都電の痕跡
1972年(昭和47年)11月に廃止された都電。かつては都区内のいたるところに走っていました。しかし、道路上でじゃま扱いされた都電は荒川線を除いて路上から姿を消しました。廃止から28年がたった今、都電の走っていた道路は整備され、架線柱や道路に埋まっている線路など、都電の痕跡は道路工事や地下鉄工事等により次第に消えていっています。併用軌道についてはほぼ痕跡を見つけることはできず、専用軌道についても道路に転用されていたり、公園の一部となってしまい、痕跡をたどることが難しくなっています。ここでは、そんな都電の痕跡を追ってみました。
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船路橋
船路橋は、都電の車両工場へ行くための都電専用の橋でした。架線柱こそありませんが、今でも当時のまま線路が残っています。ただ、この橋も再開発のために撤去されるといううわさがあります。

<その後の船路橋>
左の写真はいつ撮ったのか定かではありませんが、その後、この貴重な都電の遺産はどうなったのか。2001.4.1に行って来ました。特集として組みましたのでご覧ください
神明町車庫跡公園
新明町都電車庫跡地の公園に静かに保存されている6000形(6063)。6000形は昭和28年までに290両が生産された都電の車両の中でも最もおなじみの存在です。車両の周りには柵が設けられているため、車両に近づくことはできませんが、保存状態はそこそこに良好です。

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堅川人道橋
大正10年1月に、城東電気軌道株式会社が、堅川をわたる電車専用橋として架設した橋です。城東電気軌道株式会社は、昭和17年2月に東京市に合併され、市電(後の都電)となりました。昭和35年に2代目の橋(現在の橋)に架け替えられています。

昭和50年に遊歩道となり、この橋も遊歩道の一部として再利用されています。橋には都電車両の集電気(ビューゲル)にデザインされた、車止めを設置され、都電についての案内板もあります。また、都電の車輪を模したオブジェも設置されています。

なお、橋の両端は都電の専用軌道で、29系統と38系統が走っていました。昭和47年11月に都電は廃止されましたが、昭和54年に専用軌道跡を緑道として整備し、再利用されています。

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亀戸・大島・南砂緑道公園
明治通りと京葉道路が交差する「亀戸駅前」の交差点から、亀戸九丁目方向(市川方向)に少し行ったところに水神森があります。都電29系統と38系統はこの水神森から専用軌道に入り、途中併用軌道を経て再び専用軌道へと入っていきました。現在、専用軌道跡は京葉道路側から「亀戸緑道公園」「大島緑道公園」「南砂緑道公園」となっています。

<亀戸緑道公園>
  京葉道路水神森から堅川人道橋までを呼んでいます。

<大島緑道公園>
 堅川人道橋から新大橋通りを経て、公団大島4丁目団地の前で明治通りに合流するまでの区間を 呼んでいます。

<南砂緑道公園>
 大島緑道公園から明治通りを約1.5km南下した、都営バスの南砂3丁目バス停付近から、永代通り に合流するまでの区間を呼んでいます。

3つの緑道公園はもともと、城東電気軌道株式会社の州崎線(水神森〜州崎)でした。昭和17年2月に東京市に合併されると、都電29系統と38系統が走るようになりました。現在の大島緑道公園と南砂緑道公園の間は、当時明治通りと併用区間になっていたようですが、今では痕跡をたどることはできません。ただ、南砂緑道公園には堅川人道橋と同様、車輪を使用したモニュメントがあり、かつて都電が走っていたことを物語っています。

<他の画像>
大島緑道公園、南砂緑道公園については、左の画像以外にもありますので、是非ご覧ください。
大島緑道公園(画像1:大島駅付近画像2:案内板
南砂緑道公園(画像1:明治通りからの分岐付近画像2:車輪のモニュメント案内板画像3:永代通りとの合流付近
亀戸緑道公園の入口(水神森付近)です。
大島緑道公園です。公団大島4丁目団地付近。
南砂緑道公園の案内碑です。
東大久保(抜弁天)から新宿駅前間の専用軌道
東大久保(抜弁天)から新宿駅前にかけては、大久保車庫(現新宿文化センター)・新田裏の電停をはさみ、2つの専用軌道が存在していたようです。13系統が走っていた「東大久保(抜弁天)〜大久保車庫」へ至る区間と、11・12系統が新宿駅前の終点と大久保車庫の回送用として使用していた、ゴールデン街の裏を通る区間です。現在、抜弁天側は道路に、ゴールデン街側は遊歩道になっています。左の画像は、ゴールデン街側の遊歩道です。

他の画像はこちら。(遊歩道入口抜弁天付近の専用軌道への分岐地点
四谷見附付近の路線敷跡
迎賓館のある四谷見附付近には、都電3系統(飯田橋〜品川)の路線敷が今でもしっかりと残っています。左の写真を見てください(クリックすると拡大します)。写真左上の白いものは道路のガードレールです。中断に一本の筋があるのがわかると思います。これが都電の専用軌道跡です。現在は桜が植わっていて春には綺麗な花を咲かせます。
中に入るとこんな感じです。写真右側の柵は道路です。また、ゆるい下り勾配で赤坂見附へと向かっています。奥へ進むとやがて首都高速のトンネルの外壁になりますが、かつては現在の首都高速の位置を専用軌道があり、都電唯一のトンネルが存在していたようです。他画像は以下をご覧ください。

画像1:左の画像より奥へ進んだところ
画像2:首都高速のトンネルの外壁に阻まれ行き止まり。路線敷が首都高速方向へ斜めに吸い込まれています。
首都高速のトンネル付近で振り返ったところです。こうしてみると登り勾配になってるのがわかると思います。ちなみに、左側の石垣の上は道路になっています。それにしても、桜の木がよく成長しています。春にはたくさんの花が咲くことでしょう。
道路から見たところです。金網の奥が先ほどの専用軌道跡です。線路は手前の植え込み付近から専用軌道へと入っていったようです。ちなみに、首都高速の工事がはじまると専用軌道は廃止され、都電が廃止されるまで3系統は現在の歩道付近を単線で走っていたようです。
都電の遺産、敷石
四谷と市ヶ谷の間を歩いていたら、こんなものを見つけました。木の茂みの中に無造作に置かれた敷石。かつて都電の軌道部分にはこのような敷石が使用されていました。今でもビルや歩道などに再利用されていることがあります。この敷石も何かに使用する予定なのでしょうか。
江戸東京たてもの園で再利用されている都電の敷石です。敷石は意外に再利用されているようで、新しくできたビルや銀座通りの歩道、都営バスの営業所等にて見ることができます。
江戸東京たてもの園の7500形
東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」には、7500形(7514)が保存されています。都の施設で古い町並みを再現したもので、都電はその一角を担っています。7500は当時青山車庫に所属していたため6系統(渋谷駅前〜新橋、今の都01グリーンシャトル)によく使用されていました。都電とあわせて当時の「南佐久間町」の電停も再現されています。

<他の画像> 画像1(渋谷駅〜新橋の路線プレート)
          画像2画像3(角度を変えての撮影)
現役都電にも残る当時の遺産
都電荒川線のホームは、ステップをなくすため嵩上げされ、現在はJRなど鉄道並の高さになっています。そんな荒川線の電停にも当時の低いホームが残っている場所があります。左の画像は「雑司ヶ谷」電停です。手前が現在のホームで奥の1段低いところが当時のホームです。現在と当時のホームの高さを比較することができます。
新橋駅付近の遺産
JR新橋駅付近から溜池にかけて、このようなバス停に似た案内板が存在しています。これは、都電の電停の位置を示していた案内板です。都電が走っていた頃、道路の中央に電停があったため、歩道にはこのような案内板が設置されていたようです。
信号機用の電柱として再利用されている都電の架線柱です。架線柱や敷石などは、再利用されていることがよくあります。架線柱と通常の電柱とでは、その造りが異なっています。この架線柱はよく見るとてっぺんにタマネギ型をした飾りがついています。当時は景観を大切にしていたようです。
銀座通り・日本橋
銀座通りの歩道には、都電の敷石が再利用されています。よく見ると、歩道の高さは敷石そのものの高さになっています。この敷石の歩道は、銀座・日本橋を経て室町四丁目の交差点付近まで続いています。結構おしゃれな感じのする敷石の歩道、是非歩いてみてください。
銀座通りのひび割れです。今もなお、都電の線路が埋まっているのでしょう。補強してある黒い2本のすじがずっと先まで平行に続いています。休日は歩行者天国になるため、このように間近で見ることができます。
日本橋です。橋の中央部分の車道には都電が走っていた頃を彷彿させるような敷石が敷かれています。もちろん、両側にある歩道も都電の敷石を再利用しています。ちなみに、日本橋を斜め横から撮影した画像もあります。重厚な石造りの日本橋をご覧ください。それにしても、首都高速道路はじゃまですね。画像はこちらです。

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