Menu文 芸短 歌万葉集天武・持統朝

  巻1/原・万葉集〕           吉野への脱出/壬申の乱・・・ 大王から天皇へ

     天武・持統朝      

 
             

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                      女流歌人: 里中 響子   

    INDEX              house5.114.2.jpg (1340 バイト)         wpe50.jpg (22333 バイト)

No.15 【巻1(25)  天武天皇    み吉野の 耳我の峰に 時なくそ・・・ 2011.11.14 
No.16 〔1〕 吉野への脱出風景 2011.11.20
No.17 〔2〕 壬申の乱・・・② 
2011.12. 3 
No.18        <吉野から・・・伊賀・伊勢への脱出> 2011.12. 3 
No.19        <美濃から2方向・・・数万づつの軍勢を送り出す> 2011.12. 3 

 

    参考文献

                       Wikipedia  ・・・ 万葉集 (・・・インターネット・サイト・・・) その他       

                          【巻1-(25)】  【巻
 1(25)】

     天武天皇 み吉野の 耳我の峰に 時なくそ 雪は降りける ・・・   (長歌)

                                        ( 壬申の乱・・・吉野への思い )    

*************************************************************

                   

 
    み吉野の 耳我
(みみが)の峰に 

                時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける 

           その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如 

                         隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

 

【現代語訳/大意・・・巻1(21)】

吉野耳我の峰には 時知れず雪が降るという 絶え間なく雨が降るという...

       その雪や雨が絶え間ないように...道を曲がるたびに...

               物思いを重ねながら...

                      その山道を辿ってきたことだ...

*************************************************************

                                

「この長歌は...」響子が言った。「“天武天皇”の、吉野への思い詠まれたものと言われて

います...

  “天智天皇”皇位継承をめぐって...長年約束されていた太政大臣/大皇弟・・・東宮

/皇太子/大海人皇子が外されて...大友皇子への布石が進む中で、大海人皇子は辛く

も、も吉野へ脱出しました。剃髪して、妃/鸕野讚良/“後の持統天皇”ともども、を落ちて

行ったわけですね。

  は...近江京を去り...奈良/吉野隠遁する道中を回想し、詠んだものといわれま

す。天皇支配力/軍勢は強大であり、追手がかかっているやもしれず、きらびやかな

離れての逃避行です。

  しかも、1日で、嶋宮/近江京からの最初の宿泊地・・・旧都の天皇家の離宮。蘇我馬子の邸宅跡。後

に草壁皇子の東宮・・・奈良県/高市郡/明日香村/島ノ庄)から、吉野への脱出をはかったわけです

から、よほど事態が緊迫していたのでしょう。嶋宮に、追討の部隊が迫っていたのかも知れ

ませんね。

 

  “雪や雨の絶え間ないように・・・道を曲がるたびに・・・物思いを重ねながら・・・” ...吉野

険しい山道を進んだわけです。

  もはや...帰る都/戻る道はなく...反旗を翻し近江朝廷に勝利する...覇道の道し

かありません。また大海人皇子は、頭の片隅でこの日のあることを折り込み、後の世の大

を描いていたのかも知れませんね。

  でも...大化の改新端緒となった、乙巳(いっしのへん)のようなクーデターではな

く...本格的に国軍激突するようなクーデターでは...本来、ほとんど勝ち目はありませ

ん。それでも、周囲の支援も多く、社会的不満の高まりがあり、地方豪族糾合できたわけ

です。

  そして、たちまち...数万の軍勢不破(岐阜県/不破郡/関ヶ原町)に結集し...2方面

近江朝廷に挑んだわけです。これに勝利することができたのは、大海人皇子武将として

抜群の統率力と、ズバ抜けたカリスマ性でしょうか。

 

  ええと...耳我の峰とは、吉野/金峯山のことでしょうか...この峯に、絶え間なく降ると

いわれる雪や雨のように...曲がり角ごとに、絶え間なく物思いをしながら、山道を超えて来

わけですね...“筆舌に尽くしがたい・・・雪の中の逃避行”...だったようです。

  とりあえず、虎口(ここう)を脱出し...1日にして吉野へ逃げたわけですが...その間は、

まさに、様々な思いが駆け巡ったと思われます。

  そして、一方、この状況を...“虎に・・・翼をつけて放てり”...ということだったわけで

すね。やがて、近江朝廷反旗を翻すわけですから、周辺状況も非常に複雑だったと思いま

す。万葉の時代は、おおらかで、穏やかなだけではなく、こうした濃密な血縁の中での壮絶

抗争/粛清もあったわけですね...

  その時の、“天武天皇”吉野への深い想いが...この長歌に詠まれているわけです」

 

  〔1〕 吉野への脱出風景                 

 
                                

 

「ええ...」支折が、顎を上げ、目を細めた。

  唇をかるく結び...≪航空宇宙基地・赤い稲妻/シンクタンク・赤い彗星ビル3

の窓から、紅葉の始まった草原を眺めた。長野県/軽井沢・基地≫から引き揚

げてきて、1週間になる。関東平野/西部丘陵も、いよいよ秋が深まる様相だった。

 “・・・額田王(ぬかたおおきみ)の言う通り・・・”...折が、心の中でつぶやく...“・・・

憂いを帯びた秋の陽の光...紅葉し始めた灌木に散る優しい陽光が...時の無い、

永遠の存在をしのばせている...・・・”

  支折が口に手をやり、眼前する...“存在の・・・結晶風景”...を見つめつつ、小さ

な息をついた。響子とマチコを振り返り、口元に微笑を漂わせ、静かにうなづいた。うな

づきは、特に意味はなかった。ただ、全ての存在を、己が肯定したものだった。

「さあ...」支折が、両手の指を組んだ。「では、始めましょうか...」

「そうですね...」響子が、口をすぼめた。「帰って来たのが、嬉しそうですね、支折さ

ん、」

「存在しているのが...」支折が、言い直した。「嬉しいのですわ...また、草原の散

歩に出られます...秋の山道を歩けますわ...去年の、栗拾いを思い出します」

「うん...」マチコが、深くうなづいた。「アケビは、もう駄目よね。口が開くと、鳥がきれ

いに食べてしまうから、」

「ホホ...」響子が楽しそうに、窓の鰯雲を眺めた。「そうですね...」

 

さあ...」支折が両手を組み、モニターに目を落とした。「ええと...

  ここは<壬申の乱>となりますので...<壬申の乱・・・①>に引き続き、私まと

めておきました。吉野への脱出/逃避行の様子は...【巻1-(25)】...で“天武天

皇”も、万葉集』に残しています。そこから、当時の状況が生々しく偲ばれます。

 

吉野の耳我の山に...時知れず雪が降っている...

    絶え間なく、雨が降っている...雪が定めなく降るように...

雨が絶え間なく降るように...道を曲がるごとに...

    絶えず物思いに沈みながら...その山道を超えて来た...

 

  元・皇太子/大海人皇子(おおあまみこ)の一行の...飛鳥/嶋宮(/天皇家の離宮・・・蘇

我馬子の邸宅跡/後に草壁皇子の東宮・・・奈良県/高市郡/明日香村/島ノ庄)からの...吉野/宮滝

/天皇家の離への脱出/逃避行を...後の第40代/天武天皇懐かしみ、詠

んでいるわけです。

  私は...不勉強のそしりを、甘んじて受けるつもりですが...“第38代/天智天皇”

琵琶湖のほとり...近江/大津宮遷都していたわけですね。大海人皇子の、

への脱出/逃避行は...飛鳥/嶋宮起点になっているのでしょうか?

  それまでは...近江朝廷厳しい監視下にあったわけですが、逃げようとはしてい

ないわけですね。ところが、嶋宮皇子たちと合流すると、間髪を入れず、翌早朝

には、冷たい氷雨の中を、飛鳥川沿いに、吉野への脱出を謀(はか)っているわけです。

 

  このことを、軍事戦略担当大川慶三郎さんに伺ってみたのですが...この敏速

さは、宮廷での緩慢な所作ではなく、“優れた・・・軍事戦略的・行動”、とのことでした。

この少し前あたりから、大海人皇子の、将帥・・・戦略/戦術/カリスマ性”光って

いるそうです。

  また、こうも言っていました...同じような才能を発揮した人物に、平安時代・末

期〕源義経(みなもとよしつね)がいるが...彼は、奥州/平泉弁慶ともども、非業の

最期を遂げた。しかし大海人皇子は、最後まで生き抜き、稀代の英雄となった、そうで

す。当然...歴史上影響力というものは、抜群となるわけです。

  その1つが...群雄の中の旗頭である大王から、〔超越した存在/最初の天皇〕

となったということです」

「ええと...」響子が言った。「最初天皇を名のったのは...

  誰かというのは、諸説あるようですが、最近“天武天皇”とする説が有力ということ

ですね?」

「はい...」支折が、うなづいた。「...つまり、それほどの力をもったとしても、自然と

うなづけるということです、」

「はい...」

                   

「ええ...」支折が、髪に手を当て、モニターをのぞいた。嶋宮からの、脱出に話を戻

します...

  飛鳥/嶋宮の近くには、飛鳥川が流れています。おそらく、夜明け前から準備し、

囲を偵察していた事でしょう。そして、空の白んだ氷雨の中を、人目を避け、飛鳥川を

遡上し...稲淵(いなふち)...栢森(かやのもり)...と進んで行ったようです。

  そこから、さらに登って行くと...現在の明日香村と、吉野町にある、芋ケ峠

(いもがとうげ)に達します。この芋ケ峠の前後あたりが、【巻1-(25)】に詠まれてい

るような、つづら折れの道になり、急勾配になっているようです。

  歌に詠まれている耳我(みみが)の山は、どの山かは判明しないそうですが、み吉

野の・・・、と詠まれていることから、芋ケ峠を越えて、その先にある山と言われてい

ます。

 

  ええ...<壬申の乱・・・①>...でも触れていますが、671年/9月初旬頃

をこじらせた天智天皇は、病床に伏していました...病状は、いっこうに快方には

向かわず、臨終の床となるわけです。 

  この時点では...太政大臣実弟/大海人皇子から...子息/大友皇子に差し

替えられています。この最終的な人事が行われた時、大海人皇子譲位を諦(あきら)

たと思われます。

  そしてこの時点で、東宮/皇太子の宮殿をも、離れていたのでしょうか。浅学を晒(さ

ら)していますが、おいおいと確認して行きたいと思います。

  あ...大海人(おおあま)という、特徴的名前ですが...これは、皇子少年時代

過ごした、尾張/海部評(あまこおり)由来しているそうです。そこから飛鳥京に入ったの

は、13歳の時だったそうです。

  “武人気質(ぶじんかたぎ)に育った大海人皇子は、中大兄皇子のもとで大変貌し、

能な片腕として成長し、実績を重ねて行きます。そして、大皇弟/東宮・大皇弟/中臣

鎌足=藤原鎌足に、大織冠を授けた折)とも呼ばれ、人々に慕われていたようです。

  天智天は、そのご褒美ということでもあったのでしょうか。鸕野讚良(うのさらら/

統天皇の他にも、何人かの自らの娘/皇女を、実弟(父母が同じ)/大海人皇子に与え

ています。

  姉・妹と...何人も重複して、身近な人間に嫁いでいる様子から...当時の宮廷の、

おおらかな生活感がうかがえると思います。でも、譲位は...大海人皇子ではなく、

息/大友皇子に固めた天智天は...今度は、大海人皇子のその抜群の能力

恐れたわけです。

 

  さあ...また、話を戻しますが...天智天皇は、臨終の枕頭大海人皇子を召し

出し、例の譲位の話を切り出します。もし、譲位を受けたら、謀反の意ありとして、

ただちに首を落とす手筈(てはず)となっていた様です。

  私たちの感覚から言えば、情として・・・本当に、そんなことができるのか?”と思

いますが、“皇位をめぐる身内の抗争”は、すでに幾度となくくり返されて来ているわけ

です。“おおらかな・・・万葉時代”ですが、皇位をめぐるこうした、“恐さ”もあったわけ

ですね。

  さあ、大海人皇子の方も...それを察していて、大津宮の近くの自分の屋形を引き

払う準備をし、天皇の呼び出しを待っていた様子です。言葉も用意してありました。

  そして、召し出しを受け...天皇枕頭で、“とんでもございません・・・”...言い、

直ちに出家し・・・吉野の宮滝にこもって・・・仏道の修行を重ねつつ・・・陛下の御病気

の快復を祈りたい...と、身の振り方も申し出ます。天智天皇はこれを許可します。

  まさに天智天皇は、近江朝廷において、絶対権力をもっていた様子がうかがわれ

ます。前にも言いましたが、天智天皇もまた、自分の片腕として歩んできた実弟が、

可愛くないはずはありません。そうした、甘さ非情優柔不断が、妙な展開を招

いてしまったわけです。

 

  一方、大海人皇子の方は必死です。を失せず、宮廷内/仏殿剃髪をし、そそく

さと退出したと思われます。そして翌日...一足先に、妃/鸕野讃良(うのさらら/天智天

皇の娘/持統天皇草壁皇子くさかべみこ)忍壁皇子(おさかべみこ)たちを...舎人(とねり: 

天皇や皇族の身辺で御用を勤めた者)女官(にょかん: 朝廷につかえる女性の官人の総称/・・・雑事を行う下級女

官は女儒/にょじゅ、めのわらわを付けて、吉野(/その途上の、飛鳥の嶋宮先発させたようです。

  残った大海人皇子の方は...出家した身に武器武具の類は必要なく、それらを

キッチリと宮廷武器庫に納める仕事があります。これは覚悟のほどを示すためにも、

大事な仕事になります。

  それから...吉野隠遁するとなれば、山越えもあり多少の準備も必要になります。

その下工作と、親しい知人への、当たり障りのない、別れの挨拶もあります。そうした全

てが、厳しい朝廷の監視下で行われたわけですね。よほどの胆力(たんりょく)が必要にな

ります。

  ええと...逆の立場から見れば...剃髪し、武装解除を進めている屋形を、朝廷側

が襲う理由は、何もありません...武装解除は、大いに結構なことです。それから、

落ちして行くわけで...ただ見ていればいいわけです。

  でも...この辺りは...息詰まるような緊張感の中で...粛々と進行したものと思

います。

 

  2日後・・・10月19日/早朝・・・ 

  大海人皇子は...兄/天智天皇と、最後となる別れの挨拶をした後...輿(こし)

に乗り...50人余りでしょうか...厳選した舎人・女官と共に、大津宮から宇治の方

向に、出発したと思われます。そして旧都/飛鳥を通り、その南側の山を越え、吉野

入るわけですね。

  宇治橋あたりまでは...見送りの近江朝廷重臣たちも、付いて来たのでしょうか。

そこで...ピリピリした監視下から離れ...いよいよ都落ちです。でも、この辺りから、

さらに油断ができなくなります。何処に、伏兵を忍ばせているかも分かりません。

  そうした危険を避けるために...おそらく一行は、見送りが離れた先で、ひそかに

準備しておいた馬に乗り換え、約50キロ南方飛鳥/嶋宮(しまみや)をめざし、奈良

盆地疾駆(しっく)したと思われます。

  大和の地は、熟知している土地です。でも、ここはまだ、近江朝廷にとっても裏庭

です...ともかく、早朝近江/大津京を発ち、夕方遅くには飛鳥/嶋宮に入り、首

を長くして待ち焦(こ)がれていた、妃/鸕野讃良皇子たちとも合流したようです。

  ひとまずは、安堵(あんど)の再会といったところでしょうか。でも、虎口(ここう: 虎の口・・・非

常に危険な所)脱出するには、吉野まで逃れ、ようやく、“後ろを振り返ることができる”

といった状況でしょうか。嶋宮/離宮は、ある程度の防御はできても、危険な状況に変

わりはありません。

 

  翌日・・・10月20日/早朝・・・ 

  大海人皇子の一行(/推定100名前後)は...早々に嶋宮を発ち吉野を目指します。

から降り出した、冷たい氷雨は、みぞれまじりのに変わったようです。決死の脱出

であり、1刻を争う緊迫した危機が、身近に迫っていた様子です。武人/大海人皇子

らではの決断であり、行動力ですね。 

  氷雨の降る、薄闇の中...一行は、身を潜めるように...飛鳥川を遡り...稲淵

(いなふち)...栢森(かやのもり)...と進んで行ったようです。芋ケ峠(いもがといげ/標高

500m)では、本降りの雪になった様子です。

  その...冷たい吹き付ける山道を...濡れそぼって黙々と歩き...屈曲をくり

返し...追手警戒しなければなりません...また、吉野にたどり着いたとしても、

の当ても定かでない...都落ち逃避行です。

  大海人皇子の心は...この天候のように鉛色で、重く沈んでいたのでしょうか。それ

でも、その日のうちには、吉野離宮にたどり着いたようです。古代の山道は険しく、

・子供を伴った逃避行は...生涯・・・忘れえぬもの...となったようですね。 

  【巻1-(25)】...はその吉野への、山越えの逃避行を...しみじみと偲び、長歌

に詠まれ...万葉集編纂されたものです...」

 

                          

「この...あ...」支折が、響子の淹(い)れたコーヒーに、かるく頭を下げた。「吉野

いう地ですが...

  ここは、“初代/神武天皇”の通ったコースですよね...それは、後で確かめる機会

があるかと思いますが...この地も、“様々に・・・いわくのある地”です。そしてまた、

“天武天皇”“持統天皇”にとっても...“思い込みの深い地”に、なるわけですね。

  さあ...吉野/宮滝到着して...まず大海人皇子のやるべき仕事は、離宮

を固めることでした。これは武人として、十分な心得があったと思われます。なにより

も、追手の有無...周囲の偵察...そして、土地の人間味方にすることも、防御/

情報収集において、最重要になります。

  大海人皇子は...舎人(とねり)たちに、周囲に居住する山人/国栖族(くずぞく: 吉野川

上流に住んでいた先住民族)吉野・宇陀(うだ)の豪族たちと、親しく付きあい、懐柔し、味方

引き入れるように指示します。

  さらに、東国地方豪族兵力結集させるべく、隠密裏工作を開始するわけで

すね。有能舎人騎馬で動かし...伊賀・伊勢・尾張・美濃豪族たちに...軍団

を編成するように促すわけです。尾張は、大海人皇子少年時代を過ごした土地でも

あったわけでね。

  律令体制の整いつつあったこの時代...近江朝廷は、その律令体制を使うことがで

きたわけです。それで、吉野監視できたのでしょうか。浅学のため、こうした事情まで

は分かりませんが、ともかく吉野も、しだいに強力近江朝廷監視が敷かれて行っ

たと思われます。

  大海人皇子の一行は...100人程度吉野に入り...半数は帰しているようです。

これは、離宮収容規模のためでしょうか。でも、残った舎人女官たちの中にも...

脅し・すかし・血脈などで...近江朝廷に通じる者も出て来たのかも知れませんね。

  “虎に翼をつけて放った者(中国の故事)...の動静は、常に掌握しておかなければな

ないわけです。その意味では、土地者も、油断はできません。したがって、真の味方

結集して行くことが、重要になります。

  こうした所でも...大海人皇子の、将帥(しょうすい)としての実績と、才能と、強烈なカ

リスマ性発揮されるわけです...」

 

                                         

でも...」マチコが言った。「どうして、地方豪族不満がたまっていたのかしら? 

令制度で、締め付けられて来たからかしら?」

「うーん...」支折が、唇を結んだ。「それも、あると思います...

  それと...唐・新羅(とう・しらぎ)連合軍に、“白村江の戦い(/663年)大敗し...

国防にかかわる膨大な出費や、徴用兵役が、重い負担になっていたからでしょう。そ

れらは全て、の人々や、地方豪族などへの、重い負担になっていたわけです。

  ええ、667年には...対馬(/長崎県)金田城...讃岐(/香川県)屋島城...さら

に、お膝元の大和(/奈良県)河内(/大阪府の南東部)をわける生駒連山にも、高安城を建

設し、外国と戦争に備えていました。最前線西国離島から、畿内(きない: 都に近い地)

まで、臨戦態勢を高めていたようです。

  また同年...都の防衛をより一層高めるために...海岸線から遠い、琵琶湖・湖畔

近江/大津遷都敢行(かんこう: 無理を承知で、思い切って行うこと)します。さすがに、これ

は、都の人々地方豪族も疲れ果ててしまい、大いに反対したそうです。

  でも、“天智天皇”強行したわけです。こうした諸々のことで、不満が鬱積(うっせき)

ていたわけですね。うーん...そこへ持って来て、またまた、皇位継承をめぐる血縁の

中の争い事です。都の人々も、さすがに、ウンザリしていたのではないでしょうか、」

そうかあ...」マチコが、コクリとうなづいた。「大海人皇子は...それらを緩和すると

約束し...ゴタゴタを終わらせると、宣言したわけかしら?」

多分...」支折が、うなづいた。「世の中の空気も、変わると思ったのでしょう....」

「でもさあ...外国の軍隊が、攻め込んでくる危険はなかったのかしら?」

<壬申の乱>は、672年ですから...

  遷都から、5年ほどたつわけですね...ともかく大海人皇子は、近江朝廷とは別の

政策約束し、地方豪族糾合をして行ったのだと思います。

  大川慶三郎さんも言っていました...皇位正当性主張しただけでは、わずか

8ヶ月間で、数万の軍勢結集することは不可能だそうです。当時の兵は、豪族

民/農民ですから、皇位正当性などでは、分かりずらいわけです。

  したがって...急激改革や、租税の負担は、緩和・軽減すると約束したのでしょう。

まり...皇位正当性は、実力勝負/兵力の激突で決まることになったわけです。

   平安時代・後期〕には、平清盛(たいらきよもり)などが現れて、武家社会台頭が始

まります。でも、時代ははるか以前...〔奈良時代万葉集編纂が始まる以前

...防人が、西国の海岸線を固めていた時代です。 

うーん...」マチコが言った。「でも...8ヶ月間で、数万の軍勢招集するとは、すご

カリスマ性ですよね...」

「そうですね...」響子もうなづき、口に指を押し当てた。

                              

「ええと...」支折が、モニターから顔を上げた。「吉野が、“いわくのある地”、と言っ

のは...」

「はい...」響子が、腕組みをした。

「これは...

  古人大兄皇子(ふるひとおおえみこ)一件があったからです...古人大兄皇子は、

“第34代/舒明天皇(/・・・【巻1(2)の長歌】・・・の作者)第1皇子で...は、蘇我馬子

(そがうまこ)の娘/蘇我法提郎女(そがほほていらつめ)です。そして.../倭姫王(や

まとひおおきみ)は、天智天皇皇后です

  さあ...その古人大兄皇子ですが...古人皇子/古人大市皇子/吉野太子とも

呼称されたわけですが...もともと、中大兄皇子中臣鎌足らの、“乙巳の変(いっしの

へん)標的の1人とも言われた...重要人物です。

  ところが、考えてみれば...中大兄皇子は、(きさき/・・・后は第1位、妃は第2位)親/

岳父を、クーデターの標的にしているわけですね。当然、(/後の皇后)としては、ビック

リ仰天です。こんなことが、当時の権力中枢では、まかり通っていたわけですね。よくも、

別れてしまわなかったとも言えるわけですが...どうなのでしょうか...」

「うーん...」マチコが、頭を横に沈めた。「皇后/倭姫王やまとひめおおきみ)は、それで

納得していたのかしら...」

ともかく...」支折が言った。「先を見てみましょう... 

  “乙巳の変”の後...第35代/皇極天皇(・・・第37代/斉明天皇でもある・・・)退位

受け...古人大兄皇子即位することを勧められるわけです。でも、こうした事情

り...辞退し、出家して...吉野宮滝離宮隠退するわけです。

  つまり、ここが...大海人皇子追従する道となるわけです。同じようなことが、2度

あると言いますが...まさにこのことですね、」

「うん!」マチコがうなづて、納得した。「そういうものよね...」

それで...さらに、話の続きがあるわけです...

  この古人大兄皇子に、真偽は不明ですが...“謀反(むほん)の企てあり”...という

密告があります。そして、645年9月12日、この吉野において...中大兄皇子によっ

て、“攻め滅ぼされる”...わけです。

  そもそも...“皇極天皇”退位し、古人大兄皇子出家しているわけです。“何を

もって・・・謀反”、なのか、よく分かりませんが、旧勢力の巻き返しでもあったのでしょう

か。ともかく、山に囲まれた(おり)の中の様な吉野は、わずかな兵力攻略されたと

言われます。

 

  つまり...“天智天皇”には...大海人は恐いが・・・古人大兄皇子と同じ・・・あの

吉野に入るというのであれば...という想念があったと思われます。

  また、大海人皇子にしてみれば...“出家し・・・あの吉野に隠退しますので...謀

反の意思は皆無です”...というメッセージを発したわけです。ここは、大海人皇子が、

1枚上手だったということですね。吉野という地理逆手(さかて)に取り、油断させたわけ

です」

「そこから...駆け引きが始まっていたわけかあ...」マチコが、宙を見た。

「そうですね...

  大海人皇子は...兄/中大兄皇子を超える軍略家だったわけです...カリスマ性

もあり...中大兄皇子はそれを、誰よりも恐れていたわけです。それゆえに、太政大

地位を解き、あえてそこに、大友皇子を据えたりもしたわけです...」

「うん...」マチコが、コクコクと、2度うなづいた。

ええと...

  吉野ですが...そこは山桜有名な吉野山ではありません。その北の吉野川ほと

りで...吉野宮滝大王家/天皇家離宮です。私は、訪れたことはないのですが、

離宮があったほどですから、吉野川渓谷の美しい所だったと思われます。おそらく、

今でも、地形は変わっていないと思います。

  出家して隠棲(いんせい: 俗世間を離れて静かに住むこと)するには、古人大兄皇子(ふるひとおお

みこ)も好んだように、格好の地だったようです。また、謀反の意思はありませんとい

う、強いメッセージもあったわけですから、好都合でした。

  ところが...大海人皇子の...優れた戦略眼俯瞰(ふかん: 高い所から、見下ろして眺める

こと)した時...吉野は、“山に囲まれた檻(おり)の中”と見るよりも、伊勢と、紀伊とを結

ぶ、戦略的要衝(ようしょう: 軍事・交通・産業の上で、大切な地点)/交通の要衝、と見えたわけで

すね。

  ここをうまく使えば、近江朝廷触手をかいくぐり、味方の本拠地となる美濃との

だったわけです。また、いざという時は、熊野の山中に逃げ込むこともできた

わけです」

「そうかあ...」マチコが、コーヒー・カップを取り上げ、ゆっくりと傾けた。

 

近江朝廷では...」支折も、コーヒー・カップを取り上げた。「...“天智天皇”...

崩御が、さし迫っていました。

  そして、吉野では...大海人皇子が、近江朝廷に対する戦の準備開始しているわ

けです。のできる精鋭20人余舎人機動的に使い、隠密裏軍勢の動員を促

す、指令を発していったようです。

  ここでは、簡単に言い切ってしまいますが...権力側/近江朝廷との、しのぎを削る

戦いであり...当然、容易なことではなく...熾烈な攻防もあったと思われます...」

「うーん...」マチコが言った。“天智天皇”の、実弟大海人皇子の名は、天下に知

れ渡っていたわけよね、」

「そうですね...

  皇位継承で、身内の粛清をくり返し...多額の戦費...膨大な築城...兵役

苦しめられて来た、“天智天皇”の後に...大海人皇子が立つと言います。天下の情

は、大きく動いたと思われます...」

「ふーん...」マチコが、腕組みをした。

「でも...こうしたことは...

  吉野隠棲すると決まった時から、天皇周囲では薄々と予想されていたことです。

だから...都落ちの時もピリピリとし...嶋宮からは、逃避行のような山越えになった

わけです...まさに、“虎に翼をつけて放てり”...という状況になったのです...」

「それでも...」響子が、後ろ髪のバレッタに手をかけた。「...“あの吉野・・・”...だ

ったわけですね?」

「そうですね...」支折が、うなづいた。「私は...

  <壬申の乱・・・①>で、鴻門の会(こうもんのかい: 紀元前206年、楚の項羽漢の劉邦が、秦

の都/咸陽の郊外で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。この宴席で劉邦を取り逃がした項羽は、結局、劉

邦に滅ぼされることになり・・・漢王朝が到来したを、彷彿(ほうふつ)とさせると言いました...」

「はい...」響子が言った。

                                                              

「それから...」マチコが言った。「どうなったのかしら?」

大海人皇子が...

  吉野脱出した年...671年12月3日...“天智天皇が崩御(/46歳)しています。

この頃には、大海人皇子“挙兵の工作”も耳に入っていて...“如何(いかん)ともしが

たい状況”...になりつつあったのでしょうか。

  内大臣/中臣鎌足(藤原鎌足)存命なら...この事態も、あるいは、回避されていた

のかも知れません。でも、この重鎮は...2年前/669年に、すでにこの世を去ってい

ます。

  “天智天皇”は...(おのれ)健在なら、大海人皇子を抑えられるのだが...と思

いつつ...“自らが蒔(ま)いた種であり・・・心の残る崩御”...と、なったのではないで

しょうか...」

「そうですね...」響子が、冷めかけたコーヒーに、スッと手を伸ばした。


  〔2〕 壬申の乱・・・                                      

                                              


吉野宮滝に入って...」支折が言った。「約8ヵ月...

  東国における軍勢・結集メドを受け...大海人皇子(おおあまみこ)わずかな人数

で、吉野脱出したのが...672年(天武天皇・元年)6月24日...です。

  ええと...これからは、大海人皇子子息/皇子が多く出て来るので...ここから

大海人皇子を、単に大海人(おおあま)と呼ぶことにしますので、よろしくお願いします」

「はい、」響子が、うなづいた。

「さあ...」支折が、残っていたコーヒーを飲み干した。「この時点から...

  古代/日本における最大の内乱...<壬申の乱(じんしんのらん)...が始まります。

新しい律令体制下軍勢と、急激な改革に反対する、大海人の糾合した地方豪族軍

の戦です。でも元々は、皇位継承をめぐる権力闘争ったわけですよね。

  これは...俯瞰(ふかん: 高い所から見下ろし、眺めること)して見渡せば...大海人・側が、

江朝/律令体制・側から...地方豪族律令組織を、どれだけ離反させることができ

るかがカギでした。

  ええ...時間経過を追って...推移を...詳しく見てみましょう...」

「はい、」響子が、小さくうなづいた。「お願いします、」

 

<吉野から・・・伊賀・伊勢への脱出> a1          


 
                                   

大海人は...」支折が、背中を伸ばした。「吉野脱出し...

  伊賀から伊勢を経由して、美濃(みの/現在の岐阜県南部)まで逃(のが)れています。吉野・

脱出と同時に、軍勢・結集号令をかけ、たった数日数万の軍を動かすというのは、

非常にダイナミック(力強く生き生きと躍動するさま)です。

  近江朝不穏な動きを見て、先手を打った様ですね。このあたりは、優れた将帥(しょ

うすい)としての独特の嗅覚であり、武人としての、素早い決断行動力です。こうした

冒険というのは、誰でもできるものではなく、大海人にそれが降りかかったわけです。

  『日本書紀によれば...大海人に共に吉野を脱出したのは、妃/鸕野讃良(うの

さらら)草壁皇子(くさかべみこ)忍壁皇子(おしかべみこ)を含め、20ほどだったようで

す。女官10人ほどで、少人数での機動性を要する、脱出劇だったようです、」

  響子が、うなづいた。

でも...

  確かな足取りで、東国/美濃にある、大海人の所有する(むら、ゆう)を目指したよう

です。この邑/“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)というのは...古代中国日本〔飛鳥時

代~平安時代〕までの、一部の皇族に与えられた、領地のことをさします。

  日本におけるの“湯沐邑の制度”は、当時のからではなく、古代/漢の制度をまね

たようです。都を離れた地にあり、直属の軍勢(まだ、武士階級というものはなく・・・農民が武装した軍

勢)もあって...大海人命令で、密かに戦の準備を整えていたようですね」

「ええと...」響子が、指を唇に当てた。「後の、律令制“湯沐邑”は...

  いわゆる領地のような統治権はなくて、収入源だけですね。つまり、お財布だけ。で

も、この頃の“湯沐邑”と、大海人との関係をみると、統治権もあったのでしょうか。緊密

人間関係も見えますし、舎人(とねり/護衛・雑用に従事した下級官人)なども、出身者たち

もいたのでしょうか?」

「うーん...そうですね...

  古代中国にも、(むら)はあったわけですが...によって、時代によっても、制度

異なるようです。邑の人間が、へ出た時は、土地の貢物(みつぎもの)を持って行くことな

どもあったのでしょう。また、御用を聞いたりなどもして、“人間的な絆(きずな)もできたと

思われます。

  そのようなに通じた人物を通し...屋形使用人などにも入れてもらえたかと思

います。特に、大海人大皇弟として、大きな力をもっていたわけですね。武人気質

大海人もまた、武勇に優れた人物を、周囲に置くことを好んだかと思われます、」

カリスマ性による、吸引力もありますね..」響子が、目を細めた。「制度とは別に、

が集まったということですね...」

「うーん...そうでだと思います...

  大皇弟ととして、相応の軍事力も持っていたわけです。古代中世軍の編成につ

いては、私は詳しくはないのですが、有力者や、貴族や、豪族などが、そうした人々や

農民などを、保有していたのでしょうか。人材を、常に求めていたのかも知れません」

「はい...」響子が、うなづいた。「そのあたりも、研究が必要ですね」

そうですね...」

                                    


「ええ...」支折が、モニターに目を移した。「...
吉野からの脱出には...

  護衛に...地元の山人/国栖(くず)吉野・宇陀(うだ/莬田(うだ)の豪族など、50人

ほどが周囲を固めたようです。わずか50人ですが、山人地元の猛者(もさ)たちです。

獣道(けものみち)まで知る人々で、機動的に動ける人数ということでしょうか。当時緊張

が、ヒシヒシと伝わって来るようです...

  再度脱出になるわけですが、今回は、薄暗い氷雨の中の脱出ではありません。季

節は陽光の輝く6月です...現在新暦/太陽暦ですと、7月~8月でしょうか。兵力

動員メドもつき、頼りになる味方兵力の、護衛も受けているわけです。

  でも...脱出ということは...相当な包囲の中を、抜け出るということです。ただ、そ

こを抜ければ、緊張した中にも、草花風景を見る余裕もあったと思われます。や、

離宮の周辺にいて、本当の意味での外に出ることのなかった、皇子女官たちに

とっては、暗雲の晴れた、別天地の光景だったのかも知れませんね...」

「うん...」マチコが、うなづいた。「でも、さあ...美濃/岐阜県南部まで歩くのはさ

あ、けっこう大変よね...古代の山道だし...」

「うーん...そうですね...

  でも、吉野からの脱出はともかく...後は、なども使ったのではないでしょうか。

勢力下にはいれば...軍勢の動く緊張感真只中にあっても...それは、味方

の軍勢です。

  一行にとっては...広々とした空の下で...初めての、楽しい旅だったのではない

でしょうか?」

美濃の、“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)からは...」響子が言った。「迎えなどは、来たの

でしょうか?」

「あ、来ています...」支折が、モニター目を移した。「ええと...そのあたりを、もう少

し詳しく説明しましょうか。調べてあります、」

「お願いします...」響子が、ニッとほほ笑んだ。

「はい...」支折が、微笑した。

                        house5.114.2.jpg (1340 バイト)

「ええと...

  672年(天武天皇・元年)/6月22日...大海人挙兵を決意します。美濃に、舎人(とね

り/下級官人)/村国男依(むらくにおより/美濃の豪族出身らの使者を派遣し...

  2日後/6月24日...には自らも吉野脱出し、後を追います。武人として周到な、

実行力のある、ダイナミックな動きです。

  村国男依という人は...<壬申の乱>...では琵琶湖/近江への直進の軍勢

諸将筆頭として...連戦連勝し、最大の戦功を打ち立てています。詳しいことは分

からないのですが、美濃では、村国氏尾張氏などの地方豪族が、味方に付いていた

ようですね。その村国氏の出身かと思います」

「はい...」響子がうなずき、ボールペンでメモをとった。

大海人は、まず美濃使者を出したわけです...

  安八磨郡(あはちまこおり/“評(こおり)を、『日本書紀』は“郡(こおり)と書き改めています。現在の岐阜県

/安八郡 = 安八町、神戸町、輪之内町)の、自分“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)/湯沐令(ゆのう

がし/湯沐邑の管理者)多品治(おおほんじ)に対し、ただちに挙兵し、不破道(ふわどう/不破の

(せき) = 岐阜県/不破郡/関ヶ原町にあった関所。東山道/信濃方面を押さえる要地。美濃/“不破の関”

前/愛発(あらち)の関伊勢/鈴鹿の関は、“古代の3関封鎖するように、命じます。これは、

電光石火の、戦略上最初の仕事です。

  これ受け...美濃では、25日までに兵/3000を動員し...不破道封鎖を完了

しています。これにより、海人東海道(/三河、遠江(とおとうみ)方面)東山道(/信濃方面)

諸豪族から、兵力(つの)ることが可能となります。そして逆に、近江朝連絡路

することができました。   

  ここが戦略上の、重要分岐点になります。またこの地は、実は後々も“戦略的な地”

として有名となる、“関ヶ原の合戦場”(1600年10月21日/美濃国/不破郡/関ヶ原・・・岐阜県/不破

郡/関ヶ原町)の地ですね。

  ええ...“日本で最大の合戦となる・・・関ヶ原の地(豊臣方/石田光成と、徳川方/徳川家

康が・・・双方合計で20万の大軍が激突・・・わずか半日で決着した戦場)...ですね。でも、それ以前の

古代においても、すでに戦略的な土地だったわけです。

  大海人には、そうした大きな戦略図が見えていたわけです。何よりも、まず不破道

封鎖し、戦略的な仕切りをしたわけです。この、“先見性・戦略性”の、“有無優劣”が、

時代を動かして行くわけです。

  うーん...うした天性の能力が、何度となく大海人危機を救って来ているわけです

ね。武人気質ではあっても...“単純/直情型”ではなく...“謙虚さ・客観的視点”

を合わせ持ち...さらに“慎重さ・・・大胆さ”を、兼備していたようです。

  つまり、こうしたことの総合評価が...“虎に・・・翼をつけて放てり”...という恐怖

となっていたのでしょうか、」

「はい...!」響子が、ゆっくりと、強くうなづいた。「《危機管理センター》担当者とし

て、しっかりと承っておきますわ!」

  マチコが、響子を見て、うなづいた。

 

「ええと...」支折が、モニターのデータを眺めた。「...この美濃兵/3000を...

  “湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)兵力とみる説と...美濃/全体兵力とみる説があ

るそうです。当時の人口から、どうかということですね。でも、ともかく、安八磨郡

沐邑が、最初挙兵したことは確かなようです」

「うん...」マチコが、宙を見てうなづいた。

『日本書紀』/巻28/“壬申紀”は...」支折が言った。「<天武天皇・元年(672年)

の・・・1年間の様子>...を克明に記しています。

  それによると...6月24日...大海人吉野脱出し、伊勢に向かう途中の“莬田

・郡家(うだ・ぐんけ/・・・莬田(うだ)は、現在の奈良県北東部の宇陀。郡家(ぐんけ)は郡司の役所)の近くで、

湯沐を運ぶ、伊勢国駄馬50匹目撃しているようです。

  馬の背米俵を振り分けて載せ、50頭ほどが連なっていたのでしょうか。当時の

資輸送風景が偲ばれます。湯沐邑は、そんな風にして、へ運ばれていた

わけですね。伊勢国/湯沐邑は、誰のものかは...浅学のため、分かりません」

「このあたりは...」マチコが言った。「宇陀(うだ)ですよね。宇陀地方豪族味方

付いていても、安全ではなかったのかしら?」

「うーん...近江朝勢力も入り、渾然としていたのでしょうか...

  ともかく、吉野から80キロほど先の、伊賀国/積殖山口(つみえやまぐち/伊賀国/阿拝郡/

柘植(つげ)郷=現在の伊賀市/柘植)まで行けば、安全圏だったようですね。でも、そこまでは、

用心していたようです。

  一行は、大和(うだ/莬田を通り...を運ぶ馬/50頭を目撃し...名張

越えて...伊賀盆地に入ったようです。このあたりまでくれば、まずは、一安心だった

のでしょうか...味方軍勢が集まって来たということもありますが...」

「うーん...」マチコが、大きくうなづいた。「伊賀・甲賀の...忍者の里よね、」

「ホホ...そうですね...でも、それはもっと後のことです」

「うん、」マチコが、唇をつまんだ。

ええと...それから...“別の・・・参考文献”では...

  6月25日に...伊賀国・評督(ひょうとく、こおりのかみ = 郡守)が...正規兵/500を率い

て、大海人合流しています。それから、積殖山口(つみえやまぐち)に到着し...近江

脱出してきた、海人長子/高市皇子(たけちみこ)とも、合流しています。

  さらにそこで...兵500動員している、阿閉麻呂(きあへまろ)に迎えられたようで

す。彼は、(やまと)国守/紀麻呂岐ですね。大海人挙兵号令で、一挙に軍勢

集結してきたわけです。非常に、心強かったと思います...」

「うーん...」マチコが、髪を押さえた。「すごいわよね...」

  響子が、うなづいた。

「この、正規兵というのは...

  何をもって、正規兵かは良く分かりませんが...おそらく、武装/装備ではないかと

思います。源平合戦の時代戦国時代のような、鎧兜(よろいかぶと)の武者ではないので

しょうが、相応の武装兵站(へいたん)備えていたのでしょうか。

  軍勢の動く所では、水・食料などは非常に重要になりますし、弓矢などの補給も、必

要になります。つまり、その人数分の生活が、大移動するようなものです」

「うーん...」響子が言った。「古代においては、大変だったでしょうね...」

   

                                           


大海人は...」支折が言った。「
兵/200を...

  近江に通ずる倉歴道(くらふみち: 近江国/甲賀郡/蔵部)守備に残しています。それか

ら...大海人は、兵/800余を率いて、加太越(かぶとごえ)から鈴鹿山脈を越えて...

伊勢国/鈴鹿評“評(こおり)は、『日本書紀』は“郡(こおり)と書き改めていますに入ったようです。

  ここで...美濃“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)湯沐令(ゆのうながし多品治(おお

んじ)が、美濃から大海人に送ってよこした、兵/数百合流している様子です。これは、

直属の兵であり、これも心強かったと思います。

 

  ええ、そして、“鈴鹿・郡家”では...国司守伊勢/・・・朝廷から派遣されている官吏・・・(か

み)(すけ)(じょう)(さかん)などの、最上位三宅石床(みやけいわとこ/壬申の乱の功臣、そ

れから、(すけ/次官/・・・太守は任国へ赴任しない遥任だったため、実務上の最高位になることも多かった)

三輪子首(みわこびと/壬申の乱の折、大和への増援軍の指揮官の1人が、正規兵/1000をそろ

え、大海人一行を迎えたようです。

  さらに、湯沐令田中足麻呂(たなかたりまろ)同じく高田新家(たかたにいのみ)が参じ

たようですね。大海人勢力は、この地でも急速に膨れ上がって行ったようです。

 

「あの、支折さん...」響子が言った。高市皇子(たけちみこ/天武天皇の第1皇子持統天皇

代の、大半の太政大臣を務める・・・母は胸形尼子娘の...近江からの脱出は、どんな様子だった

のでしょうか?」

「ええと...そうですね...

  月24日...行動を起こした大海人は...大分恵尺(おおきだえさか)使者として、

にいる高市皇子大津皇子(おおつみこ)挙兵の事を告げ、伊勢で会うよう命じてい

ます

  2人の皇子は、別行動をとって脱出しています。共に捉えられるのを恐れたから

でしょう。この脱出劇に付いては、フィクション(小説)の世界に任せることにします。

  ともかく...高市皇子は、鹿深(かふか: 滋賀県/甲賀市/水口町/鹿深)を越えて、6月25日

に...積殖山口(つみえやまぐち/三重県/伊賀市/柘植)で、に追いつき、合流しています。

  鹿深甲賀...積殖伊賀柘植(つげ)ですね...ともかく、長子/高市皇子

は、大きな意味があったようです。高市皇子は、全軍を掌握し、<壬申の乱>では

大活躍をするわけです。

  この時、高市皇子につき従っていた者は...民大火(たみおおひ/渡来人系)赤染徳足

あかそめとこたり大蔵広隅おおくらひろすみ坂上国麻呂(さかうえくにまろ)古市黒麻

ふるいちくろまろ竹田大徳たけだだいとく胆香瓦安倍いかごあへだと記されていま

す...大津皇子の方も、遅れて鈴鹿に着き、こっちも無事合流しています」

「はい、」響子が言った。

 

「ええと...6月26...

  大海人軍勢は...“伊勢国/朝明郡郡家手前で...村国男依(むらくに

り/美濃への使者に発った舎人に出会ったようです。彼は...美濃兵/3000で・・・不破道

を封鎖した”...と報告に来たようです。

  大海人は...“郡家”に着いてから、高市皇子不破派遣します。そして、軍事

監督させ、東海道東山道に、兵の動員を促す使者を送ります。こうした動員令では、

遅れることは、“二心(ふたごころ)あり”、と疑われることになりますよね...

  6月27...高市皇子不破から...桑名家”にいる大海人使者を送り、

“御所から遠くにあっては・・・政治を行うのに不便です・・・近い所にいて欲しい”、と

しています。大海人はその要請に従い、4キロほどの距離にある野上に移ることにし

たようです。

  同/6月27日...不破に配置した伏兵が、西から来た敵の使者を捕らえています。

高市皇子和蹔(わざみ)から野上まで出向き...父/大海人野上に出迎えます。そ

して、敵の使者を捉えたことを報告しています」

「はい...」響子が言った。「うーん...だいたいの様子は分かりました...」


<美濃から2方向・・・数万づつの軍勢を送り出す> a2                

                    


「うーん...」支折が、髪を押さえた。「大海人は、簡単処理していたように見えます

が、気弱なことも言っているようです。

  渡来人・系ですがら...高市皇子に付き従ってきた、民大火(たみおおひ/渡来人系)

たりでしょうか。(から)朝鮮では、どんなふうに戦争しているのか尋ねていますが、

専門ではないので、よくは分からないと答えているようです。

  うーん...陶工(とうこう: 焼き物師)としての渡来だったのでしょうか...あ、浅学で申し

訳ございません。それから、高市皇子に対しても...

   “近江朝では・・・左右大臣と、智謀の群臣が、一緒になって軍議をしている。今、朕

(ちん: 天子の自称)は・・・共に事を計る者がいない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたも

のか”...と。

  すると、高市皇子は腕まくりをしてを握りしめ...“近江の群臣は多いといえど、

どうして天皇の霊に逆らえましょうか。天皇がお1人であっても、臣・高市が神祇の霊を

頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討いたします。これを、どうやって防げましょう

や”...と答えたそうです。

  大海人は、これを誉め、高市皇子の手をとって背を撫で、“慎め!怠るな!”と言っ

たと、記されているそうです。そして鞍馬を与え、“軍事を全て委ねた”といいます。これ

は、象徴的旗印を委ねたということで、当然、智謀を配しているのでしょう。

  それにしても...高市皇子年齢ですが...19歳とも、12歳ともいわれ、学説

分かれているようです。上記の大海人との会話を見ると、19歳とも思えないのですが、

しかし12歳では、頼りになるとも思えませんよね...19歳なら一人前なのですが、ど

うなのでしょうか?」

「はい...」響子が、口をすぼめ、うなづいた。「史料が非常に限られているので、後は

推測になりますね?」

「そういうことになります、」

「うん、」マチコが、うなづいた。

 

「ええと...」支折が、頭を斜めにし、モニターを眺めた。「...高市皇子は...

  野上から和蹔(わざみ/・・・和蹔原/後の関ヶ原盆地に帰ります。和蹔は、関ヶ原盆地西方

入口で...大海人行宮(あんぐう: 天皇の仮の御所)を作った野上は、盆地東端になるそ

うです。行ったことはないので、詳しい状況は分かりませんか、和蹔から野上までは4キ

ほどだそうです...

  ともかく...各地から馳せ参じた軍勢は、和蹔集結し、高市皇子指揮下に入っ

たようです。もっとも、高市皇子もそうした将兵にてこずって、父/大海人に、もっと近く

にいてくれるように要請したりしているわけです。うーん...分かります...

   6月28日...大海人和蹔に出向き、軍勢検分したと記されています。それか

ら...翌/6月29日...も和蹔に行き、高市皇子命令を与え、軍勢号令し、野上

に帰ったようです。

  それから...日付は不明なのですが、6月末7月初めに...敵の小部隊“玉倉

部邑(たまくらべむら: 岐阜県/不破郡/関ヶ原町/玉 )を襲ったようです。出雲狛(いずもこま)が、

撃退したとあります」

「はい、」マチコが、コクリとうなづいた。

 

ええ...」支折が言った。「...7月2...

  大海人は...“不破・・・関ヶ原に集結した大軍勢”...を2つに分け...数万づ

2方向に送り出します。うーん...数万と言っても幅があるわけですが...数万を

2つに分けても数万ということですから...ホホ...想像してみてください。

  ええ、1方は...<伊勢の方面>...鈴鹿越え倭京(わきょう/飛鳥京に入れ...

“大和の地で挙兵している・・・大伴吹負(おおともふけい)の軍”の、増援に当たります。

う1方は...<琵琶湖に直進>...最短コース琵琶湖/近江入れます。

  戦略上、問題となったのは...旧都・倭京/大和の地だったようです。そこは、倭古

(やまと・こきょう)と呼ばれ、人々に親しまれ、開けていたわけですね。近江朝広い裏

でもある、旧・王都制圧し、ここから北上して近江を落とす必要があったようです。

 

  その倭京には...近江朝・配下留守司(るすし・とどまりまもるつかさ)/高坂王(たかさかお

う)盤踞(ばんきょ:  根を張って動かないこと)していました。大海人味方で、それに対抗でき

勢力といえば、飛鳥本拠地とする、大伴連吹負(おおとも・むらじ・ふけい)大伴連馬来

(おおとも・むらじ・まくた)の兄弟しか、いなかったようです。

  直前まで、近江朝に仕えていた大伴吹負(おおともふけい)大伴馬来田(おおともまくた)

は、大海人とは深い好(よしみ)があったのでしょうか。大海人失脚すると、から

(うと)んじられたようですね...何となく、その様子は、分かる気がします。

  それで...大海人吉野へ発つと、兄弟もそれと前後して、と称して倭京に帰っ

ていたようです。倭京古い都であり、近江はたった5年です。ここに、倭京戦略上

意味も重なり...伊勢方面からも、軍勢入れる必要があったようです。

  弟/馬来田(まくた)は、大海人嶋宮からの脱出をきっかけに、倭京を出ています。そ

して以後は、大海人行動を共にしていたようです。兄/吹負(ふけい)の方は、倭京/

和盆地大波乱引き起こします。

  吹負は...大海人挙兵呼応し、倭京の自分の屋敷から出撃します。その時、

守司/坂上熊毛(さかうえくまけ)共謀し、近江朝・軍一泡(ひとあわ)吹かせ...まん

まと、指揮権奪取することに成功します。そして終いには、部隊寝返ったわけです。

  ホホ...そんなことが可能だったわけですね。でも、ここからが、大変な攻防となりま

す。そんな風に手に入れた吹負の部隊は、潰走再編成をくり返し...“不破からの

援軍”を待つことになります...」

留守司(るすし、とどまりまもるつかさ)というのは...」響子が、首をかしげた。「何人か、いた

のでしょうか?」

「あ、そうですね...」支折が言った。「指揮官も、配下もいるわけですよね...」

「はい...」響子が、うなづいた。

                                       

 
「ええと...」支折が、肘を立てた。「...話を戻します...

  くり返しますが...美濃に入った大海人は...7月2日...東国から動員した軍勢

を、伊勢方面琵琶湖/近江の方面に、くり出します。

  大海人は...6月24日...に吉野を脱出して9日目には...数万大軍勢近江

に差し向けているわけです。近江朝/大津京は、ビックリ仰天です。“天智天皇”

崩御671年12月3日/・・・46歳)から、7ヵ月後のことです。

 

  さて、近江朝/大友皇子の方では...東国と、吉備(きび: 山陽道にあった国/備前、備中、備

(びんご)、美作(みまさか)筑紫(つくし: 九州)に、軍勢・動員を命じる使者を派遣します。この

うち東国方面使者は、不破道封鎖阻止されていますよね。

  また...吉備筑紫は...唐・新羅国土侵略に備えていますし...そもそも、

地総領を動かすことができなかったようです。8ヵ月間に、情報が飛び交い、諜報戦

展開し、旗色を見たわけですね。

  大海人の、急激な改革緩和策はもちろん...将帥としての実績/人柄/安定性

は、若い大友皇子の比ではなかったようです。各所で、寝がえりなども起こっています」

「うーん...」マチコが、頭をかしげた。「寝がえりかあ...」

「そうです」支折が、コブシを握り、目を閉じた。

 

「さあ...」支折が言った。「倭京/大和盆地においては...

  軍の指揮権奪取した大伴吹負(おおともふけい)は、その後、西から来襲す近江

朝・軍と、激戦をくり広げます。この戦いは、近江朝・軍優勢で、彼の軍勢幾度も

敗走を重ねたようです。

  でも、そのつど部隊を再編成し、近江朝・軍撃退していたようです。そしてやがて、

紀阿閉麻呂(きあへまろ)指揮する...“美濃からの援軍”...が到着し、大伴吹負

窮状を脱します。

 

  一方、近江朝・側を見て行くと...河内国守/来目塩籠(くめしおこ)が、大伴

大海人・側加勢しようとして...殺されています。また、近江方面の将/山部王(やま

 おおきみ/舒明天皇の孫)も殺され、軍が動揺し、足並も鈍ったようです。

  ええと...それから...江の豪族/羽田矢国(はたやくに/琵琶湖の北周りの軍を率いた)

が、大海人・側寝返っていますね。

  近江朝・軍も、美濃に向かって発進するわけですが、動揺や足並の乱れから、前進

が滞ったようです。

 

  対する...村国男依(むらくにおより)らに率いられた、大海人・側<直進の軍勢>

は...7月7日...息長横河(おきながよこかわ)戦端を開き...連戦連勝して進撃し、

琵琶湖・東岸南下...大津京に迫ります...」

息長横川かあ...」マチコが言った。

「あ、そこは...

  滋賀県/坂田郡/米原市/醒井(さめがい)にある、天野川ということです...それか

ら...7月22日...“瀬田橋の戦い(/滋賀県大津市唐橋町)...で、近江朝・軍大敗

るのです。そして...翌・・・7月23日>...大友皇子自決します...

  これで...<壬申の乱>...は収束するわけですね。この戦いは、1カ月間にわ

たり、一進一退をくり返した後、大海人・側勝利して終結しています。

  多くの血が、流されました。大友皇子自決は...“動乱の決着”...として、避け

られなかったようですね...」

 

大友皇子没年は、24歳です...

  それから、1000年以上の時を経て...明治3年/1870...“明治天皇”により

諡号(しごう: 贈り名)弘文”が贈られています。それで...“第39代/弘文天皇(こうぶんて

んのう)として...公式列せられています...」

「はい、」響子が、小さく、しっかりとうなづいた。

 

「この後...

  翌/天武天皇2年/673年2月...大海人は、“飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら

みや/・・・“天武天皇”と“持統天皇”の2代が営んだ宮を造って、即位します。近江朝が滅び、

久しぶりに...飛鳥(奈良県/高市郡/明日香村)に帰って来たわけです...」     

 

                    

 

 

 

MoMA(ニューヨーク近代美術館)コレクション         

                          

                                          こちらにも、別のもの がございます