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33日目
土山宿〜水口宿
2002年12月23日(月)
晴れ
国道1号線との交差点。この付近は今宿という地名です。そういえば、東海道沿いの民家にはずっと旅籠跡を示す石碑が建っていました。もしかしたら、もともと宿場でもあったのでしょうか。国道を越えると「水口宿」とかかれた大きな標柱が。水口宿は近いのでしょうか。先を急ぎます。

今宿〜土山一里塚
旧道を進むこと30分。時間は11時1分を指していました。東海道は再度国道1号線を横切りますが、国道を挟んで東海道沿いに石碑や灯籠などが建てられた一画があります。土山側には「今宿」の文字が書かれた石碑が。水口側には水口宿と書かれた標柱が立っています。

国道を横切り、比較的広い通りとなった東海道ですが、すぐに右へ分岐します。一見、ここが本当に東海道?と疑ってしまうような分岐ですが、道の両側に並ぶ民家の前には、旅籠跡を示す石碑が並んでいます。でも、どうしてここに旅籠が?間の宿でもあったのでしょうか。

やがて、東海道の左側に広場が現れると、そこが土山一里塚跡です。

左上:今宿の石碑
右上:水口宿と書かれた漂柱
左下:標柱の先の分岐
右下:土山一里塚跡

今郷付近の旧道
今郷付近の東海道は、野洲川沿いの県道と合流・分岐を繰り返しながら、基本的には県道と平行して水口宿を目指します。

今宿で県道から分岐した東海道は、一旦県道に合流します(写真左上)。とはいうものの、完全に合流するのではなく、そのまま道なりに続いています。

野洲川に架かる岩上橋付近で県道に再度合流した東海道(写真右上)、今度は完全に合流しますが、すぐに右へ分岐します(写真左下)。この辺りの分岐はすべて右側でわかりやすいため、迷うことはありません。
 

新城付近の旧道
分岐後、東海道は県道から離れ、住宅地の中を進みます。しばらくすると道が左右に分岐しています(写真左)。東海道は右へ曲がるのですが、ここで左に向かってしまい、県道に合流してしまいました。

正しいルートに戻ると、やがて旧家の残る道筋となります。広い通りを越えると、いよいよ水口宿です。

水口宿 東見附跡
やがて、右側に「水口宿 東見附」と書かれた標柱がありました。どうやら、ここが水口宿の入り口のようです(写真左)。松元寺が近くにありましたので、ちょっとトイレ休憩。東海道に戻り、広い通り(先ほどの県道)を横切ると、東海道は右に曲がり、旧家のある宿場らしいたたずまいになります(写真右)。

本陣跡・高札場跡
水口宿は、東海道が3筋に分かれている、珍しい宿場です。分かれる手前に本陣があるはずですが・・・。見落としやすいのですが、家と家との間に細い路地があり、その奥に明治天皇聖蹟の碑と、本陣跡の説明版がありました。
本陣跡を過ぎると、道が左右に分かれる分岐点に、高札が復元されています。

3筋の分岐地点
東海道は、本道を中央にして両側に分岐し、宿場内は3筋となります。その分岐点が写真の地点です。最初の分岐は高札のある場所。ここで東海道は本道(左の道)に対し右に分岐します。左の本道を進むと、再び分岐点があります。今度は本道に対して左に分岐しますので、本道は右の道となります。

左の写真:最初の分岐(本道は左)
右の写真:次の分岐(本道は右)

問屋場跡〜京側の分岐点
本道を進むと、バスターミナルを越えた先に「問屋場跡」の案内板がありました(写真左)。今は料亭のような建物があります。
本道を進むと、やがてアーケードとなり、水口の商店街になります。休日のためか、ほとんどの店はお休みでした。
アーケードを抜けると、やがて3筋の東海道が合流します。その地点が右の写真です。京側から見ると、3筋に分かれているのがよくわかります。

水口石橋駅前
近江鉄道の小さな踏切を渡ると、東海道は水口石橋駅の横を通ります。頭上には駅を示す案内板がありました。きりがいいので、今回の行程の終了地点としました。
時間を見ると13時16分。かなり早いように思えますが、東京に戻るためには、ここから近江鉄道で米原に出て新幹線に乗らなければなりません。近江鉄道は1時間に1本程度しか本数がないため、かなり待つようです。そこで、水口は城下町でもあるため、水口城址を見ることにしました。堀は残っていたものの、それほど大きな城ではなく、城址は公園になっていたため、散策程度ですませました。水口城址の最寄り駅は「水口城南」。そこから近江鉄道に乗って、二泊三日の東海道の旅を終えました。
余談ですが、米原駅近くには中山道が走っています。つまり、水口宿は、東海道線から最も離れている宿場なわけです。次回は水口宿からスタートです。



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