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「日本史の影の主役 藤原氏の正体」武光誠(PHP文庫 2013年12月)

■藤原氏の正体は不明■

江戸幕府の成立後、徳川家は皇室に血を入れようと努めたがついにこれを達成できず、逆に藤原の血を引く水戸光圀らのまいた国学の種が幕末の尊王譲位運動につながり、ついに権力を失うこととなった。

Wikipediaで調べるだけでもこの程度のことは確認できるが、この本では残念ながら藤原氏の正体に迫る記述は見出せなかった。

特に面白いなと思った部分

世界記憶遺産となった藤原道長の日記である『御堂関白日記』は、その代表的なものである。道長自筆の日記が、かれの子孫である近衛家に継承されてい現代に伝わったのだ。 -130ページ

藤原氏の重みは大きいようであり、また、現代まで着実に伝わっていることに感嘆する。

『御堂関白日記』や道長と同時代の貴族の日記から、我儘で強引な上に、執念深くて意地が悪い、典型的な暴君としての道長像が浮かび上がってくる。このような人物が、藤原氏全盛をもたらしたのだ。貴族たちは道長政権おもとで、ひたすら道長の機嫌とりに努めて過ごした。 -133ページ

保元の乱のあと信西の主張に従って、薬子の変のあと途絶えていた死刑が行われた。上皇方についた源為義、平忠正らの武士が斬られたのだ。

貴族政権のもとの平安時代は、長期にわたって平和が続いた時代であった。謀反人とされた貴族でも、流刑で済まされたのだ。ところが保元の乱をきっかけに、武力を持つ者が政治を動かす時代となった。 -192ページ

実際には死刑のなかったのは中央に限ってのことで、地方の荘園などでは実施されていたようです。

つまり平氏政権から鎌倉幕府の成立期にかけての時期に、藤原氏は歴史の主役の座から降りることになったのである。 -198ページ

この後の様子が知りたいのだが、本書はここまでで大半のページを費やしてしまっています。

摂家以外の人間が関白になった例は、豊臣秀吉、秀次の二例だけである。 -211ページ

本書では、江戸時代にも藤原氏が関白を独占した理由がわからない。

日本史を学んだ方で、藤原氏を陰謀家の集まりと見る方が多い。藤原氏には、うしろ暗い印象がつきまとうのである。

「天皇を操って、その陰で思い通りの振る舞いをした藤原氏」

こう言ってしまえば、藤原氏陰謀説がもっともなように思えてくる。しかり日本史の場面、場面を見ていくと、我儘放題に過ごした藤原氏の有力者がほとんどいなかったことがわかってくる。 -228ページ

特に幕末の王政復古につながる動きの中で藤原氏に関連する人々が活躍したこと(藤原氏から繋がる姉小路公知、本姓藤原を称する吉田家に養子入りした吉田松陰)を踏まえると、陰謀説を唱えないことのほうが不自然に思える。

奈良県桜井市談山神社に、『多武峯曼荼羅』(とうのみねまんだら)と呼ばれる藤原鎌足像が伝えられている。そこには画面中央に座る鎌足の背後に、松に絡まる藤を画題とする壁画が描かれている。

四方に枝を伸ばして青々とした葉を茂らせる松に、藤が蔦を絡ませる。この藤は、日光を遮るように花を咲き誇らせている。このような背景を前に鎌足と、かれの二人の子どもである僧定恵、藤原不比等がいる。

この松は皇室を、藤は藤原氏を象徴すると考えてよい。天皇という太い幹に寄り添って、花を咲かせて栄えるのが藤原氏であるというのである。

「あくまでも天皇を重んじて、これの補佐役に徹してその分を守ること」

これが藤原氏が見につけた、処世術であった。 -234-236ページ

仮にこのとおりであるとしても、同じ頃に渡来したと思われる秦氏が技術を伝え、いつしか歴史の表舞台から消えていったこととなんと対照的な生き様だろうか。

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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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