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30日目
四日市宿〜石薬師宿
2002年11月17日(日)
曇時々晴れ
9時12分、前日終了した地点より東海道を歩き始めます。真っ赤に染まった木々を眺めながら、石薬師宿を経て庄野宿を目指します。近畿地方に入って2日目。一歩一歩京都が近づいてきます。

鈴木薬局〜大宮神明社
四日市宿を出ると、東海道は一本道となります。比較的歩きやすく、迷うことはありません。秋のやわらかな日差しを受け、「鈴木薬局」と案内板に書かれた旧家(写真左)や、大宮神明社(写真右)などを見ながら、京を目指します。

水沢道標〜日永一里塚
しばらくすると、小さな石碑がありました(写真左)。よく見ると道標のようです。案内板を読んでみると、水沢方面に向かう道との分岐点だったとか。

再び東海道を進むと、日永一里塚跡がありました。民家の間に、細くて縦長の石碑が建っています(写真右)。

日永の追分
旧道はやがて国道1号線に合流します。すこし先へ進むと、今度は国道が左右に分かれます。その分岐点にあるのが、「日永の追分」です。
日永の追分は、伊勢道と東海道の分岐点で、間の宿でもありました。現在は、国道の交差点(直進が国道1号線、右折が旧国道1号線)となっていますが、追分の中には、伊勢神宮遙拝鳥居、常夜灯、道標、水屋があります。
道標は、2本建っていて、そのうちの1本は屋根付きの灯籠型です。ちなみに、水屋では、今もなお、水がわき出ているそうで、地元の人でしょうか、水を汲みにきていました。

なお、追分で直進するのが伊勢道、右折するのが東海道です。

写真左上:国道との合流地点
写真右上:日永追分(全景)
写真左下:日永追分(道標)
写真右下:日永追分(水屋)

内部川〜旧道分岐
日永の追分の先で左に分岐した東海道は、内部駅付近で国道を横切り、やがて内部川に着きます。しかし、ここには橋がないため、そのまま直進することができません(写真左)。一旦国道に迂回して内部川を渡ります。渡った先で東海道は、左に分岐します(写真右)。本来は、国道を右から左へ横切っていたのでしょう。

杖衝坂〜血塚
東海道は、やや急な勾配の坂道となります。この坂は「杖衝坂」と呼ばれ、途中に「杖衝坂の碑」と「芭蕉の句碑」が建っています(写真左)。坂を上りきると、左側に小さな鳥居が建っています。見たところ、神社でもなさそうです。これは「血塚」と呼ばれているもので、その昔、日本武尊が足の血を拭ったとされている場所です(写真右)。

一里塚跡〜石薬師宿
東海道はやがて国道に合流します。一里塚跡の碑が建っていたのですが、東海道が合流する国道の左側ではなく、対岸に碑が建っていました。せめて東海道側にあってほしかったですね(写真左)。この先、しばらく国道歩きが続きます。しばらくして一度左に分岐した東海道は、再び国道に合流すると、今度は右に分岐します。やがて、写真右のように、小さなモニュメントがありました。石薬師宿に到着です。

小澤本陣跡
現在の石薬師宿は、閑静な住宅地となっていて、かつての宿場としての雰囲気はありません。ただ、ところどころに旧家が残っていて、宿場としての時を刻んでいます。宿場としての規模はそれほど大きくなく、どちらかというと小さな宿場ではないでしょうか。宿場の中程には、「小澤本陣跡」の案内板と碑が建っていました。

佐々木信綱生家〜石薬師寺
宿場の外れに、佐々木信綱の生家と資料館がありました(写真左)。佐々木信綱という人物については、ほとんど知らないのですが、建物はかなり古く、宿場内にある数少ない江戸期の遺構です。資料館を過ぎると、東海道は陸橋で国道1号線を越えます(写真右)。陸橋を越えた先で右にカーブして坂を下っていきますが、右側には宿場名となった「石薬師寺」があります。

石薬師寺
石薬師寺は、聖武天皇の時代、泰澄という僧侶によって開かれたといわれています。戦国時代にほとんど焼失してしまいますが、寛永六年(1629年)に、現在の本堂が再建されました。総檜づくりの珍しい建物です。

また、石薬師寺の本尊は、弘法大師が素手で彫ったと伝えられる石仏で、高さに2メートルを超す巨大な厨子に納められています。

訪れた時期がちょうど晩秋であり、本堂の前の庭園や、本堂までの参道には、真っ赤になった紅葉や桜などの木々が、石薬師寺の色彩に一役かっていました。

写真左上:国道1号線を越えた先の門
写真右上:石薬師寺本堂
写真左下:参道から本堂を望む
写真右下:東海道に面する門



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