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前日の雨も上がり、雲の合間から冬の日差しが顔をのぞかせる2日目の朝。京へ向けて最期の難関、鈴鹿峠を越えます。古い町並みを再現した関宿。まずは、この関宿の見学からスタートです。 |
関宿2(本陣跡) | ||
脇本陣跡の先には、2つの本陣跡があります。写真左は「川北本陣跡」、写真見は「伊藤本陣跡」の碑です。 また、関宿では、宿場時代の商売や職業を記した解説版(脇本陣跡と同様のもの)が、ところどころに掲げられています。 |
旅籠玉屋・関の戸の本舗 | ||
「関まちなみ資料館」の先には、旅籠玉屋があります。関を代表する旅籠で、現在は資料館になっています。「まちなみ資料館」と共通の入場券(300円)で、中に入ることができます。大きな梁、太い柱、黒光りする床や階段など、旅籠の遺構を存分に楽しめます。 玉屋の向かいには、銘菓「関の戸(餅菓子)」の本舗、深川屋があります。中に入ってみました。今でもここで関の戸を作り、売っています。 また、店頭には「荷担箱」(にないばこ)が置いてありました。通常は中を見せていないそうですが、ご主人のご厚意により見せていただきました。 左上:旅籠玉屋 左下:深川屋外観 右下:荷担箱 |
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関宿を歩いていると、正面に見えてくる目立つ建物があります。これが「地蔵院」です。 我国最古の地蔵菩薩で一休禅師が地蔵の首に自分の赤い褌をかけ、小便までかけて開眼供養したとされています。 地蔵院本堂左手に建つ愛染堂は、文永4年(1267年)、本堂は元禄13年(1700年)建立です。国の重要文化財に指定されています。 |
西の追分 | ||
関宿の町並みを楽しみながら東海道を歩いていくと、やがて西の追分につきます。ここは、関宿の京側の出入り口になります。また、大和へ向かう大和街道と東海道との追分でもあります。ちなみに、大和街道は東海道の左側に分岐します。 |
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関宿を出た東海道は、国道1号線に対して合流・分岐を繰り返しながら坂下宿に向かいます。この辺り、当時の道筋は蛇行していたようですが、蛇行部分を突っ切る形で国道が整備されたため、今も一部は旧道として残り、一部は廃道としてその痕跡が残っています。しばらくすると、国道から取り残されたように、旧道が右側に分岐し、そこに筆捨山の標柱が建っていました(写真右)。 筆捨山には、狩野元信という画家が、筆捨て山を描こうとしたところ、激しく変化する天候に筆が追いつかず、筆を捨てたという言い伝えがあります。 |
旧道分岐と一里塚跡 | ||
しばらくは国道1号線の歩道を歩くことになりますが、次第に山間部に入ってきます。やがて、民家の集まる集落に着くと、右へ分岐する道が現れます(写真左)。これが東海道です。ここから東海道はしばらく旧道となり、坂下宿へ向かいます。 また、分岐の手前の草むらには、ひっそりと一里塚跡の碑が建っています。見逃しやすいので注意が必要です。 |
沓掛の集落・鈴鹿馬子唄会館・小学校跡 | ||
国道1号線と別れ、旧道を進むと民家の集まる集落につきます。中には旧家もあり、年末の掃除をしていました。もしや、ここが坂下宿。喜びもつかの間。ここは沓掛の集落で、残念ながら坂下宿ではありませんでした。 沓掛の集落を抜けると、道は二又となります。角には鈴鹿馬子会館があります。その脇を進む右側に分岐する道には、東海道の宿場名が書かれた木柱が並んでいました。どうやら、こちらが東海道のようです。 木柱の並ぶ旧道を進むと、左側に木造の小学校らしき建物がありました。今は「鈴鹿峠自然の家」として、一般の人が利用できる施設のようですが、まぎれもなく小学校跡で、広いグラウンドが小学校を物語っています。 左上:沓掛の集落 右上:木柱の建つ旧道 左下:鈴鹿峠自然の家 |
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民家はあるものの人気の少ない旧道を進むと、道幅が広くなり、正面に山が見えてきます。道の両側には民家が建っているものの、その数は少なく、今度はなんていう集落だろう。もしかしたら立場でもあったのか・・・、そう思っていました。が、実は坂下宿でした。江戸時代、鈴鹿峠の麓にあることから、大いに栄えた宿場(本陣が三軒もありました)ですが、今は寂しい町並みになっています。 旧道を進むと、松屋本陣跡・大竹屋本陣跡・梅屋本陣跡の石碑が建っています。 左上:坂下宿入り口付近 右上:松屋本陣跡 左下:大竹屋本陣跡 右下:梅屋本陣跡 |
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法安寺 | ||
本陣跡の石碑群の先には、法安寺(写真左)と小竹屋脇本陣跡(写真右)の碑がありました。法安寺の本堂の右側にある建物には、松屋本陣の玄関が移築されています(写真左)。格式の高い本陣の貴重な遺構だけに、見る価値はあると思います。 |
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