中山道TOP>板橋宿〜蕨宿〜浦和宿
|
[ 2003年11月26日(日) ] |
[ 晴れ ] |
|
中山道の旅2日目は、板橋宿から蕨宿を経て浦和宿までを歩きます。朝から晴天に恵まれた中、中山道筋では数少ない大河、荒川を越えると、埼玉県最初の宿場、蕨宿となります。荒川は当時、渡しとなっていました。現在は国道17号線の橋を渡って荒川を越えることになりますが、戸田側(埼玉県側)には、渡しであったことを示す碑がたっています。そして蕨宿、浦和宿。この両宿は対照的で、蕨宿は自治体のがんばりで、近代化はされているものの、所々に当時の面影を残します。浦和宿は、近代化されてしまい、宿場としての面影は失われてしまいました。 秋深まる板橋宿(清水坂)をスタートです。 |
清水坂下〜戸田橋(戸田の渡し) | ||
![]() |
![]() |
旧道は一度国道17号を横切ります。国道によって分断されているため、対岸の旧道がわかりにくいのですが、大きな交差点の先右側に、旧道らしき道があり、そこが中山道のようです。しばらくすると、再び国道17号線に合流します。ここから先は、どこが旧道なのか、道筋がわからなくなってしまいました。それらしき道はあるのですが・・・。やがて荒川にさしかかります。東京都と埼玉県の県境となる荒川は、中山道筋でも数少ない大河の一つです。江戸時代は渡しで超えていたこの川も、現在は国道17号線に架かる戸田橋で越えることになります。 旧中山道は、国道17号線の右側を通っているため、橋を渡りきったら右へ、堤防沿いの道を進むと、戸田の渡し跡の碑がありました。 さて、ここから先、蕨宿までは、どこが旧道なのかわからなくなります。断片的には残っているものの、ほぼ道筋は失われています。 |
![]() |
<写真説明> 左上:清水坂下の旧道分岐(赤い自動販 売機のある道が旧中山道) 右上:戸田橋 左下:戸田の渡し跡の碑 |
蕨宿本陣跡(資料館)〜京側入り口 | ||
![]() |
![]() |
ところどころに旧家の残る蕨宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠23軒の規模でした。江戸が近いために、この宿場で身支度を整える旅人や大名行列もあり、そのために本陣が2軒もあったようです。現在、本陣跡には、資料館とそれに併設するモチーフがありますが、残念ながら、建物は存在していません。 せっかくなので、資料館に入ってみました。蕨宿の歴史や街道にまつわる資料がたくさんありました。 資料館を後に、中山道を先に進みます。商店街ではないため、町の賑わいにはかけますが、道はしっかりと整備されているため、比較的ゆっくりと宿場内を歩くことができます。やがて、江戸側の入り口と同じようなレリーフが現れると、蕨宿は終わりです。 |
![]() |
<写真説明> 左上:蕨宿本陣跡 右上:蕨宿本陣跡の説明版 左下:京側入り口 |
[ PageTop
] |
一里塚跡〜調神社 | ||
![]() |
![]() |
蕨宿を出ると、しばらくなにもない退屈な道が続きます。しばらくして前方に外環の高架橋が見えてくると、一里塚跡の碑が右側にありました。 一里塚を過ぎ、道は住宅街の中を縫うようにして進みます。やがて、登り坂にさしかかります。案内版には「焼米坂」とかかれています。坂を上りきると、さらに「碑」まで建っていました。 「焼米坂」とは、なんともおもしろい名前なのですが、江戸時代、中山道を通る旅人が袋入りの焼米(新米のことを指します)を補給した所と言われています。 焼米坂を越えると、兎の狛犬で有名な調神社がありました。 <写真説明> 左上:一里塚跡 右上:焼米坂 左下:焼米坂の碑 右下:調神社 |
![]() |
![]() |
浦和宿〜北浦和駅前 | ||
![]() |
![]() |
中山道は、はやがて賑わいを増してきます。近代的な建物が並び、人通りも増えてくると、浦和宿に着きます。残念ながら、宿場に関する案内板や碑はほとんどありませんでしたが、街灯と一体になった浦和宿を示す案内板や、本陣跡を示す案内板、明治天皇の聖跡碑など、宿場を忍ぶ建造物が宿場であることを伝えています。 これといって見るもののない浦和宿でしたので、そのまま先へ進みます。浦和宿を出ると、中山道はJR高崎線を越え、やがて北浦和駅前に着きます。日も暮れていましたので、本日の行程を終了しました。 <写真説明> 左上:浦和宿を示す街灯 右上:明治天皇聖跡碑と本陣跡の案内板 左下:本陣跡の案内板 右下:北浦和駅前の交差点 |
![]() |
![]() |
[ PageTop
] |
|
中山道のトップに戻る |