Community Space ボスの展望台ボスのTwitter文学/響子の小倉百人一首/<81~100>

         響子の・・・ 小倉百人一首  

        < 81 ~ 100 >   (2016年/1月30日~8月15日)
 

  

             

トップページNew Page WaveHot SpotMenu最新のアップロード         担当: 里中 響子 

                               

【81番→

      後徳大寺左大臣
 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
【82番 → 道因法師】  思ひわび さても命は あるものを 憂(う)きにたへぬは 涙なりけり
【83番→

   皇太后宮大夫俊成】
 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
【84番→藤原清輔朝臣】  ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ いまは恋しき
【85番 → 俊恵法師】  夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり
【86番 → 西行法師】  なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
【87番 → 寂蓮法師】  むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ
【88番→皇嘉門院別当】  難波江(なにわえ)の 芦(あし)のかりねの ひとよゆゑ(え)

                    みをつくしてや 恋ひわたるべき
【89番 → 式子内親王】  玉の緒(お)よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
【90番→殷富門院大輔】  見せばやな 雄島(をしま)のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず
【91番→

後京極摂政前太政大臣】
 きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき 独りかも寝む
【92番 → 二条院讃岐】  わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾(かわ)くまもなし
【93番 → 鎌倉右大臣】  世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)こぐ あまの小舟の 綱手(つなで)かなしも
【94番 → 参議雅経】  み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり
【95番→前大僧正慈円】  おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に すみぞめの袖(そで)
【96番→

 入道前太政大臣】
 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
【97番→権中納言定家】  来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ
【98番 → 従二位家隆】  風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける
【99番 → 後鳥羽院】

 人もをし(愛し) 人もうらめし(恨めし) あぢきなく 

                  世を思ふゆゑ(え)に 物思ふ身は

【100番 → 順徳院】  ももしき(百磯城)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
【★ 小倉百人一首

  ・・・成立の由来】
 

 

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 1月31日

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(779)


【81番 → 後徳大寺左大臣】(ご・とくだいじ・さねさだ/徳大寺実定は、平安時代末期~鎌倉時代初期

                          にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大

                          臣。祖父/実能が大徳寺左大臣と呼ばれたので、実定を後徳大寺左大臣

                          と呼んで区別しています。

                          詩歌管絃に優れ、教養豊かな文化人だったと伝わります。『古今著聞集』

                          ここんちょもんじゅう/鎌倉時代中期の説話集。橘成季 (たちばなの・なりす

                          え) 著。 20巻。)<風月の才人にすぐれ>と記されるように、漢詩を能

                          くしましたが、特に和歌の才能に優れていました。)


★ ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる



  < 天空で…

        ホトトギスが一声鳴いて行く…

             その方を眺めやれば…

           ホトトギスの姿は見えず….

                 ただ有明の月が、薄く儚(はかな)くあるばかり…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(780)


「このは…『千載集/夏』(せんざいしゅう/『千載和歌集』は、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全

20巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第7番目に当たります。)に…

<詞書 : 暁聞郭公(あかつきにホトトギスをきく)といへる心を詠み侍りける 右大臣>

…として載っています。

後徳大寺左大臣とは…藤原実定(ふじわらの・さねさだ)のことです。祖父/実能(さねよし)

大徳寺左大臣と呼ばれていたので、実定後・徳大寺左大臣と呼んで区別しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(781)


左大臣なのに…詞書(ことばがき)では右大臣となっていますよね。実定53歳で亡くな

っていますので、この歌を詠んだ時右大臣であり、50歳前後と言われています。

<保元・平治の乱><保元の乱>(保元元年/1156年)と、<平治の乱>/(平治元年1160年))

あったのは、実定20歳前後の時です。

やがて…平氏が興り…<平氏と・・・平清盛が奢(おご)る世>となります。



 2月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(782)


<清盛一門(きよもりいちもん)が奢(おご)る世>では…古い家柄貴族は、誇りだけを抱き、

不遇だったと言います。

古来、公卿(くぎょう、くげ/・・・公 (こう=大臣)と、卿 (けい=大納言・中納言・参議・三位以上の官人)との称。広く、

殿上人)の常で…実定(さねさだ)権勢には敏感で、官位昇進野心人並みに持っていま

したが、柔和な性格で、を作っていません。文化人として自分を売り出そうとして

いた様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(783)


実定は…藤原俊成(おい)藤原定家従兄弟(いとこ)と言います。また、祖父/実能

(さねよし)に、かつて西行法師(/俗世時代は、鳥羽院の北面武士でした。)も仕えていて、歌人として

のつきあいもあります。

そして、社交界では…実定朗詠上手・管弦上手で…激情を詠む歌人というより、

品の良い文化人の香りを漂わせていました。

(★ 北面武士(ほくめんの・ぶし)/院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛し、御幸に供奉した武

士のこと。11世紀末に白河法皇が創設しました。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されました。)



 2月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(784)


平安時代末期/治承4年(1180年)平清盛により福原遷都(/現在の兵庫県神戸市兵庫区の地

・・・都造りは途中で頓挫し、半年で平安京に還都。)が行われます。幼帝/安徳天皇(あんとくてんのう/第

81代天皇。高倉天皇の第1皇子。母は平清盛の娘/建礼門院徳子2歳で即位。源平の戦いで西国に逃げ、壇ノ浦で

平家一族とともに入水。 )後白河法皇(/第77代天皇)高倉上皇(/第80代天皇)をはじめ、全宮廷

がそれに従います。

実定も従いましたが…歌人/文化人として…是非、<中秋の名月を京で見たい>

思い、清盛に願い出て、に向かいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                    

                                                           徳大寺実定/『前賢故実』より・・・菊池容斎   パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(785)


(あるじ)/帝(みかど)の去ったは…早くも寂れ荒れ始めていました。

実定が訪れたのは、近衛河原大宮御所(/皇太后(大宮)の女院御所)

ここには実定異母妹/大宮多子(おおみやの・たし)が住んでいられました。徳大寺家とい

えば美貌待賢門院が頭に浮かびますが、多子美貌であり、近衛(/第76代天皇)・二条

(第78代天皇)<2代の后>となられたお方です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                    

                                                           徳大寺実定/『前賢故実』より・・・菊池容斎   パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(786)


でも…それもふた昔も前のことです。

彼女40歳を越えていたと思われます。両帝に先立たれ、残された彼女淋しい境遇

でしたが、彼女には風流を解する女房たちが仕えていました。

そんな所に、実定が到着して、言います…

「京の月が見たくて、福原より参りました」



 2月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                   大宮御所/現在は天皇や東宮が入洛された際に宿泊されます。 (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(787)


大宮懐かしみ…しみじみと世の流れと、これからの行く末を物語られます。そして、折

しも、有明の月(ありあけのつき/陰暦16日以後、夜が明けかけても空に残っている月。)が昇ってきます。

実定は、即興今様(いまよう/平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡歌いました…


  古き都にきてみれば・・・

     浅茅(あさじ)が原とぞ荒れにける・・・

          月の光は隈(くま)なくて・・・

              秋風のみぞ身にはしむ・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                       木曽義仲像/長野県木曾郡木曽町  徳音寺所蔵  (パブリック・ドメイン)   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(788)


風流を解する…大宮女房たちも、感動涙を流します。荒れ行く京も、なお愛おしく

愛惜(あいせき)の情が深まります。

やがて…

(おご)る平氏命運も尽き…西海へ落ちて行き…壇ノ浦(だんのうら/山口県下関市周辺の海

域)の海に沈みます。

にもどり…平氏の代わりに、木曽義仲(きその・よしなか/源義仲/源頼朝・義経の従兄弟)

権勢を振るいます。

壇の浦の戦い・・・第81/安徳天皇が、「どこへ行くのか?」と聞くと、二位尼(にいのあま/従二位・平時子/安徳

天皇の母である建礼門院の母)は、「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます…」と答えて、安徳天皇とと

もに海に身を投じました。安徳天皇の母/徳子/建礼門院も入水しますが助けられ、罪は問われず、洛東の吉田の地に

隠棲し出家します。それから、比叡山の北西の麓の大原寂光院に入ったと言われます。)

   
          『安徳天皇縁起絵図』 赤間神宮所蔵         (パブリック・ドメイン/著作権フリー)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1               

                              大宮御所/ふだんは入ることが制限されています。 (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(789)


その木曽義仲も…源義経(みなもとの・よしつね)に追われ…義経もまた兄/頼朝(よりとも/鎌倉

幕府を開きます。)に追われ…静御前(しずかごぜん/源義経の愛妾)と別れて安宅の関(あたかのせき/

石川県小松市/歌舞伎の『勧進帳』(かんじんちょう)で有名)へ向かいます。

義経一行日本海側を北上し、奥州平泉に入るわけですね。(/・・・芭蕉の『奥の細道』とは逆

コースになります。)

一方…西行法師は、鶴岡八幡宮で偶然に頼朝と出会いますが…東大寺勧進(かんじん

/東大寺再建のため、奥州・藤原氏に寄付を要請に行く旅)で、戦前夜平泉に入ります。



 2月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                     毛越寺 一山白王院 所蔵の「三衡画像」より、藤原秀衡の法体像 /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(790)


奥州平泉/藤原秀衡(ふじわらの・ひでひら/奥州藤原氏第3代の、3代目の当主・・・<武家の世>となり、奥

州が独立していることが難しい時代になります。)は…天下の武将/義経を得たわけですが、にわか

に亡くなります。

後を継いだ4代目/泰衡(やすひら)は、父の遺言を翻(ひるがえ)し、頼朝籠絡(ろうらく/他人

をうまくまるめこんで、自分の思う通りにあやつること)されます。配下の数百騎で、義経の起居してい

衣川館襲撃(/義経・弁慶主従も、相手が味方の軍では、反撃も鈍り、弁慶は矢襖(やぶすま)となります。)

し、義経自殺に追い込みます。

しかし頼朝は…義経の首を差し出されても、奥州/独立国放置するはずもなく、出兵

します。義経なき奥州17万騎(誇張と、寄せ集めではあっても、相当の軍事力です。)は、あっさりと

軍門に下ります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                                                        後白河法皇像 (宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より) /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(791)


うーん…

こうした…<武家の世の・・・変遷>を…天皇宮廷貴族は、息を殺して眺め、耐えて

いたわけですね。その中に、内大臣昇進した実定もいました。

後白河法皇(/第77代天皇)が…大原(おおはら/京都市左京区北東部の・・・比叡山西麓/高野川上流部に

位置する、小規模盆地)へ、落飾された建礼門院(けんれいもんいん/壇ノ浦で命を救われた、安徳天皇の母)

を訪ねられたのは、文治2年の春のことです。そこに、48歳になる実定も付き従ってい

ました。



 2月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                                                                            大原寂光院  建礼門院徳子像  /ネットより画像借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(792)


安徳天皇と一緒に入水(じゅすい/水中に身投げして自殺すること。<壇の浦の戦い> は1185年4月25日

し、1人救われた建礼門院は、尼姿とならています。

騒乱の最中でお別れした時から1年法皇実定自身も、身の周りを含めて、世の変

は果てしがありません。

折りしも…ホトトギス(/渡り鳥で、日本では5月中旬頃に来る)が鳴いて、天空を過(よ)ぎり建礼

門院1首詠まれます…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                     

                                                                大原寂光院   /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(793)


★ いざさらば 涙くらべむ ほととぎす われも憂き世に 音をのみぞなく


実定は、庵室の柱に書きつけます。実定『小倉百人一首』



★ ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる



…は、詞書(ことばがき)

<暁聞郭公(あかつきにホトトギスを聞く)といへる心を詠み侍りける 右大臣>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                     

                                                           徳大寺実定/『前賢故実』より・・・菊池容斎   /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(794)


…というものですから、この時の情景を詠んだものですね。

以後…鎌倉幕府室町幕府江戸幕府<武士の世>が続き…王政復古確立

明治まで…700年近くかかります。

そして、明治・大正・昭和と続き…前の戦争大敗北し…〔戦争放棄を世界に宣言し

て・・・平和憲法を持つ国として…再び大変貌しました…」



 2月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(795)


【82番 → 道因法師】(どういんほうし/藤原 敦頼(ふじわらの・あつより)・・・平安時代後期の歌人。藤原北家

                   高藤流、正三位・藤原惟憲の曾孫。治部丞・藤原清孝の子。官位は従五位上・右馬助。

                   承安2年(1172年)に出家して道因と称しました。

                   永暦年間から治承年間(1160年 - 1181年/19年間)に開催された主要な歌合せ

                   に参加・出詠。自らも<住吉社歌合> <広田社歌合>などの社頭歌合を主催していま

                   す。『千載和歌集』に20首採られているのをはじめ、勅撰和歌集に41首が入集していま

                   す。)


★ 思ひわび さても命は あるものを 憂(う)きにたへぬは 涙なりけり



  < つれなき人のことを…

       思い嘆きながら…

            絶えてしまうかと思った命は…

                 まだあるというのに…

               辛さに絶えきれず…

                     流れてくるのは涙 ばかり…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(796)


「このは…『千載集/恋』に…<題知らず>として載っています。

このも、文化基盤の違う現代人が読むと、どうにもピンとこない歌だと言われていま

すよね。

でも、定家は…『百人秀歌』にも載せていますし、『小倉百人一首』にも採っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(797)


道因法師は…藤原敦頼(ふじわらの・あつより)のことで、12世紀後半の人です。90歳を超

える長寿だったと言われます。歌道非常に熱心な人として有名で、様々な逸話があ

る様ですね。

7、80歳になるまで…<私にどうぞ秀歌を詠ませてください>と、大阪住吉大社

(歌の神様と信仰されていた)徒歩月詣(つきもうで)をしていたと言います。



 2月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(798)


ともかく…歌道に関しては異常な熱心さでした。ある歌合で、判者/藤原清輔(ふじわら

の・きよすけ/次の次、【84番 → 藤原清輔朝臣】道因を負けと判じると、判者の元まで行

き、涙を流して恨んだといいます。

をとっても…歌道へ執着は益々深く、90歳になり耳が遠くなっても、講師(こうじ)そばま

で分け入って行き、耳をそばだてて聞いた、と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(799)


一方で…

道因負けん気が強くケチンボでもあったと言われています。花道偏屈なほどの

執着を持ち、生来の吝嗇家(せいらいの・りんしょくか/吝嗇とは、極度に物惜しみすること。つまり、生まれ

ながらのケチンボ)で、長生き…と言えば、何となくその人物像が浮かび上がってくる様です

ね。

決して悪い人ではないけれど…1人外れている様な…つまり、変人/偏屈な人物…?



 2月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(800)


うーん…

出家前若い頃道因法師/藤原敦頼(ふじわらの・あつより)は、崇徳帝(/崇徳院の帝位時

代)に仕える従五位下右馬助(うまのすけ/右馬寮 (うめりょう) の次官・・・大宝律令で左馬寮・右馬寮が

設置され、諸国の牧から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった。)でしたが、その時にもこんな

逸話(いつわ/エピソード)があります。

敦頼は…部下の馬飼(うまかい)たちに、慣例与えるべきものを与えず、恨まれました。

それで、斎宮(/伊勢斎宮・・・未婚の内親王または女王(皇族の子女)が務めました)の行列を采配する、

晴れ舞台の日痛烈しっぺ返しを受けます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(801)


見物も多い一条大宮(/都市上京区大宮通一条)あたりに、行列がさしかかると…

思いがけず…馬飼たちが、バラバラと行列の所に現れ出てきて…言います…

「お手当ては、何時くれるんだ?」

「そのうち、そのうちと、言い逃れてばかりじゃないか!」

「代わりに、着ている物をいただこうじゃないか!」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(802)


馬飼たちは口々に罵(ののし)、果ては彼の衣冠(いかん/衣服と冠(かんむり)。束帯(そくたい/

天皇および文武百官が、朝廷の公事の際に着た、正式の服装に次ぐもので、公家が朝廷に参入するときに着る、略

儀の衣服。)から、くつした下帯まで剥(は)ぎ取ったので、ついにたまらず、赤裸(あかはだ

か/すっぱだか)逃げ出したと言います。

見物人大笑いし…以来、敦頼には、<はだし馬の助>という仇名(あだな)がついた

と言います。

うーん…でも…何処まで反省したのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(803)


生来吝嗇家(りんしょくか/ケチンボ)であってみれば…存外、反省はしなかったのかも知

れません。それはとしてアッサリと計上し、歌道没頭していたのでしょうか?

ほほ…やっぱり変人ですね。でも、ケチンボゆえに、歌道異常に執着し、90歳を超

える生涯とは…拍手ですよね。



 2月10日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(804)


うーん…

道因法師出家したのは、83~84歳以後になるのでしょうか?そして、歌壇活躍

したのも、その前後晩年の様ですね。

ともかく…道因法師他の歌を、『千載集』から見てみましょうか…


★ 花ゆえに しらぬ山路
(やまじ)は なけれども まどふは春の 心なりけり

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(805)


★ 夕まぐれ さてもや秋は 悲しきと 鹿の音(ね)きかぬ 人にとはばや


  < ほの暗い夕方…

          鹿の哀れ深い鳴き声が、聞こえてくる…

                この鹿の声を聞いていない人に、問うてみたい…

                      それでもやはり、秋は悲しいものかと… >



 2月11日

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(806)


道因死後

定家の父/藤原俊成(ふじわらの・としなり、しゅんぜいによって、『千載集』編纂(へんさん/・・・

後白河院より、俊成に撰集の院宣が伝達された。撰者は俊成ただ1人で、定家が助手をつとめた。)されます。

俊成(しゅんぜい)は、道因歌道にかけた情熱(く)18首を採ります。すると、

夢枕道因が現れ…涙を流し礼を言ったそうです。それで俊成は哀れに思い、

もう2首を追加し、20首にしたそうです。愛されていて…名を残したわけですね…」



 2月18日

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(807)


【83番 → 皇太后宮大夫俊成】こうたいごうぐうの・だいぶ・しゅんぜい/藤原俊成(ふじわらの・としなり、

                   しゅんぜい)

                   平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊

                   忠の子。

                   はじめ・・・葉室家(はむろけ/名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流・・・

                   分家に姉小路家などがある)に養子に入り、藤原(葉室/はむろ) 顕広(あきひろ)を名

                   乗った。後に、実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太

                   后宮大夫。

                   早くから・・・歌人としての活動を始め、藤原基俊に師事。佐藤義清(西行法師)の出家

                   影響され、自身も一時その願望を持った。平安末期の無常観を反映しつつ、『万葉集』

                   『古今集』の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を確立。新奇性を重視した六条流の歌

                   風と当時の歌壇を2分した。和歌所寄人をつとめ、後白河院の院宣で単独で『千載集』

                   を編纂した。藤原定家の父親・・・)


★ 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる



  < この世には…

         悲しみや辛さを、逃れる方法はないものだ…

              思いつめ、分け入った山の中さえ…

                   哀しげに鳴く、鹿の声が聞こえてくるよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(808)


「このは…『千載集-巻17/雑』に…

<述懐の百首歌よみ侍(はべ)りける時、鹿の歌とてよめる>…として載っています。

皇太后宮大夫俊成と…『小倉百人一首』ではなっていますが、藤原定家の父/藤原俊

のことですね。

『小倉百人一首』編者/藤原定家の、ナマの視界時代になります。



 2月19日

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(809)


俊成
(しゅんぜい)が…このを詠んだのは、まだ顕広(あきひろ) と名のっていた27歳頃

言います。壮年時代ですが、ずいぶんと年寄り臭い厭世的(えんせいてき/人生に悲観し、生

きているのがいやになっているさま)な歌ですね。

でも、これは、平安時代末期時代的風潮の様です。その年、23歳だった北面武士

(ほくめんの・ぶし/院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこ

と。11世紀末に白河法皇が創設しました。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されました。)/佐

藤義清(さとう・のりきよ)/西行法師出家しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(810)


俊成は…年下円位(えんい/出家した時の法号)/西行影響を受けた様ですね。いずれ

にしても、狭い王朝社会です。でも結局俊成出家せず、藤原基俊(ふじわらの・もととし/

【85番 → 藤原基俊】/・・・我が子の光覚僧都(こうかくそうず)<維摩会の講師>にと願い、法性寺入道・藤原忠

通に、<しめじが原>だよ、と言われた人物。)師事し、歌道を極めたわけです。

<世の中よ 道こそなけれ・・・>は、出家・遁世(とんせい/世間をのがれ去り、俗事とのかかわ

りを絶つこと)の道の意味ですが、政権批判ととる人も現れた様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(811)


俊成は、後白河法皇院宣(いんぜん/上皇または法皇が出した宣旨(せんじ)・・・院司が上皇や法皇の意

志を奉じて出す奉書。宇多法皇に始り、院政の発展とともに次第に重要性を増した。一般政務のほかに、私的な面にも

使われました。)を受け…『千載集』編纂(へんさん)します。

その折…自分の若い頃この歌を採りたいと思いますが、政治風刺批判があり、た

めらいました。でも、どう手を回したのか…特に勅命(ちょくめい/天皇の命令)があり、入選

た様です。うーん…時代の空気感が、漂いますよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(812)


『小倉百人一首』に…

藤原定家は…父/俊成として、若い時この自信作を採りましたが、俊成自身

代表作としていたのは、次の歌の様ですね…


★ 夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉
(うずら)鳴くなり 深草の里



これも…『千載集』代表する、俊成の名作です。

 


 2月22日

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(813)


俊成(しゅんぜい)は…永久2年/1114年に生まれ、元久元年/1204年に、91歳で没

しています。何度も触れていますが、『小倉百人一首』編者/藤原定家父親です。

また、平安王朝末期歌壇の、大御所です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(814)


俊成は…<幽玄体>歌風をうち立て、息子/定家寂蓮法師(じゃくれん・ほうし/【87番

→寂蓮法師】九条良経(くじょう・よしつね/【91番→後京極摂政前太政大臣】式子内親王(しきし・

ないしんのう/【89番→式子内親王】という…新古今調旗手たちを育成指導しました。

そして、俊成は…法性寺入道(ほっしょう・じにゅうどう/【76番→法性寺入道前関白太政大臣】.)

に、<しめじが原>だよと言われた、あの藤原基俊(ふじわらの・もととし/【75番→藤原基俊】

であり…その基俊ライバルが、源俊頼(みなもとの・としより/【74番→源俊頼朝臣】ですよね

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(815)


そういう時代(/平安王朝末期の歌壇の風景・・・人々の風景)ですから…

俊成は、源俊頼にも私淑(ししゅく/尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い、

学ぶこと。)していました。俊成自身はこう言っています…

<私は歌をお慕いしているのだ。人柄や派閥によらない>

人々俊成心の公平さ(とうと)とした、と言います。

でも、あえて、そんなことを、ゴチャゴチャと言い伝えられるのは…基俊偏屈さの度合

(/人を批判する時は容赦なく、口を開けばライバルの俊頼の悪口雑言・・・歌合の判者としても煙たがられ・・・あげく、

右大臣俊家の息子で、有名歌人でしたが・・・人望がなく、生涯栄達せずに・・・微官に終わっています。)が…(うか

が)ますよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(816)


ところで…

俊成<幽玄体>(ゆうげんたい)歌風というのは…人生自然渾然融合(こんぜんゆう

ごう)した詩境(しきょう/詩に歌われた境地)と言われます。つまり…

<和歌は短い詩形だから、人にタカをくくられやすいが、深く入り込むと、その道

は限りなく、どんな世界をも深く広く表現できる>…と、『古来風体抄』(こらいふうていしょ

う/鎌倉時代初期に成立した歌学書・・・式子内親王が、藤原俊成に依頼して執筆されたもの、とされます。)で、言っ

ています。



 2月25日

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(817)


公平・廉直(れんちょく/心が清らかで私欲がなく、正直なこと)<幽玄体>体現する俊成人柄

は…人々信頼も厚く、よく歌合判者にもなっています。師/基俊偏屈とは好対

です。歌壇の重鎮/大御所とは、そう言うものですよね。

俊成は…定家ほどは絢爛(けんらん/目がくらむほど、きらびやかで美しいさま)ではないという事で

すが、うーん…そうなのでしょうか。未熟者で、申し訳ありません…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(818)


ええと…俊成を、3首並べて置きます…


★ またや見む 交野(かたの)のみ野の 桜狩(さくらがり) 花の雪散る 春のあけぼの



★ 住みわびて 身をかくすべき 山里に あまりくまなき 夜半(よわ)の月かな



★ 須磨の関 有明の空に 鳴く千鳥 かたぶく月は 汝(なれ)もかなしも


岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(819)


俊成逸話は多いのですが、有名なのは、『平家物語-巻7/平忠度(たいらの・ただのり)

ですね。

平家一門が、都落ちする際…薩摩守忠度(さつまのかみ・ただのり)(さむらい)5騎を連れ、

俊成(やしき)の門を叩(たた)きます。俊成は70歳/出家し釈阿(しゃくあ)と号していま

した。忠度は、俊成編纂する勅撰集自分の歌を託します…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(820)


忠度(ただのり)が言います…

「生涯の面目に、1首の御恩をかうむり候(そうら)はばや!」

やがて…平家滅亡忠度戦死します。

俊成は…『千載集』(/後白河院より、俊成に撰集の院宣が伝達され・・・撰者は俊成1人。ただし、その息子の

定家も編纂の助手を務めた。)忠度を入れようと思うのですが…<勅勘(ちょっかん/勅命に

よる勘当)の人>であり、名を出すのは、はばかられ…<詠み人知らず>として入れま

した。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(821)


それが、次の歌です…


★ さざなみや 志賀(しが)の都は 荒れにしを 昔ながらの 山ざくらかな

   (/<志賀の都>は、天智天皇時代の琵琶湖の畔の古い都。<昔ながら>の、<ながら…長等山>の中腹の桜

    が丘に、歌碑が建っています。長等山は逢坂山(/滋賀県大津市の西部に位置する標高325 mの山)に続く山

    地の中腹にあり、古来、桜の名所として有名です。)


もう1つ逸話を紹介します… 

俊成は…あるお堂を開けてもらおうと、その管理人に頼みます。しかし、何処へい

ったのか、その(かぎ)が見つからない、と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                                            

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(822)


「★ かぎあづかるも しやうの大事や・・・」

…と、俊成(つぶや)ます。

<しやう><錠/じょう>と、<今生/こんじょう>と掛り…<鍵あづかる>

(つな)がります。さすがは、歌壇大御所呟き掛詞(かけことば/1つの言葉に2つ以上の

意味を持たせたもの)になって、繋がっています。

すると…そばに居た、ごく普通の女が…受け詠みます。

「★ あけくれは させることなき 物ゆゑ(え)に・・・」

<させる/さす><鍵をさす>で、(じょう)縁語です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                                    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(823)


<させる/さす>は…ふだんは、<さして・・・用がないもの>ですから…ですね。

まさに…俊成微笑が、今も漂って来る…ようですね。

古書(いわ)(たわむ)にも、俊成のごとき大御所呟きに、大胆にも歌を付け

たものだ…

<肝(きも)太くぞ付けける。女は尚(なほ)おそろしきものなり>…とか…ほほ…」



 2月26日

 岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(824)


【84番 → 藤原清輔朝臣】
(ふじわらの・きよすけ・あそん/平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流。

                        左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。

                        二条天皇に重用され、『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰

                        和歌集とはならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえい

                        ぐ/歌聖・柿本人麻呂を祭ったもの。六条家においては歌道継承のシンボル)

                        伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家藤原俊成に対抗した。)


★ ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ いまは恋しき


  < この先長く生きていれば…

        辛い今この時も…

             懐かしく思い出されるだろうか…

          辛く苦しかった昔の日々も…

                 今は、恋しく思い出されるのだから… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(825)


「このは…『新古今集-巻18/雑』に…<題知らず>として載っています。

清輔家集(/『清輔朝臣集』には…

<いにしへ思ひ出でられけるころ、三条大納言いまだ中将にておはしける時つか

はしける>

…とあります。<三条大納言>(/藤原公実)が正しければ、清輔55~62歳頃

と言います。



 2月27日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(826)


藤原清輔(きよすけ)は…

平安王朝末期有名歌人俊成(しゅんぜい)よりは11歳年上歌壇長老でした。

父/顕輔(あきすけ)【79番 → 左京大夫顕輔】で…その父/顕季(あきすえ)

六条烏丸(ろくじょう・からすま)があり、六条藤家(ろくじょう・とうけ)/人麿影供(ひとまろ・

えいく/歌聖・柿本人麻呂を祭る儀式)歌会創始者です。いわゆる俊成・定家御子左家(みこ

ひだりけ)ライバルですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(827)


清輔『万葉集』尊重し…義弟顕昭(けんしょう)と共に<六条家歌学>確立しま

す。人麿影供をした顕季歌道の家柄をいきなり創ったのではなく…清輔の代で確立

した様です。

後に…俊成寂蓮(じゃくれん)<御子左家/御子左流>対抗し…時の流れ圧迫

を受けた…という事でしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(828)


でも…清輔父/顕輔との不和顕著でした…

顕輔が…崇徳院に命ぜられ『詞花集』編纂した折に、清輔補助を務めますが…

し、清輔の歌1首も採られていません。

その後も…(うと)まれ昇進の支援も得られず、40歳代後半まで従五位に留ま

りました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(829)


後に…

第78代/二条天皇には重用され、清輔『続詞花集』()しょくしかしゅう)撰進(せんしん/詩

歌・書物を編集して天皇などに奉ること)することになりますが…完成前二条帝崩御されます。

清輔は…父に疎まれ、ここでもまた、勅撰集の栄光はなく、挫折します。

でも、生きた時代<保元・平治の乱>(1156年の保元の乱と、1160年の平治の乱)があ

り、世の中全体騒然として行くわけですね。


(★ 平治の乱(へいじのらん)・・・

平安時代末期の平治元年(1160年)、院近臣らの対立により発生した政変・・・以後、平氏一門が台頭し、平清盛は武

力を背景に国検を断行、さらに大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的な実力をも高めた。

一方、源義朝(/頼朝、義経の父)は・・・保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して、今回はクーデターのた

めの隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ、兵力は僅少だったと推測される。)

 

 

左・・・ 『平治物語絵巻』三条殿焼討 (ボストン美術館所蔵)

                             右・・・ 『平治物語絵巻』に描かれた、平治の乱で敗走する義朝一行

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(830)


そこで、この歌/『小倉百人一首』です。もう1度、記して置きます…


★ ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ いまは恋しき


< 生きてみようじゃないか・・・辛く、嫌な事の多いこの頃だが・・・この時代だって、

また恋しくなるさ・・・>…と、言うわけですね。



 2月28日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(831)


うーん…気になるので、もう一度、振り返ってみましょう…

家集/『清輔朝臣集』詞書(ことばがき)には…<三条大納言>言葉があり、これは

藤原公実(ふじわらの・きんざね/三条・西園寺・徳大寺の3清華家(せいがけ/公家の家格のひとつで、最上位の

摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置)の共通の祖)のことで…正しいとすれば、この歌清輔が、

55~62歳頃になります。

一方…別の古書には、<三条内大臣>とあるそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(832)


<三条内大臣>の方が、正しいとすれば…これは、藤原公教(ふじわらの・きみのり/三条公

(さんじょう・きみのり)/藤原北家閑院家流三条家当主で、太政大臣三条実行の子。正二位・内大臣。)のことで

あり…清輔が、32、3歳の時…になるのだそうです。

俊成も…若い時に、年寄り臭い厭世的(えんせいてき)な歌を詠んでいますよね。そうした

時代なのでしょうから、一概には言えませんね。未熟者には、コメントできません

が…小言よりも、古代推理が楽しいですよね。そう思いましょう…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(833)


このは…素直に、人の共感を誘う秀歌(しゅうか/すぐれた和歌)ですね。

人生深い所で、“しっかりと、うなづかせる真実”があり、それ故、ある程度深い人

生経験を感じさせます。あ、でも、俊成の例もありますし…

ともかく…清輔は…当時としては長生きで、74歳まで生きています…」



 2月29日

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(834)


【85番 → 俊恵法師】(しゅんえ・ほうし/平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼(/【74晩→源俊頼朝臣】)

                   早くに、東大寺の僧となる。17歳の時に父と死別し、約20年間、作歌活動から遠ざかっ

                   ていた。

                   白川の自坊を<歌林苑>と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌

                   人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与え

                   た。鴨長明の師

                   風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的

                   なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした

                   藤原俊成とは事なる幽玄を確立した。)

★ 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり

  < 貴方を待って…

        夜通し物思いに沈むこの頃は…

             夜がなかなか明けず…

          寝室の隙間の明かりさえも…

                 つれなく、冷たいものに思えてしまう… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(835)


「このは…『千載集-卷12/恋』に…<恋の歌としてよめる>として載っています。

詞書<恋の歌>とあるから、そうなのでしょう。すると、待ちぼうけの夜が続く、

女の気持ちを詠んだものですね。

仏門の身で…と思うのですが、しばしば、目にしますよね。

(響子・談・・・こういうジャンルがあるのでしょうが、歌風から言っても、違和感があるような・・・?)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(836)


この歌で、問題となるのが…<明けやらで>です。

俊恵家集/『林葉和歌集/林葉集』(りんようしゅう)では<明けやらぬ>になっていま

す。

『小倉百人一首』編集した定家も、<で>ではなく、<ぬ>としています。なら、それ

で良いわけですが…最近/近年の傾向として、<で>を採るようですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(837)


うーん…

<で><ぬ>では、意味が違って来るのです。<ぬ>とすると、明けないのは<閨

(ねや)に掛かります。<で>にすると<夜>に掛かるわけですね…

こうなると…著作権も何処へやらで、勝手に変えてしまうのが和歌の世界です。持統天

も、山部赤人も…



 3月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(838)


<新古今調>という事で、勝手書き換えてしまうわけですね。

あ…もちろん、未熟者/私/響子メとしては、異論のあろうはずもございません。“参

考文献”『田辺聖子の小倉百人一首』 に従います。それで、<で>…の方を採って

います。

ちなみに…その有名な、代表的2首変更とは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(839)


持統天皇(じとうてんのう)歌/【2番 → 持統天皇】では…


★ 春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山       
(万葉集…原文/万葉仮名)

★ 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣乾したり 天の香具山  (万葉集…訓読、現代語訳)

★ 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 (新古今集…新古今朝の変更)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(840)


山部赤人(やまべの・あかひと)歌/【4番 → 山部赤人】では…


★ 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留     (万葉仮名)

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける (万葉集)

田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ   (新古今集)


…ですね。



 3月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(841)


俊恵法師は…17歳の時に父/源俊頼死別しています。早く東大寺になって

いますから、この時に出家したのでしょうか。

以来、20年ほどは、からは遠ざかり…千百首ほどの歌は、(ほとん)どがそれ以

のものと言います。歌才は、さすがに父/俊頼ゆずりですね。 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(842)


『方丈記』(ほうじょうき/鴨長明による鎌倉時代の随筆。日本中世文学の代表的な随筆。『枕草子』と、約100年後

『徒然草』あわせ<日本三大随筆>と呼ばれます。)有名鴨長明(かものちょうめい/平安時代末期から

鎌倉時代にかけての歌人・随筆家。俗名は、かものながあきら。禰宜(ねぎ)・鴨長継の次男。位階は従五位下。菊大夫

とも号した。)は…俊恵法師弟子といいます。

鴨長明自著『無明抄』(むみょうしょう/鴨長明による鎌倉時代の歌論書)の中で…俊恵自賛歌

(/作者自身がよい作品であると認める歌は、次の歌だったと言っています。


★ み吉野の 山かき曇り 雪ふれば ふもとの里は うちしぐれつつ



吉野は…天皇家離宮もあり、桜の名所で…<歌枕の地>ですよね…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 西行法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(843)


【86番 → 西行法師】(さいぎょうほうし/平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は

                   左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。出家し

                   て法号は円位、後に西行

                                           勅撰集では『詞花集』に初出/1首。『千載集』に18首、『新古今集』に94首をはじめと

                                            して二十一代集に計265首が入撰。

                                            家集/『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』…その逸話や伝説

                                            を集めた説話集に、『撰集抄』『西行物語』があり…『撰集抄』については、作者と目さ

                                            れます。

 

★ なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな


  < 嘆け、と言って…

        月が私に、物思いをさせるのか…

             いや、月は無心に照るばかり…

          月にかこつけ、流れる出る…

                私の、恋の涙なのだなあ… >



 3月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1 西行法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(844)


「この歌は…『千載集 - 卷15/恋』に…<月前恋といへる心をよめる 円位法師>

…として載っています。円位(えんい)は、西行出家時法名ですね。

うーん…

この『小倉百人一首』西行も…およそ魅力のない歌として、古来より、いぶかし

がられている様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 西行法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(845)


西行は…勅撰集(ちょくせんしゅう/天皇や上皇の勅宣によって編纂された公的な歌集。『古今集』から『新続古今

』までの二十一代集をさす。)だけで、265首が採(と)られ、秀歌山ほどあります。前の俊恵

法師もそうですが…あえて駄作も、採っているのでしょうか?

ともかく、西行秀歌を幾つか並べてみましょう…


★ 道の辺に 清水ながるる 柳陰(やなぎかげ) しばしとてこそ 立ちどまりつれ

                       『新古今集 - 巻3/夏歌・262』・・・西行法師/<題しらず>)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(846)


★ 津の国の 難波の春は 夢なれや 葦(あし)の枯葉に 風わたるなり

                                    (『新古今集 - 冬・625』・・・西行法師/<題しらず>)

★ 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ

      (『新古今集 - 巻4/秋歌上・362』・・・西行法師/<題しらず> “秋の夕暮れ”をよんだ“三夕”の1つです。

       他の2つは、以下です。)

         ★ さびしさは その色としも なかりけり まき(槇/緑樹の総称)立つ山の 秋の夕暮 (寂連法師)

         ★ 見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまや(苫屋)の 秋の夕ぐれ (藤原定家)

     “秋の夕暮れ”のはしりとなった・・・【70番→良暹法師】の歌です・・・)

         ★ さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮

 

★ ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ   (山家集)

                 (西行は自身の死の時期を・・・如月の望月の頃と予言し・・・その通りに亡くなっています。)

         ★ ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (/続古今和歌集)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(847)


西行法師については、何度も触れていますが…

俗名/佐藤義清(さとう・のりきよ)左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官で、六位相当の官

職)康清(やすきよ)母/監物(けんもつ/中務省に属した品官・・・倉庫の鍵を管理・出納事務の監察に携わっ

た)・源清経女(みなもとの・きよつねの・むすめ)…で代々、誇り高き武人の家で、鳥羽上皇(/第

74代天皇)に仕える北面の武士(ほくめんのぶし/上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士。院御所

の直属軍)でした。

また、徳大寺家(とくだいじけ/清華家の家格を有する公家。)家人(けにん/家に仕える者)でもあった

わけですね。そして第75代/崇徳天皇の時、23歳出家しています。



 3月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(848)


前の俊恵法師も…17歳父/源俊頼死別し、若くして奈良/東大寺となってい

ます。裕福貴族の家に育って、若い多感な年頃に、何があったというのでしょうか?

西行も…多くの歌足跡を残しつつも、そこは謎とされています。曰く…友人の死

常感を感じたとも…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(849)


…さる高貴な女人報われぬ愛を捧げた結果とも。また、時代的厭世観(えんせいかん

/この世の中では幸福や満足を得られず、積極的な価値は認めがたいとする人生観)助長したのでしょうか?

俊成も…若いのに、年寄り臭い厭世的な歌/【83番 → 皇太后宮大夫俊成】を詠み、

西行出家同調していたとか…

時代的空気感(/平安時代末期は…<保元・平治の乱>があり、<源平合戦>があり、<奥州合戦・・・鎌倉政

権と奥州・藤原氏との戦乱>があり…平安時代中期から流行していた、“末法思想”(まっぽうしそう/釈尊の入滅後、年

代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた、仏教の予言)ありました。)というものは…私たちが考

えるよりも、よほど、重いものなのですね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(850)


西行には、2人の子供がいました。4歳ほどの娘が慕い寄るのを、西行心を鬼に

し、縁から蹴落として、家を出たと伝えられます。

うーん…出家となれば、さすがに、余程の決心だった様ですね。現代社会とは違い、ひ

とたび旅に出れば、今生の別れともなった時代です。



 3月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(851)


円位(えんい/出家時の法名)/西行は…あちこちで草庵を結び、住処(すみか)として放浪

しました。

は…<保元・平治の乱>騒々しく西行ゆかりの大徳寺家の出の待賢門院(たい

けんもんいん)のこと…そのお子の、崇徳院讃岐(さぬき/讃岐国は、現在の香川県)への配流(は

いる/島流し)もありました。

崇徳院讃岐の地で亡くなられた後…西行四国へ渡っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(852)


西行は…身分の差はありましたが、崇徳天皇とは親しい関係で、歌の贈答もありまし

た。そして、崇徳院を慰め、次の歌を捧げています…


★ よしや君 昔の玉の ゆか
(床)とても かからむ後は 何にかはせむ


西行半生は…平氏勃興(ぼっこう)栄華没落の時代でした。また…鳥羽院崇徳

の、血縁宿命的な憎悪地獄も、身近で目撃して来ました。

(★ 第75代/崇徳天皇の母の待賢門院は、大徳寺家の出ですが・・・幼少時より白河法皇の養女となり、その寵姫・祇

園女御に養われました。

ところが、鳥羽天皇の内裏に入内する前に、すでに白河法皇お子を身ごもっていた様子です。時の権力者/白河法皇

が在世中は・・・法皇の意向で、鳥羽帝が退位、崇徳帝の即位となりますが・・・法皇が崩御される、と鳥羽院の世となり

・・・崇徳帝/崇徳院へのイジメが始まります。

その鳥羽院が崩御されると・・・<保元の乱>が勃発します。しかし、崇徳院はそれにも敗れ、讃岐への配流となり・・・あ

げく、日本の3大怨霊の1つとなります。ちなみに、3大怨霊は・・・菅原道真平将門崇徳天皇です。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(853)


そんな…人の世地獄絵図を見て来た西行の心には、慕わしく美しいものは…ただ、

だったのでしょうか…


★ ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 
(山家集)


西行は、如月
(きさらぎ)望月(もちづき)の頃に死にたいと、に詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       
                           西行法師 (菊池容斎画/・・・江戸時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(854)


如月望月は…2月15日釈迦入滅の日です。仏門の者として、その日入滅を願

うのは当然です。そして、桜の花の下死にたいと願うのは、西行花への愛情ロマ

なのですね。

そして、その願い通り…2月16日に亡くなっています。釈迦入滅の日憚られ(はばから

れ/遠慮され)、その翌日にした…ということですよね。享年73歳です。



 3月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1