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「奈良時代の貴族と農民 農村を中心として」弥永貞三 (著)(至文堂 1956年3月)

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■正倉院所蔵荘園絵画を史料として奈良時代の農村生活を探る/あるいは『モモ』の時間どろぼうに関する考察■

昭和31年(1956年)発行の古い本です。

著者は1915(大正4)年松本市生まれ。東京帝国大学を卒業し、名古屋大学教授、東京大学史料編纂所所長、上智大学教授などを歴任された経歴の持ち主です。従四位勲三等瑞宝章の受勲者でもあります。

「はしがき」によると、大日本古文書編纂のために正倉院に所蔵される荘園絵図を調査する年月を重ねるうち、奈良時代の村落生活に想いを馳せずにはいられなくなっていたところに、出版社から声がかかって作られた本とのことです。

班田制と条理制について説明した後で、集落と耕地について、滋賀県の曽根沼にあったと推測される水沼村・覇流村および福井県足羽郡道守村(現在は福井市南西部)の事例が考察されています。(正倉院所蔵の絵画なので、いずれも東大寺領)。奈良時代の農民の暮らし 条里制と重い租税にあるような、使役に耐えかねている農民たちの様子も描かれています。工事のための道具を提供するのかどうか、手弁当なのかどうか、雑役のうちなのかどうかといった、あいまいさの残る部分につけこんで農民を少しでも多く使役しようとする姿がうかがえます。

最後に、「農民の生活」と題する章があり、兵役などについても記されています。

長くなりますが、「むすび」の終わりの部分を引用します(太字は引用者)。

農民たちの生活は、中央貴族たちの生活と決して無関係ではなかった。中央政界に於ける変動が彼等の生活に敏感に伝わって来たことは、道守村の例で見て来たところである。のみならず、奈良の都で営まれた華やかな天平文化を築き上げた経済的基礎は、農民等の調庸物であり、それよりも大きなのは、農民等が提供した賦役労働であった。
貴族等も亦農村に対して大きな関心を持った。班田制から三世一身法、墾田私有法に移行する土地制度の変化、更には雑徭の半減と公出挙制の成立など、対農民政策に於ける重要な転機が、常に中央政界の変動と随伴していることは何よりもこれを物語っている。
奈良時代を通じて、墾田は大いに開発され、国家経済は大いに発展した。しかし乍ら農民等の生活はこれがために向上したとは考えられない。農民などの一部は地方豪族乃至有力な農民として成長して行ったが、多くのものはその隷属下に入ることによってかろうじて生活をつづけて行ったと考えられる。かような有力農民の数は、奈良時代の経過するにしたがって増加して行ったようである。そしてこれらの治田主が次の荘園時代を造り上げる主柱となったのである。-  202-203ページ

農民たちは、課役を免れようと自ら賤民になっていったり、割に合わない人夫仕事に応募したりしながら生きています。文明社会はあまねく農耕社会であり、そこでは、このような開発・発展の夢を提供しながら、ぎりぎりの搾取・使役が行われてきたという歴史が常にあり、現在私たちが置かれている社会にもそのまま当てはまるという事実を私は確認することになりました。

ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する灰色の男たち、時間どろぼうは、エンデのほのめかすような存在ではなく、農民の使役によって発展してきた文明そのものなのであると私は考えるのです。

内容の紹介


農村を中心に叙述をすすめることにはもう一つの理由がある。 弥生式時代、我が国に稲作耕作が齎されてから、近代産業が勃興するまで二十世紀の間、文化の上でも政治の上でも、治乱興亡の長い歴史をけみしている。 此の間にあって一貫して我が国の主要産業であつたのはほかならぬ農業である。 我々の郷土に於ける農村の歴史はしかく悠久であり、それだけに農村は支配者にとつては常に関心のまとであり、農民にとつては苦闘にいろどられた生活の場であった。 農村は常に社会の経済的基盤であり、社会機構の根本を規定する性質のものであつた。 農村を理解することが歴史全体を理解するためにも重要だと考えられるのは此の故である。 - 2ページ

近代産業ば勃興して農業の重要性は低下したように見えますが、農耕と牧畜なしには成り立たない生活であるという点では、現代社会も農耕社会そのものです。


大化の改新の際新らしく制定された男女の法は良賤の身分を定めた最初の法令であるが、此の法令には奴隷を解放する意図もなければその反対に奴隷制を強化しようとする意図もみとめることができない。 従来から漠然たる形で存在した良民と賤民の身分を、唐制にならつて固定化したというにすぎない。 だから改新を機として賤民が上昇して公民になったとか、或は自由民が賤民とさせられたということがあつたわけではなく、大体に於て大化前代の身分がそのままに存続し、中央貴族が夫々分有していた私民の私的隷属関係を罷めてこれを公民と為し、一括して中央政府に隷属せしめる体制をつくり上げて行ったのである。 - 12ページ


延暦八年にいたつて男女の法の一部が改められ、婢の良に通じ、良の奴に嫁して生まれた子は良に従うことを許した(伸暦八年五月己未紀)。 良民の奴婢化すること、したがって課役の民でなくなることを防止する一つの対策であろう。 延暦十年、畿内班田使任命の際には、奴婢は口分田班給の限りにあらずとした(類聚国史一五九)。 かかる事情は「公民が課役を免れようとして好んで賤民となる」ことを禁止した貞観二年の太政官符に一層はっきりあらわれる(類聚三代格三)。 延暦年間(十世紀初頃)にいたると、律令政府は奴婢の身分を廃止してしまう(政事要略八四)。 しかし奴婢が此の時以降消滅してしまったのではなく、はるか後世まで存続している。 - 13-14ページ

アメリカにおける奴隷廃止の真の目的が、「奴隷制は強制的に働かすには暴力で脅す必要がありコストがバカにならない。生産性も悪い。それより、解放して、一生懸命働けば豊かになると思わせた方が、進んで働くから」(隠された真実 権力者達の系譜 アメリカ南北戦争 『ロスチャイルドの密謀』)という理由であったことと似ています。


当時の民衆が最も苦しんだのは、その国のうちで、国司に駈使されねばならなかつたところの雑徭と、調庸物舂米等を京に運搬する義務であった。 年六十日という期間は原則としては農閑期がえらばれるべきであり、又六十日は最大限であって、必ずしもそれに満たさるべき性質のものではなかったが、国司の利益の前にはこの原則も無視せられ勝ちであった。 六十日間人民を駈使することは国司にとって一つの権利であるかの如く、限度一杯に役使するのが常態であったようである。 「国郡司等法意を存せず、必ず役使を満つ、平民の苦、略比に由れり(続日本記天平宝字元年八月己丑条)と言われた所以である。 - 79-80ページ


律令体系による収奪によつて貧窮化した農民たちは、はじめた出挙などによって一時をしのいでも、ついには富農に隷属するか、さもなければ賃租や和雇によって身を養うより仕方なくなったのであろう。 和雇の賃金が余り高からぬことは前に見たところである。 かような不利な条件にも満足せざるを得なかった雇民が存在したことは、雇傭による労働力が比較的広範囲に存在した一つの理由である。 東大寺や石山寺などの造営関係の文書にして、之に従事した非技術的労務者の比率のわかるものを調べて見ると最も多いのが雇夫(主として和雇であろう)であり、次が仕丁である。 雇傭労働が如何に盛んであったかが知られるであろう。 - 99-100ページ

現代社会であれば、「労働者側もこのような働き方を望んでいる」と答弁しそうな状況です。


これらの事実から推定せられることは、口分田は家居に近く班給するという田令の規定が原則としては存在したかに見える半面、国郡司と、東大寺との共同した強力な権力による寺地占定事業の前には、全く無力なものであって、田主の都合よりも寺家側の都合次第で、あちらこちらに耕地が動かされたということである。 - 146ページ


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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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