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日本仏教の俯瞰 (ふかん)<2 - 平安時代> |
トップページ/New Page Wave/Hot Spot/Menu/最新のアップロード/ 担当: ボス= 岡田 健吉 |
2019年 |
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2月 15日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (191)
<★ 真言宗(しんごんしゅう)/・・・高野山・金剛峰寺(こんごうぶじ/和歌山県高野町)>
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (192)
<天台宗>と<真言宗>は… 延暦23年(804年)の遣唐使船に分乗した…第50代/桓武天皇が期待する、<最澄(さい ちょう)>と、<学僧/空海>の入唐(にっとう)から…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (193)
この前年に… 遣唐使船は難波(なんば/大阪府大阪市中央区・浪速区)を出発したものの、暴風雨にあい、翌年、 再出発しています。遣唐大使は藤原葛野麻呂(ふじわらの・かどのまろ)で、4隻で出発しました。 当時の航海は厳しいもので、1カ月も漂流し、2隻が難破しています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (194)
す。<最長の乗った船>は明州(めいしゅう/寧波(ニンポー))に、<空海の乗った船/・・・遣 唐大使の船>は、はるか南方まで、流された様です。 空海は31歳で… 5月12日に難波を出発し…12月23日に…唐の都/長安に到着しています。
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2月 16日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (195)
は…今/現在…我々が想像しても、全身の血が沸き立つような感動だったと思います。
<★ 最澄/伝教大師 ★> …の入唐(にっとう)までと、入唐の状況を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (196)
<最澄>は、延暦(えんりゃく)4年(785年)19歳の時に、東大寺の戒壇(かいだん/僧尼となる者に 戒を授けるために作った壇)で、具足戒(ぐそくかい/僧が守らなければならない戒律。)を受けました。以後、 僧堂生活をすべき所を、比叡山に入って山林修行の生活に入った、と言われます。 この修行中… さまざまな仏教典籍を読破する中で…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (197)
もたらされたものです。 <全ての人の成仏を説く・・・天台法華(てんだい・ほっけ)の教学>…に魅せられた最澄は、 さらに山に籠(こも)もって、行学(ぎょうがく/修行と学問)に励んだと言われます。 そして、その成果が結実し…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (198)
看病などに当たるほか、正月の御斎会で読師となる。)>に任ぜられ、高雄山寺(/神護寺)法華会(ほっけえ /『法華経』を講義する法会)の講師に招かれました。 その評判は、桓武天皇(かんむ・てんのう)の耳にも達し、それが機縁で、<入唐求法(にっとう・ ぐほう)の還学生(げんがくしよう/…短期留学生)>…に選出されました。 天皇が、大いに期待を寄せる最澄は、弟子/義真(ぎしん/781~833年/…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (199)
空海と同じ、延暦23年(804年)、<遣唐副使の・・・第二船>…に乗って出発しました。 最澄は<還学生(げんがくしょえ)/・・・短期留学生>…なので、唐での滞在期間は8カ月 でした。 その年の8月末… 1カ月ほどの漂流の後に…<最澄の乗った・・・遣唐副使の第二船>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰】 (200)
船旅に体調を崩した最澄は、しばらく天台山(/中国浙江省東部の、天台県の北方2kmにある霊山)へ の出発を遅らせたそうです。そして、 9月15日… 明州の牒(ちょう、ふだ/…通行ビザ)を得て天台山に向かいます。 9月26日… 約160km歩いて、台州の臨海に到着しました。
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2月 17日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (201)
の滞在許可(/滞在通行ビザ)が必要だったからと言います。 最澄は台州刺史(しし/国守の中国風の名前・・・最高長官)/陸淳(りくじゅん)に面会しました。最澄は 陸淳によって、<当時/天台宗の・・・最も優れた高僧/道邃和尚(どうすい・わじょう)>… に出会うことができました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (202)
龍興寺(りゅうこうじ)に、『摩訶止観(まかしかん/・・・法華三大部の1つ)』 の講義に来ていた、と言い ます。 それから… 最澄は天台大師の祖廟(そひょう/祖先の霊をまつるみたまや)参拝のため、臨海(臨海市。中華人民共 和国浙江省台州市に位置する県級市。)から約50kmの位置にある天台山に登りました。 国清寺では… 惟象阿闍梨(ゆいぞう・あじゃり)から…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (203)
天台山仏隴(ぶつりゅう)では… 行満和尚(ぎょうまん・わじょう)に八十余巻の仏典と、妙楽大師湛然(たんねん/荊渓湛然(けいけい・ たんねん)・・・唐代の天台宗の僧侶)の遺品を授けられました。 そして… 天台大師の廟(びょう)のある真覚寺に詣でて、<求法斎文(ぐほう・さいぶん)>を誦(ず)した、と いう事です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (204)
天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどります。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写 に専念することになります。最澄は8カ月の入唐期間のうち、6カ月をこの台州に留まり、 そのほとんどを龍興寺で過ごした様です。 また、弟子の義真は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (205)
国清寺の戒壇で具足戒(/・・・小乗戒)を受け…帰国後に入唐僧として十分な資格を得て… 後に、<初代・・・天台座主(てんだい・ざす)>となります。義真は同時に、国清寺固有の典籍 の書写をしていました。 2月20日には… 103部 253巻(/一説には…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (206)
還学生(げんがくしょえ/短期留学)の最澄にとって、帰国船に乗るまでの期間は限られていまし た。それにも関わらず、その短期間で、これだけの成果をあげていたわけです。 これには… 陸淳(りくじゅん)/台州刺史(たいしゅう・しし/最高長官)が…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (207)
の動員などで、好意的な協力を惜しまなかった、と推察されます。 3月2日… 最澄と義真は、円教菩薩戒(えんぎょう・ぼさつかい/・・・究極的な完全な教えを円教と言います。)を受戒し ました。これが、後に比叡山で、『法華経』 による…
伝教大師最澄上人 (日本の天台宗の開祖 ・・・766/767年~822年) (/ネットより画像借用)
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2月 18日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (208)
を除く各宗派らで授けられる戒であり、完全にして、自在な修行者のたもつ戒のこと。)の独立への根拠となった、 と言います。
<空海>は… 744年(宝亀5年)、善通寺(/香川県善通寺市)で生まれました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (209)
の・あたい・たぎみ)、母は阿刀大足(あとの・おおたり)の娘(/あるいは妹)であり、<幼名は・・・真魚 (まお、まいお、まな・・・諸説)>…と言いました。 真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日としていますが、これは中国密教の大成者 である<不空三蔵の・・・入滅の日>…です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (210)
日は、不明とも言われます。 788年(/延暦7年)… <真魚>は、奈良/平城京に上ります。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人(さえきの・ いまえみし)が建てた氏寺の、佐伯院に滞在しました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (211)
15歳で…桓武天皇(かんむ・てんのう)の皇子/伊予親王の家庭教師であった、母方の叔父 である、阿刀大足(あとの・おおたり)について、論語、孝経、史伝、文章などを学びました。 792年(/延暦11年)… 18歳で…京の大学寮に入りました。大学での専攻は明経道(みょうぎょうどう/・・・日本律令制の 大学寮において、儒学を研究・教授した学科。)で…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (212)
空海は、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったと言わ れます。 最澄が19歳で、東大寺で具足戒を受けた後…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (213)
→ → 『三教指帰(さんごうしいき/空海による、宗教的寓意小説に仮託した、出家宣言の書。)』 >
空海は… 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』 を著して、俗世 の教えが真実でないことを示しました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (214)
です。しかし、吉野の金峰山(きんぷさん)や四国の石鎚山(いしづちさん)などで、山林修行を重 ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは、間違いない様です。
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2月 19日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (215)
や、梵語(ぼんご/サンスクリット語)、梵字(ぼんじ/インドで使用される、ブラーフミー系文字の漢訳名)にも手を 伸ばしていた形跡があります。 この時期… 一沙門(いち・しゃもん)より、<虚空蔵求聞持法(こくうぞう・ぐもんじほう)/・・・密教で、虚空蔵菩 薩を本尊として行う・・・記憶力増進のための修法>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (216)
『三教指帰(さんごうしいき)』 の序文には、空海が阿波の大瀧岳(おおたきだけ/現在の太竜寺山付近) や、土佐の室戸岬(むろと・みさき)などで、<虚空蔵求聞持法>を修していたことが記され ています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (217)
室戸岬の、<御厨人窟(みくろど)>で修行をしている時、<口に明星(/・・・虚空蔵菩薩の化身) ・・・が飛び込んで来た>…と記されてあり、<この時・・・空海は・・・悟りを開いた!> …と言われています。 当時の<御厨人窟>は、海岸線が今よりも上にあって…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (218)
と伝わっています。 <求聞持法/虚空蔵求聞持法>を空海に伝えた一沙門(いち・しゃもん)とは、旧来の通説 では<勤操(ごんぞう/三論宗の僧)>とされていますが、現在では<大安寺の・・・戒明(かい みょう/宝亀年間(770~780年)に、勅命で唐に渡った僧)>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (219)
戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後、空海が重要視した、『釈摩訶衍論(しゃくまか ・え んろん)』 の請来者(しょうらいしゃ/・・・仏像・経典などを請い受けて、外国から持って来た人)である、という事 です。 空海の得度(とくど/出家して、受戒すること)に関しては… 793年(延暦12年)に、20歳にして<勤操(ごんぞう)>を師とし…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (220)
しかし現在は… 804年(延暦23年)、遣唐使が遭難し、来年も遣唐使が派遣されることを知った入唐直前/ 31歳の時に、東大寺戒壇院で得度受戒したという説が…
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2月 20日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (221)
<空海>は、医薬の知識を生かして、入唐を推薦されています。直前に東大寺で得度し ましたが、医薬を学ぶ薬生として出発しました。しかし、この渡航は悪天候で…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (222)
それから、翌年… 再度、遣唐使が派遣される事になり、今度は、長期留学僧の学問僧として出発しました。 当時の留学僧は、中小氏族の子弟が多く、まさに空海はそうだったわけですね。中国語 の能力の高さも、有利だった様です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (223)
第16次(/20回説では、18次になります)遣唐使一行には… <最澄>や<橘逸勢(たちばなの・はやなり/・・・空海・嵯峨天皇と共に、三筆の1人。)>、そして後に、 <中国で・・・三蔵法師の称号(/訳経僧を指す尊称)を贈られる・・・霊仙(りょうせん/法相宗の僧 侶)>…がいました。
<★ 橘逸勢 (たちばなの・はやなり/平安時代初期の貴族・書家。参議の橘奈良麻呂の孫。空海・嵯峨天皇と共に、 三筆と称される。)> 橘逸勢は… 空海とは違い中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができぬと嘆いています。 そのため、語学の負担の少ない、<琴>と<書> を学ぶことになり、806年(大同元年)の帰国後は、 それらの、第一人者となりました。 <詞書(ことばがき)>によれば… 唐で顔真卿(/現在、東京国立博物館で展示中)にも会い、在唐中も <橘秀才> と称賛されていた、とあ ります。 **************************************************
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (224)
1つ。宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とし、天皇の看病などに当たるほか、正月の御斎会で読師となる。)の1人> …に任命されていて、当時の仏教界に確固たる地位がありました。 一方、空海は、全くの無名の、得度したばかりの一沙門(いち・しゃもん)でした。 遣唐使一行は、難波津(なにわつ/古代大阪湾に存在した、港湾施設の名称)を出航しました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (225)
肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から…入唐/大陸への渡航…の途につきました。 <空海と橘逸勢(たちばなの・はやなり)が乗船したのは・・・遣唐大使/藤原葛野麻呂(ふじ わらの・かどのまろ)の乗る・・・第1船>、<最澄は・・・遣唐副使/石川道益(いしかわの・みち ます)の乗る・・・第2船>…でした。 4隻からなる船団でしたが…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (226)
のことで、船の構造や、積荷などで、各船は多少異なる所もあったのでしょうか。 ちなみに… 遣隋使の頃から、朝鮮半島に上陸し、陸路を使っていないのは、それ以上の困難があっ たのだと思われます。ともかく、陸路となると莫大な費用と、調整が必要となります。
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2月 21日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (227)
途中で嵐にあい、大きく航路を逸れて、8月10日、福州(ふくしゅう/福州市・・・最澄のいる台州より もだいぶ南で、台湾海峡に面しています)/長渓県/赤岸鎮に漂着しました。 漂流の上、海賊の嫌疑をかけられて… 疑いが晴れるまで、約50日間待機させられています。この時、遣唐大使に代わり、空海 が…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (228)
に発揮されたわけですね。 また… 空海個人でも、<長安入京留学の嘆願書・・・“啓(けい/閉じたものをあける)”・・・>を提出し て、<20年・・・留学予定>…と記述しています。そうした努力の結果、11月3日に長安 入りを…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (229)
私(ボス/岡田)は、今、あらためて気付いたのですが… 最澄は、唐滞在の8カ月間を、台州の周辺で過ごしています。つまり最初から、<唐の都 /長安>には、入る予定が無かったわけですね。 最澄は、御身を大切にし…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (230)
一方、気楽な身分の、学僧/空海は… 中国/唐の永貞元年… 西暦805年(延暦24年)の、2月10日に、<西明寺>に入っています。 <西明寺>は、玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)がインド祇園精舎(ぎおん・しょうじゃ)の兜率天(とそ つてん/数ある天界のひとつで、六欲天の下から4番目の天のこと)の内院を…
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《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (231)
を模して作られたと言われます。 西明寺で、空海が割り当てられた部屋の先住者は… 空海と入れ替わりで日本に帰国する、在唐30年の永忠(/大安寺の僧)でした。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (232)
われます。 そして… おそらく、その永忠の仲介で、空海がまず師事したのは、醴泉寺(れいせんじ/唐の都長安醴泉 坊にあった仏教寺院)の<般若三蔵(はんにゃ・さんぞう/インドの学僧で 『四十華厳』 (華厳経最終章の「入法界 品(にゅうほっかいぼん)を漢訳した人)>だったのでしょう。 永忠の勧めで、密教を学ぶために必須の、梵語(ぼんご/サンスクリット語)に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (233)
ら、“梵語の経本”や“新訳経典”を与えられています。 5月になると… 空海は、<密教の第7祖・・・青龍寺の・・・恵果和尚>…を訪ねました。以降、約半年 にわたって師事します。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (234)
空海がすでに十分な修行を終えている事を、初対面のさいに見抜きました。そして、間も なく、自身の寿命が尽きる事を知っていた恵果は、即刻、空海に密教奥義の伝授を開始 しました。 この辺りは… <禅宗の黎明期(れいめいき/ある事柄が形になる前の、始まりの時期)>における、<5祖/弘忍禅 師>が、頓悟(とんご/修行の段階を経ず、ただちに悟りを開くこと)の、<6祖/・・・慧能行者(えのう・あ んじゃ)>に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (235)
方/新州へ去らせた古事/【無門関・・・二十三則/第不思善悪】と、似ていますね。 ええと… 時代は、いずれも中国/唐の時代ですが… <慧能は・・・西暦638年~713年の人>で…空海のいる、この時代は806年です。 百数十年も前の事ですね。 しかし…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (236)
<禅宗>が日本に伝来するのは、<鎌倉時代/・・・栄西・道元>…を待たなければな りません。空海の時代には、時期尚早だったという事でしょうか。
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2月 23日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (237)
空海と、<密教7祖・・・青龍寺(せいりゅうじ)/恵果和尚(えか・おしょう)>…との出会いにつ いて、実態はどの様だったのか、“参考文献” をかき集め、もう少し具体的に考察してみま す。
毅然(ぎぜん)とした顔立ちの中にも…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (238)
恵果和尚は2人の弟子を従えていて、空海が入室して挨拶(あいさつ)すると、いきなり言い ます。
長安に来ている事は承知していた! 君が… 何時来るかと、首を長くして、待っていた! 」
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (239)
<日本から遣唐使船で来た・・・空海という・・・異能の若い学僧・・・>がいて、<私 に師事し・・・梵語を学んでいる>…と、聞き知っていたのでしょう。 恵果は… それに興味を持ち、さらに弟子としての様子も…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (240)
こんな会話になったのでしょう。 <般若三蔵>が… おそらく、空海の異能に、いち早く気付き… それも濃密に、深く見抜いて、いたのでしょう。それも含めて、恵果に伝えて置き…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (241)
推薦していたのかも知れません。 恵果には… 1000人を超える弟子がいたわけですが、そのうち両部の大法を授けた高弟が何人かい ても、<正嫡に・・・価する弟子>…には、恵まれていなかった様子です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (242)
柔和ではあるが、鋭く深い眼差しで… <一瞬にして・・・空海の・・・膨大な才能・広がり・奥行>…を見抜いて、<般若三蔵 >の言葉が、誇張ではない事を悟ります。 そして恵果は、即座に、<灌頂(かんじょう)を授けよう! >…と言い出します。 逆に、空海の方は…
★ 灌頂(かんじょう) 菩薩(ぼさつ)が仏になる時… その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること。 密教においては… 頭頂に水を灌(そそ)いで、諸仏や曼荼羅(まんだら)と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて、 正統な継承者とするための儀式のこと。 **************************************************
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (243)
和尚の言う意味を測りかねました。 しかし、恵果和尚は… そうした、<空海のとまどいの状況・・・後々の才能の拡張性・・・そうした全て見抜い た上で・・・灌頂(かんじょう)を授けたい! >…
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2月 24日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (244)
それから、恵果は… 密教の奥義を、若い空海に諄々(じゅんじゅん/よく分かるように、繰り返し教えさとすさま)と、説きはじめ ます。空海は、砂が水を吸い込むように、その全てを吸収していきます。そして、打てば響 くように答えを返します。空海には、まさに、それを聞き取る力量と…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (245)
空海は、唐の都/長安において、<仏教思想の・・・新しい風・・・最新バージョン>… を恵果から知ることになりました。 その最新のバージョンと言えば、その源流は、菩提達磨の<禅宗>の勃興(ぼっこう/急に 勢力を得て盛んになること)と、やはり<玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)>による、膨大な経典や仏像 の、中国/漢字文化圏への移入になるのでしょうか… 唐代随一の訳経僧/玄奘三蔵が…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (246)
その頃は… インド大陸を席巻していた仏教も、ようやく、<その頂点を究め・・・すでに、陰りが顕在 化していた時期>…と言うのは有名な話です。 インド/ビハール州のナーランダ大学は、世界最古の大学の…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (247)
そこで学び、巡礼や仏教研究も、精力的に行いました。 そして、16年後/645年に… 玄奘は、経典657部や、仏像などを持って…仏教の勢いが陰り始めたインド大陸を離れ て…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (248)
支那大陸に希望を託して送り出したのでしょう。 大冒険を終えた玄奘三蔵には… 膨大な経典の翻訳という、訳経僧としての第2の人生が待っていました。玄奘は、持ち帰 った膨大な経典の翻訳に、余生の全てを捧げることになります。 <太宗(たいそう/唐朝の第2代皇帝)>の勅命(ちょくめい/天皇・皇帝の命令)により… 玄奘は貞観19年(/645年)2月6日から、弘福寺の翻経(ほんやく)院で翻訳事業を開始しま した。この事業の拠点は、後に大慈恩寺に移ります。 さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を、<次の皇帝・・・高宗(こうそ う/太宗の第9子)>…に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔(だいがんとう/)が建立されました。 その後… 玄奘は、玉華宮(ぎょくかきゅう/陝西省銅川市に位置する観光地)に居を移しましたが、翻訳作業はそ のまま、玄奘が亡くなる直前まで続けられました。 麟徳元年2月5日(/664年3月7日)、玄奘は経典群の中で、最も重要とされる、 『大般若経 (だいはんにゃきょう)』 の翻訳を完成させた百日後に…玉華宮で寂(じゃく)しました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (249)
翻訳作業で従来の誤りなとも正したわけですが、<法相宗(ほっそうしゅう/日本では…薬師寺、興 福寺、京都の清水寺)の開祖>となっています。 また… インドへの旅を、地誌/『大唐西域記』 として著し、これが後に伝奇小説/『西遊記』 のモ デルとなっています。
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2月 25日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (250)
秦の時代に、長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した。)>…と共に、二大訳聖と言われ ます。 私の知る<禅宗>との、比較をしてみますが… <禅宗において・・・初祖/菩提達磨(/ダルマさん)>が…仏教勢力の斜陽の見え始めた インド大陸を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (251)
北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。戦国時代の魏や、三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓 跋氏の魏を北魏と呼んでいる。)の時代でした。 その<北魏/嵩山(すうざん)・少林寺>において、達磨はひとり壁に向かって、<9年面 壁>…を行っていた、と言われます。 ここでも… <禅宗のタネ・・・1粒の麦の移入>…の方が、先を行っているわけです。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (252)
<玄奘三蔵がもたらした・・・膨大な経典の翻訳が完了して・・・> ようやく、それに命 を吹き込まれ、花開した時期と… <菩提達磨を初祖とする禅宗が・・・中国大陸/中国文化圏の・・・土着の仏教宗派 の誕生>…として、黎明期(れいめいき/ある事柄が、形になる前の始まりの時期)を終え…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (253)
とが重なって、<仏教宗派の・・・2つの、新しい大輪の花>…がまさに陽射しを受け、 大きく成長し始めている時…だったのでしょうか。 まあ、正確なところは… 浅学若輩者の私(ボス/岡田)には…あまりにも膨大な話であり…分かりかねますが。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (254)
<密教は・・・ヒンドゥー教化された仏教>…とも言われ、その神々も多く取り入れられ ていて…インドで生まれて、中国に移入されて来た、<仏教の・・・進化形>…です。 一方、 <禅宗には・・・インド文化の体臭/インド臭さはなく>…中国の大地から生まれてき た…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (255)
したがって… 真に、中国的な仏教が生まれ育って来るには、やはりそれなりの、熟成時間が必要だっ た、という事でしょうか。
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2月 26日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (256)
当然、神妙に礼を尽くし、この様に聞いたと思われます。
よろしいのでしょうか?」
「君の機根(きこん/仏の教えを理解する、度量・器)は・・・ すでに、それを越えている・・・ 明日、潅頂をやろう!」
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (257)
す)、大いに喜びました。そして、一番喜んだのは、恵果自身だったと思われます。 あ、少し訂正しますが… 同席したのは、この2名と考えましたが、それでは不自然ですね。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (258)
部屋に通されたのでしょうが、これは後見人を伴った、拝謁(はいえつ/君主など、高貴の人にお目 にかかること)の儀式の体裁(ていさい)を取ったのかも知れません。 すると、そこには、主だった者多数も参集していたと考えるべきです。十分なお膳立て(/ 手順を整えること)が、あったわけですね。
この一大事を、空海はすぐに師/般若三蔵に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (259)
するもの、さらにこれから必要とする修学についても、細かな助言をした、と思われます。
6月13日には…<大悲胎蔵(だいひ・たいぞう)の・・・学法灌頂(かくほう・かんじょう/弟子入りして、密 教の修行を始める人のために行う潅頂)>を… 7月上旬には…<金剛界(こんごうかい)の・・・灌頂>を受けました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (260)
<胎蔵界(たいぞうかい)・金剛界(こんごうかい)の・・・いずれの灌頂>においても… 空海の投じた花は… <敷き曼荼羅の・・・大日如来の上に落ち・・・両部(/両界)の大日如来と結縁(けちえん /仏道に入る縁を結ぶこと)した>…と伝えられています。 8月10日には… <伝法(でんぽう)阿闍梨位(あじゃり・い)の・・・灌頂(/阿闍梨の位を、継ぐ人のために行う潅頂)>を受 け…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (261)
味する・・・遍照金剛(へんじょう・こんごう)・・・の灌頂名>…を与えられました。 この名は、後世、<空海を尊崇(そんすう)する・・・ご宝号>…として、唱えられるようになり ます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (262)
空海は…青龍寺や、不空三蔵ゆかりの大興善寺(だいこうぜんじ/756年に、不空金剛が、灌頂道場 を開いてからは、密教の中心寺院となった。)から、500人にものぼる人々を招いて、食事の接待をし、
感謝の気持ちを表した…と伝えられています。 大勢の人たちが関わって、曼荼羅(まんだら)や密教法具の製作、経典の書写が…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (263)
恵果和尚からは、<阿闍梨(あじゃり)付嘱物>…を授(さず)けられました。これは、<伝法 の印信(/密教で、師僧が秘法を伝授した証拠として、弟子に授与する書状。)>…とされるものです。 <阿闍梨付嘱物>とは… <金剛智(こんごうち) ~ 不空金剛(ふくう・こんごう) ~ 恵果(えか)・・・と、伝えられてきた仏 舎利(ぶっしゃり/・・・お釈迦様の遺骨。分骨された1部)>、…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (264)
尚から与えられた・・・健陀穀糸袈裟(けんだ・こくし・けさ/東寺に現存)や・・・供養具など5点> …の計13点です。 これに対して… 空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉(えこうろう)を献上しています。
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2月 27日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (265)
同年12月15日…恵果和尚が…60歳で入寂(にゅうじゃく/僧侶が死ぬこと)します。 元和元年/西暦806年(延暦25年)1月17日… 空海は、密教の全弟子を代表して、恵果和尚を顕彰(けんしょう/功績などを一般に知らせ、表彰する こと)する碑文を起草(きそう/草稿を書きおこすこと)しました。
3月に、唐の都/長安を出発し…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (266)
ここでも… 土木技術や薬学をはじめ、多分野を学び、経典なども収集しています。 往路航海で遭難した、<遣唐使船/第4船>…に乗船していて生還し…その後、急に 任命されて唐に再渡海していた…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (267)
高階遠成(たかしなの・とおなり/・・・左大臣・長屋王の後裔)がいました。 その高階遠成を通じ、皇帝に上奏して… <20年の留学予定を短縮し・・・2年で留学の滞在費がなくなった事>
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (268)
帰国の遣唐使船に便乗する形で…8月に明州を出航し…日本への帰国の途につきまし た。
暴風雨に遭遇し…長崎県/五島列島/福江島玉之浦の大宝港に寄港して…そこで真言 密教を開きました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (269)
福江の地に… 本尊・虚空蔵菩薩(こくうぞう・ぼさつ)が安置されていると知った空海が、参籠(さんろう/祈願のた め、神社や寺院などに、ある期間こもること)し…満願の朝には、明星の奇光と瑞兆(ずいちょう/良い事が 起こる前兆。吉兆 )を拝しました。 異国で修行し、真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証し…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (270)
…という空海の言葉は、 わずか2年前、無名の1留学僧として入唐した空海の成果が、いかに大きなものであった かを、如実に示しています。
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2月 28日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (271)
空海は無事、博多津(/福岡市の、博多港の古称)に帰着します。 大宰府(だざいふ)に滞在し… 呉服町には東長寺を開基し、また宗像大社神宮寺であった鎮国寺(ちんこくじ/福岡県宗像市吉 田に所在する寺院。宗派は真言宗御室派で別格本山)を創建したと伝わります。 ちなみに… 806年3月に…第50代/桓武天皇が崩御し、第51代/平城天皇が即位…
(/ネットより画像借用)
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (272)
10月22日付で…空海が、朝廷に
『請来目録』(しょうらい・もくろく)を提出しています。 『請来目録』 によれば、多数の経典類(/新訳の経論など、216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師 図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (273)
れています。 <未だ学ばざるを学び、 ~ 聞かざるを聞く (/『請来目録』 より・・・)> 空海が請来したのは、<密教を含めた・・・最新の・・・文化体系であった・・・>と…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (274)
ね。
20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したために、空海に対して、朝廷は対応に困っ たのか…
806年((大同元年)) 10月の帰国後は…入京の許しを待って数年間は…大宰府に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (275)
大同2年より、2年ほどは…大宰府・観世音寺に止住(しじゅう/ある場所にとどまって、住むこと)して います。 この時期… 空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために、密教図像を制作するなどをしてい たとされます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (276)
<比叡山/天台宗/・・・最澄>と、<高野山/真言宗/・・・空海>…の話に移る前 に、平安時代の仏教というものを概観して置きます。
平安時代より興隆した日本仏教の宗派です。具体的には、平安時代初期からの<天台 宗>と…
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3月 1日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (277)
宗(ゆうずう・ねんぶつ・しゅう)>が出てきます。 そしてそれ以後… 鎌倉時代に入り、いわゆる、<鎌倉仏教/・・・浄土思想の普及や、禅宗の伝来で・・・ 新しく成立した仏教宗派>…が勃興して来るわけですね。
第50代/桓武天皇による平安遷都(794年)から…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (278)
の“長岡京”、そして、“平安京”への、遷都が必要だったのか。 <★ 遷都に明け暮れた時代・・・
→ 平城京(745年) → 長岡京(784年) → 平安京(794年) → *****************************************************************
古代の都はゴミや糞尿の処理がしきれず、川や土地が汚染され、疫病が発生するという 問題がありました。川上のきれいな水を使う宮廷はいいのですが、川下は汚染されてしま うわけです。 特に、平城京の佐保川は、小川程度の河川で、全てを押し流すほどの勢いは無かったよ うです。ついでに言えば、飛鳥京の飛鳥川も大きな河川ではなかったようですが、こっちは 水が豊富で、水の都だったことが、近年の発掘調査で分かってきている、といいます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (279)
平安遷都の背景には… そうした環境問題とは別に、奈良仏教/南都六宗の専横の問題があったと言われます。 第45代/聖武天皇から攘夷を受けた、第46代/孝謙天皇(/女帝で、重祚(ちょうそ/・・・一度退 位した君主が再び即位すること) して称徳天皇(しょうとく・てんのう))は、僧/道鏡を寵愛(ちょうあい)し、あわよ くば、道鏡が天皇にまで…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (280)
朝廷の保護の下で… 力を持ち過ぎた、奈良仏教の影響を排除することが、長岡京(784~794年の10年間で、平安京へ 遷都)・平安京への遷都の、1つの動機になっていた、と言うことです。 それから… <壬申の乱(/天智天皇の崩御後、皇位継承で争い、天武天皇が勝利した。)>以来、大和の国では…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (281)
ので、血筋の異なる天武天皇系の貴族たちの力を恐れていたといわれ、これも遷都の理 由の1つになった様です。。 明治維新の折… 積年の貴族の跋扈(ばっこ/思うままにのさばること)する京都を離れ…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (282)
隆盛、木戸孝允(きど・たかよし)、三条実美(さんじょう・さねとみ)、岩倉具視(いわくら・ともみ)達・・・ と思われますが、>…同様の理由があったと推察されます。 つまり、天皇の住まわれる、<東の京/・・・東京>…という事になった…
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3月 2日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (283)
第50代/桓武天皇(かんむ・てんのう)や…第52代/嵯峨天皇(さが・てんのう)は… “奈良仏教”に、対抗しうる新しい仏教として… <最澄が・・・唐から持ち帰った・・・天台宗>や、<空海が・・・唐から持ち帰った・・・ 真言宗>…を保護しました。 特に、最澄は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (284)
と言われます。 一方、空海は“奈良仏教”に対し、融和的な態度をとった様です。この辺りの空気感は、高 野山の地理的配置も考慮すると、当時の状況を彷彿とさせます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (285)
“平安仏教”の、特徴は1つは… <山岳仏教の・・・発展>…だった言われます。奈良仏教が都市仏教であったのに対し、 <最澄は・・・比叡山に、延暦寺>を、<空海は・・・高野山に、金剛峯寺>…を開い たわけです。 2つ目の、特徴としては… <加持祈祷(かじ・きとう/密教の行法に始まり、民間にも広まった祈禱の形態。神仏の加護を求める行法を修し、病 気平癒や、災いの除去など、現世利益を祈ること)・・・を行なう、密教>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (286)
<真言宗の密教は・・・東密(とうみつ/・・・京では東寺が中心であったため、こう呼ばれていました)>… そして、<天台宗の密教は・・・台密(だいみつ)>と呼ばれ、覇を競っていた様です。 これらの特色によって… “平安仏教”は、皇室や貴族の現世利益(げんせりやく)をかなえる…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (287)
性格を持ちます。 平安中期になると… <天台宗の・・・源信(げんしん/恵心僧都源信・・・『往生要集』 の著者)>…らにより、死後の阿弥陀 如来による救いを説く、<浄土教>が、大きな力を持ってきます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (288)
な遺構と言われます。 <融通念仏宗(ゆうずう・ねんぶつ)>も、そうした流れから出て来ます。 やがて… 武家勢力の台頭と併せ、平安末期には、<法然(ほうねん)の・・・専修念仏>…が広まり、 民衆全体への広がりを見せ…
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3月 3日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (289)
言宗/・・・空海>…の考察になりますが、小休止をとります。 いよいよ、日本仏教の核心に入って行きます。次の展開に、ご期待ください!」
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3月 31日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (290)
<天台宗>について…資料を集め…簡単に説明します。 <天台宗>は、大乗仏教(/…これに対し上座部仏教があります。)の宗派の1つです。 諸経(しょきょう)の王とされる、『妙法蓮華経/= 法華経(ほっけきょう)』 を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (291)
天台教学は、中国に発祥し… 入唐(にっとう)した最澄/伝教大師によって、平安時代初期に日本に伝えられました。多く の日本仏教の宗旨(しゅうし/宗教の流派)が、この比叡山から展開しています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (292)
<律宗>と<天台宗>を兼学の僧/<鑑真和上(がんじん・わじょう)>が来日して、天台宗 関連の典籍が、日本に入って来た様です。 次いで… 最澄/伝教大師が入唐して、天台山(/中国浙江省東部の天台県)にのぼり、天台教学を受け、 帰国して天台教学を広めました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (293)
特に、飲酒に厳しい態度を取っていて… 私の弟子ではなく、仏弟子でもないから、ただちに追放するように! >
平安時代の初期には… 日本には、<法相宗(ほっそうしゅう)>や<華厳宗(けごんしゅう)>など、<南都六宗>が伝え られて…
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4月 1日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (294)
は、こっちの方が先に伝来しているわけです。 最澄/伝教大師は… 日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り… 後年…円仁(えんにん/慈覚大師)や、円珍(えんちん/智証大師)など…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (295)
最澄は…
<法華一乗>とは… 悟りへの道として、<インドの大乗仏教>では…<声聞(しょうもん/仏陀の教えを聞く者)、縁覚 (えんがく/おのれひとり悟ってよしとする孤高の覚者/独覚)、菩薩(ぼさつ/仏の次の位の者。菩提薩埵 (ぼだいさっ た) の略称)の・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (296)
しかし、『法華経』 では… それらに差別をつけずに、それらを融合して、<ただ・・・ 一乗あるのみ> ということを 説いているとする、<天台宗の・・・考え方> …です。 これに、既存勢力/奈良・南都六宗が反発し…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (297)
ごんじつの・そうろん)>…は有名という事です。 また、他にも… 鑑真和上が招来した、<具足戒(ぐそくかい/修行者が遵守すべき戒 (いましめ) のこと。)を授ける・・・ 東大寺/戒壇院>…を独占する奈良仏教に対して、<延暦寺/大乗戒壇(だいじょう・か いだん/大乗戒を授けるための戒壇)>を設立しました。 さらに…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (298)
として認めました。そして、菩薩僧として12年間、比叡山に籠山(ろうざん/僧などが山にこもって 修行すること)して、学問・修行を修める構想をたて、奈良仏教との対立を深めて行きました。 ちなみに… 当時は、<大乗戒> は俗人戒とされ…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (299)
現在でも… スリランカの上座部仏教などの南方仏教では、<大乗戒> は戒律として認められてい ない様です。詳しくは考察しませんが、<上座部仏教/部派仏教/・・・原始仏教に近 い> は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (300)
の戒の方が異質で、認められない、としているのでしょうか。 ともかく… 当時、朝廷は… <力を持った奈良仏教(/・・・聖武天皇の皇女の第46代/孝謙天皇の寵愛を受けた、僧/道鏡が皇位をねらい、 <道鏡が皇位に就くべし> との、宇佐八幡宮の託宣をうけた、などの、デマもありました。)>に飽きていて、<法相 宗>などの旧仏教の束縛を断ち切り…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (301)
流にあった様です。 そうした論争の末… <最澄の没後に・・・大乗戒壇に・・・勅許(ちょっきょ/天皇の許可)> が下り… 名実ともに、<天台宗> が、独立した宗派として確立して行きます。 それから…
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4月 2日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (302)
日本仏教の中心的存在になる中で、<天台宗>も<密教>を積極的に取り込んで行き ます。 そして、円仁と円珍の努力で、密教理論が整えられて行きました。これが、<台密>にな るわけです。 そもそも… <天台宗>は、 『法華経』 を根本経典としているために、<顕教(けんきょう/釈迦が一般にわ かりやすく説いた教え。反対語が、密教になります)>とされますが、最澄は天台教学とともに、<密教 (中期密教)>、<禅(北方禅)>、<念仏(浄土教)> を、日本に持ち帰っている様ですね。 さらに… 後に、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)が入唐し、中国密教を本格的に学んだことから、日本 の<天台宗>は、密教を包含しているわけです。この日本天台宗に伝わる密教を、<台 密>と呼びます。
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唐から帰国して朝廷からの信任を得ましたが、その翌年に真言密教のすべてを修めた空海が帰国し、 すぐに朝廷から信任を受け活躍します。最澄は自身が学んできた密教は、一部の傍系のものでしか ないことに気づきました。それで、空海に礼を尽くし、自らの弟子共々、高雄山神護寺において、空海 の弟子となりました。 しかし最澄は・・・ 弟子をして空海に借経を繰り返し、『理趣釈経 (理趣経の解説本)』 を借りようとしたところ、ついに空海から拒絶されました。また、最澄の一番弟子である泰範など諸弟子たちが空海の元へ行って、比叡山 へ帰らなかったことなど、様々な理由から、最澄と空海の交流が断たれてしまいます。 これにより・・・ 最澄が目指していた法華経を中心とする、戒律や禅、念仏、そして密教を融合させた総合仏教といわ れる日本独特の天台宗の教学確立は、そこで中断せざるを得なくなりました。
最澄の入寂後に・・・ 中国密教の拠点であった唐/青龍寺において、本格的に修学した円仁・円珍によって、密教がより本 格的に日本に紹介されました。 天台宗における密教/台密は・・・ 最澄によって創始せられたものであり、円仁・円珍により、日本天台教学の完成を見たと言える、とい う事です。 東密では金剛界・胎蔵を説きますが、台密では胎蔵・金剛界・蘇悉地 (そしつじ)の三大法を説きます。*********************************************************************************************
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (303)
円仁・円珍の双方の弟子たちが、その解釈を巡って対立するようになります。 993年に… ついに…円仁派が、円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起こりました。そして、円珍派 /1000人余りの僧侶は比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになります。 それ以降…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (304)
流れます。
さて… 平安時代の中期には… <第18世座主/・・・良源(りょうげん/通称は、元三大師(がんざん・だいし) 比叡山延暦寺の中興の祖)> により、諸堂の再建と整備が進み、教学の振興が図られます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (305)
<良源の弟子・・・源信(/恵心僧都(えしんそうず))>…が著した 『往生要集(おうじょう・ようしゅう/ 現実の苦悩や汚穢(おわい/けがれていること)を直視し、念仏を勤めて、西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に往生すべき こと、を説いたもの。)』 が…後の<浄土教>の発展につながって行きます。
平安時代・末期~鎌倉時代・初期にかけては… <法然>や<栄西>、<親鸞>、<道元>、<日蓮>など、各宗派の開祖たちが…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (306)
ます。 空海は、高野山/<真言宗>を完成させましたが… 最澄の比叡山は未完で…そのことにより、後に新しい宗派が続々と生み出して行くことに なります。対比される2人ですが、それぞれの才能・天命に、歴史を超えた面白さがありま す。
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4月 3日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (307)
その後の、16世紀に… 比叡山は織田信長による凄絶(せいぜつ/息をのむほど、すさまじい様子)な焼き討ちにあっていま す。この戦いで信長は、僧侶、学僧、上人、児童の首を、ことごとく刎(は)ねさせた、と言 われます。 以降、宗勢に陰りが見えましたが…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (308)
す。 天海は、江戸開幕/徳川家康の側近で… 江戸幕府初期の…朝廷政策、宗教政策に深く関与しました。そして特に、江戸/上野の 寛永寺は、西の比叡山に対して、東叡山(/寛永寺の山号で、京都の比叡山に対していう)と…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (309)
<天台宗/・・・比叡山延暦寺>…の物理的風景ですが… これは、京都府内にあるのではなく、隣の琵琶湖を擁する滋賀県/大津市/坂本本町に 所在し… <標高848mの・・・比叡山全域を境内・・・とする寺院>…です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (310)
くれい)とも称されました。 ええと、くり返しますが… 比叡山延暦寺は…平安時代・初期に、最澄/伝教大師(767年~ 822年)により開山された、 日本天台宗の本山寺院、という事ですね。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (311)
天台座主(てんだい・ざす)と呼ばれ…末寺(/滋賀県の西明寺、観音寺。京都の寂光院、三千院。長野県の善 光寺。東京/上野の清水観音堂、深大寺。岩手県の中尊寺・・・等々・・・天台宗は、20宗派があり、約4000寺院、信者数 約450万人と推計。)を統括します。 1994年に… 比叡山延暦寺は、古都/京都の文化財の一部として… <1200年の歴史と伝統が・・・世界に高い評価を受け・・・ユネスコ世界文化遺産> …に登録されています。
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4月 4日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (312)
す。 延暦寺とは、前にも言いましたが… 単独の建造物の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する、<東塔(とうど う)>、<西塔(さいとう)>、…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (313)
すが、そこに所在する150ほどの堂塔の総称です。 延暦寺は… 788年(延暦7年)に、最澄が薬師如来を本尊とする、<一乗止観院(いちじょうしかん・いん/・・・ 延暦寺の旧称)>…という草庵を建てたのが、始まりと言われます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (314)
言われます。 延暦寺は… 数々の名僧を輩出したわけですが、もう少し説明を加えると… <日本天台宗の、基礎を築いた・・・入唐(にっとう/唐に入国すること)僧侶/円仁、円珍>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (315)
祖・・・親鸞>、<臨済宗の開祖・・・入宋(にっそう/宋に入国すること)僧侶/栄西>、<曹 洞宗の開祖・・・入宋僧侶/道元>、<日蓮宗の開祖・・・日蓮>…などですね。 新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (316)
るわけです。 また… <12年籠山行(ろうざん・ぎょう/山にこもって修行すること)>、<千日回峯行(かいほう・ぎょう/比叡山の 修験行の1つ)> など、厳しい修行が現代まで続けられていて、<日本仏教の・・・代表的な ・・・聖地>…となっています。
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4月 5日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (317)
766年(天平神護2年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市/坂本生源寺)に生まれました。 780年(宝亀11年)/15歳の時… 近江国分寺の僧/行表のもとで得度(とくど/出家して受戒すること)し、<最澄>と名のりまし た。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (318)
785年に、郷里に近い比叡山に小堂を建て…修行と経典研究に明け暮れた日々を過ご した、と言われます。 785年(延暦4年)/20歳になった時…奈良/東大寺/戒壇院で受戒し、正式の僧となっ ています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (319)
数ある経典の中でも、『法華経』 の教えを最高のものと考えました。それで、中国の天台 大師智顗(ちぎ/天台宗の開祖・・・3祖とも、)の著述になる、『法華三大部/・・・<法華玄義>、 <法華文句>、<摩訶止観>』…を研究したと言われます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (320)
最澄は、三輪山(/奈良県桜井市にあるなだらかな円錐形の山)より、大物主神(おおものぬし・がみ/日本神 話に登場する神)の分霊を日枝山(ひえのやま/後に比叡山の字が充てられた)に勧請(かんじょう/神仏の来臨 を願うこと)して、大比叡とし、従来の祭神/大山咋神(おおやま・くいのかみ)を、小比叡としました。 そして… 現在の根本中堂(/比叡山の東塔にある建物。一山の中心となる建物の意)の位置に… 薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、<一乗止観院 (いちじょうしかん・いん/ 延暦寺の旧称)>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (321)
それから… 年号をとった、<延暦寺> という寺号が許されたのは、最澄の没後…823年(弘仁14年) のこと、と言われます。 時の天皇… 第50代/桓武天皇(かんむ・てんのう)は、新興仏教となる最澄に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (322)
した。最澄は、天皇やその側近である和気氏の援助を受けます。比叡山寺は、京都の鬼 門(/北東)を護る国家鎮護の道場として、次第に栄えて行く事になります。
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4月 6日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (323)
最澄は還学生(げんがくしょう/短期留学生・・・空海は20年留学予定の学僧)として、唐に渡航することが 認められ、804年(延暦23年)に遣唐使船で唐/中国に渡りました。 最澄は天台山におもむき… 天台大師/智顗(ちぎ)の直系の道邃和尚(どうすい・おしょう)から…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (324)
また… 越州の龍興寺(りゅうこうじ)では、順暁阿闍梨(じゅんぎよう・あじゃり)より密教を…翛然禅師(しゃく ねん・ぜんじ)より、禅を学びました。 805年(延暦24年)…帰国した最澄は、日本で、<日本天台宗> を開きます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (325)
日本に伝えたことが、最澄の学問の特色です。 <延暦寺> は… そうした総合大学としての性格を持ち、後に浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源が、ここに あったわけです。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (326)
最澄が… “生涯果たせなかった念願”は、比叡山に<大乗戒壇> を設立することでした。<大乗 戒壇>を設立するとは、奈良の旧仏教勢力から独立し、延暦寺において独自に僧を養成 することです。
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4月 7日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (327)
<最澄の説く・・・天台の思想> は… <一向大乗/・・・すべての者が菩薩であり・・・成仏/悟りをひらく事ことができる> …というものでした。 これが、南都六宗/奈良仏教勢力とは、相容れなかったわけです。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (328)
<僧の地位は・・・国家資格> であり、その<国家公認の僧・・・になるには儀式を行 う戒壇/・・・戒壇院>…が必要でした。それは、日本には3カ所しかありませんでした。 <奈良・東大寺>、<筑紫・観世音寺(/福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある・・・天台宗の寺院)>、 <下野(しもつけ)・薬師寺(/栃木県下野市にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。)>…でした。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (329)
天台宗が独自に、僧の養成はできなかったのです。最澄は自らの仏教理念を示した、『山 家学生式(さんげ・がくしょう・しき)』
の中で、こう主張しています。 念させ・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (330)
あるいは、日本各地に指導者として派遣し、活動させたい・・・> 南都六宗/旧仏教勢力から、激しい反発を、受けることになりました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (331)
各地で活動しながら、大乗戒壇の設立を訴え続けました。 その、<大乗戒壇>の設立は… 822年/<最澄の遷化(せんげ/高僧が死ぬこと)/死後7日目に・・・ようやく許可>…が下 されました。この事がきっかけとなり、後に<延暦寺は・・・日本仏教の・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (332)
翌年/823年… 比叡山寺は…<延暦寺・・・の勅額(ちょくがく/皇帝・天皇などの為政者が、国内の寺院に特に与える直筆 の書で記された寺社額)>…を授かりました。 <延暦寺> は徐々に、仏教教学における権威となり、南都/奈良に対するものとして、 北嶺(ほくれい)と呼ばれることになります。 最澄の死後は…
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4月 8日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (333)
その意思を継いで、比叡山を発展させて行きます。 <大乗戒壇(だいじょう・かいだん)設立/・・・大乗戒壇独立・・・延暦寺戒壇院の成立> 以 後… 比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を、輩出して行くことになります。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (334)
円仁(/慈覚大師)と円珍(/智証大師)は、どちらも唐に留学し、多くの仏典を持ち帰り、<比叡 山の密教・・・台密>…の発展に尽くしました。 円澄(えんちょう/第2世天台座主)は、西塔(さいとう)を… 円仁は、横川を開いて…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (335)
これも、何度かくり返しますが… 比叡山の僧は後に…円仁派と円珍派に分かれ、激しく対立するようになりました。 993年(正暦4年)… 円珍派の約1000名の僧は、比叡山を下りて…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (336)
以後も、<円仁派/山門派・・・延暦寺>と、<円珍派/寺門派・・・園城寺>は…対 立・抗争をくり返します。 こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から、自然に、<僧兵> が出現して来まし た。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (337)
ど精強だった様です。
余談になりますが、<僧兵> についても少し考察しておきましょう。 最澄や空海が活躍したのは、平安時代・初期のことです。しかし平安時代・末期には…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (338)
<僧兵> は… 興福寺、延暦寺、園城寺/三井寺、そして東大寺などの寺院を拠点として、<寺院同士 の・・・勢力争い>や、<朝廷や、摂関家に対し・・・強訴>…をくり返していました。 特に…
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4月 9日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (339)
<山法師> と呼ばれ、恐れられていました。 また、<宗教的権威を背景とする・・・強訴>は、<僧兵> の武力以上の威力を持っ ていました。しばしば、朝廷や院(/上皇、法皇)を屈服させて…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (340)
の紛争を、自らに有利に決着させました。 一方… 寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われました。特に有名なのが、比叡山に おける、<円空派/山門派・・・延暦寺> と、<円珍派/寺門派・・・園城寺> の抗 争でしょうか。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (341)
白河法皇(しらかわ・ほうおう/・・・法皇とは、出家した上皇。譲位した、第72代/白河天皇のこと。)が…
双六(すごろく)の賽(さい)・・・ 山法師・・・ 是(これ)ぞわが心にかなわぬもの・・・ (/・・・天下の3不如意・・・)>
“賀茂河の水”とは、暴れ川で有名な賀茂川の水害であり… “双六の賽(すごろくの・さい)”とは、サイコロの目です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (342)
この当時、<僧兵の横暴> は… 朝廷政治の不安要素にも数えられていた様です。こうした傾向は、中央から離れた各地 方にも波及していました。有力寺社は、独自の軍事力を持っていたり、地元軍事力と結び ついたりして…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (343)
室町時代には… <第153世/天台座主の義円(ぎえん)>…が還俗(げんぞく/僧が僧籍を離れて、俗人にかえること) し、<第6代将軍/足利義教(よしのり…第3代/足利義満の子)> となったわけですが… <比叡山の・・・僧兵の・・・軍事力と、粗暴さ>…を熟知していたために…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (344)
そして後には… 織田信長も凄絶な、<比叡山の焼討ち> を行なっているわけですね。 こうした… 各地の有力寺社が軍事力を持つ傾向は、<豊臣秀吉による刀狩(かたながり/武士以外の者 が持っている刀・槍などの武器を没収すること。<1588年(天正16年)の・・・豊臣秀吉による刀狩令>が有名。これによっ て、兵農分離を行い、近世封建体制の基礎をつくりました。)>…まで、続く事になります。
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4月 10日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (345)
もとは、<山法師/・・・延暦寺の僧兵> でした。京/五条大橋で、義経と出会って以 来、<源平の戦い>で大活躍し、さらに源頼朝の追討を受け、主従共々に、奥州/平泉 で壮絶な最期をとげるまで…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (346)
ええ… これもオサライで、くり返しますが… 平安時代から鎌倉時代にかけて、延暦寺は多くの名僧を輩出しました。<円仁・円珍> の後は、<良源/慈恵大師(じけい・だいし)・・・別名で元三大師(がんざん・だいし)は・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (347)
の規律維持、学業の発展に尽くしました。 また… <源信/・・・恵心僧都(えしん・そうず)>は、『往生要集(おうじょう・ようしゅう/…死後に極楽往生する には、一心に仏を想い・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (348)
それから、<良忍> は… 比叡山で天台教学、園城寺/三井寺で梵網戒(ぼんもうかい/梵網菩薩戒・・・梵網経に説かれ、大乗 仏教の戒律の中心をなす、十重禁戒と四十八軽戒)、仁和寺(にんなじ/真言宗御室派総本山)で密教を学び、 <融通念仏宗の開祖>…となっています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (349)
自の教えを開いて行きました。 延暦寺はその権威に伴う武力もあり、また物資の流通を握ることによる財力も持っていて、 <時の権力者を無視できる・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (350)
延暦寺の勢力は… <武家政権> をも脅かしました。従来、後白河法皇(/第77代・後白河天皇)による平氏政権 打倒の企てと考えられていた、<鹿(しし)ケ谷の陰謀(/平家打倒の陰謀事件)>…の一因とし て、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に…
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4月 11日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (351)
加担した院近臣を捕らえたとする説、もある様です。 それから… 1191年(建久2年)には、<建久二年の強訴(ごうそ)> が起こっています。 当時の社会の空気感や…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (352)
(ネット資料/・・・ウィキペディアを参照)
【建久二年の強訴】
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (353)
んぞく・りょう/稲千束分の税、とか、)を貢納(こうのう/みつぎものをおさめること)する義務を負っていました。 しかし、1191年(建久2年)は… 前年の水害による不作で、未進(みしん/・・・近代以前の日本において、年貢・公事・夫役など、・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (354)
それで、3月下旬に… 延暦寺の傘下にあった日吉社(/日吉大社・・・滋賀県大津市坂本にある神社)の宮仕(きゅうじ)数十人 が、未進催促のため、<神鏡> を奉じて佐々木氏の荘園に押し寄せたました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (355)
僧兵> と、一緒に乗り込んだのでしょう。 この時… 佐々木定綱(/伊豆国に流罪となった源頼朝の側近として仕えた。)は在京していて不在でしたが、宮仕 は定綱邸に乱入し、家中の男女に暴行を加えて、放火に及びました。 これに怒った定綱の次男/…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (356)
の際に、誤って、<神鏡> を破損してしまいました。 <神宝の・・・破壊>…は極刑に値する重罪でした。事件は、佐々木氏と延暦寺の抗争 から、朝廷・幕府を巻き込む大事件に発展しました。
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4月 12日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (357)
京都守護/一条能保(いちじょう・よしやす)から事件の経過と、<大衆/僧兵> の不穏な動 きを聞いた、摂政/九条兼実(くじょう・かねざね/…通称は後法性寺関白。父親が、藤原忠通/『小倉百人一 首』 の・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (358)
腹心の蔵人頭(くろうどのとう/蔵人所は天皇の秘書室で・・・そこの実質的な長)/葉室宗頼(はむろ・むねより/ 藤原宗頼・・・権大納言)を派遣して、天台座主/顕真(けんしん)に、<大衆/僧兵> の制止を命 じました。 しかし、天台座主/顕真は… 山上飢饉(/・・・比叡山も、食物が欠乏して飢えている)のため、禁制を加えても誰も従う者はいない だろうと…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (359)
4月6日… 延暦寺所司(しょし/僧侶の職名の1つ)が上洛(/京都に行くこと)して、佐々木定綱父子の身柄引き 渡しを要求しますが、対応した摂政/九条兼実は、後白河法皇が不在のため、法皇還御 (かんぎょ/天皇・三后・将軍・公卿が出先から帰ること)の後に裁断を下す、と告げて、ひとまず結論を 先送りにしました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (360)
4月5日に…一条能保と大江広元(おおえの・ひろもと/朝廷に仕える下級貴族/官人でしたが、鎌倉に下っ て源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当になる。)から、事件の一報が届きました。佐々木定綱 ・逐電(ちくでん/逃げて行方をくらますこと )の情報や、延暦寺の使者が鎌倉に下向するという… 風聞もありました。 事態を憂慮した… 鎌倉幕府/初代征夷大将軍/源頼朝は… 梶原景時(/鎌倉幕府の御家人)と後藤基清(/鎌倉幕府の御家人)を相次いで上洛させました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (361)
功臣/佐々木定綱の斬罪を回避するために、<定綱の所領の半分を・・・延暦寺に寄 進するという条件>…で交渉をまとめるよう、梶原景時に言い含めていた…と伝わりま す。 4月19日には…延暦寺側は日吉祭が行われるなど…平穏な情勢だったと言われます。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (362)
延暦寺の<大衆/僧兵> は、<日吉・祇園・北野の神輿(みこし/祭礼の時に、神体を安置して かつぐコシ )>…を奉じ、佐々木定綱の死罪を求めて強訴を起こしました。 慈円(/天台宗の僧で、摂政/九条兼実の同母弟 ・・・『小倉百人一首』 では、【95番 → 前大僧正慈円 <ジャンプ> 】 から…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (363)
て閑院内裏(/閑院とは・・・藤原冬嗣の邸宅。二条大路の南、西洞院大路の西にあり、平安時代末から鎌倉時代中期 まで里内裏(さとだいり/平安宮内裏以外の邸宅を、天皇の在所(皇居)として用いた所 ))に参入します。 しかし… その場にいたのは、京都守護/一条能保(いちじょう・よしやす)と、蔵人頭(くろうどのとう)/葉室 宗頼のみであったといいます。 摂政/九条兼実は、検非違使(けびいし/京都の治安維持と民政を所管)別当(べっとう/長官)でもある 一条能保に…
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4月 13日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (364)
示を下します。 しかし、官人は 「志府生僅かに両三人」 のみで、院御所から大夫尉(たいふの・じょう/左衛 門尉(さえもんの・じょう)のことで、左衛門府の判官(ほうがん)。左衛門大夫ともいう。検非違使と兼ねた場合には<廷尉 (ていい)>と俗称された)/大江広元(おおえの・ひろもと)が駆けつけたものの、実働部隊の廷尉(て いい/日本の検非違使の唐名にもあたる)は集まりませんでした。 また武士も…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (365)
に安田義定(/・・・本人は関東に下向して不在)の郎従 「十騎許(ばか)り」 が加わったが、その兵 力は極めて少なかった、と言います。 配備の段階になっても…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (366)
れ、閑院内裏の南庭に、<大衆/僧兵・・・数千人>…がなだれ込んだ、とあります。 うーむ… 数千人とは、まさに大軍勢ですねえ。これだけの人数が動くと、水食料等の…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (367)
ますね。 摂政/九条兼実と天台座主/顕真が… 佐々木定綱の処遇について折衝している最中に… <大衆/僧兵・・・は神輿を放置して・・・逃散した>…とあります。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (368)
強訴防御に失敗した京都守護/一条能保(いちじょう・よしやす)は… 第82代/後鳥羽天皇(/後に、<承久の乱>で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流された天皇。『新古今和歌 集』は後鳥羽院の命による。)の院御所/六条殿(ろくじょうどの/・・・京都の六条の北、西洞院 (にしのとういん) の 西にあった、後白河法皇の仙洞御所)への行幸(ぎょうこう/天皇のお出まし)を提案しますが… 九条兼実は、<安元の強訴(?/安元3年の鹿ケ谷の陰謀のことでしょうか、)> の例が不快であると して、反対しました。 それで、後白河法皇が、<大衆/僧兵> の“定綱死罪の要求“を退け… 定綱父子を流罪、…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (369)
令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。 天皇の発する宣旨に相当する。)を下し、<神輿>を引き上げ るよう、天台座主/顕真に命じました。 4月29日の罪名宣下(ざいめい・せんげ/・・・宣下は、天皇の命令を伝える公文書を公布すること)で… 佐々木定綱は薩摩へ…その子息/広綱は隠岐へ…定重は対馬へ…定高は土佐へ流罪 となりました。あと、下手人の5人は禁獄です。 まあ… こうした状況が、鎌倉時代初期の騒動であり、政治であり、問題対処の風景だったわけで す。
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4月 14日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (370)
延暦寺所司と頼朝の間で、佐々木定綱の身柄引き渡しについて折衝が行われていまし た。頼朝は饗応(きょうおう/酒や食事を出して人をもてなすこと)と贈り物で宥(なだ)めようとしました。 しかし、5月2日に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (371)
斐源氏の祖とされる源義光の孫/源清光の子)から一条能保の命令で・・・?(文脈不明)>…手出しを 控えていたところ… 郎従(ろうじゅう/武者や国司に仕えた従僕の総称)が<大衆/僧兵> により殺傷された、という報 告が入りました。 5月3日… 源頼朝は、佐々木定綱の流罪は当然のこととしながらも…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (372)
(いんそう/上皇に事を奏聞すること。)します。 しかし、延暦寺側に処罰が下ることはありませんでした。抗争は、佐々木氏側の敗北とな ったわけです。まあ…どちらが厄介(やっかい)や連中か…よく分かりますね。 5月20日… 佐々木定重は配流(はいる/島流し)の途上で…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (373)
決断と見られます。斬首された佐々木定重は、佐々木定綱の次男ですね。 そもそも、コトの発端は、<大衆/僧兵> の強訴(ごうそ)です。佐々木定綱の館に、<御 輿を担いで・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (374)
<これに怒った定綱の次男・定重は・・・郎従に命じて宮仕(きゅうじ)を切りつけるが・・・ この際に誤って、神鏡を破損させてしまった>…わけであり、現場にいて郎従に命令を 下した、張本人という事です。 結局、【建久二年の強訴】は… 館の党首ではなく、<神鏡>が損壊され… 館で防戦を命令した次男が、<神鏡・・・破損!>…の大罪の責任を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (375)
<武力>だけで言えば、征夷大将軍/源頼朝の方がはるかに上であり…<権威>から いえば、法皇の方がはるかに上です。 <宮仕・大衆/僧兵> は、せいぜい、<神罰・仏罰が当たるぞ! > …と言うぐらいで すが、まさに大暴れです。粗暴で、非常に手強い輩です。後に、これに手を焼いた織田信 長が、<比叡山の焼き討ち>…という、徹底弾圧の挙に出るわけです。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (376)
一条能保(いちじょう・よしやす)は検非違使・別当(けびいし・べっとう)を…大江広元は明法博士(みょ うほう・はかせ/大学寮に属した官職の1つ)を、それぞれ辞任しています。 ちなみに… 佐々木定綱は… 1193年(建久4年)3月に、島流しの地/薩摩から召還されて、近江守護に復帰しています。 長い目で見れば… 平安京/朝廷と鎌倉/幕府の、二重の治世下にあったわけですね。これを見る限りにお いては、<僧兵> はただの、暴れん坊の様に記録されています。
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4月 15日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (377)
の歴史の感触を、再認識させられます。 そして… 仏教は、平安時代までは宮廷や貴族文化を中心に展開していましたが、鎌倉時代に入る と、いわゆる、<鎌倉仏教が・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (378)
しかし… 広い意味での文化全体が、真に民衆の中で開花するには、<江戸時代・初期・・・元禄 文化>…まで待たなければなりません。 ちなみに… この<元禄文化> では、俳諧の松尾芭蕉が活躍し…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (379)
ました。つまり、<浅野内匠頭(あさの・たくみの・かみ)の切腹・・・赤穂(あこう)事件/赤穂浪 士の仇討(あだうち)>…となり、さらに、『仮名手本・忠臣蔵』…となって行くわけですね。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (380)
います。
さて… <最澄/伝教大師…比叡山延暦寺> については、これぐらいにして…次は、<空海/弘法大師・・・高野山金剛峯寺>…について考察します。 どうぞ、ご期待ください。
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6月 5日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (381)
「さて…」ボス(/岡田)が、茶を飲み干し…茶碗をデーブルの隅の方へ押した。「ええ… <★ 天台宗/比叡山・延暦寺> に続き… 平安時代の仏教/平安仏教の、もう一方の雄である…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (382)
ここでは… 空海が中国/唐より帰朝して以後の考察になりますが… その経緯をおさらいする意味で、帰朝後の様子を、少し重複して、記述する事にします。
空海は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (383)
た。しかし、20年の留学期間を2年で切り上げ、20年分の学費を使い果たして帰国した わけであり、この大成果を上げた空海に対して、朝廷は対応に苦慮した様子です。 そのために… 809年(/大同4年)まで…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (384)
州/大宰府での滞在を余儀なくされました。 大同2年より… 2年ほどは、大宰府/観世音寺(かんぜおんじ/本尊は聖観音。開基は天智天皇)に止住(/居住)しまし た。この時期、空海は個人の法要(ほうよう/仏教において、遺族が故人の冥福を祈るために行う供養のこと。 神道では<霊祭>、キリスト教では<追悼ミサ>や<記念祭>)を引き受け、その法要のために密教図像 の制作などを…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (385)
☆☆☆☆☆
平安京に遷都(/794年)した “第50代/桓武天皇”の次の代…“第51代/平城天皇” も 退位し…そして、“第52代/嵯峨天皇” が即位しました。 空海は… まず、和泉国・槇尾山寺(いずみのくに・まきのおさんじ/施福寺(せふくじ)のことで、大阪府和泉市にある天台宗 の寺院。通称は、槇尾寺(まきおでら、まきのおでら))に滞在し…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (386)
書。 官符とも言う。)を待って入京、和気氏(わきし/備前国和気郡を本拠とした豪族)の私寺(官寺に対していう) であった高雄山寺(/神護寺のこと。開基は、和気清麻呂)に入りました。 空海の入京には… 最澄の尽力(じんりょく)や支援があったと言われます。その後、2人は10年ほど交流関係を 持ちました。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して、弟子としての…
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6月 6日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (387)
しかし… <法華一乗 (ほっけ・いちじょう/悟りへの道として・・・インドの大乗仏教では、<声聞・縁覚・菩薩> の3つの実践 法 < → 三乗> を立てていましたが、『法華経』 ではそれらに差別をつけず、融合して、<ただ一乗あるのみ> ということ を説いているとする、天台宗の考え方。 『法華経』 のもつ総合的、包括的な性格を強調しています。 )> を掲げる最 澄と… <密厳一乗 (みつごん・いちじょう/・・・<密厳浄土> とは大日如来がいる浄土。『大乗密厳経』 に説く、三密で荘 厳された浄土で、密厳国・密厳仏国ともいう。)> を標榜する空海とは、徐々に対立するようになり… 816年(弘仁7年)の初頭頃には、訣別するに至ります。 2人の訣別の契機として、古くから言われているのは…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (388)
絶した事と、最澄の弟子/泰範(たいはん)が空海の下へ走った問題が上げられています。 しかし… 高名な2人ですから、教義(/宗教の各宗派の、教えの内容・主張)の深い所での対立があったわけ ですね。 810年(/大同5年…空海が入京した翌年)の事ですが…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (389)
て決着しました。)>…が起こったために、空海は嵯峨天皇側につき、鎮護国家のための大祈 祷(だいきとう)を行っています。 翌/811年~812年にかけて…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (390)
を務めました。 812年11月15日… 空海は、高雄山寺にて… 金剛界結縁灌頂(こんごうかい・けちえん・かんじょう)を開壇しました。入壇者には、最澄も含まれて いました。 さらに… 12月14日には…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (391)
はん・・・後に、空海に師事 )のほか、190名にのぼりました。 813年11月23日… 最澄が、空海に… 『理趣釈経(りしゅ・やくきょう/・・・唐/長安における空海の師/不空三蔵が 『理趣経』 を訳したもので、その中には、 <性欲の肯定> が含まれていて・・・空海が最澄に渡るのを恐れていた、密教禁断の経典・・・とか、) 』 …の借覧を申し入れましたが、密教の真髄は口伝(くでん)による実践修行にあり、文章修 行ではないという理由で…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (392)
ることができます。 816年6月19日… 修禅の道場とし、<高野山>の下賜を請い…7月8日には、<高野山> を下賜する旨 (むね)勅許(ちょっきょ)を賜(たまわ)りました。 翌/817年… 泰範(たいはん/最澄から、空海の下へ去った僧)や、実恵ら弟子を派遣して、高野山の開創に着手し ます。 818年11月… 空海自身が、勅許の後、初めて…
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6月 7日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (393)
819年/春… 高野山の七里四方に結界を結び、伽藍(がらん/寺院の建物の総称)建立に着手しました。 この頃…
を説きますが、そのことに疑いをいだく者のために著わされた書物。)』 『★ 声字実相義 (しょうじじっそうぎ/空海の著書。1巻。・・・『即身成仏義』 『吽字義』 とともに3部の書とされ、その 他の著書を加えて 10巻とした十巻章のなかに含まれる。『大日経』 の具縁品の一文をもとに、文字と音声とは、そのまま 宇宙の真理の大日如来を本質的に示現するものであると論じています。言語学の立場からは、日本最初の言語哲学書と 言われます。)』 『★ 吽字義 (うんじぎ/空海の著書。1巻。 ・・・真言密教の立場から梵字の 「吽」 につき字相と字義を説いたもの)』 『★ 文鏡秘府論 (ぶんきょうひふろん/平安時代の漢詩文の評論書。空海編著。6巻。成立年未詳・・・詩文を作成す る上での規則を記したもので、四声や韻、詩の六義や十体、対句や詩病、文意など詩の音韻や格式などについて、中国の 六朝から唐にかけての、諸家の詩論を抜粋しながら論じています。)』 『★ 篆隷万象名義 (てんれいばんしょうめいぎ/空海の撰。全 30巻。部首引きの字典。830年以後の成立とみら れ、日本における現存最古の辞書。約1万 6000の漢字を 541部に分け、各漢字ごとに篆書と隷書 (楷書) の形をあげ、 字音 (反切による) と意味の注記を付す。)』
819年7月…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (394)
中務省の役割から考えて、詔勅などの文章作成の指導、あるいは代筆を求められたと考 えられています。 ちなみに… 嵯峨天皇も、<三筆の1人/・・・ 日本の書道史上の能書のうちで、最も優れた3人 の並称であり・・・平安時代初期三筆は・・・ 空海 ・ 嵯峨天皇 ・ 橘逸勢(たちばなの・はや なり)の3人を嚆矢(こうし/物事のはじめ)とする>…とある様です。 820年/5月… 『★ 文鏡秘府論』 を要約した 『文筆眼心抄(ぶんぴつ・げんじん・しょう)』 を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (395)
ためだったと、考えられています。 821年… 満濃池(まんのういけ/香川県仲多度郡まんのう町にある、日本最大の灌漑用のため池)の改修を指揮して、< アーチ型堤防> など、当時の最新工法を駆使し工事を、成功に導いています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (396)
太政官符により、東大寺に灌頂(かんじょう)道場/真言院を建立しました。この年、平城上 皇に潅頂を授けました。 <薬子の変> では… 空海は、対立した嵯峨天皇側についたのですが、そこは、嵯峨天皇と平城上皇は、共に 桓武天皇の同母兄弟/長子と次子であり、狭い宮中社会の事ですから、12年もたてば蟠 り(わだかまり/・・・心の中に、つっかえた様になって、たまっている感情)も解けたのでしょうか? ついでに言えば… 次に即位した、第53代/淳和天皇も、父は桓武天皇ですが、平城天皇と嵯峨天皇とは、 同母兄弟ではなく、異母弟となります。
空海は、太政官符により、<東寺・・・を賜り・・・真言密教の道場>…としました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (397)
呼ぶようになります。 <東寺(とうじ)は・・・教王護国寺> の名を合わせ持ちますが、これは鎌倉時代以降に用 いられています。 824年2月… 勅により、神泉苑(しんせんえん/京都市中京区にある、東寺真言宗の寺院)で <祈雨法(きうほう/ 雨乞(あ まご) いのために、密教で 『大雲輪経』 『大孔雀経』 等に基づいて降雨を祈る修法。請雨経法(しょううきょうのほう)。雨乞 い法。)> を修しました。
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6月 8日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (398)
空海は、少僧都(しょうそうず/僧綱の一員。僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官。)に任命さ れ、僧綱 (そうこう/・・・仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職。僧正(そうじょう)、僧都(そうず)、律師(りっし) からなり、それを補佐するための佐官も置かれた。 <大僧正 ・ 僧正 ・ 権僧正(ごんの・そうじょう)> <大僧都 ・ 権大僧 都(ごんの・だいそうず) ・ 少僧都 ・ 権少僧都(ごんの・しょうそうず)> <大律師 ・ 律師 ・ 権律師(ごんの・りっし)> ) …入りします。 6月には…造東寺(ぞう・とうじ)別当(べっとう/長官)となります。 9月には…高雄山寺が定額寺(じょうがくじ/・・・奈良・平安時代の寺格の1種。 500~1000束の灯分稲が 国から支給され、これを出挙してその利息を灯油料とし、年分度者を置いた。)となり、真言僧14名を置き、毎年 /年分度者(ねんぶんどしゃ/・・・平安時代初期の頃から、仏教の出家修行者の数を年ごとに限定する制度が行われ、 1年間に出家することを認められた人のことを言う。選定には試験が行われ、厳格な修行と学習が課せられていました。) 1 名が、許可となっています。 828年には… 空海は、『綜藝種智院式并序(そうげい・しゅちいんしき・ならびに・じょ)』 を著すとともに…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (399)
原武智麻呂の曾孫。)の私邸を譲り受けて、私立の教育施設/<綜芸種智院(しゅげい・しゅちいん) > を開設しています。 当時の教育は… 貴族や郡司(ぐんじ/律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官)の子弟を対象にす るなど、一部の人々にしか、門戸を開いていませんでしたが、<綜芸種智院> は庶民に も教育の門戸を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (400)
<綜芸種智院> の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網 羅する、総合的な教育機関だった様です。 『綜藝種智院式并序』 において… <物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (401)
めた上で… <一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百 世継ぐを成さん> …と、天皇、大臣諸侯や、仏教諸宗の支持・協力の…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (402)
ただし、これは実現しなかった様で、<綜芸種智院> は空海の入滅後10年ほどで、廃 絶しています。 現在は、<種智院大学(/京都伏見にある私立大学。1949年に設立。)> および <高野山大学( /高野山に本部を置く私立大学。 1926年に設立。)> がその流れを受け継いでいる、と言う事です。
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6月 9日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (403)
第53代/淳和天皇(じゅんな・てんのう)の勅(ちょく、みことのり)に答え、『秘密曼荼羅十住心論/ ・・・
十住心論
(じゅうじゅうしんろん/・・・空海の代表的著述の1つ。830年頃、淳和天皇の勅にこたえて真言密教の 体系を述べた書) 』 10巻を著し… 後に…本書を要約した、『秘蔵宝鑰(ひぞう・ほうやく)』 3巻も著(あらわ)しています。 831年(天長8年)5月末… 空海は、病を得て、6月に大僧都(だいそうず)を辞する旨(むね)上表していますが、天皇に慰 留されています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (404)
高野山において最初の、<万燈万華会(まんどう・まんげえ/万の灯明と、万の花とを、両部曼荼羅に供 養する法会)> が修(しゅう/・・・修する、とは <仏事などを執り行う> という意味があります。)されました。 空海は願文に… <虚空尽(つ)き・・・衆生尽き・・・涅槃(ねはん)尽きなば・・・我が願いも尽きなん> …と想いを表しています。 その後、秋より高野山に隠棲(いんせい)し、穀物を断ち、禅定を好む日々であったと…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (405)
834年2月… <東大寺/真言院(/東大寺にある密教寺院。空海が東大寺別当在任中 (810~814) に創建。弘仁13年、灌 頂道場を創設し、奈良/南都における真言宗の根本道場とした。)>で… 『法華経』 『般若心経秘鍵 (はんにゃしんぎょう・ ひけん/・・・空海によって書かれた『般若心経』の注釈書で、 『般若心経』 を密教の立場で解釈した論書)』 を講じました。 同/12月19日… 毎年正月宮中において、<真言の修法> を行いたい旨(むね)を、奏上(そうじょう/天子・国王 などに申し上げること。)しました。 同/29日に…太政官符で許可され、 同/24日の…太政官符では…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (406)
維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称。 所司(しょし)とも呼ばれている。)> を置くことが、許されています。
に改めて置きます。)
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (407)
1月8日より… 宮中で、<後七日御修法(ごしちにちの・みしゅほう/宮中において・・・毎年元日から7日までの間に行われる 種々の神事の終った後・・・真言院において、8日~ 14日までの7日間、天皇の安寧や国家安穏を祈る秘法を修すること。 )> を修しました。 <宮中での御修法(みしゅほう)> は、明治維新による、<神仏分離(/神仏習合の慣習を禁止し、 神道と仏教、神と仏、神社と寺院とを、はっきり区別させること。)> による短期の中断をはさみ、<東寺> に場所を移し、勅使(ちょくし/天皇・皇帝・王など君主が出す使者のこと)を迎え、毎年行われています。
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6月 10日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (408)
同/2月30日…<金剛峯寺が・・・定額寺(じょうがくじ/ 奈良・平安時代の寺格の一種。官大寺・国分 寺に次ぐ寺格)> となりました。 同/3月15日…<高野山> で、弟子達に遺告(ゆいごう/・・・御遺告 )を与え… 同/3月21日…<空海は・・・逝去(せいきょ/・・・<死ぬ> の敬語。亡くなること。)> しました。享 年62(歳)。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (409)
空海の詩文を集めた 『性霊集』 を編集しています。また、長く <神護寺> に住し、その発展に尽力しました。高雄僧正・ 紀僧正・柿本僧正とも称されています。)撰/『空海僧都伝(くうかい・そうず・でん)』 によると… 空海の死因は病死で… 『続日本後紀 (しょく・にほん・こうき/・・・六国史の第四にあたり、第54代/仁明天皇の代である833年(天長10年) から、850年(嘉祥3年)までの18年間を扱う。)』 によると、遺体は荼毘(だび)に付された様です。 しかし後代には… 入定(にゅうじょう/禅定に入ること。/高僧が死ぬこと。入滅。)した、とする文献が現れています。
831年(天長8年)に… 病を得て、以降の空海は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (410)
ました。 特に… 834年(承和元年)12月から~入滅までの3か月間は… <後七日御修法(ごしちにちの・みしゅほう)>…が申請から10日間で許可され、その10日後 には修法しました。 また…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (411)
した。 そして、総てをやり終えた後に、<入定/・・・永遠の禅定>…に入ったとされています。
<★ 弘法大師について・・・>
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (412)
兼ね備えた。)/観賢(かんげん)の奏上により… 第60代/醍醐天皇(だいご・てんのう)から、<弘法大師の・・・諡号(しごう/貴人や高徳の人に、死 後i贈る名前。贈り名。)> が贈(おく )られました。 高野山壇上伽藍/根本大塔の・・・塔内の正面に、 <昭和天皇の・・・宸筆(しんぴつ/天皇の直筆)の扁額(へんがく/横に長い額)・・・“弘法”(こうぼう) >…が掲げられています。
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6月 11日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (413)
ぼう・りしょう)>…の業績から、<弘法大師>の諡号が贈られることになった、と言います。 中世(ちゅうせい/封建時代を意味し、4、5世紀~ 15世紀頃までの時代をいう。日本では、普通、鎌倉時代から戦国時 代までを中世としています。)に入ると… 空海の評伝を絵画化する動きが見られました。 最初は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (414)
『高野大師行状図画』 『弘法大師行状絵巻』 などがよく知られ、空海の様々な伝説が、全 国に知られる一因となりました。 <弘法大師> の名は、空海の名を越え、千年の時を越えて…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (415)
歴史上… 天皇から下賜(かし/身分の高い人からくださること)された、<大師号・・・は全27名> だそうで す。しかし一般的には、<大師> といえば、ほとんどの場合、<弘法大師> を指す様で す。空海の名は知らなくても、<弘法さん>、 <お大師さん> を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (416)
<真言宗> では… <宗祖/空海を・・・大師> と呼んで崇敬(すうけい/あがめうやまうこと)し、<入定を、死では なく・・・禅定に入っているもの>…とする様です。 高野山・奥の院・御廟(ごびょう)において、空海は今も生き続けていると信じ、<南無大師 遍照金剛(なむ・だいし・へんしょう・こんごう)>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (417)
真言宗/醍醐派(だいごは)では… 空海に、<大師号> が贈られる以前から、帰依し、信仰していたことを強調するために、 <南無遍照金剛(なむ・へんしょう・こんごう)>…と大師をつけずに呼ぶ場合がある、という事で す。
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6月 12日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (418)
空海が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、<四国八十八箇所> に代表されるような、 <霊場> として、現在も残っています。 空海の修行以降、<霊場巡り> は、幅広く、大衆の信仰を集めている、という事です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (419)
おいて、<空海は・・・今も禅定を続けている>…とされています。 <奥の院> の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が、衣服と二時の食事を給仕している、とい う事です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (420)
いため、部外者には今も不明のまま、と言われます。 <沖ノ島の・・・沖津宮>… (/宗像大社(むなかた・たいしゃ)は・・・沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の 三社の総称・・・2017年7月に世界遺産に登録 )
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (421)
なった様ですが、そこでも… <一木一草一石たりとも・・・持ち出してはならない・・・> <島で見聞きしたことは・・・他言無用・・・> …と言われます。 そのために、膨大な量の古代の貴重な遺品の数々は、<海の正倉院> とも呼ばれ、今 もむき出しの大地や岩陰に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (422)
高野山/<奥の院・・・霊廟内>…の様子は、規模は違いますが、それと似ています。 現存する資料で… <空海の入定> に関する、初出のものは… 入寂後100年以上を経た968年(康保5年)に、仁海(にんがい/小野僧正・雨僧正・雨海僧正とも称され る。真言宗小野流の祖。)が著した、『金剛峯寺建立修行縁起(こんごうぶじ・こんりゅ・しゅぎょう・えんぎ)』 で…
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6月 13日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (423)
九日目)を過ぎても容色に変化がなく、髪や髭が伸び続けていた…とされます。 また、『今昔物語(こんじゃく・ものがたり/平安時代末期に成立したと見られる、説話集)』 には… 高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者(/東寺の管理者・長官である僧侶の呼 称)であった、<観賢(かんげん)> が、<霊廟を・・・開いた> という記述がああります。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (424)
<霊廟の空海は・・・石室と厨子(ずし/二枚とびらの開き戸がついた物入れ)で二重に守られ・・・ 坐っていた>、と言います。 <観賢> は… 一尺あまり伸びていた空海の蓬髪(ほうはつ/のびて乱れた髪)を剃(そ)り、衣服や数珠(じゅず)の 綻(ほころ)びを繕(つくろ)い整え、再び封印したという事です。 また入定した後も、諸国を行脚している、という説もあり…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (425)
改める儀式の際、<衣裳に・・・土がついている> という事です。 一方、歴史学的文献には… 『続日本後紀(しょく・にほん・こうき)』 に記された、第53代/淳和上皇(じゅんな・てんのう)が高野山 に下した院宣(いんぜん/上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。 天皇の発する宣旨に相当。) に空海の荼毘(だび/火葬)式に関する件が、見える事…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (426)
<空海の・・・入定直後>に… 東寺長者の、<実慧(実恵・・・じつえ/空海の十大弟子の一人。讃岐国の出身で空海の一族。檜尾僧都・道興大 師とも称される。初代/東寺長者。)が・・・唐/長安・青竜寺へ・・・送った手紙> …の中に、空海 を荼毘に付したと取れる記述がある事… など、<空海が・・・火葬された事が・・・示唆> されています。 また、桓武天皇の孫/高岳親王(たかおか・しんのう)は… <空海の十大弟子> の1人として、遺骸の埋葬に立ち会った…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (427)
<高岳親王> は法名は“真如”であり、第51代/平城天皇の第3皇子に当たります。異母 兄に <阿保親王(あぼ・しんのう/第51代/平城天皇の第1皇子。<薬子の変> で出家した父・平城上皇と、皇 太子を廃された弟/高岳親王に連座して、大宰権帥に左遷されています。)>、甥に<歌人/在原業平(ありらの ・なりひら/阿保親王の五男で・・・六歌仙・三十六歌仙の1人。、『伊勢物語』 のモデル。)> がいます。 空海に関しては… 史実にまして伝承が多く、<開山伝説> や、<開湯伝説> に至っては…
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6月 14日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (428)
<★ 空海 十大弟子・・・について>
弟子について… <空海の弟子・・・真雅(しんが)/空海の実弟で・・・空海十大弟子の1人>…が朝廷に 言上(ごんじょう/目上の人に、申し上げること。)しています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (429)
ししふほう・しだいのこと)』…によれば、空海の付法弟子(ふほうでし)は…
【
弘 法 大 師 10 大 弟 子 】 <真済(しんぜい/空海の詩文を集めた 『性霊集 (しょうりょうしゅう)』 を編集)、真雅(しんが/空海の弟)、実恵 (じつえ/初代・東寺長者)、道雄(どうゆう)、円明(えんみょう)、真如(しんにょ/平城天皇の第3皇子で、高岳親 王(たかおか・しんのう)で、<薬子の変> に伴い皇太子を廃された。異母兄に阿保親王、甥に歌人/在原業平がいる。)、 杲隣(ごうりん)、泰範(たいはん/初め最澄のもとで天台を学ぶ。後に、高雄山で空海から灌頂を受けた。空海を援助 して、高野山開創のために努めた。空海門下四哲の1人)、智泉(ちせん/空海の入唐に従った)、忠延(ちゅうえん) >
後に、この10人を… <釈迦の・・・十大弟子> になぞらえ、<弘法大師・・・十大弟子>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (430)
<十大弟子> の語の初出は、慶長年間(1596年から1615年までの期間)の成立とみられる、 頼慶(下間 頼慶(しもつま・らいけい/戦国時代の武将で、本願寺の坊官)の/『弘法大師十大弟子伝』 の様 です。 空海には、付法弟子10人以外にも、多くの弟子の名が知られている様です。 1684年(/貞享元年)成立の、智灯(智灯照玄/ちとう・しょうげん・・・江戸中期の曹洞宗の僧)による/『弘 法大師弟子伝』 は、計20人…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (431)
師弟子譜』 は計70人…を載せています。 ちなみに、『弘法大師弟子伝』 は… <堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体・・・> 以下、合 計20人。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (432)
<円行、最澄(さいちょう/・・・伝教大師・最澄も、密教においては空海の弟子でした。)、光定、円澄・・・> 以下合計70人です。
<★ 空海の・・・肖像について>
います。
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6月 15日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (433)
信徒へ、後世の為への戒めを、25箇条にわたって示された遺言 )』 や、<空海の評伝> を根拠としたもの が多いという事です。 その<図像(ずぞう/諸仏の像や、曼荼羅(まんだら)などの図様を描き示したもの。何らかの主題・象徴を担う画像。キリ スト教におけるイコンなど。)> は… 多岐にわたり、寺院などに祀(まつ)られるだけでなく、空海の生涯を振り返り、日本各地に 伝わる空海の伝承を知る、よすが(ゆかり、手がかり)となっている様です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (434)
した形の1つ、となっている様です。
いう説が…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (435)
太子二歳像> に酷似している様です。 また、大江匡房(おおえの・まさふさ/平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。)が記した 大師讃に、<合掌シテコソ生ケル>…とあります。 『往生要集(おうじょう・ようしゅう)』 に…<宝亀五年(774年)甲寅(きのえとら/・・・干支の1つ)・・・(中 略)金剛合掌(こんごうがっしょう/左右の掌を合わせて両手の指頭を交差するもの。叉手(さしゅ)ともいう。)シテ生 ル> とある様です。
『往生要集(おうじょう・ようしゅう)』/・・・(恵心僧都・源信の著。3巻。平安時代中期の書)
多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻から なります。 基礎を創りました。また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土 (ごんぐじょうど)の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えました。
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《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (436)
裙(くん/裳裾(もすそ)、僧侶がつける黒色でひだのある、腰にまとうもの)を着け、金剛合掌した立像です。絵 像・仏像とも、作例がある様です。 また… <弘法大師誕生佛を・・・稚児大師(ちご・だいし)> と称する場合も、ある様です。 それから… <青葉祭(あおばまつり/高野山の金剛峯寺において営まれる弘法大師の降誕会)・・・弘法大師の誕生日 とされる・・・6月15日に行う行事> では…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (437)
る)> にならい… <金属製の弘法大師誕生佛を・・・花御堂(はなみどう)内の浴盤(よくばん)へ安置し・・・像 の頭上から柄杓(ひしゃく)で甘茶(あまちゃ)を注ぐ> …事を行う、寺院もあります。 京都の仁和寺(にんなじ/京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山)や、東寺などで、行われている 様です。
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6月 16日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (438)
<稚児大師(ちごだいし)> を祀(まつ)る真言宗の寺院も多いという事です。真言宗の寺院 が経営する保育所や幼稚園では、<稚児大師が・・・空海の幼少期の姿> であること から、幼児・児童の守り仏として、<稚児大師> を祀っている施設もある様です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (439)
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空海が… <5~6歳の頃・・・蓮華座に座して、諸佛と物語る> …とあるのに基づいて図像化した、と言われます。袴(はかま)を着けた童形の空海が金剛 合掌し、蓮華座(れんげざ/仏像の台座の一種。蓮華とはハス、水連)に座しています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (440)
を後背(/・・・背後)としている様です。
両手をお腹あたりまで下げて、両手の掌の上で五輪塔(ごりんとう/主に供養塔・墓として使われる塔 の一種)を安置している姿です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (441)
的です。手に仏鉢(ぶつばつ)・念珠(ねんじゅ、ねんず)・五鈷杵(ごこしょ)を持した像があります。 空海が、巡錫(じゅんしゃく)・行乞(ぎょうこつ)・行脚(あんぎゃ)し、修行している姿を、彷彿(ほうふつ) とさせます。 <修行大師> を参拝することで、遍路(へんろ)が出来ない人々は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (442)
の御影堂(みえいどう)に奉安(ほうあん/尊いものを安置してたてまつること)されている…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (443)
子の1人で、真如 )が描いた・・・空海の姿を・・・高野山本>…と称する事もあります。 水原尭栄(みずはら・ぎょうえい/大正~昭和時代の真言宗の僧。高野山真言宗・管長)・著/『弘法大師影像 図考』 では、<真如様大師> のことを、<普通大師>と記しているぐらい、<空海の 肖像で・・・最も流布されている・・・お姿> です。
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6月 17日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (444)
これは、真如親王(/高岳親王・・・空海10大弟子の1人)が、空海の在世中に描いたとされ、 <空海自身が・・・描かれた眼に筆を入れ・・・開眼させた! > …という伝承があります。 椅子式の牀座(しょうざ)に座し、全身に木欄色(もくらん・じき)の袈裟(けさ)をまといます。顔をや や右方向へ向け…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (445)
木履(ぼくり、ぽっくり/・・・きぐつ)が置かれています。 <椅子式の牀座(しょうざ)は・・・天皇が空海に下賜> …した、と伝わっています。また、 水瓶が置かれている意味は…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (446)
漏れなく密教を伝えること> …を象徴しています。これを、<写瓶相承(しゃびょう・そうじょう/・・・あたかも一器の水を他の一器に移す ように、一滴たりとも遺漏なく、すべてが伝えられ、受け継がれて行くこと。)> と言います。水瓶を描くことで、 <空海が・・・密教相承(みっきょう・そうじょう)の正嫡(しょうちゃく、せいちゃく/本妻から生まれた長子)> …であることを示しています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (447)
現在、一般的に使われている真言宗の念珠とは形が異る、<御請来念珠(ごしょうらい・ねん じゅ)>・ <御影念珠(みえい・ねんじゅ)> と言われる念珠を手に持している図像も、ある様 です。
とは、移動用の折畳式簡易腰掛け)に座しています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (448)
空海の肖像は、この様式を採ることが多い様です。他の七祖も四脚床几に座し、床には 水瓶・木履が置かれています。 単独で… この様式が採られた作例もあります。作例としては、<絹本著色弘法大師像(けんぽん・ちゃ くしょく・こうぼうだいしぞう) 画賛(がさん/絵の上部や余白に書き加える文章・句)> という事です。
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6月 18日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (449)
<朝廷より・・・大師号(<大師>の尊号)下賜(かし)の勅許(ちょっきょ/天子のゆるし)> …が下されたことを報告するために、空海が入定している高野山/岩窟(がんくつ)を開扉し、 入定している空海に対面しました。その時の空海の姿が、文献・伝承によって図像化され ています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (450)
木欄色(もくらん・じき)の袈裟姿で、長髪の空海が、<印(印相/仏・菩薩が手指で示す印の形)> を衣 の袖の中で結んでいます。また、腕に念珠を掛けている図像もあります。 頭髪があるなど、<真如様大師(しんにょ・よう・だいし)> とは異なりますが、木欄色の袈裟姿 などは似ています。 ちなみに、<真如様大師を・・・入定大師(にゅうじょう・だいし)>…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (451)
『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょう・ひけん/…空海が『般若心経』を密教の立場で解釈した論書)』 を根拠にし、 空海が宮中で、『般若心経』 を講讃する姿を図像にしています。 空海が、木欄色の袈裟をつけ、月輪中(がつりん・ちゅう)に 『般若心経秘鍵』…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (452)
があるものです。 また… 円形の後背をつけ、座して、右手に利剣、左手に念珠を持つ姿などもあります。 『般若心経』 の、<本尊佛・疫病除(えきびょう・よけ)の本尊> として、信仰されています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (453)
空海を御所の、<清涼殿/・・・平安京の内裏のうちで、天皇の日常の居所>…へ召 して、空海が他宗の学僧・高僧と…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (454)
その際、真言密教の奥旨(おうし/宗教・学芸などの、奥深い意味。奥義(おうぎ)。)を示すため、清涼殿 で、<空海自身が・・・大日如来の姿>…になりました。その姿を図像にしたものです。 <・・・清涼殿大師> …とも。
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6月 20日 |
【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (455)
また… 『両部神道書 (りょうぶしんとう・しょ/・・・両部とは、金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅のこと。真言宗(/密教)の立場から なされた、<神仏習合思想の書>。)』 には… <天照太神と・・・空海の三昧(ざんまい/精神を集中し、雑念を捨て去ること)が・・・同心であると 解釈し・・・日輪三昧を行った> …と記されている様です。<神仏習合> の影響を、色濃く受けています。 『諸尊真影本誓集(しょそん・しんえい・ほんせい・しゅう)』 の中に…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (456)
常に、<日宮(ひのみや/天上にある天照大神の御殿)> に居して、日輪三昧に入っていると、記さ れています。 これは、<空海が大日如来と同体で・・・大日如来と天照大神が同体である・・・とい う解釈> から、<天照大神と・・・弘法大師を・・・同体とみる信仰がある>…と考えら れています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (457)
す。 作例としては… 高野山奥の、<院護摩堂に祀られている・・・弘法大師像>…で、厨子(ずし/2枚扉の開 き戸がついた物入れ)の中に納められています。赤蓮華座(あか・れんげざ)に結跏趺坐(けっかふざ)し、 赤色円形の後背があります。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (458)
21cm)。江戸時代の作、という事です。
と言われます。 高野山奥の、<院御廟> の柱に、<一対の聯(れん/書や絵を書き、または彫刻して、柱や壁などの 左右に相対して掛けて、飾りとする細長い板。対聯。)> が掲げられています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (459)
<我昔遇薩埵 親悉傳印明發無比誓願 陪邊地異域晝夜愍萬民 住普賢悲願 肉身證三昧 待慈氏下生> …と記されています。この文章は、空海の言葉とされています。 一部を意訳すれば… <弥勒菩薩が、下生(げしょう/神仏がこの世に現れること)されるまで・・・
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (460)
肉身のまま瞑想に入る・・・> この言葉が、<空海が・・・高野山で “入定(/禅定に入ること)” した理由> とも言える、と いう事です。ちなみに、火葬とある文献とは、矛盾しています。 また… <東寺の・・・定額僧(じょうがくそう/朝廷より供料をうけている僧)・縁実> が、香川県/善通寺の 別当になり…
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6月 20日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (461)
いう事です。 その感得した文書である、『日々影向文 (にちにち・よう・ごうぶん)』 には… <卜居於高野樹下遊神 於都卒雲上 不闕日々之影向 検知處々之遺跡>
高野山内への西の入り口/大門 (/ネットより画像借用)
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (462)
率天・化楽天・他化自在天・・・の内の第4。ここには七宝でできた宮殿があり、宮殿には内院と外院があります。)>に、 空海が住している、と認識されていた様です。 <弥勒大師> の作例としては… 高野山の、<奥の院・燈籠(とうろう)堂に・・・安置している木像>…という事です。江戸 時代の作と推定されています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (463)
座し、右手に五鈷杵(ごこしょ) 左手に五輪塔を持しています。 後背には、<光明真言(こうみょうしんごん/マントラ)> が彫られています。法量・一尺一寸(/約 33cm)、身体のみの法量五寸(約15cm)…という事です。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (464)
に… 中院流(/真言宗の事相(じそう/修法の作法)の法流の1つ )では、空海の姿を描いた御影(おみえ)を、 敷曼荼羅として敷くという事です。その御影に描かれている空海の姿…この図像は、…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (465)
事です。
が祀ってあり、この地が、<鯖大師信仰> の起源地とされています。
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6月 21日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (466)
寺院を49院、溜池を15窪、溝と堀を9筋、架橋を6所等を作り・・・直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を 破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず、困窮者のための布施屋9所等の設立など、数々の社会事業を各 地で成し遂げた。 朝廷からは度々弾圧や禁圧をされたが、民衆の圧倒的な支持を得て、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧 正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初。)として、聖武天皇により奈良の大仏(/東大寺)造立の実質上の責 任者として招聘された。この功績により、<東大寺の…四聖の1人> に数えられている。)> …は、<四国・別格霊場・・・鯖大師本坊> となっています。 由来は… 空海が四国行脚の途中、塩鯖を持っている馬子(まご/馬方、馬追)に塩鯖を乞うたが、空海 は僧であり、馬子は断ったと言います。まもなく、鯖を荷としている馬が、腹痛で倒れてし まいました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (467)
空海に、馬の腹痛平癒(ふくつう・へいゆ)のための祈祷(きとう/神仏に、その加護・恵みを求めて祈ること) をたのみました。空海が祈祷を行うと、馬の 腹痛は止みました。馬子は返礼に塩鯖を、 <布施(ふせ/仏教では、信者が僧に財物を施すこと)> として渡しました。空海がその塩鯖に、<三 密加持(さんみつかじ/・・・ 衆生と仏とは本来同一であるから、衆生が身に印を結び (身密) 、口に真言を称え (口密)、 心に本尊を観じる (意密) とき、それがそのまま仏の三密と相応して、仏の加護を受け、仏と同一となること。)> を行い、 海に放しました。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (468)
この伝承に基づいて、図像化したと言われています。 <鯖大師> の姿は… <修行大師> とほぼ同様ですが…左手に鯖、右手に念珠を持している立像という事で す。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (469)
徳島県の八坂八濱の鯖瀬(さばせ)/<鯖大師本坊の・・・大師堂/鯖大師> 、 大阪市 港区/釈迦院の境内に、<鯖大師の石像> があります。
<☆ 瞬目大師(めいきだいし)・・・について >
『弘法大師御誕生所 屏風浦 善通寺略記』 によれば…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (470)
鎌倉時代の、第83代/土御門天皇(つちみかど・てんのう)が…百官(ひゃっかん/数多くの役人)を伴 い、<真如様大師> の絵像を叡覧(えいらん/天子がごらんになること)されたところ、その絵像の 眼が瞬(またた)きをされました。 そのことから… 土御門天皇が勅(ちょく/天子のおおせ)して、叡覧された絵像を、<瞬目大師(めいきだいし)> と 命名されました。
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6月 22日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (471)
木像で、背中に、<微雲管(びうんかん/・・・56億7000万年後に、衆生を救うために、弘法大師と共に降りて 来られるという弥勒菩薩が、天上界/兜卒天(/弥勒菩薩の宮殿のある所) から、細い管を通して地上を見ているとされて いる管のこと。 )> の三文字の記文があります。 空海が入定の前日に、自身の木像を刻み、背の上に、<微雲管> と書き入れた、と伝え られています。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (472)
室町・桃山時代の木像で… <真如様大師> の形を踏襲しています。椅子式の牀座(しょうざ)・水瓶(みずびん)・木履(ぼく り/きぐつ)はない、という事です。 『紀伊続風土記(きい・ぞくふどき、 きい・しょくふどき/・・・江戸時代に、紀州藩が編纂した地誌)』 によると… ある行者が、弘法大師の像を…
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (473)
言って、東方を向いたという事です。 行者が夢から覚めると… 像の首が左に向いていたという伝承から、その像が、<萬日大師> と称されるようにな った、と言います。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (474)
鎌倉時代の木像で… <真如様大師> の形を踏襲しています。椅子式の牀座・水瓶・木履はないという事です。 顔を右に向けているので、<北向大師> という名称となった、と言います。
《仏教/ 雑学・3 》 《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (475)
高野山より北の方角にある、<京都御所・・・すなわち、皇城鎮護(こうじょう・ちんご)>…の ために祈る姿を表している、という事です。
<★ 空海の年譜・・・ >
事院に相当) 直轄下の官僚育成機関。官僚の候補生である学生に対する教育と、 試験及び儒教における重要儀式である釋奠(せきてん/孔子および儒教における 先哲を先師・先聖として祀る儀式)を行った。) …に入り、明経道(みょうぎょうどう/日本律令制の大学寮において儒学を研 究・教授した学科。) を専攻する。
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6月 23日 |
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (476)
年間に同書を、序文と十韻詩の改訂をし、朝廷に献上の際、書名を 『三教指帰』 に改めたと考えられています。)』 → 『三教指帰(さんごうしいき)』/国 宝を著した。 804年/延暦23年 31歳 <東大寺戒壇院> で得度受戒した。 804年/延暦23年12月23日 31歳 <第16次遣唐使/・・・留学僧> として唐/長 安に入った。最澄も別船に乗り入唐(にっとう)した。 805年/延暦24年5月 32歳 <密教の第七祖/・・・青龍寺(/長安)の恵果和 尚・・・に師事>した。その前に、般若三蔵(はんにゃさんぞう) にも師事。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (477)
32歳 <伝法阿闍梨位>の灌頂を受け、<遍照金剛 の灌頂名> を与えられた。 806年/大同元年10月 33歳 20年間の予定を2年間で帰国したため、帰京の許 可を得るまで大宰府の観世音寺に滞在することになった。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (478)
821年/弘仁12年 48歳 <満濃池> の改修を指揮した。 822年/弘仁13年 49歳 太政官符により <東大寺に・・・灌頂道場真言 院> を建立した。平城上皇に潅頂を授けた。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (479)
場にした。 828年//天長5年12月15日 55歳 京に私立の <教育施設/綜芸種智院(しゅげいしゅ ちいん)> を開設した。 832年/天長9年8月22日 59歳 <高野山> において、最初の <万燈万華会> が修された。
《仏教/ 雑学・3 》 【日本仏教の・・・俯瞰・2】 (480)
921年/延喜21年10月27日 東寺長者/観賢の奏上により、第60代/醍醐天皇から <弘法大師> の諡号(しごう/貴人や高徳の人に、死後おくる名前。 贈り名。)が贈られた。
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