This is a Japanese translation of R. W. Chambers' 'The Street ofOur Lady of the Fields' from "The King in Yellow".
R. W. チェンバース『黄衣の王』より「草原の聖母の街」です。
R. W. チェンバース作
The Creative CAT訳
過ぎにし悲しみの歳月もまた
我らには喜びの年と数えらる。
その街は洒落てはいなかったが見窄らしいわけでもなかった。街の中の賤民階級だ──居住区(*1)のない街なんて。そこは貴族的で青白い天文台通り(*2)の外側にあると一般に理解されていた。モンパルナス区(*3)の学生はそこをでっぷりした連中のものと考え断固拒否していた。リュクサンブール(*4)公園からみると北の辺境にあたるラテン区(*5)の人々はそこをお高くとまっていると嘲り、そこに屯するぱりっとした服を着た学生たちを嫌っていた。余所者が入り込むことはほとんどなかった。それでも、ラテン区の学生は時々レンヌ通り(*6)とビュリエール(*7)の間の近道として使うことがあったが、そうでもなければ平日の午後にそこを通るものときたらヴァヴァン通り(*8)近くにある修道院付属学校の親や保護者だけだった。草原の聖母の街はパッシー地区(*9)の大通り並に静かな所だったのだ。おそらく、その街の中で最も見るべき場所はグランド・ショミエール通りとヴァヴァン通りの間にある。少なくともそれがヘイスティングス(*11)のお守りとして街を歩き回ったジョエル・バイラム(*12)師がたどり着いた結論だった。ヘイスティングスにとってその街は明るい六月の陽気に快適そうだった。そこを選んで欲しいなあと思うようになっていたら、交差点の角にいたバイラムが乱暴に修道院から後ずさった。
「イエズス会員だ。」彼は呟いた。
「ええ、」疲れた口調でヘイスティングスが言った。「私はせいぜいこの程度のものしか見つけられないだろうと思っていましたよ。あなたはパリでは悪徳が勝利を治めていると独り言でおっしゃっていましたね。見たところ、どの街にもイエズス会員やもっと碌でもないのがいるようじゃありませんか。」
ちょっと間を置いてバイラム師は返事をした。「もっと碌でもないのか。君がご親切にも注意してくれなければ、気がつかなかったろう。」
バイラム師は唇をすぼめて彼の方を見た。彼は周囲の眼に見えるきちんとした様子に感銘を受けているようであった。修道院に顔を顰めながら、ヘイスティングスの腕をとり、街路の反対側にある鉄門の所に行った。それには青地に白で201bisと番号が振ってあり、その下には英語でこんな注意書きがあった:
1. 守衛を呼ぶには一たび押し給へ
2. 召使を呼ぶには二たび押し給へ
3. 事務を呼ぶには三たび押し給へ
ヘイスティングスは電鈴のボタンを三回押した。彼らは庭を横切り、細くてこぎれいなメイドの手で、事務室に案内された。すぐ向かいにあるダイニングルームのドアが開き、でっぷりした女性が質素に見えるテーブルからせかせかと立ち上がって彼らの所までやってきた。ドアが閉まり、でっぷりした女性がコーヒーの香りと一匹の黒いプードルを連れてよちよちとやってくるまでの間に、ヘイスティングスには一人の頭の大きな若い男と、何人かの薄汚い老紳士が朝食をとっている所がちらりと見えた。
「ヨウコソお出でいただきました。」彼女は叫んだ。「ムッシューはアングリア(*13)のお方で? ノー? アメリケーンのお方で? 私のパンシオンはアメリケーンの方に合いますわよ。ここ皆アングリーッシュを話します。スナワチ皆のものが。召使いもシャベリます、大ナリ小ナリ、少しは。私はあなた方がパンシオンを借りに来られて幸せです。」
「マダム」バイラム氏が話し始めたが、再び遮られた
「ああ、ソーです、えー、ああ!カミサマ!、あなたがたはフランスゴをシャベラナくてベンキョーしにおいでになった! 私の夫もタナゴの方とフランスゴをシャベリますわ。今私の夫からフランスゴをベンキョーしているアメリケーンの家族がいます。」
ここでプードルがバイラム氏にうなり立てたが、すぐさまご主人様の張り手をくらった。
「シズカニおし!」ぺしゃりとやって彼女は叫んだ。「シズカニおし! ああコノ邪魔者メ! ああコノ邪魔者メ!」
「Mais (いえいえ)、マダム、」ヘイスティングスは微笑を浮かべて言った。「il n'a pas l'air tres féroce.(そんなに気になりませんよ)」
プードルは逃走し、女主人様は叫んだ。「ああ、チャーミングなアクセントですこと! こちらの方はホントーにもうパリの若い紳士のようにシャベリますのね!」
次にバイラム氏が一語か二語割り込み、家賃に関する幾ばくかの情報を集めた。
「これはマジメなパンシオンで、タナゴのかたがたは最高です。本当に、カテイ的なパンシオンでおウチにいるようなものです。」
そこで彼らはヘイスティングスの未来の住まいを改めるべく階段を上がり、ベッドのスプリングや一週間分のタオルを架けられるかを確かめた。バイラム氏は満足したようであった。
マロット夫人(*14)は二人をドアまで送り、ベルを鳴らしてメイドを呼んだ。だが、ヘイスティングスは砂利道に足をむけた。案内役兼相談役は一瞬足を止め、潤んだ目をマダムにとどめた。
「おわかりですか、彼はとても育ちの良い若者です。性格人品とも一点の曇りすらありません。彼は若く、外国に行った事がなく、大都会を見た事もありません。彼のご両親が、家族ぐるみの古い友人でありパリ在住の私に、息子にとって良い影響があるような場所を探してくれと依頼されたのです。彼は美術を研究しておりますが、その地に跳梁する不道徳を知れば、ご両親は決して彼をラテン区に住まわせないでしょう。」
かちゃりと掛けがねが鳴るような音がしたので、彼は言葉を止めて目を上げたが、事務室のドアの裏でメイドがでか頭の若者を平手打ちするのを見るのには間に合わなかった。
マダムは咳払いをして背後に必殺の視線を浴びせると、バイラム氏の方に微笑みの光線を放った。
「彼がこちらに見えたのはケッコウなことです。このペンションよりシリアスな所はマッタクアリマセン、全然ないんです。」確信とともに彼女は告げた。
それで、もう付け加える事もないので、バイラム氏は門の所にいるヘイスティングスと一緒になった。
「信じているよ、」修道院を見ながら言った。「君はイエズス会員とは誰も知り合いにならないだろうと!」
ヘイスティングスが修道院を見ていると、綺麗な娘が灰色のファサードの前を横切っていき、彼は娘を目で追った。若い連れが一人、絵具箱とカンバスをもって踊りながらやってきて、綺麗な娘の前で止まり、何かを話しながら短いが大振りの握手をし、共に笑い、その友人の男は去っていった。行きしな、「また明日、ヴァレンティーヌ!」と呼びかけ、声を揃えて娘も叫んだ「また明日ね!」
「ヴァレンティーヌか、なんて古趣のある名前なんだろう。」と思いつつヘイスティングスは一番そばの電停に向かいジョエル・バイラム師が足を引きずって行くのを急いで追いかけた。
「ソレデ、ムシュー、あすたん(*1)さん、パリはタノシイですか?」翌朝、ヘイスティングスがペンションの朝食室に入ると、マロット夫人がおねだりしてきた。彼は上の階で一風呂浴びてきたばかりで上気していた。
「きっと気に入ると思います。」彼は答えながら、どうしてこう気が晴れないのだろうと思った。
メイドがコーヒーとロールパンを運んできた。でか頭の若者がぼんやりとこちらを見たので、同じようにした。しょぼくれた老紳士の挨拶にはおずおずと返事をした。彼はマロット夫人の同情の目に気づかず、コーヒーを飲み干さずに座ってパンをちぎった。夫人には彼の邪魔をしないだけのデリカシーがあったのだ。
間もなくして、メイドがやじろべえのようにトレイに二つのチョコレート入りボウルを載せて入ってくると、しょぼくれ老紳士は助平そうな目をその踵に向けた。メイドはチョコレートを窓際のテーブルに置き、ヘイスティングスににっこりとした顔を見せた。そこに痩せた若い女性がやってきた。年齢以外はよく似た相棒に連れられ、ずんずん進むと窓際のテーブルを取った。二人はどうみてもアメリカ人だったが、ヘイスティングスがもし少しでもいいからこっちを気にしてほしいと思っていたなら、それは裏切られたのだ。同国人から無視されたために、彼はますます落ち込んだ。ぎこちなくナイフを扱い、皿をみつめた。
痩せた若い女性は実に饒舌だった。彼女はヘイスティングスがいることをはっきり意識していて、彼が尊敬の目で自分を見るのをいつでも受け付けますという様子だった。その一方で、自分がもう三週間もパリにいるのに、彼は見るからにまだ旅行鞄も開けていない様子なのを見て取って、優越感を感じてもいた。
彼女は鼻持ちならない話し方をした。母親とルーブルとボン・マルシェの優劣について論議していたが、母親の役目はほとんど相づちをうつことだけだった「まあ、スージー!」
しょぼくれた老紳士達は鬱屈したものを内に潜めており、外面は腰が低くとも内心怒っていた。部屋の中をおしゃべりで埋め尽くすアメリカ人に腹を据えかねていたのだ。
でか頭の若い男は老人たちに気遣って、訳知りな咳をしては「陽気なおっさんたちだ!」と呟いていた。
「不良老人みたいだわ、ブレイドンさん(*2)」と少女。
それを聞いたブレイドン氏は微笑んで言った。「彼らにも良かった時代があったんだ。」彼自身にはそんな時代がなかったとにおわせながら。
「それで、あの人たちの目はみんなだぶだぶなのね。」少女が叫んだ。「若い紳士たちに対する恥辱だと思うわ。」
「まあ、スージー、」母親がいい、会話は頓挫した。
しばらくしてブレイドン氏は家計において毎日研究している「プチ・ジャーナル(*3)」を放り投げ、ヘイスティングスの方に向き直って愛想を振りまきはじめた。「あなたはアメリカ人でしょう」と話しだしたのだ。
これでもかというばかりにホームシックになっていたヘイスティングスはこの輝かしく独創的な開幕ぶりに喜んで返答した。その会話に滋養を供給しているのはスージー・バイン嬢(*4)の思慮深い見解だったが、その見解はもっぱらブレイドン氏に向かって発言された。そんなこんなの内に、スージー嬢はもっぱらブレイドン氏に語るのを忘れ、ヘイスティングスは彼女の一般的な質問に答え、ここに両者間のentente cordiale(協調政策)が成立し、スージーとその母親は、明白な中立地点であった地域にまで保護領を拡張してきた。
「ヘイスティングスさん、ブレイドンさんがなさっているように毎晩ペンションを空家にするのはおやめになった方がいいわ。パリは若い紳士にとってそれは怖い所ですのよ。ブレイドンさんは恐ろしい冷笑家でいらっしゃりますし。」
ブレイドン氏は喜んでいるようだった。
ヘイスティングスは答えた。「私は一日中アトリエにいることになるでしょうし、夜には喜んで帰宅することになるかと思います。」
ブレイドン氏は週十五ドルでニューヨークのピューリー・マニュファクチャリング・カンパニー・オブ・トロイ(*5)の代理人をしているのだが、これを聞いて懐疑の微笑みを見せ、マゼンタ(*6)大通りの顧客との約束を果たすために出て行った。
ヘイスティングスは、バイン夫人とスージーを伴って庭を歩いた。彼女等の招きに応じて、鉄門前の日陰に腰を下ろした。
トチの木はなおも桃色と白の棘を香らせ、白い家の壁を刺繍する薔薇の周りには蜂たちがぶんぶん飛んでいた。
空気は微香を運んでいた。水やりの車が街を行き交い、清潔なグランド・シュミエール通りの汚れ一つない側溝にはきれいな水が音を立てて流れていた。縁石に並ぶ陽気なツバメたちが、次々に水を浴びては楽しそうに羽根を振るわせていた。街路を横切る壁を巡らした庭には、つがいのクロウタドリ(*7)がいて、アーモンドの木の周りでさえずっていた。
ヘイスティングスは喉のつかえがとれた気がした。鳥の歌やパリの側溝を流れる水音で ミルブルック(*8)の陽の当たる牧場に帰ったように思えたからだ。
「あれはクロウタドリね、」バイン嬢が注釈をつけた。「あそこのピンクの花のある茂みにいるのを見なさいよ。真っ黒けじゃないのは嘴だけ。フランス人曰く、まるでオムレツに突っ込んだみたいにね。」
「まあ、スージー!」とバイン夫人は言った。
「そこの庭はあるアトリエのもので、そのアトリエにはアメリカ人が二人住んでいるの。」少女は静かに続けた。「それで私は彼らが通るところをよく見るわ。ずいぶん沢山モデルが必要みたいね。それも若くて色っぽい。」
「まあ、スージー!」
「きっとそういった種類の絵を描いているんでしょうね。だけどどうしてモデルを五人も、しかも三人の若い紳士のおまけ付きで招待しなければならないのか、二台の馬車に乗って歌いながらお出かけしなければならないのか、ちょっと私には解らないわ。この街はね、」続けて「退屈よ。庭と、グランド・ショミエール通りからモンパルナス大通りが見える一瞬を除いては何も見るべきものはない。通るものといえば警官が一人だけ。角には修道院がある。」
「あれはイエズス会のカレッジだろうと思っていました。」ヘイスティングスは切り出したが、ベーデッカー(*9)の旅行本に書いてあったことが影響したせいで、こんな終わり方をすることになった「一方の側にはジャン・ポール・ローランス、ギヨーム・ブーグロー(*10)といった宮城のごときホテルがあり、反対側のスタニスラス小路(*11)はカロルス・デュラン(*12)が世界を魅了したかの傑作を描いた場所ですよ。」
クロウタドリは黄金の喉から音のさざ波を奏で始め、それに応えて少し離れた緑地から名前もわからぬ野鳥が荒々しい水音を立て、沐浴中を一休みしたツバメが空に向けて絶え間なくさえずり始めるまでそれらは続いた。
そこに蝶がやってきて、ヘリオトロープの群れに止まり、まばゆい日射しの中、深紅の帯の羽根を動かした。ヘイスティングスにはそれが友と分かった。彼の目には高いビロードモウズイカ(*13)の草が幻となって見えた。色づいた羽根の動きとともにトウワタの香りが立ち、白い家とツタの這うポーチの幻が見え、パンジーの褥の上には読書する男と寝転ぶ女の姿がちらちらした。──彼の胸は一杯だった。しばらくしてバイン嬢が声を掛けてきた時にはびっくりした。
「これはもう、あなたはホームシックなのに違いないわね!」ヘイスティングスは赤面した。バイン嬢は彼を見ながら同情のこもったため息をついて続けた: 「家が恋しい時はいつでも、まずママの所にいって一緒にリュクサンブール公園を散歩したものです。なぜかわからないけど、ああいう古風な庭にいると、こんな人工的な都会の中のどこよりも家に近づいた感じがするんです。」
「でも、あそこは大理石の像でいっぱいで、」とバイン夫人は穏やかに言った。「私にはどこが家に似ているのかわかりませんわ。」
「リュクサンブール公園はどちらですか?」沈黙の後、ヘイスティングスが質問した。
「こっちにきて、門の方に。」バイン嬢が言った。彼は腰を上げ彼女を追った。彼女は街の端にあるヴァヴァン通りの方を指した。
「修道院の脇を右に行って。」彼女は微笑んでいた; ヘイスティングスは立ち去った。
リュクサンブール公園は花々で溢れかえっていた。
彼はゆるゆると長い並木道を歩いた。苔むした大理石を、年ふりし石柱を通り、青銅のライオンの脇の木立を抜け、噴水の上にある、木陰のテラスに出た。見下ろす窪地は陽光に映えていた: 花をつけたアーモンドがテラスを取り囲み、さらにその周りはトチの木立が四方八方に螺旋を描き、その辺りの地面は湿った薮となり宮殿の西翼にまで続いていた。並木の終わりには天文台が建ち、白いドームを東洋のモスクのように隆起させていた。反対側の果ては重厚な宮殿で、窓という窓はみな、六月の陽の光を浴びてぎらぎらと光っていた。
噴水を取り囲んで、竹棒を構えた子供たちと白帽の保母たちがおもちゃの船をつついていた。帆が陽の光の中によろめいた。公園の警官は赤い肩章を付け剣を佩き、彼らをしばし監視していたが、やがて背を向けると犬を放し飼いにしている若い男にオイコラしにいった。犬は嬉しそうに脚を空に向けてばたばたさせながら背中に草をこすりつけ、土が付いても気にする様子がなかった。
警官は犬を指差した。彼は憤りにかられ、言葉もなかった。
「はい、おまわりさん。」若者は微笑んだ。
「もしもし、学生さん。」警官はうなった。
「いったい何の文句をつけに来たんですか。」
「繋がないならその犬を連れて行くぞ。」警官は叫んだ。
「それが何か? mon capitaine(我が警官)?」
「何だと! そのブルドッグは貴様のではないのか。」
「私のですが。繋がないとでもお考えで?」
警官は声もなく刮目し、こいつは学生であるが故に邪悪なのであると決めつけて、犬を捕まえようとしたが、犬はさっさと逃げてしまった。追いかけっこは花壇の周りをぐるぐると巡って続き、警官が近づきすぎたと思ったその時、花壇を横切ってブルドッグは行ってしまった。これはフェアなやりかたとは言えそうもない。
若い男は面白がっていた。犬もまた運動を楽しんでいるようだった。
それに気づいた警官は、悪の噴水口を叩いてやろうと決めた。猛然と学生の所に突撃すると言った。「公共の鼻つまみ者として、お前を逮捕する!」
「ですが、」反論がやってきた。「私は犬の所有権を放棄しました。」
難題だった。三人の庭師の手でも借りない限り、犬を捕らえようとするだけ無駄だったが、その時、犬は既に逃亡してメディシス通り(*1)の方に消えていた。
警官はよろよろと、白帽の保母たちの方になにか宥められるものでもないかと探した。学生は腕時計を見てあくびをしながら立ち上がり、その時ヘイスティングスに目を留め、微笑んで挨拶した。ヘイスティングスは笑いながら大理石の方に歩み寄った。
「おや、クリフォード(*2)じゃないか、君とは分からなかったよ。」
「口ひげのせいだ。」ため息をついた。「友人の名誉のために犠牲にしたんだ。僕の犬はどうだい。」
「するとあれは君のか。」ヘイスティングスは叫んだ。
「もちろん。警官をからかって遊ぶのは、あいつのためにちょっとばかり変化をつけて喜ばせようというんでね。でもこれであいつは目をつけられてしまったから、もうやめないとな。あいつは家に帰ったよ。庭師たちが手を出してきたら、いつもそうなんだ。かわいそうなもんさ、芝生でごろごろするのが好きなのにな。」その後二人はヘイスティングスの将来の見通しについてちょっとばかり雑談を交わし、クリフォードはアトリエのスポンサーに慇懃なる立礼を献じようとした。
「なあ、懐かしの虎猫君(*3)、君のことは会う前からバイラム師に話をきいてるよ。」 クリフォードは説明した。「エリオット(*4)と僕にできることなら喜んでなんでもするよ。」再び時計を見て「ヴェルサイユで列車に乗るのにあと十分しかない。au revoir (じゃまた)。」と呟き、急いで出かけようとした。が、噴水の所をこっちにやってくる娘を目にすると、帽子をとってとまどったように微笑んだ。
「あら、ヴェルサイユにいるんじゃなかったの。」そこにヘイスティングスがいる事など目にも入らないようだった。
「い──行こうと思ったところだよ。」クリフォードはうめいた。
つかの間二人は顔を見合わせた。真っ赤になったクリフォードはどもりながら、「よろしければ、わが友、ムシュー・ヘイスティングスを紹介する栄誉をおあたえください。」
ヘイスティングスは頭を低く下げた。彼女の笑顔は実に甘美だったが、パリ娘が小振りな頭を静かに傾ける姿には何かしらいたずらっぽいものがあった。
「ムシュー・クリフォードが今度はもっと時間をかけて、とても魅力的なこのアメリカの方を紹介してくださりますなら嬉しゅう存じますわ。」
「本当に本当に、もう行かなきゃ、ヴァレンティーヌ?」クリフォードは言いかけた。
「そうね。」と彼女は応えた。
クリフォードは彼女がそう加えると、たじろぎながら慌ただしく去っていった。「セシル(*5)によろしく!」彼がアッサス通り(*6)に消えると、娘も立ち去ろうと振り返ったが、ふとヘイスティングスのことを思い出して、彼に目を向けると手を握った。」
「ムシュー・クリフォードはこんなにいい加減なんですよ。」彼女は微笑んだ。「それが面倒な時もあるけど。展覧会(*7)で彼が成功したのはもちろんお聞きになってますよね。」
彼がきょとんとしているのに彼女は気づいた。
「もちろん展覧会には行ったのでしょう?」
「ああ、いえ。三日前にパリに着いたばかりなんです。」
彼女はそんな言い訳を気にかけるでもなく続けた: 「彼に何か良い事をするようなエネルギーがあるなんて誰も想像できなかった。でも、こけら落としの日、ムシュー・クリフォードが入ってきた時に展覧会は驚愕に包まれたわ。ふらふらとした、あなたが彼のボタン穴の蘭に喜ぶのと同じような人畜無害な様子と、目の高さに掲示された美しい絵に。」
彼女は声に出さずに思い出し笑いをして、噴水を見た。
「ムシュー・ブーグロー(*8)がおっしゃるには、ムシュー・ジュリアン(*9)はあまりに驚いたので、朦朧とムシュー・クリフォードの手を握っただけで、背中を叩くのを忘れていたんですって! 凄いわよね。あのパパ・ジュリアンが誰かの背中を叩くのを忘れるなんて。」
ヘイスティングスは、彼女は大ブーグロー(*10)と知り合いなんだろうかと思い、尊敬の眼差しを向けた。「あの、失礼ですが」おずおずと尋ねた。「あなたはムシュー・ブーグローの生徒さんですか?」
「私が?」ちょっと驚いて言い、不思議そうに彼を見た。この人は、知り合ってほとんど間がないのに、好きに冗談を言ってもいいと思っているのかしら。
彼の嬉しそうで真面目な表情に戸惑わされた。
「Tiens (あらまあ)、」彼女は考えた、「何て変わった人なんだろう。」
「本当に美術を勉強しているのですか?」
彼女はパラソルの曲がった柄に凭れて、彼を見た。「どうしてそう思うの。」
「あなたがそうおっしゃったから。」
「私をからかっているのね。良い趣味とは言えないわ。」
髪の毛の根元まで赤くなった彼に、混乱して言い留まった。
ややあって、「パリにはどれだけ長く住んでいるの?」と言った。
「三日。」いかめしく彼は答えた。
「でも──でも──、あなたは新入り(*11)じゃないわ! そんなにフランス語が上手じゃないの。」
少し間があって、「本当に新入り?」
「そう。」
彼女は最前までクリフォードが座っていた大理石のベンチに腰掛け、小さな頭の上にパラソルを突き出しながら、彼を見た。
「信じないわよ。」
彼は褒められた気がして、自分は軽蔑されたのだと言うのを少し躊躇した。勇気を奮い起こして、彼女に、自分がどれほど新入りで尻が青いかを説き、それがとても率直だったので、彼女は青い目を大きく開いて、唇をちょっと開けて、この上なく甘く微笑んだ。
「アトリエをまだ見てないの?」
「まだ。」
「モデルも?」
「まだ。」
「変なの。」と厳かに言い、二人は声を立てて笑った。
「ではあなたは、アトリエを見たことが?」
「何百回も。」
「モデルは?」
「何百万回も。」
「それで、ブーグローを知っている?」
「ええ、エンネル、コンスタンとローランス、それと ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやダニャンやコルトワ(*12)、他にもみんなみんな知ってるわ!」
「それでいて、芸術家ではないと。」
「何ですって?」彼女は重々しく言った。「私がそんなことを言ったかしら。」
「教えてくれませんか?」彼は言葉を濁らせた。
はじめ彼女は首を振って微笑みながら彼を見た。突然目を落とし、パラソルで砂利の上に絵を描き始めた。ヘイスティングスもベンチに座った。膝の上にこぶしを乗せ、踊る噴水の姿を見つめた。水兵の格好をして立つ小さな男の子が、ヨットを突きながら泣いていた。「おうちになんて帰らないもん! おうちになんて帰らないもん!」保母はお手上げであった。
「アメリカの子供そっくりだ。」とヘイスティングスは思った。ホームシックの発作が彼を襲った。
いまや船は保母に拿捕され、男の子は港に立っていた。
「ムシュー・ルネ(*13)、こっちに来る気になったら、あなたの船を返します。」
男の子は顔をしかめて後ずさった。
「船を返せって言ってるんだ。」と叫んだ。「それに、僕のことをルネって呼ぶんじゃないやい。僕の名前はランドール(*14)だぞ。知ってるだろ!」
「ハロー!」ヘイスティングスは言った。「──ランドールだって? ──英語じゃないか。」
「僕はアメリカ人だ。」完璧な英語で男の子は宣言した。ヘイスティングスの方を向いて、「でも保母は馬鹿だから僕のことをルネっていうんだ。かあさんがレニー(*15)っていうから──」
そこで男の子はいきり立った保母を突き飛ばし、ヘイスティングスの蔭に逃げ込んだ。ヘイスティングスは笑って男の子の腰を掴み、膝の上に持ち上げた。
「私の国の人だよ。」脇の娘に言った。話している間彼は笑みを絶やさなかったが、喉の所に変な感じがあった。
「僕のヨットに星条旗マークが描いてあるのが見えないの?」ランドールがおねだりした。たしかに保母の腕の下に合衆国の色が頼りなく揺れていた。
「おお、」娘は叫んだ「可愛い子ね。」衝動的にかがみ込んでその子にキスしたが、ランドール坊やはヘイスティングスの腕からもがき出た。そこに向かって躍りかかった保母は怒った目を娘に向けた。
娘は顔を紅潮させ、保母と同じように唇を噛み、彼女を睨みつけた。子供を引き離し、これ見よがしに唇をハンカチでふいてやった。
次にヘイスティングスの方をちらっと見ると、また唇を噛んだ。
「なんて怒りっぽい人なんだろう。アメリカではほとんどの保母は、子供にキスするに人には平伏しちゃうんだが。」
一瞬彼女はパラソルで顔を隠し、一気に閉じるとふてくされた様子で彼を見た。
「彼女が反抗したのが奇妙だというわけ?」
「どうしてそうじゃないのかい」彼は驚いた。
再び素早く探る目で彼を見た。
明るく澄んだ眼差しで彼は微笑むと、繰り返した。「どうしてそうじゃないのかい。」
「ほんとにあなたっておかしな人ね。」頭を下げながらぶつぶつ言った。
「どうして。」
が、彼女は答えず、黙ったまま座り、パラソルについた埃が描く曲線や円をなぞっていた。しばらくして彼は言った。「私は若い人たちがとても自由にしているのを見るのが好きでね。フランス人は私たちとはまるで違うと考えていた。アメリカでは、少なくとも私の住むミルブルックでは女の子達はみな自由にしている。一人で外出して、一人で友達を迎えている。もしかしてここではそうじゃないのか、だったら寂しいことだと思っていたんです。でも、本当のところがわかり、誤解をしていたんだとわかって嬉しいんですよ。」
彼女は目を上げ、彼の目をじっと見た。
彼は嬉しそうに続けた──「ここに座っていたら、沢山の綺麗な娘さんが一人であそこのテラスを歩いているのが見えたんです。あなたもまた一人だ。私はフランス人の習慣を知らないから教えて欲しいのだけれど、──あなたは付き添いなしで一人で劇場に行ってもいいのですか。」
長い時間彼女は彼の顔をじろじろ見たが、微笑を振るわせて言った 「どうして私に聞くの?」
「あなたは知っているはずだから、もちろん。」明るく言った。
「ええ、」気のない風に答えた。「知っているけど。」
彼は答えを待った。が、答えはなく、誤解されたのだと決め込んだ。
「ちょっと知り合ったのにつけ込んで私が何かしようとしていると思っておられないならよいのですが。──実際、奇妙な話ですが、私はあなたの名前も知らないのです。ミスタ・クリフォードが私を紹介したときには、私の名前しか出ませんでしたから。これがフランスの習慣なのですか。」
「それはラテン区の習慣ね。」 彼女の目には妙な光があり、突然熱を込めて語りだした。
「あのねえ、ムシュー・ヘイスティングス、ラテン区では誰でも un peu sans gêne (遠慮というのがほとんどない)のよ。私たちはボヘミアンだし、エチケットだとか礼儀だとかはお門違いだわ。だからね、ムシュー・クリフォードはとても気軽にあなたを私に紹介したし、その後は私たちを二人きりにしちゃったわ。──それは単に私が彼の友達だからなの。私にはラテン区に友達がたくさんいて、みんながみんなのことをよく知っている──私は美術を勉強してはいないけれど、でも──でも、」
「でも、何?」頭がこんがらがってこう言った。
「教えません。──秘密です。」あいまいな微笑を浮かべて彼女は言った。両方の頬がビンク色に燃え、目が輝いていた。
次の瞬間、彼女は下を向いた。「ムシュー・クリフォードとはとても仲がいいの?」
「そうでも。」
ややあって彼女は彼の方を向いた。重苦しい感じで、少し顔色が悪かった。
「私の名前はヴァレンティーヌ──ヴァレンティーヌ・ティソ(*16)。こ──こんなにちょっと知り合いになっただけの人にお願いしていいか分からないけど。」
「おお、」彼は叫んだ。「喜んで承りますよ。」
「一つだけね、」もの静かに言った。「それ以上はないの。ムシュー・クリフォードに私のことを話さないと約束して。私のことを誰にも話さないと。」
「誓って。」大変戸惑いながら言った。
彼女は神経質に笑った。「私は謎のままでいたいのよ。女の気まぐれね。」
「でも、私は願って、望んでいたんです。ムシュー・クリフォードに私を連れて行っていいと言ってくれると。あなたの家まで。」
「わ──私の家に!」彼女は返した。
「あなたの住んでいる所、です。そこでご家族と会わせてくれると。」
娘の顔色が急に変わり、彼はショックを受けた。
「申し訳ありません。」叫んだ。「あなたを傷つけてしまった。」
閃光のように、彼女は彼のことを理解した。彼女は女だからだ。
「私の両親は死んだの。」彼女は言った。
しばらくして彼は言葉を繋いだ。とても優しく。
「どうか私を家にご招待していただけますよう、伏してお願いいたします。そういう習慣はありますか。」
「駄目です。」彼を見上げながら答えた。「ごめんなさいね、そうできるといいんだけど。信じてほしい、駄目なの。」
彼は真面目そうに頭を下げた。なんとなく居づらそうだった。
「そうしたくない、ってわけじゃないのよ。あ──あなたのことは好きだわ。私にとても親切にしてくれて。」
「親切?」彼は叫んだ。驚きかつ戸惑った。
「私はあなたが好き。」彼女はゆっくりと話した。「あなたが望めばまたいつか会えるわ。」
「友達の家で?」
「いえ。友達の家ではなくて。」
「どこ?」
「ここで。」彼女の目は反抗的だった。
「なんと、」彼は叫んだ。「パリに住むあなたがたのものの見方は私たちよりもリベラルなんだ。」
不思議そうに彼を見て、
「そう。私たちは本当にボヘミアンなのよ。」
「とても魅力的だと思う。」彼は宣言した。
「ねえ、私たちは社会の中で最高の所にいることになるの。」テラスの上の方の堂々たる階層に並ぶ亡き女王達の像の方に美しく手を延ばし、おずおずと話しだした。
彼は嬉しそうに彼女を見、彼女は、ちょっとした無邪気な冗談が通じたことを喜んだ。
「確かに、」微笑んで言った。「私には良い付き添いがいるわね。だってご覧なさいよ、私たちは神様そのものに見守られているじゃない。台座の上には、アポロン、ユノ、ヴェヌス、」 手袋をはめた小さな指で数えながら、「ケレス、ヘラクレス、次は──信じようとしてもうまく行かないのだけれど──。」
ヘイスティングスは振り向いて翼をつけた神を見上げた。その蔭に二人は座っていたのだ。
「ああ、愛の神様だね。」
「さあ、新入りだ。」自分のイーゼルに寄りかかってだるそうにラファットは言い、友人である ボールズ(*1)にこう言った「この新入り君は大変優しく青々としてうまそうだから、サラダボールに落ちるとしたら天がお導きになってくれるな。」
「田舎の田子作(*2)か?」ボールズは聞きながら、壊れたパレットナイフを使って背景を塗り、片目でその効果を眺め満足した。
「ああ、どっかのたるい田舎町(*3)かオシュコシュ(*4)って所だ。どうやって彼がヒナギクの間で育ち牛から逃げてたか、神のみぞ知るだな!」
ボールズは親指で習作の輪郭を横切るようになぞり、曰く「若干の空気感をもりこ」んだ。モデルを睨んで、パイプを引き寄せ消えているのを見ると、隣の椅子の背でマッチをすって火をつけた。
「彼の名前は、」パンのかけらを帽子掛けに投げつけながらラファットは続けた「彼の名前はヘイスティングス。イチゴ野郎だな。世間知らずな男だ。」──かく言う ラファット氏の顔はこの惑星に関する万巻の知識を披瀝していた。「初めての夜遊びに出る処女猫並みだぞ。」
パイプに火を点けるのに成功しつつあったボールズは、描きかけの絵の反対側の縁をまた親指でなぞりながら「ああ」と言った。
「そうだよ、」友人が続けて言った。「でだなあ、想像できるか、彼はここでも故郷のちっぽけな田舎屋敷と同じように物事が運んでると思ってるみたいなんだな。綺麗な娘が一人で街を歩いていたといい、それが如何に思慮深いことで、アメリカにおいてフランス人の親達が如何に誤解されているか語り、彼自身としてはフランスの女の子達もアメリカ娘と同じように陽気だということがわかったというんだ。もっとも、フランスの女の子といっても一人しか知らないと告白してたがね。街を一人で歩いていたり、学生と連れ立っていたりするようなご婦人がたがどういった手合いの連中かを指摘して、考え直させてやろうとしたんだが、どうしようもなく馬鹿なのか、それともどうしようもなく無邪気なのか、全然分かってくれない。そこでストレートに言ってやったんだ。そうしたら、あなたこそ心卑しき愚者だと言って、すたすた行ってしまった。」
「靴の片方でも食らわせてやったのか?」たるそうに興味をみせてボールズが聞いた。
「まさか。」
「おまえのことを心卑しき愚者だといったんだろう。」
「彼は正しいよ。」イーゼルの蔭からクリフォードが言った。
「な──なんだと!」ラファットは気色ばんで詰問した。
「そうだろ」クリフォードは答えた。
「誰かさんにたしなめられたのかな? あんたに関係のあることかね?」ボールズは嘲笑したが、クリフォードが体を回して彼を見た時は、平常心を失いかけていた。
「ああ、関係があるね。」ゆっくりと答えた。
しばらくの間誰も言葉を継がなかった。
そこで、クリフォードは歌い始めた「そうだよ、さあ、ヘイスティングス!」
ヘイスティングスはイーゼルを置いてやってくると、たまげた様のラファットに頭を下げた。
「この男は君に同意しかねているんだな。君はどんな時でもこの男に蹴りを入れたいのだし、それがもう一人の方を押さえ込んでおきたいと僕が思う理由なんだ、と言っておきたくてね。
ヘイスティングスは狼狽して言った。「そんな、私は彼の意見に同意しないだけですよ、それ以上のことではありません。」
「当然だね」とクリフォードは言って、ヘイスティングスに腕を回すとぶらぶらと連れ回し、自分の友達に紹介して歩いた。新入りたち全員の嫉妬深いまなこが注がれ、アトリエの中にはある理解が広がった。ヘイスティングスは新入りほやほやの下働き要員ではあるものの、既に、古くから畏敬の対象であった、真に偉大な、かの特権集団の一員であるのだと。
休憩は終わった。モデルは彼の持ち場に戻り、作業が、歌と叫びと耳をつんざく雑音のコーラスとなって続いた。これらの物音は、美を探求せんとする学生たちが立てたものであった。
五時の鐘が鳴り、──モデルはあくびをし、背伸びをして、ズボンを履いた。がやがやした騒ぎが六つのアトリエからホールに、街路にと降りて行った。十分後、ヘイスティングスは、自分がモンルージュ市電の先頭に乗っていることに気づいた。間もなくクリフォードもやってきた。
彼らはゲイ・リュサック通り(*6)まで下った。
「僕はいつもここで降りるんだ」クリフォードが言った。「リュクサンブールを歩いて行くのが好きなんだよ。」
「それはそれとして、」ヘイスティングスが言った。「君を訪ねるにはどうしたらいいのかい、どこに住んでいるか知らないのに。」
「え、君の所の裏だぜ。」
「なんと──アーモンドの木があってクロウタドリが住んでいる、あの庭のアトリエかい──。」
「当たり。」クリフォードが言った。「友達のエリオットと住んでいる。」
ヘイスティングスはぽかんとした顔つきで、二人のアメリカ人芸術家について、スージー・バイン嬢がどのように描写したかを考えた。
クリフォードは続けた。「来る時はそ──そう知らせてくれるといいな。ちゃ──ちゃんといるようにするから」。なんだかとって付けたかのように結んだ。
「私は、そこで君の友人のモデルの誰と顔を合わせても気にしないつもりだよ。」ヘイスティングスは微笑んだ。「まあ──僕の考え方は多少堅物で、──清教徒的な、と君は言うかも知れないな。そんなのを喜ぶつもりもないし、そういう時の振る舞い方を知ることもないだろうし。」
「おお、そういうことね。」クリフォードは言った。だが大変心のこもった様子でこう加えた。「──間違いなく僕らは友達になれる。僕にも僕の仲間にも君は同意しないだろうけれど。でも君はセヴァーンとセルビー(*7)が好きになるよ。ふ──二人とも君に似ているからね、親友だ。」
少し間を置いて彼は続けた。「何か他に言うことがあったな。そうそう、先週リュクサンブールで紹介したよね、ヴァレンティーヌに──。」
ヘイスティングスは叫んだ「何も言うな!」顔で笑いながら、「彼女のことは何も言ってはいけないよ!」
「どうして──」
「駄目。言わない。」うきうきとした口調で、「頼むよ、君の名誉に掛けて、彼女のことは何も言わないと約束してくれ。僕が許可するまで、頼むから!」
「約束する。」クリフォードはあきれて言った。
「彼女はチャーミングだね。あの後楽しくおしゃべりしたんだ。私を会わせてくれてありがたかった。でも、許可するまで彼女についてこれ以上なにも言わないで欲しいんだ。」
「おお」クリフォードは口ごもった。
「約束だよ。」にこにこしながら彼は門の方に引き返して行った。
クリフォードはぶらぶらと街路を渡って、ツタで覆われた路地を通り抜け、自分のアトリエの庭に入った。
手探りでアトリエの鍵を掴み、呟いた。「まさか、いや彼に限ってそんなことはない!」
玄関ホールに入り、ドアに鍵を差し込みながら、鏡板にかかった二枚のカードを見つめた。
FOXHALL CLIFFORD
RICHARD OSBORNE ELLIOTT
(フォックスホール・クリフォード
リチャード・オズボーン・エリオット)
「まったく、一体彼女の何を話さないでいて欲しいと言うんだろう。」
彼はドアを開け、すり寄ってくる二匹の茶ぶちのブルドッグをがっかりさせながらソファに深く腰を下ろした。
窓の近くにはエリオットが座り、煙草を吹かしては木炭でスケッチを描いていた。
「やあ」と彼は見やりもしないで言った。
クリフォードは彼の頭の後ろをぼんやり見つめ、呟いた。「心配だなあ、心配だ。あの男はあまりにも無邪気だから。ねえエリオット、」と最後に言って、「ヘイスティングスっていうんだが、例の虎猫バイラム老師が奴のことを話しておこうとこの辺にやってきて、君がコレット(*8)を衣装簞笥に隠さなければならなかった日があったろう。」
「うん、それで?」
「ああ、何でもないんだ。あいつは朴念仁だ。」
「そうだな」気のない風にエリオットが言った。
「そうだよなあ」クリフォードは答えをねだった。
「そうなんだが、これからつらい目をみることになるぞ。いくつかの幻想から醒めると。」
「目を覚まさせる奴らに更なる恥辱こそあれ!」
「ああ、──彼がここにやってくるまで待とうじゃないか。もちろん、いつになるかは知らんが──」
自分は高潔でございますという風に、クリフォードはシガーの火を点けた。
「話は終わってないんだよ、」彼は語った。「ここに来る時は必ず予め連絡をくれと頼んだんだ。そうすれば君が大いにやろうとしているかもしれない乱痴気騒ぎを、とにかく延期することができるからね。」
「何だと!」エリオットは憤慨して叫んだ。「君が彼を焚き付けているんじゃないか。」
「それは違う」クリフォードはにやついた。真面目な顔になって、「僕はここでは彼にとってどんな面倒も起きて欲しくないんだよ。あいつは堅物で、哀れ僕らはああはなれない。」
「僕はただただ君と生きてくさ──。」自慢げにエリオットが言った。
「聞けよ!」もう一方が叫んだ。「僕は大層なやりかたで厄介事に自分から足を突っ込んだんだよ。僕がやっちゃったことを知ってるか? そうなんだよ、あいつと街で初めて顔を合わせたとき、──いや、街というかリュクサンブールでだな、あいつをヴァレンティーヌに紹介したんだ。」
「彼は嫌がったかい?」
「信じてくれ、」おごそかにクリフォードが言った。「かくも純朴なるヘイスティングスはヴァレンティーヌが──その──その──誠実なるヴァレンティーヌであることを露程も疑わないんだ。自分が道徳的なたしなみの良さの美しき例示としてやってきたようにだな。道徳なんてのが象よりも珍しいあの区でだ。ごろつきラファットとちんぴらボールズとの会話を聞くだけで僕の目は十分開かれたね。いいかい、ヘイスティングスは立派な奴だよ、健康で気高い若者だ。田舎の小さな村に生まれ、サロンは地獄に向かう乗り継ぎ駅だと思いながら育ってきたんだ。サロンなんてのは──女にとって──」
「それで?」エリオットが促した。
「それで、」クリフォードは言った。「彼の思う危険な女というのは多分絵に描いたイゼベル(*9)なんだろう。」
「多分そうなんだろう。」ともう一人が答えた。
「立派な奴だよ!」クリフォードが言った。「彼が『この世は我が心のごとく善良にして純粋なり』と宣うなら、我輩も彼は正しいと宣言してやる。」
煙草を吸いながら木炭の欠片でスケッチをしていたエリオットは、スケッチの方に向き直って言った。「彼はリチャード・オズボーン・E氏から悲観論を耳にすることもないんだろうな。」
「僕にとって彼はレッスンの一つだよ。」と言ってクリフォードは良い香りのする小さな手紙を開いた。それは薔薇色の便箋に書いてあり、目の前のテーブルに載っていた。
彼は読みながら微笑み、口笛で『ミス・エリエット』(*10)の旋律を二小節ばかり吹くと、腰を下ろしてとっておきのクリーム色の簀の目の便箋に返事を書き出した。書き終えた手紙を封印し、ステッキをとって口笛を吹きながら二度三度とアトリエを歩き回った。
「出かけるのか。」振り向きもせずもう一人が聞いた。
「ああ。」と言いながら少しの間エリオットの肩の所に目を留め、彼がパンを使ってスケッチから明るい部分を拭うのを見つめた。
「明日は日曜だな。」しばらくして言った。
「えっ?」エリオットが聞いた。
「コレットを見かけたかい。」
「いや。今晩会うだろう。彼女とローダンとジャクリーンがブーラン(*11)の所に来るんだよ。君とセシルも来るんだろ?」
「ううん、行かない。」クリフォードは答えた。「今日はセシルは家で夕食を食べるんだ。僕は──僕は──ミニョンに行こうかと思っている。」
エリオットは反感を込めた目で彼を見た。
「ラ・ロシュ(*12)の準備なら全部君一人でできるじゃないか」 エリオットの目から視線をそらしてこう続けた。
「おいおい、どういうつもりだ?」
「別に」クリフォードは抵抗した。
「言わなくてもいいさ。」友人はあざけった。「ブーランのところで夕食会がある時には、仲間達はミニョンに飛んで行かないさ。今度は誰なんだ? でもなあ、そんな事を聞くつもりはないや。なんの役に立つ?」声を荒げ、パイプでテーブルを叩いた。「いったい君のやる事なす事全部跡を付け回して、なんの役に立つんだ。セシルはどう言うだろう。おおそうだよ、あの娘はどう言うかな? 君っていえば二ヶ月もスティディでいられないなんて、可哀想だ、そうだよ、ああそうだ! ラテン区は寛大さ、でも君はそれに甘えすぎている。僕にもだ!」
やがて、彼は頭に載せた帽子をぐちゃぐちゃにしながら立ち上がり、ドアに向かった。
「どうやったら君のそのふざけた態度を我慢できるのか、天のみぞ知るだ。でもみんなも、僕も我慢をしている。もし僕がセシルか、他の誰か君が粉をかけまくってきた綺麗な馬鹿娘なら、まあ人間なんてそんなものだから、君はこれからも粉をかけて歩くんだろうな、ともかく、もし僕がセシルだったとしたら、君に一発平手打ちをくれてやる! 僕はこれからブーランに行って、例のごとく君のために言い訳を並べ、色事を手配してくるさ。君が旧大陸で誰とどうなろうと知った事じゃないが、でもだ、アトリエのしゃれこうべにかけて言うぞ! もし君が明日片手にスケッチ用具を、片手にセシルを連れて現れなければ、もし君がまともな姿で現れなければ、君とはこれで終わり、あとは野となれ山となれだ。おやすみ。」
クリフォードはありったけの力を振り絞って明るく微笑みながらおやすみをいい、両目をドアに落とした。懐中時計を取り出して、エリオットが消えるのを十分間待ち、「ああ、ああ、どうしてこうなってしまうんだ」と呟きながら、ベルを鳴らしてコンセルジュを呼んだ。
「アルフレッド」呼び出しに応えて目つきの鋭い人物が現れると、彼は言った。「身だしなみを整えなさい。アルフレッド、木靴を革靴に履き替えなさい。一番上等な帽子を被って、この手紙をドラゴン通り(*13)の大きな白い家まで届けなさい。返事はありません、mon petit (かわいい)アルフレッドよ。」
コンセルジュは、用事を嫌がる気持ちとクリフォード氏への愛着とが混ざったように鼻を鳴らして出て行った。次にこの若き仲間は、細心の注意を払って衣装箪笥の中を、自分のもエリオットのも見境なくあさり、きれいな衣装をつけた。それには時間がかかり、合間合間にバンジョーを弾いたり、ブルドッグの機嫌をとろうと、四つ足全部でじゃれさせたりした。「あと二時間ある」と彼は考えた。エリオットの絹の履物を拝借し、玉にして犬と遊んだ後で、それを履くことにした。シガレットに火をつけ、燕尾服を点検した。その中に入っていた四枚のハンカチーフ、扇、彼の腕の丈ほどあるしわくちゃな手袋を取り出してから、その服は我が魅力にéclat(光輝)を加えるにはふさわしくないと判断して、他に何かないかと頭をひねった。エリオットはやせ過ぎだし、そもそも、彼のコートは鍵がないと取り出せない。ローダンも情けないことでは自分と似たり寄ったりだろう。ヘイスティングス! ヘイスティングスは立派な男だ! しかしスモーキングジャケットを羽織ってぶらぶらとヘイスティングスの家にいってみると、彼は一時間以上前に出かけたままだという。
「あーあ、一体全体どこに行っちゃったんだよ!」クリフォードはうめいて街路を見下ろした。
メイドも行き先を知らなかったので、クリフォードは彼女に魅惑の微笑みを授け、だるそうにアトリエに帰った。
ヘイスティングスはそんなに遠くにいたのではなかった。リュクサンブール公園はノートルダム・デ・シャン通りから歩いて五分もかからない。彼はそこの翼ある神の影に座っていた。もう小一時間もそこに座って、埃に穴をあけたり、北テラスから噴水に続く階段に目をやったりしていた。かすむムードン(*14)丘の上に紫色の陽が傾いていた。西の空低く、いつ筋もの雲がバラのようなタッチでたなびき、靄をついて遠くの癈兵院(*15)のドームがオパールのように燃えていた。宮殿の裏、空高く直立する煙突から紫の煙が上り、陽の光と交差すると一本のくすぶる火に変わった。暗がり行く栗の葉影の上高く、サン・シュルピス(*16)の二つの尖塔がそそり立ち、影をいや増しに濃くしていた。
どこか近くの茂みでクロウタドリが眠たげに歌い、行ったり来たりする鳩たちの羽ばたきが、ゆるやかにささやく風となっていた。宮殿の窓はもう暗くなり、北テラスの上では、パンテオンのドームが鈍い残照をたゆたわせていた。空にはバルハラ(*17)が燃え、地にはテラスに沿って、大理石の女王の隊列が西方を監視していた。
宮殿北側のファサードに沿ってのびる長い歩道の終わりの辺から、バスの騒音や街の喧噪が聞こえてきた。ヘイスティングスは宮殿の時計を見た。六時。自分の時計も同じ時刻をさしていた。彼はもう一度砂利に穴を掘りたくなった。オデオン(*18)と噴水の間は人並みがひきもきらず流れていた。銀のバックルをつけた黒衣の僧侶たち、だらけた兵隊たちや威勢のいい兵隊たち、帽子屋の名前入りの女性用帽子なんてかぶらないイカした娘たち、黒い書類入れと背高帽の学生たち、ベレー帽とステッキを持った学生たち、新入りたち、軽い足取りの警官たち、トルコ石と銀の交響曲、騎兵たちのジャラジャラいう音、小鬼の頭のようにバランスをとっているバスケットが落ちないかなんて気にせずにだべってはスキップする埃と粉にまみれた料理人の小僧たち、そして、やせこけた浮浪者、ふらふら歩きながら肩をすぼめ小さな目をきょろきょろさせて路上の吸い殻を探しているパリの放浪者; こういった全てが絶え間ない流れとなって噴水の広場を横切り、オデオンを通って市内に向かっていった。オデオンの長いアーケードにはガス灯がともり始め、明かりが揺らめいた。憂鬱なサン・シュルピスの鐘が時を告げ、宮殿の時計塔が照らし出された。そこに急ぎ足で砂利を踏みならす音が聞こえ、ヘイスティングスは頭を上げた。
「なんて遅くなったんだ」彼は言ったが、その声はしゃがれていて、どれほど彼が待ち続けたかは、紅くなった顔色からわずかに伺えるだけだった。
「本当に──抜けられなかったのよ。もううんざり──ほんの──ほんのちょっとの間しか居られないわ。」
彼女は彼の横に座って、ちらりと肩越しに台座に乗る神を見た。
「ああ嫌だ、クピドがまだあんなところで邪魔してるの?」
「翼と弓もだ」ヘイスティングスは、彼女が座ったのに気を止めずに言った。
「翼か、」彼女は呟いた。「ああそうだわ、──彼は遊びに飽きてしまうと飛んでいってしまう。そのための翼ね。翼なんてことを思いついたのはもちろん男の人。さもなきゃクピドなんて捨てられちゃっていたでしょう。」
「君もそう思う?」
「Ma foi (そうねえ)、男の人たちが考えることよね。」
「女の人たちは?」
「おお、」小さな頭をちょっと振って彼女は言った 「何の話をしようとしていたのか忘れちゃった。」
「愛について話し合おうとしていた。」とヘイスティングス。
「私は違う。」娘は言った。大理石の神を見上げて、「こんな神様、私にはどうだっていい。どうやって弓を射るかなんてクピドが知るもんですか。絶対に知らないわ。彼は臆病者よ。黄昏時の殺し屋みたいに忍びよってきたりして。私は臆病さなんて認めない。」そう言い放って石像に背を向けた。
「私は、」静かにヘイスティングスは言った。「彼はフェアに弓を射るのだと思う。うん、そうだよ。警告さえ与えてくれる。」
「経験者は語る、ってこと? ムシュー・ヘイスティングス?」
彼はまっすぐ彼女の目を見て言った。「今も私に警告している。」
「じゃ、警告されていればいいわ」彼女はヒステリックに笑いながら叫んだ。話の間一旦外していた手袋を、今度は慎重にはめ直した。手袋を付け終えると、宮殿の時計をちらりと見て言った。「おお、あなた、なんて遅くなっちゃったの。」傘を丸めては広げ、最後に彼を見た。
「いや、」彼は言った。「私は彼の警告を気にしないつもりだ。」
「おお、あなた、」彼女は再びため息をついた。「まだあの退屈な石像の話を!」彼の顔をちらっと盗み見て、「も──もしかしてあなた、恋をしているんじゃないの。」
「知るもんか」彼はぼそぼそと言った。「そうだと思う。」
彼女はさっと頭を上げ、「それで嬉しそうに見えるのね。」と言った。だが目と目が合った時、彼女は唇を噛んで震えていた。彼女は突然何かにおびえ、急に立ち上がって、凝り行く影をじっと見つめた。
「寒いのかい?」彼は言ったが、彼女はこう答えただけだった。「ああ、あなた、ああ、あなた、もう遅いの、──本当に遅いの、──行かなくちゃ。おやすみなさい。」
彼女は手袋を付けた手をつかの間彼に握らせると、はっとしてひっこめた。
「どうしたの?」彼は強く聞いた「怖いの?」
彼女はよそよそしく彼を見た。
「いえ、──いえ──、怖いんじゃない。──あなたは私にとってとても良い人──。」
「一体全体、」声を張り上げて、「君にとって良い人というのはどういう意味なんだ! それを三回は聞いたと思うが、私にはわからない。」
そこに宮殿の衛兵所から太鼓の音が聞こえ、彼の言葉は途切れた。「聞いて」 彼女は囁いた。「近づいてくるわ、遅いの、本当に遅いのよ!」
太鼓の響きはずんずん近づいてきた。東テラスの上の空を太鼓奏者の影が過った。その帯と銃剣に薄れ行く残照が一瞬ともった。太鼓の音を反響させながら、彼は暗がりへと通り過ぎて行った。太鼓の響きは東テラスに沿ってかすかになって行き、彼が青銅のライオンの脇の並木道を通り過ぎ、西テラスの歩道へと向きを変えると、少しずつ甲高く、鋭くなっていった。太鼓の音はどんどん大きくなり、宮殿の灰色の壁にぶつかっては辺りに響き渡った。今や彼は二人の前にぬっと現れた。凝り行く薄暮の中、太鼓奏者の赤いズボンは鈍い点と見え、肩には太鼓と銃剣の真鍮があった。彼が通り過ぎる時、太鼓の音が二人の耳をつんざいた。彼は並木の小径を遠ざかって行き、雑嚢の上で小さなブリキのコップが光った。番兵たちが単調に「閉園! 閉園!(*19)」と呼び始め、トゥルノン(*20)通りの兵舎でラッパが鳴らされた。
「閉園! 閉園!」
「おやすみなさい」彼女は囁いた。「今夜は一人で帰らないといけないの。」
彼は彼女が北テラスに着くまで目で追った。肩に手が置かれ、退出を促す銃剣の鈍い光に警告されるまで大理石の椅子に座ったままだった。
彼女は木立を抜け、メディシス通りを横切って、大通り(*21)に出た。角の店でスミレを一束買い、大通りをエコール(*22)通りまで歩いた。馬車が一台ブーランの店の前に停まっており、そこからエリオットに手助けされて可愛い娘が一人飛び降りてきた。
「ヴァレンティーヌ!」娘は叫んだ「一緒においでよ!」
「無理。」ちょっと立ち止まって彼女は言った。「──ミニョンで待ち合わせなの。」
「ヴィクトール(*23)じゃないの?」娘は笑いながら叫んだ。だが、彼女は少し震えながら通り過ぎ、頷いておやすみを言った。そこからサン・ジェルマン(*24)大通りに向かい、カフェ・クリューニー(*25)の前に座って一緒にやろうよと彼女を呼ぶ陽気な一団から逃れるために足を速めた。レストラン・ミニョンの扉の前には、ボタンだらけの服を着た炭のような黒人が立っていた。彼女が絨毯の引かれた階段に足を載せると、彼はとんがり帽子をとった。
「ユージーン(*26)をよこして。」受付で彼女は言い、玄関ホールを進んでダイニングルームの右手にある一列に並んだ数字扉の前で立ち止まった。通りかかったウェイターにユージーンを呼ぶように繰り返すと、音もなく彼は現れ、静かに挨拶した 「マダム」。
「誰が来ているの?」
「私室にはどなたも、マダム。ホールには、マダム・マデロンとムシュー・ゲイ、ムシュー・ド・クラマール、ムシュー・クリソン、ムシュー・マリー(*27)とお仲間たちでございます。」彼は周りを見回し、再び頭を下げて「ムシューはマダムを半時間も前からお待ちです」とつぶやき、六番の番号がついた扉をノックした。
クリフォードが扉を開け、娘は中に入った。
ギャルソンは彼女に頭を下げ、「ムシューは呼んでくださいますかね」と囁いて立ち去った。
彼は彼女がジャケットを脱ぐのを手伝い、帽子と傘を受け取った。彼女は小さなテーブルに、クリフォードと向き合って座り、前にかがむと、両肘をついて微笑みながら彼の顔を見た。
「ここで何をしているの?」彼女は問いただした。
「待っている」愛情を込めて彼は答えた。
彼女は振り返り、わずかな間、鏡に向かって身だしなみをチェックした。大きな青い目、カールしている髪、良く通った鼻筋と短く反った唇、鏡の中でこれらをさっと見ると、奥の方に映る綺麗な頚とうなじを見た。「私はこうして化粧鏡に背を向けている。」彼女は言い、再び前にかがんだ。「あなたはここで何をしているの?」
「君を待っている」微かにこまった様子でクリフォードは繰り返した。
「私と、セシルもでしょう。」
「今は違う、ヴァレンティーヌ──」
「知ってるかしら、」彼女は静かに言った 「私はあなたの身の持ち方が嫌いだと。」
いささか狼狽した彼は、混乱を避けようとベルを鳴らし、ユージーンを呼んだ。
スープはビスクだった。葡萄酒はポマリー(*28)、引き続き二人の前に型通りコース料理が現れ、最後にユージーンはコーヒーを持ってきた。食器が全て下げられると、テーブルの上には小さな銀のランプだけが残った。
「ヴェレンティーヌ、」喫煙の許可をもらうと、クリフォードは言った。「それってヴォードヴィルか、エルドラドか──両方か。それともヌーヴォー・シルク(*29)か、それとも──」
「それはここ。」ヴァレンティーヌは言った。
「良かった、」彼はずいぶん褒められたつもりで言った。「もしかして君を楽しませてないんじゃないかと思ってさ──。」
「ああ、そうね。あなたはエルドラドよりおかしな人ですものね。」
「だからさ、からかわないでくれよ、ヴァレンティーヌ。君はいつも僕をからかうし、ほら、──よく言うだろ、その──良き笑いは人を殺す──って。」
「何?」
「そ──、その──愛とかなんとか。」
彼女は涙が出る程大笑いした。「Tiens (まあ)」彼女は叫んだ「それは死ぬわね!」
不安を募らせながらクリフォードは彼女を見た。
「どうして私が来たかわかる?」彼女は言った。
「いや、」不安そうに彼は答えた 「判らない。」
「あなたが私に色目を使いだしてどれだけになる?」
「そうだね、」彼はいさかか驚いて認めた、「──そう言うなら、──一年くらいだね。」
「一年だと思うわ。飽きてない?」
彼は答えなかった。
「判らない? 私はあなたがとても好きで、こ──恋に落ちるくらいなのよ。」彼女は言った。「判らない? 私たちはあまりにも良い同志(*30)だから、あまりにも親しい友達だから、そうすることができないって。 もしそうじゃなくて私たちが、──私があなたの過去を知らないとでも思っているの? ムシュー・クリフォード。」
「そ、──そんなに嫌みを言わないでくれ」彼は呻いた。「そんなに意地悪くしないでくれ、ヴァレンティーヌ。」
「嫌みなんて言ってない。私は親切にしているの。すごく親切に──あなたと、セシルに。」
「セシルには飽きた。」
「彼女もそうであって欲しいわね」娘は言った。「彼女にはもっと良い将来がふさわしいもの。ねえ、あなたはラテン区で反感を買っているって知ってる? 浮気な奴だ、救いがたい程──最悪に浮気な奴で、夏の夜の色気違いのほうが余程真面目だと。可哀想なセシル!」
クリフォードがあまりに居心地悪そうにしているので、彼女はもっと親切に話した。
「私はあなたが好き。あなたはそれを知っている。誰もが知っている。あなたはここでは甘やかされた子供。あなたが何もしても、みんな許してくれる。でも、気まぐれに誰かを犠牲にしてはいけないの。」
「気まぐれとは!」彼は叫んだ。「おお神よ、ラテン区の娘らが移り気ではないとしたら──」
「考えないで、──そんなことは考えないで! あなたは必ずしも裁かれなくてもいい──男のあなたは。どうしてあなたは今夜ここにいるの?」彼女は叫んだ。「そのわけを教えるわ! ムシューはちょっとしたメモを受け取る; 彼はちょっとした返事を出す; 彼は征服者の衣装をまとい──」
「僕は違う」、真っ赤になってクリフォードは言った。
「どこが違うものですか。」幽かに微笑んで彼女は反論した。再び静かな声で、「私はあなたの支配下にある。でも判っている。私は一人の友人の支配下にあるの。私はそれをあなたに知らせようと思ってここに来た、そしてね、あなたに、そ──その、お──お願いがあって。」
クリフォードは黙ったまま目を開けた。
「私、と──とても悩んでいることがあって。ムシュー・ヘイスティングスのことで。」
「え?」クリフォードは少し驚いて言った。
「お願いしたいのは、」低い声で彼女は続けた 「お願いしたいのは、あの人の前で私の話をしたくなるようなことがあっても、──言わないで、──言わないで──」
「きっと君のことは黙っている。」彼は静かに言った。
「他の人が話すのも止められる?」
「その場にいたらできると思う。なぜだか教えてくれる?」
「フェアじゃない」彼女はつぶやいた 「あなたはあの人が私をどう──どう考えているか知っている。──あの人が他の女性みんなについて考えているのと同じ。あなたは知っているでしょう、あの人があなたや他の人たちとどれだけ違っているか。私はあんな人に、──あんな男の人に会ったことがない。ムシュー・ヘイスティングスのような人に。」
彼はシガレットが消えたのにも気づかなかった。
「私はなんだかあの人が怖いの。──あの人が知ってしまうのが──ラテン区で私たちがどんな風にしているのかを。ああ、あの人が知らないでいてくれたら! あの人が私に背を向けて、もう話をしてくれなくなってしまうなんて嫌。あなた──あなたや他の人たちには私に起きてしまったことがわからないでしょう。私にはあの人が信じられなかった、──あの人があんなに良い人で、──気高いなんて、私には信じられなかった。あまりに早くあの人が知ってしまいませんように。いつかは──あの人にも判ってしまうでしょう、あの人自身のために。そうしたら、あの人は私に背を向けて行ってしまう。どうして!」彼女は激情し声を上げた「どうしてあの人は私から去って、あなたからは去らないの?」
クリフォードはたいへんばつの悪い思いをして、シガレットに目を落とした。
娘は真っ白な顔をして立ち上がった。「あの人はあなたの友達──あなたにはあの人に警告する権利がある。」
「彼は僕の友達だ」やっと彼は言った。
二人は黙ったままお互いを見た。
そして彼女は叫んだ「私の一番神聖なものにかけて、あなたはあの人に警告する必要はないわ!」
「その言葉を信じよう。」彼は愛想良く言った。
ヘイスティングスにとって、その月は矢のように過ぎて行き、はっきりとした印象はほとんど何も残らなかった。それでも心に残ったものがいくつかあった。一つはつらい記憶で、カプチネス大通り(*1)でのブレイドン氏との会合であった。大変目立つ若い男が一緒で、その笑い声に彼は意気消沈し、ようやくボック(*2)から逃げ出せた時彼は、大通り中から見られ、ブレイドンの会社に値踏みされているような気がした。後になって、ブレイドン氏が連れて来た若者を印象だけで判断してしまったことに彼は顔を赤らめた。惨めな気持ちで宿に帰ったが、それはかつてバイン嬢が克服しなさいとアドヴァイスしてくれたホームシックに他ならなかった。
もう一つの記憶も同じくらい鮮明だった。ある土曜日の朝、孤独を感じた彼は市内を放浪し、サン・ラザール駅(*3)にたどり着いた。朝食には早かったが、駅のホテル(*4)に入り、窓の側の席をとった。注文しようと振り向くと、足早に通路を通り抜け、彼の頭にぶつかった男がいた。謝罪を期待して彼は目を上げたが、かわりに肩をたたかれ、豪快な声で呼びかけられた、「おおい、一体全体ここで何をしてるんだ、親友」それはローダンだった。彼はヘイスティングスをがっしり掴み、一緒に来いと言って連れ出した。少しは抵抗したものの、彼は個室のダイニングルームに案内された。そこには少し赤い顔をしたクリフォードがいて、テーブルからはね起きると驚いたように彼を歓迎した。いつもと変わらぬ歓待振りのローダンと、すばらしく礼儀正しいエリオットのお陰で、驚いた空気は和らいだ。エリオットは彼に三人のうっとりするような娘を紹介し、彼女等は魅力的に彼を歓迎した。皆の支持を受けたローダンは、ヘイスティングスにパーティーを開くよう言い含め、彼はすぐさま請け負った。エリオットがラ・ロシェに行く遠足の概要を説明する間、ヘイスティングスは明るくオムレツを食べ、セシル、コレット、ジャクリーンの三人は励ますような微笑みを返した。その時クリフォードはローダンに彼がいかにくそったれかぼそぼそとささやいていた所だった。ローダンは見るも哀れな様子だったが、何やらおかしな雰囲気だと気付いたエリオットがクリフォードに冷ややかな目を浴びせ、その間にローダンは彼らはみんな潔くあきらめているのだと見て取った。
「黙れ、」彼はクリフォードに意見した。「これは運命だ。運命が定めたものだ。」
「ローダンのせいだろ。」にやにや笑いを隠しながらクリフォードは呟いた。結局のところ、彼はヘイスティングスの乳母ではないのである。かくしてサン・ラザール駅を午前9時15分に発車した列車は、アーブル(*5)に向けた疾走をしばし中断し、ラ・ロシュ駅の赤屋根の下に陽気な一隊を降車させて行った。一隊の武装は日よけ、鱒釣用竿、および非戦闘員であるヘイスティングスが持つ一本のステッキであった。エプト(*6)の小川の岸辺にあるプラタナス林の中にキャンプを設営した後、スポーツマンシップに欠くことができない達人であるとの定評のあるクリフォードが指揮を執った。
「おい、ローダン、」彼は言った、「貴様は自分のフライをエリオットと分け、エリオットを監視せよ。さもなくばその者は浮きと錘を使用せん。その者がウジ虫を掘り出さんとした時は、実力をもってこれを阻止せよ。」
エリオットは抵抗したが、周りが大笑いしているので微笑まないわけにはいかなかった。
「気分が悪いぞ」彼は主張した。「僕が鱒を釣るのはこれが初めてだと思っているのか?」
「余は、喜ばしくも貴様の初の鱒釣を見ん。」クリフォードは言って、彼を狙って投げつけられたフライの針を巧みに避け、セシル、コレット、ジャクリーンに喜びと魚とをもたらすことになっている三本の細い竿を設置するべく前進した。それぞれの棹に、完璧な配分をもって、フォースプリットショット(*7)、小さい針、鮮やかな浮きが並んだ。
「私は虫なんて絶対触らない」セシルは震えながら宣言した。
ジャクリーンとコレットも急いで賛成し、ヘイスティングスは喜んで餌係、釣った魚の取り外し係をできるかぎり担当する事にした。しかしセシルは明らかにクリフォードの本にあるけばけばしいフライに魅せられた様子で、彼から真の技術を教授されるべく、さっさとクリフォードの後を追いエプト川を上って姿を消した。
エリオットは疑わしげにコレットを見た.
「私はグジョン(*8)の方がいいな。」とお嬢様は決然と宣い、「あなたもムシュー・ローダンも、好きなときに行っちゃってかまいませんよ; この人たちいなくてもいいわよね、ジャクリーヌ?」
「ええ、」ジャクリーヌは答えた。
エリオットはぐずぐずと竿とリールを調べていた。
「リールが逆さまだよ。」ローダンは具申した。
エリオットは動揺して、コレットの方をちらりと見た。
「ぼ、──僕は──決心するところだったんだ。そ、その、──フライを投げようと──投げまいと」と彼は話し始めた。「そこにセシルが置いてったポールがある。」
「ポールと呼ぶな。」ローダンが修正した。
「じゃ、竿だ」と続けて、エリオットは二人の娘がじろじろ見る中を急に歩き出したが、すぐさまローダンに引き止められた。
「やめろやめろ! フライ用の竿を持っているのに、浮きと錘で釣りをしようとはまた面白い奴だ! いいから一緒に来い!」
小さなエプト川は、雑木林とセーヌ川の間を静かに流れていた。草に覆われた堤はグジョンの繁殖地だった。堤の上ではコレットとジャクリーヌが座って、ぺちゃくちゃしゃべり、笑い声をあげ、紅色の浮きがぷかぷか動くのを見張っていた。一方、ヘイスティングスは帽子で目を覆い、堤に生えた苔の上に頭を乗せ、彼女らの柔らかい声を聞いていた。竿が光り、魚が釣れたことを知らせる半ば押し殺した叫び声が上がると、彼は紳士的に、暴れ回る小魚を針から外した。木漏れ日に目を覚ました雑木林の鳥たちが歌っていた。斑のない黒と白のカササギたちが、ぱたぱたと通り過ぎ、近くにさっとと飛び降りたかと思うと、ぴょんぴょん跳ねて尾を振った。バラ色の胸毛をした青と白のカケスたちが木々の間で甲高い声を上げ、実った小麦畑の上では一羽の鷹が低く滑空し、地面で呟く鳥たちの群れを追い払っていた。
一羽のカモメがセーヌの川面に降り、羽毛のように浮かんだ。空気は澄み、静かだった。一枚の葉が動くことすらなかった。遠くの農場からかすかな音が聞こえた。高い鶏の声とくぐもった犬の鳴き声だ。時折、「ギュエーヴ27号」(*9)という名前がついた大きな熊手のような煙突のある蒸気タグボートが波を切って進み、いつ果てることもないはしけの列を引きずっていった。あるいは一艘のヨットが流れに浮き沈みしながら、眠たげなルーアンに向かっていった。
かすかに、新鮮な土と水のにおいが空気に混じり、陽光の中、オレンジの羽先の蝶たちが湿った草の上で踊った。柔らかいヴェルヴェットのような蝶たちは苔むした森の中へ飛んでいった。
ヘイスティングスはヴァレンティーヌのことを考えていた。二時になると、エリオットがぶらぶらと帰ってきて、ローダンに逃げられたと率直に認め、コレットの隣に座り、満足してうたたねしそうになった。
「鱒はどこ?」厳しくコレットは言った。
「まだ生きてる。」そう呟いてエリオットは早々と眠ってしまった。
時をおかず、ローダンが戻り、うたた寝している者にちらりと軽蔑の目を向けて、三匹の紅鱒を見せた。
「そして、」ヘイスティングスはだらけた微笑みをみせ、「刻苦勤勉の神聖なる最後は、絹と羽毛のひとかけらもて行う、これらの小さな魚達の屠殺なり。」
ローダンは答える事を潔しとしなかった。コレットはまた一匹グジョンを釣り上げ、エリオットを起こしたが、彼は嫌がってランチのバスケットを見つめた。その時、クリフォードとセシルがちょっとした気分転換にやってきた。スカートはびしょ濡れ、手袋はぼろぼろだったが、セシルは幸せだった。一キロくらいの(*10)鱒を引きずってきたクリフォードは、すっくと立ち、仲間の拍手を浴びた。
「一体全体、君が釣ったのか」エリオットが詰問した。
ずぶ濡れのセシルが夢中になって戦いの詳細を報告し、クリフォードは彼女がフライを扱う能力を褒めたたえた。その証拠として、自分の魚籠から死んだチャブを取り出し、こいつが鱒じゃなかったのが本当に残念だったと言った。
ランチョンの間皆陽気で、ヘイスティングスは「魅力的である」と承認された。彼はそれに大喜びで、ただ、フランスではコネチカット州ミルブルックよりずっといちゃいちゃするんだな、と思い、セシルがもうちょっとクリフォードに対して冷静であってもいいのに、ジャクリーンもローダンから離れて座った方がいいんじゃないか、コレットも一瞬くらいはエリオットの顔から目を離すことだってできるだろうに、と思った。そうは言っても彼は楽しんだ──が、ヴァレンティーヌのことが頭をよぎると、彼女からとても遠く離れてしまったなあと感じた。ラ・ロシュはパリから一時間半はかかる。彼が幸福を感じた事もまた事実で、彼らをラ・ロシュから乗せた列車が夜八時にサン・ラザール駅に到着した時、胸が高鳴った。彼は再びヴァレンティーヌの町にいるのだ。
「おやすみ、」 彼を小突き回しながら彼らは言った、「次も絶対一緒に来るよな!」
彼は約束して、彼らが二人ずつ組になって町の暗がりに消えて行くのを見送った。そうして長い間たちつくし、再び目を上げた時には、がらんとした大通りに瞬くガス灯越しに、電灯が月のように見つめていた。
翌朝目が覚めた彼は真っ先にヴァレンティーヌのことを考え、またしても胸が高鳴った。
既に太陽がノートルダムの塔を金に染め、下の街路では労務者たちの木靴が立てるかたかたという音が鋭く響き、道の向かいに立つ桃色のアーモンドの木では、一羽のクロウタドリが法悦の顫音を奏でようとしていた。
彼はクリフォードを起こして、一緒に田舎を爽快に散歩しよう、あわよくば彼の魂のためにアメリカン・チャーチに連れて行こうと決めた。鋭い目つきのアルフレッドがアトリエまで通じるアスファルトの歩道を洗っているのに気付いた。
「ムシュー・エリオットですか、」気のない質問に彼は答えた 「je ne sais pas. (存じません)」
「ではムシュー・クリフォードは?」ちょっと驚いてヘイスティングスが切り出した。
「ムシュー・クリフォードは、」コンセルジュは洗練された皮肉を込めて言った。「あなた様にお会いになるのをお喜びになりますよ、お早いうちにお休みになりましたから; 実際、お帰りになったばかりでございます。」
夜遊びの挙げ句、憲兵すら睡眠の神聖さを汚さないような時刻に宿の門をガンガン叩くような生活とは無縁な人々をコンセルジュが激賞する間、ヘイスティングスはもじもじしていた。コンセルジュはまた節制の美徳について一席ぶち、けばけばしい酒瓶を庭の噴水から取り出した。
「中には入らないでおくよ。」ヘイスティングスは言った。
「失礼ですが、ムシュー」コンセルジュはうなり声を上げた「ムシュー・クリフォードにお会いになるのが良いかと。あの方には手助けが要るかも知れません。わたくしめですが、あの方はヘアブラシとブーツを投げつけて追い払おうとなさいます。これまでの所、ロウソクから火事を起こしておられないのが僥倖で。」ヘイスティングスは少しの間躊躇ったが、嫌な役目だという気持ちを飲み込んで、ゆっくりとツタに覆われた小径を抜け、内庭を横切ってアトリエに入った。ノックした。静寂。再び彼がノックした所、何かが扉の内側にぶち当たる音がした。
「ただいまのは、」コンセルジュは言った 「ブーツでございました。」彼は合鍵を使って扉を開け、ヘイスティングスを招き入れた。クリフォードは乱れた夜会服を着て、部屋の真ん中で敷物の上に座っていた。片手に靴を持ち、ヘイスティングスを見ても驚いた様子がなかった。
「おはよう、ペアーズ(*1)のスープはどうだい?」と聞きながら、彼は曖昧に手招きして、更に曖昧な微笑を浮かべた。
ヘイスティングスの心は沈んだ。「天かけて、」彼は言った; 「クリフォード、ベッドで寝なさい。」
「寝ないぞ、──あ、アルフレッドがむさい頭を突っ込んでいる間は寝ないで靴を手許においとくんだ」
ヘイスティングスはロウソクを吹き消し、クリフォードの帽子とステッキを取り上げた。彼は感情を隠しきれずにこう言った、「これは酷いことだ、クリフォード、こ──こんなことをしていたとは──知らなかった。」
「そうかい、してるよ。」クリフォードは言った。
「エリオットはどこだ。」
「旧友よ、」泣き上戸になってクリフォードが返事をした。「夜明かし雀だのなんだのを──うーい──与えたもう神の恩寵は、不節制なるさすらい人を見守りたもう。」
「エリオットはどこだ。」
だがクリフォードは頭をぐらぐらさせ、手をぶらぶらさせるだけだった。「あれはどっか外に出てる。」と、突然仲間に会いたくてたまらなくなり、声を上げ、エリオットを求めて吠えた。
完全にショックを受けたヘイスティングスは、言葉もなくラウンジに座りこんだ。何度か大泣きに泣いた後、クリフォードは明るくなり、ごく慎重に立ち上がった。
「旧友よ、」彼は言った「君は──えー──奇跡を見たいか? よろしい、ここで今見せてやる。」
彼は空虚な笑顔を浮かべ、一息入れた。
「き──奇跡だ」繰り返した。
ヘイスティングスは、彼が自分が平衡を保っていられることを奇跡だと称しているのだろうと思って、何も言わなかった。
「僕はベッドで寝る。」彼は宣言した。「哀れなクリフォードじいさんがベッドに行くよ、これこそ──ぉ──奇跡ぃ!」
彼は上手い具合に距離とバランスを計算し、やってのけた。審美眼を誇る en connaisseur 助言者エリオットがもしここにいたら拍手喝采だったろう。しかしエリオットはいなかった。彼はアトリエに帰っていなかった。半時間後にヘイスティングスが帰る途中の彼を見つけた時は、ヘイスティングスを見下した尊大な笑いを顔に浮かべて、リュクサンブール公園のベンチにもたれかかっていた。彼は寛大にもヘイスティングスが彼を起こし、埃を払い、門まで付き添うことを許したが、そこで、これ以上の手助けは一切無用だと言って彼にパトロンめいた挨拶を授け、ヴィヴァン通りへの正しい道をかろうじて進んで行った。
ヘイスティングスは彼が視界から消えるまで見守った後、とぼとぼと噴水まで戻った。はじめ彼は落ち込み、憂鬱な気分だった。だが、朝のすがすがしい空気に触れて、徐々に心の活力を取り戻し、翼ある神の影の下にある大理石の座席に腰を下ろした。
空気は新鮮で、オレンジの花の甘い香りがしていた。あちらこちらで鳩達が水浴びをし、アヤメ色の胸の周りに水をはねかけ、磨かれた水盤のぐるりでは、大きく吹き上がる水や奥に流れる水にほとんど首まで突っ込んでは飛び出していた。雀達もまた、透明な水の中で埃っぽい色の羽毛を濡らしてしまうので、てんでばらばらに飛び回り声を限りにチュンチュン叫んでいた。マリ・ド・メディチ(*2)噴水の向かいの鴨池をとりまくプラタナスの木立の下では、水鳥達が餌をついばみ、あるいは隊列を組んでよちよち歩き、堤を下って、いかめしくも目的のない航海にこぎだそうとしていた。
前夜の寒さを引きずっている蝶達は、リラの葉蔭でどこかたるそうにしていたが、どんどんと白いおいらん草にはい出して来たり、陽に暖められた灌木に向かってリウマチにでもかかっているかのように飛んで行った。蜂達は既にヘリオトロープの間で急がしくしており、煉瓦色の目をした大きな灰色のハエが一匹二匹、大理石の座席の脇の日だまりに座り、あるいは互いに追いかけ合っても、最後はやはり日だまりに戻ってきて、勝ち誇ったように前足をこすり合わせた。
番兵達は色塗りの箱の前で元気よく歩み、時々休憩になるのを期待して立ち止まり営舎を見た。
ついに重い足音と銃剣の鳴る音とともに伝令がやってきて、休憩となった。彼らは砂利をザクザクと横切り遠ざかって行った。
宮殿の時計塔から、まろやかなチャイムの音が漂い、サン・シュルピスの鐘が深い余韻を響かせた。ヘイスティングスは神の翼の影の中で夢見ながら座っていた。彼が思いに耽っていた時、誰かがやって来て隣に座った。始め彼は頭を上げようとしなかったが、彼女が話すのを聞くとすぐさま起き上がった。
「君! こんな時刻に?」
「私は落ち着かなくて、寝付けなかった。」そして低い幸せな声で「それに、あなたもこんな時刻に?」
「わ──私は寝たけど朝日で目が覚めて。」
「私は眠れなかった」彼女は言い、その目には、つかの間、なんとも言えない影のようなものが浮かんだ。そして微笑み、「とても嬉しい──なんだかあなたが来ようとしていたのを知っているみたいで。笑わないで、私は夢を信じているの。」
「本当に夢を、──私がここにいるという夢を?」
「その夢を見たとき、私は目覚めたのだと思う。」彼女は認めた。そして静かな時が訪れた。沈黙は、二人が共にいることの幸福を物語っていた。二人の沈黙は雄弁だった。微かに笑み、ちょっとした眼差しでお互いに思いを語りあい、彼らの唇が動き、言葉が生まれた時には、すでに言葉はほとんど無用になっていた。彼らは別に高尚な話をしたのではなかった。ヘイスティングスの唇から出た、おそらく最も価値ある宝石には、朝食に関する内容が直接含まれていた。
「まだ自分のチョコレートをいただいてないの。」彼女は告白した。「でも、あなたってなんて物質主義者なのかしらね。」
「ヴァレンティーヌ、」衝動的に彼は言った。「どうか、本当にどうか、──これっきりでいいから、──君の一日を私にもらえないだろうか、一度だけでいい。」
「ああ、あなた、」彼女は微笑んだ「物質主義的なだけでなく自己中心的。」
「自分勝手じゃない、飢えている。」彼は彼女を見て言った。
「肉食でもあるのね、あなた!」
「いいだろう、ヴァレンティーヌ?」
「でもチョコレートがあるし。」
「一緒にとろう。」
「でも昼ご飯もあるし。」
「サン・クロード(*3)で一緒に。」
「でも無理。」
「一緒に、──一日中、──一日中ずっと; お願いだヴァレンティーヌ。」
彼女は黙ってしまった。
「これっきりでいい。」
再び、あの何とも言えぬ影が彼女の目に翳した。それが去ったとき彼女はため息をついた。「ええ、──一緒に、この一回だけよ。」
「一日じゅう?」彼は自分の幸福を疑いながら言った。
「一日中。」彼女は微笑んだ「──でね、私はとてもお腹がすいているの。」
彼は笑い、魅了された。
「それって、なんて物質主義的な若い女性なんだ。」
サン・ミシェル大通り(*4)に面して、表を白と青に塗り分けたクレメリエ(*5)があり、店内はとても心地よく清潔だった。二人が入ると、マーフィーという結構な名前の(*6)フランス語を母語並みに話す鳶色の髪をした若い女性が、微笑みながら新しいナプキンを亜鉛でできた差し向かいの(*7)テーブルに置き、二杯のチョコレートと籠一杯の焼きたてでサクサクなクロワッサンを持ってきた。
桜草色のバター入れ(*8)にはそれぞれにミヤマカタバミ(*9)のレリーフがあり、ノルマンディの田園の香りに溢れていた。
「わ、おいしい」二人は同じ息づかいで話し、同時に笑った。
「同じことを考えてる。」彼は話し始めた。
「馬鹿。」頬を真っ赤に染めて彼女は叫んだ。「クロワッサンが欲しいな、と考えていたの。」
「私も、」彼は意気揚々と答えた。「そういうことになるね。」
そこで二人は口喧嘩を始めた; 彼女は彼のような振る舞いは子供を抱くにも不適当だとなじり、彼はそれを否定しながら、カウンターに支払いに行った。マーフィー嬢がつられて一緒に笑いだし、最後のクロワッサンは平和の旗の下で食べられた。二人は立ち上がり、彼女はマーフィー嬢にちょこんと明るくうなずくと、彼の腕をとった。マーフィー嬢は、彼らに向かって陽気に「Bonjour, Madame! bonjour, Monsieur!(ボンジュール、マダム、ボンジュール、ムシュー)」と声をかけ、彼らが流しの馬車を捕まえて去って行くのを見守った。「ああ、なんて素晴らしい。」彼女はため息をつき、しばらくしてこう加えた「いったい、あの二人は結婚しているのかな。どうかなあ。ma foi ils ont bien l'air (彼ら、良いと思うわ)。」
馬車はメディシス通りを走り、ヴォジラール通り(*10)に向かい、レンヌ通りを横切って行った。このような喧噪の中を通り抜け、馬車はモンパルナス駅前にたどり着いた。ちょうど発車時刻で、二人が階段を駆け上り、列車の所に来た時に、発車を告げるゴングの最後の一音がアーチ状の駅中に響いた。守衛が二人の個室のドアを荒っぽく閉めると、笛が鳴り、それに応えて機関車が金切り声を上げ、長い編制の列車は駅から滑り出し、より速く、より速く、朝日の中に飛び込んで行った。開け放した窓から夏の風が吹き込み、娘の柔らかい髪の毛を額の上で踊らせた。
「この個室は、私たちだけだね。」ヘイスティングスが言った。
彼女は窓際の席に凭れ、目を明るく、大きく開き、唇を緩めた。風が彼女の帽子を持ち上げ、顎の下のリボンを震わせた。彼女は素早くリボンを解き、長い帽子止めを帽子から外し、脇の座席の上に置いた。列車は飛ぶように疾走した。
彼女の頬は急に色づき、喉のところのユリの花飾りの下で、速い息づかいとともに、彼女の胸は上下した。木が、家が、池が、踊るように通り過ぎ、電信柱のもやに断ち切られて行った。
「もっと速く! もっと速く!」彼女は叫んだ。
彼の目は片時も彼女から離れなかったが、彼女は夏空のような青い目を大きく見開き、どこか前方遠くの何かを見据えているかのようだった、──決して近づくことがなく、彼らが急いでもその前に逃れ去ってしまう何かを。
それは水平線だったのだろうか? 今や丘の険しい砦に切り取られ、今や田舎の教会の十字架に切り取られている。それは夏の月だったのだろうか? 広大な青空を幽霊のように滑って行く。
「もっと速く! もっと速く!」彼女は叫んだ。
彼女の半ば開いた唇は深紅に燃えた。
車両はがたがたと震え、野原はエメラルドの奔流となって流れた。彼の胸は高まり、顔は輝きを帯びた。
「おお、」彼女は叫び、われ知らず彼の手を取り、自分の脇の窓のところに引き寄せた。「見て! 一緒に身を乗り出して!」
彼には彼女の唇が動くのが見えるだけだった; 彼女の声は枕木の咆哮にかき消された。だが、彼はしっかりと窓枠をつかんで彼女の手を握っていた。二人の耳に風がびゅうびゅうなる音が聞こえた。「そんなに外に出ないで! ヴァレンティーヌ、気をつけて!」彼はあえいだ。
眼下の枕木の間から、広い川が見え隠れし、轟音を残してトンネルを抜けると、再び増水した緑の草原の中に遠ざかっていった。二人の周りで風が咆哮を上げていた。娘は窓から身を大きく乗り出し、彼はその腰を抱えた。「そんなに外に出ないで!」だが彼女はうめくだけだった「もっと速く! もっと速く! 遠ざかれ、市から、陸地から、もっと速く! もっと速く! 遠ざかれ、世界から!」
「一人で何を言っているんだ」 彼は言ったが、その声は風の勢いでのどに押し戻されつぶれてしまった。
声を聞いて、彼女は窓から振り返ると、自分を抱える彼の腕を見下ろした。そして目を上げ彼の目を見た。車両は揺れ窓はがたがた音をたてた。彼らが今駆け抜けているのは森の中で、露のついた枝先を次々と陽の光が燃え立たせていった。彼は彼女の戸惑った両目を見つめた; 彼女を抱き寄せ、半ば開いた唇にキスした。彼女は叫んだ、苦く、希望なく。「駄目、──駄目!」
だが彼は彼女を強く抱きしめ、心からの愛と情熱の言葉をささやいた。そのとき、彼女はすすり泣いた──「駄目──駄目──なの──私は約束したんだから! わかって──わかって──私にはそんな──価値なんてない──」彼の純粋な心の中では、そのような言葉には意味がなかった。今も、未来永劫にわたって。やがて彼女は声を出すのをやめ、頭を彼の胸の上で休めた。彼は窓に凭れ、耳には風の怒声が荒れ、心には喜びの歓声が踊った。森は背後に去り、木々に隠れていた太陽が滑り出、大地を再び光で満たした。彼女は目を上げ、窓の外に広がる世界を見た。彼女は話しだしたが、その声はかすかで、彼は彼女のそばに首を傾けて聞いた。「私はあなたに背を向けない; 私はとても弱いの。あなたはずっと前から私の主人だった──私の心と魂の。私を信じてくれるある人との約束を破ってしまったけれど、あなたには全てを話した。他に大事なことがある?」彼は彼女の無邪気さに微笑み、彼女はその微笑みを崇拝した。彼女は再び語った。「私を受け取って、そうでなければ投げ捨てて; ──それがどうだというの? あなたの言葉一つで私は死ねる。今私の元にあるほどのすばらしい幸福を、指をくわえて見ていなければならないとしたら、死ぬ方が楽でしょう。」
彼は彼女を両腕で抱いた; 「黙って。何を言ってるんだ? 見なさい──外の陽の光を、草原を水の流れを。こんな明るい世界の中で、私たちはとても幸せになるんだよ。」
彼女は陽光に振り返った。窓から見渡す世界は彼女にとってとても美しかった。
幸福にうち震えながら、彼女は安らかなため息をついた: 「これが世界なの? 全然知らなかった。」
「私もだ。神よ許したまえ。」彼はつぶやいた。
彼らを二人して許し給うたものこそ、おそらくは、我らが優しき草原の聖母ならん。
完
原文は、 ここ や Wikisource で読めます。
だいぶ以前に読み始め、長いしフランス語だらけだし英語も難しいしお化けが出てこないしで挫折、数年間放置してあったものです。訳文の感じが途中から変わっていますが、笑って許して下さい。
後に本文の中でも出てきますが、タイトルのThe Street of Our Lady of the Fields は、フランス語ではノートル・ダム・デ・シャン通り (Rue Nôtre Dome des Champs)となり、これは、「四風の街」がそうであったように、 パリに実在する通り です。近くにはノートル・ダム・デ・シャン教会があります。地図を見ながら、人々の道行きを追うと興味深いでしょう。ここで登場するクリフォード氏は次の Rue Barrée (行き止まり)でも活躍(同名の他人かもしれませんが)。
「四風の街」では猫にやられ、この小説では最後の部分の鉄道描写にやられました。かつての乗り鉄としては、アサペン片手に国鉄型気動車の窓を開け、折々の季節の風やディーゼル排気の香りを楽しんだ思い出が蘇ります。
前は海原果てもなく
外つ国までも続くらん
後は鉄道ひとすじに
瞬くひまよ青森も
「鉄道唱歌」より