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29日目
桑名宿〜四日市宿
2002年11月16日(土)
晴れ時々曇
季節は晩秋。山では紅葉も終わり冬の装いとなる11月。ついに近畿地方は伊勢の国に入りました。今回は、七里の渡しの京側、桑名宿からスタートし、四日市宿・石薬師宿を越え、庄野宿を目指します。

紅葉の美しい桑名城
桑名駅から徒歩で七里の渡し跡へ。東海道を歩く前にちょっと寄り道をして、桑名城跡に行ってみました。今も水のたまっている濠には、見事なまでの紅葉が。これは桜の木で、青い空をバックに真っ赤に染まった葉が、とても印象的でした。また、城址公園には「本多忠勝」の像がありました。

七里の渡し跡

紅葉をじっくりと見た後は、東海道に戻り出発です。
桑名宿といえば、近畿側の七里の渡しのある宿場で、かつての渡船場付近には、七里の渡しに関する史跡がたくさんありました。中でも、渡船場跡と思われる場所には、今も大きな鳥居が建っています。この鳥居、もちろん、近くにある春日神社のものでも、周辺にある神社のものでもありません。桑名宿は伊勢の国。この大きな鳥居は「伊勢神宮」の一の鳥居です。宮宿から海上七里を越えてきた旅人にとって、ここは「お伊勢参り」の出発点といった意味があるのでしょう。

<写真>
 左上:七里の渡し案内板
 右上:七里の渡しの石碑
 左下:七里の渡し案内板(渡船場跡)
 右下:伊勢神宮一の鳥居(渡船場跡)


本陣・脇本陣跡・問屋場跡
桑名宿の中心部は、渡船場付近となります。渡船場近くの東海道には、本陣・脇本陣跡が並んであります。
本陣(大塚本陣)跡は、現在「船津屋」という料亭になっています。本陣の面影はないものの、そのたたずまいは、どこか落ち着きのある、それでいて格式の高さを感じます。

本陣・脇本陣跡から東海道を進むと(右上の写真でいうと、写真右側に七里の渡し渡船場跡があります)、正面に渡船場跡(七里の渡しの石碑あり)があり、そこを右に曲がると問屋場跡があります。

<写真>
 左上:本陣跡(現在は船津屋)
 右上:脇本陣跡
 左下:本陣・脇本陣の案内板
 右下:問屋場跡

旧三の丸堀・東海道のミニチュア

春日神社の大鳥居を右手に見上げながら先へ進むと、左側に桑名城の堀と、東海道53次のミニチュアが目に飛び込んできます。堀は、桑名城三の丸堀(写真左)で、かつての城郭の面影を残しています。
一方、東海道のミニチュア(写真右)は、日本橋から始まり、途中、富士山を右に見ながら、最後は三条大橋で終わっています。ちなみに、ミニチュアの右側の道が東海道です。
ミニチュアを過ぎると、道は突き当たり、東海道は右に曲がります。


道標・
しばらく西へ向かって歩くと、広い通り(京町通り)に出ます。東海道はこの道を横切るのですが、交差点の左角には、桑名市博物館があり、建物の植え込みに「右京いせ道 左江戸道」と書かれた道標が移設されています。どこにあった道標なのか不明のようですが、東海道と伊勢参拝道との接点にあったのでしょう。

広い通りを横切ると、次の交差点を左折します。この先、やや複雑な道順となるので、注意が必要です。ガイドブックの地図を見ながら進んでいると、電柱に東海道の道しるべが・・・。付近の人がつけたのでしょう。とても参考になりました。

正しいルートを辿ると、やがて光徳寺、十念寺、寿量寺、長円寺、報恩寺と過ぎていき、報恩寺の先で右に曲がります。

左上:博物館前に移設された道標
右上:手作りの案内板
左下:報恩寺先の右折箇所
 

天武天皇社・中川梵鐘店
右折してすぐに、天武天皇を祀る「天武天皇社(写真左)」が見えてきます。神社を横目に先へ進むと、今度は軒先に大小2つの釣り鐘が置かれた民家がありました。実はこの家、「中川梵鐘店」といって、文字通り釣り鐘屋なのですが、江戸の文化を今に伝える店として、この辺りでは貴重なものだそうです。

矢田の立場と火の見櫓・員弁川
国道1号線を横断し、さらに先へ進むと、道は突き当たります。この辺り、江戸時代には立場(矢田の立場)のあったところで、右側角には火の見櫓がありました。結構目立つので、東海道を正しく進んでいれば、おのずと目に入ってきます。
東海道は、突き当たりを左折し、あとは、ひたすら南下をしてきます。

やがて員弁川(町屋川)につきあたります。江戸時代には船着場があり賑わっていたそうです。また、1635年には、対岸の縄生まで橋が架かっていたそうです。しかしながら、1933年(昭和8年)国道1号線に橋が架けられると、こちらの橋は廃止されてしまいました。現在は、残念ながら東海道をそのまま進むことはできないため、左側を平行している国道1号線に迂回して川を渡ります。

左上:矢田の立場
右上:火の見櫓
左下:員弁川
 

一里塚跡・榎木
国道1号線で川を渡り切り、右へ分岐する道(堤防上の道)を使うと、東海道に辿り着きます。東海道へ戻り先へ進むと、一里塚跡の石碑が建っています(写真左)。さらに東海道を進むと、まもなく近鉄名古屋本線の踏切があります。踏切を渡りきった左側には伊勢朝日駅、その先には、樹齢300年を越える榎木が残されていました(写真右)。葉が落ちているのか、それとも枝がないのか。妙にすっきりしている榎木です(生きているのだろうか)。

浄泉坊・鏡池・富田一里塚跡
東芝の工場脇を進むと、まもなくして右側に「浄泉坊」というお寺があります。1199年に小向神明宮の別当寺正治寺として創建されるも、戦火で焼失してしまいます。しかし、1603年に、「浄泉坊」として再建され、今日に至っています。このお寺は、桑名藩由縁の菩提寺であり、山門の扉には徳川の家紋、三ツ葉葵紋があります。
東海道に戻り、先へ進むと、やがて桜並木の続く土手上の道となります。真っ赤に染まった桜の葉を見ながら進むと、先方の堤防上に、多賀大社の大きな常夜灯が見えます。その先で朝明橋を渡り、長明寺(堀のある寺)の門前を過ぎ、国道26号線を横切ると、聖武天皇の遺跡、鏡池跡があります。
関西本線・三岐鉄道を越え、道なりに進むと、やがて近鉄と三岐鉄道のガードをくぐります。その先には、富田一里塚跡の碑が建っています。

左上:浄泉坊
右上:鏡池跡
左下:富田一里塚跡
 

力石・夫婦石
さて、八幡神社跡を過ぎると、東海道は右に曲がります。十四橋・常照寺を過ぎると、やがて「力石」と「新設用水道跡」の碑が、民家の前に立っていました。
道なりにしばらく進むと、志氏神社の常夜灯前に夫婦石と書かれた案内板と、石碑のようにも見える石がありました。

三ツ谷一里塚・手差し道標
東海道は一度国道1号線に合流した後、海蔵川の手前で左に分岐します。川岸には三ツ谷一里塚跡の石碑(写真左)がありました。なお、川に橋は架かっていないため、国道1号線の橋を利用して対岸に渡ることになります。旧道を進み、滝川に架かる三滝橋を越えると、「なが餅」の笹井屋がありました。道なりに進み、大通りを渡ると、「手差し道標」が建っていました。道標には「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と書かれています。


諏訪神社と四日市宿
繁華街の中を行く東海道ですが、建物で分断されてしまうので、迂回して国道1号線を越えます。すると、明かりの灯った常夜灯が見えてきました。諏訪神社の常夜灯です。神社を過ぎると東海道はアーケード街となります。ここが四日市宿です。宿場の面影こそありませんが、今も街の中心部として栄えています。

夜間歩行
17時16分、四日市の駅前通と東海道がクロスする地点で一旦行程を終了しました。この日は四日市のシティホテルで宿泊することになっていたので、続きは翌日にしてホテルへ向かいました。ホテルは四日市市の郊外で、近鉄内部線沿いにあったのですが、地図で見ると、なんと、鉄道に沿うように東海道はあり、鉄道を挟んでホテルと非常に接近している所があるではないか。そこは、古い民家の残る浜田町から南浜田町にかけての区間。となれば、翌日のためにも歩を進めておくのが良策。とりあえず夕食のために四日市中心部へ出ると、食事後、浜田町から南浜田町にかけての旧東海道を歩きました。これが、最初で最後の夜間歩行です。最終的に、この日の行程を終了したのは、浅野歯科という歯医者が角にある交差点(ホテル近くの道と東海道の交差点)で終了しました。

ちなみに、17時16分に終了した地点からホテルまでは、徒歩20分以上かかりましたが、最終的に終了した地点からだと、徒歩5分程度。偶然とはいえ、東海道を歩くには立地条件のいいホテルに泊まれました。



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