文芸俳句正岡子規・選集

        正岡子規・選集         
 

          柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺 〜                                                       <松山城>
      
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  トップページHot SpotMenu最新のアップロード/                          選者: 星野 支折

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プロローグ  = 選者の言葉 =  (1) <子規の句の選集に当たって>

                                  子規/明治維新・激動期の俳人
2011. 7.23
生い立ち            <・・・子規の生い立ち・・・> 2011. 7.23
No.1   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 2011. 7.23
No.2   風呂敷をほどけば柿のころげけり  2011. 7.23
No.   柿くふも今年ばかりと思ひけり   2011. 7.23
No.4   雪ふりや棟の白猫声ばかり 2011. 7.23

 

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (2) 子規/明治の旅姿 2011. 8.14
No.5   春や昔十五万石の城下哉   2011. 8.14
No.6   行く我にとどまる汝に秋二つ 2011. 8.14
No.7   六郷の 橋まで来たり 春の風 2011. 8.14
No.8   芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし  2011. 8.14

    

選者の言葉   = 選者の言葉 =  (3) 子規/子規庵 2011. 9.12
No.9   山吹も菜の花も咲く小庭哉 2011. 9.12
No.10   紫の蒲團に坐る春日かな 2011. 9.12
No.11   牡丹画いて絵の具は皿に残りけり 2011. 9.12
No.12   牡丹ちる病の床の静かさよ 2011. 9.12
No.13   鶏頭の十四五本もありぬべし  2011. 9.12
No.14   句を閲すラムプの下や柿二つ   2011. 9.12
No.15   思ひやるおのが前世や冬こもり 2011. 9.12
No.16   何事もあきらめて居るふゆ籠 2011. 9.12
No.17   湯婆燈炉あたたかき部屋の読書哉  2011. 9.12
No.18   釈迦に問ふて見たき事あり冬籠 2011. 9.12

            

  プロローグ   子規の句の選集に当たって   house5.114.2.jpg (1340 バイト)  

 
選者の言葉(1) 子規/明治維新・激動期の俳人 


     

      <明治神宮>                                                 <正岡子規>

 

星野支折です!

  小林一茶松尾芭蕉与謝蕪村に続き...いよいよ、近代/明治正岡子

(1867〜1902年)登場です。

  ええと...《当・ホームページ》では、この順で考察しました。でも、時代順で言

えば、“江戸時代・初期/元禄文化”松尾芭蕉...“江戸時代・中期/江戸俳

諧中興の祖”与謝蕪村...“江戸時代・後期/化政文化”小林一茶...と

いうことですよね。

  時代の推移という意味では、“明治時代・初期”正岡子規も...それほど

代的に離れているわけではありません。

  一茶没したのが1827年であり...子規誕生したのが1867年(明治元年の

前年)です。つまり、“一茶と子規の間は・・・40年”、ということですよね。あ、この

は面白そうですね。他も見てみましょうか。

  芭蕉(1644〜1694年)没したのが1694年です。そして、蕪村(1716 〜 1783年)

誕生したのが1716年ですから、“芭蕉と蕪村の間は・・・22年”ですね。そして、

蕪村没したのが1783年で、一茶(1763〜1828年)誕生したのが1763年です

から...“蕪村と一茶は・・・生存時期が20年重複”します。

  それから...子規に師事した高浜虚子(たかはまきょし:1874〜1959年/旧・松山藩士の

子/子規より虚子の俳号を授かる )は...第2次世界大戦後/昭和34年に、没している

わけですから、もう私たちと繋(つな)がっていますね...

 

  ともかく...明治期の俳人/正岡子規は...一茶が没してから、“40年後”

誕生しています。ところが、その後、大変なことが起こったわけです。 徳川幕藩

体制/江戸時代が...大瓦解してしまうわけです。

  さあ...〔明治元年〕...になります。天井の抜けたような、若い上昇志向時

が到来します。

  正岡子規は...明治元年前年に生まれ...このダイナミックな時代の、ま

さに中枢を駆け抜け...明治35年/満35歳で没しています。明治という、“時

代の寵児(時代のちょうじ: 時代に特別に可愛がられた子供)のような、俳人と言えるでしょう」

 

                                  

正岡子規という俳人で、特筆すべき点3つでしょうか...

  まず、@つは、“維新という・・・激動の時代背景”です...Aつ目は、“東大

予備門と・・・新聞日本の記者という・・・明治期/日本言論界での絶好のポ

ジション”を、得たことです。そして、Bつ目は、“凄まい闘病生活と・・・早世

(そうせい: 早く世を去ること)、ということでしょう。

  そこで...“俳句という・・・大きな表現力”...が展開したことだと思います。

“明治維新・・・激動の時代の心”を..子規は、俳句の感性を通して、私たちに

広く、深く、伝えてくれました...」

 

           

 

「ええ...

  正岡子規は...常規(つねのり)...正岡家名ですね。子規は、もち

ろん俳号です。この俳号は、(な)いて血を吐くホトトギスを意味しているそうで

すよ...つまり、という俳号は、ホトトギス異名なのだそうです。

 

  子規は、21歳の時に大喀血(大かっけつ)して以来、35歳で没するまで、肺結核

脊椎カリエスに苦しみました。特に、晩年の7年間は、子規庵(/東京都台東区根岸)

過ごしたわけですが、“床に伏臥(ふくが)する生活”を、強いられたようです。

  カリエスとは、骨が壊疽(えそ)を起こして、崩壊して行く疾患だそうです。結核菌

による脊椎カリエスが、代表的と言われます。子規腰痛/激痛は、この脊椎カ

リエスから来ていたわけですね。

  うーん...そのような苦しい病床で...子規は、死の直前まで、新聞/『日本』

執筆していたと言われています。俳句に打ち込んだ、壮絶な人生だったよう

すね。最後の句3句あったそうですが、次の句はそのうちの1句です...

 

     をとといの へちまの水も取らざりき    (子規)    

 

  ...ヘチマ(たん)を切る効能がある、と言われていました。それで子規は、

“子規庵/根岸の自宅”で、ヘチマを育て、そのヘチマの水痰切り服用してい

たようです。でも、それも、死出の旅の前には、忘れてしまっていたようです。それ

では間に合わないほどに、症状が悪化していたわけですね。

  子規は、東京という文明の中枢にいました。また、記者として、それなりの収入

もあり、地位もあり、多くの友人もありました。でも、肺結核脊椎カリエス末期

であり、当時としては、こんな治療しかできなかったのでしょうか。

 

  抗生物質/ペニシリン発見されたのは、1929年です。イギリス人医師/フレ

ミングによるものですね。でも、ペニシリン系抗生物質は、結核菌には効果はあり

ませんでした。肺結核に対しては、抗生物質/ストレプトマイシン発見まで、待

つ他はなかったのです。

  子規没したのは...ええと...日露戦争(明治37〜38年/1904〜1905年)2年

...明治35年(1902年)/9月19日(・・・へちま忌/子規忌・・・)ですね...

  そして...日露戦ロシアが敗れ...若き日のセルマン・ワックスマン(ウクラ

イナ出身/米ラトガーズ大学教授/生化学者)が、ロシアの大地からアメリカの地に、渡ること

になります。これもまた、運命なのでしょうか。

  ワックスマンは...アメリカの大学農学を学び...やがて、土壌中放線菌

から、抗生物質/ストレプトマイシン発見することになるわけですね。

  ストレプトマイシン臨床効果発表されたのは...ええと...第2次世界大

が...“広島・長崎への原爆投下”終了した後のことです。その翌年1946

のことですね。子規の闘病生活には、とても間に合いませんでした...

  かつて...日本にも、空気の澄んだ高原海浜に...サナトリウム/療養所

が、数多くあったようですね。それは、結核療養所をさすことが多かったようです。

  そうしたサナトリウムは、抗生物質/ストレプトマイシンが、広く社会に行きわた

るまで、続いたわけです...子規壮絶な闘病は、その先駆けだったのでしょう

か...」


 
        

 

現代社会では... 

  “死と向き合う”ことが少なくなっていますよね...“死”は、社会の表面から遠

ざけられています。

  こう言っている、私自身もまた...“重厚な文学的テーマ”などには...精神構

が耐えられなくなって来ているのを感じています。もまた、この社会の構成員

であり、その影響下にあるということでしょうか...

  そういうわけで...この際、子規を通して...“死と向き合ってみる”、という

のも、一考かと思います。以前、ボス(岡田)から教わった言葉ですが...『チベット

の死者の書/バルド・ソドル(BARDO THODOL)...の巻頭に、次のような言葉が

ありました。再度掲載しておきます...」     <・・・・・ボスの言葉は、こちらへどうぞ> 

 

***********************************************************

 

          『チベットの死者の書』の巻頭文

 

  “かれの意思に反して、人は死ぬ。死ぬことを学ぶことなく。死ぬことを学

べ。そして汝は、生きることを学ぶだろう。死ぬことを学ばなかったものは、

生きることを何も学ばないだろう・・・”

                                    『死ぬ技術の書』より

***********************************************************

 

「 ...かつては...

  身近な所に、ゴロゴロと転がっていました。芭蕉蕪村一茶も...そうした中

にあって、その覚悟の上で...を楽しみ、一期一会で人々に出会い...また、

名句をも詠んでいたわけですね...

  時代劇で...“覚悟しろ!”とか...“殿、お覚悟を!”...と言ったのは、“あ

の世へ参る・・・心の準備を!”...ということですよね。その“覚悟”ということを、

現代社会では学ぶ場がないわけです。そして、“死”が突然やって来て、まごつく

ことになるようです。

 と、真面目に対峙しない所には...“生を学ぶ”こともなく...また、真の文

真の名句というものも、存在しないのだと思います。私は、ご存知の通りの

熟者ですが、一緒に、少しづつ考察してみたいと思います...」

 

<・・・子規の生い立ち・・・>  8    

            

 

  支折が、顎に指を押し当てた。かすかに汗ばんでいた。今日も、ジリジリと暑く

なって来ている。

  ちょうど、ポン助がかき氷を盆に載せ、やって来るのが目に入った。サーッ、と

さわやかな風が入って来た。彼女は、反対側の窓の方を眺めた。開け放された

窓の外に、夏野菜が鬱蒼(うっそう)と茂っている。

  伸びたトウモロコシが毛を吹き出し、トマトが重そうに実をつけている。隣のキュ

ウリの藪は、葉の陰に瓜を隠し、黄色い花を無数に咲かせている。そして、窓際

のヘチマは、窓に日陰を作っていて、上の方にヘチマ瓜が垂れ下がっていた。

「御苦労さま!」支折が、盆の上からかき氷を取った。

「今日も暑くなるよな!」ポン助も、窓を眺めた。

「そうね、」支折も目を細めた。「今日は、何処かへ行くの?」

「オウ...

  ブラッキーのヘリで、《軽井沢基地》へ行って来るよな...響子が、厨房を手

伝ってくれって言うからよう」

「そう...」支折が、サク、とかき氷にスプーンを立てた。

   ポン助が、部屋を見まわし、ブラリと出て行った。

                                      

「ええ...」支折が、かき氷をソッと離し、姿勢を正した。「始めます...

  ともかく子規は...慶応3年9月17日1867年10月14日/明治元年の前年に...

予国/温泉郡/藤原新町(愛媛県/松山市/花園町)松山藩士/正岡常尚長男

として生まれました。母/八重は、藩の儒者/大原観山の長女ということです。

が、長女を嫁に出したわけですから、それなりの人物だったはずです。

  そして、子規没したのは...満35歳...明治35年(1902年)9月19日です。

つまり、子規は、維新の年/明治元年(1868年10月23日)前年に生まれ、まさに

大変革激流の中で、その35年の生涯を駆け抜けた...ということになります。 

(年齢にズレが出るのは...明治元年が...10月23日から始まり、わずか2ヵ月と1週間ほどしかなかったか

らです)

 

「うーん...」支折が、かき氷を口に入れた。「近代/明治時代に入り...

  子規資料も、質の高いものが、相当にあるようですね。写真資料もあり、激動

明治時代の群像も浮かび上がります。これが、子規という俳人の、歴史上

ジションの良さですよね...

  それは...そうした時代に生まれた人間の必然ですが...ともかく国家全体

が、(まれ)な上昇志向の時代にあり、若いエネルギーに満ち溢れていました。

  そうした中で、私にとって身近なのは...司馬遼太郎小説/『坂の上の雲』

に描かれている、正岡子規の姿です。

 

  日本海海戦で、ロシアバルチック艦隊撃破した...連合艦隊司令長官/

東郷平八郎・提督(艦隊の総司令官)麾下(きか: ある人の指揮下にあること)に...秋山真之

(あきやまさなゆき)・参謀がいました。その秋山真之が、子規竹馬の友だったという

ことです。

  秋山真之は...日本海海戦//決戦直前の状況を、本日、天気晴朗なれ

ども波高し・・・”...一報を、大本営打電したことで有名ですよね。俳句

ように、研ぎ澄まされた名文です...さすがに、子規の親友ですよね...

  その時...世界最大の艦隊を、目視で確認し...射程に入り、砲門を開く前

の...“武者ぶるいのような1報”ですね。まさに、“覚悟”はできていたと思いま

すし、国家存亡の一戦でした。

  この、秋山真之は、日露海戦全期間を通じ、連合艦隊/作戦主任をまっとう

した、稀代(きだい)名参謀です...」

 

              

「さて...正岡子規にもどりますが...

  彼は...明治期の...“俳人”“歌人”であり、“国語研究家”でもありました。 

名前は、前にも言ったように、常規(つねのり)です。幼名は、処之助(ところのすけ)

あり...後に、(のぼる)と改めています。

 

  子規の生い立ちは...松山藩士長男として生まれたわけですが、翌年

治元年(1868年10月23日)です。江戸/徳川幕藩体制は、すでに瓦解しているわけ

ですよね。そして、それ以後は、武士階級は誰もが、生活が困難な時代になって

行くわけです。

  “武士の商法”、などと揶揄(やゆ: からかうこと。なぶること)されたのも、この時代の出

来事です。高い気位邪魔をして、なかなか商人にはなれなかったようです。

士階級が、〔維新・・・大革命〕を引き起こし、武士階級時代から抹殺されたわ

けです。でも、もし、この“維新”がなかったなら、日本先進国にはなれなかった

わけです。

 

  ええ...子規の父は、明治5年(1872年)に没しています。それで、子規は幼くし

家督を相続しています。そのために、母方/藩の儒者/大原家、叔父の加藤

恒忠(拓川)後見を受けています。幼少時代は、大原観山私塾に通い、漢書の

素読しているようです。

  それから...明治13(1880に、旧制・愛媛一中(/現・松山東高校)に入学して

います。秋山真之とは、ここでも同級になっています。そして、明治16年中退

て、上京しています。東京受験勉強のために、共立学(/現・開成高校)入学

ています...

  その翌年には...旧・藩主家/久松家の、給費生となります。この点、高松藩

というのは...〔幕藩体制崩壊/明治維新〕...という大混乱期において、非

教育熱心だったようです...これも、詳しくは分かりませんが、特筆すべきこ

とかも知れませんね。多くの人物を輩出しているようです。

  ともかく...秋山真之も、子規を追いかけるように上京しています。それから、

二人とも、東大予備門(後の一高・・・現/東大教養学部)入学し、常盤会・寄宿舎(ときわ

かい・きしゅくしゃ)に入っているようです。

  常盤会・寄宿舎というのは...旧・松山藩主/久松家が、本郷坪内逍遥(つ

ぼうちしょうよう/明治時代の、小説家、評論家、翻訳家、劇作家)の邸を買い取り、建て増しをし、

常盤会寄宿舎としたものです。

  常盤会は、給費生も募っていましたが...秋山真之兄/秋山好古(あきやまよ

しふる/当時は、陸軍大学1期生だったでしょうか...?)援助で、就学していました。この

は、官費士官学校の道を選び、陸軍・軍人海軍・軍人の道を歩み、その方

面でトップに上り詰めています。

  子規は...東大予備門では、この秋山真之の他に...夏目漱石(小説家/1000

円札の肖像)南方熊楠(みなかたくまぐす: 博物学、生物学/特に菌類、民俗学山田 美妙(やまだ

 びみょう/小説家、詩人、評論家/言文一致体、新体詩運動の先駆者)など...明治期のそうそう

たる人物が、同窓生だったようです。まさに、そういう時代だったわけですね...

 

  明治23年...子規は、帝国大学/哲学科に進学したのですが、文学に興味

を持ち、翌年には国文科転科しています。この頃から...“子規”...という

を使っているようです。

  ええと、くり返しになりますが...明治22年に、子規21歳大喀血(だいかっ

つ)しています。それで...血を吐いて啼(な)く鳥/ホトトギス/子規(ホトトギスの

異称)としたようですよ。

  『坂の上の雲』では...その後、秋山真之官費海軍士官学校へ舵を切り

ます。子規大学中退し...叔父/加藤拓川の紹介で明治25年に、新聞/

日本記者になります。そして、ここが子規の...“文芸活動の拠点”...と

なるわけです...」

 

「さあ、それでは...

  まず、子規というものを...幾つか見て行きましょうか。そこから、

物の考察へ、切り込んで行くことにしましょう...」

 

                  

 

  <1>

  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺     


               

                         

「季語は...柿/秋ですよね ...“子規の最も有名な句”です。

 

  “法隆寺/斑鳩寺(いかるがでら/別名)”は、聖徳太子ゆかりの寺です。

良県/生駒郡/斑鳩町にある...聖徳宗/総本山ですね...

 

  第31代/用明天皇(?〜587年)は、自らのご病気の平癒(へいゆ: 病が治

ること)を祈り、寺と仏像を造ること誓願(せいがん)されました。しかし、その

実現を見ぬままに、御崩御されたのです。

  そこで、推古天皇(554〜628年)と摂政/聖徳太子(574〜622年)が、そ

の遺願を受け継ぎ、推古15(607年)に、本尊/薬師如来(やくしにょらい)

を納めるために、この寺を造営されたと、伝えられています。

  《与謝蕪村・選集》でもコメントしましたが...この推古朝から、歴史区

分としての飛鳥時代が始まっています。法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に

伝える、“世界最古の木造建築”として、広く知られています。ヒノキ造りで、

“1400年に及ぶ・・・日本における仏教の歴史”を、営々と積み重ねて来

ています。

  “多くの国宝”“重要文化財”も所蔵し、仏教文化遺産の宝として、

古代の香りを現在に伝えています。国宝・重要文化財に指定されたものだ

けで...約190件/2300余点に及んでいるそうです。 

  1993年12月...“ユネスコの世界文化遺産”...のリストに登録され

ています。これは、日本での初めての登録だったそうです。世界的にも、非

常に貴重な、仏教文化の宝庫となっているわけですね。

 

  “柿”...は、子規が最も好きな果物だったようです。その柿を、旅先で

食べていると...法隆寺の鐘が聞こえてきたのでしょう...

  季節は、秋...鐘の音は、澄んだ秋空に響いたのでしょう...秋の旅

情を感じさせ名句です...



  ところで...この句は、最初は法隆寺ではなく、東大寺近くの宿屋で詠

んだという説があります。研究家によれば、子規が奈良を訪れたのは、愛

媛県/松山での夏目漱石(/先生として赴任。松山は、『坊っちゃん』のモデルになっ

た所)との共同生活を打ち切り、東京へ戻る途次(とじ: 道すがら)だったという

ことです。

  肺結核を病んだ後、脊椎カリエスのために、また腰が痛み始めた頃で、

健康状態は良くなかったようです。でも、奈良を訪れることは、子規の長年

の願望だったといいます。

  子規は奈良へ着くと、東大寺/南大門近くの旅館に宿をとったといいま

す。そこでは...



      
大仏の足もとに寝る夜寒かな     (子規)



  ...という句を残しています。おそらく子規は、病気の回復を、大仏様に

祈ったことでしょう。同時に、人は死に、時代は移り、歴史が重ねられて行

くことを...子規は、寒々と実感したのではないでしょうか。

  さて...子規が部屋でくつろいでいると、旅館の女中が現れ、子規の好

きな柿の皮を剥(む)いてくれたそうです。その柿を食べていると...ゴー

ン...と東大寺の鐘が鳴ったのだそうです。この鐘の音が、非常に印象

的だったようですね。

  子規は、その時のことを...『ホトトギス』(俳句雑誌/明治30年に松山で創

刊。正岡子規・主催。翌年/東京に移し、高浜虚子が編集)の、明治34年4月25日

に掲載された...随筆/『くだもの・・・御所柿(ごしょがき)を食ひし事』に

書いているそうです。

  一方...子規が法隆寺を訪れたのは、奈良に来て4日目であり、その

日の天候は、あいにく雨/時雨(しぐれ)だったようです。したがって、子規

は、こんな句も詠んでいるわけですよね...

 

      いく秋を しぐれかけたり法隆寺    (子規)

 

      帰り咲く 八重の桜や法隆寺      (子規)

 

  うーん...“八重の桜”の句はともかく...法隆寺を訪れた時は、やは

り雨模様だったようです。

  子規は、蕪村の風景の写生/スケッチを高く評価し、それに傾倒したわ

けですが...ここでは東大寺の鐘の音と、法隆寺を合体させたのでしょう

か?

  ホホ...子規はどうしても、法隆寺にしたかったのでしょうね...むろ

ん、そこにより迫真性があるのなら、それでも良いわけです。写生ですか

ら、写真とは違い、真実にこだわる必要はないわけです。

  ピカソのようなキュビスム的な写生や...ダリのようなシュール・レアリ

ズム/超現実的な写生というものもあるわけです。

 

  芭蕉の...“荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)”...という名句も

そうです。その日は雨だったとか、天文学的に違うとか言われますが、芭

蕉は天文学者ではないし、天文学のことを言ったわけではありません。そ

れで、“雄大な名句”と、評価されているわけです。

  子規も...柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音を...法隆寺とした

のかも知れないということです。面白いですね。そして、この句が、まさに子

規の代名詞のような、名句になっているわけです。

  写生と、かけ離れているといえば...子規が師と仰ぐ蕪村などは、丹波

太郎(丹波の空に出る入道雲)と酒呑童子(その辺りを根城にする鬼の頭領)を、合体

させていましたよね...

  ホホ...絵画による写生と、言語による写生の違いなのでしょうか...

 

  さて、句意ですが...柿を食べていたら、秋空の中で...ゴーン...と

澄んだ鐘の音が響いて来た...と詠んでいます。

  薄暮の中に沈んで行く...法隆寺・五重塔...法隆寺・金堂...法隆

寺・夢殿などの大伽藍が...また1日...尊い古(いにしえ)からの...時

を重ねて行きます...

  その鐘の響きに...推古朝の華やかな飛鳥文化が...1400年前の

歴史の彼方から...その笑い声が、かすかなさざめきのように...聞こ

えて来はしないでしょうか...

 

  子規は...脊椎カリエスで、腰の痛みが再発して来ている中で、過ぎ去

りし古代王朝の繁栄を、どのように感じたのでしょうか。それは、私たちの

想像の及ばない...子規にしか、知りえない世界...ですね...

  でも、私たちには私たちの、“〜柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺〜”、があ

るわけです。子規は、その名句を残し、私たちと古代王朝をつないでくれま

した...

  その時、私たちは...学生かも知れないし...子規のように病気かも

知れませんね...あるいは大きな希望が、まさに成就しようとしている時

かも知れません...

  そのように感じさせる句が...心に残る名句なのでしょうか...」

 

  <2>

  風呂敷をほどけば柿のころげけり 

         (ふろしき)

                                    

 

「この句も、季語は...柿/秋ですよね ... 

 

  風呂敷というのは、御存知だと思います。ちょっとなつかしい、日常生

活の万能・小道具です。これは、今でも非常に便利ですよね。上に、唐草

模様の風呂敷包みのイラストがあります。何でも包んで、キュッと結べば、

1つのお荷物になります。

 

  さて...この句を調べてみたら、エピソードがありました。明治32年の

ことです。栃木県在住の小平宗平から、南八という者が荷物を預かり、根

岸の“子規庵子規宅”に届けて来たそうです。

  大きな風呂敷包みだったのでしょうか。子規が、さっそく風呂敷包みを開

けてみると、荷物の端から、柿がゴロゴロと転がり出て来たということです

ね。子規は、この柿がよほど嬉しかったのでしょうか。

  それにしても...小平宗平とは、何者なのでしょうか?ネットで検索して

みましたが、ヒッませんでした。俳句関連の、ゆかりの人だったのでしょ

うか。ホホ...また、浅学のほどを、晒(さら)してしまいました...

  子規が没したのは、明治35年の9月19日ですから、明治32年といえ

ばその3年前であり...まさに病床にあった時ですよね。

  “子規庵/子規宅”は...旧・前田侯(加賀藩100万石)/の下屋敷/御

家人用二軒長屋だったといわれています。明治27年に、子規はこの家に

転居し、松山から母と妹を呼び寄せています。

  この“子規庵”は...病室であり、書斎であり、句会や歌会の場として

も使われたわけですね。子規はここで、多くの友人、門弟に支えられ、俳

句、短歌、国語学に邁進する人生を送ったわけです。

 

  ええと、句意ですが...“風呂敷をほどけば柿のころげけり”...とは、

これもまさに、字句通りですね。説明する必要もなく、明瞭な風景です。 

  子規は...写生/スケッチに...傾倒した句を作っていたわけです。

でも、少し行き過ぎの観があると言われます。うーん...どうなのでしょう

か...ともかく、次の句を見て行きましょう...」

 

  <3>

  柿くふも今年ばかりと思ひけり  

                        



「季語は...同じく...柿/秋ですよね
...

 

  この句は...いよいよ、不帰の客となる年に、詠んだ句のようですね。

子規が亡くなったのは、何度も言いますが...明治35年9月19日で

す。この日は...“へちま忌/子規忌”...になっているわけですね。

 

  うーん...どうなのでしょうか?9月19日で...柿が、熟しているので

しょうか?早生の柿なら、この季節には、食べられたということでしょうか?

あ、でも...その年に、そう詠んだのだとしたら...やっぱり、そうなので

しょうか?ホホ...浅学の徒が、余計な心配をしてしいます。

  ええと...そう言えば...一茶も、父が今際(いまわ: 死にぎわ)の時...

春だったか、夏だったか忘れてしまいましたが...何故か、梨が食いたい

と言いだしたようですね。

  それで一茶は...信濃/柏原宿から、善光寺の方まで...梨を買い

に出ています。でも、やっぱり売っているはずもなく、トロトロと引き返した

ようですね。笑えない話ですが、現在なら分かりませんよね。冬でもスイカ

やキュウリが売られている時代です。

 

  句意ですが...柿くふも今年ばかりと思ひけり”...とは、これも字句

どおりです。肺結核と、脊椎カリエスを患っていた子規は...病床7年あま

り...いよいよ、自ら死期を悟ったようです...

 

  それにしても...若い身で...これほど長く、自らの死を見つめた人間

も、珍しいのかも知れません。

  生物体は、“生まれてきて・・・死ぬだけ”、ですが、それが主体性の覚醒

と関わると、個人としては、それこそ、一大事になるわけです。

  特に...“文学者/俳人の発信力”が..そういう事態と遭遇した時、多

くの作品を残してくれますよね。

  私は...“浅学の者/・・・子規の研究に関しては初心者”ですが...

子規の作品というのは、この闘病とは、不可分のもののようですね...

  “死”は、私たちにも必ず訪れるものです...“子規の風景”を通して、

そのことを、しっかりと見ておきたいと思います...」

 

  <4>

  雪ふりや棟の白猫声ばかり  

                    (むね)


「季語は...雪/冬です...

 

  “棟”とは...屋根の最も高い所です。2つの、屋根面が接合する部分

のことですね。でも、その棟の上/表面ではなく、下/屋根裏側に、猫が

入り込んでいるのでしょうか。

  子規は、愛媛県/松山で生まれ育ったため、雪の降る本格的な冬とい

うものを体験していなかったと思われます。そして、東京で初めてそれを体

験したのでしょう...明治初期(/明治18年に詠まれた句)の、東京の光景で

す...

  子規は、明治元年の前年に生まれていねわけですから...やはり子規

も18歳ぐらいの時ですしょう。東京は、江戸幕藩体制から、近代/明治時

代に移行し、急速に変わりつつあったわけですね。

  何百年と続いた、公方様がいなくなり、天皇が千代田のお城に入り...

周りには、西洋建築もどんどん建てられて行ったわけです。でも、まだ明治

18年のことであり、江戸時代の家屋や街並みの方は、それほどの変化は

なかったのでしょうか。そんな時代に、詠まれた句ですね。

 

  “白猫”というのは、その辺りでウロウロしている、子規と顔なじみの白猫

なのでしょう。姿は見えないけれども、白猫と分かる関係のようですね。 

  若い子規は...このような、“維新の策源地/東京”に上京してきてい

ても、視線は“猫”などにも向いていたわけですね。雪の降る、本当の冬と

いうものに感動し...そこに松山でもなじみの“猫”を見て...安定した句

にしています。

 

  この句は...現在判明している“子規の最も古い句なのだそうです。

松山を出て2年目...東京で受験勉強のために、共立学(現・開成高校)

に入学し、それから、東大予備門(のちの一高・・・現/東大教養学部)に入った

時代句ですよね。

  ちなみに...明治18年1日付松山の竹村鍛(たん)送付した

紙にも...この句が添えられていたようです。つまり、詠まれたのは、それ

以前ということになります...正月前か、正月後でしょうか...

  竹村鍛(たん/錬卿・黄塔)...子規の無二の親友であり、文学面の好敵

手でもあり...河東碧梧桐(かわひがしへきごとう: 俳人、随筆家...松山生まれ。

高浜虚子とともに子規に師事)番目の兄のようです。松山の学生時代は、共

に回覧・小雑誌を作ったりしていた仲間で、子規の文学的基盤は、この頃

に作られていたようです。

 

     朝霧の 中に九段のともし哉(かな)    (子規)

 

  ...この句も、同じ明治18の句です...“九段のともしは、九段の

灯...靖国神社の門灯と思われます。この頃すでに、靖国神社があった

ということでしょうか?ともかく、時代が急速に流れていますよね...

  ええと...子規が喀血するのは...明治22年/21歳の時です。これ

らの句は、それよりも4年ほど前のものです...」


 

 

  選者の言葉 (2) 子規/明治の旅姿   


 
  

   <旅姿の子規・・・明治24年/房総の旅>                                  <わらじの緒を結ぶ子規・・・明治25年/箱根の旅>

 

星野支折です...

  マグニチュード9.0の地震津波災害4機まとめての同時原発事故、そして

集中豪雨による水害被災地方での電力の逼迫(ひっぱく)...そうした中で、東北

新盆(にいぼん/あらぼん: その人が死んで最初の盆)を迎えました。

 

  “盆”季語は、秋/初秋ですね。は、盂蘭盆(うらぼん)の略で、陰暦/7月13

日〜16日にかけて行われる先祖供養です。陽暦の、8月13日〜16日になりま

すね。これは、古い昔からの慣習です。

  13日の夕方先祖をお迎えし...精進料理野菜果物お菓子等をお

供えし、ご供養をします...そして16日には、先祖あの世へ送りかえすわけで

すね...その送り火としては、“灯籠流し”や、京都“大文字送り”などが有名で

すよね。

  あ...東京など、陽暦7月13日〜16日に行う地方も多いようですね。その

頃になると、お坊さんを歩いているのを見かけたりしますよね。

  その東京でも、“お盆/藪入り”は、8月ということになるのでしょうか...うー

ん...浅学のため、混乱しています。申し訳ございません。あ、でも、今は“藪入

り”なんてことは、言いませんよね...ホホ...

 

  ええと...孟蘭盆会(うらぼんえ)は、盂蘭盆経の...“目蓮(もくれん:目犍連/もくけ

んれんの略/モッガラーナ・・・ 釈迦の10大弟子の1人救母の説話”...にもとづく行事だそう

です。

  これによれば、目蓮釈迦の教えに従って...7月15日自恣日(じしにち: 夏安

居/げあんご・・・夏行の、最後の日)に、百味の飲食僧侶を供養したので...餓鬼道

落ちを救うことができた、と言います。

  この故事によって...7月15日盆供養は、7世の父母をも救いうる、と考え

られています。うーん...7世前までの先祖ということでしょうか...

  中国では6世紀前半ごろ...(りょう)の武帝によって、孟蘭盆会が始められた

ようですね。日本では657年(斎明天皇3年)に...初めて、孟蘭盆会を設けたとさ

ています。以後、宮中でも孟蘭盆会が催され、恒例行事となっているようです」

            

「ともかく...」支折が、脇にあるハンカチの上に手を置いた。「東北被災地も、

お盆が過ぎれば、例年のように、すっかり涼しくなるのではないでしょうか。頑張っ

て欲しいと思います。

 

  それにしても...私たちは、くり返し主張しているわけですが...日本社会

インフラは、“地球規模の気候変動”に対し、非常に脆弱になって来ています。

  今回、壊滅状態となった東北沿岸社会インフラは...“あらゆる自然災害”

に対して盤石な...〔未来型都市〕...を是非、創出して欲しいと思います。

  また...“文明由来の災害・・・経済破綻/食糧危機/感染症パンデミック

/火災/科学技術上の巨大危機”...に対しても、構造的に対処できる、〔未

来型都市/自給自足機能を備えた都市〕...を展開して欲しいと思います。

  〔未来社会への遺産・・・極楽浄土/パラダイス〕...は、もう視界に入って

来ているのではないでしょうか...是非、それを、実現して欲しいと思います、」

 

<明治の旅姿>       

            

「ええ、さて...上の写真は、旅姿正岡子規です...

  ようやく写真資料が残る、明治時代になりました。これはネットで見つけたもの

ですが、著名文学者であり、今さら肖像権もないと思い、掲載しました。何かの

権利に抵触するようでしたら...申し訳ないことを致しました...」

 

「うーん...」支折が、団扇(うちわ)を取り上げ、胸元を扇(あお)いだ。「一茶が没し

てから...“40年後”...子規が誕生しているわけですよね...

  一茶は、僧形(そうぎょう: 僧の姿)で旅をしていました。芭蕉も、蕪村もそうでした。そ

して、それ以前の歌人/連歌師である、西行・法師宗祇・法師も、法師などと呼

ばれていたわけですから、当然、僧形だったわけですね。

  発句を詠み、日本中漂泊している歌人俳人は、遊行(ゆぎょう: 僧などが、

布教や修行のために、諸国をめぐり歩くこと)僧形が、人々に怪しまれることもなく、都合が

よかったものと思われます。

  そうした僧形というものが、一種の職業的服装にもなっていたのでしょうか。

のようで、本当の僧とは少し違い、しばしば寺にも出入りしている姿ということ

で、なんとなく風流人だと分かるような...それで、周囲の視線も、納得できたの

かも知れませんね。

  うーん...確証はないのですが...子規はおそらく、僧形だったことは一度も

なかったと思います。ともかく、上の写真のような姿で、旅をしていたわけですね。

やはり、文明開化/明治時代の空気を感じますよね。近代空気です...

  でも...脚絆(きゃはん: 旅行、作業などの時に、スネにつけて脚ごしらえをした布)に、(はかま)

に、草鞋(わらじ)、そして、大きな菅笠(すげがさ)という写真に残る子規旅姿は、

戸時代と何ら変わらないものです。

  明治時代は、急速に西洋文明が入って来るわけですが...写真/左の肩に

見える振り分け荷物も...写真/右風呂敷包も...明治25年当時旅装

偲ばせます。これが、当時の普通の旅の装備だったわけですね。

  江戸時代/260年というより、それ以前から何百年も続いて来た、日本旅人

の姿です。江戸時代には、五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)をはじ

め、街道宿場が整備され、旅/交通/物流も、随分と洗練されて来ました。

  でも、個人装備は、鉄道旅行が本格化するまでは、あまり変化はなかったよう

ですね。そして、やがて鉄道旅行の時代が長く続きます。そして、さらに旅客機

参入して、距離が飛躍的に伸び、国際的になります。

  こうした輸送力というものは、軍隊機動力とも不可分のものでした。また、こう

した大輸送力と並行して、自動車というものも、大きく変貌させてきました。も

う、草鞋菅笠は、何処にも見当たらなくなりました。かすかに名残りがあるのは、

ハイキングトレッキング登山装備でしょうか。

  うーん...写真では、も見えます...これも、いかにも時代を感じさせるもの

ですね。江戸時代では、士分の者二本差しだったわけです。ともかく、この重い

無用の荷物は、無くなったわけですか。 

  要するに...この写真では...ザンギリ頭髪型だけが、文明開化の時代

感じさせています。

 

  日本全国に...急速に鉄道が敷かれ...輸送力飛躍的に増大して行きま

す。まさに、富国強兵を見せつけるのが、鉄道だったわけですね。そして、いわゆ

も、旅行という形態に変貌していくわけです。西洋建築物が増え、旅の形態

/旅姿も、激変して行くわけです。

  でも、それは...鉄道の敷かれた周辺や、ハイカラな船旅のことで、他では相

変わらず、草鞋(わらじ)が使われていたわけですよね。草鞋草履(ぞうり)は、手軽

に、自分で作れる履物でした。その意味で、非常に便利なものだったのです。

  子規親友漱石も...私たちは、千円札の肖像/ダンディーな背広姿が馴

(なじ)んでいますが...明治28年/松山中学(/『坊っちゃん』のモデルになった所)へ赴

任した頃は、子規写真のような旅姿だったのでしょうか。ホホ...愉快ですよ

ね。

  あ...漱石はこの後、イギリス留学するわけですが...そこで、英国風

ンディー紳士服/背広が身についたのでしょうか。

  でも、『坊っちゃん』を読んでみると、漱石子規と同様に、“やんちゃな性格”

のが分かります。そんな二人ですから、仲が良かったわけですよね...」


<新聞『日本』への・・・入社に関して >     

                
       
<ホトトギス: 夏の季語/渡り鳥/ヒヨドリよりも大きく、ハトよりは小さい・・・>


「ええと...

  子規は...明治25年/25歳の時...後見人でもあった叔父/加藤拓川

紹介で新聞『日本記者になります。ここを、文芸活動の拠点とするわけです。

 

  新聞『日本について...ちょっと調べてみたのですが、陸羯南(くがかつなん/

1857〜1907年/・・・青森県/弘前市の生まれ)によって創刊されています。彼は上京し、

法省/法学校入学しましたが、中退して帰郷し...青森新聞社主筆をして

います。子規もそうですが、当時はよく、気軽に学校中退していますよね。

  それから、明治16年に再び上京し...太政官御用係官報局/編集課長

歴任し...明治21年に、新聞『東京電報』発刊しています。そして、その翌年

/明治22年に、新聞『日本』創刊しています。子規が、最初の喀血をした頃で

しょうか。

  陸羯南は、新聞『日本』社長兼主筆でした...この時代に、徳富蘇峰(とくとみ

そほう/1863年〜1957年/・・・九州/熊本の生まれ。徳富蘆花の兄。民友社を設立し、『国民の友』、『国民

新聞』を発刊・・・後に、政界に入る)等と対峙し...独自の論説を展開した、孤高のジャー

ナリストだったようです。

  この陸羯南は...明治25...新聞『日本』子規を迎えるにあたり、次のよ

うに述べたと言われています...

 

  別に、これというほどの仕事も無いから、いやな時は出勤しなくてもよろしい。

その代り月俸は15円である。社の経済上予算が定まっているので、本年中は致

し方が無いが、来年になれば多少何とかなるであろう。それまでのところ、足りな

れば自分が引受けるから...”

 

  うーん...就職氷河期昨今では...まるでのような就職ですよね。それ

とも、俳句をひねっていた子規を、よほどの逸材と見たのでしょうか...あるい

は、叔父/加藤拓川紹介/コネが、よほど効いたのでしょうか...?

  もちろん...家柄人脈で、乗り切れる言論界ではないわけです。やはり、

才能/可能性を見ていたわけですね...

  その前年/明治24年/写真左...子規房総へ旅をしています。そして、

治25年/写真右...今度は箱根へ行っているわけです。こうした、旅/行動力

と、俳句と、文章力が、高く評価されていたわけでしょうか。ホホ...なんとも、お

おらかな時代でした... 

   あ、この新聞『日本』ヘの入社のことで...子規は、叔父/大原恒徳(母/八重

の弟)手紙を送っています。それは、このようなものだったと言います...

 

  (もっとも)我社之棒給にて不足ならば...他の国会とか朝日新聞とかの社へ

世話致し候はば...三十円乃至五十円位之月俸は得らるべきに付其志あらば

云々と申候へども...私はまづ幾百円くれても、右様の社へは入らぬ積に御座

候...”

   ...というものだそうです。

  ふーん...互いに惚れ込んでいたのでしょう...ともかく、ようやく給金をもら

えるようになり...松山にいる妹/律を呼び寄せ...東京で一緒に暮らし

始めます。21歳の時喀血していたとはいえ、子規は男として、独り立ちができ

たわけですね。

  これは...こうした世界では非常に重要です。一茶などは、江戸俳諧宗匠

して独り立ちするを、ついに果たせず、故郷/柏原に帰って行くわけです。

  子規の場合は、俳句はそれほどうまくはありませんが...新聞『日本記者

という...明治/言論界の枢要なポストを...楽々と得ているわけです。こうい

うことからも、“時代の寵児(ちょうじ)のような俳人”、と言ってきたわけですね。

  入社・翌年/明治26には...新聞『日本に...『獺祭書屋俳話(だっさいしょ

おくはいわ)連載し、俳句革新運動を開始します。ともかく、その評判が良かっ

というわけです。評判が良くなければ、続けられません。やはり、実力の世界

すから...

 

  さらに...翌・明治27年/夏...日清戦争勃発します。すると、子規は、

28年/4月に...近衛師団(このえしだん: 大日本帝国陸軍師団の1つ。一般師団とは異な

り、最精鋭/最古参の部隊天皇皇居を警衛/儀丈部隊としての任務もあり・・・付きの従軍記者とし

て、中国大陸/遼東半島に渡ります。

  でも...上陸2日後...“下関条約調印れ、戦争は終わってしまいます。

その前の、血気盛んな子規です...

 

行かば我れ 筆の花散る所まで    (子規)

 

  ホホ...子規予想に反し...日清戦争はあっけなく勝利してしまいました。

俳句に見られるように...勇んで参加した従軍の仕事は、物見遊山のような

になってしまいました。

  子規のはしゃぎぶりは...当時の戦争というものを考えると...仕方のないこ

とと思われます。戦争が本当に不毛で、悲惨なものになって行くのは...第1次

世界大戦からだと...軍事担当/大川慶三郎さんが、私に話してくれました。

  第1次世界大戦では...主戦場ヨーロッパだったわけですが...本当に多

くの人々が死んで行ったようですよ。

 

  西部戦線では、塹壕(ざんごう: 敵弾を避けるために、溝を掘り、前方に土や土のうをつみあげたもの)

が生起したと言います。その長大な塹壕線は...スイス国境からイギリス海峡

まで延び...数百万もの若い兵士が動員され...ライフル銃機関銃の前に、

生身の体をさらしたわけです。

  塹壕に対する迫撃砲(/曲射弾道)や、毒ガス飛行機戦車などの新兵器も続々

と投入されましたが...新兵器は、量的に、戦局を変えるものにはならなかった

と言います。そうした中で、長期・消耗戦の様相になり、多くの若い命が失われて

行ったといいます。

   それに加えて...“スペイン風邪”パンデミック(世界的大流行)が重なり...

がさらに膨大な数量に膨れ上がり...厭戦(えんせん: 戦争をするのを、嫌に思うこと)

が拡大したといいます。

  ええ...“スペイン風邪”は...1918年〜1919年にかけ、世界的大流行

したインフルエンザ(/1918年ウイルス・・・【H1N1型】)です。推定/感染者6億人死者

4000万人 〜 5000万人(日本における死者は48万人)といわれ、このインフルエンザ

により、第一次世界大戦終結が早まったとも言われています。

  ええ...諸説ありますが、第1次世界大戦での戦闘員戦死者900万人

非戦闘員死者1000万人負傷者は2200万人と推定されています。これま

での戦争とは、一桁二桁も違う犠牲者が出ています。まさに巨大な悲劇でした。 

 

   日清戦争日露戦争は...それと比べれば...旧来型戦争の比較的のんび

りとし戦争でした。そんな戦争で、戦地/大陸に渡った子規は、早々に帰国を余

儀なくさせられるわけですね。

  でも...大陸では、面白い邂逅(かいこう: 思いがけなく出会うこと)もあったようです。

鴎外などとの、戦地での再会です。日本帰国する前...5月だったようですが、

子規/兵站部/軍医部長/森林太郎(森鴎外/もりおうがい: 明治/大正期の、

小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医・・・後に、軍医総監=中将相当  )等に、挨拶(あいさつ)

し、帰国の途についています。

  誰が言ったのか、分かりませんが...森鴎外等との交際は、“遼東(りょうとう/遼

東半島)五友の交わり”と称されていたそうですよ。“五友”とは...森鴎外新聞

『日本』中村不折『読売新聞』東銓(かわひがしせん: 俳人/河東碧梧桐の兄

松定(ひさまつさだこと:伊予松山藩主/久松家の当主/軍人)、そして、正岡子規だそうです。

 

  子規鴎外交際は...子規が没するまで続いていたようですね。これは、

結核脊椎カリエスを病む、患者/子規に対し、医師/鴎外のような感情もあっ

たのでしょうか。

  ともかく、子規には鴎外のような、医師の友人もいたわけですね。そうした意味

では...“当時としては・・・非常に恵まれた患者”...だったとも言えますよね。

  そうそう...くり返しますが...子規鴎外は、大陸/戦地で初めて会ったわ

けではありません。新聞『日本』記者として、すでに文名の高い、そして5歳年

鴎外とは、それ以前にも接触する機会はあったようです。

  でも...異国の戦地での再会は、特別深い友情を育んだようです。鴎外

日記にも、子規とは俳句のことを談じたという記録が残っているそうです。鴎外

とっても、子規との友情には、特別の思いがあったようです。

 

  翌/明治29年/正月...子規庵での句会には、鴎外も招かれて参加してい

ます。またそれ以後も何度子規庵での句会には参加しているようです。

  子規庵での句会には、鴎外漱石、そして虚子碧梧桐へきごとう)も、顔をそろ

えていたことになります。また、子規の方でも、鴎外が創刊した雑誌/『めさまし

草』には、子規一門をあげて、俳句評論を寄せ、それにを添えたと言うことで

す。

  うーん...二人の交流は、鴎外九州/小倉に転勤する明治32年まで、続い

たようですね。“やんちゃな子規”も、5歳年長鴎外に対しては、礼節を持って接

していたと言われます。

  そうですよね、分かる気がします...鴎外軍人/軍医しても、すでに

当に偉い人でした。子規の周りの、ジャレあっている仲間とは、人間の格違って

いたわけですね。そこは、子規十分に承知していたわけです。

  一方...死病を背負っている子規は...漱石はじめ周りの者には、“お山の

将ぶり”、を発揮していたようですよ。また、周りの者も、子規才能を愛し、

許し、慕っていたわけですね...」

                    


「さて...

  子規を大きく進行させたのは、日清戦争への従軍だったようです。やはり、

死病を持つ身であり、無理があったのでしょう。また、子規も若いわけですから、

を離れ、羽目を外してしまうこともあったのでしょうか。

  子規は...明治28年月/帰国の船上で...大喀血重態となります。そし

て、上陸地/神戸で、そのまま病院入院しています。それから、神戸/須磨・

保養院で静養した後...故郷/松山へ帰っていますよね。

  うーん...この頃は、妹/律も、東京に呼び寄せていたわけですが、故郷

には親戚友人も多くいたというわけですね。

  また...親友/漱石が...ちょうど松山中学校に赴任して来ていたわけです。

子規は、しばらくして、漱石下宿同宿するようになり、そこで俳句会などを開

いたりしています。

  この辺りは...どうなのでしょうか...明治/近代になったとは言っても、一茶

が没してから、それほどの歳月がたっているわけではありません。

  行動範囲/見聞飛躍的に拡大していても、素朴な楽しみというものは、伝統

句会であったり、茶会であったりしたわけですね。それが、文化というも

のなのでしょう...

  あ、余計な心配ですが...子規茶室というのは、あまりにあわないように思

うのですが、どうなのでしょうか...ホホ...浅学を、恥じ入っております...」


  
   


「ええと...

  ここで、鉄道のことを少し説明しておきましょうか。明治日本の風景が、年々

日々変貌して行った様子がうかがえます。草鞋/二本差し/長持・毛槍(けやり:

先端に羽毛の飾りをつけた槍。大名行列の先頭などで、振り歩くもの)大名行列の時代から、鉄道

旅行の時代に流れて行きます。

 

  東海道線・・・“新橋 〜 神戸間が全通”したのは、明治22年7月1日のこと

です。 東北線・・・“上野 〜 青森間”は、明治24年9月1日全通しています。

山陽鉄道・・・“神戸 〜 広島間”は、明治27年6月開通しています。

 

  明治28年...子規松山から東京への帰京は...松山/三津浜から、

広島/宇品まで行き...山陽鉄道広島から神戸まで行ったようですね。

それ以前は、“松山 〜 宇品 〜 神戸”への旅程には、が使われていたようです

ね。

  うーん...私には、経験がないので分からないのですが...広島/宇品から

神戸へは、やはり鉄道の方が良かったのでしょうか。当時は、旅客列車の方が

イカラであり、珍しくもあり、便利だったのでしょうか...?

  現在の私なら...瀬戸内海の島々を眺めながら...海路の方を選択すると思

うのですが...ホホ...勝手なことを申しました。

 

  ええと...それでは...俳句の方を見て行くことにしましょうか...」

                

  <5>  
    春や昔十五万石の城下哉                 

  
               




「季語は...もちろん、春/春です...

 

  “十五万石”とは...子規の故郷の伊予松山藩/十五万石です。現在

の愛媛県松山市を中心に、久米郡・野間郡・伊予郡などを領有した藩のこ

です。

  江戸幕藩体制下では...石高(こくだか: 収穫する米穀の数量)で、その藩の

国威と、おおよその広さが分かりました。したがって、城下町や、山野の豊

さや、文化・経済の潤いまでが、この一言で推し量れます。

  そうした藩の版図/石高/藩主がいて...お国自慢があり、人々のア

イデンティティー(自己同一性)が育まれ...またその中で、様々な悶着や遺

恨や、大騒動などもあったわけですね。

 

  日清戦争の従軍から帰り...神戸に上陸/入院した子規は...神戸

の須磨・保養院で静養した後、東京へは直接帰らずに、伊予/松山に帰

郷したわけですね。

  この...“春や昔十五万石の城下哉”...の句は、この時に詠んだも

のです。病身の子規にとっては、母や妹は東京にあっても、懐かしい故郷

の海であり、山野であり、町のたたずまいだったわけです。 

  細かいことは分かりませんが...ともかく、8月27日に...子規は、親

友/漱石の下宿に移り、しばらく同居生活を送っています。ちなみに

石は、明治28年4月から1年間、松山中学校の英語教師を務めていたよ

うです。 

  うーん...明治の文豪/子規・漱石・鴎外は...明治28年当時、こん

なことをやっていたわけですね。もっとも鴎外は、この時すでに、第2軍/

兵站部/軍医部長でしたから、相当に偉かったわけです。

  でも、漱石は...『坊っちゃん』のようなことをやり...子規は、東京へ

の帰路、奈良に立ち寄り、“法隆寺の句”を詠んでいるわけですね...」

                

「さて...“春や昔十五万石の城下哉”...の句に戻りますが...

  子規は、松山城の昔を懐かしみ、その風情を伸びやかに歌っています。

でも、子規が生まれたのは、明治元年の前年であり...城が城として機

能していたのは、その幕末の1年たらずでした。つまり子規は、その“昔”を

体験していないのです。でも、その栄華の頃を懐かしんでいるわけですね。

  明治維新の時期...松山城下の人口は、旧・武士階級を含め、3万人

ほどだったそうです。そんな田舎の風景の中で、漱石が教鞭をとり、大喀

血した子規が療養に帰り、秋山真之は海軍将校として海戦に参加していま

した。

 

  維新前夜...松山藩は、佐幕派(/幕府の側)に属していました。それ

で、官軍/土佐藩の占領を受けるわけですが、その時に、15万両の戦争

賠償金が要求され、支払っています。

  そのため、松山藩と松山藩士は、経済的な困窮状態にあったと言われ

ます...そこで、かつて繁栄した伊予松山/15万石も、昔のことになって

しまった...と、“春”に込めて詠んでいるわけです。それと、こんな句もあ

ります...

 

春や昔 古白(こはく)といへる男あり   (子規)

 

  ...古白(こはく/俳号)は子規の従弟(いとこ)で、この年、ピストル自殺を

しています。

  明治28年4月24日...子規は、遼東半島の先端/金州にいました。

その子規のもとに、東京の川東碧梧桐(かわひがしへきごとう)より、古白の訃

(ふほう: 死去したという知らせ)を伝える手紙か届きました。

   古白/藤野潔は、子規の母/八重のすぐ下の妹の長男です。子規よ

りは3〜4歳ぐらい年下のようです。彼は子規とともに俳句を志しましたが、

途中で文学に転向しています。

  その、文学上の失意から、ピストル自殺をはかったようです。子規がそ

ばにいれは、こんなこともなかったのでしょうか...うーん...それは分

かりませんが、ピストル自殺ですか...

  あ、中国/遼東半島/金州といえば...子規はここに滞在中に、旧・

松山藩主/久松定謨(ひさまつさだこと)に招かれ、金州第一の割烹店/宝

興園で一夜の宴を賜っています。

  これも、“遼東五友の交わり”の一環なのでしょうか...そんな折に、訃

報が届いたわけですね。子規の日清戦争従軍の仕事は、このようなもの

だったわけですね...」

 

  <6>              

            行く我にとどまる汝に秋二つ   

                                                                                          (なんじ)                                
           

                  

 

「季語は...秋/秋ですね...

 

  この句は、日清戦争から帰国した...明治28年10月末...子規が

故郷/松山での漱石との共同生活を打ち切り、東京に帰る際、漱石に贈

った挨拶句です。

 

  句意は...“東京へ行く我と・・・ここにとどまって教鞭をとる君と・・・秋

は二つに分かれて進んで行くことだ”...と詠んでいます。

  この句は、後に、新聞『日本』/明治31年9月25日付に、掲載されたと

いうことです。ええと...芭蕉翁が、似ている句を詠んでいるので、掲載

ておきます...

 

     蛤(はまぐり)の ふたみに別れ行く秋ぞ   (芭蕉)

 

  この芭蕉翁の句は...俳人/楠本憲吉が、似ている、と指摘したとの

ことです。うーん...確かに似ていますよね...

  でも...子規の句の方は、まだ若く、青臭く、直接的な表現ですよね。

あ、でもこれが、当時、子規が蕪村から学んだという、“写生表現”というこ

となのでしょうか?

  子規は...明治の開国期という時代的要請もあり...写実性の強い、

西洋画にも刺激されたと言われています。俳句の情景に、“明瞭な写生”

という手法を、強く取り入れたということです。

  浅学な私には...よく理解できないのですが...蕪村のようには成功

していないのではないでしょうか。まだ、何とも言えませんが...

 

  ホホ...でも、芭蕉の句と比較して...蛤の出汁(だし)が十分に効いて

いないような...固い味ですよね。でも、子規は...“芭蕉の句は・・・巧

(たく)み過ぎるきらいがある”...などとも言っているわけです。この芭蕉

の句も...“巧み過ぎる”...ということでしょうか...?

  確かに...“上手すぎる俳句”というのは、分かるような気がします。で

も、芭蕉翁のこの句はいいですよね...“蛤”がいいですね...

  逆に...子規は、“写生表現”にこだわりすぎ...俳句のエキスの部分

まで、削(そ)ぎ落しているきらいはないでしょうか...あ、でも、子規は35

歳で夭折(ようせつ: 年が若くして死ぬことしたので、未完成ということも、考慮

すべなのきかも知れません。

 

  このあと、明治28年10月19日...子規は松山の三津浜(/三津浜港)

を船で発ち、宇品(/広島港)まで行ったわけです。そして、山陽鉄道で、広

島から神戸まで行ったようです。

  ええと...それから10月21日...神戸/須磨・保養院で病状の検

査をし、松山の叔父へ、“須磨までは別状なし”、と手紙を送っているようで

す。

  それから、10月22日には、大阪へ行っているわけですが、この日、左

の腰骨が痛みだし、歩行困難になっています。この“カリエスの発病”が、

子規の命を、しだいに奪って行くことになります。

  つまり、結核菌が、脊椎にカリエス(骨が壊疽を起こして、崩壊して行く疾患)

起こして行くわけです。須磨・保養院で、病状の検査をした直後に、カリエ

スが発病するとは、皮肉なことですね。現代医学なら、そんなことはなかっ

たはずです。

  ともかく子規は、大阪には8日ほど留まったようです。そして、そのうちの

3日間は、奈良の旅に当てています。大阪から奈良までは、大阪鉄道(/

現在の国鉄関西線)が、その3年前に開通していますから、奈良へは鉄道を

使って行ったと思われます。

  そして、奈良では、有名旅館/“角定”に、宿を取ったと言います...

 

                      house5.114.2.jpg (1340 バイト)

奈良の宿 御所柿くへば鹿が鳴く     (子規)

秋暮る 奈良の旅籠や柿の味       (子規)

長き夜や 初夜の鐘撞(つ)く東大寺    (子規)

鹿聞いて 淋しき奈良の宿屋哉(かな)   (子規)

大仏の 足もとに寝る夜寒かな       (子規)

 

  これらの句は、“角定(角谷定七)/対山楼(明治の初めに山岡鉄舟が命名)

で詠んだものです。この後、大阪へ帰り...東京までは...当然、汽車で

帰ったわけですよね...うーん...確認しておきます...」



 

  <7>

  六郷の橋まで来たり春の風 wpe57.jpg (5177 バイト)     
        (ろくごう)
        

          

 

「季語は...春の風/春ですね...

 

  “六郷”というのは、六郷橋のことです。東海道を下って行くと、東京都と

神奈川県の間に、多摩川が流れています。そこに架かる橋が、六郷橋で

すね。

  現在は、箱根駅伝などでもおなじみの、国道15号/第一京浜国道の、

多摩川の橋です。あ、これはもちろん新六郷橋で、子規が詠んだのは、旧

橋の方です。この橋を渡れば、もう川崎に入ります。

 

  子規は...日清戦争の従軍記者として、大陸/戦地に渡る前と後...

明治27年と、明治33年に...川崎を訪れ、“大師詣で(だいしもうで)”をし

ているようです。その道すがら、数多くの句を詠んでいます。

  “大師詣で”の...川崎大師/平間寺(へいけんじ)というのは...真言

宗智山派大本山です。大師(だいし)というのは、本来は徳の高い僧

の敬称です。これは、朝廷から贈られる称号で、最初に与えられたのが、

最澄(さいちょう)/伝教大師(でんぎょうだいし)です。

  でも、最も有名なのが、空海/弘法大師(こうぼうだいし)だということです。

歴史上、天皇から下賜された大師号は、全部で27名に上るそうです。で

も、一般的に、大師/お大師様といえば、弘法大師を指すようです。

  ええと...ついでに...川崎大師について、もう少し説明しましょうか。

ここでは...本尊厄除(やくよけ)弘法大師...を祭っています。

  そして、堂内には...稚児大師(ちごだいし)救世観音不動明王

染明(あいぜんみょうおう)金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)胎蔵界曼荼

(たいぞうかいまんだら)...を奉安(ほうあん: 尊いものを、つつしんで安置すること)

しています。

  それから、勅願寺(ちょくがんじ: 天皇の祈願で、国家鎮護などを祈願して建てられ

た寺)として、大本堂・大棟(おおむね)に...“菊花の紋章(皇室の紋章)”...

が許されています」

                

「ええ...

  明治27年は、春と秋の2度行ったのでしょうか...この年は、日清戦

に従軍する前年で、体調も良かったわけですね。翌年、奈良を回って帰京

する時には、汽車の窓からこの六郷橋を見たわけですね。

  それから...明治33年といえば、子規が亡くなる2年前ですね。病身で

すから、門人・家族が連れ添い、にぎやかな旅だったのでしょうか...?

  この辺りも、まだまだ研究不足です...でも、楽しみは、残して置くのも

いいですね...

 

  さて、句意ですが...“六郷の橋まで来たり春の風”...とは、春風に

誘われて、とうとう六郷橋/多摩川まで来てしまった...と詠んでいます。

向こう岸は、もう川崎になるわけですね。うーん...これは、歩いて来たの

でしょうか?これも、調べておく必要がありますね。

  ええと...神奈川県/川崎市川崎区宮本町...稲毛神社とい

う所があるそうです。そして、その神社の境内に、この句碑があるそうで

す。機会があったら、見ておきたいと思います。

  ええ...その他の、大師詣での折々に詠んだ句を、列記しておきます。

 

川崎や 畠は梨の帰り花           (子規)

川崎や 小店小店の梨の山         (子規)

多摩川を 汽車で通るや梨の花       (子規)

麦荒れて 梨の花咲く畠哉           (子規)

百舌
(もず)鳴くや 晩稲掛けたる大師道    (子規)

 

波音の 由比ケ浜より 初電車      (高浜虚子 ) 

 

  ふーん...子規は...柿だ梨だと...本当に果物が好きな様子です

ね。肺結核や、脊椎カリエスを患っていれば、お酒というのもムリですよ

ね。でも、果物好きというのは、子規の優しい性格を、よく現していますね」

  

  <8>  

    芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし

        (ばしょうき)                    (こび)

        house5.114.2.jpg (1340 バイト)

 

「この句の季語は...芭蕉忌/冬です... 

 

  “芭蕉忌”というのは...松尾芭蕉の忌日(きじつ)/命日/亡くなった日

です。それは、元禄7年(1694陰暦/陰暦で...10月12日です。

  グレゴリオ暦現行の太陽暦/陽暦では...1128になります。

でも今は、陽暦10月12日に行われているようです。

  芭蕉忌は...時雨忌(しぐれき)とも...桃青忌(とうせいき)とも...翁忌

(おきなき)とも...あるいは、時雨会(しぐれえ)...芭蕉会(ばしょうえ)...

翁の日、などとも呼ばれます。

  当然、時雨忌となれば、時雨の季節でなければならないわけで、これは

陰暦で10月12日ということになるのでしょうか。

  ともかく...松尾芭蕉は元禄7年...大阪御堂筋/花屋仁左衛門宅

で亡くなり...滋賀県/大津市/膳所/義仲寺に...葬られたということ

です。義仲寺では、11月の第2日曜日に、時雨忌が行われているようです

ね...

  芭蕉の辞世の句...最後の句は...こういうものでした...        

 

   旅に病んで 夢は枯野をかけ巡る  (芭蕉/辞世の句)

 

  芭蕉忌は、昔から俳諧の世界では、各地で毎年行われているようです。

蕪村は、芭蕉忌のことはあまり触れていないようですが、一茶や子規は、

よく句にも詠んでいます。うーん...そのような、歴史的経緯があるので

しょうか。

                         house5.114.2.jpg (1340 バイト)

   芭蕉去って そののちいまだ年くれず      (蕪村)

 

   芭蕉忌や 三人三色の天窓哉(かな)      (一茶) 

   ばせを忌と 申も只(もうすもただの)一人哉     (一茶)  

   ばせを忌や ことしもまめで旅虱(たびしらみ)   (一茶) 

  

      芭蕉忌や 芭蕉に媚びる人いやし        (子規)   

   芭蕉忌に 芭蕉の像もなかりけり        (子規)   

   芭蕉忌の 下駄多き庵や町はづれ       (子規)   

   芭蕉忌や 吾に派もなく伝もなし        (子規)    

   芭蕉忌や 我俳諧の奈良茶飯         (子規)   

   芭蕉忌や 茶の花折つて奉る         (夏目漱石)    

   芭蕉忌や 遠く宗祇(そうぎ)に溯(さかのぼ)る   (高浜虚子)   

 

  子規は...与謝蕪村を、芭蕉よりも上ではないか...と評価していた

わけですが、その微妙な機微が、少しづつ分かって来たような気がします。

  芭蕉と蕪村の、どちらが好きか...と問われれば...“風雅に深く恋を

し・・・その妄執に苦しんだ・・・求道者/芭蕉”...よりも...“そうした芭

蕉を深く理解しつつ・・・それでも、俗世の軸足を動かさなかった蕪村”...

の方が、近づきやすく、親しみも感じますよね。

  でも、そもそもの、格の違いがあります...また、蕪村も悟り澄ましてい

たわけではないようですね。色々と迷い、様々なことをやったあげく...芭

蕉のような求道者に憧れつつ、それに精進しながらも、そうなれなかったよ

うにも思います。ホホ...だからこそ、その人間味を感じさせるのかも知

れませんね。

 

  子規は35歳で没したわけですが...その辺りも...病身の孤独の中

でこその、深い洞察があったものと思われます。ともかく子規は、芭蕉忌に

は、強いこだわっていたのでしょうか。

  芭蕉もまた、51歳という意外な若さで夭折(ようせつ)したことと、重なるも

のがあったのかも知れません。子規もそうですが、若くして世を去ったこと

と、その人の業績とは、必ずしも一致しませんよね。

  若くして...偉大な業績を数々残し...晩年はあまり振るわなかった、

ということもあるわけです。アインシュタインは、その典型かも知れません

ね。

  でも、ともかく...高杉・塾長の言葉を借りれば...全てが、この人類

文明の記憶です。そして、生命潮流の記憶/地球生命圏・ガイアの記憶と

なって行くわけですね。

  これからやって来る...“文明の第3ステージ/意識・情報革命”の時

代は...その、記憶の解明になるのかも知れないということです...うー

ん...それは一体何なのでしょうか...?」

      
 

 

 

  選者の言葉 (3)  子規/子規庵    
    

                           

 
         <明治31年頃/病床>                        <東京/上野公園の野球場の句碑>       <句碑にある・・・バットを持つ子規の写真>


「ええ...星野支折です...

  去る...9月6日/火曜日...この支折が...東京/台東区/根岸【子

規庵】を訪問してきました。

  【子規庵】は...曲がりくねった小路の奥にありました。ここは、江戸時代には、

加賀藩/前田家下屋敷であり、2軒続きの侍長(さむらいながや)だったと言われ

ます。

  子規明治27年から、3人で住み始めたようですね。子規没後

大正12年関東大震災で被災し、修復工事をしたようです。それから昭和20年

戦災一度焼失しています。

  現在の建物は、戦後、門弟有志の人々により、元の姿忠実に復元された

ものだと言うことです...かつて、ここから上野の森が見えたといいますよね。で

も、今はすっかりビルの谷間に埋まり、路地裏様相です。それだけ、月日がたっ

ているということでしょうか。

  下は...【子規庵】で撮って来た小庭の写真です。秋の展示期間の最中とか

で、部屋の中は写真は撮れませんでした...」




        

  <子規の小さな文机から見た・・・ヘチマの棚>   <庭正面から見上げたヘチマの棚>   <隣の濡れ縁から見た・・・ヘチマの棚>


         

   <庭の鶏頭/けいとう・・・14、5本?>     <ちょうど、萩も咲き始めていました>   <左端に咲いているのは・・・芙蓉の花です>

                           

 

                 

 <庭から見た子規庵。右奥が書斎とヘチマの棚> <鶏頭・・・鶏のトサカのようですね>   <井戸のそばに・・・萩が茂っていました>

 

            

 

「ええ...」支折が、一瞬強くなった萩の風に、髪を押さえた。

「さて...

  “やんちゃ”であり...“お山の大将”のような子規でしたが...子規は本来は、

太政大臣(だじょうだいじん: 飛鳥時代から明治時代まで存続した官職/律令制度の官僚最高位にある職

になることをめざし、松山から東京に出てきたようですね。

  その方面に志(こころざし)があったようで、子供の頃から、勉強熱心でもあったわ

けですね。ホホ...東大予備門では、色々とエピソードもあったようですが、とも

かく子規は、高級官僚を目指していたのでしょうか...うーん...

 

  ええと、くり返しますが...子規最初に喀血したのは、明治21年8月の、

倉旅行の時でした。そして、翌/明治22年5月に、大喀血があり、医師肺結核

診断されています。

  結核は、この時代には不治の病とされていました。したがって、子規も、早死(は

やじに)覚悟せざるを得なくなったわけです。病気もあって...子規落第をくり

返したようですが...明治25年に、東京帝国大学退学しています。

  “早死”という、宿命覚悟した子規は...“子規”(血を吐いて啼く鳥/ホトトギスの別名

・・・最初の大喀血の頃から使用したようです)(俳号)し...俳句の道に専念し、“俳句の革

新”を志します。

  そして、新聞『日本』入社し...これまで話して来たように...日清戦争

記者として大陸に渡り、帰路/船上喀血します。それから...上陸した

入院し...その後、療養を兼ね、故郷/松山ヘ帰ったわけですよね。

  これも前に話しましたが...この年10月に松山を離れ...再び上京する途

上、腰痛で歩行に支障をきたすようになります。当初は...リューマチと考えてい

たようですね。でも、翌/明治29...結核菌脊椎を冒し脊椎カリエス

していると診断されます。

 

  以後...子規は、病床に伏す日々が多くなります。数度手術を受けますが、

病状は好転せず、やがて臀部(でんぶ: 尻の部分)背中があき、(うみ)が流れ

出るようになったと言いいます。

  こうした中で、子規庵病床を訪れる...高浜虚子(たかはま・きょし)河東碧梧桐

(かわひがし・へきごとう)伊藤左千夫長塚節(ながつか・たかし)らの門人に...後進の指

を行っています。いずれも、子規の後に、大きな足跡を残した人たちですね。

 

  子規の...“病床生活にあっても絶望せず・・・病気を正面から受容し・・・

俳句を探求する姿は”...私たちに、強い感動を呼び起こします。“このように

・・・強く生き抜く”...ということを、子規身をもって、私たちに提示してくれま

した。

  子供の頃から...背も低く病弱で、妹/律にかばってもらうことが多かったと

いう子規ですが...“病床での・・・力強い生き方”...は弱虫というよりは...

“異常なほどの・・・精神力の強さ”...を見せつけます。

  うーん...子規の...“この精神力の強さ”...を創出したものは、もちろん、

俳句和歌への探求心なのだと思います。

  そこで...私たちが学ぶべきは...“人生の目的の一貫性と・・・純粋な探

究心・・・”...ということでしょうか。そうすれば、人生非常に単純で、情熱的

で、楽なものになりますよね...」


                                  


「あ、ええと...」支折が、モニターに目を落とした。「子規の、主な著作は...

  『俳人蕪村』(明治30年/1897年)『俳諧大要』(明治32年/1899年)句集/『春夏秋

冬』(明治34年/1901年)随筆日記集/『病牀六尺』(明治35年/1902年/子規の没年)

歌集/子規遺稿/『竹の里歌』(明治37年/1904年・・・死後/伊藤左千夫らが編集などです

ね。

  病いに臥(ふ)せつつ書いたといわれる、病牀六尺は...私はまだ読んでは

いないのですが...感傷暗い影もなく、“死に臨んで・・・自らの肉体と精神を客

観視”していて、今も多く読まれているそうです。

 

  それから、短歌の方ですが...歌よみに与ふる書を、新聞『日本』に連載

ていますね。子規は、古今集否定し、『万葉集』高く評価したようです。

  ええと...和歌/短歌の方は...響子さんが、『万葉集』の考察を始めました

ので、ここでのコメントは差し控えたいと思います。そちらの方でお願いします。

  ともかく子規は...江戸時代までの、形式にとらわれた和歌非難しつつ...

根岸短歌会主催し、短歌の革新にもつとめたようです。根岸短歌会は、後

伊藤左千夫長塚節(ながつかたかし)岡麓(おかふもと)らにより...短歌結社

アララギ(明治41年に、伊藤左千夫を中心に阿羅々木』として創刊・・・翌年『アララギ』となる)へと発

展していくわけですね。

  ええ...子規短歌を...4首...紹介しておきます...」


くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の

             針やはらかに 春雨のふる      (子規)


松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の

             置きてはこぼれ こぼれては置く   (子規)


いちはつの 花咲きいでて 我目には

             今年ばかりの 春行かんとす      (子規)


足たたば 不尽の高嶺の いただきを

             いかづちなして 踏み鳴らさましを  (子規)

子規は...

  慶応年9月17日新暦/1867年10月14日誕生し...明治35年9月19日

本では、1873年からグレゴリオ暦/新暦/太陽暦が正式な暦として採用されます。子規は、旧暦の9月17日

に生まれ、新暦の1902年/明治35年9月19日に没したことになります・・・没しています。

  少々ややこしいのですが...子規は、数え年で...36歳誕生日をむかえ

た...翌々日永眠のということになるようです...

  うーん...こうなると、満年齢微妙ですよね。この辺りは、もう少し深く考察し

たいと思います...」

 

 

 

  <9>
  山吹も菜の花も咲く小庭哉  
            

        (やまぶき)                                (かな)


                                


「季語は...山吹/春ですね...

 

  これは、明治33年の作ということです。うーん...この年に、川崎大師

を訪れているようですが...病状も進み、いよいよ子規庵の小庭が、

規の視界の全てになって来るわけですね。

 

  これは、本当に重い病気になった人にしか分からないのかも知れませ

が...1つ小さな窓...猫の額ほどの小庭...というのも、実は無限

の深さ、大宇宙にも匹敵するほどの広さを持っているわけです。

  そこには...葉に光る春や夏の陽射し...季節の草花や、風に揺れ

る梢の囁き...昆虫の戯れや、小鳥の訪問...蟻や、小さな虫たちの世

界が、無限に展開して行きます。

  そして、そこに人間の営みが重なり...結局、人というのは、何処にい

ても、何をしていても、同じなのだという...“悟り/覚醒”...に到達する

こともできます。

  そうした日々の情景を...絵にしたり、音楽にしたり、子規のように、俳

に詠むこともできるわけですね。人間は、1つの窓/1つの小庭で、そ

れを無限の世界に拡大することもできるわけです。

 

  句意ですが、子規も...“山吹も菜の花も咲く”...とはそのことを言っ

ているわけですよね。この小さな大宇宙に...満足できる自分が...ここ

にあるということです...」

 

  <10>

  紫の蒲團に坐る春日かな             


               (ふとん)


                                                                                                                                


「季語は...春日/春ですね...

 

  子規は...“俳句による写生”...にこだわったと言われます。その結

果...季題や連句など、俳諧のよき伝統を軽視したとも言われます。また

そのことが、俳句から遊びの部分、ゆとりの部分、優雅さの部分を、切

落としてしまったとも言われるようです。うーん...そうなのでしょうか?

 

  この句も...そうした写生で...特に人に訴えるものは無いようですよ

ね。でも、子規の闘病生活を、深く知る者にとっては...“春の陽光を浴び

・・・無心に座っている一時が”...子規にとっては、至福の時であろうこと

が、よく分かるわけです。

  人間の幸福とは...突き詰めれば...案外そんな所にあるのかも知

れません。そして、たったそれだけの事に気が付くのに、長く苦しい修行を

したりするわけです。

  でも、そうした人生も...同じ苦行をした僧であれば、さわやかにうなづ

き、笑い流してくれるわけですね。それが、至福の時なのでしょうか...

 

  ええと、句意は...紫の布団に座り...春の陽光を浴びている自分

が...まさにここに存在している...という覚醒と主張ですね... 

  他に望むものは何もなく...ただ、うららかな春の陽光が散っているば

かりだ...と詠んでいるわけです、」

 

  <11>

  牡丹画いて絵の具は皿に残りけり 

        (ぼたん)

             
  

「季語は...牡丹/夏です...

 

  今回、わたくしメが...子規庵を訪れた際...散りかけたような、牡丹

の彩色画の展示がありました。そこで、この句のことを思い出しました。

  でも、何やら...中村不折(なかむら・ふせつ/子規より1つ年上の洋画家、書

家。漱石の『吾輩は猫である』の挿絵画家として有名)とありました...

  ああ、不折の書いた牡丹なのかと分かったのですが...この句のことも

あり、せっかく子規庵まで来たのだからと思い、尋ねてみました。すると、

秋の展示会の期間(/9月1日〜9月30日) でなければ、子規の描いた牡丹

を見られるということでした。うーん...残念でした...ホホ...

 

  子規は...俳句は、詠みあげられた時、その情景が浮かび上がって来

なければならない、と言います。“柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺”...と

いうように、絵画的・情景が浮かびあがらなければいけない、というわけで

す。

  この...“牡丹画いて絵の具は皿に残りけり”...もそうですね。でも、

それ以上の深い意味はありませんよね。ちょうど、デジタル・カメラの1ショ

ットのように、深い意味はないわけです。

 

  さて、句意ですが...牡丹を描いて、絵具がさらに残ったということです

ね。うーん...その写生的事実に、他意はありません。そして、説明をす

る必要も無いわけで、そこが物足りなさになっているのでしょうか。 

  でも、前にも言いましたが...子規の闘病生活を知る者には...そう

した行為のスケッチにも...別の深い共感を覚えるわけですね...」

 

  <12>

  牡丹ちる病の床の静かさよ                     

        (ぼたん)               (とこ)

                                         

 

「季語は...牡丹/夏です...

 

  病床の...想いの静まる時です...これを悲しいと思うか、淋しいと思

うか。それとも、無心に...この時/この時空/この世を見つめるか...

それは、人それぞれです。まさに...静かで濃密な...充足した時が流

れて行きます。

  私は...子規の句を、深く研究したわけではありませんが...これまで

に読んだ句の中では...“この句が・・・最も秀句”...だと思います。

  他の俳人の句と比較しても、“非常に優れた句”だと思っています。では

これが、子規の主張するところの、“写生句”なのかというと、そうではない

ですよね。

  これはデジタル・カメラのような、無闇な1ショットではなく...“非常に濃

密で重い・・・時の流れの結晶化”を、捕捉しています。まさに、俳句の真骨

頂の、1ショットになっていますよね。

 

  さあ...いかに騒いでも、わめいても...死は全ての命を、確実にあ

の世へ運んで行きます。若鮎は死に際し、ピシッ、と気品よくひと撥(は)

ます。そういう死に方も、あるわけですね...

  そして...子規も私たちに、1つの生き方と死に方を、提示してくれまし

た。この句は、その子規の病床での感性です。

  さすがに子規は...俳人であり...その静謐(せいひつ: 静かで落ち着いて

いること)な...限りなく貴重な...時の流れ/時間の結晶風景を...見

つめています。

 

  句意は...病の床にあって、牡丹の散る光景/命の散る光景を...

恐ろしいほどの深淵/その静寂の中の充足感を...5・7・5にまとめて、

詠んでいます。

  前の句は、単なる写生でしたが...この句は、非常に深い所を詠んで

います...いい句ですね...」

 

  <13>

  鶏頭の十四五本もありぬべし
        (けいとう)        


               


                                           

「季語は...もちろん、鶏頭/秋ですよね...

  うーん...この花は、花の柄の上部が著しく広がっていて、鶏(にわとり)

の鶏冠(とさか)状になっているので、この名がついたようですよね...

 

  子規の有名な句です...“十四五本”という表現が面白く、私は学生の

頃から記憶していました。でも、実は、高浜虚子の句だと勘違いしていまし

た。ホホ...

  この句をめぐっては、いわゆる“鶏頭論争”というものがあるそうですね。

でも、ここでは、そうしたものには触れず、素直に句を詠んでおくことにしま

しょう。

  ええと...次のような句もありまよ...」

 

 鶏頭の 皆倒れたる 野分(のわき)かな  (子規)

鶏頭を 伐るにものうし 初時雨       (子規)  

鶏頭の とうとう枯れて しまひけり    (子規)

鶏頭の まだいとけなき 野分かな     (子規)

鶏頭の 黒きにそそぐ 時雨かな      (子規)

うつくしき 色見えそめぬ 葉鶏頭     (子規)

冬近き 嵐に折れし 鶏頭哉         (子規)

藁葺(わらぶき)きの 法華の寺や 鶏頭花  (子規)

 

  <14>

   句を閲すラムプの下や柿二つ          

           (えっ) 

                                          

 

「季語は...柿/秋ですね...明治32年の作のようです。

 

  秋の夜半...ランプの下で、たまっている句稿の整理をしている様子で

す。子規の好きな柿が2つあります...さあ、いつ食べようかと思いながら

も、句の方に集中しています。

  私たちにも、似たような覚えがありますよね...子規は、前年の秋に

も、こんな句を作っています...

 

   三千の俳句を閲(えっ)し柿二つ     (子規)

 

  ふーん...柿は2つがいいのですか。ホホ...いいことを教わりまし

た。

  それにしても、3000もの俳句に、子規はどうやって目を通していたので

しょうか。俳人の、俳句に目を通す感性というものは、すごいものがあるの

でしょうね...

 

  <15>

  思ひやるおのが前世や冬こもり        

               


「季語は、もちろん...冬こもり/冬ですね...

 

  “冬こもり/冬籠(ふゆごもり)”とは...人や動物が、冬の寒い間、家や

巣や土の中などに、籠って過ごすことです。

  そのための、“冬囲い(ふゆがこい)”...などというものもあり、立冬の頃

にはそのための様々な準備もあるわけです。米・味噌・漬物などを備蓄し、

炭や薪を積み上げ、雪国では雪囲いもします。

 

  さて...この句は、明治32年のと言われています。子規は、日清戦

争の従軍から京へ帰って以来、病床に臥(ふ)すことが多くなったと言

われます。

  “カリエスの激しい痛み”...“肺の苦痛”...そして、“発熱に苛(さ

いな)され続る自分の体”...こんな苦しみを味わい、このように死

迎える己の人生とは、いったい何だったのか...子規は何度も思ったこと

でしょう

  仏教には...“この世の苦しみは・・・自分の前世(ぜんせ: この世に生れ出

の世。前世〜現世〜来世へと渡って行く)の悪行の結果だ”...という教え

あります。

  子規は...“それでは、己の前世ではいったい・・・何をやっ来たのだ

う”...と眼前に打ち寄せる不条理の大波に、深く首を傾げています。

  句意は...そうした前世を思いやりながら...それを受け入れ...静

かに冬籠りをしている...と詠んでいるわけですね。

  最近言われるような...鬱(うつ)になるのではなく...非常に安定した

精神を保ち...句などを詠んでいるわけです...」

 

  <16>

  何事もあきらめて居るふゆ籠       
                                            (ごもり)

                                

「季語は、もちろん...ふゆ籠/冬ですね...

 

  うーん...何事も諦めていると子規は詠んでいますが...実はそこか

ら...御仏の悟りの道が始まっています。そこから、何物にもとらわれな

い...生死にこだわらない...この世の、真の姿/真の自由が見えて来

るようですよ...あ、未熟者の言葉です。

 

  この句も...全てをあきらめたと言いながら...カラリとした幸福感に

満たされています...それは、この悟りの姿から来るのでしょうか...い

い句ですね...」

 

  <17>

  婆燈炉あたたかき部屋の読書哉      

        (たんぽ・とうろ)                                       (かな)

              


「季語は...湯婆(たんぽ)/・・・湯湯婆(ゆたんぽ)/冬ですね...

  “湯婆”/湯婆というのは、今でもお店で売っているから分かりますよ

ね。ボスは若い頃、ウィスキーの空瓶にお湯を入れ、湯タンポにしていたこ

とがあったそうです。ふーん...そうですか...

  “燈炉(とうろ)”...というのは、石油ストーブのようなものか、暖炉なの

か、ちょっとした論争があるようです。でも、子規庵には、大型の暖房器具

はむりですよね。あ...こういう句もあるので、参考になるでしょうか...

 

(こがにし)や燈炉(とうろ)にいもを焼く夜半    (子規)

        

  うーん...すると、“蚊遣りブタ”を大型にしたようなものでしょうか...

でも、それだったら、昔からある火鉢でいいわけですよね...?

  ともかく...湯婆を使い、燈炉で暖かくした部屋で読書をしていられるの

は...それだけで有難く、幸福なことだ...と詠んでいます。

  全てをあきらめた末に...手の届く、身の回りのことだけで十分に満足

し、好きな読書をしていられるのは...まさに極楽だということです。

 

  長い子規の闘病生活の中には...こうした様々な形の、“極楽”が散り

められていたわけですね...子規の陽気な性格が、それを可能にして

いたけですね...句意は、写生ですので、説明の必要はないですね、」

 

  <18>

  釈迦に問ふて見たき事あり冬籠     

        (しゃか)                                      (ふゆごもり)

                          wpe55.jpg (53734 バイト)   

 

「季語は...冬籠/冬ですね...

 

  子規は...時には、本来無一物(ほんらいむいちもつ: 何も持たない、赤ん坊

のような心)となって...ほのかな物事に喜びを感じ...それを“極楽極楽”

としてきました。

  でも、やがてまた、ジワジワと痛みがぶり返し、痰(たん)が喉にからみ、

死をのぞく苦痛が始まります...そうしたことをくり返し、体は徐々に衰弱

して行くわけです。

 

  心もまた、乱れて行き...何故、自分がこんな苦痛を背負うのかと...

御仏に問いたくなる心/この世の理不尽さをうったえる自分を...子規は

冷静な心で、詠んでいます。

  何ともしがたい、まさに釈迦に問いたい、“生・老・病・死”の苦痛です。そ

して、子規は...壮絶な闘病の末...多くの句や歌を残し...新たな道

を開拓し...この世を去って行きます」

 

「これも、最晩年の1首/歌なのでしょうか...

昔見し 面影もあらず 衰えて 

          鏡の人の ほろほろと泣く   (子規)

 

  ...人は、このように死んでいくわけですね...最初に、『チベットの

死者の書』の巻頭文を紹介しましたが...それをもう一度、記しておきま

しょう...」

 

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          『チベットの死者の書』の巻頭文

 

  “かれの意思に反して、人は死ぬ。死ぬことを学ぶことなく。死ぬことを学

べ。そして汝は、生きることを学ぶだろう。死ぬことを学ばなかったものは、

生きることを何も学ばないだろう・・・” 

                                    『死ぬ技術の書』より

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