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18日目
藤枝宿〜島田宿
2002年4月6日(土)
晴れのち曇
18日目となった今回、いよいよ大井川に到達します。中山道と比べると平坦な区間の多い東海道。その最大の難所は、箱根や由比などの峠ではなく大河でした。度々渡る大河には橋はなく、渡し船や人足に頼っていました。しかし、これらの大河は、一度大水になると水が引くまでは渡れませんでした。これを川留といいます。「越すに越されぬ大井川」、そして「暴れ天竜」。今回は大井川を渡ります。

藤枝宿の石碑
前回終了地点(白子バス停)を10時24分にスタート。今日は難所、大井川を渡ります。スタートしてすぐに、なにやらかわった石碑がありました。写真左は江戸への距離。写真右は藤枝宿を彫られています。

[10時46分] 下本陣、[10時47分] 上本陣・問屋場跡、そして石碑
藤枝宿は商店街となっており、アーケードの下を歩くことになります。10時46分。足下に下本陣跡の表示を発見。さらに、10時47分、上本陣跡。問屋場跡の指標を発見。このパターンは吉原宿と同じで、石碑ではなく足下のタイル版で、本陣跡や問屋場跡を示しています。宿場を歩く時には、足下にも注意した方がいいことを認識した日でもありました。

足下にばかり注意していると、植えこみの中に「瀬戸谷街道」とかかれた小さな石柱が立っていました。なんのこっちゃ?と思いながらも、なんとなく撮影してしまいました。

藤枝宿中心部を抜け、東海道は瀬戸川に架かる勝草橋へ向かいます。

常夜灯、名残の松並木
瀬戸川を渡ると、木陰にひっそりと常夜灯が建っていました。思わず1枚。なんとなくありがたみを感じ、先に歩を進めると、街道沿いにわずかに残る松並木がありました。松は若いものばかりです。空を覆うような大きな松はほとんどありませんが、街道情緒をかもし出しています。

田中藩領傍示石標、古東海道の石碑
街道沿いに「田中藩領ほう示石」というものがありました(写真左)。藩の領地が細かく入り組んでいたため、境を示していた石のようです。また、その先には「古東海道」と書かれた石碑がありました。瀬戸山を越える中世の東海道と山裾に沿う旧東海道があったようです。古東海道と近世東海道との分岐を「東海道追分」と呼んでいるそうです。

染飯茶屋跡、千貫堤跡、一里塚跡
この辺り、石碑が立て続けにありました。東海道追分の先には「染飯茶屋跡」、「千貫堤跡」といった石碑が続きます。千貫堤跡の石碑を過ぎてしばらくすると、松並木が街道を包み、やがて左側に一里塚後の碑が建っていました。広い駐車場の前にひっそりと一里塚があったことを伝えています。

旧道分岐〜島田宿
東海道は一度国道1号線に合流し、再び右へ分岐します(写真左)。旧道に入ると、「昭和天皇の御巡察の石碑」がありました。珍しい。明治天皇の碑は沢山ありますが、昭和天皇とは・・・。さらに進むと、島田宿と書かれた静岡県の案内板がありました。島田宿に着いたようです。

[14時08分] ちょっと寄り道 蓬莱橋
島田宿に入った東海道は、やがて商店街となりますが、残念ながら本陣等の史跡はありませんでした。この島田宿、大井川を目前に控えた宿場ということもあり、川越遺跡なるものがありますが、その前にちょっと寄り道を。

島田宿に着いたら是非とも見たいものがありました。それは「蓬莱橋」。大井川に架かる木造の橋で、全長約900メートル、幅3メートル弱。時代劇でも使えそうな木橋です。

東海道を左にそれ(島田駅手前、信用金庫脇の道を進むとベスト)、大井川を目指します。JRを越えると大井川に到着します。目の前には、まるで時代が止まったかのような木橋が、大井川に架かっていました。対岸の牧ノ原茶園を結ぶ橋で、大人20円の渡橋賃が必要ですが、大井川の広さを実感でき、渡る価値のある橋でした。

[15時07分] 一里塚跡、そして道標?
東海道に戻り、歩を進めると、ほどなくして一里塚跡の碑(写真左)がありました。一里塚を越え商店街を抜けると、街道筋はひっそりとしてきますが、途中、写真右のような、道標らしきものがありました。東、西、北の方向に、地名と距離らしきものが書かれていますが、何を意味しているのか?

川越遺跡へ分岐
ふと気づくと、いつの間にやら、空一面に雲が覆っていました。時間も15時を回っていて、蓬莱橋で以外に時間をつぶしてしまったようです。
大井神社を越えると、道は二手に分かれます。製紙工場沿いに進む左の道が東海道です。この辺りは住宅街の中を通るため、ひっそりと静まりかえっています。時折横を通過する車の音が、妙にうるさく感じるほどです。やがて、前方に旧家が見えてきました。島田宿川大井川越遺跡です。大井川の川越に従事した人の家が今も保存されている、貴重な史跡です。



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