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32日目
坂下宿〜土山宿
2002年12月22日(日)
曇時々晴れ
鈴鹿峠を控えた坂下宿。今は寂しい町並みになっていますが、江戸時代は重要な宿場であったようです。そんな坂下宿を越え、いよいよ最期の難関、鈴鹿峠を越えます。

坂下宿〜片山神社
坂下宿の出口付近と思われるところに、岩屋十一面観世音菩薩の碑がありました(写真左)。東海道は、国道1号線脇の道を進みます。次第に山深くなってくると、道が右に分岐します。右側の道には「片山神社」の碑が建っていることから、こちらが東海道です(写真右)。

片山神社〜鈴鹿峠登り口
坂の斜度が増してくると、正面に片山神社の鳥居が見えてきました。もともと、坂下宿はこの辺りにあったようですが、度重なる洪水により、現在の位置に移動したとされています。また、片山神社も、訪れたときには火事により焼けてしまったようで、建物はありませんでした。
さて、東海道はここからが本格的な鈴鹿越えの登山道となります。急坂を上り、国道を越えると、ちょっとした広場に出ます。ここから山の中に入っていきます(写真右)。

芭蕉句碑・馬の水飲み場跡
山道になると、東海道は急な坂となって登っていきます。途中には、芭蕉句碑、さらには馬の水飲み場跡がありました。

それにしても、今までいくつかの峠を越えてきましたが、当時は馬も越えていたわけですね。大名行列の時には、どんな状態で峠を越えたのでしょう。

鈴鹿峠・田村神社旧跡
道はやがて平坦となり、標高350メートルの鈴鹿峠に着きます(写真左上)。え!ここが峠?想像していたのとはずいぶんちがいます。峠というと、箱根峠や宇津ノ谷峠のように、その山や尾根の頂上で、今度は下り坂、というイメージがあります。ところが、鈴鹿峠の先は、右の写真(写真右上)のように平坦な道が続いています。明るくなっているところは、山間部の出口で、道の両側に茶畑が広がっています。

さて、鈴鹿峠と書かれた案内板(写真左上)を左に行くと、田村神社旧跡があります。かつて、田村神社(坂上田村麻呂を祀る神社)は鈴鹿峠にありました。現在は、鈴鹿峠を越えた土山宿近くに移転しています。


左上:鈴鹿峠頂上
右上:鈴鹿峠頂上から見た、土山方面へ向かう東海道
左下:田村神社旧跡
 

鏡岩〜鈴鹿峠「万人講常夜灯」
東海道から一旦分かれ、田村神社旧跡よりさらに奥へ進むと、鏡岩があります。鏡岩は、山賊たちが旅人の姿を岩に映して襲ったということから、このような名前がついています。この岩に建つと、眼下にループを描く国道1号線、そして坂下宿方面を一望できます。

東海道に戻り、先を急ぎます。先ほどの鈴鹿峠頂上付近から東海道を進むと、急に周囲が開け、両側には茶畑が広がります。茶畑を見ながら、山里の道となった東海道を歩くと、前方に大きな常夜灯が見えました。近づいてみると、常夜灯周辺は休憩所になっていました。この常夜灯(万人講常夜灯)に近づいてみると、かなり巨大で、かなり目立ちそうです。きっと、東海道の道しるべとして、多くの旅人を見守ってきたのでしょう。

左上:鏡岩
右上:鏡岩からの展望
左下:万人講常夜灯
 

山中城址〜旧道
鈴鹿峠を越えると、左に山中城址(写真左上)を見ながら土山を目指します。この区間、東海道は国道1号線と平行しているのですが、国道を整備する際に、蛇行していた東海道を突っ切る形にしたため、国道の脇を右左折を繰り返しながら進みます。ただ、その痕跡をすべて辿ることは容易ではありません。

さて、右上の分岐から旧道に入ると、小さな公園があります。そこには、馬子唄「坂は照るてる鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」の石碑がありました。この馬子唄、天候の変わりやすい鈴鹿峠を唄っていて、なかなかおもしろく、ちょっと気に入ってしまいました。
旧道は建設中の「第二名神高速」の高架をくぐり、国道1号線に合流します。

左上:山中城址の碑
右上:旧道分岐
左下:馬子唄の碑
右下:第二名神高速の建設中の高架橋

一里塚公園
国道との合流地点に、「一里塚公園」があります。恐らく一里塚跡と思われますが、公園内には「山中一里塚公園」と書かれた石碑と、「鈴鹿馬子唄之碑」と書かれた石碑がありました。

この先、しばらく国道を歩くことになります。猪鼻地区で、右側に200メートル程旧道らしき道がありました。特に見るところもないため、そのまま国道を進むと、やがてその道は国道に合流しました。

旧道(蟹坂)〜蟹坂古戦場跡
しばらく国道を歩くと、歩道からそのまま細い道が伸びている分岐があります(写真右)。もちろん、その細い道が東海道です。細い道はやがて蟹坂と呼ばれる坂を下り、道幅が広くなると大きな工場の脇に出ます。ほとんど工場の敷地内みたいな所を越えると、右側に「蟹坂古古戦場跡」の小さな石碑がありました。

田村神社
古戦場跡の碑の先で、東海道は田村川を渡り、田村神社へと向かいます。ところが、現在は東海道に橋はなく、田村川を越えるためには、一旦国道に出て、国道の橋を利用して田村川を越えなければなりません。

田村川を越えると、右側に田村神社の鳥居と参道が、その対岸には東海道があります。先ほど、田村川により分断された地点には、もともと橋が架かっていて、田村神社に繋がっていたようです。そして、東海道は田村神社の境内を通り、土山宿に至ったようです。つまり、参道が東海道だったわけです。

左上:田村川手前の東海道(舗装路の先で東海道は分断されている)
右上:田村神社の境内にある高札場跡
左下:田村神社参道
 

土山宿(上島鬼貫の句碑、一里塚跡、うかい屋)
田村神社の向かいにある道が東海道で、その道を進むと、右に曲がった先が土山宿でした。9時19分に関宿をスタートし、鈴鹿を越えてようやく辿り着いた土山宿。時は16時09分でした。

宿場に入るとすぐに、「上島鬼貫の句碑」がありました。その先には「一里塚跡」の碑が建っています。
この時期の日没は早く、16時を回ると次第に薄暗くなってきました。旧家の残る土山宿は、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場だけに、当時は繁盛したようです。

しばらくすると、灯りの灯った雰囲気のいい旧家がありました。うかい屋の建物です。薄暗い街道に暖かみのある灯りがなんともいえませんでした。

左上:上島鬼貫の句碑
右上:一里塚跡
左下:うかい屋
 

二階屋脇本陣跡・問屋場、成道学校跡
土山宿では、旅籠跡にひとつひとつ石碑が建っています。本ページでは紹介しませんが、見て歩くのもおもしろいでしょう。
やがて、二階屋脇本陣跡の碑が建っていました(写真左)。また、伝馬館(資料館)の入り口付近には、問屋場・成道学校跡の碑が建っていました(写真右)。

伝馬館、土山宿本陣跡
16時30分を回っていましたが、折角なので伝馬館によってみました。さすがに誰もいませんでしたが、中にいたおねーさんは見学させてくれた上にお茶まで出してくれました。ありがとう!

伝馬館を出るとすでに外は真っ暗。一際立派な旧家の前に、土山宿本陣跡の碑が建っていたので、今日はここで行程を終了しました。

本日の宿は、国道沿いにある民宿です。



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