』の、藤原定家の父。) 『古来風躰抄』(こらいふうていしょう

/鎌倉時代初期に成立した歌学書。)2首並べていますし…『百人一首』でも、2首並べて、

比較していますます。<持>と…見ている、のでしょうか…」