This is a Japanese translation of R. W. Chambers' 'Rue Barrée' from "The King in Yellow".
R. W. チェンバース『黄衣の王』より「リュー・バレー」です。「行き止まり」と訳されることが多い題名です(*1)。一部放送することのできない単語が現れますのでご留意ください。
R. W. チェンバース作
The Creative CAT訳
「哲人と博士に説教させよう
何を彼らが説くにせよ説かないにせよ──
その一つ一つが永遠の鎖の中の一つの輪に過ぎない
何者もその鎖を解くことも壊すことも出し抜くこともできない。」「深紅のバラも黄色のバラも
うねる海のにおいも
私が崇拝する香りにはかなわない
あなたがまとう香りには。」「気だるい頭のユリは飽きる、
替えていない水はうんざりだ;
私は熱い望みに痛む
あなたのものと、あなたへの。」「世界にはこれだけのものしかない──
あなたの燃える唇、
あなたの胸、あなたの手、あなたの巻上髪、
そして私の望み。」
ジュリアンのアトリエ(*1)のある朝、一人の学生がセルビー(*2)に言った;「あれがフォックスホール・クリフォード(*3)だよ」彼はイーゼルの前に座って何もしていない若い男をブラシで指した。
内気で神経質なセルビーは空気を読まずに口を開いた:「私の名前はセルビーです、──パリに着いたばかりです。紹介状を持ってきました──」彼の言葉はイーゼルが落ちる音で途切れた。イーゼルの持ち主は速攻で隣人を襲い、戦いの騒音がMM・ブーランジェとルファーブル(*4)のアトリエ中に響いた。戦いはやがて外の階段での取っ組み合いになった。セルビーはアトリエにおける自分の受付担当であるかのように、恐る恐るクリフォードを見た。彼は座ったまま平然と戦いを見ていた。
「ここは少しばかりうるさいが、」クリフォードが言った「彼らのことが分かってくると好きになるよ。」その気取りのなさがセルビーには嬉しかった。彼の心を捉えた飾り気のない様子で、クリフォードは彼を様々な国籍を持つ半ダースもの学生に紹介した。みな礼儀正しく、何人かは真心からそうだった。マシエ(*5)の地位を持つ程の大人物も打ち解けてこういった:「友よ、君のようにフランス語が話せて、おまけにムシュー・クリフォードの友人である男なら、このアトリエにうまく馴染めるだろう。もちろん、次に新人が入ってくるまで暖炉の薪くべ係を頼んでもいいな?」
「もちろんです」
「人をからかうのは気にならないか?」
「なりません」とセルビーは答えたが、本当は嫌いだった。
クリフォードは大変面白がって、帽子を被り、言った「最初は沢山食らうぞ、お楽しみに。」
セルビーは自分の帽子を頭に乗せ、彼をドアまで追った。
モデル台を通り過ぎたとき、怒った叫び声があがった「Chapeau! Chapeau!(帽子! 帽子!)」一人の学生がセルビーを脅すようにイーゼルから飛びおき、セルビーは赤い顔をしてクリフォードを見るだけだった。
「帽子をとりなよ、彼らのために」クリフォードが笑って言った。
少し恥ずかしげに、彼は振り向いてアトリエに礼儀正しく挨拶した。
「Et moi?(わたしにも?)」モデルが叫んだ。
「あなたはチャーミングですね」セルビーはこう答え、自分の大胆さに驚いた。だが、アトリエ中が一人の人間であるかのように立ち上がり、大声で言った: 「良くやった! いいぞ!」その一方でモデルは投げキスをよこして言った「À demain beau jeune homme!(また明日ね、素敵な若い男の方!)」
その週一杯セルビーは心置きなくアトリエで働いた。フランス人学生は彼を「l'Enfant Prodigue(驚くべき子供)」と呼んだ。これが大まかに訳されていき「感嘆すべき幼児」から「ザ・キッド」「キッド・セルビー」「キッドビー」「キドニー」ときて、自然に「ティッドビッツ」となり(*6)、ここでクリフォードが権威をもってやめさせ、最終的には「キッド」にまで戻っておちついた。
水曜日と共にM・ブランジェが来た。三時間というもの、学生達、──とりわけ彼が芸術作品(*7)について名人芸(*8)以上に無知であると聞かされていたクリフォードはその噛みつくような皮肉に身悶えした。セルビーはもっと幸運だった。教授は黙ってセルビーの絵画を点検し、鋭い目で顔を見ると、あいまいな身振りで通り過ぎて行った。やがて彼がブーグロー(*9)と腕を組んで立ち去ったので、クリフォードはほっとし、解放感から頭の上で帽子をくちゃくちゃにして出て行った。
次の日、彼は姿を見せず、セルビーは後になって期待するだけ無駄と知ったが、その時はアトリエで彼に会えると思っていたので困ってしまい、一人でラテン区にさまよい帰るはめになった。
彼にとってパリはまだ目新しかった。その輝きがどこか彼を戸惑わせた。アメリカ人である彼の心は、シャトレ広場(*10)にも、ノートルダムにさえ、温かい思い出をかき立てられることがなかった。時計と小塔があり青と朱の衛兵が大股で闊歩する最高裁判所、乗り合い馬車と水を吐く奇怪なグリフィンが輻輳するサン・ミシェル広場(*11)、サン・ミシェル大通りの丘、ラッパを鳴らして行く路面電車、二人組になってぶらつく警官、テーブルが並んだカフェ・ヴァシェット(*12)のテラス、サン・ミシェル広場の石畳から大通りのアスファルトに足を踏み入れたとき、こういったものは彼にとってまだ何の意味もなかったり、知りさえしなかったりだった。そして、彼が横切った大通りこそフロンティアであり、彼はそこから学生地帯に入っていったのだ──かの有名なラテン区(*13)に。
辻馬車の御者は「ブルジョワの旦那」と彼に呼びかけ、歩行に対する乗車の優越性を喚き立てた。浮浪者は、大変関心があるという顔つきで、ロンドンから電信で伝えられた最新のニュースを要求し、逆立ちすると、セルビーを筋力の妙技へと誘惑した。綺麗な娘が一人、彼にすみれ色の目で一瞥を送った。彼はそれを見ていなかったが、彼女は窓に映った自分の姿を見て、どうして頬が色づいているのかしらと思った。振り返って元の道に引き返しながら、彼女はフォックスホール・クリフォードに出くわすと、足を速めた。クリフォードはぽかんと口を開け、彼女を目で追った; 次にセルビーがサン・ジェルマン大通り(*14)に入り、セーヌ通り(*15)に向かうのを見送った。そこで彼は店の窓で自分の姿を改めた。結果は不満足なものだったようだ。
「美男子じゃないなあ」彼は心の中で言った「でも妖怪じみてもいないな。彼女がセルビーを見て顔を赤らめたのはどういうことなんだろう。これまで彼女が僕の仲間を、いやラテン区の誰も、目を留める所なんて見たことがなかったのに。まあいいや、彼女が僕に目を留めることはないのは誓ってもいいし、僕が身も心も捧げたかというと神様だけがご存知だし。」
彼はため息混じりに、常に彼の特徴となっていた優美なるラウンジに放り込まれた自らの不滅の魂の救済に関する預言を呟いた。彼は角の所で苦もなくセルビーに追いついた。二人は陽に照らされた大通りを渡り、カフェ・ドゥ・セルクル(*16)の日よけの陰に座った。クリフォードはテラスの皆に挨拶しながら言った「君はいずれこの人たち全員に会うことになるけど、今の所はパリ名物を二つ見せておくよ、リチャード・エリオット氏とスタンレー・ローダン(*17)氏だ。」
「名物」たちはベルモットを飲み、愛想良さそうだった。
「君はアトリエに来るのをサボったな」突然振り向いてエリオットが言った。クリフォードは目を背けた。
「自然と語らうためかな?」ローダンが言った。
「今度の彼女の名前は?」エリオットが聞き、すかさずローダンが答えた; 「名、イヴェット(*18); 国籍、ブレトン──」
「違うよ」クリフォードは当たり障りなく答えた「リュー・バレーさ。」
セルビーが初めて聞く名前に驚いたとたんに主題が代わり、最近のローマ賞(*19)獲得者への賛辞になった。行き交う言葉は英語とフランス語のスラングだらけだったが、大胆な意見と真摯な検討は耳に心地よかった。彼は自分も名誉ある戦いに突入できる時が早くくればいいのにと願った。
サン・シュルピス(*20)の鐘が時を打ち、それに答えてリュークサンブール(*21)の宮殿が立て続けにチャイムを鳴らした。ブルボン宮殿(*22)の背後の金色のもやの中に沈み込んでいく陽にちらりと目を向けると、彼らは立ち上がって東に向かい、サン・ジェルマン大通りを渡って、医学校(*23)に向かってぶらぶら歩いた。角の所で、一人の娘が足早に彼らを追い越して行った。クリフォードはにやにや笑い、エリオットとローダンは動揺し、それでも三人とも娘に挨拶し、娘は目を上げずに挨拶を返した。だが、愉快な店の窓に見とれてぐずぐずしていたセルビーが目を上げると、そこにはかつて見たことのないような、この上もなく青い二つの目があった。その目はすぐに下を向き、若い男は仲間の後を追いかけた。
「おおなんてことだ」彼は言った「ねえ、今しがた最高に可愛い女の子を見たんですよ──」そこに感嘆符を付けたのは他の三人だった。憂鬱そうに、悪い予感に満ちて、まるでギリシャ演劇のコロスのように。
「リュー・バレー!」
「何ですって!」セルビーは当惑して叫んだ。
クリフォードが曖昧なそぶりを見せるだけで、誰も答えなかった。
二時間経って、夕食の時に、クリフォードがセルビーの方を向いて言った、「僕に聞きたい事があるんだろ、そわそわしているようだから教えてあげようか。」
「ええ、お願いします。」彼は全くもって無邪気に言った「あの女の子のことですよね、誰なんです?」
ローダンの微笑みには哀れみが、エリオットのそれには苦さがあった。
「彼女の名前は」クリフォードが重々しく言った「誰も知らない。少なくとも」更に慎重な口ぶりになり「僕が知り得た範囲では。この区のみんなが彼女に挨拶して、荘重なる返礼をうける。だが、それ以上のものを得た者は知られていない。彼女の専門は、ミュージックロールを持っていることからみてピアニストとしてのそれだ。彼女の住処は、市当局が間断なく修繕しているためになんとか維持されている小く見窄らしい通りにある。その通りの入り口は人が入ってこないように塞いであって、そこには黒い文字で、ある言葉が書いてある。彼女の呼び名はそれから取られた、──リュー・バレー。ローダン氏はフランス語の知識の不完全なるがゆえに我らが注目の対象をルー・バリー(*24)の如く呼ぶ──」
「そんなことはないぞ」ローダンは腹を立てた。
「そしてルー・バリーないしリュー・バレーは、こんにちこの区において、なべての強盗どもの崇拝するところのものとなっているのだ。」
「僕らは強盗じゃないぞ」エリオットが修正した。
「僕は違うがね」クリフォードは返し、「そこで、一言注意しておくと、セルビー、これら二人の紳士たちはたびたび、様々な、また見るからに不幸な瞬間において、リュー・バレーの足下に我が人生と手足を捧げてきたのさ。あのレディにはその手の瞬間用の凍えるような微笑みがあって、」ここで陰鬱な効果を出して「僕は信じざるを得なくなった。我が友エリオットの栄えある業績も、我が友ローダンの健康なる肉体美も、彼女の氷の心を毫も動かさなかったのだと。」
怒り心頭に達したエリオットとローダンが叫んだ「お前もな!」(*25)
「僕には」クリフォードはいかにも当たり障りなく言った「君らの轍を踏むような恐ろしいことはできないよ。」
二十四時間後、セルビーはリュー・バレーのことを完全に忘れていた。その週一杯、彼はアトリエであらん限りの働きをし、土曜の夜にはくたくたになって夕食もとらずに寝てしまった。今彼が絵を描くのに用いている黄色いオーカーが河になって現れる酷い夢を見た。日曜の朝、彼はふとリュー・バレーのことを考え、その十秒後、彼女を見た。そこは大理石の橋の上にある花市だった。彼女はパンジーの鉢を見繕っていた。庭師は明らかに全身全霊をこめて売り込んでいたが、リュー・バレーは首を横に振った。
もし先の火曜にクリフォードが長話をして彼の気持ちをほぐしていなかったら、セルビーがまさにその時、そこに立ち止まってキャベジ・ローズを見てみようと思ったかは疑問である。彼は好奇心をそそられたのかもしれない。十九歳の男の子といえば、ニワトリ(*1)を除けば、二足歩行をするものの中で、もっとも開けっぴろげに好奇心旺盛な生き物であるのだから。二十歳になってから死ぬまで、彼はそれを隠そうとしている。だが、セルビーに対してフェアに言えば、市場(いちば)が魅力的なのも事実であった。雲一つない空の下、大理石の橋に沿ってぎっしりと、花々が欄干の高さまで積まれていた。空気は柔らかく、陽の光はシュロの葉の織りなすレースごしに、一千のバラの花の心臓の中で輝いていた。春が来ていたのだ、──今やその盛りだった。水まき車とスプリンクラーが大通り中に新鮮さを振りまき、雀たちは我が物顔で行き交い、お人好しのセーヌの釣り人は心配そうにけばけばしい羽柄の後を追い、洗濯場(*2)の石鹸水の中に浮かんでいた。白いとげを生やした栗の木は優しい緑をまとい、ブンブン飛ぶ蜂の羽音に揺れていた。見かけ倒しな蝶たちは冬のぼろ切れをヘリオトロープの間で見せびらかした。鮮やかな土のにおいがあり、セーヌの波は森林地帯の小川のこだまを返した。ツバメたちは滑るように飛び、錨を下ろした川船の間をかすめて行った。どこかの窓で、かごの鳥が心からの歌を空に放っていた。
キャベジ・ローズを見ていたセルビーは、その時空を見上げた。かごの鳥の歌には、何かしら彼の心を動かすものがあった。多分それは五月の空気に香る危険な甘さだったのだろう。
はじめ、彼は自分が立ち止まったのにもほとんど気づかなかった。次は、なぜ立ち止まったのかもよくわからなかった。次に、行かなくちゃと思った。次に、行かないでいようと思った。次いで、彼はリュー・バレーを見た。
庭師は言った; 「お嬢さん、これは本当にいいパンジーの鉢ですよ。」
リュー・バレーは首を振った。
庭師は微笑んだ。どうみても彼女はパンジーが欲しいのではなかった。彼女はそこからたくさんのパンジーの鉢を買っていた。毎春二鉢か三鉢買い、文句を言ったことはなかった。では彼女が欲しかったのは何なのだろう? パンジーはもっと大事な話をするための枕に違いなかった。庭師は揉み手をして周りを見回した。
「このチューリップは華麗ですよ」彼は述べ、「こっちのヒヤシンスは──」彼は香りの良い花の群れを見ただけで恍惚としてしまった。
「これは、」畳んだパラソルで豪華なバラの木を指しながらリューがつぶやいたが、声の方はちょっと震えていた。セルビーはそれに気づくと、聞いてしまったことをむしろ恥じた。庭師はそれに気づくと、バラの間に鼻を埋め、掘り出し物の香りを吸い込んだ。それでも、公平に言って、彼は本来の花の価格に一サンチームたりと加えてはおらず、結局リューは多分貧乏なのであり、同時に誰が見ても彼女は魅力的だったのだ。
「五十フランです、お嬢さん。」
庭師の声は重かった。リューは値切っても無駄だろうと感じた。ひととき、二人は黙って立っていた。庭師は吹っかけてはいなかった──誰が見てもそのバラの木はゴージャスだった。
「パンジーをください」娘は言って、くたびれた財布から二フラン取り出した。そして彼女は目を上げた。一粒の涙がダイヤモンドのように輝いて、彼女は前が見えなくなった。それが鼻の方に流れて行くにつれ、代わりにセルビーの姿がぼんやり見えてきた。驚いて青い目をハンカチーフで拭うと、セルビーその人が当惑しきった顔で現れた。彼は即座に空を見上げた。まるで突然天文学の研究がしたくてたまらなくなったように見え、そのまま彼がまるまる五分間というもの探査を続けたものだから、庭師も空を見上げ、警官も同じようにした。その後セルビーはブーツの先を見ると、庭師は彼を見て、警官はうつむいて歩き出した。リュー・バレーはいつの間にか去っていた。
「何を」庭師は言った「用意いたしましょうか、ムシュー」
セルビーは理由も判らず、唐突に花を買いはじめた。庭師は電気でも食らったかのようになった。これだけ大量の花を売ったこともなければ、これだけいい値段で買ってもらったこともなかったし、客がこれほど異議を言わなかったことも、決して、決してなかったのだ。だが彼は、特価品だよと言うのが、口論が、天をあおぐのが恋しかった。この交渉にはスパイスというものがなかった。
「これらのチューリップは華麗ですよ!」
「本当に!」穏やかにセルビーは叫んだ。
「ですが、ああ、お値段も張りまして。」
「買いますよ。」
「神様!」庭師は汗をかきかき呟いた「この人は大抵の英国人よりイっちゃってるよ。」
「このサボテンですが──」
「ゴージャスです!」
「ああ──」
「全部一緒に送ってください。」
庭師はふんばって川壁で体を支えた。
「この見事なバラの木は」消え入りそうな声で彼は話し始めた。
「美人ですね。五十フランだったと思いますが──」彼は言葉を止め、真っ赤になった。庭師は彼の混乱を美味しくいただいた。彼は瞬間的な混乱から突然冷静な自分をとりもどし、庭師をしっかり見ると、いたぶった。
「僕はその木を買いますよ。どうしてあの若い女性は買わなかったのでしょうね。」
「お嬢さんはお金がなかったので。」
「どうしてわかるのですか?」
「Dame(デーム)、私はあの人にいくつもパンジーを売っていましてね; パンジーは高い花じゃないんで。」
「彼女が買ったのはそこのパンジーですか?」
「これです、ムシュー、青と金の。」
「それではあなたはそれを彼女に届けるつもりなのですね?」
「市(いち)が終わった後、お昼に。」
「このバラの木も一緒に届けて下さい。それと──」ここで庭師をにらみつけ、「出所を言おうとしないで下さいね。」庭師の目は皿のようになったが、セルビーは落ち着き、勝ち誇って言った: 「他のはトゥールノン通り7番地、オテル・ドゥ・セナ(*3)にお願いします。コンセルジュに伝えておきますから。」
そこで彼は威厳を込めて手袋のボタンをとめ、大股に歩き去った。が、庭師からは見えなくなるまで角を曲がった所で、自分は馬鹿者だという信念が戻って来て、顔をひどく赤らめた。十分後、オテル・ドゥ・セナの自室で阿呆のように微笑んだ: 「僕って何て馬鹿なんだ、何て馬鹿なんだ!」
一時間後、気がつけば彼は同じ椅子に座ったままだった。姿勢まで同じで、帽子と手袋を付けたまま、ステッキを持ったまま、だが彼は口をきかず、どうもブーツのつま先への関心を喪失した様子で、微笑は少しだけ惚けたものではなくなり、どこか回顧的になっていた。
その日の午後五時頃、オテル・ドゥ・セナのコンセルジュである悲しい目をした小柄な女が、驚きのあまり両手を挙げた。玄関の前にワゴン一台分の花を盛った山が着いたからだ。彼女はジョセフ(*1)を呼んだ。飲んべえの男の子で、petit verres(小さなグラス)の中の花の価格を計算している間も、陰気に、宛先の見当がさっぱりつかないと言っていた。
「Voyons(まあまあ)、」小柄なコンセルジュは言った「cherchons la femme!(女を探せ!)」
「あんたが?」それとなく彼は言った。
小柄な女はしばし物思いに耽り、ため息をついた。ジョセフは鼻を鳴らしたが、その鼻はどんな花にも負けないくらい華々しかった。
そこに庭師が帽子を手に入って来て、数分後にはセルビーがコートを脱ぎ、シャツの袖を捲って、部屋の中央に立っていた。その部屋にはもともと家具の横に二平方フィート程の歩くための余裕があったのだが、それは今やサボテンによって占拠された。ベッドはパンジー・ユリ・ヘリオトロープの棺の下で呻吟し、ラウンジはヒヤシンスとチューリップで覆われ、洗面台はある種の若木を支持しており、その木は遅かれ早かれ花をつけるだろうと警告されていた。
少したって、クリフォードがやってきた。スイートピーの箱の上に倒れ、いささか罰当たりな言葉を口にし、謝って、押し寄せる花々の饗宴に驚き、ゼラニウムの上に座り込んだ。ゼラニウムは駄目になってしまったが、セルビーは「気にしなくていいよ」と言い、サボテンを凝視した。
「舞踏会を開くつもりなのか?」クリフォードは尋ねた。
「い、──いや、──僕は花がとても好きで」セルビーは言ったが、その言葉は情熱を欠いていた。
「そうだと思ってやろう。」そこで少しの沈黙の後、「良いサボテンだね。」
セルビーはサボテンをじっと観賞し、批評家のような雰囲気でそれに触れ、親指に怪我をした。
クリフォードはステッキでパンジーを突いた。そこにジョセフが請求書を持って来て、合計金額を大声で告げた。一部にはクリフォードに印象づけよう、一部にはセルビーを脅してpourboire(心付け)を吐き出させ、庭師がもしそうしてくれるなら、二人で山分けにしようと思ったためだった。セルビーが支払いをすませ、ぼそぼそいうでもなく感謝の言葉をかける間じゅう、クリフォードは聞かなかったふりをしようとしていた。その後、平静を装って部屋に帰ろうとしたが、それが完全に無駄になったのは、ズボンをサボテンの棘で破いてしまった時だった。
クリフォードは何かありふれた感想をいい、セルビーにチャンスを与えようと、シガレットに火を点けて窓の外を見た。セルビーはチャンスをつかもうとしたが、「ええ、ここにもやっと春が来ました」──などと言った所で凍り付いてしまった。彼はクリフォードの後頭部を見た。それは物語っていた。ぴんと立った小さな耳は、興奮を押さえ込もうとうずうずしていた。彼は事態を収拾しようと絶望的な努力を払い、しゃべるための励みにしようと、飛び上がって何かロシア産のシガレットに手を延ばしたが、その動作はサボテンによって阻止され、彼は再びサボテンに獲物を落としてやることになった。藁の最後の一本が加えられた。
「このクソサボテンめ」この一言は意志に反してセルビーから発せられた──彼自身の自己防衛本能に反して。だが、長くて鋭いサボテンの棘に何度も刺されると、彼の監禁された憤怒もどこかに逃亡してしまった。やっちゃった; 時既に遅く、クリフォードがにじり寄って来た。
「これなあ、セルビー、一体全体、この花は君が買ったのか?」
「花が好きなんです。」セルビーが言った。
「これをどうするつもりなんだ? 寝られないだろう。」
「寝られます。あなたが手伝ってくれてパンジーをベッドからのければ。」
「どこに置く場所があるの?」
「コンセルジュにプレゼントするわけにはいかないものでしょうか?」
言ったとたんに彼は後悔した。いったいクリフォードは彼をどう思うだろう! 彼は合計金額を聞いている。コンセルジュへの臆病な申告のためにこれほどの贅沢を敢えてしたと信じてもらえるものだろうか? 容赦のないコメントを下すラテン区の人たちはどんな風に言うだろう? 彼は嘲りを恐れていたし、クリフォードの噂も知っていた。
そこに、誰かノックする人がいた。
セルビーはクリフォードを追われるものの表情で見た。その表情は若い男の心に触れるものがあった。それは告白であり、同時に哀願であった。クリフォードは飛び上がると、花々の迷宮を辿って抜け出し、ドアの割れ目に片目を当てて言った「そこにいるのはどんな奴だ。」
この上品な歓待法はラテン区固有のものである。
「エリオットと、」後を見ながら言った「ローダンだ、彼らのブルドッグもいる。」そこで彼は割れ目から二人に呼びかけた。
「階段の所で座って待っていてくれ; セルビーと僕はすぐ出るよ。」
分別は徳である。ラテン区にはこれがほとんどなく、リストに載っていることを当てにすべくもなかった。彼らは座って口笛を吹き出した。
やがてローダンが声をかけた、「花の香りがするぞ。あいつら中で宴会をやってるんだ!」
「もっとセルビーのことを知るべきだぞ」扉の陰でクリフォードがうなった。その時、もう一人の人物は焦って彼の破れたズボンを交換していた。
「僕らはセルビーのことを知っている。」エリオットが勢いづいて言った。
「そうだ、」ローダンが言った「彼はレセプションを用意し、花を飾って、そこにクリフォードを招待しているんだ。俺たちが階段に座っているというのに。」
「そうだ、ラテン区の若さと美がお祭り騒ぎを演じている一方で、」そこで、突然不安そうにローダンがほのめかした; 「そこにオデットがいるのか?」
「どうなんだ」エリオットが詰問した「そこにコレット(*2)がいるのか?」
そこで彼の声は悲しげな遠吠えにまで高まった、「そこにいるのか、コレット、僕がここのタイルを踵で蹴っているというのに?」
「クリフォードはどんなことでもやりかねないぞ」ローダンが言った; 「リュー・バレーに袖にされて以来、あいつの心根はひねくれちまった。」
エリオットは声を大きくした; 「実はなあ、僕らはリュー・バレーの家の中に花が運び込まれるのを見たんだ。昼に。」
「花束とバラだ」ローダンが特定した。
「彼女へだろうな」ブルドッグをじゃらしながらエリオットが加えた。
クリフォードは急に疑惑を抱いてセルビーに向き返った。セルビーは鼻歌もので手袋を選び、シガレットを一ダース選び、それらをケースにしまった。そしてサボテンの所に歩いて、嬉しそうに花を一輪つまんでボタン穴に刺すと、帽子とステッキを拾い上げてクリフォードに微笑んだ。クリフォードは激しく煩悶した。
月曜日の朝、ジュリアンのアトリエの学生は、場所取り合戦をしていた; 出席を取る時に適切な場所にいたいと願って、ドアが開いてからこのかた望みのスツールをおずおずと占拠していた学生達は、優先権をもつ学生に追い払われてしまった; 学生達はパレットや、ブラシや、ポートフォリオを奪い合い、シセリとパンを寄越せと声高に叫んだ。前者は汚らしい元モデルで、パルミエールみたいだった頃にはユダ(*1)のポーズを取ったものだったが、いまでは古パンを一スーで売り、シガレット代を稼ぐことでよしとしていた。ムシュー・ジュリアンが歩み入り、父親のような微笑みを見せ、また歩み去った。彼が消えた後は、事務員という幽霊の登場だ。それはずる賢い人物で、いがみ合う集団の中を獲物を探して軽やかに動いた。
学費を滞納していた三人が捕まり呼び出しを受けた。その後を、花の香りのする四人目の学生が付いていき、事務員を出し抜いてドアからエスケープしようとしたが、結局暖炉の後ろで捕まった。革命が尖鋭化しようかというその時に、「ジュレ(*2)!」と吠える声が上がった。
ジュレが来て、大きな茶色の目に宿る悲しい諦観をもって、二件の諍いを仲裁し、皆と握手をして、群衆の中に溶けさり、平和と善意の雰囲気を残して行った。ライオンは子羊と共に座り、マシエ達は自分と友人達にもっとも都合の良い場所をマークして、モデル台に乗ると、出席を取り始めた。
伝言が回された「今週はCから始まるぞ。」
そうなった。
「クリソン!」
クリソンは閃光のように飛び上がって、前席の前に、自分の名前をチョークで書いた。
「カロン!」
カロンは自分の場所を確保しようと走り去った。バン! イーゼルが吹き飛んだ。フランス語で「Nom de Dieu!(クソ!)」、英語で「どこに行こうってんだこのド○呆!。」 ドカン! 絵具箱がブラシとボードを道連れに落ちた。「Dieu de Dieu de──(くっそー)」コツン! 打撃、短い襲撃、抱擁と取っ組み合い、そして厳めしくも恨みがましいマシエの声:
「コション(*3)!」
点呼が再開された。
「クリフォード!」
マシエは一息おいて閻魔帳から指一本分目を上げた。
「クリフォード!」
クリフォードはそこにはいなかった。彼は直線距離にして約五キロメートル(*4)離れた所におり、一秒ごとに遠ざかっていた。といっても、早足で歩いているのではなく、──反対に、彼に固有なだらだらとした歩き方でぶらぶらしているのであった。彼の隣にはエリオットがおり、背後は二匹のブルドッグが守っていた。エリオットは「ジル・ブラス(*5)」を一見面白そうに読んでいたが、らしくないクリフォードの精神状態を騒々しいお笑いだと考えていて、次々に現れる奥ゆかしい微笑に対するお楽しみを抑えていた。クリフォードは、それに気づいていて不機嫌になり、むっつり黙ってリュークサンブール公園に向かうと、北テラスの脇のベンチに座り込んで嫌そうに景色を眺めた。エリオットはリュークサンブールの規則に従って、二匹の犬を繋ぎ、何か問いたそうな目で友人を見ると、「ジル・ブラス」と奥ゆかしい微笑の世界に戻った。
それは完璧な日だった。陽はノートルダムの上にかかり、市をキラキラと輝かせていた。栗の木の柔らかな葉がテラスに影を落とし、小径に歩道に、点々と狭間飾りを作った。それはあまりにも青く、クリフォードはここで、これまで見せかけでしかなかった凶暴な「印象」に対する刺激を受け取れたはずなのである。が、彼の経歴におけるこの時期の常として、彼の思考はもっぱら専門外の何かに向かっていた。周りでは雀達が喧嘩しあいながら求愛の歌をさえずっていた。薔薇色の大きな鳩が木々を飛び交い、陽の光の中をハエがぐるぐるまわり、花々が千の香りを振りまいた。それらの香りはクリフォードの心をけだるく物悲しくした。こういった影響のもとに、彼は語った。
「エリオット、君は僕の真の友だ──」
「いらいらする、」エリオットは紙を畳んで答えた。「ちょうど僕も考えていた所だ、──君はまたしても誰か新しいペチコートの後をついて歩いているんだよな。それで、」いきり立って続けた「もし、そんなわけで僕をジュリアンのアトリエから遠ざけたのだとしたら、もし、僕を小馬鹿にしきるのが目的だとしたら──」
「馬鹿になんてしていない」クリフォードは静かに抗議した。
「なあ、」クリフォードは叫んだ「君はどの面下げて僕に、『また僕は恋をした』などと言うつもりになれるのかねえ?」
「また?」
「そうだよ、またのまたのまたのまた──ジョージ(*6)によると、そうだろう?」
「今度は」クリフォードは悲しく告げた「本気なんだ。」
一瞬エリオットは彼に両手を置き、混ざりけない救いのなさに笑った。「へー、続けろ続けろ; じゃあ、こういうのがいるよなあ、クレマンスやマリー・テレクやコセットやフィフィーヌ、コレット、マリー・ヴェルディエ(*7)──」
「みんなチャーミングだ、最高にチャーミングだ、けれど本気じゃなかった──」
「ならば、モーゼよお救いください」エリオットが荘厳に言った「今挙げた名前の人物全てがそれぞれに、今回と同じような苦悩をもって君の心を裂き、ジュリアンのアトリエにおける僕の場所を失わせてきた。全員が、一人一人、それぞれ、順番に。君はこれを否定するか?」
「君の発言は真実に基づいているのかもしれない──ある意味では──けれど信じて欲しい、その時はその一人だけに貞節を守っていると──」
「次のがくるまではな。」
「けれどこれは──これは本当に違うんだ。エリオット、信じてくれよ、もうぼろぼろに参ってしまった。」
そこでは他にするような事もないので、エリオットは歯軋りしながら聞いた。
「そ、──それはリュー・バレーなんだ。」
「いいだろう、」エリオットは嘲って「もし君があの娘のことでふさぎこみ嘆くならば、──あの娘のお陰で、君も僕も地面が割れて我々を飲み込んでしまえばいいのにという気分に何度もなった──いいだろう、そのまま行けば!」
「行くぞ──かまうもんか; 臆病さも飛び去った──」
「ああ、君が生まれた時に持っていた臆病さはどこへやら。」
「僕は必死だ、エリオット、僕は恋しているのだろうか? こんなく○ったれに惨めな気分になったことはこれまでなかった。眠れない; 本当に、食事も喉を通らない。」
「コレットの時も同じ徴候を示していたな。」
「聞いて、くれるか?」
「ちょっと待てよ、残りは聞かなくても暗唱できるぞ。こっちから質問させてくれ。リュー・バレーは純粋な娘だと信じているのか?」
「ああ」クリフォードは赤くなって言った。
「彼女を愛しているのか、──君が綺麗な空気頭の尻を片端から追い回しているのとは違って、──心から愛しているのか?」
「ああ」もう一人は頑固に言った「僕は彼女と──」
「ちょっと待てよ; 結婚したいのか?」
クリフォードは真っ赤になった。「うん」ぼそっと言った。
「君の家族にとって喜ばしいニュースだな」エリオットは憤怒を抑えてどなった。『親愛なる父上、僕は魅力的な町娘(*8)と結婚したところです。父上が彼女の母親共々彼女を諸手を上げて歓待なさると僕は確信しています。彼女の母親は最も尊重すべき、最も清潔なる洗濯女です。』おお天よ! 暗唱できる部分のちょっと先はこうなるだろうな。僕の頭が我々二人にとって十分冷静であることを、若人よ、君の星に感謝せよ。しかし、今回の件に関しては、僕は恐れていない。リュー・バレーは君の野望を、疑いなくこれで終わりになるようなやり方で潰した。」
「リュー・バレーは、」クリフォードは居住まいを正して口を切ったが、突然話をやめた。木漏れ日がまだらに金の斑点を輝かせる所、陽の当たる小径に沿って、リュー・バレーがやって来たからだ。彼女の上着には汚れがなく、大きな麦わら帽子は白い前頭部から少しはみ出し、目に影を落としていた。
エリオットは立ち上がり挨拶した。クリフォードは頭に被ったものをあまりに哀れそうに、あまりに哀願するように、すっかり惨めな様子で取ったので、リュー・バレーは微笑んだ。
微笑みは大層愉快で、心底驚いたクリフォードは両足で立っていられなくなり、わずかにぐらついた。彼女は思わず微笑んだ。しばらくして、彼女はテラスの椅子に座るとミュージックロールから本を取り出し、ページを繰り、目当ての場所を見つけると、開いたまま裏返して膝の上に置き、ちょっとため息をつき、ちょっと微笑み、市内を見渡した。彼女はフォックスフォール・クリフォードを全く忘れて果てていた。
やがて彼女は本を再び手に取ったが、読むでもなくコサージュのバラの位置を直し始めた。バラは大きく赤かった。それは彼女の心臓の上で火のように輝き、今、絹の花弁の下に震える彼女の心を火のように暖めた。リュー・バレーは再びため息をついた。彼女はとても幸せだった。空はあまりに青く、空気はあまりに柔らかく香りを含み、陽光は愛撫するようで、彼女の心は彼女の中で歌った、胸の中のバラに。それが歌っていたのは: 「過ぎ行く群衆の中から、昨日の世界の中から、通り過ぎる幾百万のものの中から、振り向いて私の隣にきた人がいる。」
このように彼女の心は胸のバラの下で歌っていた。そのとき二羽の大きなネズミ色の鳩が囀りながらやって来て、テラスに舞い降り、リュー・バレーが明るく笑い出すまで挨拶し、尾を立てて誇らしげに歩き、頭をぴょこんと振り、ぐるぐる回った。笑いながら目を上げると目の前にクリフォードがいるのが見えた。彼は帽子を手に取り、ベンガル虎の心も動かそうという魅力的な微笑みで顔を飾りたてていた。
リュー・バレーは一瞬顔をしかめて、不思議そうな顔でクリフォードを見、彼の挨拶が頭をぴょこぴょこしている鳩と良く似ているのに気付いた。思わず彼女の両唇は離れ、最高に魅力的な笑みとなった。これがリュー・バレー? こんなに変わってしまって、自分で自分が分からないくらい変わってしまって; だが、おお! 他のもの全てを溺れさせる彼女の心の歌がある、唇に震える歌が。口に出したくてしょうがない歌、笑いとなってこぼれる歌、何がなくても笑え、──誇らしげに歩く鳩にも、──そしてクリフォード氏にも。
「それで、あなたは私がラテン区の学生さんに挨拶を返すからといって、ご自身が友人扱いされるだろうと考えたのですか? 私はあなたを存じません、ムシュー、が、空虚というのが男性の別名です;──ムシュー空虚、満足して下さい、私は作法通りでなければなりません──おお、あなたに挨拶を返すにあたってはことさら作法通りであるべきです。」
「ですが、お願いですから──あなたに敬意を払わせていただけないものでしょうか、とても長い間──」
「おおあなた、敬意などどうでもいいのです。」
「あなたと話ができる許しを僕だけにもらえませんか。話すのは時々でいい──たまにで、──本当にたまにでいいので。」
「あなたに許すなら、どうして他の方には許してはいけないのでしょう。」
「構いません、──僕は分別そのものになりますよ。」
「分別──なぜ?」
彼女の目は澄み切って、クリフォードは一瞬たじろいだ。が、それはほんの一瞬のことだった。次には無関心という悪魔に捕えられ、彼は座って自分自身を、魂も肉体も、所有物も財産も、それに捧げた。彼はその間中ずっと、自分が愚かで、女性にのぼせ上がってもそれは愛ではないことを知っていた。また、自分が口にした言葉が、徳義上逃げ場のない所から自分に跳ね返ってくることも知っていた。エリオットはその間中ずっと、しかめ面で噴水広場を睨みつけ、クリフォード救援に駆けつけようと願う二匹のブルドッグを荒々しく検査していた──犬ですら、エリオットが心のうちで嵐のようになり、呪いの言葉を吐くので、何かまずいことが起きているのを感じていたからだ。
話し終えたとき、クリフォードは興奮で輝いていたが、リュー・バレーがなかなか言葉を返さないので、状況が落ち着いてくると共に、彼の熱意は冷めていった。そして後悔が忍び寄ってきた。だが、彼はそれを脇に押しのけ、再び抗議を開始した。リュー・バレーは最初の一言で彼を押し止めた。
「ありがとう。」彼女は言った、大変重々しく。「私に結婚を申し込んだ男の方は、これまで一人もいませんでした。」彼女は振り向いて市を見晴るかした。しばらくして、再び話しだした。「あなたが私に差し出しているのは大したものです。私はひとり。何もありません。私は無です。」再び振り向いてパリを見た。完璧なその日の陽光の中、パリは明るく、美しかった。彼は彼女の目を追った。
「ああ、」彼女はつぶやいた「厳しいことです、──働くことはいつでも厳しい──いつでもひとりぼっちで、あなたが自慢に思うような友人は一人もいないし、差し出された愛は街頭を、大通りを意味します──情熱が死ねば。それを私は知っている、──私たちは知っている、──私たち互いに何も持ち合わせない他人は──何もない私たちは、──そして自分たち自身を、無条件に与えるのです、──愛しているなら、そう、無条件に──心と魂を、結末がわかっていても。」
彼女は胸のバラに触れた。ひと時、彼女は彼を忘れたようだった。そして静かに言った──「ありがとう。私は本当に感謝しています。」彼女は本を開き、バラの花びらを一枚取ってページの間に挟んだ。そして目を上げて優しく言った「断らせていただきます。」
クリフォードが本復するには一ヶ月を要したが、最初の週の終わりには権威者エリオットによって回復期にあると宣告された。彼の荘重な挨拶に、リュー・バレーが真心をこめた挨拶を返すことが、回復を助けた。一日に四十回、彼は自分を振ってくれた事でリュー・バレーを祝福し、我が幸福の星に感謝を捧げた。同時に、おお私たちの心の不思議なることよ! ──彼は捨てられた者の苦しみを味わっていた。
エリオットはいらついていた。一部にはクリフォードが無口なことで、一部にはどういうわけかリュー・バレーの冷淡さが緩んできたことで。クリフォードと仲間達が東のコースをとってカフェ・ヴァシェットに向かうと、彼らはしばしばミュージックロールを持ち麦わら帽子をかぶったリュー・バレーがセーヌ通りを歩くのとすれ違い、一隊は帽子を取って丁重に挨拶した。そんなとき、リュー・バレーは頬を染めてクリフォードに微笑んだりするのである。エリオットの胸の内に潜んでいた疑惑が首をもたげた。だが、彼は何も見つけることができず、結局は自分の理解の埒外にあるとして投出し、単にクリフォードは馬鹿であると決めつけ、リュー・バレーに対する自分の意見を留保した。この間ずっとセルビーは妬いていた。彼は始めそれを認めたくなくて、一日アトリエをサボって田舎に出た。が、当然のことながら森も野原も彼の症状を悪化させた。小川はリュー・バレーと言ってごぼごぼ流れ、草原に散らばる草刈り人達が互いに呼びかう言葉は「リュー・バーレーー!」という震える声で終わった。田舎で過ごした一日のお陰で、彼は一週間というもの頭に来どおしで、むっつりしながらジュリアンのアトリエで働く間も、拷問のように、クリフォードがどこにいて何をしようとしているのかを知りたくて知りたくてたまらなかった。それが行き着く所までいったのが、日曜日のあてどない彷徨であった。それは一旦シャンジュ橋(*1)で終わり、そこからまた始まり、モルグにまで陰気に延び、大理石の橋でまた終わった。セルビーもそれが無駄なことと分かっていて、自分の庭でミントの水薬を飲んで保養に励むクリフォードに会いに行った。
二人は一緒に座って、道徳と人の幸福について論議し、お互い相手が大層愉快な奴だと気付いたが、セルビーの方はクリフォードに心からの喜びを吹き込めなかった。だが、ジューレップは嫉妬の棘の上に広がって慰めとなり、しおれた者には希望の滴りとなった。セルビーが暇を告げたとき、クリフォードも席を立ち、負けまいとしたセルビーがクリフォードに部屋までついて行くと言い出すと、クリフォードはセルビーを途中まで送ることにした。そこで二人は別々になれないということが分かったので、一緒に夕食をとり、「ひらひら飛ぶ(*2)」ことにした。「ひらひら飛ぶ」とはクリフォードの夜間徘徊の謂いであり、恐らく彼がもくろんだお祭り騒ぎを何よりも良く表していた。夕食をとったのはミニョンの店(*3)だった。セルビーがシェフに注文をしている間、クリフォードは執事に父親のような目を注いでいた。夕食はうまくいった、あるいは一般的に言ってうまくいった部類だった。デザートに向かいながら、セルビーはずっと遠くから誰かが話す声を聞いた「キッド・セルビーがお大尽みたいに酔っぱらってら。」
彼らの脇を一団の男達が通り過ぎていき、彼は自分が握手をして大声で笑ったような気や、みんなウィットに富んでいるような気がした。対面にはクリフォードがいて、ダチであるセルビーに対する消えることのない信頼を罵っていた。他にも誰かがいるようで、二人の側に座ったり、すれ違ったりして、磨かれた床をスカートがこする音を続けざまに残して行った。バラの香り、扇のサラサラいう音、丸みを帯びた腕の感触と笑い声がどんどん曖昧になっていった。部屋は霧に覆われているようだった。そのとき、一瞬の内に全ての物体が痛いくらいはっきりとし、ただ形態と容貌が歪み、声が鋭く聞こえた。彼はすっくと立ち上がり、冷静に、重々しく、しばし克己心を発揮したが、酷く酔っていた。彼は自分が酔っていることを知っており、油断なく警戒し、あたかも自分が肘の所にいる泥棒であるかのように厳しく我を疑った。この自己統御能力のおかげで、クリフォードは彼の頭を安全に流水の下に持って行き、なんとか街頭に出ることができるように身だしなみを整え、本人は酔っぱらっているが、同伴者までは酔っていないと思わせる程度にすることができたのである。しばらくの間、彼は自己統御能力を維持した。彼の顔はわずかに青ざめ、通常よりわずかに締まっているだけだった; 会話はわずかに遅くなり、気難しくなった。彼が誰かのアームチェアで眠ったままのクリフォードと平和裡に別れたのは真夜中のことだった。長いスエードの手袋をだらしなく片腕につけ、首には羽毛のあるボアを巻いて隙間風を防いだ。ホールを抜け、階段を下りると、彼は見知らぬ居住区の歩道の上にいた。機械的に彼は目を上げて通りの名前を見たが、その名前にはなじみがなかった。通りの先にはいくつかの灯りが集まっており、彼はそちらの方に足を向けた。灯りは期待していたより遠くにあることが明らかになり、長考の末に彼は、自分の両目が神秘的にも本来の位置を離れ、鳥の両目のように頭の両側に寄ってしまっているのだと結論を下した。自分の身体に起きたこの変容が齎すであろう不便を考えると彼は暗くなった。彼は頭を鶏冠のようにぴんと立て(*4)、頸部の可動性を試してみた。そのとき計り知れない絶望が彼を襲った、──涙が涙管を伝い、心は融解し、彼は木に衝突した。このショックで彼は理解に至った; 胸の内に沸き上がった荒々しい優しさを抑え込み、彼は帽子を取り上げてもっときびきびと歩き出した。唇は白くやつれて、歯を食いしばっていた。彼は進路を大変上手に保ち、ほとんどふらつかなかった。なんとも長ったらしい時間の後、彼は辻馬車の列の脇を通り過ぎているのに気がついた。赤、黄、緑、明るいランプが彼を苛立たせた。自分のステッキでそれらを打ち壊したら愉快だろうと感じたが、その衝動を抑えて彼は通り過ぎた。後になって突然、辻馬車に乗れば疲労を軽減できるだろうと思いつき、引き返してみたものの、辻馬車は既に遠く、ランタンがあまりに明るくややこしい感じがしたので取りやめにして、気を落ち着かせてあたりを見回した。
一つの影が、塊が、大きく、ぼんやりと、右側に立っていた。彼はそれが凱旋門だと気付き、ステッキでそれを重々しく叩いた。その大きさが彼を苛立たせた。それは大きすぎると彼は感じた。何かがカタカタと舗道に散る音がし、多分自分のステッキだろうと思ったが、大して気にならなかった。彼が自分自身と不服従の徴候を見せていた右足の制御を取り戻したとき、自分がコンコルド広場を横切っているのに気付いた。その足取りといったら、誰かにマドレーヌ(*5)の上を歩くよう脅されているかのようだった。そんなことはするものではない。彼はさっさと右に向いて早足で橋を渡りブルボン宮殿を通り過ぎ、サン・ジェルマン大通りにまろび入った。彼は陸軍省の大きさを個人的な侮辱と受け取ったが、それでもすたすた進み、ステッキをなくしたのを残念がった。それで鉄の柵をこすりながら通り過ぎたら面白いだろうと思ったからだ。彼はステッキの代わりに帽子を使って実行したが、気付いた時には帽子で何をしたかったのか忘れてしまい、荘重に頭の上に戻した。次いで彼は、暴力的に膨れ上がってきた座りこみ泣き出したいという思いとの闘争を強いられた。この思いは、レンヌ通り(*6)にやってくるまで続いた。しかしそこで彼はクー・デュ・ドラゴン(*7)にせり出したバルコニーの竜をじっと見てみたいという考え取り憑かれ、だいぶ時間が経ってから、そんな所には何の用事もないと彼が漠然と思い出すと、立ち去った。ゆっくりした歩みだった。座りこみ泣き出したいという思いは孤独と反省への願いに席を譲った。ここで、彼の右足は従順さを失って、左足を攻撃し、出し抜いて、彼の背中を木の板に貼付けた。その木の板は行く手を閉ざすように見えた。彼は回り込もうとしたが、通りは閉鎖されていた。押し開けようとしてみたが駄目だとわかった。障壁の内部に、舗道に使う石を積んだ柱があり、その上に赤いランタンが乗っているのに彼は気付いた。これは愉快だった。もし大通りが閉鎖されたら、彼はどうやって帰宅すればいいのだろう? しかし彼は大通りにいるのではない。裏切り者の右足は彼を騙して迂回路に向かわせた。そこ、彼の背後には大通りとそれに沿う果てしないランプの列があった。ではこちら、土とモルタルと石が積み上げられた狭く荒れ果てた通りは何なのだろうか? 彼は目を上げた。障壁には黒々とした文字でこう書いてあった。
RUE BARRÉE.
彼は座り込んだ。彼を知る二人の警官がやってきて起きるように言ったが、彼は個人的嗜好を楯に口答えをし、警官は笑いながら通り過ぎて行った。というのも、そのとき彼は一つの問題に吸収されていたからだ。それは、どうしたらリュー・バレーに会えるかという問題であった。彼女はともかくも、この鉄製のバルコニーがありドアが閉ざされた大きな家のどこかにいるのであり、ではどうすればいいか? すぐに浮かんだ単純なアイデアは、彼女が来るまで叫ぶことだった。このアイデアはもう一つの同様に明快なアイデアにとって代わられた、──彼女が来るまでドアを叩く; だが、あまりにも確実性に欠けるというので、これら二つはいずれも最終的に却下され、彼はバルコニーによじ登って、慇懃に窓を開け、リュー・バレーのことを尋ねることにした。その家には、彼の目に見える範囲で、あかりが灯っている窓は一つしかなかった。それは二階にあり、そこに彼は目を向けた。次いで、木の障壁に乗り、石の柱の上に登り、歩道に到達した彼は、足がかりにすべくファサードを見上げた。無理そうだった。だが、突然の熱が彼を捉えた。盲目な、酔っぱらいの頑固さが。頭に血が上り、耳の奥では海に落ちる雷のような鈍い音がした。彼は歯を食いしばり、窓枠に飛びかかり、よじ上り、鉄の棒にぶら下がった。理性なんてすっ飛んで行った; 頭の中には沢山の声が爆発し、どくんどくんと気違いのように打つ心臓は飛び出しそうになり、彼はコーニスと壁の出っ張りを握りながらファサードに沿って進んだ。パイプと鎧戸を抱えてよじ上り、灯りの点いた窓の脇のバルコニーに乗り込んだ。彼の帽子は落ち、窓枠の方に転がって行った。ひととき彼は息を切らして柵に凭れた、──そのとき、ゆっくりと内側から窓が開かれた。
しばらくの間、二人は互いを見つめ合った。やがて娘はおぼつかない足取りで二歩、部屋の中に後ずさった。彼は彼女の顔を見た、──もう真っ赤だった、──彼は彼女がランプに照らされたテーブルの脇にある椅子に身を沈めるのを見た、そして背後にあるドアのように大きな鎧戸を閉めながら、何も言わず彼女の後について部屋に入った。そこで静かに彼らは互いを見た。
その部屋は小さく白かった; あたりのすべてが白だった、──カーテン付きのベッド、隅の小さな洗面台、素地のままの壁、陶器のランプ、──そして彼自身の顔、──自分で見られるならば、だが。しかしリューの顔と首は朱に染まり、彼女の脇の炉床にある、花をつけたバラの木と同じ色だった。彼の頭に声を出そうという考えは浮かばなかった。彼女も期待していないようだった。彼の心は部屋の印象と戦った。白さが、全てのものの極端な純粋さが、彼を占領し──戸惑わせた。目が暗さに慣れてくるにつれ、周りのものの姿が浮かび上がり、ランプの灯の円形の中で、それぞれの位置が分かるようになってきた。ピアノ、石炭バケツ、小さな鉄のトランク、バスタブがあった。ドアに木の掛け釘が一列をなし、白いチンツのカーテンが衣類を覆っていた。ベッドの上には傘と大きな麦わら帽子がおいてあり、テーブルの上には開いたミュージックロール、インクスタンド、五線紙(*8)があった。彼の後ろには衣装棚が立ち、鏡をこちらに向けていたが、どういうわけかこの時は自分の顔を見ても気にならなかった。彼はすすり泣いていた。
娘は座ったまま、言葉もなく彼を見ていた。彼女の顔は無表情で、だが、時折、ほとんど目に見えないくらい唇を震わせて。彼女の目は、日光の下ではあれほど美しい青なのに、暗く、ヴェルヴェットのように柔和で、息をする毎に頬の色が暗くなりまた白くなった。街角で彼が見かけた時より小柄で細く見えた。頬の曲線には、今や、ほとんど子供のような何かがあった。やっとのことで振り返って背後の鏡に映る自分の姿を目にすると、彼の体を恥ずべき物を見た時のような衝撃が駆け抜け、曇った思考がはっきりしていった。一瞬彼らは視線をかわし、彼は目を床に落とし、唇を締めた。内心の煩悶に彼は頭を垂れ、全ての神経は切れそうなまでに張りつめた。今、それは去った、内なる声が聞こえてきたからだ。彼はそれを聞いた。ぼんやりとした興味があったが、結末は既にわかっていた、──確かにほとんどどうでもよかった; 彼にとっては常に同じ結末だろうから。彼は今や理解した、──彼にとっては常に同じ結末だろうから、そして彼は聞いた、ぼんやりと興味を持ち、内から沸き上がってくる声を。しばらくして彼は立ち上がり、彼女も一緒に立った。小さな片手をテーブルに乗せて。やがて彼は窓を開け、帽子を取り、窓をまた閉めた。彼はバラの木の所にいき、顔を花々に触れさせた。一輪の花がテーブルの上の水の入ったコップに活けてあった。娘はそれを機械的に抜いて、唇に押しあて、彼の脇のテーブルの上に置いた。彼は言葉なくそれを取り、部屋を横切って、ドアを開けた。踊り場は暗く静まり返っていたが、娘がランプを掲げて彼の後を静かについていき、磨かれた階段を玄関ホールまで下りて行った。彼女は閂を解き、鉄の潜り戸を引き開けた。
バラを手に、彼はそれを通り抜けた。
『黄衣の王』の掉尾を飾る恋愛譚。「草原の聖母の街」のネタを更にすすめたものですね。登場人物も被っており、「草原の…」の前日譚としても読めるのではないかと思います。ヴァレンティーヌやリュー・バレーが「チェンバース・ガール」の原型なのでしょうね。原文(ここやWikisourceで読めます)は大変言葉遊びが多く、ユーモア小説家としての側面が良く出ています。
これでネフレン・カさんの翻訳とあわせて、チェンバースの『黄衣の王』の散文作品全ての邦訳がネット上に存在するようになったわけです。同時に東京創元社が『黄衣の王』に後半の作品を含めなかった理由が分かるかと思います。チェンバース作品をけちょんけちょんに書いているE.F.Bleilerですが、初期の作品はそれでも文学的な努力が感じられるとしています(誰かに助けてもらったんだろう、と仄めかしてもいますが)。その辺も読み取っていただけるでしょう。
第一連は Edward Fitzgerald訳 「ルバイヤート」から。
"For let Philosopher and Doctor preach
Of what they will and what they will not,──each
Is but one link in an eternal chain
That none can slip nor break nor over-reach.""Crimson nor yellow roses nor
The savour of the mounting sea
Are worth the perfume I adore
That clings to thee."
"The languid-headed lilies tire,
The changeless waters weary me;
I ache with passionate desire
Of thine and thee.""There are but these things in the world──
Thy mouth of fire,
Thy breasts, thy hands, thy hair upcurled
And my desire."
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____
│ │ │
(__)_)
(日本語版Wikipedia「モナー」より)