中山道TOP>守山宿〜武佐宿
[ 2004年3月28日(日) ]
[ 晴れ ]
この日は、守山宿から武佐宿を目指します。宿場間は15キロもあるので、この日の行程は武佐宿までの1区間となります。宿泊した草津から電車で守山へ、朝日のまぶしい守山宿を発ちました。

守山宿内を進む
昨日終えた交差点jからスタートです。交差点を越えるとすぐに「明治天皇聖跡」の碑が建っていました。東海道でも度々目にしたこの碑、中山道でもお目見えするようです。明治天皇は、東海道だけでなく、山岳地帯を行く中山道も歩かれたのですね。

守山宿の案内板と東門院
明治天皇聖跡の隣には、守山宿を説明した案内板とがありました(写真左)。また、その隣には、東門院があります。東門院は、朝鮮使節団の宿泊地となった寺で、立派な仁王門が入り口にあります。

道標と井戸跡
東門院を過ぎると街道は右へ鋭角に曲がります。この曲がり角付近には、道標があります。右は美濃路(つまり中山道)を指し、左は錦織寺へ向かう錦織寺道を指しています。
中山道は、右に曲がると道幅が広くなります。少し進むと右側に井戸跡がありました。

甲屋跡の石碑と道標
井戸の先には、「甲屋ノ址」とかかれた石碑が建っている民家がありました。謠曲「望月」の舞台になった宿屋とのことですが。このあたりの知識が乏しい私には、なんのことだかよくわかりませんでした。
甲屋跡の先でやや左に曲がる角に、大きな道標がありました。「すぐいしべ道」と書かれており、東海道石部宿への連絡道を示しているようです。こんなところからも東海道へ抜けられるのですね。

旧家の残る町並みを進む
道標の先、小さな交差点を過ぎると、住宅の並ぶ平坦な道が続きます。比較的大きな旧家や寺院が街道の両脇に残る道は、いまでこそアスファルト舗装され、車の通行する道ですが、多くの旅人が通った道と思うと、歴史の重さを感じます。ちなみに、右の写真は「慈眼寺」です。本堂がかなり傷んでいて、今にも崩れそうな状態でした。

時代劇のような町並み・そして高札場跡へ
左の写真は、慈眼寺から中山道方向を写したものです。正面の旧家の手前に中山道がありますが、この一角だけを見ると、時代劇の一コマのように思えます。
しばらく旧家の残る道を進むと、高札場跡がりました。この辺り、稲妻型道路ともいわれています。つまり、ここが守山宿江戸側の入り口となります。京側から進んできているので、ここが守山宿の出口となります。

野洲川を渡る中山道
守山宿を出た中山道は、やがて野洲川を渡ります。野洲川を渡ると、中山道は東海道線を越え、寺院の多い町並みへと変わっていきます。途中、広い通りとの交差点には、写真右のような「中山道 野洲」と書かれた灯籠がありました。こうした街道を意識した建造物を見ると、ちょっとうれしくなります。時代とともに、人々のなかから消えていってしまう街道ですが、建造物は、そこが街道であることを、後世に伝える貴重なものだと思います。

新幹線を越えて旧家のある町並みへ
3月とは思えない暖かい日差しの下、中山道をひたすら歩きます。前方に高架橋が見えてきました。東海道新幹線です。新幹線の高架を越えると、町並みは旧家と寺院の残る町並みになります。交通量も少なく、歩きやすい町並みは、どこかのんびりしています。

稲荷神社〜三ツ坂立場
のどかな道を進むと、やがて奥に長い参道のある「稲荷神社」がありました。ソメイヨシノの開花までは、もう少し先のこの季節、早咲きの桜が咲いていました。
稲荷神社を越えて中山道を先へ進むと、なにやら不思議な看板が。右側のゴミ置き場なのでしょうか、ちょっとしたスペースのある壁に、斜めにかかった看板がありました。「中山道 三ツ坂(このあたりは)立場」と書かれています。このあたり、立場だったようです。

甲山古墳と桜
立場あたりから、左側には新幹線、右側には国道8号線が併走する、のどかな田園地帯の道となります。国道が併走しているためか、旧道の交通量は少なく、とても歩きやすい道です。やがて前方にこんもりとした丘が見えてきました。甲山古墳です。このあたり、古墳が集まっている場所で、名所にもなっているようです。街道には桜が植わっていますが、ソメイヨシノはつぼみでした。その中で、早咲きの桜が花を開いていました。

天井川(家棟川)を越える
甲山古墳周辺は公園になっています(写真左)。興味はあったのですが、守山宿〜武佐宿間は長く、時間の関係から素通りすることにしました。時間との勝負となってきた中山道の旅。やや急ぎ気味で先へ進みます。やがて正面にトンネルが見えてきました。家棟川のトンネルです。滋賀県は天井川が多く、この家棟川も天井川です。ただ、上ってみると廃川となっているようで、前後は切り崩され、となりには新しい流れがありました。

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