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34日目
水口宿〜石部宿
2003年2月8日(土)
2003年になって最初の東海道は、水口宿からスタートです。気がつけば、残すところ「石部」「草津」「大津」の3宿。京はもうすぐそこ。今回の行程で一気に草津宿を目指します。
天気は曇。米原で新幹線を降り、近江鉄道で水口石橋へ。小さな無人駅で降り、京へ向けたラストスパートの始まりです。

[11時40分] 水口宿スタート
新幹線と近江鉄道を乗り継いで、ようやく水口石橋駅に着いた頃には11時を回っていました。ここは、東海道新幹線と東海道が最も離れている場所。それもそのはず、米原付近を通っているのは中山道なのですから。米原を出てしばらくは、中山道に沿って近江鉄道が走ります。途中、愛知川宿(江戸から数えて66番目の宿場)といった文字が・・・。ものすごく気になりました。まぎれもなく、中山道の宿場です。でも、今は東海道を西へ向かうことが目的です。

11時40分。水口宿をスタートです。宿場はすでに過ぎていますが、水口は城下町。現在の東海道は町の中を通ります。左手に湖東信用金庫が見えたら、右に曲がります。途中、おもしろいものがありました。標識かとおもったら、なんと広重の絵が頭上に描かれていました。

何度か曲がると、やがて曲がり角に「水口石」を見つけました。
<写真説明>
左上:湖東信用金庫付近(右折)
写真右上:広重の絵
写真左下:水口石

[12時12分」 一里塚跡
水口石を過ぎ、旧道を進むと、右側に「五十鈴神社」が見えてきます(写真左)。この神社の境内東側には、水口一里塚跡(写真右)がありました。この一里塚、元々は、もう少し南にあったらしいのですが、水口城の整備に伴い、東海道が北に移動したため、現在地に移転したとのことです。

[12時21分] 北脇縄手と松並木
民家の建ち並ぶ町の中を抜け、東海道の両側に田園風景が広がります。道は真っ直ぐに伸びていて見通しがよく、どこか長閑な場所となりました。
田園風景の広がる東海道の左側に、「北脇縄手」と書かれた石碑がありました。どうやら、このあたりは江戸時代に北脇縄手と呼ばれていた場所のようです。石碑の先には松並木もありました。

バス停〜分岐〜泉一里塚
柏木小学校を過ぎると、JA(農協)の前におもしろいバス停がありました。バス停の横に松の木が、松の木の隣には瓦屋根のついた純和風の待合所がありました。なかなか雰囲気がよくて、これならバスを待っていても大丈夫ですね。

バス停を過ぎると、真っ直ぐだった道も終わり、やがて道は左右に分岐します。左側の道には橋が架かっており、橋の手前には「水口宿−横田渡」とかかれた道標が建っています。案内の通り、東海道は左の道ですので、ここは左の道を進みます。

橋を渡ると、この道が東海道だと言わんばかりに、道の右側に一里塚がありました。塚が復元されていてかなり目立ちます。泉一里塚で、当時はもう少し野洲川寄りにあったようです。
<写真説明>
左上:おもしろいバス停
右上:分岐点(左が東海道)
左下:泉一里塚

[13時12分] 横田の渡し
一里塚を過ぎると、道は突き当たります。左右方向に道が続いていますが、正面には大きな常夜灯が見えます。ここが横田の渡し跡で、この先、野洲川は渡しになっていました。残念ながら、今は橋がないため、国道1号線まで迂回しなければなりません。

ちなみに、室町時代の史料には「横田河橋」が登場するらしく、橋があったようです。江戸時代には橋は架けられていないのですが、10月から翌2月までは、土の橋が架けられていたようです。

常夜灯を見ながら休憩をしていると、ほら貝を吹きながら、民家の前に立つ行者がいました。

<写真説明>
左上:横田の渡し(門と常夜灯)
右上:巨大常夜灯
左下:野洲川の眺め
右下:行者

川で分断された東海道。現在、橋も渡しもありません。仕方ないので国道1号線まで出て橋を渡り、対岸の東海道まで戻ります。続きはこちら



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