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「アフリカ最後の裸族」江口一久(大日本図書 1978年2月)

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■近代的生活は独立性を奪う■

著者の江口氏は、「アフリカの魅力が体にしみこんだ日本人」といわれるような素敵な方のようです。私は、今回、この本で初めて知りましたが、すっかり好きになりました。残念ながら2008年に亡くなられたとのことです。

本書には裸族と呼べるような写真は掲載されていません。取材と重なる1968年から69年にかけて政府による「裸がり」が行われたことが大きな原因になっているようです。
最後の裸族とされているヒデ族は、カメルーンのナイジェリア国境に近い地域に住む部族で、農耕によって生活し、一夫多妻制です。
イスラム教の勢力が強まる中、19世紀初めに現在の土地に移動してきたようです。

普段は『人間は何を食べてきたか』の雑穀の回で紹介されているような練りがゆを食べて生活し、肉を食べるのは祭りでヤギや牛を食べる程度だとのことです。
塩も油もなく、家を建てるときにも現金は必要なく親類縁者、村人たちの協力で暮らしています。
しかし生活は厳しく、乾季が終わって雨季になると農作業と家事の重労働に食料不足が重なって、若い女性の死亡が相次ぐといいます。

しかし、江口氏は言います。

わたしは、ヒデ族の生活をよくするために、村に電気をともしたり、水道や下水道を完備したり、工場を誘致したらよいなどとは、考えてみたこともありません。工場ができれば、村にたくさんのお金がはいるかもしれません。しかしそれと同時に、石油がたくさん燃やされ、公害に悩むことになるでしょう。外部から資本もはいってくるでしょう。ヒデ族の人びとが工場で働くようになれば、食料はどこかから買ってこなければならなくなります。 - 134ページ


この言葉は、ヒデ族だけでなく、すべての人々に当てはまると私は思います。
本書で、ヒデ族の人々は、着衣に抵抗し、学校教育に抵抗している様子が示されています。
同じことは、江戸から明治に変わった日本でも起きていたことを、思い出します。

ヒデ族は裸族ですが狩猟採集ではなく農耕によって暮らしており、激しい労働や食料不足に苦しむ生活ですが、近代化を進めたならば、江口氏の指摘するように、ヒデ族は、自らの判断ではなく他人の強制によって生きるしかない存在になってしまうでしょう。
食料も水も住処も無償で提供してくれる環境を壊して、金に縛られて生きる人生が待っています。

問題はどこにあるのかといえば、支配の範囲を拡大してより多くの富を得ようとする人々が、世界各地に存在していた持続可能で独立した生活を破壊して、経済活動に組み込み、人々の経済的・政治的・文化的自立を奪っていっていることにあると私は考えます。
本書は、裸族の生活というよりも、日本でいえば明治維新直前にあたる時期の人々の様子が描かれた本ととらえることもできそうです。
村を離れて教育を受けたヒデ族の若者は、町で受けた差別に対する憎しみを、村人や両親を非難することで晴らすといいます。しかし、自然と調和し、裸を羞恥しない人間本来の暮らしに近いのは、町ではなくヒデ族の村のほうであると私には思えます。



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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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