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「身体の人類学 カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動」
菅原和孝(河出書房新社 1993年1月)

→目次など

■人間関係に悩み愛人の両義性を受け入れる人々■

内容の紹介

背景
著者は、「自然」対「文化」、「動物」対「人間」といった断絶を強調し、固有の精神活動に人間の本質を求める、文化人類学の主流に直感的な反発を覚えるといいます。(2ページ)
サル学から転向し、ブッシュマンとして知られるグウィの人々の行動を研究するためにカラハリで研究活動をしています。(13ページ)
著者の人生を決めた一冊は『積みすぎた箱舟』(ジェラルド・ダレル著)だそうです。
田中二郎氏、大嵜雅一氏とカラハリ、カデ地区の中心、コイコムに一九八二年八月入ります。(17ページ)
コイコムはボツワナ政府によるグウィ=ガナに対する「福祉」政策によって定住が推進され、採集活動がすっかり失われてしまっていました。(18ページ)
定住化にあたり、ボツワナ政府は、カラハリとガナの混血である裕福な男をチーフに任命しました。(238ページ)
ガナ語の流暢な田中氏の到着後、カオーチェを故地とする人々の構成する比較的伝統的な生計を維持している集団を観察対象として選ぶことになりました。(19ページ)

人間とサルの違い
サルと同じ方法で観察をはじめて痛感したことは、ヒトという同じ種に属している以上、言葉が異なる点を除けば、身体の用い方に日本人と大きな違いはないということでした。(21ページ)

子育て
当時3歳の長男が自閉症であるとわかった著者はグウィの子どもたちの姿に次のように記しています。

「こんな苛酷な環境で、劣悪な衛生状態のなかで、なんとかれらは生き生きとしていることか。他者の働きかけに対して、本当に敏感に応答し、みごとに笑い、泣く。それを見ていると、 佑卓は本当にどこかで大きく道をそれてしまったのだと思わずにはいられない」 - 24-25ページ

グウィの親たちにじつに迷いがなく堂々としていることにも感心しています。子供がどんなにむずがっても、かんしゃくを爆発させても、 親がいらだったり怒りに身をまかせたりすることは見たことがないというのです。
子供がおとなしいのではなく、下の子が生まれて離乳を強いられた欲求不満がひどくても親はうろたえないのです。

狩猟採集の暮らし
グウィたちもピダハン同様、定住地にいるときとは違って、原野でくらしているとき優雅でかっこいいといいます。(27ページ)
女たちが肩で風を切って歩くのです。
女たちが採集するのは、野生のメロン(『人間は何を食べてきたか』のナン)、棘の生えたメロン(カン)、ほのかな甘みのコム、さわやかな酸味のオーディなどです。(28ページ)
しかし、日本で食べる「野菜」がどれだけ洗練されたぜいたくな食物であるかをつくづく思い知らされる味だとのことです。(28ページ)
著者も田中氏も、グウィのように自然の恵みに全面的に依存して生きる人々がいることに対する感動と驚きを繰り返し語っているといいます。
人間がもっとべつな生き方ができるという感覚に、母国の生活で衰弱した自分が「元気」をもらえるというのです。(31ページ)
ニコラス・ブラートン=ジョーンズは、狩猟採集民の研究こそ、初期人類(プロト=ホモニド)の行動を復元するのにもっとも有効であり 、それなくしては人間行動の系統発生をときあかすことができないと言っているそうです。(57ページ)
これに対し、ウィルムスンは、ブッシュマンは千年以上前からバンツー系農牧民と密接にコンタクトを持ち、多くの場合、 これらの人々に政治的・経済的に隷属してきたとして、ブッシュマンに「人類始原の姿」を求めるアプローチを批判しているそうです。(58ページ)

座る
グウィの女たちは、腰を下ろすときに、片方の膝を立てながらもう一方の足を横に広げて膝を組み、足の先が陰部周辺を隠すような座り方をします。(66ページ)
この挑発的なすわり姿勢は、男たちと互角にわたりあう女たちの自己主張の片鱗であると著者はみています。(68ページ)
グウィはすわり姿勢に対して八種類の名前を付けています。
このうち、「うんこすわり」は「男すわり」と呼ばれ、男性訪問客の姿勢が変化する冒頭で見られる姿勢です。(68ページ)
これは、男性はあまり親しくない間柄の人々のキャンプに出向くことが多く、まだ相手の態度が決まらず、手持ち無沙汰でどっちつかずの状態にあるときに適した姿勢です。(70ページ)

親族
グウィでは七歳くらいの子供が母親のいるキャンプとは別のキャンプにいる伯母(母親の姉妹)のところに数か月滞在することがよくあるようです。(74ページ)

虱取り
グウィたちは虱取りをします。取る側は主に女です。このとき、間柄が近いと、いきなり相手を寝かせて虱取りを始めることもある一方で、あまり近くない場合には、問いかけの後で開始されます。
この様子は、サルのノミとりにおける関係と似ているそうです。(81ページ)
ただし、サルは親しさだけで判断している一方で、グウィの場合は先見的属性(男か女か)の差異と対応しているといいます。(82ページ)

ガイカリク
グウィには、ガイカリクと呼ばれるふざけあいがあります。大の大人が思春期になりかけの少女を相手に手首をとって砂の上にひきずり倒し、足で胴や尻をけ飛ばします。 エロティックな感興をそそられるといいます。(86ページ)
大人が少年や少女をかかえあげて、ブッシュの潅木に落とすそぶりをするというガイカリクもあります。(87ページ)

プライベート空間
グウィのキャンプには柵や塀という物理的な境界はないが、目には見えない、複数の層の「心理的なバリア」によってつつみこまれていることに著者は気づきます。(96ページ)
毒蛇を避けるために下ばえがほとんど刈り払われているキャンプの外縁が存在し、その外側に、用のない人であればそれ以上踏み込んでこない外縁があります。
用のない人はキャンプから離れたブッシュのなかを通り過ぎていくだけだからです。
キャンプのなかには、居住者たちの多くがしばしば集まる大きな木の日陰があり、キャンプのもっとも「公的」な領域となっています。
個々の小屋の周囲、特に戸口の前方五〜六メートルはその小屋の家族が専有する領域です。
小屋の内部はもっと厳密でプライベートな空間であり、子供たちも思春期になれば出て行かねばならない場所です。(97ページ)
グウィたちは他人の小屋の中にめったに入らず、延ばした脚だけをさし入れて中にいる人と話をします。
家の壁の隙間から中を覗きこんで話をすることも珍しくありません。
小屋の所有者は、あまり小屋の中にひきこもらないように努めます。
これは、物品、食物、あるいはなんらかの「事がら」を人々から「隠す」(ンガオ)ことを忌み嫌う平等主義的な価値観と密接に結びついた行動だということです。
小屋がプライベート空間であることから、無人の小屋の近くに他人がいることは不適切とされます。(98ページ)
ひと気のないキャンプ地をうろうろすることも不適切とされます。
グウィの社会にプライベート空間というミクロ・テリトリーがあることは、この社会もみんながどこでもなんのためらいもなく 触れ合えるようなユートピアなどではないことを示していると著者は見ています。(119ページ)

平等主義
著者は毎晩の献立を自分が食べる量の四、五倍つくります。これは、食物の分配を基本的なマナーとするグウィの社会で自分ひとりだけ飽食することはできないためです。(37ページ)
カオカエ老は言います。(270ページ)

「物ごとを隠すもんじゃない。隠すと人々は死に絶える。あのキャンプも、別のあのキャンプもそうやってみんな死に絶えたんだ」


この平等主義社会の根幹にかかわるイデオロギーが、食物であれ、愛人関係であれ、隠さないことにつながり、小屋にいる時間を少なくすることにつながっています。

カイカホ
挨拶行動(カイカホ)は「大人の男」の属性とされ、未婚の青年が大人の男に挨拶行動をすると悪ふざけととられ、子供たちに対してすることはありません。(104ページ)
挨拶は社会的な距離の近いものどうしの間では省略されます。これは日本人にはなじみやすい敢行である一方で、英国人などでは親子でも定型化された挨拶に加え、 報告とコメントが慣行化しているという違いがあります。(105ページ)

死後の観念
グウィの社会には、さしてややこしい儀礼や呪術はなく、「死ねば人は砂になるのさ」と即物的なことをいいあっけらかんとして生きているそうです。(121ページ)

キャンプ
グウィの挨拶はおもにキャンプの「内部」の人と「外部」の人のあいだでかわされ、「キャンプにともに住んでいるかどうか」が日々の人間関係を律する決定的な基準になっています。(128ページ)
キャンプの住人が「肌をなじませあう」関係で結ばれているわけではない一方で、大型猟獣の肉を全員に分配するという相互扶助的な関係の単位になっています。
別のキャンプに移住するということが、この関係を切断する意味を持ち、対人関係でトラブルがあると「あいつらを移住させろ」といった陰口をたたきます。(129ページ)
キャンプの遊動域で食物資源がいちじるしく枯渇しているときにうるおっているキャンプがあると、別のキャンプを訪問したり長期滞在したりします。
他のキャンプに物をねだりにいくことも多く、量的には微々たるものであっても食物がふるまわれることがかなりの頻度であるそうです。
同僚の北村光二氏によると、挨拶は、直接的な相互行為を開始しようとする者が、自分の働きかけをできるだけ曖昧なかたちにとどめ、 相手の自発的な同意を待つ一方で、相手がその誘いかけを無視できるという機能を持つと指摘しています。(131ページ)

裁判
グウィは、トラブルがあったとき「移住してやる」と毒づくのと同じくらいの頻度で「あいつを鞭打ってやる」というそうです。(139ページ)
グウィは伝統的には「裁判」の制度をもっていなかったそうです。定住後導入されました。(140ページ)
定住前のグウィ=ガナは「シャーカ」という概念を持っており、紛争調停をおこなっていたようですが、「鞭打つ」ことが実際に行われることはごくまれであったろうと推測されています。

性別
グウィは「男女の差異をくわだたせる」ことを大きな主題とする慣習的プログラムを持っており、挙措によって無意識的に体現し続けるだけでなく、 「男性中心的イデオロギー」として言語化されることもしばしばです。(150ページ)
男は狩猟をし、女は採集をするということが、グウィの経済・社会生活の根幹にある、男女の役割の相補的対立の基本形になっています。 女性の採集する植物性の食物が経済的基盤となっているにもかかわらず、肉には「本当の食物」として高い価値を与えられています。(153ページ)

ダンス
ダンスはグウィたちにとってかけがえのない陶酔と楽しみの場である一方で、ときには宗教的な治療儀礼にもなります。(154ページ)
ツィーという言葉がダンスも治療も含め「超自然的な力」と名づけられる事がら全般にかかわっています。
ダンスという儀礼は深い熱狂を換気するものでありながら、人々を強制的に誘導するような装置をまったく欠いており、このことこそグウィの社会において<ともにある>身体の儀礼化のしくみを考えるうえで 根本的な重要性をもっていると著者は言います。(156ページ)
ダンスに参加することで、グウィたちは男女の役割に関わるイデオロギーに直面し、イデオロギーの強化のためではなく、楽しいからという理由でこの役割をひきうけます。
身体的感覚の裏づけを持たない恣意的な象徴の付加によって儀礼を洗練させることもありません。

狩猟遊牧民社会の文化的特質
アボリジニのような少数の例外を除く狩猟採集民社会では宗教・法・社会制度などの<未発達性>が特徴であるとされてきましたが、 これらの文化的特質と社会生活のもっとも根源的な基盤を結び付けて理解しようとした人類学者はいなかったと著者は指摘しています。
そして次のように結びます。

その基盤とは、相互対面行為であり、<ともにある>身体の経験である。いままで「制度的未発達性」と考えられてきた多くの特徴は、じつは、濃密にまじわりあう身体の自発性と融通性を最大限保証するという、平等主義社会のもっとも基底的な特徴の裏がえしの表現にすぎなかったのではなかろうか。 - 157ページ

出産・嬰児殺し
グウィの女たちは、いったん母親が妊娠すると、その母乳は毒性をおび、それを吸いつづける幼児を死なせてしまうという信念を持っているため、離乳を断固つらぬくことができます。(192ページ)
定住化前のブッシュマンの出産間隔は三〜四年であったと推定されている一方で定住化後は間隔がせばまり、子の激しい抵抗を押さえて強制的に離乳させられるようになったということです。(193ページ)
離乳食の得られない狩猟採集生活では、妊娠間隔が短すぎた場合、まだ愛着関係の形成されていない嬰字を絞め殺して砂に埋め、夫に「死産だった」と告げることがあったというマージョリィ・ショスタクによる研究があるそうです。

<ともにある>身体
グウィは木陰にすわっているときに、なにげなく足を触れ合わせるなど、他者との接触がほとんど常態となっています。(200ページ)

結婚・子供
結婚式では、新婦の女性親族(母、母方のおばなど)が、新郎・新婦双方の肩、肝臓の上、額に剃刀で傷をつけ、その傷口からにじみだす血を新郎と新婦がそれぞれ掌にうけてたがい に相手の傷口になすりつけます。(249-250ページ)
グウィは人の呼称として本人よりも「何某の父(母)」というように、その長子の名をおりこんだテクノミーをつかうことのほうが圧倒的に多く、 「子を持つ」ことによって初めて親族関係のなかでしかるべき位置をしめ、一人前に扱われるようになります。(279ページ)

婚外性関係
グウィ=ガナの社会においては、婚外の性関係がよくみられ、三人の妻との間の子が、すべて妻の愛人の子供だという例が紹介されています。(212ページ)
この愛人の子であることは周知されている一方で、子の父親は誰かとたずねれば、育ての親の名が返ります。
愛人(ザーク)は、ありもしない愛人関係に託して、男女が社交の場で親近感を伝え合ったり、物乞いをしたり、断ったりするときに利用されています。(252ページ)
また、固い友情に結ばれた男どおしの間おたがいの妻と性交渉をもつ(スワッピング)ことがあるそうです。
しかし愛人関係による葛藤は深刻であり、グウィは「恋敵」どおしのあいだで起こった争いを事細かにおぼえています。(256-257ページ)
その上、妻は夫の愛人としょっちゅういさかいながらもザークに同意することを望んでいるふしがみえるということです。

未婚女性や独居女性がザークでできた子を産むと「父なし子」(ツィワ・ガママ、「悪魔の子」の意)と呼ばれる一方で、たいがいはみんな誰が父親であるのか知っています。(275ページ)
普通、父なし子は母親と女性親族によって育てられ、父とされる男に経済的支援を要請することはないようです。(276ページ)
既婚女性が愛人の子を産むと、離婚に至る場合もあれば、通常は夫が自分の子として育てます。
「子種」がない男が妻のザークによって生まれた子供を養育することはあたりまえとされています。
一方、嫉妬の感情がないわけではなく、子供の名前に反映されています。
グウィは妊娠中の逸話を伝える名前を付けるため、妻の妊娠を知ったときの夫とのケンカに由来する名が付けられるのです。
「だます」などと名づけられた子を、父親は結局慈しんで育て、そこには<ともにある>身体のもっとも本質的な特徴が現れているようだと著者は記しています。(277ページ)
グウィの婚外性関係はあけっぴろげに語られる一方で、病気へのおそれ、社会的な葛藤、苦悩の感情と結びついてもいます。(280ページ)
一方で、性の競争における敗北が全人格的な屈辱へと拡大せず、長期的には密接な相互扶助の網の目に支えられる生活に合わせて、 社会関係に負の影響を及ぼさないように処理されています。(281ページ)

生霊
グウィにはカバーという言葉があり、日本語の「生霊」を連想させます。Aの行為がBの心をあまりに苦しめたことの結果として、 Bから発してAに害をなす力であり、夫が長期家を開けたあとに儀式をしないで妻の調理したものを食べると妻のカバーによって病気になってしまうなどといわれています。(263ページ)

実践的模倣
シエラレオネのクランコ族の民族史的研究をおこなっているマイケル・ジャクソンは、クランコ族と同じ方法で火を起こす「実践的模倣」によって、 初めて、人々がいかにして燃料と労力の両方を節約しているのかを洞察でき、労力の節約と動きの優雅さとのあいだに密接なつながりがあることを理解したということです。(285ページ)

会話と歌
グウィは相手の発話に同時発話をかぶせることが頻発します。(288ページ)
これはあたかも歌のようであり、グウィでは会話そのものが、「歌」のような色彩を帯びます。(289ページ)

■コメント■
ここでも、ピダハンとの共通性がみられました。
狩猟採集に出かけているときが、本来の生き生きした様子を取り戻すときであり、複雑な宗教が儀式を持たず、平等主義を徹底しているという点です。
こどもを叱らずに育てるという点も同じです。実はこれはチンパンジーにも共通しています。

これについて、本書で初めて知ったことは、狩猟採集民社会の文化的特質として、は宗教・法・社会制度などの<未発達性>があるということでした。
先日読んだアボリジニは例外的であるということでした。

どうやら、宗教や法が必要になるのは、農耕の開始以降であるようです。
おそらくは、食糧の貯蔵、労働時間と生産量が比例するようになること、土地の私有、資源を巡る争いの激化、定住化などが影響して、精神的な苦悩が増えたことを反映しているのでしょう。
食人や首狩りも狩猟採集民ではなく、農耕民に見られる行為であり、農耕という行為に何らかの無理があることを示しているのかもしれません。

ピダハンとの共通点の1つに性交渉の相手が広いことも上げられます。
どうやら、人間は一生同じ相手に添い遂げるのではなく、ときどきは相手を変える状態が本来的なようです。

グウィの社会もユートピアではない一方で、助け合わなくては生きていけない状態が、人々から個人主義を奪って社会の平等性が保たれているようです。

グウィがバンツー族に追われたことは、平等な社会を生きている側が、貧富の差の大きい社会の側から圧迫され、活動範囲を狭めたり、同化させられたりしていることを示しているようです。
その先に、耐えられない日々と宗教が待っているのでしょう。
法は、狩猟採集の平等社会では不要であっても、不平等な社会・隠し立ての多い社会では必要になるということなのでしょう。

現代社会では、歌、ダンスなど身体間隔と密接に結びついた活動も、生活から切り離されてしまいました。

本当に民主主義というものが存在するのであれば、このような生活を続けたいという願いがかなえられなければおかしいと私は思います。






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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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