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「自然農法 わら一本の革命」福岡正信 (著)(春秋社 1983年5月/2004年8月)

→目次など

■世界は人に属さず、人が世界に属す■

私は兼業農家に生まれ、子どもの頃から農業を手伝ってきました。田植え、お茶つみ、稲刈り、草取り、檜苗の植え付け、豆の脱穀など、農作業はしんどいことばかりです。

やがて、福岡さんの自然農を知りました。この農法なら労力も軽減されるだろうかと考え、その頃住んでいた家の庭でほったらかしにしてスイカ、トマト、白菜などを作ってみました。わかったことは、簡単ではないということでした。

トマトは日本の気候には合わないらしく雨が降れば割れ、夏の暑い期間は結実しません。白菜はもともと肥料を大量に必要とする作物で、肥料の少ないところでは結球しません。スイカだけはうまくいきましたが、甘味の薄いものになりました。ナスは苦く、ニンジンは芽を出すたびにバッタに食べられてしまいました。

このように自然農には否定的になった私ですが、福岡さんの考えには共感できる部分が多くあります。

たとえば、教育というものは、価値のあることだと思っている。ところが、それはその前に、教育に価値のあるような条件を人間が作っているんだということにまず問題がある、と私は言いたいんです。教育なんて、本来は無用なものだけれど、教育しなければならないような条件を、人間が、社会全体がつくっているから、教育しなければならなくなる。教育すれば価値があるように見えるだけにすぎないということです。(21ページ)

この言葉などまさにその通りだと思います。インディアンは人に教わることは自分は愚かだと言っているようなものだといいます。『インディアンは手で話す』では、抽象度の高いことばをあやつる人が、社会のはしごのてっぺんにいて人をあやつることにもなる。と表現されています。神や国家などの概念を教えられることがなければ、人の価値観はまったく違ったものになるでしょう。

食物もまたしかりである。自然界には、人間の食糧となるものはいろいろ様々あった。部分的にみれば、良い点、悪い点があるから、人間は選択して、調和のとれた配色、組み合わせをせねばならないと考えたり、また、いつでもどこでも、バラエティーに富んだものをとっておればよいと簡単に考えたりするのだが、これが間違いのもとになる。人智はどこまでも、天の配剤に及ばない。(206ページ)

福岡さんの本意は不明ですが、実はこの考えを進めていくと、農耕を否定するところまで行き着くはずです。生物としてヒトを見たとき、道具の使用や火を使う調理も、ここでいう「人智」にすぎず、ヒトを脆弱な生物に変えている側面があります。

東洋の思想では、人間は自然の一員にしかすぎない。犬やネコやブタ、ミミズもモグラも人間と同列である。ただしいて言えば、人間は哺乳類の一種類であって、あとから進化して生まれた動物にしかすぎない。なんのことはない。ここの石や花と人間とどこが違うのか。自然の眼から見たら、なんの区別もない。同列だと思うんです。(246ページ)

人類学や陰謀論、動物たちの生きざま、人の生物としての性質・特質を調べていくと、人間は自然の一員にすぎないという事実が明らかになります。人類学者の中からジョン・ゼルザンなどのアナーキストが生まれ、『イシュマエル』のように人間は世界に属しているという指摘が生まれます。イヌ、ネコ、ブタは家畜ですので、キツネ、タヌキ、イノシシのほうが標本としてふさわしい気がします。

自然農法というのは、太古の時代からあって、キリストの言葉の中にもすでにあらわれておるし、ガンジーなどがやっていた農法がそれではないか、あるいはトルストイの『イワンの馬鹿』の中に出てくる農法もそれだ、と私は思っているんです。(27ページ)

確かに自然農法は環境への負荷が低く、土を生かし、自然を生かす農法かもしれません。しかし、自然を人間の都合に合わせて作り替えることができると考える点では、近代農法と変わりありません。

人類史や狩猟採集社会を調べ、大型霊長類としての当たり前のあり方である遊動する狩猟採集生活を捨てて、定住して農耕を開始したことが諸悪の根源であると見るようになった私にとって、福岡さんの思想は、ここに至るまでの中間的な思想であるように思えます。

自然界から得られるものだけで暮らす。福岡さんが存命であったなら、この考えをぜひぶつけてみたかった。そう思い今日この頃です。

内容の紹介


人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を作りだしているから必要になってくるだけのことであって、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要でない、というのと同じことです。 - 20ページ


で、結局、一番簡単なのは、私のところの山で原始生活している連中のように、玄米や玄麦食って、アワやキビ食って、そして四季その時、その時の原野の、あるいは野草化された野菜を食っている。 これが一番、動かなくて、生きる手段になってしまう。 ところが、これが生きる手段であるというだけでなくて、そういう生活をしていると、それが最高のごちそうになってくるんですね。 味がある、香りが高い。おいしくって、しかも体によくて、動きまわらなくてすむ。三拍子そろって、いいことになる。 - 113-114ページ


「保育園に行き始めた時から、人間の憂いが始まる。 人生は楽しかったのに人間は苦界を造り、苦界脱出を願って苦闘する。
  自然に生死(しょうじ)があって、自然は楽しい。
  人間社会に生死があって、人間は悲しい」 - 163ページ

自然は楽しいだけではないが、生命としての幸せは確実に存在していることを、人類学は教えてくれています。


現代の科学者に言わせますと、牧畜をやれば土地は肥えるはずだ、と言います。 実際はどこでもやせている。 オーストラリアの青年の話を聞きましても、インドの青年の話を聞きましても、やっぱり、畜産をやれば土地がやせる、というのが自分の結論なんです。 - 236ページ

イシュマエル』には、定住も文明も法則に反していないとされており(234ページ)、カインがアベルを殺害したことを土を耕す者が、羊を飼う者を殺した(167ページ)として、牧畜は問題がないかのように記述されています。 実際には、『人類史のなかの定住革命』にあるように定住は大問題であり、文明の誕生と同時に奴隷が誕生したように文明も大問題であり、牧畜も農耕の一種にすぎません。 『イシュマエル』もまだ「人は優れた存在である」という価値観から抜けだし切れていないと思われます。



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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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