るびりん書林 別館



こちらは旧サイトです。
関連書評などの機能の追加されている新サイト(https://rubyring-books.site/)に順次移行中です。
ぜひ、新サイトをご利用ください。

「山棲みの生き方―木の実食・焼畑・短角牛・ストック型社会」岡惠介 (著)(大河書房 2016年4月)

→目次など

■1985年岩手県北部、北上の山村と出会った著者は、長年の調査・生活を通じて得た、焼畑農耕、木の実食、救荒食物、牧畜、狩猟、ストック型社会に関する知見を多くの写真を交えて伝える■

【木の実食】:縄文時代の人々は海ではタイやマグロを捕り、貝を掘って食べていたでしょう。では、山では何を食べていたのでしょうか。この本を読んでいると、おそらくドングリをたくさん食べていたのだろうと思えてきます。しかし、実際には、縄文時代の暮らしとこうした近年の木の実食は直結しているわけではないようです。

確か『山の仕事、山の暮らし』に書かれていたと記憶していますが、ワラビやゼンマイなどの山菜は、収穫に必要なエネルギーのほうが食べて得られるエネルギーよりも大きく、主食にはなりえないとのことです。そうであれば、本書にあるように、木の実を積極的に利用することで、腹を満たしていたと思えます。それでも、力仕事には、穀物の力が欠かせないといいます。

【焼畑】:私が焼畑と聞いて思い出すのは『ゾミア』です。この本の取材地である岩手県の北上山地と同じように、厳しい地形を持つ、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド東北部、中国の雲南・貴州・広西及び四川の 一部をカバーする地域では、急峻な山に焼畑農耕によって生きる人々が、内部からの巨大権力の登場を回避しながら、低地の権力にも呑みこまれることなく暮らしてきました。多品種栽培と救荒食物の利用により、東北地方特有の冷害にも強い有り方を編み出したこの地の暮らしは、学校で教わる貧しい東北地方ではなく、たくましい東北地方を教えてくれます。しかし、読み進めていくと、やはり厳しい暮らしであった実情が見えてきます。それは、焼畑農耕民の暮らしもまた、重労働に支えられた厳しい暮らしであることと共通しています。

また、焼畑といっても、通常の畑への転換に向けた焼畑もあり、数年置きに利用する形態の焼畑に限らないことを知りました。飛騨の山村では、森を焼いて牛を放牧し、4年すると牛が食べ残したワラビが繁茂して食草が減るため今度はワラビの根茎を4年かけて採集、その後4年放置というサイクルで山を使っていたそうです。アボリジニが火を使って狩猟に適した環境を作っていたことを思い出しました。

【短角牛】:一方に、自給的な暮らしがありながら、他方では、現金収入を得ることもまた必要とされます。アカバネ病の流行などがありながらも、ストックとしての短角牛飼育は意味を持っていたようです。

【ストック型社会】:アンデスの先住民はジャガイモを凍らせて保存食にしているということは知っていましたが、日本でも同じようにジャガイモを凍らせて保存食にしているのだと、この本で知りました。切干大根や、凍み豆腐なども保存食です。燃料のストックとしては薪があります。

帯に「限界集落の余裕」とあり、稲作に向かない土地でも豊かな暮らしがあったのかなと考えて読み始めた本でしたが、どうやら山の暮らしはやはり厳しいようです。しかし、自分たちの力で何とかなる部分も大きいと感じました。

ちなみに、「農家の嫁の事件簿」にこの地域の農家の暮らしぶりが綴られています。『ボクの学校は山と川』の矢口高雄さんの作品に故郷の焼畑が登場し、本書でも調査されています。

内容の紹介


(ドングリのアク抜き)
  凍結乾燥法によるドングリのアク抜きは、日本ではアイヌの人びとに見られる。彼らは、取ってきたカシワ、ミズナラなどのドングリをそのまま戸外に放置し、凍結と解凍・脱水を繰り返す。さらに調理時にも、サケのあら、マメ、キハダの実、ヤドリギと一緒に煮込み、かたく錬ってから凍らせて食べる。凍結乾燥法と加熱処理法の併用であろう。また、食用土を入れることもあり、これがタンニンを吸着して、アクを抜く。土吸着法という、第五のアク抜き法の存在を指摘できるかもしれない。
  さらに、アイヌの人びとによるドングリのアク抜き法には、水さらし法がないという。全国の山村で広く用いられている水さらし法を用いなかったというのは、不思議な話である。 - 39ページ

アイヌといえば、東北地方にもアイヌ語の地名が残っていますが、現在の住民たちと特段のつながりはないようです。土も、普遍性のある食べ物のようですが、現在ほとんど利用しなくなったのは不思議に思います。


※山村をどうとらえるか
  山村をどのようにとらえるかについては、大別して二つの意見がある。周囲の自然を利用した自給性に注目する立場と、都市との商品生産を介した結びつきを重視する立場、つまりは都会の存在があって成立した存在として山村をとらえる立場である。 - 59ページ

狩猟採集者たち(ピグミー、ブッシュマン)についても同様に、農耕民との結びつきを強調して、従属民とする立場と、狩猟採集者として独立した存在であるとする立場があります。そして本書でも、続いて議論されているように、現実にはその両者が併存しながら、二つの方向性の間を揺れ動いてきたととらえるのが最適なようです。


(写真98のキャプション)
かつては魚毒漁にも用いられたクルミの外皮を搗いて取り除き、川で洗う - 68ページ

こうした知恵も紹介されています


(ドングリ食の位置づけ)
ところで、ドングリを主食がわりとして利用したのは、おもに冬から早春であるが、聞き取りではその理由としてこの期間は激しい労働がないという点が強調される。秋に収穫された雑穀類は畑や山での厳しい労働が続く夏のために貯蔵していたというのである。「それを食わなければ力が出ない」いわば真の主食であるが、一年を通じての自給量には足りない雑穀類を夏に食べるために、冬から早春のドングリ利用があったといってよい。 - 70-71ページ

主食という概念を捨ててみると、狩猟採集者たちは普段は植物性の食べ物を食べている一方で、本物の食べ物は肉だといいます。また、緯度が上がるほど、肉への依存が強まります。そうして見ると、東北地方においては通常であれば肉が主食的な位置を占めていたのではないでしょうか。炭水化物への依存が高まる一方で穀物の生産に向いていないことから、利用されるドングリと、たんぱく質への依存が高かった縄文時代以前のドングリやクリの利用は別のものなのかもしれません。


※東北の焼畑と縄文時代との連続性
東北の焼畑は、西南日本の焼畑とは違って山の神などに対する信仰・儀礼があまりみられないといわれている。佐々木高明は、東北地方の焼畑は新しく、稲作以前つまり縄文時代にあった焼畑の形式を伝えるものではないとしており、ひとひとつにはこうした信仰儀礼の欠如がその根拠になっている。 - 133ページ

日本人の精神世界は、縄文時代から受け継いだ部分が大きいと思っていたのですが、実際には稲作文化とともにもたらされたのでしょうか。


(写真115のキャプション)
放牧前にケンカをさせて順位を決めさせる光景は、闘牛の起源を思わせる - 146ページ

動物たちは、順位を決めておくことの重要性を教えてくれます


トップへ

お問い合わせ:

お気軽にお問い合わせください。

サイト内検索:

るびりん

「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

neko to hon

書評

書評

書評

書評

書評

書評

書評