NetALPHA TopPage Contents
MK's Home MM Family's Home OT's Room Special Program

追悼:黒澤明
AK News -黒澤監督:追悼版-<その4>

●映画産業の中心であるアメリカでも黒澤監督の死を悼む声。
ニューヨークでは6日朝、テレビが死去のニュースを伝え、『羅生門』などの映画シーンとともに他界を惜しんでいる。CNNテレビは、黒澤作品をバックに、数十年間にわたって「日本映画界の天皇」だったと伝えた。黒澤作品は、アカデミー賞の外国語映画賞を『羅生門』と『デルス・ウザーラ』で受賞、1990年には名誉賞も受けた。その数々の作品はジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ、スティーブン・スピルバーグ監督などに影響を与えたとされる。ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』はルーカス自らが黒澤監督の『隠し砦の三悪人』に影響を受けていると言及しているし、『スター・ウォーズ』のオビ・ワン・ケノビ役には当初三船敏郎を考えていたというのは有名な話である。またルーカスとコッポラは資金繰りに困り製作が難航していた『影武者』の海外版のプロデューサーをかってでて、20世紀FOXに働きかけた。一方スピルバーグも『夢』の時にワーナー・ブラザースとの仲立ちをしている。1990年のアカデミー名誉賞受賞の時にはスピルバーグとルーカスが黒澤監督にオスカー像を手渡した。

●そのスティーブン・スピルバーグ監督はフランスのドービル映画祭に参加中。6日、黒澤明監督死去について米CNNテレビに「クロサワは現代における映像のシェークスピアだ」と述べ、巨匠の他界を悼んだ。スピルバーグ氏は「監督の作品は非常に印象派的で、合戦中の武士団の色彩などは映画(の本質)に肉薄している。現代美術の傑作だ」と賛辞を贈った。1990年の『夢』の製作に関与して以来、スピルバーグ監督と黒澤監督は交流を深め、計画中の米ベストセラー小説『メモリーズ・オブ・ア・ゲイシャ』の映画化についても、黒澤監督に相談していたという。
一方、同じ『夢』に俳優として出演した米映画監督のマーチン・スコセッシ氏は「監督は世界の映画人に深い影響を与えた。死去は多大な損失だ」とのコメントを発表した。「タクシードライバー」などを手掛けたスコセッシ氏は、オムニバス形式の『夢』で画家ゴッホを演じた。

●ジョージ・ルーカス監督のコメント。
「世界は貴重な財産を失った。黒澤監督という天才は、洗練された感覚で、素晴らしく、かつ力強い映画を我々に遺産として残してくれた」「黒澤監督は私の映画に大きな影響を与えてくれた。映画『影武者』で共に仕事が出来たことを名誉に感ずる。黒澤監督は人間としても、映画製作者としても特別な存在であり、寂しさを感じている」

●フランシス・フォード・コッポラ監督のコメント。
ルーカスと共に『影武者』の海外版プロデュースにあたり、また1982年にはアベル・ガンス監督の『ナポレオン』を黒澤監督と共同で監修するなどしたコッポラ監督は「並ぶ者のいない巨匠だった」と最大級の賛辞を贈った。米ニューヨークの共同通信に寄せたこの追悼コメントの中で、コッポラ氏は学生時代、『羅生門』『七人の侍』などの黒澤作品に心を動かされ、「映画をノーベル文学賞の対象に加え、黒澤氏に授与すべきだ」としたためた手紙をノーベル事務局に送ったことも明かした。映画界初のノーベル賞受賞者に黒澤監督を強く推していた。代表作『地獄の黙示録』では『七人の侍』を参考にしたというコッポラ氏は「あれだけ多くの傑作を残した映画監督はほかにいない。有名な『七人の侍』などだけでなく、『悪い奴ほどよく眠る』や『生きる』もドラマと人間を表現した秀作だった」と、師と仰ぐ黒澤監督の死を惜しんだ。

●6日、ロサンゼルス・タイムス紙は朝刊最終版の1面で「巨匠の死」を伝えた。

●7日午後6時から、東京都世田谷区成城の黒澤監督の自宅マンションで行われた。
小雨の降るあいにくの天候の中、近親者のみで行われる予定だったが、戦後の映画史を築いた巨匠の死に、映画監督の大島渚さんや俳優の植木等さんをはじめ日本を代表する映画関係者ら200人以上が傘を手に弔問に訪れ、「世界のクロサワ」との別れを惜しんだ。通夜は午後6時から無宗教の形式で行われ、弔問客らは居間に設けられた祭壇に、バラや菊、カーネーションなど色とりどりの花を供えて故人の冥福を祈った。棺に納められた黒澤監督の遺体は、白ユリなどの花が飾られたマンション一階の自宅の洋間に安置され、トレードマークのサングラスに帽子、ジャンパーという撮影現場のままの姿で、弔問客を迎えた。順番に棺に白いカーネーションをささげ、お別れをした弔問客によると、棺の中には遺族の手で生前の監督が愛したゴルフクラブ一本が納められ、「今にも話しかけてきそうな姿だった」という。閑静な住宅街の狭いバス通りには、世界的な文化人の死を象徴するように黒澤プロダクション関係者や報道陣、交通整理の警察官など150人以上でごったがえしていた。
弔問を終えた画監督の今村昌平さんは、「黒澤監督は小津安二郎監督(故人)とは対照的に、外に向かって露骨に出すエネルギーが万人の心を打った」また「黒澤監督には派手なエネルギーというよりも秘めたエネルギーがあった。そこから押し出すパワーによって作品が作られていた」と語った後、故人のことを思い起こしているのか、まっすぐに前を見つめながら「お疲れさまでしたというしかありません」と述べた。
『乱』に出演した俳優の植木等さんは、「大人が子供をなだめすかすようなおだやかな演技指導が印象的だった。今日は最後に『お世話になりました。ありがとうございました』と声をかけました」
映画監督の山田洋次さんは、「スタッフとスピルバーグ監督の作品への影響を話題にしていたときに訃報を聞き、驚いた。仕事場での親方的存在で、作ることが何よりも大好きな人だった。『あなたに学んだことは多く、これからも学びつづけます』と話しかけました」
女優の司葉子さんは、「監督が撮影をしていると、撮影所の雰囲気が引き締まったものになった。大きな体で、威風堂々と歩いていた姿が印象的。外国で『私は黒澤作品に出たことがある』というと、相手の対応が変わるほどの偉大な方。戦後の日本のイメージを作った人でした」
『乱』『夢』に出演した俳優の寺尾聰さんは、「ただ残念だという気持ちでいっぱい。せめてもう1本撮っていただきたかった。監督からは演技指導よりも人間としてのものの考え方を多く学んだ。監督の『自然にやりなさい』というアドバイスが忘れられない」
漫画家の藤子不二雄A(本名・安孫子素雄)さんは、「一時期の漫画家はみな、青春時代に黒澤映画で育った。黒澤さんの作品を見ることによって、漫画を書く意欲を盛り上げていた。まだまだ映画を撮って欲しかった。映画作品にも生き方そのものにもパワーがあって、戦後の一時代をもり立ててくれた。監督と『影武者』の打ち上げゴルフコンペでご一緒させていただいたことが懐かしい」
黒澤映画のほとんどの美術を担当した映画美術の村木与四郎さんは、「1年以上前に山本周五郎の作品を映画にしたいと準備していたのだが、監督のけがや資金不足でうまくいかなかった。面白い話だったのにくやしい。ぜひ実現してほしかった」
『七人の侍』以降黒澤作品へ出演の多い俳優の土屋嘉男さんは、「家族同様のお付き合いをしていただいた。(自分のデビュー作の)『七人の侍』は私にとって映画のふるさと。すばらしい価値観を与えてくれた。80歳にならないと本当の仕事はできないと言っていたので、まだまだお元気とばかり思っていた」
この他にも、映画監督の大島渚さんや、黒澤監督の『羅生門』と同じくヴェネチア国際映画祭で『HANA-BI』がグランプリ(金獅子賞)を獲得した北野武さんも弔問に訪れた。

●「黒澤明記念館」の建設計画を進めていた佐賀県伊万里市は7日、黒澤プロダクションとの間で予定していた合意書の調印式を延期した。
故黒澤明監督の長男で黒澤プロ社長の久雄さんが、現地入りできなくなったため。記念館にはオスカー賞のトロフィーや監督自身の書き込み入りの台本、自筆の絵コンテなど約4000点を展示。費用約15億円を見込み、早ければ2000年秋にオープンする。同市のほか国内外の5地域が建設に名乗りを上げていたが、監督自身が映画『乱』の撮影で同市周辺を訪れ、沈む夕日を特に気に入っていたことや、古くから焼き物の積み出し港として世界的に知られることなどを理由に選定されたという。


 
その3   その5

AKLine
Bottom Line